ちょっと乱暴だけれど、『運命の女』はサスペンス好き、あるいは不倫モノ好きの方には、ぜひ観ていただきたい映画である。サスペンスも不倫(実生活で不倫しているかどうかはともかく)も両方好きであれば、もちろん言うことはない。
『運命の女』の主な登場人物は3人。
絵に描いたような良い夫・エドワード(リチャード・ギア)、夫婦生活になんの不満もなく、優しい夫とカワイイ子供に囲まれる幸せな妻・コニー(ダイアン・レイン)、その妻とイイ関係になってしまうセクシーな男・ポール(オリヴィエ・マルティネス)である。
登場人物の紹介だけで、カンのいい人はある程度想像つくと思うけれど、正直なところ『運命の女』は中盤まで、わりとよくある不倫映画である。
良い夫と子供に恵まれ、何不自由ない生活を送る妻。しかし、とあるきっかけでセクシー男に出逢ってしまったことから、妻は泥沼の不倫街道をまっしぐら。ダメとはわかっていながらも、気持ちはどんどん盛り上がっていく。
そして妻の異変に気づいた夫は事実を確かめるべく行動する、という展開。
ごくありきたりな不倫モノの場合、この後、物語がたどるべき道は二つしかない。
出逢った男こそ「運命の男」だと信じて、女性が新しい愛へと旅立つ"真実の愛を追いかけて"ケース。
もう一つは、「やっぱりダメダメ! 私には素晴しい夫と可愛い子供がいるわ!」と思いとどまり、ある日の昼下がり、庭で犬と一緒に遊ぶ我が子をキッチンの窓から眺めながら、ふと男との情事を回想する"ひと夏の美しい思い出"ケース。
ところが『運命の女』はどちらにも当てはまらない。
僕も途中までは、まあこういうのってわりとあるよなと、少々タカをくくって観ていたのだけど、後半はたんなる不倫モノからスリリングなサスペンスへとシフトして、あれよあれよと映画に引き込まれてしまった。
不倫モノとサスペンスの割合はちょうど半々ぐらい。だから不倫モノを期待しても裏切られないし、サスペンス好きも裏切られない。守備範囲が広いのだ。
ただ今回は、というより僕としては『運命の女』は「不倫モノ」であることにスポットをあてたい。
古今東西・老若男女問わず、この手の映画は夫か妻か、男か女か、子供がいるか、いないかによって、まったく感じ方が違う。たとえば僕は独身男性。それだけにコニーはもちろんのこと、良い夫でありながら妻に裏切られたエドワードにも、どうも感情移入しにくい。そんなワケで、僕は映画の後半でヒドイ目に遭うポールが、自業自得だとは知りながらも、可哀相だと思ってしまった。
では既婚女性、つまりコニー的立場の人はどうか?
もちろん、世の中には「コニーが悪い! こんなにイイ夫がいたら、不倫なんてありえない!」と断言する女性もいるとは思うけれど、たぶん、おそらく、少なくない割合で、ちょっと羨ましい、私も一生に一度くらいはこういうのがあってもいいかも・・・と憧れのようなものを抱く人もいると思う。
普段の生活が平和で、穏やかであればあるほど、ちょっとした火遊びをしたくなる気持ちは理解できる。これといった不満のない環境のなか、必要とされるものがあるとしたら、それは刺激以外の何ものでもない。
一方、結婚して奥さんにも優しくしている、平和な家庭を築いていると自負する夫は、不倫モノをどう感じるのか? こんな妻はケシカランと感じるのか、あるいはさらに想像力(妄想力)を働かせて、自分が美しい女性と不倫しちゃったらと想像するのだろうか?
独身男としては、興味津々なのだ。
それにしても、不倫映画で魅力的なのは、きまって女性である。
『マディソン郡の橋』のメリル・ストリープしかり、『イングリッシュ・ペイシェント』のジュリエット・ビノシュしかり、どれも男性より女性のほうが、生き生きと美しく描写されていて、それは本作にもあてはまる。
たとえば本作におけるコニーとポールの情事シーンはまあ、単刀直入に申し上げて、相当にエロい。エドワードとの夫婦ベッドシーンもあるにはあるのだけど、それはまあセクシーな程度。
ところがポールとの情事になった途端、吐息は絶え絶え、視線はトロっと、コニーはエロモード全開。ベッドやソファ、階段に至るまで、場所を選ばずコトに及んじゃうのである。
今作出演時、コニーを演じたダイアン・レインは30代半ばで、内から滲み出るような色気がムンムン。妖艶で、紫色な空気(僕の想像)がダイアン・レインを包んでいる。こういうエロさは、いくら美人でも20代のオネーチャンではとても出せない。
エイドリアン・ライン監督による『フラッシュダンス』で、ジェニファー・ビールスが食事するシーンも相当に色っぽかったけど、今作はダイアン・レインの功績もあって、それをはるかに凌ぐエロさです。
それにしてもこの手の映画での妙な色っぽさは、不倫(禁断の恋)に憧れている女性が多い・・・という意味なのだろうか? 既婚だろうが、独身だろうが恋愛に対する姿勢やのめりこみ具合が、それほど変わらない男に対して、女性は、”禁断の恋”という要素が加わることで、気分的にぐぐっと盛り上がる傾向があるのかもしれない。
まあ、あくまで個人的な意見ですが 。
そのあたりも考えながら、見ていただくと、『運命の女』はさらに楽しめること間違いなしな作品です。
© 2002 "Unfaithful" Filmproduktion GmbH & Co. KG and Twentieth Century Fox Film Corporation.
(映画ライター 奥田高大)
最近、世間では洋画より邦画がブームだなんて騒がれてるじゃないですか。でも、洋画でメシ喰わせてもらってるから言うワケじゃ決してありませんけど、やっぱし、面白いのは洋画ですわ!!!
と、いうのはあくまでワタクシの独断と偏見ですけど、そんな信念を持ってるワタクシでも2つだけ、日本映画の方がハリウッドより優れている、と認めざるをえないジャンルがあります。
1つは、言わずもがなアニメ(向こうのもピクサーとか面白いけどね)。もう1つが、ホラー。いわゆる“Jホラー”ですわ。
21世紀に入ってからは、今までフレディーだジェイソンだで怖がってたアメリカでさえ、“Jホラー”の数レベル上な怖さを認めて、評価するようになっちゃってるんです。
まず2002年のUSA版『ザ・リング』。あの日本の『リング』を『パイレーツ・オブ・カリビアン』のゴア・ヴァービンスキー監督がリメイクしたヤツが、全米No.1ヒット!
2004年ハリウッド版『THE JUON 呪怨』では、日本で同シリーズを監督しつづけてきた生みの親・清水崇がメガホンを取り、日本人監督として初の全米No.1ヒットを叩き出す、しかも2週連続で!っつう超大快挙を成し遂げました。これって、『おくりびと』どこの騒ぎじゃなくない!?
こうした今日の“Jホラー”のハンパない恐さっつうのは、“小中理論”ってのに拠るところが大きいのです。
小中っつうのは脚本家・小中千昭氏の名前から来てまして、この方、80年代末頃からオリジナルビデオで、低予算ながらムッチャクチャ恐いオムニバス・ドラマなんかを作ってきた人物なんです、ハイ。
この人には、『ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言』っつう著書があって、そこで“小中理論”については語り尽くしておりますんで、興味のある方は、岩波アクティブ新書から出てるそちらをお読みください。
ここでは、話を進める上で、“小中理論”のうちの1つ、「幽霊の姿かたちルール」についてだけ紹介しときます。
“小中理論”によると、映画で幽霊をちゃんと映しちゃうのはNG!ってことになってます。青白い顔の女が恨めしげにこっちを睨んでる、って、それ、ただ単に下から青いライト当てた白塗りメイクの女優が、カメラ目線で恨めしそうな芝居してるだけじゃん!それってそんなに怖いか?っつう主張。
それに、幽霊なんてもんは、そんなに物理的・物質的・物体的にハッキリ・クッキリ出てこないだろ普通、ってイメージあるじゃないすか。あんましリアルに映りすぎちゃうと、かえって幽霊としてのリアリティ(?)に欠ける。
それじゃダメなんだ、と。例えばボワ~ッとした人型の影のようなものが、長い黒髪の女らしきシルエットを、うすボンヤリと形作ってる。んでもって顔は、不自然に暗かったり歪んでたりボヤけてたりしてて、よく判別できない。もう、明らかにこの世のもんじゃない!それが、見切れ気味に画面に映り込んじゃってる!! これこそ、リアリティのある幽霊ってもんです。
そう、要は、この世のもんじゃない、不条理な存在なんだっつうことを、リアリティをもって客の前に見せることができれば、そこに“恐怖”は生まれるんだ、ってのが、“小中理論”のミソなんですわ。
もっとも、小中さんの次世代の“Jホラー”作家・清水崇が世界を震撼させた『呪怨』なんかだと、怨霊・伽倻子(を演じてる女優の藤貴子。実は素顔はけっこう美人)の顔とか、モロに映しちゃってますし、かならずしも、“小中理論”の具体的なノウハウがすべて継承されてるワケじゃないんすけどね。
ただ、“小中理論”がとことん追求する「幽霊のリアリティ」、そして、“恐怖”ってもんをどう映像で表現するかっつうことへの、原理主義(ファンダメンタル)的なまでのこだわり、執念、哲学は、次代の作家たちにもちゃんと継承されてんです。
そんなことばっか四六時中、大マジで考えてた人たちが、今日の、世界に冠たる“Jホラー”を築いてきたんですなぁ~。頭が下がりますわ。
さて、前置きが長くなりました。ここからは、ようやく当チャンネルで放送する『ダーク・ウォーター』についてです。
『ダーク・ウォーター』は、『リング』の大ヒットを受けて日本で2001年に作られた『仄暗い水の底から』のハリウッド・リメイク作。2004年の作品です。
この『仄暗い~』、原作・鈴木光司、製作・一瀬隆重、監督・中田秀夫という『リング』三羽烏はそのままに、今度は怖いだけじゃない「泣けるJホラー(?)」的なとこを、公開時には謳ってたような記憶があります。
ストーリーはっつうと、夫と別居→離婚調停中の母親(黒木瞳)が、幼い娘と一緒にボロ団地に引っ越して来るんですが、そこはいわゆる“いわく付き物件”だったんですな。もちろん彼女は、そんなこととはツユ知らない。
あ、ちなみに、ハリウッド版で黒木瞳ポジションを務めるのは、我らが80’sアイドル、ジェニファー・コネリーっす。
異常に年とらなすぎな和製バートリ・エルジェベトこと黒木瞳。来年でおん年50歳。ちなみに室井滋と同い年(いや室井さん、別に他意はありませんよ)。
対して、若かりし頃の可憐さ可愛さといった埋蔵資源を見事に掘りつくし、最近のジェニコネって、年とったなぁ~、って感じですよね。いい女なんだけど、生活にくたびれた感が漂ってる。そこがまた良い!この映画での幸薄いお疲れシングル・マザー役日米対決、黒木瞳vsジェニコネの一本勝負、ワタクシはジェニコネに軍配を上げたい!
でですねぇ、そのボロ団地ってのが、どうにも湿気がヒドくって、いっつもジトジト湿っており、しかも母娘が引っ越して来てからは寒々とした雨が降りやまず、廊下なんかの共同空間の蛍光灯も薄暗くって、なんとも不快きわまりないビフォーアフター物件。匠に「なんということでしょう!」してもらっちゃいなさいな老朽建築なのです。
この、とことん生理的不快感をあおる古い集合住宅の描き方、めっちゃくちゃ秀逸っす!この点では、日本版・ハリウッド版、甲乙つけがたいですなぁ。
そのうちに、部屋の天井から水漏れがヒドくなってくる。母娘の部屋は最上階じゃないんで、上の階にも誰か住んでるハズ。上は一体全体どうなってんだろ タダ事じゃないぞこれは、っつうイヤ~な予感をただよわせながら、物語は進みます。
そして、次第に明らかになる、この団地で起きた、過去の悲しすぎる出来事とは !?
と、今、書けるのはここまで。こっから先は致命的ネタバレになりますんで、放送を見終わった人/過去に日米いずれかのバージョンでも見たことある人に向けて、このブログの最後の方で、もうちょっと踏み込んで触れせてもらいます。
まぁですねぇ、その後いろいろあって、最終的には、黒木瞳orジェニコネと幽霊が相対する、クライマックス・シーンになるワケなんですが、さぁ皆さん、ここで再び“小中理論”の登場です。
幽霊の描かれ方が、日米で違うんです。ハッキリ言って、これは日本版の方が上手い!ここで上手いというのは、つまり、より怖いって意味です。
日本版では、幽霊の顔が最後まで描かれません。ほとんど画面いっぱいのドアップで黒木瞳に迫って来るシーンがあるにもかかわらず、その目鼻立ちは崩れ、皮膚は黒ずみ、どんな顔なのかよく判らなくなっちゃってます。っていうか、もはや人間の顔してない
そう、コレってのが典型的な、“小中理論”による例のアレなのです!
そこにいたるまでに次第に明かされてきた、悲しい人生をたどった、ある人物の物語。見てる側も「可哀相だなぁ 」と、どうしたって感情移入して見てます。最後の最後、その人物が怨霊となってヒロインに襲いかかる時、すでにそいつは、この世のもんじゃなくなっちゃってるワケです。こりゃあもう、救いようもなく怖いっすわ!
一方のUSA版ですと、そいつが、いわゆる白塗り的なメイクをしてですねぇ、いかにも、ってなウラメシそうな顔で、ジェニコネに迫ってくるワケっすわ。どう見ても、この世のものじゃなくない(二重否定)。正直、あんまし怖くはないよなぁ 。
う~ん、リメイクしたはいいけど、“Jホラー”の神髄である“小中理論”ってヤツまでは呑み込めてなかったようですな、アチラさんは。
余談ながら、この失敗を『ザ・リング』の時にもアメリカさんはやらかしてて、日本版『リング』では貞子の顔が映らないのが怖いのに、アメリカ版では思いっきりTVから這い出て来るサマラ(USA版の貞子、普通に可愛いただの子役)の顔を映しており、そん時も、怖くも何ともなかった。
続く『ザ・リング2』では、日本版の監督、Jホラーマニラの間で「中田ヒデ」と言ったらこの人・中田秀夫がハリウッドに招かれて、『THE JUON 呪怨』の清水崇監督に続き史上2人目となる日本人監督による全米No.1ヒットの快挙を成し遂げたんですけど、前任者の例のカリビアン監督が『1』でサマラの顔出しをしちゃったんで、今さら続編で急に顔出しNGにするのもナンですし、顔を出すか出さないかでかなり苦悩したんじゃない?と感じさせる仕上がりになっとります。
もっとも、日本でも『らせん』と『リング0』では顔映してるんですけどね。しかも佐伯日菜子、仲間由紀恵ってキレイドコ女優が貞子を演じてたんで、まるっきし怖くなかった。
仲間由紀恵が貞子って、ないだろ、そりゃ。見たら1週間後にTVから白ドレスの仲間由紀恵が現れるビデオテープって、何それ 。むしろ、くれ!ください!! 欲しいっす!!! っていうか、呪いっつうより萌えアニメに近いな、その展開は。
えー脱線がヒドくなりましたんで話を戻すとですねぇ、『ダーク・ウォーター』をやるチャンネルの当事者が、自分とこの放送作品にダメ出ししてどうすんだよオイ、とお思いかもしれませんが、そうではないのです。
恐くないホラー映画だからこそ、逆に、万人にオススメしたいのです。
ワタクシどもホラー映画好きなんてのは因果なモンでして、まぁ、たとえて言や、辛いもの好きと似たようなもんです。もう、味覚が狂っちゃってますから。普通の人ならカネくれても食いたくないような、体に毒ってなぐらい真っ赤な色した罰ゲーム級刺激物を、喜んで「美味い美味い」と食う、変な人たちなワケですわ。
日本版『仄暗い水の底から』の怖さは、普通の人ならカネもらっても見たくないような、心臓に悪いぐらいの怖さだと思ってください。ホラー好きにゃタマラナイでしょうが、「別にホラーは好きじゃない」「っていうかむしろ、あんまし怖すぎるのは見たくない」っつうマトモな神経の持ち主には、まずオススメはできませんわなぁ。
そういう人でも安心して(?)見れるのが、ハリウッド版の『ダーク・ウォーター』の方なんです。なんせ、大して怖くないんですから。
辛さを売りにはしてるけど、実はそんなに辛くはない、小学生でも平気で食えちゃう、ま、言ってみりゃ「カラムーチョ」みたいなホラー映画っすわ、コレ。
この作品(日米どちらとも)、実はホラーというジャンルを超越した、かなりよく出来た映画ではあります。公開時に「今度は泣けるJホラー」的な訴求をしてた、ってことは上の方で書きましたが、この新機軸も、かなり成功したのでは?と個人的には大いに評価してます。
要は、見る価値はある作品だっつうことです。恐すぎるホラーは得意じゃない、日本版は怖すぎて見れそうもない、って人たちは、ぜひ、当チャンネルで放送するUSA版『ダーク・ウォーター』にチャレンジしてほしいっすわ。
USA版さえ見りゃ日本版も見たと同じことにしちゃってもらってOKでしょう。話的には日米で大差ないんで。
© Touchstone Pictures.
(編成部 飯森盛良)
【5月放送日】 30日
【7月放送日】 19日、25日、27日
警告:以下の文章には、致命的なネタバレ情報が含まれます。映画本編を見る前には、絶対に読まないでください!
見終わった方ならお分かりの通り、この映画に出て来る霊は、貞子とか伽耶子とかと違って、幼稚園児の女の子でした。
日本版の方では、物語の舞台となる団地で過去に女の子が行方不明になってて、事件とも事故とも分からないまま、結局、発見されず今日にいたってる、って設定が、映画の初めの方で早くも明らかにされます。
近所の電柱に行方不明の張り紙が何年も貼りっぱなしになったままだけど、そこに載ってる女の子の顔写真は、不気味にボヤけてて、個人を識別できない状態で(これも“小中理論”。ゾっとさせてくれる見事なシーン)。
この子、親に育児放棄されて誰からも面倒を見てもらえず、独り遊びしてて事故に遭い、実は、この団地の中で人知れず死んじゃってたワケです。で、死体も見つけてもらえないまま行方不明あつかいになってる。
日本版では親(父親)が捜そうと一応多少の努力はした、ってことになってて、それが電柱の張り紙なんですけど、ハリウッド版ではもっと悲惨。捜索すらしてもらえてない。誰からも心配してもらえてない。
父親は、団地を出てった母親が一緒に連れてったと早合点しており、母親は、縁を切った父親のもとに残ったものと勝手に思い込んでる。ウソ寒いような親の無関心ぶり 。
その子が住んでたのが、例の、水漏れの発生源である上の階の部屋。で、母親の愛に飢えたこの子の霊が、下の階に越して来た、小さな娘を持つヒロインの黒木瞳orジェニコネに、自分のママになってほしくて取り憑いた、ってオチでしたね。
黒木瞳orジェニコネ自身、幼い頃に母親の育児放棄に遭ってて悲しい幼少時代を過ごしてて、だから自分だけは良い母親になりたい、っていう、切羽詰ったぐらいの想いがある。そんな彼女が、自分の娘を怨霊から守るために選んだ、究極の選択肢とは !?ってラストは、まさに号泣でした。
この“母性愛”ってとこがもちろん映画のメインテーマなワケなんですが、それ以外にも、サブテーマとして、現代の都市生活の諸問題を上手く映画に取り入れてるっつう点でも、非常によく出来た作品だと、ワタクシは思います。
過疎化が進み、コミュニティとしての機能が維持できなくなりつつあると同時に、老朽化まで進む、郊外の集合住宅、いわゆる“限界団地”の問題。
そして、人の親となる資格のないような人間がしばしば起こす、児童虐待の問題。
母親によるネグレクトという、なんともやりきれない、しかし今、日本で、アメリカで、実際に頻発してしまってる問題 。
そういう、現実の社会でボクらが直面している暗い問題を物語のベースに据えて、ホラーという形をとりつつも“母子愛”を描いてるんで、この映画って、単なるホラーのカテゴリーを超えて、まがまがしい陰鬱さと、普遍的な感動要素、ダブルでパワーを持ちえてるんじゃないでしょうか。
結果、見る者に何事かを訴えずにはおかない存在感ある映画になったんだろうなぁ、と、ワタクシといたしましては、実は非常に高く買ってるんですが、皆さんはどうお考えでしょう。
以前、このブログで『ブラディ・サンデー』で描かれた「血の日曜日事件」を「遠い国で起きた事件」だったと書いた。
血の日曜日事件が起きたのは1972年。今から37年前。
首相は田中角栄。浅間山荘事件が起き、上野動物園にパンダがやってきて、『ゴッドファーザー(もちろんpart I)』が公開され、吉田拓郎は「結婚しようよ」を歌った。
僕はこの頃を「昔」と呼ぶことにそれほど抵抗はない。
今作『ホテル・ルワンダ』の舞台は1993年から1994年。今から15年前。日本では細川内閣、羽田内閣、村山内閣と次々に首相が変わり、プレイステーションが発売され、『フォレスト・ガンプ』が公開された。
もちろん、年齢によって、考え方によって、受け取り方はさまざまだけれど、このブログを読んで下さっている方の多くは、1994年を昔とは感じないのではないかと思う。
だから『ホテル・ルワンダ』を見たとき、本当に驚いた。衝撃を受けたと言ってもいい。
僕が『フォレスト・ガンプ』や『シンドラーのリスト』を観ていたころに、ほぼ同時進行で起きていた出来事とは、とても信じられなかった。
ルワンダという国は約89パーセントがフツ、それ以外がツチという二つの民族によって成り立っていたが、1994年4月6日、フツ族出身の大統領を乗せた飛行機が何者かに撃墜されたことに端を発して、フツ族の過激派によるツチ族の大量虐殺が始まる。
虐殺によって殺されたツチ族の数は、3ヶ月間で80万人~100万人。
その数は野球場に集まった人の数でも、ヒット映画の入場者数でもない。わずか3ヶ月で理由もなく殺された人間の数である。
2004年に公開された『ホテル・ルワンダ』は、虐殺が起きるなか、1200名以上をホテルに匿い、命を救ったホテルマン、ポール・ルセサバギナの実話を基にしている。
今作でポールを演じるドン・チードルの演技は素晴しい。
また、描かれる事実の重みに比べて、映画そのものは、非常にわかりやすく作られており、わずか15年前、このような虐殺があったことを知らない人でも、予備知識なしに経緯を知ることができる。必要以上に虐殺を描写するわけでもなく、かといって大勢の命を救ったヒーローを描くわけでもない。
印象的なシーン、語るべきストーリーはいくらでもある。
でも、僕が映画を観た後、まっさきに思い出したのは映画の冒頭に出てくるシーンだった。
虐殺が起きる前年、ポールが働く高級ホテルで、国連軍がマスコミに向けて記者会見を行った。1990年から続いていたフツとツチの内戦が、和平合意によってようやく終わろうとしていたからだ。
国連軍の大佐は
「平和に」
そういって、祝杯を挙げる。しかし、その半年後に虐殺が始まり、3ヶ月にもわたり人が殺され続けた。今作を観た後、大佐の言葉の意味するものが、ひどく空虚なものへと変わってしまうのは、きっと僕だけではない。
最後にもう一度書いておきたい。
今からわずか15年前、ルワンダで起きた虐殺によって殺されたツチ族の数は80万人~100万人。ドン・チードルの演技も、わかりやすく丁寧なストーリーも、すべてはこの事実を伝えるためだけに存在している。
そして、虐殺が起きていたとき、国連は、アメリカや日本を初めとする国際社会は、マスコミは、自分は、そのとき、何をしていたのか?
その答えは映画のなかにある。
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(映画ライター 奥田高大)
1932年にアメリカで生まれたビル・ポーターは、先天性の脳性麻痺障害者。父親は、かつて業界で有名なセールスマンだった。その優秀な血を受け継いだ彼の訪問セールスの才能は素晴らしく、後に伝説的な一流セールスマンとなる。
『ドア・トゥ・ドア/バッグに愛とまごころを 』は、訪問セールスを生き甲斐にした彼の半生を綴ったストーリー。
大手ワトキンズ社のトップ・セールスマンとして功績を認められるまでは、決してたやすい道じゃなかった。けど彼が働く喜びをいつも忘れないところが素晴らしい。心からやりがいを感じ、楽しそうに働くビルの姿こそ、『ドア・トゥ・ドア』の見所だ。
例えば、彼にとって悪天候は人一倍つらく、普段以上に身体の自由が利かなくなってしまう環境。それでも歩き続けるのは、多くの人が家で暇を持て余している雨天時が、訪問セールスマンにとって絶好のチャンスだからだ。
自分の身体なんて二の次にして、雨の日こそ!って気持ちで、後ろを振り返らずに歩き続ける姿は、とても頼もしい。
ストーリー前半の様子からも感じる部分はあるのだが、ビルは少し頑固な性格の持ち主。仕事に対しての誇りや自分へのプライドも持っているし、自立意識も高い。
性格には、彼の個性はもちろん、時代背景が関係している部分も大きいかと思う。
私には、ビルと同世代の祖父がいる。私の祖父は限りなく全盲に近い半盲で、障害者手帳も持っているのだが、この二人、性格や人の接し方でよく似ているなあと思う。
祖父も日常生活の中でほとんど周りの人に甘えない、自立意識の高い人だ。
家族が手助けしようとしたって「いやいや、自分でできる」っていうのが口癖だけど、実は口ほどに精神的強さを持っている訳じゃない強がり屋。
だってたまに「わしはこの目のせいで家族に迷惑しかかけてない」と悲しそうにこぼすこともあるのだ。
人に優しく自分に厳しいタイプは、人から信頼を置かれることも多いけど、ちょっと難しい人とも思われてしまう。
二人が少年だった1930〜40年は、世界中で戦争が勃発し、誰しもが自らの力で生き抜こうとした時代。そんな時代を生きた彼らには、おのずと自立意識が身についたのではないか。
周りに甘えず、弱音を吐くことも少ない祖父の身近にいた私は、『ドア・トゥ・ドア/バッグに愛とまごころを 』を見て、祖父やビルの性格は、この世代のリアルな人間像なのだと気づいた。
ビルを演じたウィリアム・H・メイシーは、屈強に見えるビルの心境表現がとても上手い。彼は、ビルの喜びや、時には怒りや、疑問や、悲しみなどを、表情だけで感じ取らせてくれる。
そのハマり具合は誰もがわかるだろうし、彼の巧みな演技に目が離せなくなるだろう。三枚目役者のイメージがあるメイシーだが、そんな彼があえて主演に立っている点に注目して観てほしい。
演じるとなると役者に技術が要求されるビル・ポーターという役柄を、最近になって、日本でしっかり演じ切った役者が、嵐の二宮和也さんだ。
今年3月末、日本人向けにリメイクしたスペシャルドラマとして『ドア・トゥ・ドア』は放送され、兼ねてから演技評価の高い二宮さんが、嫌味のないビルの人柄を繊細に演じた。
この日本版のドラマで素晴らしかった点は、たとえ国境を越えて設定が変わろうと、本来のストーリーが持つメッセージが変わることはなく、日本の視聴者にしっかりと伝わったこと。さぞかし多くの人の感動を呼んだのではないだろうか。
世界中の誰もが興味をそそられる魅力的な人物、ビル。
『ドア・トゥ・ドア/バッグに愛とまごころを 』の中で彼を知れば、皆がビルのことを好きになるだろう。くしゃくしゃっとした笑顔に愛嬌があって、人に楽しい話をするのが上手で、誠実で、優しい。
多くのお客さん達にとって、ビルは、いつしか友達のような存在となり、ドアのノックが聞こえたなら笑顔で迎え入れるようになっていた。
私も、ビルに家のドアをノックしてもらえたらなあ。
だって、彼の笑顔を見ながら話を聞く時間は、楽しいに違いないんだもの。
TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.
(ライター 韓 奈侑)
【5月放送日】 17日







