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 男はマフィア映画が好きだ。


 強さ、たくましさ、切なさ、野心、哀愁、友情…。マフィア映画には、それらすべての要素が入っている。以前、このブログで「女性はおしなべて姫になりたがる」と書いたけれど、「男はおしなべてマフィア映画好き」はそれと対をなすと思う。

 

 そして、マフィア映画のスターといえば、筆頭はやはり『ゴッドファーザー』『スカーフェイス』のアル・パチーノだろう。

 

フェイク.jpg

 本作『フェイク』では、うだつのあがらないマフィア、レフティを演じている。

 

 アル・パチーノほどの役者が、シケたマフィア役にハマるのか心配だったのだが、観た瞬間にその心配は吹っ飛んでしまう。レフティはどう見てもプライドだけが高い、シケたマフィア。なのに存在感がある。

 

 もう一人の主役は、FBIの囮捜査官としてレフティに近づくジョニー・デップ演じるジョー。ジョーは、自らをダニーと名乗ってレフティの弟分になることに成功し、常に行動をともにするようになる。FBI本部からの指令を着実にこなしながらも、レフティに全幅の信頼を置かれるようになるジョー。

 

 ところが潜入が長引く間に、ジョーは組織を取り仕切るボスのソニーにまで目をかけられはじめ、レフティを差し置いて出世してしまう。プライドを傷つけられながらも、恨みがましいことをいうわけでもないレフティ。その姿に、ジョーはいつしか潜入捜査官という立場でありながら、友情にも近い感情を抱き始めていた。

 

 男はマフィア映画をなぜ愛するのか? 僕が思うに、それは“憧れ”という言葉だけでは片付けられない。もっと強い、いわば共感や同情、自己投影といった感情が近いと思う。

 

 現実的には、マフィアの世界はほとんどの人にとって縁遠い。

 

 だが、本作『フェイク』をはじめとする多くのマフィア映画で描かれるのは、実は自分たちを取り囲んでいる世界とほとんど変わらない。

 

 どれだけ嫌であっても従わなければいけない命令があり、媚びへつらわなければいけない相手がいる。どんなことをしてでも、金を稼がなければいけないときがあり、自分が助かるためには仲間を裏切らなければいけないときもある。後輩に出世で追い抜かれることもあり、それでも野心を失うことのできない自分がいる。

 

 マフィア映画は男が生きる社会の縮図そのものだ。それゆえ男たちはマフィア映画に共感し、同情し、自分を重ね合わせる。

 

 物語の終盤、ソニーとレフティが、ダニーが潜入捜査官であることを示す証拠写真をFBIに突きつけられた後に語るシーンがたまらなくいい。

 

ソニー「ダニーを知らなきゃ、騙されるとこだ」
レフティ「ああ、ダニーを知らなきゃな」

 

 ソニーはマフィアのボスらしく、誰に対しても用心深い。ところがそんなソニーでさえ、ダニーが自分たちを裏切るわけがないと全幅の信頼を置いている。レフティもソニーの言葉に同意する。ソニーとレフティだけでなく、ダニーも彼らを信頼していなければ、こんな言葉はでてこない。

 

 映画『ユー・ガット・メール』にこんな科白がある。「人生に必要なことは全部『ゴッド・ファーザー』に書いてある」


 『フェイク』もそんな映画のひとつなのである。

 

(映画ライター 奥田高大)

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【1月放送日】 1日4日10日16日

 当時、監督がどんな思いで『ピースメーカー』を作ったのか知る由もないが、今作は2001年9月11日まで、ごく普通に面白いサスペンス・アクションの一つだった。

 

 ジョージ・クルーニーとニコール・キッドマンの豪華組み合わせに加えて、見応えあるカーチェイス。「核を奪ったテロリストを追いかける」というストーリーはそれほど斬新でないにせよ、観客を楽しませるツボをしっかりと押さえた一級の娯楽作品。

 

 ところが9.11後の今になって観ると、妙なリアリティを持って迫ってくる。

 

 旧ソ連の核弾頭10基を解体のために運搬していた列車が事故に遭い、そのうちの1基が爆発。

 

ピースメーカー.jpg
 そこでアメリカ政府は、核物理科学者のケリー(ニコール・キッドマン)をはじめとする専門家を招集して事故の究明にあたる。

 そして調査チームにロシア事情に詳しいデヴォー大佐(ジョージ・クルーニー)が加わったことから、事故はテロリストが仕組んだものであったことが判明。ケリーとデヴォーはテロリスト達を追い詰めてゆく。

 

 そうして苦労の末、盗まれた核弾頭の回収に成功するのだが、見つけた核弾頭は8基。残り一つはテロリストにすでに運び去られたあとだったのである。

 

 その核を運び出した人物というのが、ユーゴスラビア紛争で「ピースメーカー」を自負するアメリカに故郷を破壊されたデューサンという男。


 デヴォーとケリーはデューサンを見つけ、核を奪い返すことができるのだろうか・・・というのが本作のあらすじ。

 

 『ピースメーカー』に登場するテロリストの動機は、巨額の金でもなければ、ムショにいる仲間の解放でもなく、「アメリカの正義」に対する怒りだ。

 

 動機そのものは新しいものではない。

 

 けれど、『ピースメーカー』がほかと大きく異なる点は、テロリストの描き方にある。

 

 この手の映画の多くが、テロリストを同情の余地ない対象として描くのに対して、本作では「おまえ達の言い分もわかるよ」とテロリストに感情移入したくなるほど、犯人の心理がきちんと描かれている。

 

 アメリカの攻撃によってデューサンが故郷や家族を失い、そのために受けた悲しみにとうてい癒されるものではなく、怒りのやり場をどこかへ向けることも仕方ない。

 

 ふつうなら、嫌な存在でしかないはずのテロリストに対して、『ピースメーカー』ではふとそんな風に考えてしまう。決して許される方法ではないものの、それはある種の正義によって行われた行為なのだ。

 

 とくにアメリカ同時多発テロ事件後の今となっては、その思いがより複雑なものになる。

 

蛇足のエンディング.jpg
 ただ、そんな具合にそこらのサスペンス・アクションとは違うだけに、ラストシーンには一言もの申したい。今作ではジョージ・クルーニーとニコール・キッドマンによる愛だの恋だのが(すごく出てきそうなのに!)まったくといっていいほど描かれないのだが、最後の最後でそれを微妙に匂わせるシーンがある。

 

 『ピースメーカー』は娯楽映画の体裁をとりつつ、きっちりメッセージも込めているところが長所(?)の一つだと僕は思っていたのだけど、最後にそんなシーンがあると、「え?! スターを二人も起用したから、なんだかんだ言っても最後はそうなっちゃうワケ?」と、ちょっとガッカリする。

 

 雨の日も風の日も、休むことなく新聞配達を頑張っている女の子が、いかにも軽そうな男とデートしているのを見かけてしまったような気分になる。

 

 いえ、べつに愛だの恋だのがあってもいいんだけどね・・・。ちょっと中途半端すぎやしませんか!?

 

 と、こちらも最後の最後で辛口になってしまいましたが、未見の方はもちろん、9.11以前に観たことのある人も、ぜひもう一度『ピースメーカー』をご覧下さい。きっと以前とは違った思いを抱くはずです。

 

(映画ライター 奥田高大)

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【1月放送日】 3日(吹き替え)10日13日23日  

 誰もが大抵のものごとに関して趣味嗜好、言い換えれば好きな傾向というものを持っている。よく言う"ほにゃららフェチ"も同じようなものだが、これを映画にあてはめてみると、「SFが好き」とか、「とにかくドンパチするやつ」とか、「誰が何と言おうとラブストーリーが最高よ」など、人それぞれ好きなジャンルやテーマを持っていることが多い。

 

 で、僕はと言うと「現代のおとぎ話」的要素を持った「現実にありそうだけど、まあないだろう」という性質の映画に惹かれるらしい。

 

 今月の特集「映画で見る冷戦時代」の一本としてお送りする『グッバイ、レーニン!』は、そんな僕のツボに見事にはまった作品。

 

 舞台は今からちょうど20年前の1989年。ベルリンの壁が崩壊する直前の東ドイツ。

 

グッバイ・レーニン.jpg
 ダニエル・ブリュール演じるアレックスは、母、姉、その娘と4人で暮らす心優しき青年。彼の母親は10年前、夫が家族を捨てて西側に亡命したのがきっかけで、社会主義に忠誠を尽くすようになった愛国主義者である。

 

 そんな母の元で育ったアレックスだが、建国40周年を祝う盛大な記念式典が行なわれた夜、改革を求めるデモで逮捕されてしまう。そして、さらに悪いことに、その姿を偶然見かけた彼の母親がショックで倒れ、昏睡状態に陥ってしまうのだ。


 母が倒れたことに責任を感じたアレックスの看病の甲斐あってか、8ヶ月後にようやく目を覚ます母。しかし、彼女が目覚めたときすでにベルリンの壁は崩壊しており、東ドイツには資本主義が怒濤の勢いでなだれ込んでいたのである。

 

 そこでアレックスは「もう一度強いショックを受けたら、命取りになる」と言われた母のために、“東ドイツ体制が続いているフリ”をすることになるのだが、今作はここからが本当の始まり。

 

 体制が変わったことを隠すために、手に入りにくくなった東ドイツ時代のピクルス探しに奔走し、家の窓から見える資本主義の象徴とも言えるコカ・コーラの看板を隠し、本当の情報を伝えないために、友人と偽のニュース番組まで作ってそれを本物のニュースと偽って見せたりと、四苦八苦して“東西ドイツ体制が続いているフリ”を続ける。

 

 その姿は懸命で滑稽で微笑ましく、そしてどこか切ない。

 

 でも、母のために嘘をつくアレックスを見て切なく感じるのは、一体どうしてなのだろう? 映画をご覧になればわかっていただけると思うのだけど、その姿はユーモア混じりに描かれていて、悲しみを誘う行動には映らない。

 

 でも、たしかにどこか切ないのだ。

 

 それはたぶん、アレックスの母をはじめ、けして少なくない人々が信じていたものが、あっという間に崩れてしまったからではないかと僕は思う。

 

 今まで母親の心を支えていたはずの社会主義と、その象徴であるベルリンの壁がなくなったことで、アレックスは懸命にその代わりになろうとしている。

 

 ほんの少し目をそらしていただけなのに、信じていたものがまるっきり変わってしまった。そのことに、僕はおとぎ話的な要素を感じて、ちょっと切なくなるのである。

 

 さて、この健気なアレックスと母の行方は、映画をご覧頂くとして、知っておくとより映画を楽しめる豆知識をここで少し。

 

 『グッバイ、レーニン!』は、当時のドイツの様子や社会主義のなんたるかをあまり知らない人でも十分に楽しめる作品だが、知っているとより楽しめる知識もある。

 

 
 まず「ドイツのことなんてなーんも知らん」という方への基礎知識として、ベルリンの場所をご説明します。意外と、東ドイツと西ドイツを分けるドイツの中央あたりにあるんだろ!と思いこんでいる方いませんか?

 

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 いえいえ、中央どころか、ベルリンは東ドイツのど真ん中にあったのです。しかも、街の西側は資本主義エリアで、東側は東ドイツの首都だった社会主義エリア。つまり社会主義の中にあって、ぽつんと陸の孤島のごとく自由な西ベルリンが存在していたわけです。

 

 でもそのまま放っておくと、社会主義に嫌気がさした東ドイツ人が、ベルリン経由でどんどん西ドイツに移ってしまう。そこで流出を防ぐために西ベルリンを囲む形で、ベルリンの壁は作られることになったのです。

 

 続いては額入りのポートレートなどで何度か登場する白髪頭のメガネをかけた男ですが、彼の名はエーリッヒ・ホーネッカー。ベルリンの壁崩壊の直前まで君臨していた東ドイツの指導者です。いわば東ドイツにおける社会主義の象徴で、劇中では壁が崩壊した後、当時の東ドイツ人が彼をどう評価していたのかを示唆するシーンがたびたび見られます。

 

 さらに個人的には『グッバイ、レーニン!』は、音楽もじっくり聴いてほしい作品です。手がけているのは、『アメリ』の音楽を担当したことで一躍有名になったヤン・ティルセン。幻想的でセンチメンタリズムが漂う音楽が映画の雰囲気とぴったりで、僕は思わずサントラも買ってしまいました。

 

 そうそう、最後になりましたが、『グッバイ、レーニン!』で注目を集めたダニエル・ブリュールは、11月20日から公開される、タランティーノ×ブラピの話題作『イングロリアス・バスターズ』にも出演しています。この映画でダニエルファンになった方は、ぜひ劇場にも足を運んでみて下さい。

 

 ベルリンの壁が崩壊してはや20年。一つの節目となる時期に、ザ・シネマでは「映画で見る冷戦時代」特集として冷戦時代を描いた傑作を5作品お送りするわけですが、『グッバイ、レーニン!』はそのなかでも、いわばファミリードラマ担当。


 笑いと涙もいいけれど、冷戦時代の緊張感をもっと味わいたい方には『駆逐艦ベッドフォード作戦』、シュールな映画に惹かれる方には、キューブリックの名作『博士の異常な愛情』など、多様な趣味嗜好ならびに傾向とフェチにあわせて作品をご用意していますので、ピクルスでもかじりながらぜひご覧下さい。

(映画ライター 奥田高大)

©X Filme creative pool GmbH 2003

【11月放送日】
『グッバイ、レーニン!』 7日9日20日29日

『駆逐艦ベッドフォード作戦』 7日21日24日

『博士の異常な愛情』 7日12日22日

『プラトーン』 7日16日22日24日

『ホワイトナイツ/白夜』 3日7日27日

ハンニバル.jpg
 映画史上、人々の記憶に強い印象を与えたキャラクターは少なくないが、ハンニバル・レクターは間違いなくそのリストに名を連ねる一人だろう。

 

 彼の名を世に知らしめたのは、言うまでもなくトマス・ハリス原作、ジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』である。ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスの緊張感あるやりとりは、サスペンスの新しい可能性を感じさせてくれた。

 

 その10年後に公開されたのが、リドリー・スコット監督による『ハンニバル』。こちらは監督の美意識が、レクター博士のキャラクターとしっくりはまって、『羊たちの沈黙』の衝撃をうまく引き継いだ見事な続編。ジョディ・フォスター演じたクラリスがジュリアン・ムーアに変わったが、僕はさほど違和感がなかった。

 

 続いて公開された『レッド・ドラゴン』は時系列的に言うと『羊たちの沈黙』の前にあたり、レクター博士が男と対峙する唯一の作品。そしてアンソニー・ホプキンスは登場せず、レクター博士の生い立ちから青年期までを描いて、「人食いハンニバル」にいたった理由を明かしたのが『ハンニバル・ライジング』である。

 

 さて、こういった続編・シリーズものの場合、どうしても比較してしまうのが人情というものなので、僕も簡単に感想を記してみたい。

 

 まず作品としての完成度と受けた衝撃を鑑みると、総合一位はやはり『羊たちの沈黙』。しかし以降の3作品がつまらないかというと、まったくそんなことはない。とくにサスペンスとしての緊張感は、今回お送りする『ハンニバル・ライジング』、『ハンニバル』ともに、「レクターシリーズ」の世界観を壊すことなく、それでいてオリジナリティも持つ優れたサスペンスである。

 

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 とくに『ハンニバル・ライジング』でレクター博士の若かりし頃を演じたギャスパー・ウリエル君には拍手を贈りたい。レクターを演じるのは、『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーくらい勇気のいることだったろうにと思う。

 

 シリーズ第三作の『レッド・ドラゴン』はたしかに「レクターシリーズ」ではあるのだが、僕個人の意見としてはレクター博士の狂気・怖さを引き立てるには、クラリスや『ハンニバル・ライジング』に登場するレディ・ムラサキのように、女性の存在が不可欠な気がする。アンソニー・ホプキンスが出演しない『ハンニバル・ライジング』を外伝と捉える人も多いが、僕はどちらかというと、『レッド・ドラゴン』を外伝的な作品と捉えている。しかしその“女性問題”さえ気にしなければ、『羊たちの沈黙』に次ぐ完成度かもしれない。

 

 とまあ、こんな具合に「レクターシリーズ」はどれを観てもハズレがないのだが、今回は僕の個人的な趣味からレクター博士について音楽の側面から触れてみたい。

 

 レクター博士はご存じの通り、人食いで極めて冷酷な殺人鬼である。が、映画を観た人であれば、そこに彼なりの美学を認めないわけにはいかないだろう。

 

 それの象徴とも呼べるのが、「レクターシリーズ」の劇中でも印象的に使われる『ゴルドベルク変奏曲』である。

 

 『ゴルドベルク変奏曲』とはバッハによる楽曲で、レクター博士お気に入りのクラシックだが、誰の演奏でもいいというわけでなく、グレン・グールドというピアニストによる『ゴルドベルク変奏曲』を愛聴しているのである。

 

 グールドはいわゆる天才肌であったが、変人としても知られた。たとえばコンサートが始まっているにもかかわらず、聴衆を待たせて自分が座るピアノ椅子を30分も調整してたとか、真夏でもコートに手袋、マフラーを着用してたとか、人気の絶頂期で生のコンサート演奏からドロップアウトして、以降はスタジオに籠もってレコーディングしていたなど、変人ぶりを示すエピソードをあげればきりがない。ついでに言うと、夏目漱石の『草枕』が愛読書の一つだった。

 

 だが、ひとたびグールドがピアノの前に座り、二本の手を鍵盤に載せた瞬間、そこから生まれる音楽は、世界の終わりにただ一つ遺された楽園のように美しかった。すべてが完璧で、研ぎ澄まされており、一片の曇りもなかった。

 

 同じように、レクター博士が人をあやめる方法も完璧で美しい。それは一つの哲学と言っても過言ではない。

 

 だからこそ、レクター博士が他の誰でもなく、グールドの『ゴルドベルク変奏曲』を好むところに、不謹慎だが僕は二人に共通する何かを感じる。そしてハンニバル・レクターという強烈なキャラクターを象徴する音楽として、グールドの『ゴルドベルク変奏曲』以上に相応しい曲は考えられないのだ。

 

 グールドによる『ゴルドベルク変奏曲』は二種類の録音がとくに有名で、『ハンニバル』では1981年録音が、『ハンニバル・ライジング』では『羊たちの沈黙』でも使用された1955年録音が使われている。

 

 『レッド・ドラゴン』では僕がボーっとしていてスルーしてしまったのかもしれないが、『ゴルドベルク変奏曲』は使われていなかったように思う。(使われていたらゴメンナサイ)

 

 蛇足だが、NASAが1977年に打ち上げた探査機「ボイジャー」にはグールドの演奏が積み込まれた。まだ見ぬ宇宙人へ「地球にはこんなに素晴らしい音楽があるんですよ」と伝えるために。

 

 レクター博士の奇妙な美意識を少しでも理解するためにも、ぜひグールドの音楽に耳を傾けながら、『ハンニバル・ライジング』、『ハンニバル』をお楽しみ下さい。

 

(映画ライター 奥田高大)

『ハンニバル』©2000 UNIVERSAL STUDIOS

『ハンニバル・ライジング 』© Delta(Young Hannibal) Limited 2006 and 2006 Artwork © The Weinstein Company

 

【10月放送日】
『ハンニバル・ライジング』 3日、25日
『ハンニバル』  3日、8日、11日、23日、25日

 “オーウェリアンSF”というジャンルがある。

 

 SF好きの人にとっては、何を今さら・・・という感があるかもしれないが、この“オーウェリアン”なる言葉はイギリスの作家、ジョージ・オーウェルが1948年に執筆したという著作『1984』から生まれた。(イギリスでの発売は1949年)

 

 『1984』は、思想や言語、結婚などあらゆる市民生活が「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビによって政府当局に監視されている、恐るべき1984年の近未来社会を描いた小説である。

 

 そこから、極度な管理社会を舞台にしたSFのことを“オーウェリアン”と呼ぶようになり、映画、小説、漫画、舞台などでその世界観が描かれてきた。

 

 『イーオン・フラックス』は、ピーター・チョンによるアニメ作品を映画化したオーウェリアンSF。

 

 舞台は致死性のウィルスが発生して、人類のほとんどが死滅した2415年。

 

 生き残った人類は、トレバー8世による政府の下で厳密に管理され、汚染された外界と壁で隔てられた都市、ブレーニャで何不自由なく生活している。

 

イーオン・フラックス.jpg しかしいつの時代にも、反政府分子は生まれるもの。今作ではそれが、“モニカン”という組織である。シャーリーズ・セロン演じるイーオンはモニカンの女戦死で、彼女は妊娠したばかりの妹が反政府分子として抹殺されたことをきっかけに、復讐のためにモニカンの一員となったのだ。

 

 そして政府の厳重なセキュリティを解除する方法を見つけたモニカンから、命令を受けたイーオンは要塞に乗り込み、意外にあっさりとトレバーを見つけ出す。

 

 しかし、彼を殺そうと銃を突きつけた瞬間、トレバーと自分が恋人同士のように一緒にいる場面が脳裏に浮かび、動揺した彼女は逆に捕らえられてしまうのである。

 

 この脳裏に浮かんだ場面、というのがこの映画のキモ。ここから映画は急展開して、なぜ脳裏にそんな場面が浮かんだのかを探るうちに、イーオンは、本当の自分は何者で、どこからやってきたのかを知ることになる。

 

 さて、今回当チャンネルがお送りする『イーオン・フラックス』は、編成部が先見の明で選んだのか、単なる偶然なのかはさておき、ここ日本でオーウェリアンSFは、今もっとも注目を集めているジャンルなのである。

 

 というのも、映画化で話題になった浦沢直樹氏のコミック『20世紀少年』も、絶対君主“ともだち”が統治するオーウェリアン的世界を描いた作品であるし、200万部を突破した村上春樹氏の大ベストセラー『1Q84』は、冒頭に書いたジョージ・オーウェルの小説『1984』をもじったものである。僕はまだ読んでいないので、詳しいところはわからないが、内容もその世界観を土台に構築したものであるらしい。

 

 また村上氏は過去の著作、『世界の終わりと、ハードボイルドワンダーランド』でもオーウェリアンの世界観を組み込んでいる。

 

 もちろん、日本の小説や漫画だけではなく、オーウェリアンものは『イーオン・フラックス』のほかにも多数映画化されており、SFジャンルの一つとして確立されている。

 

 ルーカスの記念すべきデビュー作『THX-1138』、トリュフォーによる『華氏451』、スピルバーグの『マイノリティ・リポート』、マイケル・ベイによる『アイランド』、そして、カート・ウィマーという、ここまであげてきた大物監督に比べれば1ランク落ちる監督が撮った、しかしオーウェリアンSFの最高傑作とのマニア評がある『リベリオン』、などなどなど。

 

 これらで描かれる高度管理社会を観ると、“空想上の世界”というよりは、われわれが生きている世界をほんの少し誇張、あるいは時計の針を進めた形に過ぎないと感じる人は、けっして少なくないはずである。オーウェリアンもののメッセージ性は、時代を追うごとに増していると言える。

 

 それゆえ、『イーオン・フラックス』をはじめとするオーウェリアン作品は妙なリアリティを持って観るものに迫ってくる。

 

 このオーウェリアン的世界を肯定するのか、あるいは否定するのかで、その人生はずいぶんと異なってくる。高度管理社会で何不自由なく平穏に暮らすことは、ひとつの幸せでもある。一見、それはユートピアのように見える。

 

 しかし、何不自由なく平穏に暮らせる世界は、一方で生きることに必要でない“無駄”をなくす世界であり、必要以上の感情の起伏や芸術は必要とされない世界である。

 

 トリュフォーが『華氏451』のなかで、書物を無駄なものとして描いたのはその良い例だろう。

 

 高度に管理された何不自由ない社会は本当にユートピアなのか? それはディストピアではないのか?

 

 人はそう考え、管理社会に危険を感じるからこそ、“オーウェリアン”はこれほど描かれるのである。

 

 それにしても、映画、漫画、そして小説の世界で活躍する超一流の作家達が、こぞって"オーウェリアン"ものを作るということは、世界はそういう方向に間違いなく進んでいるということなのだろうか?

 

 人類への警鐘というと大げさに聞こえるものの、けして人ごとでも、ずっと未来の話でもないのかもしれない。

 

 歴史的な政権交代が決まった今日この頃、『イーオン・フラックス』を観た僕は、ちゃんと政治に興味持たなきゃと思ったのでした。

 

(映画ライター 奥田高大)

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 高校球児が甲子園に憧れるように、競馬好きが万馬券を願うように、世の女性はおしなべてお姫様になることを夢見る。

 

 古くは1937年のディズニーアニメ『白雪姫』から「Someday My Prince will come」(いつか王子様が)という名曲が生まれ、近年の日本では執事喫茶なるものが増殖していることからもわかるように、これは誰がなんと言おうが、疑いようのない事実である。

 

※執事喫茶とは?
メイドが「ご主人様」と迎えてくれるメイド喫茶に対し、執事が「お帰りなさいませ、お嬢様」と迎えてくれる喫茶店。心ゆくまでプリンセス気分が味わえる・・・らしい

 

 映画『プリティ・プリンセス』は、そんな地球上に生きとし生ける女子の夢を、そのまま形にしちゃったディズニー映画である。

 

 芸術家の母と二人で暮らす、冴えない女子高生ミア(アン・ハサウェイ)。彼女のもとに、ある日、父方の祖母クラリス (ジュリー・アンドリュース)から連絡が入る。両親はすでに離婚していたが、ミアの父が事故で急逝したため、ヨーロッパからわざわざ会いにやってくるというのだ。

 

 そこでミアは驚きの事実を告げられる。

 

「ミア、実はあなたはプリンセスなのよ」

 

キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

 

 ところが。

 

 目立つのが大の苦手で、コンプレックスもあるミアはなんと王位継承権を放棄しようとする。しかし祖母であり、ヨーロッパのとある小国の女王でもあるクラリスから、間もなく開催される舞踏会の日までプリンセス教育を受け、その上で、ミアが自分の将来を決断すればいいと説得されてしまう。

 

 舞踏会当日、ミアが選んだ道は普通の女子高生に戻ることなのか、現実を受け入れて、本当の自分と向き合うことなのか。

 

 と、まあこんなストーリーの『プリティ・プリンセス』を、国王でも王子でも執事でもない僕が観た感想。それは

 

プリプリ.jpg「僕も姫になりたい!」というものである。

 

 あ、ウソ。間違い。

 

 『プリティ・ウーマン』以来、まともなシンデレラ・ストーリーに飢えてる人は、これを観ろ!
というものである。

 

 1960年代の『マイ・フェア・レディ』を筆頭に、この手のシンデレラ・ストーリーは、言わば、焼き魚定食とか、鶏の唐揚げ定食みたいな、メニューにあったら、一人は必ず注文してしまう、定番中の定番である。

 

 しかし、その一方で、スタート直後はあんまりハッピーじゃなかった女の子が、エンディングではハッピーになってキレイになるという流れが決まっている物語だけに差別化が難しいし、こちらとしてもどれを観ればいいのかよく分からない。

 

 その辺を『プリティ・プリンセス』の制作陣も重々承知しており、かなり力を入れたことが容易にわかる。

 

プリチーな3人.jpg まず監督は『プリティ・ウーマン』を世に出したゲイリー・マーシャル。

 

 彼は『プリティ・ウーマン』以降、ラブ・ストーリーやロマコメなど、女の子をキュンとさせちゃう映画を撮ると、原題がどうあれ、邦題は「プリティ・ホニャララ」になるという、少し奇妙な十字架を背負った人である。(本人はどう思っているのだろう?)

 

 女王役にはジュリー・アンドリュースを配置。彼女はかつてミュージカル版『マイ・フェア・レディ』のイライザを演じて記録的ヒットをとばしただけでなく、ディズニー映画の代表作『メリー・ポピンズ』にも出演実績がある。シンデレラ・ストーリーとディズニーに縁があり、これ以上の適役はない。

 

 そして肝心のアン・ハサウェイは、『プリティ・ウーマン』時代のジュリア・ロバーツと甲乙つけがたいキュートさ。冒頭の「それは普通ないだろ!」と誰もがツッコみたくなるダサさはやや過剰なものの、見事、今作を大ヒットに導いたのである。

 

 さらに、シンデレラ・ストーリー的要素だけでなく、ミアの監視役に命じられた、ヘクター・エリゾンド演じるジョーと女王クラリスとの、淡い大人の恋模様もストーリーに織り込む心憎い演出もある。

 

 これによって、「アン・ハサウェイは若くていいわねえ・・・」とため息をつく世代のハートもしっかり掴むことに成功。まさにかゆいところに手が届く、至れり尽くせりな作りになっている。

 

 そうそう余談ですが、ここでいつもとは違ったシンデレラ・ストーリーも観てみたい!という方のために、ひとつご紹介しておきたい。

 

 その名は2004年公開の『プリティ・ガール』

 

 9月のザ・シネマでは、5日(土)に、『プリティ・プリンセス』を放送する直前枠にてこの作品も放送する。また24日(木)にも放送するが、その翌日には『プリティ・プリンセス』をオンエアする。ぜひ、セットでご覧いただきたい。

 

 訊かれる前に説明しておくと、「プリティ・ホニャララ」なタイトルがついているものの、ゲイリー・マーシャルはまったく関係ありません。


 で、内容はというと、いわば玉の輿バージョン。王室の生活から逃れるため、アメリカ留学にお忍びでやって来たデンマークの皇太子が、普通の大学生に心惹かれていく・・・というもの。


 シンデレラ・ストーリー好きの方は、『プリティ・プリンセス』とあわせてお試し頂きたい。

 

 さらに最後にもうひとつ。

 

 次なるシンデレラ・ストーリーの誕生時期について、気になる情報をご報告します!

 

 つい最近、ジュリア・ロバーツ、アン・ハサウェイの新旧シンデレラが共演する映画『Valentaine's Day(原題)』の製作が決定したという。もちろん監督はゲイリー・マーシャル。これは必見でしょう!

 

 そこで、この場を借りて配給会社の方にお願いしたい!

 

 『Valentaine's Day(原題)』を日本で公開するときは、ぜひ『プリティ・バレンタイン』みたいなタイトルをつけちゃってください!

 

 楽しみにしてます!

 

(映画ライター 奥田高大)

©Disney Enterprises Inc.

 「アラモの戦い」はアメリカ人が米国史を語る上で欠かせない出来事だという。それは、テキサス革命における激戦の一つだ。

 

 1835年に始まったテキサス革命とは、メキシコの一州(これが後のテキサス共和国となり、さらに後にアメリカ合衆国の一州となる)が、当時のメキシコのサンタ・アナ大統領による独裁体制下から独立を果たそうとして起こした戦争のことをさす。


 この革命には有名な2つの戦いがある。負け戦となった「アラモの戦い」と、「サンジャシントの戦い」と呼ばれる勝利戦だ。今回放送する『アラモ』では、タイトル通り、「アラモの戦い」の描写が映画全体の約8割を占めている。


 単純に考えれば勝利戦「サンジャシントの戦い」の方を描きそうなものだが、テキサス革命においては、この敗北がなければ独立できなかったという点で、「アラモの戦い」の方が象徴となっているのである。

 

 映画『アラモ』には、魅力的なリーダーが4人登場する。

 

 

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 ジム・ボウイは、有名な“ボウイナイフ”にその名を留めることになるほどの、ナイフの名手。情熱的で自由な心を持ち、優しい人柄も評判だった。

 

 

 

 

 

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 ウィリアム・トラヴィスは、中佐に就任したばかりの青年で、後に病にかかるボウイに代わり、軍の指揮を任される。短気で反抗心が強い性格ゆえ部下に疎まれるが、次第に立派な指揮官へと成長してゆく。

 

 


 

 

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 デイヴィ・クロケットは元下院議員。頭が良く、ボウイ同様に軍の仲間に頼りにされる存在。

 

 

 

 

 

 残念ながら彼らは「アラモの戦い」で戦死するが、それはある意味で当然のことだった。なぜならメキシコ軍1,600人に対してテキサス軍はわずか200人弱。誰が見ても劣勢な戦いに彼らは挑んだのだ。

 

ヒューストン.jpg

 

 

 そして、4人目のリーダーが、サム・ヒューストン将軍である。「サンジャシントの戦い」で、メキシコに比べて少ない兵力にもかかわらず、彼に率いられたテキサス軍は見事勝利をおさめることになるのだ。

 

 

 

 

 

 「アラモの戦い」がテキサス軍を奮い立たせたことは間違いない。それは独立をまさに勝ち取ろうとするとき、ヒューストン将軍が叫んだ「アラモを忘れるな!」という名ゼリフにも現れている。

 

 ちなみに現在のテキサス州ヒューストンの地名は、この一言で歴史上の人物となった彼の名に由来している。

 

 さて、この、映画にするには持って来いの歴史の一幕。最新作は2004年制作だが、1960年にも映画化されている。

 

デューク.jpg 1960年版『アラモ』で監督・製作を務め、さらには主役のクロケットを演じたのがジョン・ウェイン。西部劇を代表する大スターがいかに情熱をかけたかは、その熱演ぶりを観ればわかる。

 

 2004年版『アラモ』でビリー・ボブ・ソーントンが演じたクロケットは硬派だったが、ジョン・ウェインはそれよりも幾分か軟派な印象。笑顔も多く、パーティで喧嘩をふっかけられ、殴っても殴られてもニコニコしている。この、なんとも憎めないクロケットの人物像にスポットライトを当てているのも、旧『アラモ』の特徴のひとつだ。

 

 だけど私は、個人的には2004年ビリー・ボブ版クロケットも捨てがたい。冒頭からカッコイイ〜と見とれていたクロケットが、最後にもばっちりキメてくれるから。

 

 彼が戦死する間際のシーンが、とても印象的なのだ。

 

 サンタ・アナに捕らえられてしまい、命を奪われるのも時間の問題、というその時。格好良い彼が「覚えてろよ、コノヤロウ!」なんてダサい台詞を吐くはずもない。

 

「忘れるな。俺は...叫ぶ男だ」
「うぁぁぁぁぁーーーーーっ」クロケットが叫ぶ。

 

 命尽きる直前に「叫ぶ」なんて、予想もしなかった。

 

 暴力を振るうでもなく、黙っているわけでもなく、命尽きる前の叫びが、世界に響く瞬間。鳥肌が立つほど痺れた。

 

 あの数秒間が2004年版『アラモ』のベストシーンと言って過言ではない。

 

 そのシーンは見ていただくとして、男たちの「誇り」。それが、この新旧『アラモ』に共通した、一貫したテーマではないだろうか。

 

 『アラモ』の4人のリーダーたちを突き動かしたのは「誇り」にほかならない。

 私は、そこにはやはり、なんとも形容できない美しさがあると感じてしまう。
 
 メキシコで、アメリカ人(正確にはアメリカ系メキシコ人)が独裁者に弾圧されている。彼らの心にある、アメリカ人であることの「誇り」が、怒りに火をつけ、ある者はテキサスで蜂起し、またある者ははるばるアメリカ本国からはるかメキシコのアラモまで救援にやって来たのだ。

 私ごとながら、在日韓国人の私は、幼い頃から「自分の民族に誇りを持ちなさい」と言われ続けて育った。しかし、ほぼ訪れたことのない土地や、ルーツや、文化を誇りに思えだなんて、いまだに妙だとしか思えない。


 むしろ日本の素晴らしいところの方が詳しく話せる自信がある。特に日本文化への愛着は、無意識に染みついているものだ。


 でも、それを誇るって、難しい。
 
 これを読む皆さんが「これが私の誇り」と言えることは、何だろう? 仕事や家族などさまざまな「誇り」があると思う。
 
 私の「誇り」のひとつは友達だ。とことんマイペースな私をいつも慕ってくれる友人達は、誇りであり、大切なものだ。
 
 だけど、国や民族を「誇り」に思える何かは、まだ見つからない。籍がどうこうじゃなく、韓国にせよ、日本にせよ、私が国だとか民族だとかに「誇り」を持てるようになるには、しばらく時間がかかりそうだ。
 
 

(ライター 韓 奈侑)

『アラモ(1960)』© 1960 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC. ALL RIGHTS RESERVED

『アラモ(2004)』© Touchstone Pictures. All rights reserved


 30超えた男が言うのもなんだけど、僕は高い所とホラー映画が苦手だ。

 

 この意見に同意してくれる人はきっと少なくないはずだが、高いところも、ホラー映画もどうしてワザワザ体験したいのかがよく分からない。

 

 百歩譲って、高いところはまだ理解できる。気持ちいいとか景色が良いとか。

 

 でもホラー映画好きは? 単純に恐いのが好きってことなんだろうか? 少しでもその性質を理解すべくあれこれ調べていると、灯台もと暗し。思わぬところにヒントがあった。アイドルとホラー映画について書かせたら右に出る者はいない、編成部・飯森さんのブログである。

 

 ワタクシどもホラー映画好きなんてのは因果なモンでして、まぁ、たとえて言や、辛いもの好きと似たようなもんです。もう、味覚が狂っちゃってますから。普通の人ならカネくれても食いたくないような、体に毒ってなぐらい真っ赤な色した罰ゲーム級刺激物を、喜んで「美味い美味い」と食う、変な人たちなワケですわ。

 

 なるほど。やっぱりホラー映画好きは変な人らしい。

 

 マッサージでよく言う「痛気持ちいい」とか、平城遷都1300年記念事業の公式マスコットキャラクター"せんとくん"に使われる「キモカワイイ」みたいなものだろうか? でも「恐いもの見たさ」という言葉もあるぐらいだから、「恐けりゃ恐いほど満足」する性質ってことなんだろう。完全なMである。

 

 ともかく。普段はホラー映画をほとんど観ない僕が、このたび恐れ多くもホラー映画二本立てにチャレンジすることになった。

 

 今回、当チャンネルで放送する『悪魔の棲む家』は1978年に出版された『アミティヴィルの恐怖』というノンフィクション(?)を映画化した作品なのだが、この本はニューヨーク州で実際に起こった出来事を基にしたという触れ込みで、当時はかなり売れたらしい。

 

 映画は1979年に製作されたいわゆるオリジナル版と、2005年のリメイク版の二作品がとくに有名だが、実はリメイク版が製作されるまでに、6本も続編が作られているようなので、相当コアなファンがいるようだ。

 

 でもまあ、それもそのはず。

 

 1973年公開の『エクソシスト』以降、映画界は空前のホラー・オカルト映画ブームを迎えることになり、『オーメン』『悪魔のいけにえ』をはじめ、70年代には良質なホラー映画が雨後の竹の子のごとく登場した。『悪魔の棲む家』もまさにその一角。

 

 ホラー映画黎明期とでも言うべき時代に作られた、ホラー映画史を語る上で欠かせない金字塔である!

 

 と、色んな資料にある。(すみません、なんせホラー映画、苦手なモンですから)

 

 二作品を比較すると、ストーリーはオリジナル版リメイク版ともにほぼ同じ。

 

1979.jpg 湖畔に建つ瀟洒な家で、長男が家族を惨殺する事件が起きる。

 

 そして数年後。

 

 いわくつきの家に、結婚したばかりのラッツ一家が引っ越してくる。彼らは子連れの奥さんと、新しいお父さんからなる一家なのだが、過去の惨事を知りつつ、お値打ちな価格に負けて家を購入したことから、予想もしない悲劇に襲われてしまうのである。

 

 さて、この『悪魔の棲む家』オリジナル版リメイク版のもっとも大きな違いは何だと思います? このヒントも前述したブログ「異説!珍説!! 『ダーク・ウォーター』カラムーチョ仮説とは!?」にあるのですが、読んでいない方のためにはしょって説明すると、ホラー映画において、幽霊の顔や姿が見えるか否かはヒジョーに重要なポイントで、それらがハッキリ見えちゃうと、かえって恐くないという理論があるらしい。

 

 僕はホラー映画をあまり見ないので、そのときは「ふーん、そうなんだ」とテキトーに読み飛ばしたのだが、『悪魔の棲む家』を続けて見て、図らずもその理論を体験することになった。

 

 つまり、『悪魔の棲む家』オリジナル版リメイク版のもっとも大きな違いは、幽霊が見えるかどうか、にあるのだ。

 


2005.jpg 二作品共通の恐怖ポイントに、ラッツ一家の末娘、チェルシーだけに見えるジョディという幽霊の存在がある。ジョディは、例の事件で被害にあった女の子のことで、オリジナル版では誰も座っていないはずのロッキングチェアが揺れたり、ドアが突然開いたりと、割とオーソドックスな形でその存在を観客に伝えるのだが、リメイク版では弾丸の痕が痛々しい、いわば惨殺されたて(?)の姿で登場。これは恐い。

 

 幽霊は見えないほうが恐いのだ!という理論を否定するワケじゃないけど、『悪魔の棲む家』に限って言えば、僕はリメイク版、つまり幽霊が見えるほうが恐かった。

 

 映画全体としても、リメイク版のほうが話がすっきりとしていて、映像のテンポもいい。でもオリジナル版がつまらないかというと、そうじゃない。

 

 ホラー映画史に名を刻む傑作だけに、派手さはないが着実に恐怖を煽ってくる、まさに正当派ホラーという印象。

 

 どちらも僕のようなホラー映画初心者にとっては、かなりいい入門編となった。しかも、二作品を比較して観ることで、思わぬ発見もあった。

 

 それは『悪魔の棲む家』を見比べることで、自分は幽霊が見えるほうが恐いのか、はたまた見えないほうが恐いのかを、リトマス紙的に調べることができたのである。これを知っておけば、今後の人生に大きな影響を与える・・・ほどではないにせよ、少なくともホラー映画鑑賞の際の有力な情報にはなる。

 

 たとえば映画館で、「これは(幽霊の)顔出しアリだから恐くなさそう。じゃあ今日は違うやつにしよう」といった具合に、その日の気分にあわせて、間違いのない作品選びができるわけだ。(←ホントか!?)『シャイニング』を観たときも、僕は双子の女の子の幽霊が出てきたときが一番恐かったのを鑑みると、どうやら僕は顔出しNGのようだ。

 

 そんなわけで、ホラー映画のリトマス紙として観るも良し、ホラー映画初心者が入門編として観るのも良しな『悪魔の棲む家』。もちろん、これをきっかけにホラー映画好きになれば、これまで知らなかった新しい世界が広がります。

 

 マニアも、初心者もぜひ一度おためし下さい。

 

『悪魔の棲む家(1979)』©1979 ORION PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.

『悪魔の棲む家(2005)』©2005 UNITED ARTISTS PICTURES INC. ALL RIGHTS RESERVED.

(映画ライター 奥田高大)

 大人になって良いことなんてほとんどないけれど、大人になって子供の頃の"良いこと"に気づくことは多い。たとえば夏休み。

 

 大人になった途端、悲しいかな"夏休み"は親友レベルから、一気に冠婚葬祭のときにしか顔をあわせない、疎遠な親戚レベルの存在へと変貌する。

(土産を持った帰省やら、普段できない掃除やら、家族サービスやらに費やされる一週間程度の休みは本当の夏休みとは呼べない)

 

 『ウォルター少年と、夏の休日』はタイトルが示すとおり、少年が体験した夏の出来事を描いた作品である。けれど、今作は夏休みを満喫する少年・少女よりもむしろ、休みなんてずいぶんとってないよと嘆く大人たちに観ていただきたい。

 

 今作の原題は"SECONDHAND LIONS"という。SECONDHANDとは、"中古の"とか"古びた"といった意味なので、トシ食ったライオンたち、というような意味になる。

 

 邦題にケチをつける気はさらさらないのだけど、『ウォルター少年と、夏の休日』という邦題から受ける、極めて健康的・青少年的イメージ(売り方とも言い換えられるが)も間違いではないけれど、それよりも原題のほうがより中身を正しく示唆している。

 

ウォルター少年と、夏の休日.jpg トシ食ったライオンたちとは、ロバート・デュヴァルとマイケル・ケインがそれぞれ演じるハブとガース、二人のジイさんたちである。


 彼らがなぜトシ食ったライオンなのかは、映画を観ていただくこととして、父のいないハーレイ・ジョエル・オスメントがこの二人が暮らす家に預けられ、ひと夏を過ごすのだが、今作の主役はハーレイではなく、なんと言ってもハリウッドを代表する名優二人が演じるジイさんである。

 

 ハブとガースは無免許で飛行機を乗りこなしたり、バーで若者達ととっくみあいの喧嘩をしたり(もちろん圧勝する)、二人には過去に莫大な金を手に入れたという噂があり、そのためにひっきりなしにセールスマンが訪れるのだが、二人は彼らを銃で追い払ったりしてしまう、元気きわまりないジイさんなのである。

 

 しかしこれだけなら、ただの格好いいジイさんの話になるのだが、彼らがより魅力的に映るのは、二人は若かった頃の時間がけして戻ってこないことをよく知っていることにある。

 二人は過去におとぎ話のようなファンタジックな体験をしていて、心の底では今も冒険を追い求めているのだけど、それは若い頃だけに許された特別な時間だったことをハブとガースはきちんと知っている。ただ、そうは言ってもそれを素直に認めたくない自分もいる。そのあたりの微妙な男ゴコロを、ロバート・デュヴァルとマイケル・ケインは、絶妙な演技で観る人に伝えてくれるのである。

 

 昔、自分が夏休みに何をしていたかなんてほとんど思い出せないけれど、それでも、"夏休み"という言葉が持つイノセントでキラキラした、買ったばかり白いTシャツみたいな感じは憶えている。そこには、大人になった僕らには、二度と手にすることのできない時間があり匂いがある。夏休みって言ったって、何もやることないなあと思いながら過ぎていった贅沢な時間がある。

 

 ハブとガースは、ウォルターという一人の少年を通じてそれらを改めて思い出す。

 昔、自分たちが過ごした懐かしい時間や空気、匂いと、少年がこれから過ごすであろう日々を思いながら。

 

 『ウォルター少年と、夏の休日』を見た後、久しぶりに山下達郎の「さよなら夏の日」を聴いてみた。そうしてふと、少年時代は人生の夏休みなのカモとセンチメンタル(←死語×2)に浸った男でした。

 

TM and©MMIII NEW LINE PRODUCTIONS,INC.©MMIV NEW LINE HOME ENTERTAINMENT,INC.ALL RIGHTS RESERVED.

(映画ライター 奥田高大)

シャーロット.jpg 私、大きな勘違いをしてました・・・。

 

 『シャーロットのおくりもの』の “シャーロット”は少女もしくはブタの名前で、ダコタ・ファニング演じるシャーロットがブタに奇跡を起こしたとか、ブタのシャーロットが内気なダコタを変えたとか、いかにもファミリー映画っぽい物語を想像していたんです。

 

 ところがそれは全くの見当違い。ブタでも少女でもないシャーロットの正体に、良い意味で裏切られてしまったのです。

 

 シャーロットは、クモです。

 

 さらに、本作は少女とブタの愛情物語でも、牧場世界のハートウォーミング(←最近、使わない?)ムービーでもあまりせん。

 

 この作品は、クモのシャーロットが起こす、奇跡の物語なのです。

 

 子供よりも大人、とくに妊娠中とか子育て中の方にこそ薦めたい、一種の自然科学チャンネルを観ているかのような、生命について考えるきっかけをくれる映画です。

 

 ブタが登場する映画と聞いて『ベイブ』シリーズを思い浮かべてしまった私は、「しゃべるブタ=のどかな牧場映画」という物語を安易に想像してしまったのですが、とんでもない。

 

 『シャーロットのおくりもの』に登場する雄ブタ、ウィルバーが預けられた牧場に生きる動物たちは、いずれ殺されて人間に食べられる運命。毎日を楽しむ方法を探そうともしていない、のどかとは掛け離れた様子。そんな状況なので、本作に登場する動物たちはシリアスなトークを繰り広げます。

 

牛「体が大きくなったところで、どうせ奴(人間)は僕らを食べるんだよ」

 

 やら、牧場にある不気味な建物を指しながら、

 

馬「あそこに君も連れてかれるよ。そしてこの世とはおさらばさ…」

 

 みたいな言葉でウィルバーを脅したりと、非常に暗いのです。

 

 そんな暗~い牧場の入り口に垂れ下がる一匹の雌グモが、シャーロット。

 

「誰かの食事のために殺されるなんて真っ平だ!」と愚痴を言うばかりの動物たちは、シャーロットに「見醜い」「平気で虫を食べるなんて」と毎日のように悪口を浴びせるものの、シャーロットはとても利口で、弱肉強食の世界を深く理解している。

 

 生きる為に虫を食すことを厭わない代わりに、「いただきます」「ごちそうさま」の言葉を欠かさないなど、牧場で暮らす動物たちよりもオトナです。

 

 そんな嫌われ者のシャーロットを、ウィルバーが美しいと褒めたことがきっかけで、二人(?)はかけがえのない友達になります。

 

 牧場の動物たちは、口を揃えて「自分たちが食べるために僕らを育てるなんて、人間は勝手だ!」と言います。たしかにその通りよね、と人間である私も彼らの意見には激しく同意するのですが、シャーロットはそんなヒトのエゴとも言えそうな行為でさえ、生き物が子孫を残すためには仕方ないと達観しているのです。シャーロットは偉いなあ。

 

 でもそんなシャーロットでも「ウィルバーが食べられるのは嫌」と、彼を助けるためにある方法を思いつきます。

 

 いくら仕方ないとは言っても、大切な人(?)が食べられるのは阻止したいと健気に想う様子が、人情(??)に溢れていて感動的なのです!

 

 シャーロットは自分より何百倍も大きなブタを救うため、クモだからこその表現方法で、その健気な気持ちを人間に伝えます。

 

 どのようにしてウィルバーを救うのかは、観てのお楽しみ。

 

 ところで、素敵なクモ、シャーロットの声を担当しているのはジュリア・ロバーツ。普段から口が大きいことをからかわれがちな彼女が『シャーロットのおくりもの』で担当したのは、登場生物の中で一番口の小さいクモでした…という冗談はさておき、そんな小さなクモの口から存在感ある彼女のセクシーボイスが囁かれることで、シャーロットが話す一語一句がより強く心に響きます。

 

「食事ができることに感謝しなさい」「いただきます、言った?」と、実家の母のようにお説教をしてくれるシャーロット。私たちは生命を食べるから生きていて、それでこそ生命が連続していくことを『シャーロットのおくりもの』は教えてくれるのです。

 

COPYRIGHT © 2009 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.

(ライター 韓 奈侑)

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