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文:なかざわ ひでゆき(映画&海外ドラマ・ライター


 ‘70年代オカルト映画ブームの起爆剤となったのが『エクソシスト』(’73)、ブームの頂点を極めたのが『オーメン』(’76)だったとすると、そのトリを飾ったのが『悪魔の棲む家』(’79)だったと言えるかもしれない。『エクソシスト』同様にアメリカで実際に起きた悪霊事件の映画化。ジェイ・アンソンが執筆した原作ノンフィクション『アミティヴィルの恐怖』は全米ベストセラーとなり、日本でも翻訳出版されて、それなりに話題を呼んでいたことを、当時小学生だった筆者も記憶している。いわば鳴り物入りの映画化であって、全米興行収入ナンバー・ワンの大ヒットもある程度は想定の範囲内だったに違いない。とはいえ、その後40年近くに渡って、非公式を含む続編やリメイクが延々と作られ続けることは誰も予想しなかっただろう。しかもその数、現在までに合計で18本!『エクソシスト』関連作が6本、『オーメン』関連作が5本であることを考えると、他よりもケタ違いに多いのである。


 なぜそこまで、『悪魔の棲む家』シリーズに人々は惹かれるのか。まずはそこを振り返ることから始めた上で、その原点である’79年版の見どころを解説していきたい。


 ことの発端は1974年11月13日。ニューヨーク州ロングアイランドの閑静な町アミティヴィルで、一家6人が射殺されるという惨劇が発生する。犯人は一家の23歳になる長男ロナルド・デフェオ。当初はマフィアの犯行を主張していた(実際、デフェオ家はマフィアに関りがあったとされる)ロナルドだったが、警察に証言の矛盾点を指摘されたことから、自分が両親と4人の弟や妹をショットガンで殺害したことを認めたのである。


 それから1年余り経った1975年12月19日、惨劇のあったアミティヴィルの家にラッツ一家が移り住んでくる。ジョージ・ラッツと妻キャシー、そしてキャシーの連れ子3人だ。夫婦はいわくつきの物件であることを承知した上で、8万ドルという破格の安さに惹かれて家を買ったのだが、しかし彼らが引越しをして以来、家では様々な怪現象が発生したという。それは日に日に深刻となっていき、移り住んでから28日後の1976年1月14日、ラッツ一家は着の身着のままでアミティヴィルの家を逃げ出す。以上が、事件の大まかなあらましである。


 ラッツ一家にとっては、これで一件落着したかに思えた悪霊騒動。しかしその後、マスコミや霊能者、心霊学者など大勢の人間が彼らの周りに寄って集まり、怪現象の真偽を巡って全米が注目する一大論争へと発展してしまうのである。


 もともと世間に公表するつもりなどなかったというラッツ夫妻。だが、ある人物によって記者会見を無理強いされたと生前のインタビュー(夫婦共に故人)で主張している。それが、ロナルド・デフェオの弁護士ウィリアム・ウェバーだ。夫婦から相談を受けていたウェバーは、どうやらラッツ夫妻を自らの売名行為に利用しようとしたらしい。当時デフェオ事件の回顧録を執筆していたというウェバーは、一家の体験を自著に盛り込もうと提案したそうなのだが、夫婦はこれを断ったらしい。だからなのか、ジェイ・アンソンの著書がベストセラーになると、ウェバーはその内容を自分がラッツ夫妻に入れ知恵した創作だと雑誌「ピープル」で告白し、そもそも一連の悪霊騒動は家を購入した時点から夫婦が計画していた金儲けのペテンだとまで証言している。もちろん、どちらの主張が正しいのかは分からない。


 さらにことをややこしくしたのが、超常現象研究家でヴァンパイア研究家を自称するスティーブン・キャプランだ。当時ラジオにたびたび出演して知名度のあったキャプランは、ラッツ夫妻から屋敷の調査を依頼されたという。しかし、その結果を世間に公表すると断ったところ、ためらった夫妻が調査依頼を撤回したことから、キャプランは悪霊騒動がインチキであると考え、それ以降テレビや雑誌、自著などでラッツ夫妻を激しく非難するようになる。これまた双方の主張に食い違いがあるのだが、いずれにせよキャプランによるラッツ夫妻への批判活動が、悪霊騒動に世間の注目を集める要因の一つになったと言えよう。


 一方、ラッツ夫妻の主張を支持する人々も現れる。その筆頭が、映画『死霊館』シリーズのモデルとなったことでも有名な霊能者ウォーレン夫妻だ。そのあらましは『死霊館 エンフィールド事件』の冒頭でも描かれているが、彼らはテレビ局やラジオ局の取材クルーなどと共に屋敷を調査し、凶悪な悪霊が家に取り憑いていると証言している。また、テレビの心霊番組ホストとしても知られる超心理学者ハンス・ホルザーも、霊能者エセル・マイヤーズと共に屋敷を調査しており、ロナルド・デフェオは土地に取り憑いた先住民の幽霊に憑依されて一家惨殺の凶行に及んだと主張している。ただし、彼の場合は弁護士ウィリアム・ウェバーの依頼で調査を行ったという事実を留意しておくべきだろう。つまり、ロナルド・デフェオ裁判の不服申し立ての根拠として利用されようとした可能性があるのだ。


 このようなメディアを巻き込んだ論争の最中、1977年に出版されたのが『アミティヴィルの恐怖』。出版社から推薦されたノンフィクション作家ジェイ・アンソンに執筆を任せたラッツ夫妻は、自分たちの主張を一冊の本にまとめることで、一連の騒動や論争に終止符を打つつもりだったのかもしれない。これが真実なのだと。とはいえ、ラッツ夫妻を含む関係者の全員に、何らかの売名的な意図が垣間見えることも否めない。まあ、ラッツ夫妻やウォーレン夫妻らの主張を完全に否定するわけではないが、しかし疑いの余地があることもまた確かだ。同じことは反対側の人々に対しても言えるだろう。結局のところ真相は闇の中。そうした周辺のゴタゴタ騒ぎや、土地にまつわる虚実入り乱れた伝説と噂、実際に起きた血なまぐさい一家惨殺事件の衝撃が混然一体となって、「アミティヴィル事件」に単なる悪霊騒動以上の興味と関心を惹きつけることになったように思える。それこそが、今なお根強い『悪魔の棲む家』人気の一因になっているのではないだろうか。


 で、そのノンフィクション本『アミティヴィルの恐怖』を映画化した’79年版『悪魔の棲む家』。これは劇場公開時から指摘されていることだが、ドキュメンタリー的なリアリズムを重視するあまり、とても地味な映画に仕上がっていることは否めないだろう。あくまでも娯楽映画なので、いくらでも派手な脚色や誇張を加えることはできたはずだ。しかしそうしなかったのは、やはり『暴力脱獄』(’67)や『マシンガン・パニック』(’73)、『ブルベイカー』(’80)などの、骨太なアクション映画や社会派映画で鳴らした名匠スチュアート・ローゼンバーグ監督ならではのこだわりなのだろう。ゆえに、『エクソシスト』や『オーメン』のショッキングな恐怖シーンを見慣れた当時の観客が、少なからず物足りなさを覚えたことは想像に難くない。劇場公開時にはまだ小学生で、なおかつソ連在住という特殊な環境にあったため、物理的に見ることのできなかった筆者などは、いわゆるスプラッター映画全盛期の’80年代半ばに名画座で初めて本作を見たので、なおさらのことガッカリ感は強かったと記憶している。


悪魔の棲む家01.jpg ところが、である。それからだいぶ経って久しぶりにちゃんと見直したところ、意外にもガラリと大きく印象が変わった。要は、古典的な「お化け屋敷」映画として、非常に完成度の高い作品なのだ。中でも、悪魔に魅入られた父親が徐々に狂っていく過程は、下手に悪魔やモンスターがバンバン飛びだしてくるよりも、よっぽど観客の精神的な不安感や恐怖感を盛り上げて秀逸。まるで目のような窓が2つ付いた家の不気味な外観もインパクト強いし、ハエのクロースアップなどの何気ない描写の積み重ねがまた、地味ながらも確実に不快感を煽る。確かに派手な特殊メイクやSFXは皆無に等しいものの、全編に漂う禍々しい雰囲気は捨てがたい。それこそ、『呪いの家』(’44)や『たたり』(’63)の系譜に属する正統派のゴーストストーリーだと言えよう。


 なお、限りなくラッツ夫妻の主張する「事実」に沿った本作だが、しかしそれでも一部にドラマチックな変更はなされている。その代表例が、ロッド・スタイガー演じるデラニー神父のエピソードであろう。モデルとなった神父は、お払いの際に悪魔のものらしき声を聞いただけで、ハエの大群やポルターガイスト現象に襲われたという事実などはないし、ましてや後に失明してしまったわけでもない。あくまでも脚色だ。ちなみに、なぜハエの大群なのかというと、新約聖書に出てくる悪魔ベルゼブブがヘブライ語で「ハエの王」を意味するから。キリスト教に疎い日本人にはちょっと分かりづらいかもしれない。


 先述したように、その後も延々と続編が作られて長寿シリーズ化した『悪魔の棲む家』。個人的には、デフェオ一家惨殺事件をモデルにした『悪魔の棲む家PART2』(’82)も、イタリア映画界の革命世代を代表するダミアノ・ダミアーニ監督らしい「反カトリック教会」精神が貫かれていて、とても興味深く感じる作品だった。また、本作とは真逆のアプローチで、派手な残酷描写やショックシーンをふんだんに盛り込んだ、リメイク版『悪魔の棲む家』(’05)も、本作と見比べると非常に面白い。昨年全米公開されたばかりのシリーズ最新作『Amityville: The Awakening』は、なんとジェニファー・ジェイソン・リーとベラ・ソーンの主演。日本での劇場公開に期待したいところだが、ん~、やっぱりビデオスルーになるのかなあ…。

【放送日時】

2018年02月11日(日) 07:45 - 10:00

2018年02月21日(水) 13:00 - 15:15


なかざわ ひでゆき
映画&海外ドラマ・ライター。雑誌「スカパー!TVガイド BS+CS」で15年近くに渡ってコラム「映画女優LOVE」を連載するほか、数多くの雑誌やウェブ情報サイトなどでコラムや批評、ニュース記事を執筆。主な著作は。「ホラー映画クロニクル」(扶桑社刊)、「アメリカンTVドラマ50年」(共同通信社刊)など。ハリウッドをはじめとする海外の撮影現場へも頻繁に足を運んでいる。

8月ザ・シネマで放送する『人生はビギナーズ』。

監督のマイク・ミルズに関して知りたければ、ライター、イラストレーターのaggiiiiiiiさんによる、このコラムをぜひ読んで欲しい。


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マイク・ミルズの長編2作目となる『人生はビギナーズ』は、彼の半生をもとにしたユニークな物語である。若い人たちにはなじみがないかもしれないけれど、 もともとマイクは90年代にビースティ・ボーイズやソニック・ユースのアートワークを手がけ、ユースカルチャーの重鎮として活躍したグラフィックデザイナー。主人公のオリヴァー(ユアン・マクレガー)の職業もグラフィックデザイナーであり、作中のオリヴァーによるドローイングはマイク自身が手がけている。75歳の父親からゲイだとカミングアウトされたのは、老いた母親をがんで亡くした半年後のことだ。


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オリヴァーは父親の告白を受けて、当然だが動揺する。なのに当の父親はといえば、生まれ変わったようにうきうきとして楽しそうだ。さらにオリヴァーの心をゆさぶったのは、母親は結婚する前からその事実を知っていたらしいということだった。ユダヤ人であった母親は、すねに傷持つもの同士と思ったかどうだか、高校の同級生であったゲイの男と結婚した。いまではずいぶん時代も前進しているが(現アメリカ政権になってそうとも言えない状況になったけれど)、マイクの両親が結婚した1950年代には、まだユダヤ人に対しても同性愛者に対しても、あきらかな差別が存在していた。同性愛は法律で禁止さえされていたのだ。


合意の上で結婚したわけだけれど、マイクの母親は、自分のことをまるで気にかけない夫が本当は不満だったのにちがいない。マイクいわく、父親はめったに家におらず、家族とほとんどかかわりを持たなかった。映画の中で母親は「生まれ変わったら、もっと心のあるユダヤ人と結婚する。お父さんには心がないから」と、幼いオリヴァーにこぼしている。(余談だけれどこの母親、じつは髪型やエキセントリックな仕草が、マイクの妻である人気アーティストのミランダ・ジュライにそっくりなのである。えーと、それではオリヴァーの恋人になるアナ(メラニー・ロラン)がミランダとは似ても似つかない理由は……? 答えは簡単、マイクがこの脚本を書いていた2004年当時に、まだ二人は出会っていなかったからだ。彼らの出会いは、マイクが『サムサッカー』、ミランダが『君とボクの虹色の世界』というそれぞれのデビュー作をお披露目した、翌年のサンダンス映画祭まで待たなくてはならない。)


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ところで、めったに家にいなかったというマイクの父親は、いったいどこで何をしていたんだろう? そこでその人物、ポール・ミルズ氏について調べていくと、だんだんとおもしろいことがわかってきた。彼はサンタバーバラ美術館の館長を’70年から’82年までの12年間つとめており(これはマイクの4歳から16歳までの時期にあたる)、アメリカ美術のコレクターとして、現在も美術館を代表する主要作品の収集に奔走していたようだ。スペインやメキシコへの出張も多く、いそがしい人であったということはまちがいなさそうだ。サンタバーバラには虹をモチーフとした有名な巨大パブリックアートがあるのだが、これもマイク父の尽力によってできたものである。そしてもうひとつ。彼は、フラッグ(旗)に異常ともとれる愛情を注いでいたことでも知られている。いまでもサンタバーバラを訪れると、防波堤にならぶ色とりどりの旗を目にすることができるだろう。氏の旗に対する情熱は、映画では花火に置き換えられて表現されている。


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さあて、映画の話にもどらなくちゃ。グラフィックデザイナーであったマイクがペンをカメラに持ち替えて、自分には無縁だと思っていた長編映画に取りかかることになったのは、母親の死のショックがきっかけだったという。父親もまた、妻の死がスイッチとなり、残りの短い人生をほんとうの自分らしく生きる勇気を得たのかもしれない。だれかが死んだりなんかしなくても、もっと自分の思うように生きていいはずなのに、わたしたちはふだんそのことを忘れてしまっている。若い男を求め、素直な恋をし、初々しいよろこびを見せる魅力的なハル(クリストファー・プラマー/アカデミー賞助演男優賞受賞)よ! その姿を見ていると、複雑な思いを抱えながらもオリヴァーが父親を応援したくなった気持ちはよくわかる。


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近くにいるからといって、ぼくたちはその人のことをよく知っているわけではないんだ。というのは、昔なにかのインタビューでマイクが話していたことだ。本作で晩年の父親をあたたかく見つめた彼は、最新作『20センチュリー・ウーマン』で、今度は、自分をひとりで育ててくれたハンフリー・ボガートのような母親を描くことに挑戦している。マイクにとって映画とは、自分や身近な人をとことん掘り下げて理解するための手段なのかもしれない。そして父親、母親、ときたら、その次のテーマはもしかして妻のミランダなのでは?とつい期待してしまうが、それはいつか発表されるときまで、楽しみに待つことにしよう。

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aggiiiiiii(アギー)
ジン『KAZAK』編集・発行人。独自にガールズカルチャーを追いつづけ、「VOGUE GIRL」「GINZA」「ELLE JAPON」「ハーパーズバザー」などに文章をよせる。「ザ・シネマ」では「本当は面白い!アメリカンコメディ」特集にて俳優の似顔絵を担当中。プライベートでは母ちゃんになりました。「GINZA」のウェブサイトにて、ただいま「わたし産みましたわ」を連載中です。http://www.kazakmagazine.blogspot.jp
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beginners_key.jpg人生はビギナーズ

<8月放送日>

2017年08月03日(木) 13:00 - 15:00

2017年08月08日(火) 06:00 - 08:15

2017年08月23日(水) 18:45 - 21:00

詳しくはこちら。


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(文/ザ・シネマ飯森盛良)


 さあ第2部【ネタバレ編】に突入ですが、その前に。出し抜けに第2部って何!?という人もいるでしょうからご説明を。この『動物と子供たちの詩』はまごうかたなき傑作!ただしネタバレで台無しになるタイプの映画です。そこで、1部2部とご紹介しようと。未見の方に向けて第1部【ネタバレ前まで編】を、ワタクシが連載を持たせていただいております「ふきカエル大作戦!!」さんのコラムに寄稿しました。コチラです。

 なので本編未見の方は、まずはそちらをお読みください。逆にここは絶対読まないで!それと営業妨害するつもりはないのですが、各有名映画データベースサイトなどでの本作の情報は、「ブルース・ウィリスは死んでた」級の致命的ネタバレをしまくってますので、検索する際はご注意ください。

 では、以下、第2部【ネタバレ編】です。すでに映画を見た人に向けて、ネタバレ全開のことを書きます。映画を見た後でさらに追加で知っとくべき情報なんてあるの!? もう十分だろ!とならないよう、映画を見ただけではわからない情報も書こうと思います。第1部に引き続いてお付き合いください。

 おっとその前に一つ余談が。視聴者さんがツイッター上で「三原順の漫画『はみだしっ子』にもつながった映画」とつぶやかれていました。ワタクシは無知でその作品については知りませんが、知ってる人には価値ある情報かと思われますので、ここに勝手ながら一文コピペだけさせていただきます。


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■第2部【ネタバレ編】

 さあ、ついに2晩目、目的地にたどり着きました。牧場のような場所で、フェンスがあります。その内側に侵入してそこでコケた過保護虚弱夜尿症少年の手に、血がベットリ着く。「バッファローの血だ…」とつぶやきます。

 そこで回想シーン。彼らが、例の「銃は友達」トラッシュ指導員の車で、キャンプ場を出て遊びに行った数日前の昼間に話はさかのぼります。指導員は主人公チームのバンガローの担当なのです。着いたところはフェスティバル会場。「本物のバッファローが目の前で見られるんだぞぉ」と指導員は得意げに言います。みんな遠足ノリで浮かれ気分です。

 しかし!そこで想定外の大虐殺が始まりショックを受ける。フェンスに閉じ込めたバッファローの群れを、全米ライフル協会みたいな人たちが猟銃で撃ち殺しまくるという、それは殺戮フェスだったのです!弱者の痛みを知る6人組はそんな光景見たくない。しかし指導員はニタニタしながら殺戮を見物していて、あろうことか、というか案の定、My猟銃をおもむろに取り出し、嬉々として大虐殺に加わります。

 これは一体何イベントなのか?原作小説の方に詳しい説明が載っていますので引用しましょう。

「彼ら若い見学者たちがたまたまやって来たその日は、アリゾナ州狩猟局が管理主催する年三回の《ハント》の二日目だった。一世紀前、アメリカ西部には六千万頭の野牛がさまよっていたが、現在は二、三千頭しか生きのこっていなかった、そしてそれは保護されるために少数の群れにして特定の場所に集められ、いろいろな州あるいは連邦政府によって管理されていた。そして、野牛の頭数の自然増加と、彼らの特殊な生息環境に適したその限定された地域とのあいだに、ある科学的な比率を維持していくため、各群れとも定期的に《間引き》というか《採集》する必要があった。アリゾナ州にはふた群れが保護されていて、他の一群はグランド・キャニオンの北部、カイバブで保護されていた。そしてこのフラッグスタッフに近い保護地区においては一年おきにだいたい百五十頭から二百五十頭の、健康で子ウシを生む雌ウシとじゅうぶん発育した雄ウシを減らしていた。その夏には一日三十頭の割合で三日間、つまり合計九十頭がアリゾナの狩猟愛好家たちによって《採集》されることになっていた。」

グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社.


 あくまでワタクシ個人の意見ですが、頭数管理の必要性は理解できる。ハンティングというスポーツだって否定はしない。肉も普通に喰いますし、あとプロの屠畜業者さんには常日頃から勤労感謝の念しかない。しかし、柵に閉じ込めて(もはやハンティングじゃねー)、それをシロウトがお祭り騒ぎの遊び半分で、アメリカン愛国的ブラスバンド曲をBGMでガンガンにかけながら、ビールぐびぐび射殺しまくる、とは何事か!そして、そこに一片の憐れみも無し、という底抜けの無神経さには、さすがにドン引きしますわな!

「お祭り気分がもりあがってきた。狩猟はたちまちにして学校のピクニック、伝道集会、市民バーベキュー大会、愛国的儀式、そして虐殺のカーニバルと化した。視覚、聴覚、嗅覚、それに人間的品位は打ち負かされた。澄みきった空気は銃声とそのこだまでずたずたに引き裂かれ、火薬のためにしだいによごれてきた。勝利のホーン(ザ・シネマ注:車のクラクションのこと)がぷうぷう鳴りわたった。カー・ラジオが音楽とコマーシャルをがなりたてた。ビールの記念碑が建てられた。子供たちが薬莢を拾い集めるためにとびまわった。電気のこぎりがごりごり骨を切り、皮はぎ小屋の床に鮮血が流れた。」

グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社.


 しかも、この映画では望遠ロングショットの実際の記録映像を使うことでグロさをまだ抑えていますが、原作小説を読むと、実態は阿鼻叫喚の地獄絵図のよう。


「三十頭の野牛を殺すには六時間から七時間を要した。そのような近距離からならば、屠殺業者が畜牛をやっつけるように、耳にただ一発撃ちこむだけで瞬間的に、また人間的にそれらの野牛を殺すことができるはずであったが、しかし、老若男女を問わず、あるいは腕ききの射手、アマチュアの狩猟家を問わず、彼らアメリカ人には、彼らがあらゆる動物の中で最もアメリカ的なものに照準を定めたとたん、なにかしら不思議なことがおこるのだった。百ヤード足らずの距離から巨大な静止した標的めがけ、3030.6口径、あるいは3033口径といった強力な銃で撃ちながら、心理的さもなくば肉体的にどういうことになるのか、いずれにしても彼らはうまく撃ち殺すことができないのだった。

 彼らは腹を撃った。

 彼らは頭の角を吹きとばした。

 彼らは目を見えなくさせた。

 彼らはあと脚の膝やけづめのところを粉砕して、脚を不自由にさせた。

 彼らは急所を射当てるまえに出血多量で殺してしまった。

 彼らは無益であると同時に無慈悲にも、屠殺場にたいして縦射の位置で撃った。(ザ・シネマ注:ターゲットの前後に別のものがいる状態で射撃すること。意図せず手前のものに当たってしまったり、弾がターゲットを貫通したりターゲットを外れたりで意図せず奥のものに当たってしまう可能性がある。この状態では苦しまないよう急所を狙って1発で仕留めてあげるなんてハナから無理)

グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社.


 この他にも凄惨な描写が原作では延々と続きます。どこにどう弾が命中し、どうやってもがき苦しみ死んでいくか、そして、その後どうやって解体されるかまでが文章で詳細に記されている。こんなの映像では見せられんわ!


 少年たちはこの光景に戦慄します。そして、嬉々として大虐殺に打ち興じている全米ライフル協会みたいな人たちに向かって「殺し屋!」とか「お前ら人間じゃないぞ!」とか罵詈雑言を浴びせますが(ここは台本でアドリブ指示が出てます)、当然、うっせークソガキ!サヨクはけえれ!ってな反応が返ってくる。

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真実の瞬間.jpg ちょうど今ウチで放送している同じく未DVD化の激レア作で、闘牛映画『真実の瞬間』という伝説の超大傑作がありまして、自分の命を賭け金にして闘牛の世界でテッペン獲ったる、という野心家青年のド貧困からののし上がりドラマです。それもまぁ闘牛シーンは十分残酷なんですけど、なぜか本作ほど非倫理的には感じられない。

 まずそれは、作り手のスタンスとして、闘牛文化を批判的には取り上げておらず、道義的価値判断を込めていないから、というのが理由のひとつ。監督フランチェスコ・ロージお得意の伊ネオレアリズモ由来の乾いたドキュメンタリー・タッチで撮られているため、淡々と事実を追う、それが迫真のリアリティを生む、という趣向が凝らされていて、スタンリー・クレイマー監督が劇映画としてのドラマ性を追求し、強いメッセージ性もこめた『動物と子供たちの詩』とは、そこが大きく違っている。

 ただもうひとつの理由として、闘牛では闘牛士も命懸けだから残酷であっても卑怯には見えない、という我々観客側の印象の違いも挙げられるでしょう。本物の闘牛士でもある主演俳優による「これはガチで命懸けだ、一歩間違えば死ぬ」という、どっからどう見たってヤバすぎる映像のオンパレード。実際、数メートル突き上げられて気絶したか死んだかしている人の姿も映ります。人間側もそこまでのリスク負ってんだから五分と五分で、残酷だけどまぁ許せるかな、と思えなくもない。それに比べ『動物と子供たちの詩』の「銃は友達」連中は、自分らは遠くの絶対安全圏にいて、そこからスコープで狙って飛び道具で撃っている。あまつさえビール飲みながら!そこが大違いでして、これにはちょっと、ただごとじゃない生命への冒涜感がある。あっちは許せてもこっちは許せない!あくまで個人的意見ですが。


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 ふきカエ再放送版ではカットされていますが、仕留めたバッファローの巨大な生首、今度こそ干し首ではなくて本当に血のしたたる生首を、ラジオフライヤー(アメリカンな赤い台車)に積んで運んでいる、同い年ぐらいのガキの全米ライフル協会員みたいな奴が出てきて、それに6人組は絡みます。その生首をトロフィーに仕立てるんだとガキは自慢してくる。第1部で言及したHunting trophyを思い出してください。1等賞のトロフィーはバッファローでしたね?あの剥製たちもこうやって斬首されたのでしょう。今、あの伏線がおぞましい形で回収されたのです。だからここも重要なシーンなのでカットは痛恨なんだけどねぇ…。

 自慢に対しカイさんから「殺しは楽しい?」と思いがけないことを聞かれ、ガキは「射撃はうまくなかった。でも肉はうまいよ」とトンチンカンに答えます。射撃が上手くなかったってことは、原作にある通り、急所を外してしまい標的を苦しませながら時間をかけて死なせたのでしょう。でも肉は美味かったと。そういう話じゃねーだろ!でも「何か問題でも?」という顔でポカ~ンとしている。

 彼に悪意はない。このガキ、自分が悪いことをしているとも、人によってはそれを悪と受け止めるかもしれないとも、想像さえつかない様子。6人組とこのガキには通じ合える言語すらない。返す言葉も見つからず、お互い見つめ合ってしばし黙り込むしかない。

 やがて沈黙に耐えきれなくなったガキは「どうせ生きてても役に立たない」と言い訳します。非難されていることにようやく気付いたのでしょう。さすがカイさん、「役に立たない人間も多いけど殺さない」と即座に反論する。正論です。役に立たない人間とは自分たちのことでしょう。するとガキは間髪を容れず「毎日殺されてるよ。テレビをごらん」と喰ってかかる。

 この映画の1971年当時はベトナム戦争最悪の泥沼期で、ナム戦はTVのニュースで米兵の死体映像が生々しく映った初の戦争でした。この心ない暴言にはミリヲタリーダーがキレます。彼の尊敬する父親は海兵隊の大尉ですから、時期的にベトナムに派兵されていてもおかしくないのです。字幕で訳されていませんがリーダーがYou little bastard!(このガキゃ!)反戦運動.jpgと罵りラジオフライヤーを蹴飛ばすと、ガキは「パパは下品な言葉を使うと怒るよ!」と逆に説教タレてくる始末。汚い言葉は使うな、口を石鹸で洗うぞ、そして銃は友達だ、役立たずどもを撃ち殺して楽しく遊ぼう、と父親からこのガキは教育されてきたのでしょう。

 もしくは、反戦運動に学園紛争に人種対立と、アメリカ内地でも死者が出る騒動が各地で頻発し、それが連日TVのニュースで報道されていた時代でもありましたから、あるいはリビングでの家長を囲んだ一家団欒の一コマとして、夜のニュース見ながら「ヒッピーだのサヨクだの黒人だのなんて役立たずどもは死ねばいい」みたいな会話が、日常的に交わされているようなご家庭なのでしょう。でなけりゃ年端もいかぬガキの口から「毎日殺されてるよ。テレビをごらん」なんて言葉がポンポン出てくる訳がない。“子は親の鏡”ってことですなぁ…。もはや付ける薬もないと、6人は絶望してその場を離れます。


 キャンプ場に帰った後、トラッシュ指導員は子供たちを怒鳴りつけます。これが、第1部で言及した、本作でもっとも重要なトラッシュの吐く長ゼリフというやつ。以下、全文を文字起こししてご覧に入れますが、池田勝さんの文字化できない発声、ガラガラだみ声、巻き舌、巧みに忍ばせた促音などの技巧は、ぜひとも放送で、その耳で、お確かめください。文章で再現はできません。


「恥かかせやがって、前歯ヘシ折ってやりてェよ!人前でデカい声はり上げやがって!死に損ないのお前らァ見てると俺だって胸が痛むさ!可哀想に、トンマなバッファローめがってな!だがもう我慢できんっ!これからは、ラジオは禁止だ。音楽も!映画も!夜のダベりもぜぇんぶ禁止だっ!監督が言ってた、お前らぁ感情的に障害があるって。感情がピンボケなんだっ!! “ハミ出しなんだ!!!(ザ・シネマ注:“ハミ出し”は原語で「ディング」、ding。おそらくこの当時の流行語で今日ではあまり使われていない模様。本作のキーワード) ハミ出しって知ってるか?マトモに収まらない奴さ!どんな場所にも、どんな時にも、どんなことに対しても、お荷物になるだけで役に立たない奴さ!みんな邪魔にして始末に困ってる奴さ!だから生きてる価値がないンだ!バッファローみたいになあ!どうして撃ち殺すか知ってるか?あいつらァハミ出し野郎だからだァ!おめェらもそうだっ!奴らとおんなじだ!ここにいるぬぁ手癖の悪りィ奴、お喋り野郎、意気地なし、戦争マニヤ、乳離れしないィ奴!出来損ないばかりだィ!」

 この暴言に深く傷つくと同時に、6人組はある決意をします。自分たち同様“ハミ出し”で生きる価値なしと一方的に決め付けられたバッファローを逃すことを!虐殺フェスは明日も続く。殺される順番待ちのバッファローがまだ沢山いる。あそこに戻ってフェンスを破り、バッファローを逃がそう。ただし、指導員の車で行ったフェス会場までは、子供にとってはかなり遠い。6人は、まず馬で、次いで盗難車で、最後は徒歩で、あの忌むべき場所を丸一日かけて目指してきて、いま、2晩目の真夜中に、ついにたどり着いたのです。

 さあ、回想シーンから、通常のタイムラインに、いよいよ本作の大詰めに、話を戻すことにしましょう。


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 フェンスの破壊を試みる6人。駄目だチェーンは思ったより頑丈だ。夜が明けてきた。カイさんがまたトラックをどこからか盗んできた。だがその間に日は完全に昇ってしまった。それでチェーンを引っ張りようやくブチ切ったものの、夜陰にまぎれてコッソリやる計画が狂い、まっぴかりの朝日の下、物陰ひとつない丸見え状態で事を運ばざるをえなくなった。いつ全米ライフル協会の奴らに見つかってもおかしくない。エンジンふかして大きな音を出しまくったし。

 かてて加えて、逃したバッファローはあろうことかフェンスのすぐ外でのんびり草を食みはじめた!遠くに逃げていこうとしない!! ミリヲタリーダーはヒステリーで半狂乱に。

「行けェ!もうすぐハンターがやって来て、お前たちは皆殺しにされるんだぞ!殺されて当たり前なんだ、ウスノロのバッファローめ!図体ばかりデカくて!」

 ダメだ、怒鳴ろうが大きな音で驚かそうがビクとも動かない。泣きわめき怒鳴り散らすリーダー。そうこうするうち案の定バレた!騒ぎを聞きつけ全米ライフル協会の奴らが車2台でこっちに向かってくる!先頭車両を運転するのはあのトラッシュ指導員だ。「やっぱり奴らだ!」と苦々しげに吐き捨てるので、失踪した子供たちが行くとしたらここしかないと目星を付けていた模様。

 万事休す!その時、盗んだトラックの運転席に半泣きミリヲタリーダーが横っ跳びに滑り込もうとする。カイさん引き留める。「ここで諦めるのか!? 俺はヤだ!」と思い詰めた表情で絞り出すリーダーに一言カイさんわかった」。再度リーダー運転席に転がり込み「俺たちは最期まで闘う!クラッチは左!ブレーキは右!みんな見てろよ!行くぞぉぉ!!!!と叫びながら無免許でトラックを出してバッファローの群れ目がけ突入!「バッファローを暴走させる気だ!」と気付くトラッシュ指導員!

 そこで連中信じられない行動に出る。「タイヤを狙えェ!タイヤだ!(中略)いいか、子供に気を付けろ」と車停めて降りてきて、何百メートル先を結構な速度でジグザグにオフロード走行しているトラックを、何人もでパンパン狙撃しまくる!気を付けろじゃねーよ!いちガンマニアとして言わせてもらうと、こんなのタイヤになんか当てらんねーだろ普通!ものすごく危険!

 バッファローを追い散らすトラック。ついにバッファローたちが走りはじめた!だが逆にトラックは停まる。ドアがバタンと開き、同時に、ケツは座ったままのリーダーの上半身がダランっと外に投げ出される。駆け寄る残り5人と全米ライフル協会。リーダーはこめかみに銃創1発、目を見開いたまま死んでいた。5人の子供たち、遺体の方からゆっくり全米ライフル協会の大人たちの方に向き直る。あんたら、いつかヤラかすと思ってたけど、とうとうヤリやがったな、と、猟銃を引っさげたまま茫然自失で突っ立っている大人たちを、人殺しを見る時の目で見つめる。全米ライフル協会とトラッシュ指導員、事ここに至ってようやく、二度と戻らぬ失われた命の重みに気付き、だんだんと顔色を失っていく…。

コマネチ!.jpg ここで流れはじめるラストの曲は、「♪妖精コマネチのテーマ」として日本人にもよく知られた曲。本作から5年後の1976年モントリオール五輪の際、アメリカのTV局が、人呼んで“白い妖精”、たけしでお馴染みの新体操ルーマニア代表コマネチ選手の入場テーマ曲として流用したことから、そう改題されて有名になり、シングルカットもされヒットしたのですけど、もとはと言えば本作サントラの一曲。実はミリヲタリーダーのテーマ曲だったのです!この物悲しい曲が中盤で明るく転調するのと同時に、キャメラが疾走するバッファローの群れの空撮ショットに切り替わる。果てしない原野を土ぼこり上げ逞しく駆けていくその勇姿を映しながら、この映画の幕は降ります。

 ここで、第1部で引用した、例の架空の(?)偉人H.E.ポール・ドラモンドの、一見良いこと言ってるげな詩を思い出してみましょう。気合いが足らないから負けるんだ!気合いがあれば必ず勝てる!という精神論的な内容で、作り手はそれを弱者に無理強いするような教育を批判しているのではないか?と第1部では指摘しましたが、さて、ミリヲタリーダーが無謀な目標を掲げ、大冒険の末、命と引き替えにその壮挙を成し遂げるところまでを目撃してきた今の我々が、あの詩を再読すると、いかなる感慨が湧くか?


「君が負けたと思ったら負けだ。負けたと思わなければ負けじゃない。どうしても勝ちたいと思って勝てなかったら、それは君の思いが足りなかったからだ。この世では成功の第一歩は諸君の意志に始まるのだ。全ては心の持ち方次第。一歩も走らずしてすでにレースの勝負は決まり、仕事を始める前、臆病者はすでに失敗している。望みが大きければ君は前進し、望みが小さければ君は脱落する。できると思えば必ず叶う。全ては心の持ち方次第。人生の勝利は常に強い者・速い者に輝くとは限らない。勝利は、勝利をつかもうとする意志と努力のある者に輝く。(中略) 人に勝ると思えば人に勝る。少年よ、常に高きを望め。常に自分の心を信じよ。勝利は必ず君のものとなる。(中略) 行く道は険しく、人生は厳しい。だが諸君は鉄のように強く逞しい。勝利を目指し死力を尽くして戦え。だがスポーツマンシップを忘れるな。諸君の旗を高く掲げて進め。ボックス・キャニオン・キャンプの少年たちよ。できる。やるのだ!やらねばならぬ!! 全ては心の持ち方次第だ」

 …あなたのハートには、何が残りましたか?

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 最後に。原作の方は、結末が異なります。ラストシーンでミリヲタリーダーが命と引き替えに勝利をつかむのは同じですし、どちらも1970年前後数年に大流行していた「アメリカン・ニューシネマ」に典型的な幕引きの仕方なのも同じですが、小説版の方はさらに、具体的なある1本の傑作ニューシネマと極めて酷似しているのです。原作のオチがこちら↓

「彼ら(ザ・シネマ注:残った5人)は運転席の窓から外に出された追っ手(ザ・シネマ注:リーダーのこと)の頭を見た、そして彼が叫ぶのを聞いた。

「ディング!(ザ・シネマ注:「ハミだし」のこと)ディング!さあ、ディング野郎、行こうぜ!」

 二頭の雄ウシが脱出の先頭を切った。塀の向こう側に出ると、断崖のへりぎりぎりのところで即座に旋回し、彼らの群れは割れた。半分は右へ、半分は左へ分かれ、群れはもともと自分たちが属していた合衆国の広大な空間の中に逃走していった。しかしトラックはまさに恐ろしいコースをとりつづけていた。

 彼らはぎょっとしてつまずくようにして走りながらそのあとを追った。ブレーキが効かなくなったのか、彼がブレーキなど無視したのか、あるいは(中略)断崖のへりを忘れてしまったのか、それとも、それがりっぱに果たされ、野牛も永遠に自由になったため、もはや輝かしい行為のことなどどうでもよくなった、ただそれだけのことか、彼らはいずれともわからなかった。トラックがまるで空に舞いあがるかのように高々と上昇してつっこみ、やがて見えなくなるその瞬間、たいまつのように燃え立つ彼の赤毛が彼らの目にちらっと止まった。それですべてだった。ただ、かすかなしかし金属と岩が激突するまぎれもない音が届いた。そして、すぐそのつぎの瞬間、その意味するところはなにかという意識が、まるで彼らもまた永久に自由にしてやるといわんばかりに、彼らの心臓を押しつぶしてきた。」

グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社.


 リーダーが赤毛というのも映画版と違いますが、一番は、これは自殺ということなのか、とにかく全米ライフル協会に射殺されたわけではない、ということが最大の相違点です。


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 アメリカン・ニューシネマでは主人公は死ぬもの。お気楽バイカーコンビが田舎の保守的ヘイターに突然ショットガンぶっ放されて死亡とか、アベック強盗が警官隊に車ごと蜂の巣にされて死亡とか、強盗2人組が最後はボリビアの軍隊に包囲されやぶれかぶれ特攻に打って出て死亡とか、パトカー振り切ろうと猛スピードで車走らせ踏切ぶっちぎろうとして機関車に横から突っ込まれ爆死とか、ルームシェアしてる男娼とフロリダに行こうとしたダチの病弱ポン引きNY男が長距離バスの中でポックリ病死とか…。

 主人公の死をドラマチックには描かず、逆にむしろあっけなく、極めて唐突に描く。そしてその主人公はと言うと、普通の常識的範疇にはおさまらない、世間からは白い目で見られている“ハミ出し”キャラと、相場は決まっていました。

 どうしてそんなダメ人間が主人公の、救いのない結末の映画がやたらとウケたのか?自分たちアメリカ人がいかに簡単に死ぬか、ベトナム戦争でその嫌な現実をウンザリするほど見せつけられ、目を背けようにもニュースの方から付きまとってくる(ニュースから逃れるのって難しいですよね)。ヘイトクライムも頻発してヒドい世の中になりつつある。1970年前後はそんな時代だったからです。今ともちょっと通じる、“世界が崩れつつある感”、とでもいったような絶望的な雰囲気が満ち満ちていました。

 そんな狂った時代には、多数派でいつづける方がむしろおかしい。そこで何の疑問もなく器用に世渡りできる奴は人として最低だ。映画の主人公はマトモだからこそ逆に“ハミ出し”て浮いてしまっているアンチヒーローでなければなりませんでした。そして彼らは、映画の主人公であっても、ある大目的を持ったドラマチックな生(と死)などは与えられず、虫ケラみたいに簡単に、突然に死ぬ。人の命なんて安いんだ。なぜなら現実がそうだから、という一群の映画が作られたのです。嫌な現実を映画がさらに誇張してみせることで批判する、それがアメリカン・ニューシネマというムーブメントでした。

 ほら、『動物と子供たちの詩』って、アメリカン・ニューシネマそのものでしょう?中でもとりわけ、原作の方の結末と極めて酷似しているのが『バニシング・ポイント』です。

 アメリカのほぼド真ん中・コロラド州デンバーから西海岸サンフランシスコまで車を短時間で運搬する(自分で運転して納車しに行く)仕事を請け負ったフリーの運び屋コワルスキーが、猛スピードで1970年型ダッジ・ チャレンジャーを爆走させる。当然パトカー白バイ追いかけて来る。その制止を振り切り、次々と引き離しながら西部を横断する、という映画が『バニシング・ポイント』です。

 まず、西部の荒野が舞台になっているホコリっぽい見た目からして、『動物と子供たちの詩』と似ている。それとそのメインプロットの合間に、コワルスキーがこの挙に及ぶまでの様々な出来事が回想されていくという構造もまた、似ている。プロのレーサーとしての挫折、制服警官をやっていた頃に目撃した警察の腐敗、愛した女の死と、過ぎ去った幸福な日々、ベトナムでの戦争体験…個人的人生ドン詰まり感と、やっぱりここでも大きいのが、当時の“世界が崩れつつある感”です。

 戦争とヘイトに満ちた時代だったんだということを大前提として鑑賞する必要があります。『バニシング・ポイント』劇中では黒人キャラが白人レイシストにリンチされるシーンも出てきますが、それはあの時期、現実のアメリカ社会でも頻発していたことですし、さらには悪を退治する存在であってほしい警察も、実際はと言うと、平等を求める黒人たちに高圧放水する、ベトナム反戦デモ隊に催涙ガスを撃つ、学園紛争の大学生を警棒で殴りつける、といったことを全米各地でやっていたのです。そんな警察に「スピード違反だから停まれ」と命令されて、誰が停まるものかよ!悪はどっちだ!! という反骨精神は、当時の観客の思いと怒りを代弁するもので、自分でそれをする勇気は無くても映画の主人公にぐらいは期待したい、胸のすく痛快な生き様だったのです。

 ラスト、ブルドーザーで道をふさぎ停車させようと試みる警察の作戦に対し、コワルスキーはむしろ逆に、トップギアでアクセルを踏み込んでそのままブルドーザーの排土板に真っ正面から突っ込み、爆発!炎上!即死!そこで映画は終わります。ほら、『動物と子供たちの詩』原作の結末にソックリでしょう?

 他のニューシネマの主人公が割と不可抗力で命を落としている(射殺される、事故死、病死)のに対し、この走り屋コワルスキーと『動物と子供たちの詩』原作のミリヲタリーダーの2人は自ら死を選択している。とはいえ、これって自殺なのでしょうか?

 いや、自殺というか、この世界から“退場”したくなってしまった、ということなのでしょう。こんな醜い、腐った世の中になんか長居したくねえよ、オレ的栄光の頂点で、皆さんお先に失礼させていただきます、ということでしょうな。パトカーをまきにまいて、どんどんスピードを上げていき、そのスピードの頂点、反逆のピークで、この世から消えていなくなろう。または、可哀想なバッファローを逃して、自分も一緒に車で伴走し、その勢いのまま、壮挙の達成と同時に、この世から消えていなくなろう。これって、自殺というのとはちょっと違う気がします。一応“勝利”エンディングですから。


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 2017年の今ふたたび、“世界が崩れつつある感”が低く垂れ込めつつあるように感じているのは、ワタクシだけでしょうか?もし、残念ながらそうであるならば、そんな暗い世相を反映した、アメリカン・ニューシネマ的な映画が、また作られて流行るようになってもいいのではないか、と最近よく考えます。アメコミヒーロー映画、ワタクシも大好きです。ただ、ちょ~っと供給過多かなぁ、と思わないでもない。そして、今、我々が現実に直面している深刻な課題を考えると、ちょ~っと浮世離れしてないかなぁ、と感じなくもない。


 ヘイトと暴力が世にあふれ、権力者たちが我が物顔で振る舞い、少数者の声を圧殺する、そんな寒い時代に、その醜悪さを徹底的に批判し、自由や優しさを求めて挫折し死んでいく哀しき“ハミ出し”者たちの視点に寄り添った、そんなニューシネマチックな映画の2017年版最新傑作の登場を、ワタクシ、今か今かと待望いたしております。それは今日、映画に期待されている役割でしょう。

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©Rizzoli 1965

文/ザ・シネマ編成部 飯森盛良

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 怪作『籠の中の乙女』に妹役で出演していたマリー・ツォニさん(右)が亡くなりました。亡くなった詳しい状況は報じられていないようですが、これはWHO(世界保健機関)が定めた報道の国際ガイドラインにのっとってのことでしょう。日本でも内閣府のHPにそれは掲載されています。

 要は、自殺報道を詳細に報じてはいけない、という国際ルールでして。そういうことすると後追い自殺を生みますからね。日本でも定着しつつある考え方です。

 ということでマリー・ツォニさんが亡くなった話題はあまり深掘りせずに、彼女が我々映画ファンに遺してくれた、とてつもなく変な映画、まごうかたなき怪作、であると同時に2009年カンヌ映画祭「ある視点」部門受賞、2010年度アカデミー外国語映画賞ノミネートと、国際的にたいへん高く評価されたギリシア映画『籠の中の乙女』について、緊急で書きます。7月、ワタクシのやってる平日深夜「シネマ解放区」ゾーンで再放送もしますんでよろしく。


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 いやはや、ほんと変な映画です。カンヌの「ある視点」部門ってのは変な映画が獲る賞なのですが、とりわけ本作は変。まずBGMが無い。それと大半のシーンがカメラ据え置きで、ズームとか移動撮影とかが極端に少ない。カメラが追わないから役者がよく見切れており、見た目的にとっても変なのです。あまりに「静的」と言うか。

籠の中の乙女05.jpg 舞台は一軒の家ワンシチュエーションからほとんど出ず、その家は広い庭のある豪華な白亜の平屋で、しかもプール付き。各部屋、窓が大きく取られており、そこからギリシアのカラッとした日差しが差し込んで、わたせせいぞうか鈴木英人のイラストみたいでちょっと素敵です。でも、あまりに清潔感あふれすぎていて、ここまでくると逆に異常。むしろ寒々しく殺風景に感じられてくる始末。

 だから、「静謐な」という形容動詞がいちばんしっくりくる印象の映画です。「閉塞感」と言うのも近い。それはなぜか?

 これは、籠の中に乙女たちを閉じ込める映画だからです。父親が娘2人(マリー・ツォニさんは下の妹役)と息子1人、3人の子供達(と、もしかしたら奥さんのことも)を自宅に監禁して育てているというお話なのです。

 外界から隔絶されているため、当時おそらく外の世界では国債暴落とかデフォルト危機とか、緊縮財政と民営化の圧力がメルケルさんあたりからかかったりとかで、ギリシアは国全体が蜂の巣を突ついたような大騒ぎだったはずなんですけど、このお宅だけは異常なまでに「静謐」。文字通り「閉塞感」で窒息しそうな日常が来る日も来る日も繰り返されます。

 外の世界は危険がいっぱい、おうちが一番安全なんだ、ということで、お父さんは家族が家から出ることを禁じています。

 ワタクシ事ながら、ウチも子供3人いる貧乏子だくさん一家ですが、こういう考え方には、恐ろしいことに、父親としてちょっとだけ賛同しちゃう面も無くはない。レェ・ティ・ニャット・リンさん事件とか通学児童の列に車が突っ込んだとか、そういう子供が犠牲になる痛ましいニュースを見るたびに、学校にも行かせず家から一歩も出さないでいられないものかなぁ…と、一瞬どうしたって考えちゃいますよ。

 あるいは海外旅行。ワタクシが若かった90年代とか、冷戦が終わってこれから世界は明るい21世紀を迎えるんだ、と信じきっていた時代であれば、バンバン海外行って見聞広めてきてくれ、バックパッカーみたいな貧乏旅行でいい、多少トラブルに巻き込まれたとしても、よっぽどのことでなければそれもまた良い人生勉強だよ、打たれて強くなれ!ぐらいに思ったかもしれない。実際そういう感覚でワタクシの世代はフットワーク軽く世界中に飛び出して行ってましたし、送り出す親御さんが海外行くごときで気を揉んだなんて話も周囲ではついぞ聞かなかった。世界は夢のように平和でしたから。しかし2001年9月のあの日以来、世界は決定的に変わってしまった。今では海外に出かけようとして「テロ」という言葉が頭をよぎらない人なんていないのではないでしょうか。子供が海外に行く!? 正直やめてほしいと思っちゃいますねぇ…。

 しかし、子供を家に縛りつけておこうなんていうのは、ろくな考え方じゃない。この映画では、そうすることによって、事件やテロに巻き込まれない代わり、とんでもない家庭崩壊、人の道を踏み外すことになっていくのです。それが、静かに静かに、静謐に、どこまでも美しく描かれていく。

 本作における子供達は、幼少の頃から「外には怪物がいる!」とシャマラン映画みたいな、あるいは湯婆婆みたいな、もしくはラプンツェルの母ちゃんみたいなウソを信じ込まされてきたので、おそらく全員二十歳前後ぐらいになっているでしょうが家から出たことがなく、顔に生気がなく、表情に乏しく、精神年齢は小学校低学年ぐらいでストップしているような感じです。

 しかし当然カラダだけは大人。湯婆婆んちの坊が湯屋のあのペントハウスで二十歳過ぎになっちゃったと思ってくださいよ。たまらんですよ!とっくのとうに第二次性徴期も完了し、すでに息子の息子はいつでも発射可能状態。これを狭い家に閉じ込めておくのですから、溜まったものを定期的に放出させないと暴発しちゃうであろうことは想像に難くありません。ということで父親は自分の勤め先の女ガードマン・クリスティーナにお金を払い、お兄ちゃんにあてがっています。とても段取りめいた、決まった動作でテキパキとコトに及んでいるところから察するに、お兄ちゃんとクリスティーナのSEXは定例になっているみたいです(このこと覚えておいてください)。

 いやはや、エロ映画やAVって、人間にとって必要なんですなぁ!エロ映画もAVも見たことがないお兄ちゃんは(メディア禁止なので)、ただ入れて出すだけの犬猫の交尾のようなSEXしかできないんですから悲しい話です。女の方は全然イケない。クリスティーナの好きなコト、それはもちろんクンニです!

 あるとき欲求不満きわまったクリスティーナはお兄ちゃんに「舐めて」と頼みますが、拒否されます。相手は精神年齢子供レベルなので「これはあなたのためにいいことなのよ」とウソつきますが騙せず、逆に後背位でヤリたい(犬猫みたいに)と要求されて、サセちゃいます。自分はイケなかった…。

 そこで、事の後で、今度はお姉ちゃんに百合クンニを頼みます。「消しゴム付き鉛筆あげるから」とか「カチューシャあげるから」とか「ヘアジェルあげるから」とか言って釣って(相手は精神年齢小学生ですから)。依頼主である一家のパパには内緒で。

 監督のヨルゴス・ランティモスさんは、本作の公式サイトでこう述べています(以下コピペ)。

「(前略)男の子の方が性的欲求が強いとみなされていて、女の子より多くの課題を課せられる。両親も、姉妹には性教育の必要を感じていませんし、より保守的に育てています。彼女らの性生活なんて考えもしない。でも両親は長男がセックスしていることを誇らしく感じています。少なくともギリシャでは一般的な考え方ですね。古臭い考えですが、よその国にも残っているのではないでしょうか。」

籠の中の乙女03.jpg こういう女子への偏見というか聖処女願望というか変な思い込みから、両親にとっては完全ノーマークだったお姉ちゃん。それがレズ舌技で性に目覚め、自分も舐められてみたいという欲望が芽生えます。崩壊の序曲、パンドラの箱が半開きになりました。お姉ちゃんは末っ子の妹(故マリー・ツォニさん扮演)に後日、何か物あげるから自分のことも舐めてくれと要求。最初は肩を舐めてくれと頼みます。肩舐められても無意味ですが精神年齢小学生ですからカタとクリの違いをわかってない。ただ、次には内腿を舐めてとか、腰骨とかヘソとか、だんだんとリクエスト部位がリクエリトリスに、もといリクストエがクリストスに、ええいまどろっこしい、陰核、じゃなかった核心へと近づいていきます…何言ってんだオレは。


 そしてとうとう、お姉ちゃんが禁断の智慧の実を喰らってパンドラの箱を全開にしちゃう瞬間が訪れます。クリスティーナがお姉ちゃんに次にクンニさせようとした時、お姉ちゃんは、クリスティーナ側から提示されたあらゆる子供の好きそうなお土産には興味を示さずに、クリスティーナが持っていた映画のレンタルビデオをバーターでよこせと強硬に要求します。

 この家にはデッキとTVは有る。と言ってもビデオカメラで撮影したホームビデオを何度も何度も繰り返し見るためだけに有るもので、TV放送とか映画ソフトとかはこれまでは見れなかったわけですが、こうしてお姉ちゃんはレンタルビデオを見ることができるようになるのです。これでパンドラの箱が開きます。

 と、ここまでがあらすじ。ここまでは未見の人でも読んでてネタばれということはありません。しかし、ここから先はネタばれに踏み込んでいきます。未見の人は本編をご覧になった後でぜひ再読しに戻ってきてください。おそらく映画見ただけでは「?」な箇所の謎解きを下で試みてますので、わざわざお戻りいただいても損はさせないつもりです。


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 さあ、「いや〜映画って、本っ当にいいものですね!」って、ことですよね、ここから先の展開は。映画のおかげで世界が広がる。家の中だけ、家族5人だけで閉じていた狭い世界が一気に開けます。ロッキーIVにハマる!ジョーズにハマる!フラッシュダンスにハマる!そうして体験したことのない人生を疑似体験する。亡き友のリベンジのため成功と平和の日々に別れを告げふたたび命がけの戦いに臨むとか、責任を背負う者たちが圧倒的脅威・深刻な危機と向かい合って打ち勝つとか、自分の特技にひたむきに打ち込むことで成功をつかむとかは、そうそう誰もが体験できるものではありません。それを疑似体験できてしまう。それが映画、それこそが映画を見るって行為の本質でしょう。お姉ちゃんはそれらを疑似体験して、弟と妹を置いて一気に覚醒していくのです。


 ちなみにロッキーIVを見て、お姉ちゃんは窓ガラスをミラー代わりにロッキーのマネをします。その時、某主演スターの顔マネ声マネで、口を「へ」の字にひん曲げ完全になりきっており、ここは思わずフイた!な名シーン。「ハイここ笑うとこですよ〜」と親切過剰な演出になっていないので気づかないかもしれませんけど、ここ確信犯で笑わせようとしてますよね?ランティモス監督は、

「映画全体のトーンとして物事を誇張して描いていて、そこには、嗤うしかないバカげたユーモアがたくさんある。大爆笑じゃなくたっていいんだ。ユーモアはいつも爆笑と決まったものじゃないから。ただ、多くの試写会場ではほとんど爆笑に近いところまでいっていたけどね。でもその一方で、別の会場は静まり返っていたこともあったな」

 と別のインタビューで語っています。ま、わかる人にはわかるギャグセンスってことですな。シュールで「静謐」でアートフィルムっぽいルックではありますが、吹くような笑いも果敢に獲りにきている、意外に狙ってる映画なのです。

 とにかく、映画によってお姉ちゃんの知覚の扉がパッカ〜ンと開く。それを開けるのはLSDではなく映画なのでした。海外で貧乏旅行とか武者修行しなくたって、それで人生経験は仮想で積めるのです。それが映画を見る意味です。彼女はまず、映画によって「名前」を手に入れます。千と千尋の湯婆婆のように、父親は子供たちに名前さえ付けず自我を封じて支配しており、名無し状態でその歳まで育ててきたのですが、お姉ちゃんは「名前」という概念がこの世にあることを知って自分を「ブルース」と名付け、弟妹にもブルースと呼ぶよう命じます。自我の芽生えです。

 「ブルース」というキャラクターは、ロッキーIVにもジョーズにもフラッシュダンスにも確か出てこないはずですが、実は!なんと『ジョーズ』のあの伝説の撮影用サメロボット、スピルバーグが作ったあれのスタッフ内輪での呼び名が「ブルース」だったのです。お姉ちゃん、プールですっかりサメになりきってジョーズごっこしてましたからね。

 もっともレンタルビデオの『ジョーズ』本編中にはそのコードネームは出てこなかったはずですし、DVDではなくなぜか今時VHSなので映像特典やコメンタリーが付いているはずもなく、どうやってロボの呼称がブルースだとお姉ちゃんが知ったのかは謎なのですが。ということでこの見立て、ハズレてるかもしれませんけどね。

 とにかくプールで弟とジョーズごっこをしている時にジョーズ劇中のセリフを完コピで空んじて、弟に「姉ちゃん一体どうしたんだろ…急に物知りになっちゃって」と怪しがられ、チクられたっぽくって、パパに映画見たことバレちゃいます。

 パパは激怒です。不潔な外界の不浄な大衆文化に長女が触れてしまった!けしからん!! 取り上げたVHSで長女の頭をこてんぱんに殴りつけ、さらにはクリスティーナこそが元凶と、その住まいまで乗り込んで行って、今度はVHSデッキ本体で脳天を力一杯ぶん殴ります。

 …く、狂ってやがる!このお父さんこそ諸悪の根源なのですが、どうしてここまで極端に外界を遮断しようとしているのか?奥さんまで外に一歩も出れないようなのですが、一体どういう訳なのか?

 勤め先で、父親は同僚とこんな会話を交わします。

同僚「奥さん 具合は?」

父親「同じだ」
同僚「外出は?」
父親「しない」
同僚「車イスでも たまには出ないと」
父親「妻は来客もイヤがるんだ。私は君をビールにでも呼びたいが」
同僚「奥さんは悲惨な目に遭ったんだ。うつ状態にもなる。写真では活発な女性に見えた。バレーボールのチャンプ?」
父親「ハンドボールだ」

…うつ状態?悲惨な目に遭った?車イス?って普通に歩いてましたけど!? これらのことはその後、言及も説明もされません。言いっぱなしです。

 さらにお父さん、下の娘に足の爪を切らせながら、こんな物悲しい歌を口ずさみます。

「♪愛する君を失って 僕の青春も終わった 見上げれば星が涙を流し 鳥たちも悲しげに鳴いている 寂しい夕暮れに ふさぐ心(ここから、なぜか勤務先の外観ショットが映し出されながら)君がいなくなって 何もかも悲しげだよ いとしい人よ 君は今 どこに? 捜し求めても むなしいだけ」

 なぜこの絵にこの曲を?どういう意図か?若い頃にここの職場で、女がらみ痴情のもつれ系で何か一悶着あったのか!? それが家族監禁と何か関係しているのか!? 謎は深まるばかりです。

 インタビューでランティモス監督はこう言っています。

「(両親が狂った監禁育児をしている背景をまったく描かないこと)は私にとってとても重要でした。でなければ全く違う映画になっていたでしょうね。観客が夫婦の背景を知っていたら、彼らの行為が良いか悪いかという目で見てしまったのではないでしょうか(後略)」

 ということで、観客に深読みさせてあえて翻弄し興味関心を持たせて、「んもぉ〜気になって仕方ないじゃない!」と言わせようという、これは作り手の焦らしテクかもしれませんな。あまりここ真剣に謎解きしても、まんまと監督の術中にハマるだけで徒労かもしれません。答えは「答えは無い」じゃないかと。なのでワタクシとしては、ここは華麗にスルーしておこうと思います。

籠の中の乙女04.jpg さてさて。お父さんがVHSデッキでクリスティーナの脳天カチ割ったため、息子の性欲処理係がいなくなっちゃった。「今度は熟女にしよう。その方が安心だ」と夫婦で相談していた直後に、話がどう転がったらそうなるのか、お姉ちゃんと妹、どちらかがお兄ちゃんの性欲処理係になるという話になっちゃって、お兄ちゃんが風呂場で2人の女体をすみずみ検分吟味した結果、お姉ちゃんの方を選ぶという、おぞましい展開に。懐かしの赤さんなら「まさに外道」と言うところですな。外界から隔離したら外道になっちゃった。

 そして、娼婦みたいなケバいメイクをお母さんが(!)お姉ちゃんに手ずから施して、ついにお姉ちゃんはお兄ちゃん(いや、おそらく彼女からしてみたら弟か)の部屋に入ってSEXをします。まさに外道!ここが冒頭の、クリスティーナとの段取りめいたSEXとの対比になっている。今回は初組み合わせの対戦カードなので段取りが決まってません。特にお姉ちゃんはもちろん処女で、SEXについて真っ白の無知ですから、何をどうしていいかわからず、弟のなすがままにされます。無知すぎて、これがSEXだとも近親相姦だとも認識できていないでしょうし、近親相姦がタブーということも理解できないでしょう。

 ただ、動物としての本能が、この穢らわしい行為が犬畜生にも劣るような、生殖の常道を踏み外した鬼畜のおこないなのだと、お姉ちゃんに気づかせます。そして事が終わった後のベッドで、隣で賢者タイムにひたっている弟に向け、彼女は血を吐くようにして絞り出し、映画のセリフを暗唱するのです。

「もし またやったら八つ裂きにしてやる。いいか、娘に誓って言う。お前の一族は生かしちゃおかねえ。とっとと町から出てけ」

 これは何の映画からの引用なのか?この作品の英語版Wikiに、ハッキリとこう明記されています。

「姉はSEXのあいだじゅう不快で、事の後で弟に向かい『ロッキーIV』から引用した脅しのセリフを暗唱する」

 ロッキーIVだって?アポロが死んじゃうあの?ドラコが出てきて最後はゴルビーまで出てくるあれ?あれにそんなセリフあったか?「娘」とか「一族」とか「町」とか、一切そんなファクター出てこない映画だったですよね!?

 変だと思って今TUTAYA行って借りてきて再生してますけど、案の定そんなセリフ出てきませんね。これはWikiの間違いではないでしょうか。

 では、一体これは何の映画からの引用なのか?正解はわかりませんが、海外の批評では「どれか特定の映画からの引用という訳ではないが、映画からインスピレーションを受け、長女が生み出した言葉」との見立てが複数紹介されています。ただし、そう監督本人が語っている発言は、ちょっと探してみましたがネット上では発見できませんでした。日本版セルパッケージソフトの映像特典は予告編だけみたいで監督によるコメンタリーは収録されていないようですから、その線でも調べはつかず、裏取りができておりません。

 ただ、「長女が生み出した言葉」という解釈が当たっているとしたら、それはこの映画においては重大すぎる意味が込められていて、長女の劇的な成長と覚醒を描いたことになります。あの狂った父親は、子供達に名前を付けないだけでなく、普通の名詞すら教えていないのです。言葉を奪った訳です。言葉つまり社会とつながるためのコミュニケーションツールを奪った。千尋の名前を奪ってコントロールした湯婆婆どこの騒ぎじゃありません。例えばお塩、テーブルソルトのことを「電話」だと教え込んでいます。この家では外界との接触を断つため電話は子供達には隠しているので、想像するに、子供達が本か何かで「電話」という言葉を知ってしまった時に、「電話とはこれだよ」と塩を見せたのでしょうか。また、イヤらしい言葉も無いことになっていて、女性のアソコのことは「キーボード」と呼ばせており「マ×コ」という言葉は存在しないことになっています(それは普通どこの家庭でもそうか)。また「海」や「高速道路」というものを子供達は知りませんので、それは「アームチェアー」と「強風」の別名だよと教えています。言葉をメチャクチャに教えることで、家族以外とはコミュニケーションとれない人にしちゃっている。

 そういう前提があって、長女が映画からインスピレーションを受けて言葉を自分で生み出したのだとしたら、それはものすごい進歩じゃないですか!映画がお姉ちゃんを一気に成長させ、外に出て行くトレーニングとして役立った、ということですから、本作の解釈としてこの見立ては魅力的ですし説得力もあるのですけれど、いかんせん裏が取れませんので、とりあえず今の段階では「そういう説もある」とだけご紹介しておきましょう。

 さて、弟とSEXさせられちゃいました。この決定的な出来事により、お姉ちゃんの中で、何かが壊れます。

 SEXの後、今日は両親の結婚記念日だということで一家はパーティーを催します。子供達も演し物をやる。姉妹はダンスを。そしてお姉ちゃんが全身全霊をかけて激踊りするのは、『フラッシュダンス』クライマックスでのジェニファー・ビールスによるダンスの真似なのです。説明一切ありませんが、ある世代なら振り付けを見ただけで一発でピンときます。それは見ていて恥ずかしくなるほど下手くそきわまりない、でも一生懸命ではある、必死の踊りです。ジェニファー・ビールスは審査員を一人一人指差す振りを組み入れた空駆ける激ダンスにて見事にチャンスをつかみ、望んでいた人生のスタートを切るところで映画『フラッシュダンス』は終わりましたが、お姉ちゃんが家族一人一人を指差しながら一心不乱に踊っても、「もう沢山!」と打ち切られてしまい、穢らわしいものでも見せられたようにあしらわれるだけ。しかも、穢らわしい近親相姦を仕組んだ張本人である、お母さんその人によって。チャンスなど与えてくれません。

 そして、この映画はとうとう、とんでもない終局を迎えるのであります。ついにお姉ちゃんが行動を起こすのです。ここまでネタバレ全開で書いてきて今さらナンですが、あえてラストについてだけは、野暮もきわまれりなので具体的にこれ以上は書きますまい。ただ、この結末、おそらくは決定的な破局なのではないでしょうか。そこはハッキリとは描かれませんけどワタクシはそう思っています。一週間ほどして異臭が漂ってきて…ってことになったに違いない、とワタクシは想像するのです。

 再びランティモス監督のインタビュー。

「(前略)映画は、自分なりの方法で見てもらえるよう、余地を残しておきたいですね。ですから結論を示し過ぎないようにして、皆さんにはスクリーンで起きていることに自由に反応してもらえたら。啓蒙的な映画にはしたくありません。」

 はたして、お姉ちゃんはどうなったのか?もしかしたら内側から開けられて外の世界へと飛び立ち、ジェニファー・ビールスのように新たな人生を始められたのかもしれません。その可能性も無くはない。が、腐って異臭の発生源となり後日発見されたかもしれない。どっちか答えを観客に見せる気なんかさらさら無い、という、ものすごい突き放した終わり方をこの映画はします。最後まで謎やほのめかしやメタファーに満ちた、知的に感性的にとてもエキサイティングな作りの作品です。きっとカルト化して永遠に残り、在りし日のマリー・ツォニさんの美しい姿を閉じ込めたまま、その時代時代の映画ファンたちを翻弄しつづけるような、不朽の一本になっていくのでしょうね、この『籠の中の乙女』は。

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 蛇足ながら、ランティモス監督、この長編デビュー作の次に撮った作品が『ロブスター』という、コリン・ファレル、レイチェル・ワイズ、ジョン・C・ライリー、ベン・ウィショー、レア・セドゥと、そうそうたる面々が出ている(『籠の中の乙女』で長女役だった女優さんも出ている)オールスターキャスト映画。であるにもかかわらず、あいかわらずランティモス節全開で、これまた無茶苦茶にシュールで奇っ怪きわまりない、ゴリっゴリのカルト映画です!

 綺麗すぎる風景ショット、惨殺される動物たちや、見ているこっちが恥ずかしくなる下手くそ素人ダンスなど、『籠の中の乙女』と共通するイメージも数多く散りばめられているのですが、いちばん共通しているのはテーマでしょう。『ロブスター』は次のような物語です。

 結婚しない者は動物に変身させられるという、体制が結婚を強いている社会。夫婦者は都会で普通に暮らせ(ただし独りで出歩いていると職質受ける)、独身者はホテルでの官製ねるとんパーティーに強制参加させられ、期日内にカップル成立しなかった者は獣に姿を変えられてしまう。国家は「動物も悪くない生き方ですよ」などと口では言うが、明らかに“処分”しているようにしか見えない。ねるとんで早く自分と“共通点”のある相手を見つけてカップルにならないとヤバい(“共通点”なきゃいけないの?そこそんなに大事か!?)。カップルになれた者は得意満面、まだの人を露骨に見下します。それと、ねるとんホテル滞在中はオナニー禁止。そんな無駄なことするヒマあったら異性とヤれ、早く結婚して早く子供作れ、と。あと、ねるとん出席者はハンティングにも参加が必須で、森の中に潜む独身者を狩らねばならない。1人狩ると人でいられる期間を1日延長してもらえる。

 独身者というのは、その結婚強制国家体制から逃れてきた独身者たちが、ゲリラのように森の奥に潜伏して組織を作っていて、こっちでは恋愛は御法度(オナニーはOK)。影で男女がイチャついていたら“総括”されるという、これはこれで恐い社会です。全体主義国家と極左暴力集団の対立みたくなってます。

 主人公コリン・ファレルは最初ねるとんに参加し、そこで事件を起こしてしまい独身者の森に逃れてきて、レイチェル・ワイズと運命の出会いを果たし、愛し合うようになるのですが、そこは恋愛禁制の集団で…さて、そこからどうなっていくか、というお話。とんでもない丸投げな終わり方をするところも『籠の中の乙女』と同じです。

 晩婚・非婚のご時世に、またとんでもなくセンセーショナルな作品をブチ込んできましたな。どうもこのランティモス監督という人は、結婚して家庭を築くって何!? というテーマに取り憑かれている人のようなのです。

「幼いころに両親が離婚して母親に育てられたのですが、母は私が17歳の時に死にました。ですから私は若くして天涯孤独の身で世の中に出て、ひとりで生活して勉強してきました。」

 と語ってもいますが、こうした生い立ちから、家族制度や結婚制度、親が子供を育てるといったことに対する、一種独特の視座をランティモスさんは確立していったのかもしれません。

 それでは最後に、『籠の中の乙女』の時のランティモス監督のインタビュー発言をもう一つご紹介して、終わりにしましょう。

「(前略)ある日、友人との会話の中で、みんなどうせ離婚してしまうのに、なぜ結婚して子供をもうけるのか、とからかったんです。だって最近では離婚するカップルが多く、片親に育てられる子供が多いのに結婚する意味なんてあるのかと。そうしたら、明らかに軽いジョークだというのに、みんな僕のことを怒りました。よく知っている友人が、家族の話題となるとそんなにムキになるなんて!それがきっかけで、自分の家族を極端に守ろうとする男、というアイディアが芽生えたのです。外界からの影響が一切なく自分の家族だけで永遠に一体となっていこうとする男。それが子育ての最高の形とかたくなに信じる男です。」

籠の中の乙女ロゴ.png

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2017年3月の放送予定を、都合により下記の通り変更させていただきます。

当サイト上では、すでに下記の変更が適用済みです。

ご不便をおかけします事を謹んでお詫び申し上げます。

今後ともザ・シネマをどうぞ宜しくお願い致します。

                                         ザ・シネマ

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・3月31日(金)6:00~8:00

変更前)『地獄の英雄



変更後)『ミドルメン/アダルト業界でネットを変えた男たち

※『地獄の英雄』は、4月6、9、19、25に放送いたします。
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トランプ大統領就任演説.jpg

 掲題の件につき、ちょこっと駄文を書かせてもらいます。

 ここ数日来、この件でネット上がちょっとザワザワしていますね。今なら以下の各ニュースサイトのリンクがまだ生きているはず。

http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1768238.html

https://www.businessinsider.jp/post-458

http://news.livedoor.com/article/detail/12572697/

https://www.buzzfeed.com/bfjapannews/people-cant-get-over-how-much-trump-sounded-like?utm_term=.ewGQwJa1l#.wjRM1O0rx


 でもこういうリンクはすぐに切れちゃうものなんで、経緯を簡単にワタクシの方でも記しときましょう。

 去る2017年1月20日の大統領就任式で、トランプさんは15分という短尺の就任演説をブったのですが、この中で、

“we are not merely transferring power from one administration to another, or from one party to another - but we are transferring power from Washington, D.C. and giving it back to you, the people.

「(前略)我々は、ある政権から別の政権へ、またはある政党から別の党へ、ただ権力の移行をしているのではない。我々は、権力をワシントンD.C.から移譲させ、お前たち人民に取り戻してやるのである!」

 とおっしゃられました。この

“and giving it back to you, the people.”

 の部分が、『ダークナイト ライジング』劇中におけるベインのアジ演説のワンフレーズ

“and we give it back to you... the people.”

 というくだりを丸パクリしたんじゃないの!?との疑惑が出てネット界隈がザワついてるのです。

 ここ、全文ですと、

“We take Gotham from the corrupt! The rich! The oppressors of generations who have kept you down with myths of opportunity, and we give it back to you... the people. Gotham is yours.”

「我々が腐敗からゴッサムを奪い返すのだ!金持ちの手から!迫害者どもはチャンスという言葉をチラつかせ、長らく我々を搾取してきた。ゴッサムを奪い返すのだ、市民の手に。街は市民のものだ」

 と言ってるんですな。ベインがゴッサム市庁舎の前でブつ大演説からの一節であります。

 ワンフレーズだけ見ると確かにほとんど100%同じですが、こうして前後の文脈ごと読み比べてみると、全体としては当然、2人はまるで違うことを言ってる。でも、実はベインもトランプさんも、ある決定的に同じことを“口実”にすることによって、一部の層から人気を博して権力を握ったので、やっぱり最も根本的な根っこの部分ではこの2人、モロにやってることとキャラがかぶっているのです(2人とも、あくまでそれは“口実”にしてるにすぎないところまで同じ)。

 それは何かと言うと、格差社会批判です。

 当チャンネルの土日メイン作品枠「プラチナ・シネマ」でも、昨年末から立て続けに『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『パワー・ゲーム』、来月も『アップサイドダウン』をお送りしますが、まさに、今の時代に映画が描き、糾弾している、現代最大の社会悪こそが“格差”ではないでしょうか?

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ゴッサム版ウォールストリート.jpg ベインはゴッサム版ウォール街のような証券取引所を襲い、ゴッサム市民の前にはじめてその姿を現します。後に革命軍みたいな連中を率いて「我々は解放者だ!」と叫びながらゴッサムのアリーナに現れ、さらに先の市庁舎前演説では、

「刑務所にいる抑圧された者たちを解放する」
「今より市民軍を結成する。志願する者は前に出ろ」
「金持ちの権力者どもを豪華な住まいから引きずり出せ」
「今まで我々が味わってきた冷酷な世界に放り出すのだ」
「我々の手で裁きを下す」
「贅沢は皆で分け合え」

 などともアジ演説をブち続けます。言っとることはまさしく「革命」ですな。

 『ダークナイト ライジング』の『ライジング』とは「立ち上がる」、「蜂起する」、「蹶起する」といった意味。つまりは「革命」です。この映画、革命のイメージに満ち溢れておりまして、

①ベイン革命軍は真っ赤なスカーフを巻いており、まるで文革の時の紅衛兵みたい。

  • 球技場の誓い.jpg②人民法廷に資本家や旧体制の官憲が引き出され、上訴なしの即決裁判で死刑判決を受けるシーンがあるが、あの絵ヅラは世界史の教科書で見覚えがある。フランス革命のルイ16世の裁判か(ココから画像が見れます)、もしくは、「球戯場の誓い」のページに載っていた挿絵にソックリ。被告席の椅子もなんだかとってもヴェルサイユ風だし。

 ちなみに「球戯場の誓い」とは、フランス革命の直接原因となった事件。税金を払わされている圧倒的多数の平民が「一握りの特権階級が税金を免除されているのはおかしい!」、「三部会で特権階級の主張ばかりが通るのはおかしい!」と訴え、自分たちこそが国民の真の代表なんだと立ち上がった出来事。
 さらにこのシーン、判事席(裁判官はスケアクロウ!)は、机や椅子などを雑然とうず高く積み上げたもので、『レミゼ』の六月暴動やパリコミューンにおける「バリケード」を連想させる。「バリケード」はかつて革命市民軍にとって基本戦術だった(普通選挙が広まると、革命勢力は選挙による政権奪取を目指すようになり、エンゲルスが亡き同志マルクス著『フランスにおける階級闘争』1895年版に寄せた序文で「あの旧式な反乱、つまり1848年までどこでも最後の勝敗をきめたバリケードによる市街戦は、はなはだしく時代おくれとなっていた。」と批判し、バリケード戦術は廃れていった…かと思いきや日本では昭和40年代の大学紛争においてもまだまだバリバリ現役だったけど)。レミゼ.jpg


③その革命裁判で死刑を宣告されると凍った川を渡らされ、途中で氷が割れて死んでしまう。これは原作コミック『バットマン:ノーマンズ・ランド』の中ですでに描かれているイメージだが、この映画ではさらに、ロシア革命の時に赤軍に追われた人々が凍結したバイカル湖を渡ろうとして沈んだ歴史的悲劇“バイカル湖の悲劇”をも想起させる。

④ベイン率いる革命軍とバットマン率いる警官隊が衝突するシーンでは、バットマンは珍しくなぜだか日中に戦う。そのシーン、晴れた日で粉雪が舞っている昼間なのだが、ここはロシア革命の導火線となった「血の日曜日事件」の光景を彷彿させる。雪の積もる晴れた日の出来事だった。

 こうした革命のイメージの数々に、さらに9.11のNYのイメージや(ベインがテロを仕掛けるシーンではグラウンドゼロをわかりやすく空撮してます)、そしてコミック『バットマン:ノーマンズ・ランド』のイメージを掛け合わせ、見てると心臓に若干のプレッッシャーすら覚えるような、凄まじいまでに圧迫感のあるリアリズムを漂わせながら、このまま理不尽な格差社会が是正されないと遠からず現実になるかもしれない革命と混乱の様相を『ダークナイト ライジング』という映画は生々しく描出しているのです。


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 つい数年前の“ウォール街を占拠せよ”運動というのをご記憶でしょう。正確には2011年の出来事です。この『ダークナイト ライジング』のまさに撮影中に全米を揺るがしていた社会運動で、特にウォール街があるためロケ地ニューヨークがかなり騒然としていた様を、ワタクシもニュースで連夜見ていた記憶があります。

 アメリカは、上位1%の富裕層がケタちがいの富を独占している格差社会とよく言われます。しかもその1%が2008年リーマンショックを起こして世界を経済危機に陥れ、99%の中からは失業する人もおおぜい出たのに、1%は税金で救済され、挙げ句の果てにその公的資金を自分たちのボーナスに回したということで、99%側の人たちの間で「フザけんじゃねえ!」という機運が高まり、”We are the 99%”をスローガンにデモを行ったのが“ウォール街を占拠せよ”運動でした。

 この運動とちょうど同時期に撮影・公開されたため、当時から『ダークナイト ライジング』はこれと結び付けられて論じられるケースが多くて、実際、ベインと彼の革命軍の姿と“ウォール街を占拠せよ”運動の様子はものすごくオーバーラップします。一時は実際のデモの模様をノーラン隊が撮影し、劇中にそのフッテージを使うのではという噂まで流れていたぐらい。

ノーラン.jpg ノーラン監督自身は「この映画に政治的な意図はない」、「モデルはフランス革命だ」と語っており、他の制作陣も「ベインと“ウォール街を占拠せよ”運動が似ているのは単なる偶然」と言ってはいますけれど、その言葉を鵜呑みにはできません。たまたま似ちゃったのか、炎上沙汰にならないようしらばっくれているのか定かではありませんが、しかし、意図してやってはいないとしても、時代が感じとっている理不尽感をこの映画が生々しく撮らえていることは間違いありません。

 そして今、2017年、格差社会を徹底的に攻撃し、貧しき人びとの“味方”を自称して大統領選を勝ち抜いてきたトランプさん就任に際して、再びこの『ダークナイト ライジング』と時事・世相がシンクロしたのです。

 映画史に残る文句なしの傑作『ダークナイト』と、ヒース・レジャーが命をかけて演じたジョーカーは、誰もが、全員が全員、高く評価するところでしょう。それに比べて毀誉褒貶あることは否めない『ダークナイト ライジング』ですけれども、ジョーカーというヴィランが「正義とは何か」という普遍的かつ哲学的な問題提起をしてくるのに対し、ベインの主張は逆に、きわめてタイムリーかつアクチュアル。トランプさんと同じ、“ウォール街を占拠せよ”運動とも同じ、格差社会批判です。

 格差社会、暴走するマネー資本主義。こんなのおかしい!こんなの理不尽だ!という至極ごもっともな鬱積した怒りが、昨年2016年には、数年前なら想像すらできなかったような“極端な政治的選択肢”に世界中の人々を飛びつかせてしまいました。

 文革やフランス革命、ロシア革命は、やがては反対派を弾圧・粛清しまくる恐怖政治になっていきました。ベインの革命も、ちょっと良いことを言ってるようでいて、歴史を知っているとその恐ろしさとオーバーラップして見えてきます。

 “極端な政治的選択肢”に飛びつきたい気になったら「まずは落ち着け」と、ひとまず深呼吸して見るべき映画、それこそが『ダークナイト ライジング』!このような時代になってしまった2017年、この作品の重要性は今こそ相対的に高まっているように思えるのであります。

 ちょっと良いことを言ってる人、「権力を大衆の手に取り戻すのだ!」とか胴間声でアジってる人、実はこいつベインじゃねえのか!? ということを慎重に見極めないといけない時代に、なんか、なっちゃいましたなぁ…。寒い時代だとは思わんか…。


(編成部 飯森盛良)

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KIRA.jpg おまっとさんでした、地域密着系都市型…じゃなくて、おまっとさんでした!夏に当チャンネル、『47RONIN』にかこつけた、フザけきったプレキャンを実施したのをご記憶でしょうか?

47RONINは複数形のsが付いてRONINSとならずに、英語の原題でも47RONINのままですが、なぜ複数形のsが付かないのでしょうか?このクイズに頓智の利いた回答をお寄せいただいた方の中から抽選で(※正解でなくて構いません)四十七士に、素敵なプレゼントが当たる。

 というプレキャンでした。おまっとさんでした!夏にやって冬まで寝かせて本日、結果発表と賞品の発送を同時に行います。おそらく明日、討ち入り当日に当選者のお手元にブツが届く、という粋な心配り。当選者の発表は賞品の発送をもって代えさせていただきますよ。なんせここに個人情報は晒せませんから。

 ああそれと明日12月14日(水)の13:00~は放送もしますよ。またぜひご覧ください。

 さて、まずは本ですね。

モンタヌス.jpg『おかしなジパング図版帖 -モンタヌスが描いた驚異の王国-』
価格:¥2,052
出版社:パイインターナショナル
著者:宮田珠己

 という素晴らしい図録でして、17世紀後半というから江戸前期ですが、その時代に、日本に来たこともないオランダ人モンタヌスが、出島から漏れ伝わってくる情報から想像だけで描いた日本の絵の数々を紹介している。なんだか、眺めてるうちにクラクラめまいがしてくるような、ドラッギィきわまりない一冊。

 あたらなかった方は各自でご購入ください。

 これが当たった方たちの、トンチのきいたご回答の数々がコチラ。

神奈川県の男性 「47才の浪人の話」


 いいっすね40歳の童貞男みたいで。

 次いってみよ。

足立区の男性 「寺坂が持って逃げて泉岳寺に奉納した!」

 意味がわかんなくて好き。

大阪の女性 「図に乗ってないから」

 図ね。sだけにね。ズだからね。上手い!これはいわゆるひとつの山田君座布団一枚ですな。

世田谷の女性 「SONYのwalkmanが47台あってもwalkmenにならないのと一緒。47roninは世界の登録商標」

 これは新しい問題提起がなされましたぞ。ウォークマンが47台あったら、アメリカ人はそれを何と呼ぶのか!? 本当に絶対ウォーク“メン”にはならないの?47walkmanズ、ともならないのか?深い。深すぎる難題だ。高校の英文法でこんなこと習ったか?

 これ以外にも、たくさんの珍回答をお寄せいただきました。良いやつは全部ここで紹介したいぐらいですが、「紹介しといて当てないのかよ!」と怒りを買いそうなので、感謝の念だけお伝えしておきます。ありがとうございました。

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 続いて塩。赤穂の天塩の当選者です。

天塩.jpg「浪人には塩が必用不可欠だったので、思わず題名のS(ソルト)を食べてしまったのだと思います\(^^)/」

 これも山田く~ん。ですな。

「余りにも低学力の人が浪人を英訳したので、複数形のSを落として発表してしまった。そこで、これを逆に使用してあたかも、意図的な物にしようとしてこんなクイズにしたが、応募数が少ないと、責任を取らなくてはならない。故に人助けを兼ねて、清き一票を投じてる!」


 いや私がタイトル付けた訳じゃないですから。ユニバーサル作品なので天下の東宝東和さんじゃないですかね。まさかして、これもまた、バンボロとかサーカムサウンドとかジョギリショックとかの輝かしき伝統に連なる、一種の東和宣伝マジックなのか!? なわきゃねえか。


 サクサクいきましょう。

「キアヌリーヴスがぼっち好きだから」

「ピンクレディーと同じでSを取った方が響きが良いからです。」

「しまりがある」

 いい感じにフザけてますね。好きです。この調子で、皆さん、かなり頓智が利きすぎております。全部は紹介できませんな。

 もっとナメた回答も、今回のプレキャンに限っては全然ウエルカムでした。以下の5つは個人的にはツボにハマった。MAXナメきってた、いっそ清々しいほどの名回答(普段だと普通ハズれますわな、これじゃ…)。

「つけ忘れた」

「たまたま」

「ミスプリント」

「わからない」

「どうでもいい」

 なにかこう、『47RONIN』という映画のもっている謎なバイブスとシンクロしている気もするので、今回に限りまして、これらも大正解とします。

 合計300件ちかいご応募がありまして四十七士に賞品をお送りしますが、300件ってのは凄い!「頓智の利いた回答寄せてくれ」なんてムチャぶりというかハードル高すぎなお題に対して、よくぞまあ300名様もお付き合いくださいました。誰より企画担当者本人が意外の念でいっぱいです。こんだけハードル高い場合、「47件もこないかもしれない。ま、ネタだからいいけど」と、事前には覚悟していたぐらいです。

 最後に、今回フザけた回答を求めたのですが、正解にまったく触れないというのも、気になっちゃって眠れない人が出るかもしれないので、正解らしき回答も一応ご紹介しときます。

「『七人の侍』も ”Seven Samurai”なので、47RONINも同じようにsがつかないのかなと思いました。」
「ronin, yakuza, policeなどは集合名詞なので複数形もsは付かない。複数形にしたい時は、two members of yakuzaなどとして使う。」

 もっともらしいけど、本当なのか?しかし、本当に正解かどうか当局は一切関知しないのでそのつもりで。なおこのテープは自動的に消滅する。と言いたいところですけど別に消滅しないので、かわりにこの決め台詞で〆させていただきましょう。「信じるか信じないかはあなた次第!」

 それでは皆様、良いお年を。We wish you a merry 義士祭!

文/企画担当 ザ・シネマ飯森
© 2013 Universal City Studios

徳川吉宗.jpg

文:なかざわ ひでゆき(映画&海外ドラマ・ライター

『アパッショナータ』放送ラスト3回は
 2016年11月02日(水) 深夜 04:00 - 深夜 06:00
 2016年11月19日(土) 深夜 02:30 - 深夜 04:15
 2016年11月25日(金) 深夜 02:15 - 深夜 04:15


 映画の楽しみ方というのは人によって様々だとは思うが、恐らく“女優で見る”という映画ファンも少なくないだろう。かくいう筆者もその一人。スクリーンに美しくも神々しい大輪の花を咲かせる女優は、その存在自体がまさしく芸術だ。もちろん、なにも若けりゃいいってもんじゃないし、綺麗なだけで中身のないマネキンを女優と呼ぶのも憚られる。美しさにだっていろいろ。肝心なのはスターのオーラであり、立ち振る舞いであり、スタイルであり、そして演技者としての表現力だ。優れた女優は時として平凡な映画を傑作に変えることだってあるし、作り手に思いがけないインスピレーションを与えることもある。

 それぞれの時代のそれぞれの国で素晴らしい女優が存在してきたが、中でも’50~’70年代にかけてのイタリア映画は世界に冠たる女優の宝庫だったと言えよう。ソフィア・ローレンにジーナ・ロロブリジーダ、アンナ・マニャーニ、ロッサナ・ポデスタ、ヴィルナ・リージ、クラウディア・カルディナーレ、ステファニア・サンドレッリ、ラウラ・アントネッリなどなど枚挙にいとまない。ウルスラ・アンドレスやマリーザ・メル、アニタ・エクバーグなどの外国女優も、イタリア映画に出演すると格段に輝いて見えた。さすがは、ディーヴァの語源となった国である。

オルネラ・ムーティ&エレオノラ・ジョルジ.jpg…と、前置きがすっかり長くなってしまったが、今回のお題目であるイタリア映画『アパッショナータ』(’74)もまた、女優で魅せる映画だと言える。主演はオルネラ・ムーティとエレオノラ・ジョルジ。クールな佇まいに情熱的な瞳のブルネット美女ムーティに対し、淑やかでどこかアンニュイなブロンド美女ジョルジ。この絶妙な好対照ぶり。抜群のコンビネーションである。しかも、’70年代のイタリア映画らしく大胆なヌードシーンもてんこ盛り。なんていうと下世話に聞こえるかもしれないが、必要とあらばいくらでも脱ぐ…いや、必要がなくても脱いでいいのだけど、とにかくそれくらいの気骨があってこそプロの女優だろう。

 まずは簡単にストーリーの解説から入るとしよう。舞台は現代のローマ。女学生のエウジェニア(オルネラ・ムーティ)とニコラ(エレオノラ・ジョルジ)は大の親友で、どちらも思春期の多感な年頃だ。エウジェニアの父親エミリオ(ガブリエル・フェルゼッティ)は裕福な歯科医、母親エリザ(ヴァレンティナ・コルテーゼ)は元コンサート・ピアニスト。傍から見ると何不自由のない幸せな家族のようだが、父親は仕事で忙しく家庭を顧みる余裕がなく、母親はノイローゼ気味で情緒不安定。家の中には、いつもどこか気まずい空気が漂っている。一方のニコラは外交官の娘だが、今は伯母のもとで暮らしており、両親の愛情に飢えている複雑な少女だ。

 ある日、エミリオの治療を受けたニコラが彼を誘惑する。相手は娘の親友だ。戸惑うエミリオだが、しかし若くて美しい彼女の魅力には抗し難いものがあった。そんな2人の危うい関係を察知したエウジェニアは、まるで対抗心を燃やすかのように父親を性的に挑発。エミリオもエミリオで、実の娘をこれまでとは同じようには見れなくなっていく。近親相姦すら匂わせる危険な三角関係。その不穏な空気は母親エリザの精神をも蝕み、やがて美しくも完璧なブルジョワ家庭は静かに、だが確実に崩壊していく…。ニコラ&エウジェニア.jpg

 いわゆるイタリアン・エロスの系譜に属する作品ではあるものの、それだけで片付けられないのは、本作がマルコ・ベロッキオの『ポケットの中の握り拳』(’65)やピエル・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』の流れを汲む映画でもあるからだ。要するに、家族の崩壊というテーマである。’68年にフランスで起きた学生運動、いわゆる五月革命はたちまちイタリアへと飛び火し、その前後に“新イタリア派”と呼ばれる反体制的な映像作家や、そうした時代の傾向を敏感に取り入れた作品がイタリア映画界を席巻する。彼らが異議を申し立てたのは、旧態然とした政治であり、宗教であり、社会階級であり、そして家族だったのだ。

 『ポケットの中の握り拳』で家族を崩壊に導いたのは伝統的な家族制度、『テオレマ』ではセックスがブルジョワ家庭の空虚な仮面を剥がしたわけだが、本作でエウジェニアの家庭を破壊するのは若さである。若さゆえに気まぐれで魅力的で残酷な少女たち。そして、若さへの憧憬から道を踏み外してしまう父親エミリオ、若さへの嫉妬と渇望から狂っていく母親エリザ。そういう意味では、ヴィスコンティの『ベニスに死す』(’71)を彷彿させるものもあると言えるかもしれない。

 監督は『楡の木陰の愛』(’75)でも知られるジャンルイジ・カルデローネ。一歩間違えるとただのソフトポルノ映画になりかねない題材を、まるでマウロ・ボロニーニやジュゼッペ・パトローニ・グリッフィの文芸エロスかのごとく、官能的で背徳的でありながら繊細で美しく上品な青春残酷物語として仕上げている。ヴィスコンティ映画の撮影監督としても有名なアルマンド・ナヌッツィによる瑞々しい映像美、モリコーネやロータと並ぶイタリア映画界のマエストロ、ピエロ・ピッチョーニの手がけた華麗な音楽スコアも素晴らしい。主演女優の魅力も然ることながら、映画作品としても紛れもない一級品だ。

 当時まだ19歳だったオルネラ・ムーティ。初期の『シシリアの恋人』(’70)や『ふたりだけの恋の島』(’71)もそうだが、彼女は怒りや不満、欲望など沸々としたものを内に秘めた、物静かながらも情熱的なイタリア女性を演じさせたら右に出る者のない存在だ。その個性はカルディナーレにも通じるものがあると言えよう。本作のエウジェニア役もまさにその延長線上だ。恐らく彼女は決して父親に恋心を抱いているわけではないし、当然ながら性的な欲望を感じているわけでもない。若さゆえの心理的な衝動が彼女を突き動かすのであり、それが何なのかは本人も分かっていないはずだ。そんな少女の複雑な危うさを演じて見事である。

 一方のニコラ役を演じているエレオノラ・ジョルジは、日本では恐らくアルジェントの『インフェルノ』(’80)くらいでしか知られていないかもしれない。なにしろ、出演作の大半が日本だと劇場未公開なので仕方ないのだが、’70~’80年代のイタリア映画界ではグロリア・グイダやモニカ・ゲリトーレなどと並ぶ売れっ子スター女優の一人だった。父親は映画プロデューサー。本作の当時は21歳。少女のようなあどけなさと豊満な肉体のアンバランスが魅力で、本作でもそれが大きな武器となっている。

 また、本作で見逃せないのは母親エリザ役の大女優ヴァレンティナ・コルテーゼの存在だ。ファシスト政権末期のイタリア映画界でお姫様女優として活躍し、戦後はルイジ・ザンパやミケランジェロ・アントニオーニら巨匠にも愛され、一時はハリウッド映画でも活躍した。トリュフォーの『アメリカの夜』(’73)では落ちぶれたスター女優を演じてアカデミー助演女優賞候補となり、『オリエント急行殺人事件』で受賞したイングリッド・バーグマンが“本来ならあなたが受け取るべきよ”と会場にいたコルテーゼへ賛辞を贈ったのは有名な話。若かりし頃の彼女は、まるで中世ヨーロッパの貴婦人画から抜け出てきたような美女だったが、本作の当時もその美貌は十分に片鱗をとどめており、だからこそ失われてしまった若さを渇望し、老いゆく自分が夫から愛されているのかどうか自信を持てず、その不安から精神を病んでいくエリザを演じてすこぶる説得力があるのだ。

 なお、父親エミリオを演じているのはアントニオーニの傑作『情事』(’60)で有名な伊達男俳優ガブリエル・フェルゼッッティ。迷子になったエリザの愛犬を拾ってくる肉屋の丁稚役として、パゾリーニ映画の常連だった二ネット・ダヴォリも顔を出している。


@REWIND 1975 P.A.C. Produzioni Atlas Consorziate1975 e REWIND FILM 2000.

なかざわ ひでゆき
映画&海外ドラマ・ライター。雑誌「スカパー!TVガイド BS+CS」で15年近くに渡ってコラム「映画女優LOVE」を連載するほか、数多くの雑誌やウェブ情報サイトなどでコラムや批評、ニュース記事を執筆。主な著作は。「ホラー映画クロニクル」(扶桑社刊)、「アメリカンTVドラマ50年」(共同通信社刊)など。ハリウッドをはじめとする海外の撮影現場へも頻繁に足を運んでいる。


【こんな百合シーン本編に無い!サービス宣材写真館 (クリックして拡大)】

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2015年10月の放送予定を、都合により下記の通り変更させていただきます。

当サイト上では、すでに下記の変更が適用済みです。



ご不便をおかけします事を謹んでお詫び申し上げます。

今後ともザ・シネマをどうぞ宜しくお願い致します。

ザ・シネマ



【1】放送作品の本編尺の変更(1作品)

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『彼女は二挺拳銃』

変更前)   86分

     ↓

変更後)   91分

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【2】放送日程の変更(2箇所)

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<10/26(月)> 

変更前)19:30~21:00   『彼女は二挺拳銃』

           ↓

変更後)19:30~21:00   『恐怖ノ黒洋館』

<10/31(土)>

変更前)深夜4:30~深夜6:00   『彼女は二挺拳銃』

             ↓

変更後)深夜4:30~深夜6:00   『恐怖ノ黒洋館』

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24時間SWデイ.jpg5月4日は『スター・ウォーズ』ファンにはお馴染みの台詞“May The Force Be With You 「フォースと共にあらんことを」”の、May The ForceとMay the 4th をかけて、ルーカス・フィルム公認の“スター・ウォーズの日”と定められています。ザ・シネマでは、この日に「24時間スター・ウォーズDAY」を実施します。

 

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朝6時から、翌日朝6時まで、ぶっ続けでシリーズ6作品や、関連作品を放送します。そして、なんと、当日は「スター・ウォーズの日」を盛り上げる本邦初放送のルーカス・フィルム製作の特別ミニ映像も、映画本編と本編の間で放送します。お見逃しなく!

また、ザ・シネマで実施しました「マイ・ベスト・スター・ウォーズ 日本人の心に残る名シーンべスト10」キャンペーンの結果も当日オンエア内で発表します。第1位に輝くのは、どのシーンでしょうか?


 

■ルーカス・フィルム製作「スター・ウォーズの日」必見の特別ミニ映像!

★特別映像1『突撃レポート!5月4日はスター・ウォーズの日』
(初回放送)7:45から放送の『(吹)スター・ウォーズ/イウォーク・アドベンチャー 勇気のキャラバン』直前

 

★特別映像2『5月4日の楽しみかた』
9:30から放送の『 (吹)スター・ウォーズ/イウォーク・アドベンチャー 決戦!エンドアの森』直前

 

★特別映像3『R2-D2、NASAへ行く』
(初回放送)11:15から放送の『 (吹)スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』直前

 

 

 

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■「マイ・ベスト・スター・ウォーズ 日本人の心に残る名シーンべスト10」キャンペーン結果発表

★「マイ・ベスト・スター・ウォーズ」ベストシーン10-4位発表!
13:30から放送の『 (吹)スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』直前

 

★「マイ・ベスト・スター・ウォーズ」ベストシーン3位発表!
15:45から放送の『 (吹)スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』直前

 

★「マイ・ベスト・スター・ウォーズ」ベストシーン2位発表!
18:30から放送の『 (吹)スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』直前

 

★「マイ・ベスト・スター・ウォーズ」ベストシーン1位発表!
21:00から放送の『 (吹)スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』直前

 

フォースと共にあらんことを。

ザ・シネマ編成部

 

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