あなたはジョン・カサヴェテスの映画を最後まで観ていたか?

LETTERS ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
あなたはジョン・カサヴェテスの映画を最後まで観ていたか?

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  1. “ブルー”の準備は出来ている?
  2. カサヴェテスによる「映画」
  3. 助けを求めない人々
  4. 映画体験として
 カサヴェテスの映画を観るとき、痛みに似た感覚を伴うのは何故なのだろう。画面から伝わる緊張感、視線や感情が交差するヒリヒリとした手触り。彼の作品を見る者は、どこか居心地の悪さを感じながらもそこで起きている出来事を一緒に体験することになる。痛みを伴い、生々しい感情の摩擦に耐えながら観る映画──。

 さて、あなたはジョン・カサヴェテスの作品を最後まで観ていただろうか?

エッセンシャル:ジョン・カサヴェテス

出典: YouTube

“ブルー”の準備は出来ている?

 例えば、『フェイシズ』で冒頭から延々繰り広げられるのは、から騒ぎ。まるでアンフェタミンでもやっているかのようなヒステリックな笑い声と、度を越して騒々しい馬鹿話の応酬だ。『FACES』というそのタイトルの通り、顔、表情、視線がクローズアップされ、緊張と緩和を行ったり来たりしながら時間が経過していく。人物が動けば、カメラは引きの画面となり、その空間を移動する姿を捉える。そしてそれを目で追う表情へとカットは移行する。そうやって作り出されたリズム感とそこに映っている生の感情とがカサヴェテスのパレット上で混ざり合い、色を成していく。
 軋む音を立てて交錯した人物たちは予期せぬ感情の変化を経ながらも、やがてそれぞれの場所へと消えてゆき、最後にたどり着くあの階段のシーン。夫婦の姿を映しながら流れてくる曲は、Charlie Smalls の「Never Felt Like This Before」。陳腐さを1ミリも伴わずに「ブルース」という言葉が浮かび上がる極上のシークエンスへと是非辿り着いてほしい。

「フェイシズ」©1968 JOHN CASSAVETES

 カサヴェテスが描く人間模様を表すのは、「サッドソング」ではなく、あえて「ジャズ」でもなく「ブルース」という言葉の方がしっくりくる。「それでもやっていく。」という意思によって、ハッピーではないかもしれないけれども、「そうやってこれからも毎日は続いていく」という感覚がもたらされるのだ。お行儀よく伏線が回収されて、さも正しそうな結末を迎えるようなことは一切ない。作品によってはジャズがBGMとなっていることが多いのかもしれないが、その奥にあるのは“ブルース”の“ブルー”の感覚だと思う。だからもしかしたら、その準備が出来ていないと最後まで観られないのかもしれないし、あるいは、その感覚を知るためにも最後まで観るのかもしれない。

カサヴェテスによる「映画」

 『フェイシズ』に限らず、カサヴェテス作品ではクローズアップが多用されるが、その編集の妙は、ひとつ注目すべきポイントなのだと思う。何度もその場で俳優たちは演じ、カメラは場所を変え、角度を変え、それを収める。そうやって記録した膨大な量のフィルムを膨大な時間を費やして編集をしないとこれらの形にはならないからだ。
 何故そんなことをするのか?そこにいる人間たちが置かれた状況とそれぞれのキャラクターを本当の姿で浮かび上がらせたいからではないか。映画は、本当のことではないことをその場で起こし、それをカメラで撮る訳だけれども、その場で起こるストーリーやキャラクターにとっての“本当のこと”、それを求めて格闘することが彼にとっての「映画」であるような気がしてならない。
 だから、何についての映画であるか?ということはカサヴェテス作品において、さして重要なことではない。彼の作品は、始まった時には既にどこかで何か厄介な問題が進行している。そしてその問題と向き合う登場人物たちの孤独と戸惑い、格闘と摩擦が容赦なく映し出され、観ているものにまでその生の感情が伝わってくるのだ。

「こわれゆく女」©1974 Faces International Films,Inc.

 そこにはセッションの記録を編集して作品にまとめあげるような熱量の生々しさがある。けれども、これは即興演出である必要はなく、俳優たちがそのキャラクターとしてそこで生き始めるまで根気よく準備し、ある「状態」を創り出す。それは映画の中での「真実」であり、俳優はその時間をキャラクターとして生きている。その点においては演劇と相通ずるものがあるのだろうが、演劇はその場での一回性こそが全てであり、上演を繰り返しながら変わっても行くだろう。反復して演じられたものをカメラで収め、それらを編集することこそが映画と演劇との決定的な違いで、カサヴェテスにとってはもしかしたら、演劇は映画へ辿り着くためのプロセスなのかもしれない。その意味では、一連の作品を観て、『オープニング・ナイト』へと至るとカサヴェテスのエッセンスをより感じられることだろう。

助けを求めない人々

 スタックした状況から抜け出せず、事態はどんどん悪化していくのに、登場人物は泣きながら心情を説明したり、助けを求めたりしない。あくまでも自分のルールや信条をつらぬこうとする。そして『こわれゆく女』のように必死に誰かに愛情を伝えようとしたり、『オープニング・ナイト』のように泥酔しながらも自分の足で立ち上がって舞台へと歩いていく。

「オープニング・ナイト」©1977 Faces Distribution Corporation

 そして家族や家族同然の仲間たちは、感情をぶつけながらも時に抱きしめ、時に辛抱強く見守る。劇中でも「私たちはファミリー」と楽屋で話すシーンがある通り、文字通りの家族であったり、ショービジネスや舞台の関係者という家族同然の仲間であったりもするが、カサヴェテスが一貫して描いているのは、“家族の愛の物語”なのではないか。“愛”こそが必要なのであり、そのことによって複雑な問題が生じてくる。それでも日々は続いていく。その軋みを、いびつさをものともせずに形にした甘さのないストーリーたち。

映画体験として

 なかでも『オープニング・ナイト』が特別だと思うのは、劇中劇である演劇のニューヨークでの初演の日、裏方、子役、俳優陣、演出家、全員が“ファミリー”として、この舞台という生き物に息を吹き込もうとする姿が、なんとも切実かつ躍動感のある映像で映し出されていくことだ。映画の前半は、劇中劇のセリフと劇中劇で“演じられている”即興との境目があいまいなのだが、その前半で見ていた舞台のリハーサルシーンが本番で演じられ、その反復があるので、戯曲自体は存在していることが判る。(実際、カサヴェテスはこの戯曲を上演し、その本当の上演の舞台や客席を撮影して本作に入れ込んでいる。)そして、そこに、マートルの状態に応じて俳優たちが舞台上で対応していく様が観る者にもわかるようになっていく。 
 最後にはジーナ・ローランズ演ずるマートルが這いつくばりながらも舞台に上がろうとする姿を、そしてそれをチームで支えようとする姿を、この映画自体がラストに向かってドライブしていく、作品が生きようとしていくその力と重ね合わせて、信じて祈りながら観ることになる。そんな映画体験は、なかなか味わえるものではない。

 ジョン・カサヴェテスのエッセンスに是非、触れてみて欲しい。

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この記事のライター

ザ・シネマメンバーズ 榎本  豊
ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
レトロスペクティブ:エリック・ロメールを皮切りにした2020年4月のザ・シネマメンバーズのリニューアルローンチから、ザ・シネマメンバーズにおける作品選定、キュレーションを担当。動画やチラシその他、宣伝物のクリエイティブなども手掛ける。

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