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記事公開/2016年12月

バットマンが存在する世界の視覚化  -『ダークナイト』トリロジー

文/尾崎一男

 『バットマン ビギンズ』(05)『ダークナイト』(08)そして『ダークナイト ライジング』(12)。クリストファー・ノーランによる『ダークナイト』トリロジーは、ティム・バートンが『バットマン』(89)ならびに『バットマン・リターンズ』(92)で繰り広げたゴシック様式の世界観ではなく、

「空想の産物であるアメリカンコミックの世界を、リアルに実写化させたらどうなるか?」

 という追求のもとに手がけられている。ヒーローとヴィラン(敵役)が対峙する社会が実際にあるのならば、そこでは何が展開され、我々の目にどのように映るのかーー? それらを完璧に成立させる試行の数々を、ノーランはこの革命的なサーガの隅々にまで行きわたらせている。そして「マスクをかぶった正義の味方」という児戯のような存在を信じるに足る合理性をもたらし、大人の観賞に耐えうる一大エピックを築き上げたのだ。

 もっともノーラン自身は重度のコミックマニアというわけではない。そのため生粋のコミックマニアである脚本家のデヴィッド・S・ゴイヤーにプロジェクトへの参加を要請。基本的なバットマンの約束事を遵守したうえで、コミックからコミックらしい要素を取り払い、荒唐無稽なアイディアに説得力を持たせるための、写実主義に重点を絞った映像表現にこだわっている。

 1978年のリチャード・ドナー監督作品『スーパーマン』以来、DCコミック実写映画化の伝統としてある「演技力を備えた大物俳優をキャスティング」することで作品に格調をもたらし(マイケル・ケインやモーガン・フリーマンの起用)、アクションシーンも見せ場としての役割に特化したオーバーなものではなく、暴力の痛みや悪意を象徴する起動装置として作用を働かせている。またバットモービルなどのバットマンが用いるメカは、攻撃や防御のためのフォルムをあらわにした「戦うための兵器」らしいデザインが施されている。

 なにより舞台となるゴッサムシティは、プロダクションデザインで創造された架空の外観ではなく、シカゴをロケ地とした実景撮影に比重が置かれた。視覚効果も必要最小限に留められ、同クラスのアクション大作では1500前後は下らないVFXショットも、本サーガにおいては平均してわずか300から400程度と、加工の少ない生の映像が提供されている。カメラワークに関しても、ズームインやズームアウトといった人間の視覚メカニズムにはありえない手法は回避し、あくまで現場におけるカメラムーブを人間の視界として合致させ、臨場感を描き出しているのだ。

 そして極めつけは、

「なぜブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)はコウモリのイメージを用い、悪と戦う選択をしたのか?」

 という、バットマンの本質に肉薄した物語を展開させている。ノーランはこうした問いを根本から洗い出し、浮き上がってくる数々の疑問に回答を与えることで、バットマンという存在をとことんまで正当化させていったのである。

マイティ・ソー

 しかし何故、撮影当時わずか33歳だったノーランに、そこまでの大舞台の仕切りが可能となったのか?

 時間を逆行させる編集で話題をさらったサスペンス『メメント』(00)など、奇抜な発想で低予算やスターの不在をカバーし、キャリアの早い時期から才気煥発たる創意を放ってきたノーラン。同作によって観客だけでなく、映画業界人の注目を浴びた彼は、自身初のメジャー作である『インソムニア』(02)を手がけ、本作を世界的な成功へと導いていく。そして、こうした取り組みの連続性においてハリウッドとの接点が与えられ、ワーナー・ブラザースと根強い関係がノーランにもたらされることになるのだ。おりしも2000年、アラン・ホーンがワーナーの新たな社長に就任したさい、彼が「バットマンをもう一度スクリーンに」という命題を掲げたことを機に、ノーランに白羽の矢が当たったのである。

 当時、ハリウッドの大作映画はデジタル化の潮流に乗り、CGによって多くの視覚的イメージを作り出し始めていた。インデペンデントの土壌で映画を手がけてきたノーランは、このことに対して違和感を募らせていたのだ。

「(映画は)現実からどんどんとかけ離れていっている」(*1)

 こうした現状への反骨精神が、インディ出身ならではの大胆な発想力と、メジャーが尻込みするような試みを臆することなく採り入れる姿勢をうながしていく。

 そんなノーランの意欲の表れとして顕著なのが、大型イベント映像として知られたIMAX方式を劇場用長編映画に用いたことだろう(『ダークナイト』『ダークナイト ライジング』にて実施)。フィルムメディアが誇る、鮮明かつ巨大スクリーンの視覚体験がもたらす迫真性を、ノーランは自らが求めるリアリティへの補強としたのである。彼は言う、

「巨大なスクリーンを見上げ、自分の人生よりも大きいと感じさせてくれるイメージに圧倒される」(*2)

 こうした『ダークナイト』トリロジーでの取り組みが、ひいてはノーラン自身の作風を確立させ、フィルモグラフィを重ねていくうえでの重要な要素となっていく。そして『インセプション』(10)や『インターステラー』(14)といった、近年の傑作群を生み出す下支えになっているのだ。

 『ダークナイト』トリロジーは、ヒーロー映画を構築するための理想的な方法としてだけではなく、クリストファー・ノーランの作家性を広げていくための有益な効果をもたらしたのである。

キャプテン・アメリカ

 こうしたノーランのアプローチに対して「コミックの自由性を現実に押し込める息苦しい作風では?」と否定する声もある。加えて「フィルムというアナログな表現手法に固執することは、デジタルの可能性に対する後ろ向きな姿勢のあらわれ」という疑問が投げられることも少なくない。

 また、ノーランのアプローチがDCコミック映画のベースを形作ったことから、その後のフランチャイズ展開をやりづらいものにしているのだと、副作用を指摘する者もいる。事実、氏の追求したリアリティが、スーパーマンやワンダーウーマンらの持つ超人性や飛躍した設定を収めきれず、彼らとバットマンが共演を果たした『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(16)で乖離の様相を呈してしまっているのだ。こうしたことはDCコミックヒーローが一堂に会する『ジャスティス・リーグ』の成立に、一抹の不安を抱かせてしまう。

 だが、コミックが持つ自由性を主張するのならば、ノーランアプローチもまた「自由表現」のひとつとして尊重されるのが筋ではないのか?

 なによりも、悪の定義が複雑化したテロの時代において、それに呼応したヒーローのアップデートは不可避なものだ。大義もなければ私欲もない、混沌とした世界が産み落とした無秩序なジョーカー(ヒース・レジャー)や、核融合炉を兵器にして都市にクーデターをもたらすベイン(トム・ハーディ)の存在を、果たしてタイツ姿で少年と共に行動する男が受けきれるというのだろうか?

 しかし、しかしである。そんなシビアで沈んだような現実性を誇張した作風だからこそ、満身創痍の戦いを繰り広げるブルース・ウェインの姿は崇高極まりなく映るのである。ノーランの、冷えた視点で世界を捉えているように思えながらも、熱くヒーロー神話を肯定する姿勢。それは『ダークナイト ライジング』の最後、核兵器を被害の及ばぬ水平線の向こうへと運ぶ、そんなバットマンを見つめる人々の姿に象徴されている。

 バットマンは、我々の世界に存在するのだーー。


(*1)「Newsweek日本版」(CCCメディアハウス)2005年6月22日号特集
    「バットマンの新たな旅立ち」より抜粋

(*2)「ユリイカ」(青土社)2012年8月号特集「クリストファー・ノーラン」
    インタビュー記事「伝統主義者」より抜粋

尾崎 一男(おざき かずお)

映画評論家&ライター。「チャンピオンRED」「フィギュア王」「映画秘宝」といった雑誌への寄稿のほか、映画関連の書籍や劇場用パンフレット、パッケージソフトの解説書などを執筆。また“ドリー・尾崎”の名義でシネマ芸人ユニット[映画ガチンコ兄弟]を組み、TVやトークイベントでも活躍中。日本映像学会(JASIAS)会員。

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