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インディ・ジョーンズ 123シリーズ一挙放送 満を持してザ・シネマについに登場! 誰もが愛する『インディ・ジョーンズ』シリーズから、あの頃、
皆が胸躍らせた123作を、シリーズ一挙放送としてお届け!!

レイダース 失われたアーク

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インディー・ジョーンズ 魔宮の伝説

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インディー・ジョーンズ 最後の聖戦

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インディ・ジョーンズ 誕生の秘密

インディ・ジョーンズはいかにして生まれたのか?

 大学の考古学教授という職にありながら、神秘の力を持つ古宝や遺跡を求めて世界じゅうを駆けめぐり、生死もいとわぬ大冒険を繰り広げるインディ(インディアナ)・ジョーンズ博士。1930~50sのヴィンテージな時代をまたにかけ、神秘の力を悪用しようとする邪教集団やナチに敢然と立ち向かうこの魅力的なヒーローは、いったいどのようにして誕生したのでしょうか?

 インディ・ジョーンズは、このシリーズの製作を指揮したジョージ・ルーカスが、かねてより企画を温めていたキャラクターでした。

 ルーカスは自身の映画体験として、かって1930年代から40年代に流行した、マチネー映画の冒険活劇をこよなく愛していました。一難去ってまた一難という、切れ目のないアクション展開。スリリングなストーリーを常とし、絶頂の盛り上がりを見せたところで次回へと持ち越される、たまらない連続性。そうした古き時代の活劇スタイルを、アクション映画そのものが勢いを失っていた70年代後半当時のハリウッドに甦らせようとしていたのです。そんな思惑のひとつが『スター・ウォーズ』シリーズとなり、今やこの世に知らない人はいません。

 しかしルーカスは同時に、宇宙ではなく、地球のいろいろな国を飛び回るリアルタイプのアクションヒーローを平行して考え、マチネースタイルの活劇映画の企画をもうひとつ用意していたのです。それはすなわち「ルーク・スカイウォーカーの地球人版」というべきヒーローの物語でした。

 でも多くの人の場合、インディはルークというより、むしろハン・ソロのイメージが重なるのではないでしょうか。危険と背中合わせで行動するワイルドな野生派にして、無類の女たらし。なによりソロもインディも、演じている俳優が共にハリソン・フォードだという最大の共通点があります。

 しかし、もともとインディ役にはフォードではなく、『未来警察』(84年)『スリーメン&ベビー』(87年)のトム・セレック(5月放送)の起用が考えられていたのです。厳選された250人の一流俳優たちから検討されたセレックは、濃い顔にたくわえたヒゲが目を引く、そのごつごつした男性的イメージをインディ役として買われていました。

 ところが、彼は当時出演していたテレビドラマ『私立探偵マグナム』の契約に縛られ、残念ながら出演はかなわず。そこでハリソン・フォードが代理で起用となったのです。しかし窮余のすえのオファーとはいえ、彼ならではの"ニヒルなはにかみ"が印象をかもす表情と、激しいアクションにも耐える強靭な肉体は インテリにして行動型、ときにユーモラスな一面も見せるインディの設定を見事に体現しました。

 そう、フォードの役者としてのメソッドが、インディ・ジョーンズのキャラクター像を決定づけたといっていいでしょう。

 今や冒険ヒーローの代名詞となり、タイトルに堂々と冠されている[インディ・ジョーンズ]というその名も、当然ながらルーカスが考えていたものです。その由来はシリーズ第3作目となる『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』のエピローグで楽屋オチのように明かされており、知っている人も多いのではないでしょうか。劇中、インディは父親のヘンリー・ジョーンズ博士によって、飼っていた犬の愛称が名前にちなむことを公にされてしまいます。

 それはまさしく現実も同じで、ルーカスは自分が飼っていたエスキモー犬の名をとり、インディとしたのです。ただ、そのときはまだ名字はジョーンズではなく、スミスという響きのパッとしない仮名だったのですが。

 それをインディ・ジョーンズというふうにキリッと改めたのは、本シリーズの監督であるスティーヴン・スピルバーグです。

 スピルバーグはインディ・スミスという名前を聞いたとき、
「スミスだと『ネバダ・スミス』(66年)でスティーブ・マックィーンが演じた主人公と重なっちゃうよ」
という指摘をしました。そのために名字が再考され、最終的にインディ・ジョーンズという名前が確立したのです。

 そう、スピルバーグもまた、インディのもうひとりの"生みの親"として、そのキャラクター形成に大きく貢献しているのです。例えばインディの風貌ですが、あのフェドラ帽に皮のジャケット、ストレートパンツ姿というおなじみのスタイルは、ルーカスにスピルバーグがサジェストしたものです。スピルバーグは『黄金』(48年)で名優ハンフリー・ボガートが演じた無精髭の流れ者、フレッド・C・ドブスの外見をインディに移植し、あの冒険家スタイルが決まったのです。なので、ボガートがインディを生む牽引力となったことに敬意を捧げ、シリーズ第2作目『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』の冒頭では、インディを白いタキシード姿で登場させ、ボガートの代表作『カサブランカ』(42年)へのオマージュを捧げています。ちなみにインディがムチ使いという設定は、ルーカスがラッシュ・ラリューという冒険キャラクターから拝借したものだと付け加えておきましょう。

 このようにインディ・ジョーンズの誕生は、二人の偉大な監督たちの豊かな映画体験と、ハリソン・フォードという俳優のバイタリティによって形作られていったものなのです。

ルーカスとスピルバーグ、 夢のドリームチーム

 ジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグ。インディ・ジョーンズのシリーズ作品としての成功は、ハリウッドに君臨する若き獅子たちの、奇跡ともえいるコラボレーションがもたらしたといっても過言ではありません。

 ともすれば真っ向から対立してもおかしくない、最強のライバル関係にある二人が、いったいどういった経緯で手を交わし、同シリーズを手がけるに到ったのでしょうか?

 ルーカスとスピルバーグの出会いは1968年。二人が20歳前半のときにさかのぼります。当時ルーカスは南カリフォルニア大学映画学科の学生として『THXー1138』(70年)の前身ともいえる『電子的迷宮/THX-1138:4EB』を発表し、そのプロ顔負けの作法は伝説となっていました。スピルバーグはその才能がいかほどのものか、学生映画祭での上映で同作を観に行き、その打ち上げの席でルーカスと会いました。

 かくいうスピルバーグも当時22才にして、既にパラマウントのスタジオに潜り込み、後に『刑事コロンボ』などのテレビドラマを演出する神童でした。かたや学生映画作家のレベルを超えた期待の新人、かたや20歳そこそこの若さで商業界のステージで活躍している天才を、二人は瞠目し、そしてハリウッドの高みを目指す同世代として、互いに共鳴しあったのです。

 そして時代は1977年。ルーカスは苦労のすえに完成した『スター・ウォーズ』の興行的成功に自信が持てず、奥さんのマーシャとハワイのマウイ島にバカンスに出かけました。いわば旅行という名の“逃亡”です。

 そんな彼の不安をよそに、『スター・ウォーズ』は前代未聞ともいえる大ヒットを記録。その吉報を伝えるけたたましい電話の音で、彼の不安はようやく払拭されたのです。そして、その電話の中に一人、聞き覚えのある男の声がありました。

「ジョージ、『スター・ウォーズ』のヒットを心から祝うよ!」

 それは『未知との遭遇』(77年)の視覚効果とサウンドトラックのダビング作業で精神的疲労のピークに達し、ルーカスと同様、1週間の休暇をとってハワイに滞在中のスピルバーグからのものだったのです。

 同じ境遇にして、同じ心労を抱えた二人は合流し、そして現実逃避するかのように、マウナケアの浜辺で砂の城作りに没頭しました。そこで彼らは今後のハリウッドにおける自分たちのあり方を検討しあい、次回作を模索するスピルバーグに、ルーカスはインディのアイディアを持ちかけたのです。

「じつは、新しいアクションヒーローの企画を考えているんだ」

 スピルバーグは、この提案に大きく心を動かされました。なぜなら彼はアクションヒーローの映画を撮りたくて仕方がなく、特にジェームズ・ボンドでおなじみ『007』映画の演出をやりたがっていたからです。事実、彼は初の劇場長編監督作である『続・激突!カージャック』(74年)を完成させたとき、『007』シリーズのプロデューサーであるハリー・サルツマンとアルバート・R・ブロッコリに「監督をさせてくれ」と直談判したことがあります。しかし今でこそ世界一有名な映画監督の彼も 当時はまだ代表作であるサスペンスパニック『JAWS/ジョーズ』(75年)さえ形になっていなかった時代で、キャリアの浅さから首を縦に振ってもらえませんでした。

 そんなスピルバーグに、ルーカスはさらなる殺し文句を言い放ちます。

「今みたいなハイテクのジェームズ・ボンドじゃなくて、体ひとつで危険に飛び込むオールドスタイルのボンドを作るんだ。インディならばそれができるよ」

 その言葉は完全にスピルバーグの胸を射抜きました。そして「僕は君が監督したインディを見てみたい」という期待に応え、『インディ』シリーズの監督を請け負うことになったのです。

 スピルバーグの初期007への傾倒ぶりは『最後の聖戦』を見れば分かると思います。彼は同作で、インディの父親であるヘンリー・ジョーンズ博士に、初代ジェームズ・ボンドとしてファンから絶大な人気を誇るショーン・コネリーを配役しました。これこそ「インディを生んだのはジェームズ・ボンド」であることへの、大いなる意思表示に相違ないものです。

 スピルバーグとルーカスという、映画ファンの血をたぎらせるような奇跡のドリームチームは、こうやって結成されました。そして机上における企画だったインディ・ジョーンズは、二人が浜辺で作った砂の城のように形となっていくのです。

『インディ・ジョーンズ』シリーズがもたらしたもの

 1981年、ルーカスとスピルバーグの熱い結託によって、インディ・ジョーンズを主人公にしたシリーズ第1作『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』は世に送り出され、長い間ヒーローアクションが不毛だったハリウッドの地に、鮮烈な華を見事に咲かせました。

 そしてインディは、さらにライド感と加速度を増したアクション演出で「ローラーコースター・ムービー」という造語をも派生させた第2作『魔宮の伝説』や、敵に再びナチを迎え、インディの父親を登場させてドラマに深みを持たせた第3作『最後の聖戦』とシリーズを重ねます。そして本シリーズはルーカスにとって『スター・ウォーズ』と肩を並べるプロデュース作品となり、ハリソン・フォードにとってインディは自身の俳優人生で最もビッグな“当たり役”となったのです。

 もちろん、このシリーズの誕生をフォローした功績者は三人の他にもいます。例えばルーカスとスピルバーグの要求したハードルの高い製作条件を受容し、続編4作を前提とする契約を結んだ当時のパラマウント製作部長マイケル・アイズナー。彼の先を見越した決断がなければ、時を隔てて作られた第4作目の『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(08年)までシリーズが続くことはなかったでしょう。そしてルーカスらの提案する多くのアイディアを議事録にまとめ、それを元に『レイダース』の脚本を書き上げたローレンス・カスダン。氏の確かな筆力と労なくして、あれだけ面白いストーリーを我々が見ることはなかったはずです。他にもナチを宿敵に設定し、アークというスーパーマクガフィンのアイディアを提供したフィリップ・カウフマン、そして誰もが口ずさめるあのテーマ曲を生み、胸踊る数々の旋律スコアで映画を盛り上げた、作曲家ジョン・ウィリアムズの存在も大きいです。

 しかし誰よりも『インディ』シリーズに図り知れない貢献をしたのは、やはり監督のスピルバーグでしょう。

 彼は新作を発表するつどに「『○○』以前・以後」という革命を映画界にもたらしてきたフィルムメーカーです。数限りない模倣作品を誘発した動物パニックの傑作『JAWS/ジョーズ』や、エイリアン・コンタクトのリアリティを極限まで高めた『未知との遭遇』。そして近年においても、『ジュラシック・パーク』(93年)では恐竜という生物感あふれるCGキャラクターを駆使し、映画におけるデジタルの用法を一気に飛躍させましたし、『プライベート・ライアン』(98年)では戦争シーンのグラフィックを根底から変え、『宇宙戦争』(05年)では9・11以降のパニック映画として、その描写のあり方に変革を及ぼしました。

 『インディ』シリーズもその例外ではなく、これまで緩急が均衡で成り立っていたアクション映画を、緩やかなドラマパートの間合いを詰め、アクションに次ぐアクションのスピーディーなスタイルにしたのです。その方法論は後続する同ジャンルの作品に大きく刺激を与えました。なによりスピルバーグが撮りたいと強く願っていた『007』シリーズでさえ、そのアクション演出とドラマ進行に『インディ』からの影響を隠せなかったのです。スピルバーグとしては、さぞ溜飲の下がる思いだったことでしょう。

 けれど、インディのバイタリティあふれる豊かなキャラクター性や、スリリングな展開の合間でスパイシーに効くコメディのセンス、それらは同シリーズ固有のものとして輝きを放ち、未だこれを超えるシリーズは生まれていないのです。

 こうした揺るぎないオリジナリティもまた、第1作目から31年間という長きスパンにわたって支持され続け、今も最新作の登場を期待される同シリーズのファンを引き付けてやまない要素なのではないでしょうか。

 

尾崎 一男(おざき かずお)

映画評論家&ライター。「映画秘宝」「チャンピオンRED」「フィギュア王」などに寄稿。最近の共著として「映画監督市川崑」(洋泉社)がある。また"ドリー・尾崎"の名義でシネマ芸人ユニット[映画ガチンコ兄弟]を組み、TVやトークイベントでも活躍中。日本映像学会(JASIAS)会員。

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