ヨーゼフ・メンゲレ。1911年生まれのドイツ人医師。

ヒトラー率いるナチス・ドイツが、占領したポーランドの地に建設した、「アウシュヴィッツ強制収容所」に、1943年5月末から45年1月半ばまで20カ月ほど勤務。その間に彼は、親衛隊軍医として、“選別”と“人体実験”を担当した。

ユダヤ人らの囚人が貨車に乗せられて到着すると、メンゲレは、彼ら彼女らの内の誰が強制労働や実験に役立つかを見極め、そうでない者は、ガス室に送る指示をした。その上で、多くの囚人をモルモットとして残忍な生体実験を行い、耐え難い苦痛を与えては、次々と死に追いやった。

そんな彼には、数々の恐ろしくもおぞましい異名が冠せられている。「エンジェル・オブ・デス=死の天使」「皆殺しの天使」「Dr.デス=死の医師」「ザ・ブッチャー=ぶった切り屋」「美男のヨーゼフ」…。

ナチスの悪行が瓦解して30年ほど経った、1970年代中盤、メンゲレは“フィクション”の世界の登場人物として、大きな注目を集めた。それぞれ原作小説がベストセラーとなり、その後相次いで映画化された、『マラソンマン』と本作『ブラジルから来た少年』である。

『マラソンマン』は、『明日に向って撃て!』(69)『大統領の陰謀』(76)で2度オスカーを獲得した脚本家としても知られる、ウィリアム・ゴールドマンが74年に発表したサスペンス小説を、自ら脚色。ジョン・シュレシンジャー監督、ダスティン・ホフマン主演で76年に映画化された。

この中に登場する強烈な悪役が、ナチの残党であるクリスチャン・ゼル。かつて「アウシュヴィッツ」で悪逆非道の限りを尽くした過去があるという設定のゼルは、“死の天使”メンゲレをモデルとしている。

戦後はドイツから逃れ、南米ウルグアイに潜伏していたゼルだが、ユダヤ人から奪ったナチの隠し財産を回収するために、現代のニューヨークに現れる。彼はホフマンが演じる主人公の若者を捕え、ピンセットやドリルを使って、歯の神経を痛ぶるという拷問を加える。このシーンの凄絶な描写に、公開当時は劇場で悲鳴が上がった。

ゼルを演じたのはイギリスの名優、サー・ローレンス・オリヴィエ。『マラソンマン』での演技は、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。

一方「死の接吻」「ローズマリーの赤ちゃん」などで、サスペンス小説の名手として知られるアイラ・レヴィンが76年に発表した小説を、78年に映画化したのが、『ブラジルから来た少年』。アカデミー賞監督賞を受賞した『パットン大戦車軍団』(70)や『猿の惑星』(68)『パピヨン』(73)などの代表作がある、フランクリン・J・シャフナーが監督した。

こちらの物語の悪役にして主役は、ヨーゼフ・メンゲレその人。クローン技術を用いて、現代にヒトラーを蘇らせようと目論み、第三帝国の再興を企てる。

本作でメンゲレを演じたのは、ハリウッドの大スター、グレゴリー・ペック。『ローマの休日』(53)『アラバマ物語』(62)などで、若き日から善人役を多く演じてきたペックだが、60代にして挑んだメンゲレ役では、それまでのイメージとは180度転換。ナチの大物を、実に憎々しく演じた。

本作には、『マラソンマン』でゼル≒メンゲレを演じたオリヴィエ卿も出演。こちらでは真逆に、メンゲレの企みを阻止しようとするナチハンターのリーベルマンを演じている。リーベルマンは、生涯で約1100人もの戦犯の逮捕に貢献したと言われる、実在のナチハンター、サイモン・ヴィーゼンタールをモデルにした役。当時70代を迎えたオリヴィエは、クライマックスでメンゲレ役のペックと、老名優同士の肉弾戦まで見せる。

因みに映画『ブラジルから来た少年』は、製作時から相当な話題になりながらも、日本ではなぜか劇場未公開に終わった。84年にTVの洋画劇場で放送されるまで、6年間も待たなければならなかった理由は、寡聞にして知らない…。

何はともあれ、メンゲレが登場する作品が70年代中盤に相次いだのには、理由がある。ナチスの敗色が濃厚になった頃、アウシュヴィッツを去ったメンゲレは、一旦アメリカ軍の捕虜になりながらも、正体がバレずに解放。その後ドイツ国内に暫し身を潜めたが、49年に南米アルゼンチンへと逃亡を遂げた。

60年にはそのアルゼンチンで、強制収容所へユダヤ人を移送した責任者であるアドルフ・アイヒマンが、イスラエルの諜報機関「モサド」によって拉致され、エルサレムへと運ばれるという事件があった。それにも拘わらず、メンゲレは追跡の網を逃れ、その行方は杳として知れなかった。その頃から南米や、時にはアメリカで、メンゲレを目撃したという情報や、逆に死亡説が流されるようになっていった。

近年になって、アイヒマン拉致と同じ頃、「モサド」はメンゲレの居所を掴んでいたものの、捕縛寸前で取り逃したことが明らかにされた。しかし60~70年代に掛けては、そんなことは極秘とされ、メンゲレは未だ逃亡を続けるナチの戦犯として、語弊はあるが、神秘的な存在となっていったのである。

そうした流れの中で、“フィクション”の登場人物としてメンゲレがフィーチャーされたのが、『マラソンマン』であり、『ブラジルから来た少年』であった。そして『ブラジルから…』では、原作者のアイラ・レヴィンによって、生殖科学の最先端として注目されつつあった“クローン技術”と、メンゲレが結び付けられた。

「アウシュヴィッツ」で凄惨な“人体実験”を繰り返したメンゲレが、特に執心したのが、双子の研究だった。双子の目に化学薬品を注入して瞳の色を変えようとしたり、双子の身体を繋ぎ合わせて、人工的に“結合双生児”を作り出そうとするなどの実験を行った。その目的は、人体を人為的に改造できるかを確かめることや、双子の遺伝子の類似性と相違性を示すことであったと言われる。

“遺伝学”の徒として、悪魔の所業のようなこれらの実験を行ったメンゲレが、“クローン技術”の担い手となったら、どんなことが起こるのか?サスペンス小説の一級の書き手であった、レヴィンの創造力が発揮されたわけである。

作中でメンゲレは、ブラジルに築いた研究施設で、ヒトラーが遺した血液と皮膚から、94人の“クローン人間”を生み出す。そしてヒトラーが育った環境に近い欧米の家庭へと、養子として送り出す。やがてその“クローン・ヒトラー”たちが14歳を迎える頃、独裁者の成育に大きな影響を与えたと思われる出来事と同じ経験をさせるために、ナチ残党による、大規模な暗殺作戦が発動する…。

動物実験などが進み、その精度が高まっていく中で、将来的には“クローン人間”の誕生も可能にするであろう、最先端の“クローン技術”。そこには、人類を不幸にする可能性が秘められているのではないか?そんなことを人々が認識し、真剣に論じるようになった背景として、いま振り返れば、20世紀最大級の悪夢と言えるヒトラーの“クローン”が登場する創作物、『ブラジルから…』が果した役割は、相当に大きかったように思われる。

さて『ブラジルから…』では、人類の脅威となる、マッド・サイエンティストの“悪役”として描かれたメンゲレ。実際の彼は、逃亡先でどんな日々を送っていたのであろうか?

富裕な親族の援助なども受けながら、1949年からアルゼンチンに暮らしたメンゲレは、56年には変名でドイツに一時帰国を果たすなど、大胆な行動も見せた。しかし60年のアイヒマン逮捕以降は、「モサド」の追跡を恐れ、様々な変名を用いて、パラグアイやブラジルなどを転々とすることになる。

実際のメンゲレは、ヒトラーの再生やナチスの再興を企てるような状況にはほど遠く、逃亡生活を送る内に、激しい精神衰弱を来たすようになっていった。そして79年2月、支援者の夫婦と共にヴァカンスに出掛けた海岸で、海水浴中に発作を起こし、溺死という最期を迎えた。時に67歳。

その死は6年後=85年に明らかにされ、その際に墓地から掘り出された遺骨は、DNA鑑定などによって、メンゲレ本人であることが確認された。

 メンゲレが生前、ドイツに残した実の息子に宛てた手紙には、次のような文が並ぶ。

「わたしは命令に従っただけだ。アウシュヴィッツでは、さもなければ反対側のグループに入れられていただろう」

「わたし個人は、誰ひとり殺してもいなければ、負傷させたり、身体に害をくわえるようなことはしていない」

「収容所で大勢の病人を助けたのに、わたしの善行については報道されない」

“自己正当化”を図る、こうしたメンゲレの姿勢は、アイヒマンの裁判を傍聴したドイツ系ユダヤ人の女性哲学者、ハンナ・アーレントが指摘するところの、「悪の凡庸さ」を彷彿とさせる。ナチスの悪逆非道な振舞いは、怪物が起こしたものではない。事の是非や善悪を見極める思考を止めて、課せられた義務を、疑問を抱かずにこなしていく。そうした官僚的な姿勢が、招いたものなのである。

こうした事実は、ヒトラーを再生する“クローン技術”よりも、実は恐ろしいものなのかも知れない…。■

『ブラジルから来た少年』© Copyright ITV plc (ITV Global Entertainment Ltd)