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(文/ザ・シネマ飯森盛良)


 さあ第2部【ネタバレ編】に突入ですが、その前に。出し抜けに第2部って何!?という人もいるでしょうからご説明を。この『動物と子供たちの詩』はまごうかたなき傑作!ただしネタバレで台無しになるタイプの映画です。そこで、1部2部とご紹介しようと。未見の方に向けて第1部【ネタバレ前まで編】を、ワタクシが連載を持たせていただいております「ふきカエル大作戦!!」さんのコラムに寄稿しました。コチラです。

 なので本編未見の方は、まずはそちらをお読みください。逆にここは絶対読まないで!それと営業妨害するつもりはないのですが、各有名映画データベースサイトなどでの本作の情報は、「ブルース・ウィリスは死んでた」級の致命的ネタバレをしまくってますので、検索する際はご注意ください。

 では、以下、第2部【ネタバレ編】です。すでに映画を見た人に向けて、ネタバレ全開のことを書きます。映画を見た後でさらに追加で知っとくべき情報なんてあるの!? もう十分だろ!とならないよう、映画を見ただけではわからない情報も書こうと思います。第1部に引き続いてお付き合いください。

 おっとその前に一つ余談が。視聴者さんがツイッター上で「三原順の漫画『はみだしっ子』にもつながった映画」とつぶやかれていました。ワタクシは無知でその作品については知りませんが、知ってる人には価値ある情報かと思われますので、ここに勝手ながら一文コピペだけさせていただきます。


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■第2部【ネタバレ編】

 さあ、ついに2晩目、目的地にたどり着きました。牧場のような場所で、フェンスがあります。その内側に侵入してそこでコケた過保護虚弱夜尿症少年の手に、血がベットリ着く。「バッファローの血だ…」とつぶやきます。

 そこで回想シーン。彼らが、例の「銃は友達」トラッシュ指導員の車で、キャンプ場を出て遊びに行った数日前の昼間に話はさかのぼります。指導員は主人公チームのバンガローの担当なのです。着いたところはフェスティバル会場。「本物のバッファローが目の前で見られるんだぞぉ」と指導員は得意げに言います。みんな遠足ノリで浮かれ気分です。

 しかし!そこで想定外の大虐殺が始まりショックを受ける。フェンスに閉じ込めたバッファローの群れを、全米ライフル協会みたいな人たちが猟銃で撃ち殺しまくるという、それは殺戮フェスだったのです!弱者の痛みを知る6人組はそんな光景見たくない。しかし指導員はニタニタしながら殺戮を見物していて、あろうことか、というか案の定、My猟銃をおもむろに取り出し、嬉々として大虐殺に加わります。

 これは一体何イベントなのか?原作小説の方に詳しい説明が載っていますので引用しましょう。

「彼ら若い見学者たちがたまたまやって来たその日は、アリゾナ州狩猟局が管理主催する年三回の《ハント》の二日目だった。一世紀前、アメリカ西部には六千万頭の野牛がさまよっていたが、現在は二、三千頭しか生きのこっていなかった、そしてそれは保護されるために少数の群れにして特定の場所に集められ、いろいろな州あるいは連邦政府によって管理されていた。そして、野牛の頭数の自然増加と、彼らの特殊な生息環境に適したその限定された地域とのあいだに、ある科学的な比率を維持していくため、各群れとも定期的に《間引き》というか《採集》する必要があった。アリゾナ州にはふた群れが保護されていて、他の一群はグランド・キャニオンの北部、カイバブで保護されていた。そしてこのフラッグスタッフに近い保護地区においては一年おきにだいたい百五十頭から二百五十頭の、健康で子ウシを生む雌ウシとじゅうぶん発育した雄ウシを減らしていた。その夏には一日三十頭の割合で三日間、つまり合計九十頭がアリゾナの狩猟愛好家たちによって《採集》されることになっていた。」

グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社.


 あくまでワタクシ個人の意見ですが、頭数管理の必要性は理解できる。ハンティングというスポーツだって否定はしない。肉も普通に喰いますし、あとプロの屠畜業者さんには常日頃から勤労感謝の念しかない。しかし、柵に閉じ込めて(もはやハンティングじゃねー)、それをシロウトがお祭り騒ぎの遊び半分で、アメリカン愛国的ブラスバンド曲をBGMでガンガンにかけながら、ビールぐびぐび射殺しまくる、とは何事か!そして、そこに一片の憐れみも無し、という底抜けの無神経さには、さすがにドン引きしますわな!

「お祭り気分がもりあがってきた。狩猟はたちまちにして学校のピクニック、伝道集会、市民バーベキュー大会、愛国的儀式、そして虐殺のカーニバルと化した。視覚、聴覚、嗅覚、それに人間的品位は打ち負かされた。澄みきった空気は銃声とそのこだまでずたずたに引き裂かれ、火薬のためにしだいによごれてきた。勝利のホーン(ザ・シネマ注:車のクラクションのこと)がぷうぷう鳴りわたった。カー・ラジオが音楽とコマーシャルをがなりたてた。ビールの記念碑が建てられた。子供たちが薬莢を拾い集めるためにとびまわった。電気のこぎりがごりごり骨を切り、皮はぎ小屋の床に鮮血が流れた。」

グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社.


 しかも、この映画では望遠ロングショットの実際の記録映像を使うことでグロさをまだ抑えていますが、原作小説を読むと、実態は阿鼻叫喚の地獄絵図のよう。


「三十頭の野牛を殺すには六時間から七時間を要した。そのような近距離からならば、屠殺業者が畜牛をやっつけるように、耳にただ一発撃ちこむだけで瞬間的に、また人間的にそれらの野牛を殺すことができるはずであったが、しかし、老若男女を問わず、あるいは腕ききの射手、アマチュアの狩猟家を問わず、彼らアメリカ人には、彼らがあらゆる動物の中で最もアメリカ的なものに照準を定めたとたん、なにかしら不思議なことがおこるのだった。百ヤード足らずの距離から巨大な静止した標的めがけ、3030.6口径、あるいは3033口径といった強力な銃で撃ちながら、心理的さもなくば肉体的にどういうことになるのか、いずれにしても彼らはうまく撃ち殺すことができないのだった。

 彼らは腹を撃った。

 彼らは頭の角を吹きとばした。

 彼らは目を見えなくさせた。

 彼らはあと脚の膝やけづめのところを粉砕して、脚を不自由にさせた。

 彼らは急所を射当てるまえに出血多量で殺してしまった。

 彼らは無益であると同時に無慈悲にも、屠殺場にたいして縦射の位置で撃った。(ザ・シネマ注:ターゲットの前後に別のものがいる状態で射撃すること。意図せず手前のものに当たってしまったり、弾がターゲットを貫通したりターゲットを外れたりで意図せず奥のものに当たってしまう可能性がある。この状態では苦しまないよう急所を狙って1発で仕留めてあげるなんてハナから無理)

グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社.


 この他にも凄惨な描写が原作では延々と続きます。どこにどう弾が命中し、どうやってもがき苦しみ死んでいくか、そして、その後どうやって解体されるかまでが文章で詳細に記されている。こんなの映像では見せられんわ!


 少年たちはこの光景に戦慄します。そして、嬉々として大虐殺に打ち興じている全米ライフル協会みたいな人たちに向かって「殺し屋!」とか「お前ら人間じゃないぞ!」とか罵詈雑言を浴びせますが(ここは台本でアドリブ指示が出てます)、当然、うっせークソガキ!サヨクはけえれ!ってな反応が返ってくる。

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真実の瞬間.jpg ちょうど今ウチで放送している同じく未DVD化の激レア作で、闘牛映画『真実の瞬間』という伝説の超大傑作がありまして、自分の命を賭け金にして闘牛の世界でテッペン獲ったる、という野心家青年のド貧困からののし上がりドラマです。それもまぁ闘牛シーンは十分残酷なんですけど、なぜか本作ほど非倫理的には感じられない。

 まずそれは、作り手のスタンスとして、闘牛文化を批判的には取り上げておらず、道義的価値判断を込めていないから、というのが理由のひとつ。監督フランチェスコ・ロージお得意の伊ネオレアリズモ由来の乾いたドキュメンタリー・タッチで撮られているため、淡々と事実を追う、それが迫真のリアリティを生む、という趣向が凝らされていて、スタンリー・クレイマー監督が劇映画としてのドラマ性を追求し、強いメッセージ性もこめた『動物と子供たちの詩』とは、そこが大きく違っている。

 ただもうひとつの理由として、闘牛では闘牛士も命懸けだから残酷であっても卑怯には見えない、という我々観客側の印象の違いも挙げられるでしょう。本物の闘牛士でもある主演俳優による「これはガチで命懸けだ、一歩間違えば死ぬ」という、どっからどう見たってヤバすぎる映像のオンパレード。実際、数メートル突き上げられて気絶したか死んだかしている人の姿も映ります。人間側もそこまでのリスク負ってんだから五分と五分で、残酷だけどまぁ許せるかな、と思えなくもない。それに比べ『動物と子供たちの詩』の「銃は友達」連中は、自分らは遠くの絶対安全圏にいて、そこからスコープで狙って飛び道具で撃っている。あまつさえビール飲みながら!そこが大違いでして、これにはちょっと、ただごとじゃない生命への冒涜感がある。あっちは許せてもこっちは許せない!あくまで個人的意見ですが。


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 ふきカエ再放送版ではカットされていますが、仕留めたバッファローの巨大な生首、今度こそ干し首ではなくて本当に血のしたたる生首を、ラジオフライヤー(アメリカンな赤い台車)に積んで運んでいる、同い年ぐらいのガキの全米ライフル協会員みたいな奴が出てきて、それに6人組は絡みます。その生首をトロフィーに仕立てるんだとガキは自慢してくる。第1部で言及したHunting trophyを思い出してください。1等賞のトロフィーはバッファローでしたね?あの剥製たちもこうやって斬首されたのでしょう。今、あの伏線がおぞましい形で回収されたのです。だからここも重要なシーンなのでカットは痛恨なんだけどねぇ…。

 自慢に対しカイさんから「殺しは楽しい?」と思いがけないことを聞かれ、ガキは「射撃はうまくなかった。でも肉はうまいよ」とトンチンカンに答えます。射撃が上手くなかったってことは、原作にある通り、急所を外してしまい標的を苦しませながら時間をかけて死なせたのでしょう。でも肉は美味かったと。そういう話じゃねーだろ!でも「何か問題でも?」という顔でポカ~ンとしている。

 彼に悪意はない。このガキ、自分が悪いことをしているとも、人によってはそれを悪と受け止めるかもしれないとも、想像さえつかない様子。6人組とこのガキには通じ合える言語すらない。返す言葉も見つからず、お互い見つめ合ってしばし黙り込むしかない。

 やがて沈黙に耐えきれなくなったガキは「どうせ生きてても役に立たない」と言い訳します。非難されていることにようやく気付いたのでしょう。さすがカイさん、「役に立たない人間も多いけど殺さない」と即座に反論する。正論です。役に立たない人間とは自分たちのことでしょう。するとガキは間髪を容れず「毎日殺されてるよ。テレビをごらん」と喰ってかかる。

 この映画の1971年当時はベトナム戦争最悪の泥沼期で、ナム戦はTVのニュースで米兵の死体映像が生々しく映った初の戦争でした。この心ない暴言にはミリヲタリーダーがキレます。彼の尊敬する父親は海兵隊の大尉ですから、時期的にベトナムに派兵されていてもおかしくないのです。字幕で訳されていませんがリーダーがYou little bastard!(このガキゃ!)反戦運動.jpgと罵りラジオフライヤーを蹴飛ばすと、ガキは「パパは下品な言葉を使うと怒るよ!」と逆に説教タレてくる始末。汚い言葉は使うな、口を石鹸で洗うぞ、そして銃は友達だ、役立たずどもを撃ち殺して楽しく遊ぼう、と父親からこのガキは教育されてきたのでしょう。

 もしくは、反戦運動に学園紛争に人種対立と、アメリカ内地でも死者が出る騒動が各地で頻発し、それが連日TVのニュースで報道されていた時代でもありましたから、あるいはリビングでの家長を囲んだ一家団欒の一コマとして、夜のニュース見ながら「ヒッピーだのサヨクだの黒人だのなんて役立たずどもは死ねばいい」みたいな会話が、日常的に交わされているようなご家庭なのでしょう。でなけりゃ年端もいかぬガキの口から「毎日殺されてるよ。テレビをごらん」なんて言葉がポンポン出てくる訳がない。“子は親の鏡”ってことですなぁ…。もはや付ける薬もないと、6人は絶望してその場を離れます。


 キャンプ場に帰った後、トラッシュ指導員は子供たちを怒鳴りつけます。これが、第1部で言及した、本作でもっとも重要なトラッシュの吐く長ゼリフというやつ。以下、全文を文字起こししてご覧に入れますが、池田勝さんの文字化できない発声、ガラガラだみ声、巻き舌、巧みに忍ばせた促音などの技巧は、ぜひとも放送で、その耳で、お確かめください。文章で再現はできません。


「恥かかせやがって、前歯ヘシ折ってやりてェよ!人前でデカい声はり上げやがって!死に損ないのお前らァ見てると俺だって胸が痛むさ!可哀想に、トンマなバッファローめがってな!だがもう我慢できんっ!これからは、ラジオは禁止だ。音楽も!映画も!夜のダベりもぜぇんぶ禁止だっ!監督が言ってた、お前らぁ感情的に障害があるって。感情がピンボケなんだっ!! “ハミ出しなんだ!!!(ザ・シネマ注:“ハミ出し”は原語で「ディング」、ding。おそらくこの当時の流行語で今日ではあまり使われていない模様。本作のキーワード) ハミ出しって知ってるか?マトモに収まらない奴さ!どんな場所にも、どんな時にも、どんなことに対しても、お荷物になるだけで役に立たない奴さ!みんな邪魔にして始末に困ってる奴さ!だから生きてる価値がないンだ!バッファローみたいになあ!どうして撃ち殺すか知ってるか?あいつらァハミ出し野郎だからだァ!おめェらもそうだっ!奴らとおんなじだ!ここにいるぬぁ手癖の悪りィ奴、お喋り野郎、意気地なし、戦争マニヤ、乳離れしないィ奴!出来損ないばかりだィ!」

 この暴言に深く傷つくと同時に、6人組はある決意をします。自分たち同様“ハミ出し”で生きる価値なしと一方的に決め付けられたバッファローを逃すことを!虐殺フェスは明日も続く。殺される順番待ちのバッファローがまだ沢山いる。あそこに戻ってフェンスを破り、バッファローを逃がそう。ただし、指導員の車で行ったフェス会場までは、子供にとってはかなり遠い。6人は、まず馬で、次いで盗難車で、最後は徒歩で、あの忌むべき場所を丸一日かけて目指してきて、いま、2晩目の真夜中に、ついにたどり着いたのです。

 さあ、回想シーンから、通常のタイムラインに、いよいよ本作の大詰めに、話を戻すことにしましょう。


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 フェンスの破壊を試みる6人。駄目だチェーンは思ったより頑丈だ。夜が明けてきた。カイさんがまたトラックをどこからか盗んできた。だがその間に日は完全に昇ってしまった。それでチェーンを引っ張りようやくブチ切ったものの、夜陰にまぎれてコッソリやる計画が狂い、まっぴかりの朝日の下、物陰ひとつない丸見え状態で事を運ばざるをえなくなった。いつ全米ライフル協会の奴らに見つかってもおかしくない。エンジンふかして大きな音を出しまくったし。

 かてて加えて、逃したバッファローはあろうことかフェンスのすぐ外でのんびり草を食みはじめた!遠くに逃げていこうとしない!! ミリヲタリーダーはヒステリーで半狂乱に。

「行けェ!もうすぐハンターがやって来て、お前たちは皆殺しにされるんだぞ!殺されて当たり前なんだ、ウスノロのバッファローめ!図体ばかりデカくて!」

 ダメだ、怒鳴ろうが大きな音で驚かそうがビクとも動かない。泣きわめき怒鳴り散らすリーダー。そうこうするうち案の定バレた!騒ぎを聞きつけ全米ライフル協会の奴らが車2台でこっちに向かってくる!先頭車両を運転するのはあのトラッシュ指導員だ。「やっぱり奴らだ!」と苦々しげに吐き捨てるので、失踪した子供たちが行くとしたらここしかないと目星を付けていた模様。

 万事休す!その時、盗んだトラックの運転席に半泣きミリヲタリーダーが横っ跳びに滑り込もうとする。カイさん引き留める。「ここで諦めるのか!? 俺はヤだ!」と思い詰めた表情で絞り出すリーダーに一言カイさんわかった」。再度リーダー運転席に転がり込み「俺たちは最期まで闘う!クラッチは左!ブレーキは右!みんな見てろよ!行くぞぉぉ!!!!と叫びながら無免許でトラックを出してバッファローの群れ目がけ突入!「バッファローを暴走させる気だ!」と気付くトラッシュ指導員!

 そこで連中信じられない行動に出る。「タイヤを狙えェ!タイヤだ!(中略)いいか、子供に気を付けろ」と車停めて降りてきて、何百メートル先を結構な速度でジグザグにオフロード走行しているトラックを、何人もでパンパン狙撃しまくる!気を付けろじゃねーよ!いちガンマニアとして言わせてもらうと、こんなのタイヤになんか当てらんねーだろ普通!ものすごく危険!

 バッファローを追い散らすトラック。ついにバッファローたちが走りはじめた!だが逆にトラックは停まる。ドアがバタンと開き、同時に、ケツは座ったままのリーダーの上半身がダランっと外に投げ出される。駆け寄る残り5人と全米ライフル協会。リーダーはこめかみに銃創1発、目を見開いたまま死んでいた。5人の子供たち、遺体の方からゆっくり全米ライフル協会の大人たちの方に向き直る。あんたら、いつかヤラかすと思ってたけど、とうとうヤリやがったな、と、猟銃を引っさげたまま茫然自失で突っ立っている大人たちを、人殺しを見る時の目で見つめる。全米ライフル協会とトラッシュ指導員、事ここに至ってようやく、二度と戻らぬ失われた命の重みに気付き、だんだんと顔色を失っていく…。

コマネチ!.jpg ここで流れはじめるラストの曲は、「♪妖精コマネチのテーマ」として日本人にもよく知られた曲。本作から5年後の1976年モントリオール五輪の際、アメリカのTV局が、人呼んで“白い妖精”、たけしでお馴染みの新体操ルーマニア代表コマネチ選手の入場テーマ曲として流用したことから、そう改題されて有名になり、シングルカットもされヒットしたのですけど、もとはと言えば本作サントラの一曲。実はミリヲタリーダーのテーマ曲だったのです!この物悲しい曲が中盤で明るく転調するのと同時に、キャメラが疾走するバッファローの群れの空撮ショットに切り替わる。果てしない原野を土ぼこり上げ逞しく駆けていくその勇姿を映しながら、この映画の幕は降ります。

 ここで、第1部で引用した、例の架空の(?)偉人H.E.ポール・ドラモンドの、一見良いこと言ってるげな詩を思い出してみましょう。気合いが足らないから負けるんだ!気合いがあれば必ず勝てる!という精神論的な内容で、作り手はそれを弱者に無理強いするような教育を批判しているのではないか?と第1部では指摘しましたが、さて、ミリヲタリーダーが無謀な目標を掲げ、大冒険の末、命と引き替えにその壮挙を成し遂げるところまでを目撃してきた今の我々が、あの詩を再読すると、いかなる感慨が湧くか?


「君が負けたと思ったら負けだ。負けたと思わなければ負けじゃない。どうしても勝ちたいと思って勝てなかったら、それは君の思いが足りなかったからだ。この世では成功の第一歩は諸君の意志に始まるのだ。全ては心の持ち方次第。一歩も走らずしてすでにレースの勝負は決まり、仕事を始める前、臆病者はすでに失敗している。望みが大きければ君は前進し、望みが小さければ君は脱落する。できると思えば必ず叶う。全ては心の持ち方次第。人生の勝利は常に強い者・速い者に輝くとは限らない。勝利は、勝利をつかもうとする意志と努力のある者に輝く。(中略) 人に勝ると思えば人に勝る。少年よ、常に高きを望め。常に自分の心を信じよ。勝利は必ず君のものとなる。(中略) 行く道は険しく、人生は厳しい。だが諸君は鉄のように強く逞しい。勝利を目指し死力を尽くして戦え。だがスポーツマンシップを忘れるな。諸君の旗を高く掲げて進め。ボックス・キャニオン・キャンプの少年たちよ。できる。やるのだ!やらねばならぬ!! 全ては心の持ち方次第だ」

 …あなたのハートには、何が残りましたか?

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 最後に。原作の方は、結末が異なります。ラストシーンでミリヲタリーダーが命と引き替えに勝利をつかむのは同じですし、どちらも1970年前後数年に大流行していた「アメリカン・ニューシネマ」に典型的な幕引きの仕方なのも同じですが、小説版の方はさらに、具体的なある1本の傑作ニューシネマと極めて酷似しているのです。原作のオチがこちら↓

「彼ら(ザ・シネマ注:残った5人)は運転席の窓から外に出された追っ手(ザ・シネマ注:リーダーのこと)の頭を見た、そして彼が叫ぶのを聞いた。

「ディング!(ザ・シネマ注:「ハミだし」のこと)ディング!さあ、ディング野郎、行こうぜ!」

 二頭の雄ウシが脱出の先頭を切った。塀の向こう側に出ると、断崖のへりぎりぎりのところで即座に旋回し、彼らの群れは割れた。半分は右へ、半分は左へ分かれ、群れはもともと自分たちが属していた合衆国の広大な空間の中に逃走していった。しかしトラックはまさに恐ろしいコースをとりつづけていた。

 彼らはぎょっとしてつまずくようにして走りながらそのあとを追った。ブレーキが効かなくなったのか、彼がブレーキなど無視したのか、あるいは(中略)断崖のへりを忘れてしまったのか、それとも、それがりっぱに果たされ、野牛も永遠に自由になったため、もはや輝かしい行為のことなどどうでもよくなった、ただそれだけのことか、彼らはいずれともわからなかった。トラックがまるで空に舞いあがるかのように高々と上昇してつっこみ、やがて見えなくなるその瞬間、たいまつのように燃え立つ彼の赤毛が彼らの目にちらっと止まった。それですべてだった。ただ、かすかなしかし金属と岩が激突するまぎれもない音が届いた。そして、すぐそのつぎの瞬間、その意味するところはなにかという意識が、まるで彼らもまた永久に自由にしてやるといわんばかりに、彼らの心臓を押しつぶしてきた。」

グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社.


 リーダーが赤毛というのも映画版と違いますが、一番は、これは自殺ということなのか、とにかく全米ライフル協会に射殺されたわけではない、ということが最大の相違点です。


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 アメリカン・ニューシネマでは主人公は死ぬもの。お気楽バイカーコンビが田舎の保守的ヘイターに突然ショットガンぶっ放されて死亡とか、アベック強盗が警官隊に車ごと蜂の巣にされて死亡とか、強盗2人組が最後はボリビアの軍隊に包囲されやぶれかぶれ特攻に打って出て死亡とか、パトカー振り切ろうと猛スピードで車走らせ踏切ぶっちぎろうとして機関車に横から突っ込まれ爆死とか、ルームシェアしてる男娼とフロリダに行こうとしたダチの病弱ポン引きNY男が長距離バスの中でポックリ病死とか…。

 主人公の死をドラマチックには描かず、逆にむしろあっけなく、極めて唐突に描く。そしてその主人公はと言うと、普通の常識的範疇にはおさまらない、世間からは白い目で見られている“ハミ出し”キャラと、相場は決まっていました。

 どうしてそんなダメ人間が主人公の、救いのない結末の映画がやたらとウケたのか?自分たちアメリカ人がいかに簡単に死ぬか、ベトナム戦争でその嫌な現実をウンザリするほど見せつけられ、目を背けようにもニュースの方から付きまとってくる(ニュースから逃れるのって難しいですよね)。ヘイトクライムも頻発してヒドい世の中になりつつある。1970年前後はそんな時代だったからです。今ともちょっと通じる、“世界が崩れつつある感”、とでもいったような絶望的な雰囲気が満ち満ちていました。

 そんな狂った時代には、多数派でいつづける方がむしろおかしい。そこで何の疑問もなく器用に世渡りできる奴は人として最低だ。映画の主人公はマトモだからこそ逆に“ハミ出し”て浮いてしまっているアンチヒーローでなければなりませんでした。そして彼らは、映画の主人公であっても、ある大目的を持ったドラマチックな生(と死)などは与えられず、虫ケラみたいに簡単に、突然に死ぬ。人の命なんて安いんだ。なぜなら現実がそうだから、という一群の映画が作られたのです。嫌な現実を映画がさらに誇張してみせることで批判する、それがアメリカン・ニューシネマというムーブメントでした。

 ほら、『動物と子供たちの詩』って、アメリカン・ニューシネマそのものでしょう?中でもとりわけ、原作の方の結末と極めて酷似しているのが『バニシング・ポイント』です。

 アメリカのほぼド真ん中・コロラド州デンバーから西海岸サンフランシスコまで車を短時間で運搬する(自分で運転して納車しに行く)仕事を請け負ったフリーの運び屋コワルスキーが、猛スピードで1970年型ダッジ・ チャレンジャーを爆走させる。当然パトカー白バイ追いかけて来る。その制止を振り切り、次々と引き離しながら西部を横断する、という映画が『バニシング・ポイント』です。

 まず、西部の荒野が舞台になっているホコリっぽい見た目からして、『動物と子供たちの詩』と似ている。それとそのメインプロットの合間に、コワルスキーがこの挙に及ぶまでの様々な出来事が回想されていくという構造もまた、似ている。プロのレーサーとしての挫折、制服警官をやっていた頃に目撃した警察の腐敗、愛した女の死と、過ぎ去った幸福な日々、ベトナムでの戦争体験…個人的人生ドン詰まり感と、やっぱりここでも大きいのが、当時の“世界が崩れつつある感”です。

 戦争とヘイトに満ちた時代だったんだということを大前提として鑑賞する必要があります。『バニシング・ポイント』劇中では黒人キャラが白人レイシストにリンチされるシーンも出てきますが、それはあの時期、現実のアメリカ社会でも頻発していたことですし、さらには悪を退治する存在であってほしい警察も、実際はと言うと、平等を求める黒人たちに高圧放水する、ベトナム反戦デモ隊に催涙ガスを撃つ、学園紛争の大学生を警棒で殴りつける、といったことを全米各地でやっていたのです。そんな警察に「スピード違反だから停まれ」と命令されて、誰が停まるものかよ!悪はどっちだ!! という反骨精神は、当時の観客の思いと怒りを代弁するもので、自分でそれをする勇気は無くても映画の主人公にぐらいは期待したい、胸のすく痛快な生き様だったのです。

 ラスト、ブルドーザーで道をふさぎ停車させようと試みる警察の作戦に対し、コワルスキーはむしろ逆に、トップギアでアクセルを踏み込んでそのままブルドーザーの排土板に真っ正面から突っ込み、爆発!炎上!即死!そこで映画は終わります。ほら、『動物と子供たちの詩』原作の結末にソックリでしょう?

 他のニューシネマの主人公が割と不可抗力で命を落としている(射殺される、事故死、病死)のに対し、この走り屋コワルスキーと『動物と子供たちの詩』原作のミリヲタリーダーの2人は自ら死を選択している。とはいえ、これって自殺なのでしょうか?

 いや、自殺というか、この世界から“退場”したくなってしまった、ということなのでしょう。こんな醜い、腐った世の中になんか長居したくねえよ、オレ的栄光の頂点で、皆さんお先に失礼させていただきます、ということでしょうな。パトカーをまきにまいて、どんどんスピードを上げていき、そのスピードの頂点、反逆のピークで、この世から消えていなくなろう。または、可哀想なバッファローを逃して、自分も一緒に車で伴走し、その勢いのまま、壮挙の達成と同時に、この世から消えていなくなろう。これって、自殺というのとはちょっと違う気がします。一応“勝利”エンディングですから。


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 2017年の今ふたたび、“世界が崩れつつある感”が低く垂れ込めつつあるように感じているのは、ワタクシだけでしょうか?もし、残念ながらそうであるならば、そんな暗い世相を反映した、アメリカン・ニューシネマ的な映画が、また作られて流行るようになってもいいのではないか、と最近よく考えます。アメコミヒーロー映画、ワタクシも大好きです。ただ、ちょ~っと供給過多かなぁ、と思わないでもない。そして、今、我々が現実に直面している深刻な課題を考えると、ちょ~っと浮世離れしてないかなぁ、と感じなくもない。


 ヘイトと暴力が世にあふれ、権力者たちが我が物顔で振る舞い、少数者の声を圧殺する、そんな寒い時代に、その醜悪さを徹底的に批判し、自由や優しさを求めて挫折し死んでいく哀しき“ハミ出し”者たちの視点に寄り添った、そんなニューシネマチックな映画の2017年版最新傑作の登場を、ワタクシ、今か今かと待望いたしております。それは今日、映画に期待されている役割でしょう。

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 お久しぶりです。『厳選!吹き替えシネマ』担当者です。本年もリクエストやアンコール、皆様からたくさん、さばききれないぐらいいただきました。本当にありがとうございます。毎月やれる本数の上限もあって、なかなか満足にお応えできていない状況につきましては、大変申し訳ない気持ちでいっぱいであります。しかし、当初月1本の企画だったはずを、鋭意なし崩しに複数本、なるたけ今後もお届けしてまいりたく存じます。2014年も『突破口!』や、『スーパーマン』1234『地獄のヒーロー』123を皮切りに、あの頃、皆が胸躍らせた“夜9時の映画たち”を蘇らせていきますよ。ご期待ください。

 新春1月に「アンコール」としてお送りする(つまり、何年か前に一度オンエア済です)吹き替えタイトルは、とりあえず『地獄のヒーロー1』だけ(2と3は春までには何とか)、さらに『さらば愛しき女よ』『オフサイド7』『愛と青春の旅だち』『フォレスト・ガンプ/一期一会[テレビ版]』の全5タイトルです。

 「録り逃したからまた放送して」、「加入前に放送していた。気付いた時には遅かった。だからもう1回やって」といったアンコールの声、非常に多くいただいているのですが、さすがに3度目は無いかもしれませんので、この機会、くれぐれもお見逃しなきように!


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 ところで突然ですが、『地獄のヒーロー』って、原題は「ミッシング・イン・アクション」という軍事用語なんです。「戦闘中行方不明」という意味。そのことは、こちらの特設サイトの「80年代とPOW/MIA」というコラムでも詳しく書きましたが、いくらなんでも専門用語すぎ。日本では『地獄のヒーロー』って安い邦題が付けられてしまったけど…まぁ、映画の中身とそれほど食い違ってもいないし、これはこれで、悪くはなかったかも、です。

 このように、邦題と原題がぜんぜん違う映画ってのは、これ以外にも世の中に山ほどありますが、その中でもどういう訳だかその代表例として、わりかしよく名前のあがる映画が『愛と青春の旅だち』であるように思います(じゃないですか?)。

 「この邦題はヒっドい…」ってものもいっぱいある中で、『愛と青春の旅だち』、これもまぁ、悪くない方でしょう。中身とタイトルが少なくとも一致している。っていうか一見一致しているように思える。でも「愛」、「青春」といったキーワードに引きずられ、この映画がラブストーリーであるかのような、極論すれば“錯覚”を、見る者に抱かせてしまうという嫌いが無くはない気もしています。

 いや、『愛と青春の旅だち』がラブストーリーって、それは錯覚ではなくて半分は正しいかもしれない。ジャンル映画としてはラブストーリーに分類するしかないでしょう。でも、この映画がラブストーリーのジャンル様式を借りて描こうとしているのは、単に一組の男女の恋愛模様という以上に、「格差社会からの脱出」というモチーフであるように、ワタクシはかねて感じておるのであります。

 原題は、An Officer and a Gentleman。直訳すれば「士官と紳士」ってタイトルなんですが、邦題と比べてこの原題、なんだかよく解らなくないですか?

 実はこれ、ある慣用句を略したものなので、この部分とだけいくら睨めっこしたところで、意味はさっぱり解らんのです。

 略された部分こそが重要でして、慣用句をフルで書くとConduct unbecoming an officer and a gentleman、「士官や紳士に相応しくない行為」となります。これ実は、慣用句と言うよりは法律用語と言った方が正確。しかも軍法用語。専門用語ですから一般の日本人にはピンとこなくて当然。なので日本では『愛と青春の旅だち』という全く違う甘〜いタイトルを付けるしかなかったのでしょう。この意味を解ってもらうためには長い説明が必要です。それを今回は試みてみようかと思います。長広舌、お正月休みにお付き合いいただけましたら幸いです。


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 さて。アメリカ全軍共通の法律である「統一軍事裁判法」というものには、以下のような一文が存在します。

「士官や紳士に相応しくない行為(Conduct unbecoming an officer and a gentleman)で有罪判決を受けたすべての士官・将校ならびに陸軍士官学校生徒、海軍兵学校生徒は、軍法会議の命令によって処罰される」

 日本語ですと「士官」ってのは海軍の呼び方で、陸軍だと「将校」と呼び、言い分けていますが(「陸軍士官学校」と言う時だけは陸軍でも「士官」なのがややこしい)、英語では士官・将校どちらも「オフィサー」です。オフィサーってのは、一般企業で言う管理職ですな。一番下の少尉で、まぁ課長ぐらいだと思ってください。オフィサーの一番上の大佐なら本部長クラス(一般企業と対照するのはかなり無理がありますが)。つまり、課長以上の管理職に就いてる人は、人間としても立派な紳士でありなさいよ、それに反したら罰しますからね、という法律なのです。

 さて。「士官や紳士に相応しくない行為」という軍事法律用語があり、後ろ半分を略して「士官や紳士」という箇所だけをわざわざ抜き出して、この映画は原題タイトルに掲げている訳です。

 士官や紳士に相応しくない行動とは、一体?

 逆に相応しい行動とは何か?

 その両方を、同時に、言外に、このタイトルは問うているのです。リチャード・ギア演じる主人公の行動は、あるいはその人柄は、士官・紳士として相応しいのか?相応しくないのか?どっちなんでしょうか?

 映画冒頭では、もう明らかに、相応しくないんですね。少年の彼は母親に死なれ、水兵の父親を頼って、世界最大の海軍基地の町として有名な米本土のノーフォークから、フィリピンにあった海外最大の米海軍基地オロンガポ(現在はフィリピンに返還されている)へとやって来ます。これ、脚本のト書きに明記されている情報。基地から基地へ。彼は、基地だけで育った子供で、基地の外を知らない。

 父親は露骨に面倒臭がって、家に連れ込んでいた娼婦2人を母親代わりとして初対面の息子にあてがいます。と言うか娼婦2人に息子を押し付けます(父親は昼間っから女2人相手に何してたんでしょうねえ…)。以降、何年か十何年か、実父に育児放棄され、父が買ってきた外国人娼婦たちを母親代わりに基地の町で成長し、喧嘩も場数を踏んでめっぽう強くなり、終いには二の腕に鷲のスジ彫りを入れてヨタってる、紳士とはおよそ真逆の、ヤンチャな一匹のドチンピラに、ギア様は育っちゃった訳ですな。

 彼は、そんな身の上がイヤでイヤで堪らない。早く社会的ステータスのある人間になりた〜い!だったら軍隊で決まりだ!海軍士官だ!! 彼は基地外のことは何も知らないので、思いつく紳士っぽい職業といったら、それしかない。

 彼のようなお悩みの持ち主には、軍隊で正解です。階級社会そのものの軍隊ほど、自分の社会的ランクがハッキリする場所はこの世にありません。一般企業だと、社長と言ってもどの程度の会社の経営者か判りませんし、ただの平社員でも超一流企業のペーペーなら世間的に聞こえが良いということだってある。肩書きだけじゃよく分からない。しかし海軍で少尉と言えば、どの程度の社会的なエラさなのかは一発で分かるのです。さらに米軍は、階級が給与等級と連動していて、その給与等級と勤続年数とで収入が決まるという明朗会計っぷり。自分の社会的地位にコンプレックスを抱いているギア様には、まさにうってつけの職業なのです。

 だから彼は海軍飛行士官養成学校に入ることを決意します。「入れ墨した士官がいるか?」と親父の嘲笑を背中に浴びながら。そこからこの映画は始まっていきます。

 この学校を卒業すれば、彼は国家から何千万ドルもするジェット戦闘機を1機委ねられる立場になれるのです。仕事で何千万ドルもの責任を任される漢なんて、世間にどれほどいるでしょう?ワタクシはせいぜい数万円ぐらいなので情けなくなりますが…それほどの社会的地位に就ける時こそ、彼が格差社会でのし上がり、晴れて「士官や紳士に相応しい」漢になれる瞬間なのです。

 実は脚本を読むと、最終稿までは、父子再会の場面が盛り込まれていたことが判ります。シアトルの安ホテルで娼婦を抱き疲れ、昼日中まで高いびきの親父のところに、突然ギア様は転がり込んで来るんです。びっくりさせようとして。カレッジを卒業したことを報告しに来たのです。親父は「最後に聞いた時はブラジルかどっかで建築の仕事してるって言ってただろ?」と驚く。そして「言ってくれりゃ卒業式行ったのによ。やい!(と寝てる娼婦を起こし)、おめぇの友達の巨乳グロリアも呼べ。今夜は息子のお祝いだ!!」とはしゃぎ出して、その晩、一台のベッドの右半分で親父とさっきの娼婦が、左半分ではギア様と巨乳グロリアが、乱痴気騒ぎを繰り広げる。ギア様もノリノリです。

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 以上は完成した映画には存在しないシークェンス。撮影されなかったのかカットされたのか…とにかく、そういう父子なんですね。この翌朝が、親父がトイレで嘔吐しゲロをぬぐいながら「昨日の夜はすげー面白かったな」なんて言っているシーンにつながるのです。前夜の乱痴気騒ぎのシークェンスがごっそりカットされているので、映画ではギア様が酔っぱらいの親父を軽蔑し恨んでいるようにも見えるのですが、実は同類。同レベルの仲良しDQN父子なんです。親父個人を恨んでいるというよりは、こういう激安にチープな日々とチープなオレという存在に、ギア様はほとほと嫌気がさしているだけなのです。1日も早く「士官や紳士に相応しい」漢になって、こんな人生からは這い上がりたい!

 さて。で、入った養成学校で13週間にわたりシゴかれる訳ですが、ギア様は「絶対に諦めません!」と鬼軍曹に言って、必死でシゴキに耐えます。格差社会からの脱出ということが彼の強烈なモチベーションになっているからですね。「カッコいいからジェット戦闘機の飛行士になりたい」とか「うちは軍人の家系だから仕方なく」といった中流出身者的なヌルい理由とは、彼の場合は切迫度が違います。

 でも、一晩でドチンピラが紳士にはなれません。最初のうちは地金が出ちゃいます。養成学校で一人闇市のような商売を始め、仲間から小ゼニをセコく巻き上げようとする。こんな紳士なんていませんわ。そのバイトが鬼軍曹にバレて、休暇返上でさらに徹底的にシゴき抜かれる。

 ちなみにその“鬼軍曹”。正しくは「ドリル・サージェント」と言います。直訳すれば「訓練軍曹」。よく戦争映画に出てきますよね。映画の中の海兵隊の鬼軍曹と言えば、『ハートブレイク・リッジ』『フルメタル・ジャケット』…馴染み深い顔が何人も思い浮かびますが、本作に登場するフォーリー一等軍曹もそうで、ルイス・ゴセット・Jrは82年度アカデミー助演男優賞に輝く名演を見せました。

 このシゴキに耐えながら、13週間かけて、ギア様は士官や紳士に相応しい行動とそうでない行動との区別を、だんだんとつけていきます。

 ドチンピラが紳士になるのに何故シゴキが必要か?別にテーブルマナーや敬語の使い方をスパルタ式に教わる訳でもありませんから、少々疑問ですが、だけどまぁ、やっぱり必要なんでしょうな。

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 正しいテーブルマナーを身に付けたら紳士になれます、と言われたところで、そんなのは信じられない。完璧なテーブルマナーを披露した途端に皆に持ち上げられて「ヨッ!紳士!!」と周囲から認定されても、誰よりドチンピラ自身が全然納得できないでしょう。その点、シゴキ13週間ですからね!脱落率もハンパない。間違いなく人生最大のハードルでしょう。それをクリアすればオレも紳士だ、と信じ、耐えて耐えて耐え抜けば、それは13週後に「今日からオレも紳士だ!」と自分で信じられるというものでしょう。オレはどんな誘惑にも惑わされず、己の弱さを克服できるんだ!という絶対の自信、自分という人間への強い信頼感が、13週目まで残った生徒には必ず身に付くはずです。その境地にまで達した人間が「紳士的に生きよう」、「士官らしく振る舞おう」と思えば、たちどころにそうすることも容易いはず。というわけで、ギア様がステータスを獲得し、格差社会でのし上がり、自分で自分を紳士だと信じ行動できる強い意志力を備えた人間として、第2の人生を再スタートさせるためには、この13週間はどうしても必要なイニシエーションなのです。

 本作で描かれるのは、主にこのイニシエーションの過程。ラブシーンよりもイニシエーションシーンの方が比重が圧倒的に大きいのです。ワタクシがこの映画を、ラブストーリーではなく“格差社会からの脱出ムービー”と認定する理由がこれです。

 鬼軍曹は、海兵隊の一等軍曹。ギア様の親父は、海軍の一等兵曹。1階級差で、どちらも士官より下(「下士官」と言います)の、一般企業であれば係長クラスですな。給与等級も1ランク差と、ほとんど同じ階級(軍隊でその差はデカいですが)。この2人が異口同音に、ギア様に向かって言い放ちます。「オレもお前も、士官なんて柄じゃないんだ。人種が違うんだ」と。父親は本気でそう思っている。ルイス・ゴセット・Jrは…本気ではなく、そう言って生徒たちにハッパをかけているんだろうとワタクシは感じますが、とにかくそういう思想なんです。士官・紳士になるには生まれ育ちが重要で、それが無い奴は一生なれないんだ、と言うのです。でも、そうではない!努力すればなれるんだ!這い上がれるんだ!ということを、この映画は描いています。もっとも良い意味において、実にアメリカ的なテーマを描いている映画のように思えるのです。

 13週後、ギア様が晴れてここを卒業したあかつきには、その瞬間から、父親でさえ自分に向かっては敬礼しなければならなくなります。もちろん鬼軍曹も敬礼しなければならない。卒業式閉会後、新任少尉たちは海軍の伝統にのっとって、1ドル硬貨を誰か“目下”の軍人に手渡し、彼から最初の敬礼を受けることになります。この学校の卒業生=新任少尉=紳士たちの場合、最初に敬礼を受けるのは“目下”の鬼軍曹からとなるでしょう。

 閉会式の後、鬼軍曹は独り、ポケットに数十ドル分たまったジャラ銭でビールでも呑みに行くかもしれない。彼にバーでビールを呑む習慣があることは、劇中、台詞で出てきますから。ただし、特に思い出に残る生徒から受け取った1ドル硬貨だけは、そんな風には使わない。記念にとっておくでしょう。そのために、その生徒から渡されたコインだけは、他と混じってしまわないよう、きっと、注意して見てなければ気づかないくらいのさりげなさで、反対のポケットに入れるはずです。

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 ところで、余談的なトリビアをここいらで入れさせてください。これ、アメリカ映画を見る上で是非これからも覚えておいて欲しいポイントです。つまり、海軍と海兵隊、この2つは違うってこと。ギア様は海軍で、ルイス・ゴセット・Jrは海兵隊です。別組織なのです。

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 海兵隊ってのは、通称「殴り込み部隊」などとも言われていて、一朝有事が起きた時、最初に現地に乗り込んで行く専門の軍隊です。陸軍さんなどは海兵隊の後から押っ取り刀で来ます。ゆえに[1]、陸軍の兵隊さんより海兵隊の海兵さんの方が、気性が荒いイメージがある(トムクルの『アウトロー』参照)

 また、ゆえに[2]、海兵隊は戦車っぽいのに空母っぽいのに戦闘機っぽいのと、陸・海・空の装備を一通り備えており、単独でも戦争ができちゃいます。海兵隊以外の、たとえば陸・海・空軍という縦割り(ってか完全に別組織)の3軍で統合作戦をやる場合、指揮系統が混乱しがちとか面倒くさい問題があって、準備や調整があれこれ必要なのですが、海兵隊は1人陸・海・空3役ですから準備も調整も不要。「とりあえずこっちの準備ができるまで、お前が先に現地入りして、当面は1人で踏ん張り、なんだったら一暴れしといてくれ」ということで先発を任されるのです。

 あと、大使館の警備(『ボーン・アイデンティティー』参照)やホワイトハウスの警備なんかも海兵隊の任務ですな。

 一方、海軍とは、言うまでもなく船乗りさんのこと。空母に飛行機を載せて海の上で離発着させたりもしてますから、飛行機を操縦する仕事の人も海軍にはおりまして、「飛行士(アビエーター)」と呼ばれており、厳密には「パイロット」とは呼ばれません。海でPilotと言うと「水先案内人」のことも意味していて紛らわしいからです。ギア様がなりたがっているのが、この海軍アビエーター。さらに、ご存知トップガンって所では海軍アビエーターのエースたちを養成しておりまして、決して空軍パイロットではありません。トムクル演じるマーベリックも、もちろん空軍パイロットではなく海軍アビエーターでありました。腕が良ければギア様も将来トップガンに入れるでしょう。

 とはいえやはり、海兵隊と海軍とは歴史的に見ても関係浅からぬものがありまして、その昔、海戦が接舷斬り込み戦だった帆船時代には(『パイレーツ・オブ・カリビアン』参照)、海兵隊は海軍さんの戦列艦に乗り組み、敵艦に接舷と同時に、索具(ロープ)に掴まるなどしてピョーンと向こう側に跳び移り、チャンバラを繰り広げる役目の人たちのことでした。

 あと、海軍の港湾基地の警備なんかも任されております。海軍艦艇の艦内警備も海兵隊のお仕事です(『沈黙の戦艦』参照)。その昔は長く苛酷な航海の中で水兵さん(海軍)の叛乱っていう事件がよく起きましたから(『戦艦バウンティ』参照)、それを防ぐため艦内警備を海兵隊が任されていた、その頃の名残りですな。げに、海軍と海兵隊は繋がりが深いのです。

 だからこの映画では、海軍兵学校に海兵隊の教官がいて、海軍の士官候補生をシゴいてるのですが、別におかしな話ではないのです。あと懐かしいところだと、軍法会議法廷サスペンス『ア・フュー・グッドメン』で、海軍の弁護士が海兵隊員の容疑者を弁護したりもしてましたね。海軍と海兵隊は、別組織とはいえ繋がりは大変深いのです。という、以上、海軍と海兵隊は違う、という一席。お粗末様でございました。

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 閑話休題。ここらでヒロインの話を始めましょう。

 都市生活を謳歌する都会人。自然が大好きな田舎者。これほど幸福な人はいません。そして、この組み合わせがズレてしまうほど不幸なことはない。都会が好きなのに辺鄙な片田舎に生まれちゃった、とか、田舎暮らしに憧れているのにゴミゴミした都会で生活している、とかです。なんたる不幸!

 個人的にワタクシの場合は完全に後者タイプでして、東京のド真ん中で働いておりますが、もう、イヤでイヤで堪らない。昔『アドベンチャー・ファミリー』って映画がありました。あれには激しく同意しましたねぇ。冒頭、LAに住む一家の父ちゃんが、娘が公害で喘息にかかり、「こんな所は人間の暮らす所じゃねえ!」と呪うように叫んで、熊とかが出没するロッキー山脈の山小屋に引っ越し、挙げ句の果てには熊ちゃんとお友達になっちゃうのですが、都会のボーイスカウト団員だったワタクシ、ゴールデン洋画劇場で観ていて、これには大いに憧れたもんです。ヘヴィーデューティーな父ちゃんの服装がまたカッコ良かったのなんの!あのスタイルで何でもDIYしちゃうんですから、憧れずにはいられない。ま、実際の田舎暮らしはそんなに甘っちょろいもんじゃなく、『おおかみこどもの雨と雪』をさらに過酷にしたようなものなんでしょうけどね。

 でも世の中には、これとは真逆の立場・考え方の人というのもいるでしょう。つまり、ロッキーの山奥とまでいかずとも、田舎に今現在は住んでおり、心底、その田舎にウンザリし果てている人たちのことです。

 デブラ・ウィンガー演じるヒロインがそうです。

 その上、彼女が生まれ育った町は、寂れた工場が唯一の産業としてあるだけの、鄙びた田舎の貧しい港町。彼女も貧しい家庭に育っている。母親はその唯一の工場の女工で、彼女自身もそう。友達もそう。みんなそう。職業選択の自由が事実上かぎりなく無いに等しい町なのです。

 この環境から脱出する方法で、いちばんの正攻法は勉強することでしょうな。勉強して“良い大学”なるものに入り、いわゆる“良い企業”とやらに就職して、自ら中流階級へのチケットをゲットすることです。そうすれば、望んだ土地で、儲かる職業や好きな職業に就ける…かもしれない。少なくともチャンスは増える。でも、そんな社会の残酷な仕組みに子供の頃に気付くことができなかったとしても、それはその子の罪ではないでしょう。小学生の頃には遊ぶ。それのどこが悪いのか!ハイスクールで色気付き、異性とキャッキャ戯れる。それのどこが悪いのか!しかしそれをやっていると、ハイスクールを卒業した後、この町から逃れるすべはなくなる。人生そこで決まってしまう。きっとデブラ・ウィンガーや彼女の女友達はそうだったのでしょう。

 地元が好きならそれでも良い。そうでないなら、彼女たちにとって良くはないでしょう。勢いで地元を飛び出し、裸一貫都会に出てみたところで、かなりの幸運に恵まれない限り、そう簡単にリッチにはなれない。都会で憧れのライフスタイルを築くカネもない。ぜんぜん解決にならない。

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 しかしこの町の女子には、裏技的にもう一つだけ、この町を出て中流階級に昇格できる一発逆転の奥の手があります。それが、海軍兵学校の生徒と結婚すること。彼らは卒業すれば少尉に任官します。いきなり課長クラスです。しかもアメリカ海軍という、これ以上ない超“大企業”・安定的な職場の課長職です。不況だろうが何だろうが潰れることはありません(戦争が起きたら旦那が“労災”で死ぬことはありそうですが…)。その妻となり、夫にくっついて世界中の米軍基地にある、国家から支給された官舎に住み、主婦として暮らす。古風かもしれませんが、そうなればもう立派な中流階級です。

 だから、この町の娘たちは、工場で働きながら、全員が同じ夢を見ている。付き合っている飛行士官養成学校の生徒が、卒業式を終えたその足で、真っ白のドレスユニフォームに、金のラインが1本入った真新しい少尉の階級章を付けた格好のまま、工場まで迎えに来てくれる。というか救い出しに来てくれる(男の方が白い“ドレス”ってのが面白い)。彼にお姫様抱っこされて、仲間の女子工員たちが羨ましそうに見守る中を、開け放たれた工場の扉から広大な外の世界に連れ出してもらうのです。薄暗い工場内から見ても、陽光があまりに燦々と眩しく輝いていて、外の景色はよくわからない。不確か。でも、夢と希望に満ちていることは確かです。待っているのは世界のどこの海軍基地での新婚生活だろう?アメリカ本土のどこかか?ハワイのパールハーバーか?あるいはヨコスカか?エキゾチックでエキサイティングな毎日がもうすぐ始まるのです。薄暗い工場の扉をお姫様抱っこで出て行く時、それは、彼女にとっても、そして今、士官となり紳士となり、さらに生涯の伴侶まで得た彼にとっても、まさに、愛と青春の旅だちの瞬間です。

 男たちは13週間、地獄の努力をして“旅だち”をする。では女たちは?中には、とにかくデキちゃった結婚でも何でもすりゃ妊娠したモン勝ちだ、と思っているフシの娘もいて、どうにかして前途有望な生徒の子種をいただこうと、男の隙をうかがっている。もう、ゴムに針で穴を開けるといったような話ですなぁ…恐い恐い。でも、そういう魂胆で最後に彼の愛を勝ち取れるの?という話じゃないですか。

 ヒロインのデブラ・ウィンガーは、それをしない。ひたむきにギア様と恋愛するのです。ひたむきに恋愛しようが、腹にイチモツ閨房術を駆使して籠絡しようが、夜、ベッドの中でやることは同じなんですが、それとこれとは話が全然違う、とデブラ・ウィンガーは考えている。やることは同じなんだから、こっそり策略をめぐらしてメオトになってやろうか、という悪女な気持ちも無いではないが、それを押し殺して、裏の無い、清く正しい肉体関係(?)を続けるのです。

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 この映画が日本で公開されたのは1982年。31年前の今と同じ師走でした。60年代の所得倍増、高度経済成長を達成した日本国民の間では、この時代もまだまだ、70年代から続く“一億総中流”というのん気な意識が生きていました。日本人の誰もが横並びに「自分は中流階級である」と自己規定していた、まぁ黄金時代と言っていい時代です。もちろん実際には当時だって貧しい方もいたでしょうが、個々の世帯ではなく国民総体の気分として、確かに我々は中流意識を抱いていた。

 1982年。時はまさに日米貿易摩擦の真っ最中。アメリカをも経済的におびやかした我々は、この後一時、円高不況というのに見舞われはしますが、まさか経済不安が永遠に消えない時代が到来するなどとは思えず、実際その後すぐに、いよいよバブルへと突入していくのです。82年は、21世紀の日本に、長い長い不況が待っていることなど誰にも想像できない、前途に経済的な不安など無い(ように多くの国民が思い込んでいた)時代だったのです。

 当時の日本人の大半は、ギア様の「いつかのし上がってやる」という切迫したハングリー精神にも、デブラ・ウィンガーの貧困と閉塞感への切実なあせりにも共感できず、この映画を、ただのロマンティックなラブストーリーとしか受け止められない、今からすれば実に羨ましい時代に生きていました。

 しかし、こんにち、あれから31度目の年末を迎えた日本。長く続いた不況で「自分は中流だ」という意識をかつて一度も持ったことがなく、いつか中流になれるという将来の希望も持てず、いま中流でも一生そのままでいられる保証も無く、アベノミクスの好況感も他人事、消費増税困ったなぁ…そんな日本の、特に経済が疲弊しきった地方で探せば、そこには和製ギア様和製デブラ・ウィンガーが、おそらく大勢いるはずなのです。

 もし、あなたが若者で、この映画を一度も観たことがないのなら、むしろ80年代にリアルタイムで観た世代よりも、この映画が訴えている本来のメッセージをより正しく受け取ることができるのではないでしょうか。もしあなたが80年代にリアルタイムでこの映画を観た世代なら、いま改めて見直すことで、当時とは違った受け止め方をできることでしょう。欲を言えば、経済的に不安がある方が、この映画の鑑賞者としては望ましい。この映画は、やっぱりラブストーリーなんかではない。この映画は、現状貧しき人たちに捧げられた、最高のアンセムなのです!皆さん、来年も頑張りましょう!かく言うオレもな!!

(編成部 飯森盛良)
『地獄のヒーロー2・復讐のブラドック』TM & Copyright © 2003 by Paramount Pictures Corporation. All Rights Reserved./『愛と青春の旅だち』COPYRIGHT © MCMLXXXI BY CAPITAL EQUIPMENT LEASING, LTD. ALL RIGHTS RESERVED
 先にこのブログにてお詫びと訂正をいたしました『(吹)地球の頂上の島』。12月24日の特集放送時は、事前にご案内していたものとは異なる吹き替えバージョンでの放送となってしまいました。ここに重ねて、視聴者の皆様にはお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。

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 後日2ちゃんを見ていたら、まず当チャンネルの放送がバージョン間違いであったこと、さらに、当チャンネルが放送すると言っておきながら放送しなかったバージョンが、実は稀少音源バージョンであったことを、その書き込みで初めて知った次第です。

 本当に申し訳ございませんでした。そこで3月、「厳選!吹き替えシネマ」企画として、12月やるとアナウンスしておきながらやらなかった方の『(吹)地球の頂上の島[TBS版]』を、今度こそ本当にやります。探し当ててきました。

 また、3月3日の日曜日あさ6時からの放送回は、「スカパー!大開放デー」にあわせ、この作品を無料放送いたします。ザ・シネマにご加入いただいていない方でも、CSを視聴可能な環境をお持ちであればお楽しみいただけます。

(「スカパー!大開放デー」について詳しくはコチラ

 ところで、2ちゃんに限らず、当チャンネル編成部は、当サイトの「ご意見・ご要望」投稿機能などを通じて皆様からお寄せいただくお声を、放送作品選定の上で、実は非常に参考にさせていただいております。

 とりわけ「厳選!吹き替えシネマ」企画は、「あの吹き替え版は傑作だった」といった参考資料が世の中に案外少なく、担当者個人の思い出に頼ってやっている部分が大きいのですが、私個人の引き出しなど高が知れており、すでに底を尽きかけています。あの懐かしい昭和の頃、9時からのTV洋画劇場を夜ごと夢中で見まくっていた世代の皆様にご教授を乞い、“集合知”作戦でこの企画を継続・発展させていきたく考えておりますので、今後とも昭和TV洋画劇場ファンだった皆様には、ご指導ご鞭撻の程、本気で、何卒よろしくお願いいたします。

 なお、いただいたリクエストは、本当に実際参考にさせていただいているのですが、どうしてもリクエストにお応えできないケースもあります…。「厳選!吹き替えシネマ」の場合ですと、吹き替え音源が現存しない(廃棄されたetc)、というケースがザラにありますので、そういう作品は吹き替えのリクエストにはお応えできません。当方としても無念です…。

 たとえば、池田秀一さんが声をやられた、とあるシリーズ作品。この吹き替え版は何年にもわたって同じ方からリクエストを度々いただいておりました。また、かつて日曜洋画劇場でノーカットで放送されたアカデミー超大作。こちらも沢山の方からリクエストをいただいており、私自身も当時VHSに3倍録画し繰り返し見た生涯BEST級な1本。…なのですが、これらは、“諸般の事情”により、当チャンネルで字幕版では放送しているにもかかわらず、吹き替え版ではオンエアできませんでした…。

 誠に申し訳ございません、としか言い様がありません…。さらに、いただいたリクエストに対し、「(吹き替えに限らず)放送できない“諸般の事情”とは具体的にこれこれこういうことです」と個別にお返事ができないことも、大変心苦しく思っております。

 ただ、リクエスト、確実に、こちらの目にとまり心に届いております。その点は間違いございません。特に何回かいただいている場合は、吹き替え担当の私を含め、各担当者がリクエストがあった事実を覚えており、機会あらば必ず実現させようと狙っております。実際に非常に参考にさせていただいておりますので、あきらめずお送りください。懐かしの吹き替えリクエスト、引き続き、本気でお待ちしております。

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 さて、話を『(吹)地球の頂上の島[TBS版]』に戻しますが、以下、ちょっと技術的なことを書きますので、ご興味のない方は読み飛ばしてください。

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 このバージョンですが、いざゲットしてみると、フィルム&シネという、とてつもなく古い素材形態でした。TV用素材なのにフィルムなのです。はるかなる昭和の昔は、TV放送もビデオではなくフィルムでやっていたのです。これでは最近オンエアされないのも道理というもの。古代の失われたテクノロジーすぎて今では放送にかけられません。入っていた箱によれば、作られたのは何と昭和54年夏!

 なお、「フィルム&シネ」のシネとはシネテープのこと。フィルムには録音もできることはできるのですが、その昔TVの世界では、音声はシネという磁気音声テープにて別途用意し、画のフィルムと音のシネを同時再生させて放送していたのです。

 もちろん今日では(というかかなり前からですが)録画・録音をひとつでできるビデオテープ(や、さらにはディスク)が放送では使われています。今回ザ・シネマでは、大昔のフィルムの画とシネの音をまとめて1本のデジタルビデオテープに録りなおして現代仕様のマザーテープを1本作り、それを放送にかけることにします。昔のお宝音源を放送しようとすると、このように少々手間がかかるのです。ほとんど発掘出土品の復元のような作業です。

 元がとにかく古い素材ですので、画の退色やキズ、音のノイズなども相当あるにはあるのですが、大昔の「フィルム&シネ」としてはこれでもかなりマシな方。奇跡的グッド・コンディションとさえ言っても過言ではない状態なのです。

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 閑話休題。急遽この『(吹)地球の頂上の島[TBS版]』を追加した結果、3月の「厳選!吹き替えシネマ」企画は合計3作品となりました。

 他の1つは『(吹)グローリー』。むかし金曜ロードショーでやったやつで、私も当時見ました。懐かし!

 もう1つは『(吹)13デイズ』こちらは今回、懐かしのTV吹き替えを発掘するという「厳選!吹き替えシネマ」の企画趣旨から外れて、DVDバージョンを放送します。

 本来2時間半弱の映画が1時間半強にカットされてしまってます。これは、どこかのTV局がDVD音源をもとに大幅にカットして作ったTV放送用マザーだと思われます。それを、当チャンネルでも借りてきて放送する形になります。

 この1時間半尺の“どこかのTV局”放送バージョン超カット版とは別に、テレ朝開局45周年記念として10年前に日曜洋画劇場で放送された2時間バージョンのちょいカット版も存在する(JFKを山ちゃんがアテている)らしく、今回、当時の吹き替え台本をゲットするところまでは行ったのですが、肝心のマザーテープには残念ながら辿り着けませんでした…。

 この台本ですが、ちょっと珍しいものでしたので、以下、余談としてご報告します。

 普通、吹き替え台本というものは、日本語版制作スタッフ(日本の民放や吹き替え会社のスタッフ名)やら、オリジナル・スタッフ(ハリウッドのプロデューサー、監督、脚本家名)やら、また、どの俳優をどの声優がアテるか、といったキャスト一覧とかがまず巻頭数ページにあって、その後に「梗概(こうがい)」というページが続きます。これは、映画の起承転結を2~3ページにまとめたものでして、映画丸ごと1本見なくとも、声優さんたちがここだけ読めば話を理解できるように書いてあります。お仕事用なのでネタバレ禁止などとは言っていられませんから、オチまで書かれてます。

 日曜洋画劇場版の台本はさらに、普通は無いWikiのような情報ページが巻頭に付いています。「キューバ危機の背景」とか「13日間の主な動き」とか「主要登場人物」といった情報が詳細に記されていて、「主要登場人物」のページでは、各人物の肩書きや政治的スタンス、さらには事件当時の年齢(実話の映画化ですから)まで記されており、歴史的事件で活躍した実在の人物を声優さんたちが声で演じる上で参考となる情報が、懇切丁寧に紹介されてるのです。凄いなコレは!

 ここまで作り込まれた台本には、お目にかかったことがありません。その文章の著作権がどこにあるのか全く不明なので、この場にて紹介できないのが残念です…。

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 さて話を戻します。今回あえてDVD版にもかかわらず『13デイズ』を「厳選!吹き替えシネマ」企画でお届けしますのは、この映画のような、やたらにセリフが多くて情報量の多い映画は、「古き良き昭和のTV洋画劇場版を懐かしむ」といったコンセプトとは別に、そもそも日本語吹き替えでも見といた方がいいですよ、という余計なお節介的意図からです。

 以前、吹き替えの第一人者、とり・みき氏に当チャンネルHPにご寄稿いただいた際、この点はたいへん解りやすく解説いただいたのですが(過去記事はココ、字幕と吹き替えではデータ容量が全然違うのです。

 字幕には、1秒間に読ませるのは4文字までという字数制限があります。いくら映画の登場人物がセリフを早口でまくしたてていても、だからといって、文字数を×2して1秒間に8文字読ませるとか4文字を0.5秒で読ませるといったことはできないのです。

 なので、早口でまくしたてるようなセリフがある映画や、2人以上のキャラクターが同時に喋るような映画(たとえば法廷サスペンスとか)、あるいはボリューミーなセリフの逐語的な内容理解が話についていく上で不可欠になってくる映画(今回の『13デイズ』とか、あと『JFK』とか)は、吹き替えで見た方が情報が端折られておらず、得られる情報量がオリジナル音声により近く、解りやすさという点では歴然と勝っている、ということは、間違いなく言えることでしょう。

 「外国映画は俳優の生声を原音で聞いてこそナンボだ」という価値観をお持ちの方は、さらに字幕版も見れば完璧ということです。

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 もうひとつ、地上波版ということですと、多くの場合ノーカットとはいきません。今回は元が2時間半の映画を1時間近くもカットし、結果1時間半になっちゃった、という、カットの中でもかなり壮絶なカット版なのですが、逆に、コンパクトに要点がまとめられているように個人的には感じました。本作はちょっと難しめの政治サスペンスですので、むしろ歴史的背景を知らない人にはかえって解りやすくなっちゃってると思うのですが、どうでしょう?

 カットされているからといって、即・台無しと決めつけたものでもありません(そういうケースも確かにありますが…)。作品によっては民放のカット版の方がテンポが良く、怪我の功名的にノーカットよりも結果として面白くなっちゃってる逆転現象も間々起きるということも、吹き替えマニアの間では「21時の魔法」としてよく知られた現象です(ウソ)。
 この『13デイズ』の場合、吹き替えカット版も上記の理由で怪我の功名的にお勧めなのですが、やはり、端折られてしまったシーンも惜しいので(あと、俳優の生声を聞きたいという意味でも)、もし未見の場合、または過去に字幕版を見てるが話が難しすぎて長すぎて理解できなかったという場合は、まずは今回のカット版1時間半日本語吹き替えバージョンの方をご覧になられてはどうでしょうか。その上でオリジナル2時間半字幕版も見る、という順番が、日本人にとってこの作品を一番深く理解できる見方かとお勧めいたします。当チャンネルでは今回どちらのバージョンもやりますので、是非あわせてご視聴ください。

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 個人的に、今回のこの吹き替えカット版でひとつ残念だったのは、臨検のシーンです。ソ連の船舶が核兵器の資材をキューバに追加でさらに運び込もうとしている。アメリカとしてはそれを認める訳にいかず、かといって攻撃を加えれば即・第三次世界大戦=全面核戦争に突入=地球滅亡決定ですから、とりあえず“臨検”という名目で米海軍艦艇にソ連船を停船させ、船内に立ち入り検査をする。それがイヤなら引き返せば?という作戦にまずケネディ大統領は打って出ます。JFKが選んだ、第三次大戦を避けるためのギリギリの策です。

 しかし、米海軍がソ連船に“発砲”してしまいます!おいおいっ!! ホワイトハウスからのお目付役としてペンタゴンの臨検作戦司令部に戻っていたマクナマラ国防長官は、ギョッとするんですね。「なに勝手に撃ってんだよバカが!」と、海軍のアンダーソン提督に詰め寄る。

 ところがアンダーソン提督は「はぁ?いま撃ったのは照明弾ですけど、何か問題でも?」と開き直り。つまり、ただの威嚇射撃ってこと。「敵船を狙って撃った訳じゃありませんから。ただ船の上空に向かって照明弾を打ち上げてるだけですから。なのに、なに勘違いして大騒ぎしてんですか?こうもトウシロさんに横から口出しされちゃ、こっちは仕事になりませんわ!」と、逆ギレ気味に喰ってかかる。

 これは、どうやら軍部としては通常の手順にのっとった、普通の行動のようなんですけど、軍部の常識は世間の非常識!あと一押しどっかから変な力が加わったら第三次大戦に即突入という超緊迫した局面で、通常の手順通りかどうか知りませんが、そんな誤解を生みやすい刺激的なアクションをしてたら、何がどう転んでどんな事態に発展しちゃっても不思議はないのです。

 で、マクナマラ国防長官は顔を真っピンクに染めながら、アンダーソン提督に怒鳴り続けます。「いまオレたちがやってるのは海上封鎖じゃない!これは言語だ!まだ誰も知らない全く新しい言葉なんだよ!! 大統領がこの言葉でフルシチョフ書記長(ソ連のトップ)とコミュニケーションしてんのが分かんねぇのかボケが!」

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 艦隊を派遣し海上封鎖はする。でも攻撃はしない。つまりソ連が核ミサイルを持ってくることは絶対に認めないが、かと言ってすぐ戦争をしようという考えはオレらは持ってないよ、というメッセージを、JFKは相手国に送っているのです。これは、カリブ海洋上に展開した海軍艦艇を使って身振り手振りをする、ものすごく規模の大きなジェスチャーゲームなのです。つまり、新しい言語。ジェスチャーは完璧にやらないといけない。動作のちょっとした間違いも許されない。なぜならジェスチャーが相手に正しく伝わらなければ即戦争だから。でも上手く相手に伝われば、相手の方からも、新しい、もしかしたら妥協的・平和的なリアクションが返ってくるかもしれない。これほど必死なジェスチャーゲームはちょっと他にありません。

 そんなことはお構いなしに、「いや、これが通常の手順ですから」と何も考えずに艦砲をブッ放す単純・単細胞な人たちの、おっかなさ…。敵国の奴らより、自国の身内にいるこういう連中こそが、実は一番怖いって真理を、この映画のこのシーンは教えてくれてます。そこをカットしちゃってるのは実に惜しまれる!…んですが、まぁ、カットされたシーンは“完全版”としての字幕版の方でお楽しみください。

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 この映画は、単純・単細胞な人たちのおっかなさを描きながら、それと対置する形で、“善き人々(men of good will)”をヒーローとして描いています。つまり、神経をすり減らしながら地味にジェスチャーゲームを繰り広げてる人たちです。周囲の単純・単細胞な人たちが「ナメられて堪っか!」「目にもの見せたれ!」「奴らをブチのめせ!」「よっしゃ戦争だ!」「オリャオリャー先制攻撃だーっ!」などと威勢良く派手に吠えまくっている。挙げ句の果てには「テメぇビビってんじゃねーぞ、この臆病もんがコラ」と“善き人々”のことを罵る。

 そんな喧噪と悪意の中にあって、“善き人々”はあきらめず、細心の慎重さで相手国へジェスチャーを地味に送り、相手が返してくるジェスチャーを注意深く見守り、向こうの意図を読み解こうとする。相手側にも自分たちと同じように戦争を避けたがっている“善き人々”は必ずいるはずだ。彼らはきっと自分たちにジェスチャーを返してくれているはずだ。そう願い、信じ続ける人たち。「ナメられて堪っか!」→戦争突入以外の、冷静で平和的な落とし所を辛抱強く模索し続ける人たち。それが、本作の主人公です。

 善き人々の「善」とは、善良とか善人とか温厚とか親切とか、この作品の場合はそういうことではなく、“政治的に善”ということでしょう。私は、政治的に善でありたいと自らに願う時、繰り返し、決まってこの映画を見返します。人生の指針ともいうべき作品です。

 いくつかのシーンでは何回見ても泣けます。

 キューバ上空を超低空偵察飛行し敵の対空砲火を雨アラレと浴びながらも、軍部のタカ派、戦略航空軍団司令官カーチス・ルメイ大将(4つ星の青い制服の人)に向かって「いや、自分は撃たれてません。鳥が当たっただけっす」とすっとぼけてみせる、典型的アメリカン・ナイスガイなF-8クルセイダーのアビエイター。もう、超絶にカッコいい!カッコよすぎて泣けてくる!!

 カーチス・ルメイは大戦中、日本への空襲と原爆投下を指揮し、何十万人もの日本の民間人を虐殺した張本人です。そういう人物に「敵が撃ってきました!」とバカ正直に報告してたら、「ヨッシャこれで反撃の口実ができたぞ」という流れになり、戦争を始めてたでしょう。とにかく勝ちさえすればいい。その過程で何をしようがどれだけ人を殺そうが、最後に勝てば官軍で、全てが許されるんだ、というのがルメイという人の考え方なので。日本空襲の時もそうでしたから。そして、事態は最終的に米ソ全面核戦争まで行ってたでしょう。地球が滅んだ後で、どちらが勝とうが負けようが、どっちが官軍だろうが賊軍だろうが、もはや意味なんか無いと思うんですが…。

 考えてみれば、あのナイスガイがついたたった1つの“政治的に善”なる嘘が、世界の滅亡を食い止めた訳です。

 このカーチス・ルメイに代表される威勢の良い元気な人たちは、考えようによっては、敵に負けない・敵に勝つという軍人の職分を愚直にまっとうしているだけとも言えますが、自分の職業的視野を通してしか世界と物事を見れなくて、人としての道義的価値判断より職業的価値判断の方を優先させてしまう、困った仕事人間たち、致命的につぶしのきかない連中であるとも言えるでしょう。人間、こうはなりたくないもんですなぁ…。この点を映画的に強調するためか、彼らの家庭や家族は、この映画には登場しません。彼らにだってきっとお子さんや奥さんはいたんでしょうが、一切出てこない。

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 一方の“善き人々”の、家庭での様子、特に子供達をいたわり、いつくしむ姿は、劇中で繰り返し丹念に描かれます。彼らは仕事人間である前に、まず、人の親なのです。威勢の良い人たちは「俺が死んでも祖国が勝てばそれでいい。命なんか惜しくない!祖国に勝利の栄光あれ!!」的な考えを持てるとしても、“善き人々”はそんな思考方法は持てない。彼らは、人の親だから。いつの日か、この世界を子供たちに譲り、その将来を思いやりながら老い、死んでいきたいと願っている人たちだからです。ゆえに、この世界を滅ぼさないために彼らは忍耐強く努力し、決して結論を急ごうとはしない。そんな彼らの立ち位置を示すため、家庭でのシーンをこの映画はことさらに盛ってくるのでしょう(吹き替え版では多くがカットされてますが…)。この点を踏まえて見ると、ラストのケネディの演説がよりいっそう胸に迫ってきます。

 さらに、まだまだ泣きポイントは尽きません。序盤、「空爆の原稿は結局書けなかったんだ…」というスピーチ・ライターのつぶやき、怖すぎ!心底ゾッとします…。また、クライマックスでボビーらがソ連大使館に最後の談判に乗り込んで行くシーン。あのシーンの煙突の煙ほど恐ろしい映画のワンシーンを、私は他に知りません。何度見ても総毛立つシーンです(ここも残念ながら吹き替え版ではカットなんですが…)。あと、ソ連女性秘書のあの顔!これらは感動号泣シーンではなく、最恐のホラーシーン、恐怖のあまり思わず涙目になる半べそシーンですが。なんせこれ、実話ですから!

 感動系の号泣シーンでは、14日目の朝日が昇った後の朝食のシーンですね。この映画って、日常のありふれた朝の食卓シーンから始まって、エンディングでまたそこに戻ってくるんですね。14日後の朝食の風景に。その間に、人類は滅亡の瀬戸際を体験してる訳です。いかに、家族で囲む、日常の、ありふれた食卓が、かけがえのない価値を持つものかを表現するために、そういう構成になっているんですね。ほんと、よく練られた作りの映画です。そこに鳴り続ける赤電話(ホワイトハウスとの直通回線)をガン無視、そして最後のJFKの演説と、もう、終盤は泣き所の連続!そして全編、心に響く、一生忘れたくない、反芻したい、暗唱したいセリフだらけ!

 この映画もまた、私にとっては間違いなく生涯BEST級に大切な1本です。ということで、ぜひ本作を1人でも多くの方にご覧いただきたく、DVD音源吹き替えカット版でもあえてお届けすることにした次第であります。

 この作品を出発点に、関心を『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白』や『JFK』→『ボビー』→『ニクソン』→『フロスト×ニクソン』へとどんどん拡げていくという発展的な楽しみ方などもお勧めです。

 以上、ちょっととりとめもなく書き散らかしてきましたが、長くなりましたので、そろそろ終わりにします。最後にもう一度、重ねてお詫び申し上げます。また、今後とも「厳選!吹き替えシネマ」のラインナップにご期待ください。そしてリクエストもお待ちしております。

(編成部 飯森盛良)
『地球の頂上の島』©The Walt Disney Company  All rights reserved
『13デイズ』©BEACON COMMUNICATIONS,LLC.ALL RIGHTS RESERVED.
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 お待たせいたしました!ついに、『インディ・ジョーンズ』123シリーズ一挙放送、TV版吹き替えでのお届けです!

 8月17日(金)と、20(月)22日(水)の2回です。お見逃し無く!


 春の放送時に、すでに字幕版だけでなくHD吹き替え版をあわせてお送りしており、その際に村井国夫のノーカットビデオ版をレイバックしてHDバージョンを作った、という顛末は、別記事にてすでにご報告しましたが、今回は、TV版の方のオンエアです。

 TV版吹き替えは、ザ・シネマが大切にしてきた、特別なコンテンツの一つ。

 いま改めて、むかしTVで見た吹き替え映画を見なおしてみれば、きっと懐かしい思いがすることでしょう。こみあげてくるノスタルジーがあるはずです。あの日あの頃の情景がフラッシュバックで蘇るかもしれません。字幕版ではそれがないとは言いませんが、より「懐かしさを楽しむ」ということができるのは、少なくとも水野晴郎や淀川長治が映画の原体験だという多くの人にとって、やはり、TV版吹き替えの方でしょう。

 「懐かしさを楽しむ」、これは映画そのものが持っているオリジナル本来の価値や面白さとはまた違った魅力、それも、かなり大きな魅力ではないでしょうか。ザ・シネマが往年のTV版吹き替えを尊重する理由の一つです。そして、まさに、あの頃みんなが胸躍らせた『インディ・ジョーンズ』123作のような作品は、「懐かしさを楽しむ」を提案し続けてきた当チャンネルの立場として、TV版吹き替えの放送もマストなのです。

 今回、TV版でも、すでにオンエアしているビデオ版同様、あえて村井国夫版(現在は村井夫とご改名されています)をチョイスしています。ちなみにこのバージョンはDVD・ブルーレイには未収録(らしい)です。

 もちろん村井さん以外のバージョンも、いろいろと存在はします。主立ったところでは、『ブレードランナー』新録の時に当チャンネルでも吹き替えをお願いした、ハリソン・フォードのもう一人のFIX声優・磯部勉さんバージョン。ハリソンと言えば磯部さん、という印象も定着してはいるのですが、磯部さんは『レイダース』を吹き替えられたことがどうやらないみたいだ、3本揃わなくなる、ということが今回はネックに。

 また、ジャック・ライアンなどは磯部さんイメージでも、インディとハン・ソロに関しては村井さんの声のイメージを勝手に抱いている、という担当者の個人的感覚も、理由としてありました。

 村井さんの軽妙な、あえて言えば良い意味でちょっと“チャラい”持ち味が、宇宙のチャラ男 ハン・ソロにはまさにハマり役だった気がします。インディも、80年代後半の金曜ロードショーでの村井版がインディ吹き替えの元祖なので、逆にその印象から、インディアナ・ジョーンズ博士というキャラクターに対してちょっと“チャラい”イメージを持ってしまっていた、という逆転現象も、私の中では起こっていました。

 子供の頃、村井さんの声でシリーズを見てそういう印象を抱いていて、字幕で見られる歳になって原音で聞いてみたら、インディが渋くてダンディな男だったことにビックリ!という覚えがあります。個人的思い入れではありますが、しかしこれ、私だけの感覚ではないのではないでしょうか?

 オリジナルにイメージが近いのは磯部さんの方かもしれません。あちらも流石に素晴らしかった!しかし、オリジナルから若干ズレた印象を吹き替えが与えてしまったとしても、それもまたよしだった古き良き昭和の吹き替え。日本の吹き替え文化がかつて持っていた豊かさでしょう、これは。その価値観で言うなら、村井版もやっぱり素晴らしいのです!

 人情味が数倍増しになる羽佐間道夫版のロッキー、朴訥なキャラがより強調される、ささきいさお版のランボー、どちらもスタローン本人の声とは似ていないけれど良い!ということと同じです。小池朝雄→石田太郎のコロンボ、山田康雄のダーティハリーも同様。オリジナルよりキャラが魅力的になってますけど、なにか?という域にまで達した吹き替えの傑作も、その昔には存在しえたのです。村井国夫版インディはその一つに数えていいのではないでしょうか。

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 ネット情報によると、『レイダース』は、金曜ロードショーの1985年10月4日、前身の水曜ロードショーから引っ越ししてきて最初の回の放送作品だったようです。

 またも個人的な話で恐縮ですが、私が見たのは1987年12月25日の再放送でした。その夜は水曜ロードショーから通算して800回記念というメモリアルな回で、故・水野晴郎さんのトークも、過去取り上げてきた主な映画の懐古が話のメイン。『レイダース』の解説は少しだけという特別なスタイルをとっていたことを、今も鮮明に記憶しています。

 なぜなら、この回をビデオに録画した私は、全キャラの台詞を時系列順に完コピできほど、どのタイミングで何のCMが入るかまで覚えるほど、飽きずに何度も何度も繰り返し見たからです。軽く100回は見たのではないでしょうか。今、こういう仕事に就いている、それが一つの原点です。

 今回、業務として久しぶりにこのTV版を視聴した途端、先ほど書いた通りの、泣けてくるようなノスタルジーがこみあげてきたことは、言うまでもありません。同様の感傷にひたっていただける方、懐かしさを共有いただける方が、一人でも多くいてくださることを、担当者として切に願っています。

 金曜ロードショーでオンエアされたものは85年・87年どちらもノーカットの村井版でした。もちろんTVの場合はノーカットと言ってもエンドロールは大抵カットされますので、余韻を楽しむ、という訳にはいきませんが。それ以外にも、オリジナルとのちょっとした違いは存在します。例を2つ挙げましょう。

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 まず序盤ネパールの酒場、熱せられた「ラーの杖の冠」のメダルを握って手の平をヤケドしたゲシュタポのトートが、慌てて屋外に出て積雪の中に手を突っ込み、思わず「あ〜キモチい!」と漏らす、あの、ちょっとコメディっぽい台詞。TV版のトート役の内海賢二もビデオ版の樋浦勉もそう言っていますが、原語版では「ワオ」とか「ハウッ」とか、声にならない声を上げているだけ。気持ち良いなんてことは一言も言ってないのです。『レイダース』はTVとビデオで同一翻訳を使い回しているようなので、あの台詞は声優さんのアドリブではなく、翻訳家が台本に盛り込んだ、昭和のTV吹き替えならではの“サービス”なのでしょう。こうした小さなアレンジが塵も積もれば山となり、金曜ロードショー版はオリジナルよりちょっとだけコメディ寄りの印象に振れています(前述した村井さん一流の個性もありますし)。

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 もう一カ所、「魂の井戸」でインディとマリオンが生き埋めにされる場面。2人の頭上で入り口が閉ざされ、2人を見殺しにベロックやトートらナチス側がその場を立ち去るシーンですが、ここでTV版ではBGMが入ります(カイロの路地でマリオンを乗せたトラックが爆発する前半シーンの音楽の流用)。しかし本来ここにBGMは入りません。オリジナルはもちろん、同一翻訳使い回しのビデオ版でさえ音楽は無し。トートの不気味な高笑いと、石扉が「ドガシャーン」と閉められる音の反響だけしか入っていません。このシーン、金曜ロードショーではCMチャンスの直前でした。生き埋めにされた2人は果たして脱出できるのか!?というサスペンスが、BGMのおかげでCM前に倍増しています。これなどはTV的な必要性からの付け足しでしょう。

 この“盛る”ということもまた、往年の吹き替えならではの魅力です。後でオリジナルを見ると案外こざっぱりした印象で、「何かが違う」と、むしろ物足りなく感じてしまうことが結構あります。

 以上、紙幅の都合で『レイダース』だけしか触れられませんが、『魔宮の伝説』も『最後の聖戦』も、そのTV吹き替えには、TV洋画劇場黄金時代の吹き替えならではの魅力がたくさん詰まっているのです。

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 最後に、今回ちょっと残念だったのは(ちょっとどころか担当者としては痛恨だったのは)、『レイダース』と『最後の聖戦』が、カット版しか手に入らなかったこと。お終いに、その顛末をご報告します。

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 もちろんザ・シネマは、いかなる場合でも、可能であればまずはノーカットの素材を優先的にオンエアしようと努めておりますし、TV吹き替えであれノーカットの素材が存在するのであれば、当然そちらを優先してお届けしたいのは山々なのですが…。

 『インディ・ジョーンズ』123の過去のTV日本語吹き替え版は、海外の権利者の方で放送用テープを保管しており、放送契約を交わした当チャンネルは、それを一時的に借り受けてオンエアします。金曜ロードショー版であっても日本テレビから借りてくる訳ではないのです。

 そこで、まず海外に、村井国夫バージョンの金曜ロードショー版のテープを送ってほしい、と詳細なリクエストを出したのですが、さすがに海外相手に「村井国夫」とか「金曜ロードショー」などと言って通じる訳がないのは当然です。「日本語吹き替え版が何バージョンかあるので、送るからそちらで中身を見てくれ」との回答があってテープが送られてきて、当方にてそれら全てを見て確認することになりました。この展開は今回に限った話ではなく、海外でテープが保管されている場合には割とよくあるパターンです。

 結果、『レイダース』と『最後の聖戦』はカット版しかなかった、ということです。オフィシャルなルートから「日本語吹き替え版はこれで全部だ」という形で渡されたもののうち村井TV版はカット版でしたので、ノーカット版はもう失われてしまった、ということなのでしょう。

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 なお、日本語吹き替え版を作った制作会社や、それをオンエアした放送局に、当時のコピーが残されている可能性もゼロではありません。しかし、放送用のマザーテープは、吹き替えを制作した会社や放送した局から、映画の権利者(テレビ放送権の配給会社など)に提出されます。そして多くの場合、権利保護の観点から、局や制作会社側は「コピーを滅却しなければならない」という契約を結んでいますので、彼らがコピーしたテープをいま持っていなくても、むしろ当然なのです。または契約で、彼らが保管を許可されている場合もありますが、その場合は権利者に照会すれば有るなら有るでテープの在処が分かるはずです。今回は、それも無いことが一応オフィシャルに確認されています。

 なぜ、過去のテープが保管されていない、破棄されてしまった、ということが起こるのか? 今回の『レイダース』、『最後の聖戦』個別の話ではなく(今回の個別の事情までは当方も把握できていません)、以下、一般論として書きますが、まず第一に、日本側の問題が挙げられます。かつてはTV放送しかなく、その音声をDVDやブルーレイに収録するとか、CSの洋画専門チャンネルでオンエアするといった未来(つまり今日)の「二次使用」を前提には考えておらず、「二次使用」という概念そのものが存在すらしていませんでした。いま我々がもう一度見たい「昭和のお宝吹き替え」の時代には、皮肉なことに、それを保存しておかねばならない必要性が、今日ほど大きくはなかったのです。そのため、権利保護のための滅却という以前の問題で、不要になったから日本側で捨てちゃった、というケースもあったのです。

 第二に、海外側の問題。「昭和のお宝吹き替えだ」「バージョン違いの日本語吹き替え版には、声優さんごとのそれぞれ違った趣がある」といった価値観を、海外の権利者に理解してもらうことは、さすがに難しそうです。特に、DVD日本語音声用などの用途で、吹き替えが近年になってノーカットで新録されたような場合、それが最新・最良の素材という扱いになるため、過去の、カットされた、古い旧式のテープで残されている日本語版を保存し続けていかねばならない必要性を、海外側では強く感じてくれない、ということがあります。これは仕方ないと言えば仕方ないことでしょう。

 以上のいずれか、あるいは全く別の理由により、『レイダース』と『最後の聖戦』の金曜ロードショー村井国夫版ノーカットTVバージョンは、もう存在しない、ということが、現段階での暫定的な結論です。しかし、海外からの回答は「滅却したから残っていない」ではなく、「こちらの手もとにあるのはこれだけだ」という言い方でした。この世にノーカット版のコピーが1本も残っていないと断言できるほどの確定的な結論ではありません。望みは完全に絶たれた訳ではありません。いつの日にか、「実は捨てていなかった」「よく探してみたら見つかった」といった形で、ノーカット素材が発見されることを、87年ノーカット村井国夫版によって人生の進路が決まった1人の熱烈なファンとして、私も、心から祈っています。

(編成部 飯森盛良)
『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』COPYRIGHT © 2012 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』Indiana Jones and the Temple of Doom ™ & © 2010 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved. Used Under Authorization. 
 ザ・シネマで『ブレードランナー』ファイナルカット版の日本語吹き替えを、わざわざ放送用に新録すると聞いてうれしくなっています。しかもハリソン・フォードの声は定番の磯部勉さん。僕同様、期待している吹き替えファンは多いことでしょう。地上波でも局制作の吹き替え洋画番組が少なくなっている中、これは快挙といえるかもしれません。

 さてしかし、僕のような吹き替えファンがいるいっぽうで、関係者のお話をうかがうと「吹き替えにニーズなどあるのか」「吹き替えはオリジナル俳優の演技に対する冒涜ではないのか」「どうして吹き替えがいいのかわからない。字幕だけやっていればいいのではないか」というご意見も、いまだにあるようです。そこで以下では、そうした方達に向けて、吹き替えの意義や魅力について、一吹き替えファンの立場からお話をさせていただきたいと思います。

 おっと早まらないでください。「字幕より吹き替えがいい」と強固に主張するつもりは毛頭ありません。早々と結論を先に書いてしまいますが、要は「吹き替えも字幕もそれぞれにいいところがある(同様にマイナス面もある)」ということです。

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 吹き替え派vs字幕派の論争は、テレビで吹き替え放送が始まった1950年代からずっと続いてきました。媒体が限られていた時代には重要問題だった対立項も、現在の選択肢の多い視聴環境では、僕はもはや不毛だと考えています。これも後で詳しく述べます。しかし「それぞれお好きなように」ではやはり悲しい。字幕ファンにも吹き替えの利点や魅力を少しでも知ってもらいたいのです。

 というわけで、以下で書くことは吹き替えファンなら言わずもがなの自明のことで、僕自身もこれまで場所や機会をいただいては、繰り返し述べてきたことでもあります。なので、そうした吹き替えファンの方はスルーしていただいてけっこうです。むしろ先にあげたような「吹き替えの意義がわからない」という方や「ちょっと興味がある」という方達に向けて筆を進めます。

●ここが吹き替えのよいところ!
 まず最初の「吹き替えにニーズなどあるのか」ですが、ここにユーザが1人確実に存在します。そもそも一定数のニーズがないのにチャンネルや番組枠が開設できるほど世の中は酔狂ではありません。関係者のお話では、アンチ意見もある一方で「よくぞ吹き替え枠の番組を作ってくれた」という声も多く届いているようです。シネコン時代に入り、劇場用の吹き替え版が多く作られ、必ずしも年少者とは限らない広い層の観客を動員しているという事実もあります。

 単に「わかりやすい」ということだけではありません。日本の吹き替えの歴史は既に半世紀以上にも及びます。元の俳優や映画のファンがいるように、長い時間をかけて支持され信頼されてきた声優さん、及びそのファンが存在し、人気の吹き替え作品があることを、字幕ファンには知っていただきたいと思います。

 「吹き替えはオリジナル俳優の演技に対する冒涜ではないのか」、これは、もっとも重要な論点でしょう。冒涜というのはきつい言葉ですが、元の俳優の大ファンであるならば、その表現もわかります。そこまでいかなくとも、声やセリフまわしも含めてその俳優の演技を、ひいては映画を楽しみたいのだ、という気持ちは、僕も吹き替えファンである前に映画ファンですからよく理解しているつもりです。

 声優さん達は元の俳優の演技や個性を日本語で表現すべく、昔も今も最大限に努力されています。吹き替えファンの眼や耳も厳しいので、そうした中で「○○なら誰々」と評価されている人の演技は、けっして「冒涜」とは思いません。

 しかし「なによりも元の俳優の声、あるいは原語の表現こそを聴きたいのだ」という方に対しては、むりやり吹き替え版を勧める気はありません(あたりまえの話です。反論する余地も理由もありません)。ただ、オリジナル音声+字幕で観ることが「当然」「常識」「正しい」と主張されると、これにはちょっと反論したくなります。映画にはさまざまな観方があります。俳優で観る人もいれば、別の要素を重要視する人もいます。どちらが「正しい」「間違い」ということではないのです。

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 フランスなどヨーロッパの幾つかの国では外国映画は劇場であっても、字幕ではなくて吹き替えで公開されることのほうが「一般的」「常識」です(映画祭やフィルムセンターなどでの例外はあります)。日本よりも厳格にフィックス(=その俳優専門の)声優が決まっているようですが、似ているとはいっても他人は他人です。つまりこれは、映画的に「元の俳優の声」以上に優先されるべき事項がある、もしくは字幕版になんらかのマイナス面がある、と判断されているということです。

 端的にいえば、それは「セリフの情報量の一致」ということになります。

 字幕の文字数は限られていて、実際に俳優が喋っている内容のごく一部しか画面には表れていません。かなりの情報がそぎ落とされています。また、字数節約のため、適当とは思えない極端な意訳も多い(もちろん、そうした創意工夫の中から歴史に残るような名字幕翻訳も数多く生まれました。そのことは否定するものではありません)。複数名が同時に喋っているシーンなどでは表示も混乱しますし、本来タイミングが一番重要なはずのギャグも、字幕版ではワンテンポ遅れて笑いが起きる、ということがよくあります(それ以前にギャグや皮肉の細かいニュアンスが字幕では伝わらないことも、ままあります)。

 この「セリフの“内容”をオリジナルとほぼ等しくできる」という面においては、圧倒的に吹き替えが字幕に勝ります。さらに、オリジナル至上主義の字幕ファンが見落としがちなことですが、字幕は実はオリジナルの画面をかなり隠しています。声よりも「画」の美しさを優先する人にとっては、字幕はけっこう大きなノイズと映ります。物理的な占有だけでなく、いちいち字幕に視線を移すことにより、大事なものを見落としたり画面に集中できなくなったりという弊害もあります。

 つまり視覚情報(画面)を尊重して保持するか、聴覚情報(俳優の声)を尊重して保持するか、という違いで、どちらも厳密にはオリジナルではないのです。加えて、聴覚情報を尊重しても、観客や視聴者に元の映画の言語の理解力がなければ、文字数の限られた日本語字幕に頼らざるをえなくなり「声」はともかく「内容」的な情報もまた欠落することになります。

 このように字幕には字幕の、吹き替えには吹き替えのよい面、そしてマイナス面が、それぞれにあるのです。それぞれの長所を踏まえ、字幕と吹き替えの両方で活躍している翻訳家の方も複数名いらっしゃいます。

アンチ吹き替え論はなぜ生まれたか
 さてしかし、長い間、日本では吹き替え支持派は劣勢でした。字幕派が吹き替え版を批判したり攻撃することはあっても、吹き替えファンが字幕版をダメだと主張することは、めったにありませんでした。それは日本の吹き替え版が劇場ではなくテレビで発達していったことに起因しています。

 吹き替えは常にテレビで流される洋画番組の他の問題点と一緒にされて論じられてきました。他の問題点とは、CMによる中断、放送時間に合わせるための大幅なカット、さらに効果音や音楽まで日本側で付け足す場合もあり、吹き替え版はいわばオリジナルの加工品とみなされ、そもそも比較するような対象ではなかったのです。

 問題点と書きましたが、制作している側にとっては、これらは至極当然の工夫であったでしょう。尺(時間)やCMは厳然と決められている基本条件なので、どうしようもありません。その中で原画の魅力を効果的に伝えるにはどうしたらいいか、現場では毎回頭をひねっていたはず。こうした試行錯誤の中で、ときどき突拍子もなく「吹き替えそれ自体が」面白い作品も登場するようになりました(もちろん間違った方向に暴走したり空回りした作品も数知れず、ですが)。

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 けれども、当時はビデオも衛星放送もない時代。旧作の映画に触れる手段はテレビの洋画劇場くらいしかありませんでした(とくにリバイバル上映や名画座のない地方ではそうでした)。媒体が一つしかなければ、できるだけオリジナルに近い形で観たいと思う層には、CMあり、カットあり、遊びありのテレビの吹き替え版は、ますますまがいものに映ったでしょう。

 しかしいっぽうでは、そうした洋画番組は確実に視聴率を稼ぎ、僕のような吹き替えファンも多く生むことになりました。CMありカットあり、そして吹き替えであっても、そこから生まれる感動は「本物」だったのです。さらにそこから一歩進んで、先に述べたような「テレビ吹き替え独自の」ちょっとアヴァンギャルドな面白さにも僕らは気づいていきました。制作者や声優さんの熱い熱を感じていたのです。

 それでも長らく吹き替え版の優位を口に出すことは、はばかられました。家庭用ビデオ録画機が誕生してからも、最初はむしろオンエア機会の少ないノーカット字幕版のほうを喜んで録画していました。

 そして……時代は変わりました。

楽しみ方いろいろの21世紀へ!
 いまやBSやCS、そしてケーブルテレビで、ノーカットの字幕版が連日放送されています。さらに、どの地方都市にいっても普通にレンタル店があり、古い名作からマニアックな怪作までタイトルも充実しています。地上波ですら、吹き替えの洋画劇場の枠は減り、深夜に放送される映画はノーカット字幕版のほうが多くなりました。

 ですから、いまは字幕がいいか吹き替えがいいかなどという論争は意味をなさなくなった、と思っています。自分が映画に求める優先事項に応じて、字幕版を選択したり吹き替え版を選択すればよいのです。もちろんダメな吹き替えはありますが、同様にダメな字幕もあるのです。

 そしてさらに付け加えるなら、そうしたノーカット字幕版優勢の現在の視聴環境にあっては、いまこそ誰はばかることなく「あえて吹き替えを楽しむ」方向で吹き替え版を支持したって全然かまわないと思っています。僕のように吹き替え独自の遊びや名人芸を楽しみたい人は、たとえカットがあってもテレビ版の吹き替えで観たい。オフィシャル版はどうもお行儀がよすぎる、ということもありますし、古い作品は名声優の全盛時のお声でこそ聴きたいのです。

 僕にとっては、吹き替え版もまた元の映画同様その時代時代の「作品」なのですから。

とり・みき
マンガ家、吹き替え“愛好家”。代表作に『クルクルくりん』『愛のさかあがり』『山の音』など多数。94年、98年に星雲賞コミック部門受賞。95年、『遠くへいきたい』で文春漫画賞受賞。同95年、とり・みき&吹替愛好会として『吹替映画大事典』を上梓。以降、吹き替えに関するコラムを数多く執筆。
http://www.torimiki.com
「イヤねぇー、最近のアメリカのアイドルって下卑たスキャンダルにまみれまくりで」
「そこがいいんじゃない!」
 
 と、みうらじゅん風に始めてみました。ドラッグ、アルコール、セックス、奇行、逮捕などなどのスキャンダル渦巻くアメリカのショウビズ界において、とうに絶滅したはずの太古の種の生き残り、オゴポゴやモケーレ・ムベンベ等とならぶUMAの一種とされる、「清純派アイドル」。
 
 スキャンダルなど無縁。エロい話題はご法度。清く正しく美しい萌えな、品行方正の美少女。オナラもしなきゃトイレにも行かない、という特異な生理を持つとの学説もある、謎の超自然生命体「清純派アイドル」でありますが、その実在がアメリカでついに確認されたのは、21世紀初頭のことでした。
 
 それが、ヒラリー・ダフ。略して“ヒラダフ”なのであります!
 
ヒラリー・ダフ.jpg
 ブリトニー・スピアーズの下、いま現地で大ブレイク中のマイリー・サイラス(日本で言えば平成生まれ)の上の世代。リンジー・ローハンとは同世代のライバル関係で、まさに、ゼロ年代を代表するアイドルです。
 
 上で名前をあげたみなさんは、スキャンダルにまみれておいでの、自由奔放なちょっと困ったチャンたちなんですが、唯一ヒラダフ嬢だけ、これまでスキャンダルらしいスキャンダルも無く、純潔のイメージを守り抜いてきたのですな。
 
 最近の彼女は、ディズニー・モバイルのCMで日本のお茶の間でもすっかりおなじみですね。っていうか彼女もふくめ、上記のスキャンダラスなみなさんも全員が、実は某ディズニー・チャンネルから出た人たちなのです!すごいぞ某ディズニー・チャンネル!!
 
  ここ10年の某ディズニー・チャンネルって、トップアイドル輩出機関的な役割をはたしてて、そっち方面が好きな御仁は要チェックなのです。日本で言えば、70年代の『スタ誕』か、80年代の『ミスマガジン』か、90年代の『ボクたちのドラマシリーズ』&『月曜ドラマ・イン』状態。
 
 そのヒラダフ嬢がローティーンのころに出演し、ブレイクするきっかけとなったのが、連続ドラマ『リジー&Lizzie』。中学生のリジーを中心に、彼女の学校生活や家族模様なんかをコミカルに描いた、ティーン向けのドラマです。
 
 で、今回ウチで放送する『リジー・マグワイア・ムービー』とは、何を隠そう、その『リジー&Lizzie』の映画版なのです(あー回りくどい!)。
 
 この映画で、冒頭リジーは中学校(あの、ファンにとっても思い出深い)を卒業。いつもの仲間たちと一緒に、卒業旅行ならぬ高校の入学旅行でローマに行きます。そこで、イタリアのイケメンとのロマンスが待っている、という、豪華映画版なのです。学校行事の旅行ながら、おなじみのマグワイアファミリーももちろん登場します。
 
 もう、これぞまさしく、正統派アイドルムービー!ってかんじですな。かなりムチャな話の運びやマンガチックな展開が目立つティーン向け映画ですが、そこはまぁ、あげ足とらんと、相好くずしっぱなしでヒラダフ嬢のかわいさを愛でる、というのが、オトナゲある鑑賞態度でしょう。
 
 ちなみに、連ドラの方を一度も見たことなくても楽しめる作りになってますが、補足説明しときたいところが一ヶ所だけ。冒頭、慣れない卒業式用衣装を着たリジーとゴード(っていう仲良しの男子)の、
 
「ゴード、私の見た目、OK?」
「リジー、僕は君の男の親友だ。その手のことならミランダに聞いた方が確かだよ」
「あの子、今、メキシコ・シティよ」
「あぁ、そうだったっけ」
 
 といったようなやりとりがありますが、「ミランダ」なる人物、“不在”の理由がこの短いセリフで説明されただけで、それっきり、この映画には出てきませんし、二度と触れられもしません。
 
 連ドラでは、ドジっ娘(萌え)白人のリジーと、ユダヤ系お利口男子のゴード、そして、そのミランダってヒスパニック系のおきゃんな女の子が、仲良し3人組でワンセットなのです。リジーにはほんとは、異性の親友と同性の親友がいたんですねぇ。
 
 連ドラ版ファンにとって、この栄えある映画版(連ドラ版の完結編でもある)にミランダが出ないなんて、まったくもって、けしくりからん事態!たとえるなら、『ドラえもん』最終回劇場版に、なぜかスネ夫だけ「家族でおフランスでバカンス中」とか、ジャイアンだけ「カアちゃんにお使いたのまれた」とかのしょうもない理由で、1シーンも出番が無い、というのに匹敵する、断じてあってはならん、ファン置き去りの許しがたい事態なのです!!
 
 でも、連ドラを見たことない人にとっては、そんなのどうでもいい話。そこで引っかからない分、連ドラからのファンよりこの映画を素直に楽しめちゃうかもしれません。
 
 ところで、そのミランダも出るけど、ミランダの妹が主役(それがなんと『ウェイバリー通りのウィザードたち』のセレーナ・ゴメスなんだとか)、っていうファン垂涎の『リジー&Lizzie』スピンオフ・ドラマが、アメリカで作られたとか作られてないとか、作られたけども放送のメドが立ってないとか…。ってそれ絶対都市伝説だろ!ぐらいあやふやで不確かな話が、米本国ではここ数年ささやかれてる模様。それ、見れるもんなら激しく見たい!某ディズニー・チャンネル様、おがみます!!
 
 で、最後は、例によって吹き替えの話。もとが連ドラなので、それを見てたファンはもちろん字幕よりも吹き替えの方に耳が馴染んじゃってるワケです。そこは吹き替え尊重チャンネルザ・シネマ、抜かりありません。字幕版とあわせて吹き替え版も、当たり前にお届けいたします!(9月字幕、10月吹き替え)
 
 ただ、「いゃー、吹き替えって、本っ当にいいもんですね!それではまたザ・シネマでお会いしましょう」が口癖の僕ではありますが、なんでもかんでも吹き替えが良いと思ってるワケでもないんです。この『リジー』は吹き替えもいいのですが(っていうかそっちに耳が慣れてるのですが)、あわせて字幕でも見たい作品なのです。
 
 なぜなら、ヒラダフって子は、声がかわいらしいから。向こうの女優さんにはめずらしい、日本人好みのアニメ声といいますか。歌手としての彼女の歌も、曲の良し悪しより声質のかわいさで聴けてしまいます(ワタクシだけ?)。こういう女優は、本人の声も聞きたい!
 
 ついでに言うと、ヒラダフが清純派アイドルとしたら“ヨゴれアイドル”(いゃ、良い意味で)なイメージがすっかり定着してしまったお騒がせセレブ、ハスキーキュートなズベ公ボイスのリンジー・ローハンとか、あの迫力ボディとはあまりにチグハグな舌ったらずで甘ったるい声のJ.Loなんかも、ぜひとも本人の声で聞きたい女優さんです(またもワタクシだけ?)。にしても、なぜか歌手兼業な人ばっかですな。
 
 ワタクシだとどうしても野郎目線になってしまいますが、女性のみなさん的にも「この俳優の重低音ボイスはシビレるわ」みたいなこだわりがある人って、けっこういるのではないでしょうか。
 
 まさに、字幕がいいか吹き替えがいいかはケース・バイ・ケースってことでしょう。
 
【9月字幕版放送日】1日、14日、17日、24日
【10月吹替版放送日】16日、26日

(編成部 飯森盛良)
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 まえにここのブログで「昭和の洋画吹き替えを無形文化財に指定せよ」という記事を書いてから、視聴者の皆様よりたくさんのご意見・ご要望をいただいてます。ありがとうございます!


 「よくぞやってくれた!っていうか、いっそ吹き替え専門チャンネルになって」という激励(?)もあれば、「吹き替えなんて邪道だから字幕版だけでよい!」というご意見もあります。


 結論として、ザ・シネマとしては、吹き替え専門にはなりません。けど、吹き替え特集に力は入れ続けます。


 吹き替え版しかやらない、という作品が原則ないよう心がけてますので(ごくごくまれな例外中の例外はご勘弁ください)、吹き替え否定派のかたは、字幕版の放送のほうでお楽しみください。


 また吹き替え肯定派のかたは、今後も特集「吹き替えの日」にご注目ください。その筋のひと的に価値ある吹き替え版を、これからも厳選してお届けします。


 っていうか、その筋のエッジなひとたちのあいだで高まった吹き替え再評価の気運って、いま、広く一般ピープルのあいだにも「むかしは映画って夜9時からテレビの洋画劇場で見てたよなー、あの頃の吹き替えって懐かしいよなー」的な昭和ノスタルジアとして波及してるんですよね。


 字幕のオリジナリティも良い。吹き替えの妙も捨てがたい。要はケース・バイ・ケースなのでは?という柔軟な立ち位置にザ・シネマはいますが、この気運がますます盛り上がればよいと願っており、吹き替え再評価ブームの一翼を担えれば、と思ってます。


 そこで早速、またしても「6月20日は吹き替えの日」という24時間特集を組みます!


 今度のラインナップは、


『レッドブル』…シュワ=玄田哲章

『ロックアップ』…スタも玄田哲章

『レッドソニア』…シュワ=今度は屋良有作

『インナースペース』…(後述)

『ユニバーサル・ソルジャー』…ヴァンダミング=山ちゃん、ドルフ・ラングレン=大塚明夫

『テキーラ・サンライズ』…(後述)


 というアクション系6タイトルです。


 とくにご注目いただきたいのが、『レッドソニア』。これについては以前書いたとおり。


 さらに追加で書くと、この映画は『コナン・ザ・グレート』の番外編だとまえに触れましたけど、正伝『コナン・ザ・グレート』でヒロインの女剣士バレリアをアテてた戸田恵子が、異伝『レッドソニア』ではヒロインの女剣士ソニアを担当してます。なるほど、『コナン』シリーズでの戸田恵子は、正義のヒロイン女剣士担当声優ってワケなんですね。


 ちなみに、正伝『コナン・ザ・グレート』のヒロイン女剣士役サンダール・バーグマンは、異伝『レッドソニア』では悪の女王役です。ヒロインやった女優が今度は悪役で起用された。こういうキャスティングの遊びって、番外編ならではのお楽しみですよね。ただ、逆に言うと、戸田恵子はサンダール・バーグマンFIXの声優扱いをされなかった、ってことです。


 個人的には、そうであって欲しかった!そうすれば正伝と異伝がきれいに日本語の声でもつながったのに、というらちもないマニア願望をいだかずにはいられない僕です…(すでにシュワ声優が玄田哲章と屋良有作で違っちゃってますから、その時点でつながらないのですが…)。


 次に注目は『インナースペース』。DVDは、なんと『クライマーズ・ハイ』の原田眞人監督が吹き替え演出を担当、デニス・クエイド=上杉祥三、マーティン・ショート=野田秀樹、メグ・ライアン=斉藤慶子という、ある意味サプライズ人事ですが、まぁ、これに関しては各自、DVDでお楽しみください。


 今回ザ・シネマで放送しますのは、見ようと思っても見れないレアなテレビ版です!


 こっちのバージョンですと、デニクエ=谷口節、マーティン・ショート=堀内賢雄、メグ・ライアン=佐々木優子と、手堅い人事になってて安心です。


 さらに!きわめつけは『テキーラ・サンライズ』。あさ10時からはメル・ギブ=神谷明版、よる10時からは野沢那智版にて放送!(我ながらこんなマニアックな企画よくやるわ…)


 この映画でのメル・ギブソンは、ヤクのディーラーという「二枚目なヤバいひと」の役なんですが、メルギブの二枚目感は神谷明に、ヤバいひと感は野沢那智に、僕ならそれぞれ軍配を上げたい。ぜひ、聴き比べてみてください。


 さらにさらに、『レッドブル』のジェームズ・ベルーシ=富山敬、『ロックアップ』のドナルド・サザーランド=家弓家正といった脇も、見逃せない(聴き逃せない?)配役です。


 というわけで、全国の吹き替えファンの皆々様、6月20日も、ザ・シネマ吹き替えの日、ご堪能ください!


 コアな吹き替えマニアではない一般ピープルの皆様も、この日は、一昔前のテレビ洋画劇場、荻昌弘が、水野晴郎が、高島忠夫が、そして淀長翁が(むろん木村奈保子もですが)、夜ごとシネマの世界へと誘ってくれた、あの時代の夜の、あの雰囲気に囲まれて、幸福なノスタルジーに浸りきってみてはいかがでしょう?


 それにしても、いゃー、昔のテレビ洋画劇場って、本っ当にいいもんですね!


【特報!】そして盛夏8月、すごい品ぞろえで「吹き替えの日」を実施予定!詳細後日!! 乞う御期待!!!


(編成部 飯森盛良)

レッドソニア.jpg
 あの『コナン』シリーズの番外編、『レッドソニア』について書きます。その前に、あの『コナン』シリーズなんて書きましたが、いずれシリーズ全作を当チャンネルで放送する日が仮にやって来ましたら(現時点で白紙)、改めてその『コナン』シリーズについては通しで書かせていただきます。今回は『レッドソニア』について限定です。

 5月、まず字幕版を放送します。続いて6月、吹き替え版をお届けします。これはおそらく金曜ロードショー放送版です。シュワルツェネッガーといえば玄田哲章がフィックス声優ですが、本作はちびまる子ちゃんの父ヒロシ役で有名な屋良有作がアテてます。ヒロインのソニア役ブリジット・ニールセンは戸田恵子です。

 公開時の邦題はなんとビックリ『アーノルド・シュワルツネッガーのキング・オブ・アマゾネス』!!

 確かにシュワちゃん(死語)ことアーニー加州知事の出演作ではありますが、あくまで主人公は赤毛の女戦士ソニアでして、この邦題、本編内容と著しくかけ離れておりました(アマゾネス出てこないし、そもそもアマゾネスは女だけの部族だからキングいないし

 アーニー知事はいてもいなくてもいい役なので、以下、一切この駄文中では知事閣下には触れないことを、前もってお断りしておきます。悪しからずご了承ください。

 さて、あらすじを簡潔に申しますと、ヒロインのソニアが、女王ゲドレンを倒そうと仲間たちと共に冒険の旅に出る、というモロにRPGな物語です。

 なぜ倒そうとするのか。吹き替え版ですと、女王ゲドレンがソニアのことを「侍女にしようと考えた」、しかしソニアは「それに剥き出しの憎悪で応え」(なんで?)、ヘビメタ調のトゲが生えた女王の王笏をかっさらって突然暴れ出し、あろうことか女王様のご尊顔を傷モノにしてしまった。

 舞台は古代ですから、そんなことしたら家族に累が及び、当然、一族郎党皆殺しにされてしまうワケですが、騒動の張本人ソニア独りオメオメと生き残ってしまい、そういうワケで彼女は女王ゲドレン逆恨み復讐の旅に出るのであります。

 侍女に取り立ててくれようって人に対し突如キレて殴りかかるのはいかがなものかとワタクシ思うのでありますが、しかし原語で見てみると、女王様、実は百合族なんです。どうもレズ相手としてソニアを狙ったということのようです。

 吹き替え版では、そういう性的なハラスメントがあったという超重要情報が欠落しているため、ソニアがただのキレやすい若者みたくなってしまってます。

 ただ女王様、その後もソニアとの百合プレイをあきらめきれず、「身体に傷をつけず連れて来い」などと手下に命じてますし、レズの相手役みたいな年若い美女をいつも連れて歩いてますし…。一応、オトナが見れば女王様はそっちのケがある人だって分かる作りにはなってますね。

 にしても、女王様はどう見てもタチなキャラ。マッチョなソニアもどっちかと言ったらそっちでしょう。それで女王様は満足できるんでしょうか?連れ回してる年若い美女というのはネコ系なんですが…。女王陛下、いったいどんなプレイを想定しておられたのでしょうか?

 で、そのネコなキャラの美女というチョイ役を演じているのが、ララ・ナツィンスキーというブルネットの女優。実はこの映画の女性キャストの中で一番かわいいんじゃないか、と思うのは僕だけでしょうか。『怒霊界エニグマ』なる、イジメられっ娘の生霊が無数のカタツムリを操り人間にたからせて窒息死させるという物凄い映画で主役を張っていますので、気になる人はチェックしてみてください。ザ・シネマでは放送しませんが。

 話を戻しますと、レズという重要情報を封印してしまっているので、吹き替え版ではソニアが女王様を拒む意味が分からない。そこで金曜ロードショー、なんと勝手にオープニング作っちゃいました。

「遥か昔、伝説の王国アトランティスが滅び、天下は麻のごとく乱れ、世はまさに世紀末の様相を呈していた」とかなんとかいうオリジナルには無い北斗の拳ばりのナレーションが、いきなり、石田太郎住職のジーン・ハックマン風こもり声で入ります。キリスト生誕前なので世紀末という概念は無いかと思うのですが…。

 続けて、「悪の女王ゲドレンは、悪行の限りを尽くしていた」とナレーションで断言しちゃってるので、これだけでもう、ヘビメタ調トゲつき王笏で女王をしばく十分な理由を、ソニアは手に入れちゃってるワケです。

 無茶するなぁ金曜ロードショー…。でもこの臨機応変な感じ、いいねー! 昔のテレビ洋画劇場ってこれだから面白い!

 あと、昔のテレビ洋画劇場の見どころと言えば、日本語訳の妙(≒日本語訳妙)。

 女王様の腰巾着みたいな佞臣で、アイコルというキャラが出てきます。クライマックス・シーンで、このアイコルがコソコソ逃げ出そうとしてる現場に出くわした、ソニアたちパーティーの一員のヤンチャ王子。果敢に勝負を挑もうと王子が叫ぶのが、ヒロイック・ファンタジー全開のこんなセリフ。

「アイコル!このゲドレンの黒い蜘蛛めが!!

 これが吹き替え版だと、

「待てッ!ゲドレンの手先のブラック・スパイダー将軍だなっ!!」 に。

 …やっすい名前だなー、ブラック・スパイダー将軍って。東映特撮か!

 レズ情報封印といい、このブラック・スパイダー将軍といい、もはや、オリジナルとは微妙に別物の、似て非なる映画になっちゃってるんですけど…。

 …いゃーそれにしても、昔のテレビ洋画劇場って、本っ当にいいもんですね!

 とまぁ、強引に話をまとめにかかりましたけど、字幕版と吹き替え版、見比べてみると面白い発見がいろいろとあるもんです。

 5月と6月、視聴者の皆々様に2ヶ月連続でどちらもお楽しみいただけたら、編成冥利に尽きるというものです、ハイ。

【5月 字幕版 放送日】 1日10日14日18日

【6月 吹替版 放送日】 7日20日

(編成部 飯森盛良)

©1985 Famous Film Productions.B.V.

 きたる4月29日は、去年夏の『ダーティハリー』全作、そして年末とお正月にやってご好評いただきました「吹き替え特集」を、またまたお届けします。この日の朝6時から翌朝6時まで、怒涛の24時間、吹き替え映画のみを放送する、題して「4月29日は吹き替えの日」。

 今回の放送タイトルは、『ラストマン・スタンディング』、『デッド・カーム 戦慄の航海』、『ファイヤーフォックス』、『テキーラ・サンライズ』、『パパとマチルダ』、『張り込み』の6本です。

 正直、再放送もあります…が、この機会を逃したら、次はいつお目にかかれるか分からない貴重な作品もありますので、滅多にないチャンスがもう1回増えた、ラッキー!ぐらいに温かく受け止めてくださいね(笑)。

 たとえば『パパとマチルダ』なんて、ネットで調べてみたらDVDは未発売、14年前に出たビデオの吹き替え版があるだけなんです。今回の当チャンネルのオンエア、再放送ではありますが、お正月放送時に見逃した人は今度こそお見逃しなく。これ、スティーヴ・マーティン定番声優の故・富山敬による名盤なんです。

 あとDVDによくあるパターンで、英語音声しか入っていなくて、やはり今となっては吹き替えで見たくても見れない、という作品。これが『デッド・カーム 戦慄の航海』と『ファイヤーフォックス』、『張り込み』の3本。特に後ろ2本は、これが当チャンネル最後の放送で、次の放送予定はありませんので、必見です。

 残った『ラストマン・スタンディング』と『テキーラ・サンライズ』は、DVDに日本語音声が入っているので、正直、見ようと決意さえすれば誰でもいつでも見れるんですけどね(笑)。

 ただまぁ、買うより安いし、レンタルと違って借りたり返したりしに行く手間もかかりませんからねぇ。当チャンネルのこの機会、是非ともお役立てください!

 ちなみに、

『デッド・カーム 戦慄の航海』のニコール・キッドマン…『マクロス』世代永遠の憧れ・土井美加
『ファイヤーフォックス』のイーストウッド…もちろん山田康雄で決まり
『張り込み』のリチャード・ドレイファス…広川太一郎(ご冥福お祈りしちゃったりなんかして。…崇拝してました。合掌)
『ラストマン・スタンディング』のブルース・ウィリス…安心の定番・野沢那智
『テキーラ・サンライズ』のメル・ギブソン…神谷明、って、え!? メルギブが神谷明?

 という、まさに豪華絢爛きまわりない声の出演陣でございます。

 ところで、民放の洋画劇場って、最近は番組数自体が減ってますよね。それに、そこでは70年代や80年代の、山田康雄とか富山敬とか広川太一郎といった大御所がアテた昭和の名盤なんて、もうあまりかかりません。関東ではテレビ東京の『午後のロードショー』という神番組が孤塁を守って孤軍奮闘し続けてくれてるのですが、日本全国津々浦々では見れませんし…。

 昭和のテレビ洋画劇場の吹き替えを無形文化財に!と訴えるザ・シネマでは、日本全国津々浦々の皆様に向けて、今後もこうした名盤を、不定期ながらも積極的にお届けしていきますので、お楽しみに。

 視聴者の皆々様も、このホームページの「ご意見・ご要望」のところからリクエストをどしどしザ・シネマまでお寄せください。

 とくに、DVD未発売とかDVDに日本語音声未収録とかの理由で、いまや見たくても見れない、みたいな昭和の傑作吹き替えは大歓迎です。いかに名盤か縷々切々と説く、とか、見たすぎてどうにかなりかけてる!みたいな切羽詰った感じですと、こちらが知らない作品でもハートに響きやすいです。

 最後に、文中「DVD発売されていない」とか「DVDに日本語音声未収録」と書いたのは、2008年4月8日現在の情報でございますので、念のため。

(編成部 飯森盛良)

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