シネマ解放区 シネマ解放区

現在、シネマ解放区は一時クローズ中。再び解放される日までお待ちくださいませ!
過去コラムアーカイブはこちら!

ディザスター映画とパロディ映画、’70年代ハリウッドの2大ブームに乗っかった痛快ナンセンス・コメディ!『弾丸特急ジェット・バス』

なかざわひでゆき

 ‘60年代末から続くニューシネマを筆頭に、オカルト映画や動物パニック映画、SF映画、ディスコ映画などなど、次々と現れては消えるブームおよびムーブメントに沸いた’70年代のハリウッド業界。中でも特に強烈なインパクトを残したのがディザスター映画だ。ディザスターとはすなわち災害。地震や火災、洪水、ハリケーン、はたまたテロに事故に細菌感染など、あらゆる「災害」に見舞われた人々の決死のサバイバルを、大掛かりな特撮を駆使したスペクタクルな映像で描く。そのブームの原点は、旅客機ハイジャックを描いた『大空港』(’70)とされるが、しかしこれはスペクタクルよりも人間ドラマに重きを置くという点において、その後のジャンル作品群とは少しばかり趣が異なる。むしろ、豪華客船が真っ逆さまに転覆して沈没するパニック描写が度肝を抜いた『ポセイドン・アドベンチャー』(’72)こそ、’70年代ディザスター映画の原型でありブームの起爆剤だったと言えよう。  その後も、『タワーリング・インフェルノ』(’74)や『大地震』(’74)、『ヒンデンブルグ』(’75)などが大ヒットを記録し、『大空港』も『エアポート』シリーズとして人気コンテンツ化。スタジオ各社は手を変え品を変え様々な災害映画を世に送り出し、そのブームは映画界全体に波及していく。『ジョーズ』(’75)に代表される動物パニック映画群も、改めて振り返ればディザスター映画ブームに影響されている点が多々あるし、『オリエント急行殺人事件』(’74)に始まるアガサ・クリスティ映画シリーズも、新旧豪華オールスターを揃えたグランドホテル形式の採用という点において、ディザスター映画の人気に感化された部分はあったはずだ。  さらに、『大洪水』(’76)や『大火災』(’77)などディザスター物のテレビ映画も次々と登場し、ブームの影響はテレビ界にまでも及んだ。また、日本でも『日本沈没』(’73)や『東京湾炎上』(’74)、『新幹線大爆破』(’75)などが、ヨーロッパでも『カサンドラ・クロス』(’76)に『コンコルド』(’79)が作られた。スタジオ・システムの崩壊した’50年代半ば以降、衰退の一途をたどっていたハリウッド映画界は’70年代に華麗な復活を遂げる。その大きな原動力は一連のニューシネマ映画群だったわけだが、しかしその対極にあるようなディザスター映画群もまた、重要な一翼を担っていたことは否定できないだろう。  そんなディザスター映画ブームの真っただ中に誕生したのが、この『弾丸特急ジェットバス』(’76)。原子力エンジンで走行する巨大観光バスに爆弾が仕掛けられるという、まるで『新幹線大爆破』みたいなストーリーを軸に、当時のディザスター映画にありがちな設定の数々をパロったナンセンス・コメディだ。ディザスター映画のパロディといえば『フライングハイ』(’80)シリーズが有名だが、そのご先祖様みたいな映画だと言えよう。と、ここで思い出しておかねばならないのは、’70年代はディザスター映画ブームの時代であったと同時に、パロディ映画ブームが花開いた時代でもあったということだ。  それ以前にもユニバーサル・ホラーをネタにした『凹凸フランケンシュタインの巻』(’48)や『凹凸透明人間』(’51)、007シリーズをネタにした『007 カジノ・ロワイヤル』(’67)などのパロディ映画がポツポツと作られてはいたし、イギリスでは「Carry On」シリーズという国民的な人気コメディ映画シリーズが様々なパロディにも挑戦していた(残念ながら日本公開されたのは、スパイ映画をネタにした’64年の『00H/その時一発』くらいのもの)が、あくまでも散発的に作られるだけだった。それを大きく変えたのが喜劇王メル・ブルックスである。  西部劇ネタの『ブレージングサドル』(’74)を皮切りに、ホラー映画ネタの『ヤング・フランケンシュタイン』(’74)、サイレント映画ネタの『サイレント・ムービー』(’76)、ヒッチコック映画ネタの『新サイコ』(’78)などを次々と大ヒットさせたメル・ブルックスは、言うなればパロディ映画を人気ジャンルとして確立させた立役者だった。この流れは’80年代の『フライングハイ』シリーズや『裸の銃を持つ男』シリーズへと受け継がれ、近年も『最終絶叫計画』シリーズなどのパロディ映画群に多大な影響を及ぼし続けている。  …とまあ、そんなわけで、要するにこの『弾丸特急ジェットバス』は、ディザスター映画ブームとパロディ映画ブーム、その2つのトレンドを見事に掛け合わせた、’70年代当時としては圧倒的にタイムリーな作品だったわけだ。  物語の主な舞台となるのは、全長50メートルで重量75トン、ボウリング場や室内プール、ラウンジ・バーなども備えた、最大で180名の乗客を収容できる巨大原子力バス「サイクロプス号」。原子力エネルギーが人類の輝かしい未来を開く!とばかりに、ニューヨークからデンバーまでの大陸横断運行を華々しく行うわけだが、原子力にエネルギー市場を奪われまいとする石油業界が妨害工作を仕掛けてくる。この辺りのストーリー設定は、3.11を経験した現在の我々日本人にとって、恐らく劇場公開時よりもリアルに感じられることだろう。座席の上から飛び出してくる救命具が放射能防護服というギャグも、少なくとも当時の観客にとっては荒唐無稽だったのかもしれないが、しかし今となっては笑うに笑えないネタだ。核戦争後の世界を描いたSFパニック映画『世界が燃えつきる日』(’77)もそうだが、昔は放射能汚染に対する危機意識が今よりもずっと薄かったのである。  閑話休題。石油業界の手先によって研究所を爆破され、肝心の運転手を失ってしまった「サイクロプス号」は、開発者の娘キティ(ストッカード・チャニング)の元恋人ダン(ジョセフ・ボローニャ)を代役として迎えることに。しかしこのダンという男、優秀なバス・ドライバーなのだが、なにかと血気盛んで暴走しやすい問題児。しかも、雪山のバス遭難事故で乗客を食べて生き延びたという汚名を着せられ、裁判では無罪を勝ち取ったものの職を追われたという過去がある。まあ、本人曰く、実際は座席やマットレスを料理して食っただけ、相棒の作ったスープに乗客の片足が入っていたのを知らずに食ったことはあるが、それくらいで責められる謂れはなどない!ってことらしいですが(笑)。  そんな曰く付きの人物をキャプテンに、これまた色々と訳ありな乗客たちを乗せてニューヨークを出発する「サイクロプス号」。ところが、またもや石油業界の差し向けたスパイがバスに時限爆弾を仕掛けており、危機また危機の災難に見舞われていくことになる。  巨大バスの車内という限定空間でグランドホテル形式のドラマが展開するのは、『エアポート』シリーズを始めとするディザスター映画の定番。ルース・ゴードン演じる家出婆さんは『大空港』のヘレン・ヘイズ、リン・レッドグレーヴ演じるセレブ・マダムは『エアポート’75』のグロリア・スワンソンのパロディだろう。「サイクロン号」にトラックが突っ込むのは『エアポート’75』、ジュースで水没したキッチン車両での救出劇は『ポセイドン・アドベンチャー』が元ネタ。そんな「ディザスター映画あるある」的なパロディを散りばめつつ、ナンセンスなビジュアル・ギャグのつるべ打ちで観客を楽しませる。ビール瓶の代わりに割れた(?)ミルクパックと折れた蝋燭で対決する乱闘シーンや、人数が多すぎて延々と終わらない乾杯シーンなど、クスっと笑える程度にバカバカしいギャグばかりなのがミソだ。  で、ディザスター映画の定番といえば華やかなオールスター・キャストなのだが、本作ではビッグネームが一人もいない代わりに、’70年代ハリウッド映画ではお馴染みの懐かしい名バイプレヤーたちがズラリと顔を揃える。オスカー俳優のホセ・ファーラーがいるじゃないか!なんて言われそうだが、名優ではあってもスターではなかったからね。そんな彼が演じるのが、石油業界の悪玉親分アイアンマン。「鉄の肺」と呼ばれる巨大人工呼吸器に入っているので、すなわちアイアンマンなのだそうだ。なんたる罰当たりなブラック・ジョーク(笑)。監督のジェームズ・フローリーは、『ザ・モンキーズ』(‘66~’68)の全エピソードを担当してエミー賞に輝き、『刑事コロンボ』シリーズや最近だと『グレイズ・アナトミー』にも参加するなど、主にテレビで活躍した人物。本作は基本的にアホ丸出しなコメディでありながら、しかし大規模なパニックやサスペンスの描写にも全く抜かりがない。なかなか痛快な仕上がりだ。  ちなみに、本作は後の『フライングハイ』と同じくパラマウント映画の製作。パラマウントといえばハリウッドを代表するメジャー・スタジオの一つだが、実はディザスター映画の代表的な作品の中にパラマウント作品は一つもない。ワーナーや20世紀フォックス、ユニバーサルは積極的に作っていたが、パラマウントはせいぜい『ハリケーン』(’79)くらいのもの。それとて、ディザスター映画と呼ぶには微妙なところだ。そんなブームと距離を置いていたパラマウントが、あえて本作や『フライングハイ』のようなパロディ映画を製作したという事実もまた興味深い。■ TM, ® & © 2018 Paramount Pictures. All Rights Reserved.

この記事を読む

「男と女」の間に横たわる“裸の真実”を、ロバート・アルドリッチ監督が2つの世界を鋭く対比させながらソフト&ハードに追求した異色のネオ・ノワール『ハッスル』~2月5日(月)ほか

桑野仁

■祝ロバート・アルドリッチ監督生誕100周年  今年2018年は、1918年に生まれ、1983年にこの世を去ったロバート・アルドリッチ監督の生誕100周年にあたる。 アルドリッチ監督といえば、文字通りの戦場を舞台にした『攻撃』(1956)や『特攻大作戦』(1967)などの戦争映画をはじめ、『アパッチ』(1954)、『ヴェラクルス』などの西部劇、映画業界そのものを物語の舞台に据えた『悪徳』(1955)、『女の香り』(1968)などのハリウッド内幕もの映画、灼熱の砂漠での集団サバイバル劇『飛べ!フェニックス』(1966)、大恐慌下の貨物列車を舞台に無賃乗車の帝王と鬼車掌が対決を繰り広げる『北国の帝王』(1973)、そして、女子プロレスの闘技場のリングを舞台にした遺作の『カリフォルニア・ドールス』(1981)に至るまで、さまざまな苦境の中で、自らの意地と誇りを賭けて必死に闘い続ける主人公たちの姿を描き続けた活劇映画の屈指の名匠。  昨年、やはり彼の代表作の1本である戦慄のゴシック・ホラー『何がジェーンに起ったか?』(1962)で初めて競演し、劇中の物語のみならず、製作現場やその舞台裏においても凄まじい確執と対立劇を繰り広げることとなった往年のハリウッドを代表する2人のスター女優、ベティ・デイヴィスとジョーン・クロフォードの壮絶なライバル対決を、アルドリッチその人も主要登場人物の1人に配しながら描いた海外ドラマ『フュード/確執 ベティ vs ジョーン』(2017)が、全米や日本のBSでも連続放送されて話題を呼んだ。  今回ここに紹介する『ハッスル』(1975)は、アルドリッチが、彼の映画史上最大のヒット作となった『ロンゲスト・ヤード』(1974)に続いて、当時人気絶頂だったバート・レイノルズと再び監督・主演コンビを組んで放った一作。しかしこの『ハッスル』に、刑務所の囚人と看守たちがそれぞれアメフト・チームを結成して真っ向から激突する、『ロンゲスト・ヤード』風の単純明快で痛快無類の娯楽活劇を期待すると、きっと肩すかしを食うに違いない。  『ハッスル』は、彼の映画にはきわめて珍しい本格的な男女のラブ・ストーリーに、刑事ドラマの要素が絡み合った二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与え、なかなか簡単に一言で説明するのが難しい、何とも奇妙で厄介なアルドリッチ映画なのだ。  もともと本作は、前作『ロンゲスト・ヤード』の大成功に気を良くしたアルドリッチとレイノルズが共同で製作会社を設立し(それぞれの名前、ロバート(Robert)とバート(Burt)を掛け合わせて、ロバート(RoBurt)・プロと命名された)、先にスティーヴン・シェイガンの脚本を読んだレイノルズが、気に入ったラブ・ストーリーがあると、アルドリッチに映画化の話を持ちかけたところから、この企画はスタートした。  その物語や人物設定は少々変わったユニークなもので、ここで恋愛劇を繰り広げることになる男女はそれぞれ、ロス警察の警部補と高級娼婦という間柄。当初の脚本では、警部補たる主人公と同棲中の恋人はアメリカ人となっていたものの、主人公が、娼婦である彼女とさらに深く踏み込んだ真剣な関係を築くべきかどうか思い悩むという設定を、保守的で旧来の価値観に囚われたアメリカ人の一般観客にすんなり受け入れさせるには、ヒロインを、アメリカ人とはまた別の道徳観念を持つ外国人にした方が有効で得策、とアルドリッチは考え、当初の設定を思い切って改変することを決断。かくしてレイノルズの相手役のヒロインに起用されたのが、その類い稀なる美貌とエレガンスを武器に次々と名作、話題作に出演し、当時は無論のこと、今日もなおフランス映画界を代表するトップ女優の座に君臨し続けるカトリーヌ・ドヌーヴだった。 ■自由奔放な恋を謳歌・擁護する女ドヌーヴ  当時の彼女は30代を迎えたばかりで、成熟した大人の女性の魅力が全身からこぼれんばかり。先に鬼才ルイス・ブニュエルの傑作『昼顔』(1966)では若き人妻にして娼婦という大胆な役柄を妖艶に演じるなど、数々の映画で底知れぬ女の魔性を発揮する一方で、シャネルの香水の広告搭やイヴ・サン=ローランのファッション・モデルとしても活躍し、抜群の人気と名声を誇っていた。  そしてまた、ドヌーヴといえば、つい最近、セクハラをめぐる論争に一石を投じて世間の耳目を集めたことも、記憶に新しいところ。少し遠回りになるが、やはり本作とも少なからず関連する出来事なので、ここでできるだけ手短に(とはいえ、元の文意を歪めたりしてあらぬ誤解が生じないよう慎重に)、それについて振り返っておくことにしよう。  昨秋、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ疑惑が浮上して以降、SNSやメディアを通じてセクハラを告発するムーブメントが沸き起こり、全米の映画や芸能界のみならず、世界的にその動きが波及して加速・過熱化するなか、今年の1月9日、フランスの新聞「ル・モンド」が、その行き過ぎに対して危惧を表明する共同の声明文を、著名な作家や文化人ら、フランスの100人の女性たちの連名で掲載。レイプは犯罪である、とはっきり断った上で、しかし、男性が女性に言い寄ること自体は罪ではないし、そのことの自由に対してもっと寛容であるべきだ、とする趣旨のこの記事に、ドヌーヴも賛同してその100人の中に名を連ねていたが、これがさらなる論議や大きな反発を招く事態に。  かくしてドヌーヴは、翌週1月14日付の「リベラシオン」紙にあらためて単独で公開書簡を送り、記事の中にセクハラをよしとすることなど何も書かれていないし、そうでなければ自分も署名などしていなかった、と弁明。そして、誰もが皆、自らを裁判官や陪審員、死刑執行人のように振る舞う権利を持つと感じ、SNS上での単なる非難が、処罰や辞職、そしてしばしば、メディアによる弾劾裁判へと通じてしまう時代風潮はどうにも好きになれない、自分はあくまで自由を愛するし、将来も愛し続ける、と従来の立場を堅持した上で、先の「ル・モンド」の記事に感情を傷つけられたかもしれないすべてのセクハラ被害の当時者たちに対してのみ、謝罪を表明した。  最近の一連のセクハラ告発をめぐる大きな議論は、きわめてデリケートで難しい問題ではあり、この狭い紙幅の中でそう簡単に要約・紹介できる類いの代物ではないので、ここから先はぜひ各自でさらなる情報収集に努めて、より正確で幅広い問題の把握と判断をお願いしたいが、いずれにせよ、今回の新たな騒ぎで、「男と女」をめぐる、お国柄や宗教、歴史や文化・社会的背景の違いによる、その人それぞれの価値判断や道徳観念・倫理感の違いが改めて浮き彫りとなり、『ハッスル』のヒロインにドヌーヴを思い切って起用したアルドリッチの判断は、確かに的を射たものであったことが、はからずも今日改めて証明された、といえるかもしれない。  かくして実現したレイノルズとドヌーヴという米仏の男女の人気スター同士の顔合わせは、それなりに功を奏し、この『ハッスル』は、前作『ロンゲスト・ヤード』ほどの大ヒットには及ばなかったものの、それでも全米での興行収入が1000万ドルを突破し、商業的に充分な成功を収めることになった。 ■男と女、嘘つきな関係  アルドリッチ自身、この『ハッスル』は何よりもまず、警察官と高級娼婦との間で繰り広げられるユニークなラブ・ストーリーであると、インタビューの場ではことあるごとに語っていて、さらにはドヌーヴをヒロインにキャスティングできたことが、この映画にとっては大きかったと強調している。しかし、従来のアルドリッチ映画ファン、そしてまた、現代の観客がこの『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートを目にする時、それでもなお、物語や人物の初期設定自体にどうも根本的な誤りがあるのではと、つい困惑と違和感を覚えざるを得ないだろう。  先にも軽く述べた通り、レイノルズがこの映画の中で演じるのは、ロス市警の警部補。彼は、なかなか正義が報われない今日の腐敗した社会にやるせない思いを抱きながら、日夜職務に励む一方で、ドヌーヴ扮するフランス人の美しい高級娼婦と目下同棲中。かつて妻がよその男と不貞を働き、裏切られた苦い経験を持つバツイチのレイノルズは、ドヌーヴをそれなりに愛してはいるものの、2人の繋がりはあくまで肉体関係のみと割り切って、お互いの仕事には不干渉でいることを取り決め、彼女から、あなたさえそれを望むなら自分の商売はやめても構わない、と結婚を迫られても、煮え切らない態度を示すばかり。  それでいて、古き良き時代の懐メロや映画をこよなく愛する昔気質のセンチメンタリストであるレイノルズは、いつかドヌーヴと2人で自らの思い出の地ローマへと旅立つのをたえず夢見ていて、またある時は、近くの映画館で上映中のフランス映画の人気作『男と女』(1966)を彼女と一緒に見に行って、甘美で切ない恋物語の世界に浸り込む。しかも、この『ハッスル』の中にレイノルズとドヌーヴが本格的に絡む濡れ場などは一切画面に登場せず、その代わりに、同じ一つ屋根の下でドヌーヴが目には見えない他の男性顧客たちを相手に長々とテレフォン・セックスの会話に励むのを、そのすぐ脇からひとり指を咥えて眺めて悶々とするレイノルズの姿を、ひたすらキャメラは追い続ける始末なのだ。  これでは、そのさまをじっと辛抱強く見守る我々観客もついモヤモヤイライラして、2人のどっちつかずの曖昧な恋愛関係がどうせ長続きしないことは、はじめから分かり切ったことだろう、それに第一、当人たちの感情はさておいて、本来、法の番人たる警部補が娼婦と同棲中であるという事態が外部に知れたら、それだけで即アウトだろうに、と、あれこれツッコミを入れたくなるのも、致し方ないではないか。  こうして見てくると、この『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートは、うわべだけ綺麗事ばかりを並べ立てた、いかにも絵空事の世界にしか筆者には思えない。けれども、ここで翻ってよく考えてみると、そこにこれまた一見オシャレでファッショナブルだが中身は空疎な恋愛映画の代名詞である『男と女』をあえて引用して重ねて見せる、作者アルドリッチの自虐的で苦いアイロニーに満ちた演出意図も、次第につかめてくるはずだ。  おそらくアルドリッチ自身、映画の準備段階でこの『ハッスル』の説話上の弱点に気づき、商業的な要請と期待に沿って、表向きは男女の人気スター同士の共演によるソフトで甘美なラブ・ストーリーを紡ぎ出す一方で、そちらでは何かと障壁や制約があってなかなか発揮できなかった彼本来の演出手腕を、『ハッスル』の裏番組にして実はこちらこそがメイン・ディッシュたる刑事もののサスペンス・ドラマの方に、思うさまハードに叩きつけたのではないだろうか。 ■男と女 アナザー・ストーリー  実際、『ハッスル』の物語が刑事ドラマのパートへと移行すると、これまで紹介してきたレイノルズとドヌーヴとのセンチで生ぬるい恋愛劇とはうって変わって、日常的に殺人や暴力事件が頻発する犯罪都市ロスのどす黒い闇に包まれたダークサイドの実態が、本来のアルドリッチ映画らしい非情なタッチで容赦なく赤裸々に暴き立てられていくことになる。  ビーチサイドでひとりの若い女性の変死体が発見され、その体内に多量の薬物や精液が見つかったことから、ロス市警の警部補レイノルズは、何やらあやしい事件の匂いを嗅ぎあてる。しかし、ここでも彼の姿勢は腰が引け気味で、あえてそれを単なる自殺として片付け、手っ取り早く事件の幕引きを図ろうとする。けれども、身元の確認作業に立ち会って、自分の愛する娘が痛ましい姿に変わり果て、素っ裸のままゴロンと遺体安置所に寝かされているさまを目の当たりにして怒りを露わにした父親役のベン・ジョンソンが、レイノルズに猛然と食ってかかって真相の徹底究明を迫ったことから、ようやくレイノルズは、本格的な事件の捜査に乗り出すことになるのだ。  かくして、ロスの裏社会に巣食う麻薬や売春などの犯罪組織や、彼らを陰で操る悪の黒幕の存在が浮上し、亡くなった若い女性は、(『攻撃』や『ロンゲスト・ヤード』でもその卑劣な悪役ぶりが印象的だった)エディ・アルバート扮する大物の悪徳弁護士が経営するストリップクラブでダンサーとして働き、さらにはブルーフィルムに出演し、乱交パーティーにも出席していたという、文字通り剥き出しの裸の真実が次々と明らかになる。ここでジョンソンが、愛する我が娘の素っ裸の遺体のみならず、在りし日の彼女がブルーフィルムの中で披露するあられもない痴態をまのあたりにして、耐え難い苦悩と絶望に苛まれる姿ほど、衝撃的で重苦しい痛みを伴った気まずい場面も、他にそう多くはないだろう。 (おそらく『ハッスル』のこの場面に強くインスパイアされて、ポール・シュレイダー監督が『ハードコアの夜』(1979)を撮り上げたのであろうという推論を、筆者は以前、この「シネマ解放区」の『ハードコアの夜』の紹介文の中で述べたことがあるので、ぜひそちらもご参照あれ。それと、『ハッスル』の中には、ジョンソン本人はまだ知らない意外な衝撃的真実が、実はもう一つあるのだが、やはりそれはネタバレ厳禁として、ここでは一応伏せておこう。)  ところで『ハッスル』は、映画の冒頭部でビーチサイドに横たわる若い女性の変死体が発見された直後に、海を見下ろす小高い丘の中腹に建てられた瀟洒なリゾートハウス風の家のバルコニーで静かに佇むドヌーヴの姿をキャメラが捉えるところから、本格的なドラマが幕を開ける。一見優雅で高尚なムード満点の高級娼婦ドヌーヴと、俗悪で薄汚いロスのアンダーグラウンドの世界をあちこち経巡った末、哀れな最期を遂げた若い娘(ここでその役に扮しているのは、知る人ぞ知る当時のアメリカの人気ポルノ女優、シャロン・ケリー。当然彼女は、この映画の中でも体当たりの裸演技を披露している)。  つまり、ドヌーヴとケリーは互いが互いを照らす鏡像=分身関係にあり、2人の人生における明暗、天国と地獄という一見対照的な構図が、既に最初に端的に明示されるわけだが、実のところ、ドヌーヴの商売も、一皮剥けばケリーのそれからそう遠く隔たったものではない。ドヌーヴ演じるヒロインの過去は、映画の中でそうはっきりとは語られないが、アルバート扮する大物の悪徳弁護士は、実は彼女の上得意の顧客の一人でもあり、あるいはドヌーヴも、ケリーのように若い時分、アングラ世界の底辺を這いずり回っていた可能性は充分考えられる。  そしてまた、実はレイノルズと、ケリーの父親に扮したジョンソンも、やはり互いに鏡像=分身関係にあることが、ドラマの進展を見守るうち、観客にも了解されることになる。先にレイノルズが、過去に妻に裏切られた苦い経験があることを記したが、朝鮮戦争の復員兵であるジョンソンの方もまた、戦争体験で不能となり、彼の妻が不貞を働いていた事実が彼女自身の告白を通して明かされ、物語の中盤には、各自、喧嘩が原因で、額にこぶを作ったレイノルズと、目の周囲に痛々しいアザと傷跡をつけたジョンソンが、まるで鏡のように向き合って対面する、両者の鏡像=分身関係を何よりも雄弁に物語る一場面も登場する。  悪徳権力者ばかりが栄え、社会の底辺にいる弱者は容赦なく見捨てられる現代の不平等で腐敗した体制に対して、共に憤懣やるかたない感情を抱きながらも、斜に構えて目の前にある現実からたえず目を逸らし、何かにつけ、自分の夢想の世界へと逃避していたレイノルズは、もう一人の自己たる、怒りに燃えるジョンソンに引きずられる形で、ようやく社会、そして自らを取り巻く現実と正面から向き合う決意を固めるのだ。 ■アルドリッチとアルトマン 言われてみれば、あるある!?  筆者ははじめに、『ハッスル』を紹介するにあたって、この映画は二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与える、云々、と述べたが、しかしこうして、刑事ドラマのパートをじっくり丹念に追って見てみると、これは、表看板たるソフトで甘いラブ・ストーリーに対する、強烈でハードなカウンターパンチとして機能していて、両者はやはり、それなりに有機的に組み立てられていることが分かってもらえたのではないだろうか。  そしてこちらの刑事ドラマのパートに注目するならば、この『ハッスル』は、かつてフィルム・ノワールの精髄というべき傑作『キッスで殺せ』(1955)を生み出していたアルドリッチが、久々にこの不可思議で魅力的なジャンルならざる映画ジャンルに立ち返って撮り上げた、ネオ・ノワールの1本と呼ぶことも充分可能だろう。この点において『ハッスル』は、いささか唐突ながら、今は亡きアメリカ映画界のもうひとりの鬼才、ロバート・アルトマンの傑作ネオ・ノワール『ロング・グッドバイ』(1973) と意外な接近遭遇をしていることに、今回久々に映画を見返してみてふと気が付いた。  この2人のロバートたる、アルドリッチとアルトマン。名前がよく似ているというのみならず、反権威主義を前面に押し出したその不撓不屈の反骨精神と、山あり谷あり起伏の激しい波瀾万丈の映画人生、そして、作品の中に痛烈な体制批判や諷刺を盛り込みつつ、遊び心とユーモアも決して忘れない快活な娯楽精神という点でも、大いに共通性がある。その一方で、こと2人の作風に関して言うなら、豪快、剛腕で鳴らす直球勝負のアルドリッチに対し、人一倍のひねくれ者で型にはまることを嫌うアルトマンは変化球勝負と、一見対照的で、案外両者はこれまであまり引き比べられることがなかったように思う。  はたして両者の間に直接的な影響関係があるかどうかは不明だが、現今の体制や時流にはどうしても馴染めないままロスの街を東奔西走する、『ハッスル』の昔気質で時代遅れの主人公のキャラ設定や、鏡像=分身を用いた対位法的なストーリーテリング、そして、『カサブランカ』(1942)や『白鯨』(1956)、『裸足の伯爵夫人』(1954)をはじめ、作品のここかしこにちりばめられた、さまざまな往年の映画や音楽の引用、目配せの仕方などは、『ロング・グッドバイ』のそれと結構よく似ている。あるいはまた、『ハッスル』でドヌーヴがすぐ脇にいるレイノルズを尻目に他の男たちとテレフォン・セックスに励む場面は、やはりアルトマンが同じくロスの街を舞台に、こちらはレイモンド・チャンドラーならぬカーヴァーの原作を彼独自の味付けで料理した大作群像劇『ショート・カッツ』(1993)の中で、人妻たるジェニファー・ジェイソン・リーが、家庭の中に場違いな仕事を持ち込んで、夫や赤ん坊を尻目にテレフォン・セックスに励む場面に、何がしかの影響を与えているのだろうか?  いずれにせよ、冒頭でも述べた通り、今年はアルドリッチの生誕100周年。これを機に、『ハッスル』だけでなく、他のさまざまなアルドリッチ映画にもぜひ目を向けて、その強烈で無類に面白い映画世界を、ひとりでも多くの映画ファンに存分に楽しんでもらいたいところだ。■ TM, ® & © 2018 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.

この記事を読む

第一級の地味ポリティカル・サスペンス『パララックス・ビュー』~2月6日(火)ほか

高橋ターヤン

あなたも思ったことは無いだろうか? 「自分は誰かに狙われている」 「自分がこんな状況なのは誰かの陰謀なのではないか」 「給料が安いのは国際的巨大企業の謀略」 「沖縄米軍の事故はパヨクの自演」 「自分が結婚できないのは中国共産党の国家的戦略」  ……誰しも大なり小なりこんな妄想に憑りつかれることはあるのではないだろうか。筆者も中学生時代の辺りから毎日そんなことを考えて、今も自己を肯定しようと必死に生きてます。すみません。  「自分以外の周囲は気付いていないが、何かが起こっている」というサスペンス映画は、風呂敷が大きければ大きいほど面白い。だってそんな大がかりな話なのに誰も気付いていないのは、よほど巧妙に隠蔽されているからだ。ということで、サスペンスというジャンルの中で風呂敷が大きいサブジャンル、ポリティカル・サスペンスは面白い作品の宝庫なのである。  特に政治に闇が多かった時代。1970年代は、ペンタゴン・ペーパーズ事件、ウォーターゲート事件といった事件の連続によって、その陰謀論が空論や妄想ではなく実際にあったという証拠が次々と見付かったことも相まって、このジャンルが百花繚乱状態となっている。  ロバート・レッドフォードの大快作『コンドル』(75年)、バート・ランカスターが出演した『カサンドラ・クロス』(76年)や『合衆国最後の日』(77年)など枚挙にいとまがないし、現在製作される映画でもこの時代を舞台にした『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』(17年)が次々と製作され、高い評価を受けている。また少し前の映画になるが、ジョン・フランケンハイマー監督の『影なき狙撃者』(62年)はキューバ危機によって世界戦争が危惧される時代に作られたし、イヴ・モンタンのフランス映画『Z』(69年)もギリシャの政治的混乱を舞台にした素晴らしい作品だった。  そんな中で、『ソフィーの選択』(82年)『推定無罪』(90年)『ペリカン文書』(93年)などのポリティカル・サスペンス映画の巨匠アラン・J・パクラ監督は、1970年代に2本の傑作を生みだしている。  まずは派手な方の傑作、ウォーターゲート事件を追うワシントン・ポスト紙の記者の戦いを描く『大統領の陰謀』(76年)。事件発生から3年、ニクソン大統領の辞任から2年という短期間に製作された本作は、ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンというこの時代を代表するやさ男俳優2名を配置。タイプライターから吐き出される文字だけで表現される物語の顛末は、痛快でも爽快でも無いが、ひたすら地道であることの正しさを表現した素晴らしいラストシーンであると思う。  この『大統領の陰謀』によって、その年の第49回アカデミー賞では作品賞、監督賞、助演男優賞、助演女優賞、脚色賞、録音賞、美術賞、編集賞の8部門にノミネート。ジェイソン・ロバーズの助演男優賞、ウィリアム・ゴールドマンの脚色賞、録音賞と美術賞という4部門を受賞するという、この年を代表する作品の一つ(この年の作品賞は『ロッキー』)となっており、パクラ監督の代表作となっている。  そしてその前作にあたり、後年の『大統領の陰謀』に繋がるもう一本の(地味な)傑作が、今回ご紹介する『パララックス・ビュー』(74年)である。  次期大統領の有力候補とされるキャロル上院議員が、シアトルのランドマークであるスペースニードルでの演説中に射殺される事件が発生。SPによって追い詰められた犯人は、スペースニードルの屋上から転落して死亡した。この事件を調査した調査委員会は、犯行は狂信的愛国主義者による単独犯行として報告。事件は「よくある事件」のひとつとして、人々からは忘れ去られていった。  3年後。ロサンゼルスのローカル紙記者のフレイディのもとに、かつての恋人のリーが訪れる。リーはキャロル議員暗殺の現場にいたTVレポーターで、暗殺の現場にいた20人の目撃者が次々と不慮の事故で死亡している事実を知り、フレイディに助けを求めに来たのだった。フレイディは偶然の連続として一笑に付したが、フレイディは数日後に睡眠薬の過剰摂取で死体となったリーと再会することになる。  元恋人の死によって、ようやくこの事件に疑念を抱いたフレイディは、リーが把握している以外にも不審死した目撃者がいることを知り、本格的に調査を開始する。事件を調べる過程で何度も殺されそうになるフレイディだったが、自分を殺そうとした者の自宅を調べるとパララックス社という謎の会社の就職希望願書と適性テストの用紙を発見する。次々と目撃者が死亡する中で、フレイディはパララックス社への潜入を決意。フレイディはそこで衝撃の事実を目撃することになる……。  本作が制作されたのは、ウォーターゲート事件が本格的に表沙汰となり、それを政府が躍起になってもみ消そうとしていた時期だ。明確な関係性は不明瞭ではあるが、限りなく黒に近いグレーな状態が続き、それでも米中国交回復を実現してベトナム戦争を終結させようとしている政府を信じる者と、政府を疑う者の対立が激化していた時期である。そんな時期に制作された本作も、各種暗殺事件へのパララックス社の関与と、パララックス社と政府との関係性は最後までグレーなまま、救いの無いラストを迎えることになる。非常に後味の悪い作品と言っても過言ではない。そもそもパクラ監督の作品はドラマティックさをあえて抑制し、主人公が何を考えているのか分かりづらい作品が多いので、この映画だけが特別という訳ではない。  しかし逆にドラマティックさを抑制することによってリアリティが増幅し、主人公の器の中身を見せないことで、逆に感情移入できる人にとっては尋常でない共感度の向上を実現している作品でもある。フレイディを演じたウォーレン・ベイティの描き込みが不足していると見る向きもあるが、そこが観る者の想像力を膨らませるポイントにもなっている。  タイトルの“パララックス・ビュー”とは視差のことである。視差とは、見方によって対象物が異なって見えることであり、劇中パララックス社に潜入したフレイディが体験する“あること”がずばりそれであり、またこの映画の結末も視差によって異なる結末に捉えられるようになっている。  本作の素晴らしさは撮影だ。撮影を担当したのはゴードン・ウィリス。『ゴッドファーザー』シリーズやウッディ・アレン映画の撮影監督として有名なウィリスは、本作以外にも『コールガール』(71年)、『大統領の陰謀』、『推定無罪』など多くの作品でパクラ監督とタッグを組んでいるが、本作での映画のトーンに合わせた冷たい画作りは、劇伴を極限までそぎ落とした本作にベストマッチしており、ウィリスの仕事の中でも白眉と言って良いだろう。  あまり評価されることの無く、スケールも小さな地味な作品であるが、圧倒的なリアリティと恐怖をもって迫る力作である。必見。■ TM, ® & © 2018 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.

この記事を読む

動物パニック映画の枠を超えた奇想と、驚異のミクロ描写に目が釘付けの昆虫映画2作品『燃える昆虫軍団』『フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック』〜2月8日(木)・9日(金)ほか

高橋諭治

 ある日突然、筆者のもとに〈シネマ解放区〉の担当さんからシュールなメールが届いた。「“昆虫セット”はいかがですか?」。要するに『燃える昆虫軍団』『フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック』という往年の昆虫パニック映画2本をまとめて紹介してくれという原稿の発注だ。どちらも30年以上前にテレビで観ていて、やたら面白かった記憶があるので、さして迷うこともなく「昆虫セット、承りました」と返信し、今この文章を書いている。  この2作品が世に出た1970年代は、空前のアニマル・パニック映画ブームが吹き荒れ、地球上のあらゆる動物が人類を脅かした時代だった。ヒッチコックの『鳥』がそうであったように、特に理由も示されぬままサメ、ワニ、クマなどが我も我もと凶暴化し、普段はあまり人目につかないネズミやヒルといった小動物までも人間に襲いかかった。  そんな1970年代に作られた『燃える昆虫軍団』『フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック』は小動物よりさらに小さい昆虫が主役であり、内容もかなりの変化球であるため、漠然とアニマル・パニック映画ブームの“後期”の作品だと思い込んでいた。ところが今回、改めてそれぞれの本編を見直すと同時に、製作年をチェックして驚いた。『燃える昆虫軍団』はスピルバーグの『ジョーズ』と同じ1975年、『フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック』に至ってはさらに早い1973年に作られているではないか。「そろそろブームもマンネリだから、ちょっと変わった昆虫パニックものでも作るか」といういかにも商魂旺盛なB級映画のプロデューサー的な発想とは、まったく関係なく生み出された2作品だったのだ。  まず『燃える昆虫軍団』の凄いところは、この邦題の“燃える”というのが何かの比喩でもハッタリでもなく、本当に“燃える昆虫”を描いている点だ。物語はとある夏の日、田舎町で大地震が発生し、あちこちにできた地割れから未知の虫が現れるところから始まる。その体長10センチ弱くらいの三葉虫のような生き物は、お尻のあたりにパチパチッと火花を発す特殊スキルの部位を装備しており、乾ききった草むらはもちろん、手当たり次第に車や家屋を燃やし始める。すかさずありったけの消防車が出動するが、とても消火活動は追いつかない。生物学に精通した地元の教授がこの発火昆虫を分析すると、さらなる驚きの事実が次々と明らかに。人間の足で踏みつけても殺せない屈強な甲殻を持ち、害虫の駆除薬でも死なず、草木や新聞などの燃えかすの灰を食べて栄養にするこの昆虫は、太古の時代から粘り強く地底で生き抜いてきた最古の生物だったのだ!  先ほど“三葉虫のよう”と書いたが、実際にはゴキブリを撮影に使っているので、少年時代に目の前に飛んできたゴキブリを避けようとしてガラス戸に突っ込んで大ケガしたトラウマを抱える筆者には、直視できないシーンの多い困った映画である。それでも本作から目を離せないのは、発火昆虫の意表を突いた設定に加え、アニマル・パニック映画の型にはまらない異様なストーリーが繰り広げられるせいだ。運の悪いネコや数名の人間が発火昆虫に殺害され、あちこちで火災が発生する前半はよくあるパニック映画風の滑り出しなのだが、中盤以降はパニックがスケールアップするどころか極端にスケールダウン。一軒家に閉じこもって研究に没頭していた教授が、昆虫に妻を惨殺されたことで怒りを爆発させ、彼個人の私的な復讐ドラマへ転じていくのだ。しかも何を思ったのか、太古の発火昆虫を現代に生きるゴキブリと異種交配させ、なおさら危険な新種の昆虫を創造する始末。主人公がマッドサイエンティスト化する展開に呼応して、映像のトーンもからっと明るいパニック映画から陰影を強調したサイコスリラーへと変貌していく。思わず呆気にとられつつも、その不可解なストーリーの転調をきちんとビジュアルで表現していることに感心させられる。  かくして驚異の進化を遂げ、知能も発火機能もバージョンアップした昆虫のディテールがさらに念入りに描かれ、後半にはあっと驚く“虫文字”などの見せ場が用意されているのだが、それは観てのお楽しみ。そして今回観直して気づいたことだが、日曜日に大勢の信者が集う“教会”が大地震に見舞われるシーンで幕を開け、教授が生命の創造という神をも恐れぬタブーを犯し、ついにはこの世に“地獄の裂け目”が表出する破滅的なエンディングを招き寄せてしまう構成も秀逸。すなわち本作は昆虫をモチーフにした宗教的パニック・カタストロフ映画とも解釈できるわけだ。  ちなみに手堅い演出を披露しているのは、タイムスリップSFの傑作『ある日どこかで』で知られ、今も現役で「グレイズ・アナトミー」などのTVシリーズの演出を手がけているヤノット・シュウォーク。しかし、より注目すべきは製作、脚本のウィリアム・キャッスルだろう。1950年代末から1960年代にかけて『地獄へつゞく部屋』『13ゴースト』などのホラー映画を世に送り出し、4DXの先駆けとも言えるあの手この手のアトラクション体験を観客に提供。そんな偉大なる“ギミックの帝王”がキャリアの最後に携わった一作なのだ。さすがに劇場公開時、ゴキブリを観客席にばらまくなどというシャレにならないギミックはしでかさなかったようで、本作の完成から2年後の1977年に心臓発作でこの世を去った。  うまくストレートに内容を表している『燃える昆虫軍団』に比べると、『フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック』はかなり損をしている題名ではなかろうか。日本では劇場未公開に終わったこの作品はチープなアニマル・パニック映画ではなく、哲学的とも言える本格志向のハードSF。遅ればせながら数年前に国内盤DVDがリリースされたことで、もはや知る人ぞ知るの域を超えて多くの映画ファンを唸らせてきたカルトムービーの逸品である。  はるか彼方の宇宙空間で発生した異変の影響が地球へと伝わり、アリゾナの小さな小さな生き物=アリの一群が奇怪な行動を見せ始める。そのアリたちは同じ種族で争うことを止めて一致団結し、カマキリやヘビといった自分たちの天敵を駆逐し、ぐんぐん勢力を拡大していく。冒頭の10分間はそうしたアリの生態がネイチャー・ドキュメンタリーさながらに超接写やハイスピード撮影を駆使して延々と描かれるので、たまたま暇つぶしでこれを観始めた人は、ザ・シネマではなく間違ってナショナル・ジオグラフィックかアニマル・プラネットにチャンネルを合わせてしまったかと錯覚することだろう。  アリたちの不思議な行動を知って現地に赴いた学者のハッブスと若いエンジニアのレスコが、シルバーのドーム状施設で研究を開始するまでが〈フェイズⅠ〉、すなわちアリと人類の存亡をかけた前代未聞の闘いの第1段階。そのドームの前には7つの幾何学的なモニュメントがそびえ立っている。人間の背丈よりもはるかに高いそのタワーは、アリたちが築き上げた巨大なアリ塚だ。学者としての情熱は人一倍だが、かなり傲慢な性格のハッブスはアリタワーを荒っぽい手段で粉砕し、上から目線でアリたちを挑発する。もともと好戦的なアリたちがその宣戦布告を受けて立ったことで、両陣営の攻防は一気に激化。虫ごときに発電機を破壊されたハッブスは、お返しに強力なイエローの殺虫液をお見舞いして無数のアリたちを抹殺する。ここからの描写が凄まじい。生き残ったアリは殺虫剤のかけらを女王蜂のもとに届けるため、決死の覚悟で運び始める。運び主のアリが絶命したら、別のアリがそれを受け継ぐという捨て身のリレー。ついに殺虫剤を受け取った女王蜂は、その薬物に耐性のあるイエローのアリを産み落とす。当然ながらCGなど存在しない時代に、本物のアリを使って“演技”させ、その組織だった連係プレーや自己犠牲をいとわない献身性を映像化してみせた撮影に舌を巻く。ましてや地下空間に戦死したアリたちの亡骸が整然と並べられた“葬儀”シーンは、揺るぎない全体主義を形成するアリ社会の圧倒的な強みをひしひしと伝え、エゴイスティックで何かと感情に左右されがちな人間との優劣を残酷なまでに浮き彫りにする。  続いて、人間が高温に弱いと見抜いたアリたちは、太陽光を反射させる鏡面機能を備えた新たなアリ塚を建造し、エアコンも破壊して(このシーンにおけるアリとカマキリとの絡みが見ものだ)、蒸し風呂状態のドームにこもったハッブスとレスコを苦しめていく。まだ〈フェイズⅡ〉だというのに、早くも人類の敗色ムードは濃厚。初見の視聴者の興趣を殺がないよう〈フェイズⅢ〉以降の詳細を書くことは避けるが、アリたちは人間をやすやすと殺したりはしない。なぜならアリ目線の一人称ショットがさりげなくも随所に挿入されるこの映画は、人類がアリを倒す話ではなく、アリが人類を観察してある目的のために有効利用しようとする恐るべき話なのだ!  監督は、ヒッチコックの『めまい』『サイコ』などのメインタイトルの作者として名高いグラフィック・デザイナーのソウル・バス。このキャリア唯一の長編監督作品で独創的な視覚的センスを遺憾なく発揮し、哲学的な寓意をはらんだ異種族間の一大戦記をヴィジュアル化した。人間の主要キャラクターは前述のハッブスとレスコ、そして研究ドームに逃げ込んできた近所の農家の娘ケンドラの3人だけ。半径数百メートルの局地戦を描きながら、『燃える昆虫軍団』よりもはるかに深遠な黙示録的なドラマを創出し、『2001年宇宙の旅』や人類と宇宙病原体とのミクロな死闘を描いた『アンドロメダ』をも連想させるレベルのSFに仕上げたその手腕には驚嘆せずにいられない。これまた男性視聴者の視覚を大いに潤すであろうケンドラ役のリン・フレデリックの麗しい魅力を生かし、アリがその柔肌を這いずり回る倒錯的なエロティシズムも表現。この紅一点の美女が単なるお色気担当ではないことが判明する衝撃的な結末にも注目されたし。  そして最後に、インセクト・シークエンス、すなわち見事な昆虫撮影を手がけたケン・ミドルハムについて。1971年にアカデミー賞ドキュメンタリー長編賞を受賞した『大自然の闘争/驚異の昆虫世界』の撮影監督であるミドルハムが、『フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック』で重要な役目を担っていることはもともと知っていたが、何と『燃える昆虫軍団』にもインセクト・シークエンスでクレジットされていたとは! ザ・シネマがお届けする昆虫撮影の名手によるこの2作品、いろんな意味で興味の尽きない必見&録画必須の“昆虫セット”なのである。■ TM, ® & © 2018 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.

この記事を読む

地下浸水が巻き起こす大スペクタクル! ロシア映画が放つ自国初のディザスター超大作!!『メトロ42』~12月5日(火)ほか

尾崎一男

 前々回、このコーナーでは「ロシア映画史上最大規模のSFファンタジー」と銘打ち、同国初となるエンタテインメント大作『プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星』(08)について触れた。その先陣に連なるがごとく、というワケではないが、今回の『メトロ42』。ロシア映画史上初のディザスター大作として『プリズナー〜』から5年後の、2013年に製作された作品である。   ある日、モスクワの中心にある新建物の大規模工事によって、地下鉄トンネルの壁に亀裂が生じ、首都を貫流するモスクワ川からの水が内部に流入。数千人に及ぶ乗客が洪水に巻き込まれてしまう。しかもその水流は地下鉄トンネルの崩壊だけでなく、都市全体の破壊を招きかねない事態へと及んでいくーー。物語はこうした未曾有の危機に立ち向かう現場のプロフェッショナルたちの戦いと、災害に巻き込まれた市井の人々のサバイバルを大迫力で展開させていく。災害描写もこの手のジャンルが不慣れにしては堂に入ったもので、濁流の衝撃を受け、電車内の乗客がミキサーのように撹拌されるショットや、漏電によって死体が折り重なるショットなど、観る者はそれらの、悲壮にしてスケアリーなパニック描写に心底驚かされるだろう。 ■ロシア映画、エンタテインメント大作化への流れ  だが、なによりも驚かされるのは、ロシアでは『メトロ42』のようなディザスター映画がこれまで作ってこられなかったことだ。   こうした疑問は同国内でも共通のものとしてあったようで、本作の完成記者会見で監督や製作スタッフらはマスコミから「なぜロシアではディザスター映画が製作されないのか?」という質問を受けている。その問いに対して監督のアントン・メゲルディチェフは「映画に対する国家支援のシステムの変化」と「ロシアでディザスター映画を展開させられる適切なプロットを見つけることが難しい」のふたつを回答として挙げている。   前者の「国家支援のシステムの変化」関しては、少し解説が必要かもしれない。旧ソビエト時代の映画はソ連邦国家映画委員会、通称「ゴスキノ」と呼ばれる中央行政機関が、同国内の映画製作を管理していた。しかし1980年代後半のペレストロイカ(政治改革)以降、国の統制を受けていた映画製作は独立採算制の導入によって民営化が推し進められ、同時にアメリカ映画の市場制圧に対抗すべく、ロシア映画もハリウッドスタイルの大がかりなアクションを導入した作品を手がけるようになったのだ。そして1990年代の変換期を経て、2000年にはプーチン大統領就任以後の経済成長と同時に映画の国策化、ならびに保護育成を目的に、ゴスキノは文化省へと吸収。そこからの援助資金だけで製作される作品が増加したのである。   こうした映画の変革は、韓国と同じ傾向にある。1996年、韓国では憲法裁判所が検閲行為を違憲とし、脚本と完成作品の提出を義務とした検閲システムが廃止となった。韓国民主化を旗印とする金大中は、国益のために映画産業を政府がバックアップすることを選挙公約として掲げ、98年に大統領当選が決まると、それまで国の機関だった「映画振興公社」を民間に委ね、映画の改革を始めるのである。こうした改革が大きな原動力となり、韓国映画は飛躍的な進化を遂げていったのだ。日本における韓流ブームの嚆矢となった『シュリ』(99)は、まさにこの“韓国映画ルネッサンス”と呼ぶべき変容の象徴として生まれたのだ。先述のこうした状況を踏まえてみると、おのずとロシア映画における『メトロ42』の立ち位置がわかるだろう。   そして後者の「ロシアでディザスター映画を展開させることへの困難」という事情だが、ロシアは地震などの自然災害が少なく、地域によっては寒波などの設定は考慮できても、それが多くの観客の実感を伴わせるとはいいにくい。事故などの人災に関しては1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故のような実例も挙げられるが、娯楽映画の題材に採り入れるほど、同事件に対する自国の傷は癒えていない。   そこで着目されたのが、地下鉄だったのである。ロシアでは交通量の増大に対してインフラ整理が追いつかず、モスクワ市内での車の遅延や渋滞が常態化しており、その緩和手段として地下鉄が市民の重要な足代わりとなっている。また2009年以降、高速鉄道の開業によって鉄道網が大きく拡張されるなど、より鉄道が利便性や安全性を高めていることも手伝い、ロシア人の多くがいちばんリアリティを感じられる設定といえる。じっさい本作の企画は2010年に成立したというから、時代的にも符号が合う。   しかし地下鉄当局からは「ありえない設定」だとして、いっさいの協力を得ることはできず、また大量の水を撮影に用いることから、必然的に地下鉄運施設の使用は無理と判断。すべてをロケセットで再現するアプローチがとられた。そのため本作では全長118メートルのトンネルのセットを建造し、加えて車両などは現物大のラージスケールモデルと、水の質感を損ねないために3分の1縮尺寸の小スケールモデル(といってもその大きさは軽トラくらいはある)が撮影に併用されている。すなわちCGなどのデジタルエフェクトは副次的にとどめ、プラクティカルエフェクトを主体とした特撮が用いられたのだ。また役者たちの演技を中心とした本編ショットでは、機微に応じた撮像を得るために高解像度のRED epicをメインカメラとして使い、パニックシーンや視覚効果の素材ショット撮影には機動性に優れたARRI Alexaを用いるなど、用途に応じた撮影機材の選択がなされている。   こうした撮影手法が「ありえない設定」として地下鉄当局に否定された同作に「ありえる」かのような説得力をもたらしているのである。  ■ハリウッドスタイルの中に見え隠れするお国柄  いっぽうのドラマに関しても、初めて本格的なディザスター映画を製作するにあたり、ハリウッド映画のスキルをヒントに作劇がなされた。古くは『ポセイドン・アドベンチャー』(72)や『タワーリング・インフェルノ』(74)といったアーウィン・アレン製作のものから、『デイ・アフター・トゥモロー』(04)『2012』(09)などディザスター映画の職人ローランド・エメリッヒ監督が手がける近年のものまで、こうした作品に顕著な、パブリックな出来事と個人ドラマの融合によるスタイルを模範として作られている。    ただちょっと我々的に違和感を覚えるのが、主人公の医師アンドレイ(セルゲイ・プスケパリス)と、彼の妻イリーナ(スベトラーナ・コドチェンコワ)と不倫関係にあったブラト(アナトーリー・ベリィ)が同じ列車内に乗り合わせるという、穏やかでない人間関係だ。これは他でもない、ロシアの高い離婚率を象徴する設定といっていい。およそ70%といわれる同国の離婚率の高さは、こうした男女関係のもつれとなって映画に反映され、むしろ地下鉄の事故設定よりも多くのロシア人が実感をともなう要素かもしれない。   グルーバルなハリウッドスタイルを標榜しつつ、映画は根のところでお国の事情が垣間見える。そうした点からも『メトロ42』は、味わい深いディザスター映画といえるだろう。  © LLC PRODUCTION COMPANY OF IGOR TOLSTUNOV, 2012

この記事を読む