シネマ解放区 シネマ解放区

現在、シネマ解放区は一時クローズ中。再び解放される日までお待ちくださいませ!
過去コラムアーカイブはこちら!

アメリカ「唯一の敗戦」で生じた、“MIA問題”のリアルな顛末〜『地獄の7人』〜

松崎まこと

 本作『地獄の7人』には、映画の内容以上に強烈な思い出がある。  1983年に製作されたこの作品は、同年にアメリカで公開されて、日本公開は翌84年の6月だったから、多分その直前の話。ラジオ局のプレゼントでホール試写が当たった私は、友人と2人で出掛けた。  映画が終わった直後、ちょっと興奮した私たちがこの映画について語っていると、やはり客席に居た白人の男性から、こんな言葉を浴びせられた。 「ダガ、アナタタチハ、センソウノゲンジツヲ、シラナイ」  穏やかながら痛烈な口調に、私たちは吃驚して、暫し沈黙せざるを得なかった…。 **********  アメリカ合衆国の歴史上で、「最大級の汚点」とされる、“ベトナム戦争”。ソ連との冷戦時代、「ベトナムの共産化を阻止する」という名目で、アメリカは南ベトナム軍を支援し、1965年から本格的に軍事介入を行った。しかし、北ベトナム軍及び南ベトナム解放戦線との戦闘は長期化し、戦況は泥沼化の一途を辿っていく。  次第に劣勢に追い込まれたアメリカ軍は、73年に撤退を余儀なくされる。これを、アメリカの対外戦争に於ける、「唯一の敗戦」と見なす者も多い。  アメリカ兵の戦死者・行方不明者は、5万8,000人。国家の威信は大きく揺らぎ、若者たちは深く傷ついた…。  映画は「社会の鏡」である。アメリカ映画に於いて、“ベトナム戦争”がどのように描かれているかの変遷は、そのままアメリカ社会や世相の変化を表している。  西部劇の大スターにして、ハリウッドを代表するタカ派のジョン・ウェインが、1968年に監督・主演した『グリーン・ベレー』は、娯楽映画の衣を纏いながら、アメリカによるベトナムへの軍事介入の“大義”を高らかに謳い上げる、プロバガンダ作品だった。  しかしほぼ同時期、ベトナム戦争を一つのきっかけとして、それまでの権威が大きく崩れていく。そして、既成の権威に牙を向く、“アメリカン・ニューシネマ”の時代が訪れる。“ニューシネマ”の中では、例えば朝鮮戦争を舞台とする、ロバート・アルトマン監督の『M★A★S★H マッシュ』(70)や、ラルフ・ネルソン監督の西部劇『ソルジャー・ブルー』(70)のような作品の中で、“ベトナム戦争”を暗に批判した描写が見られるようになる。 “ニューシネマ”が終焉を迎えた後、1978年は、“ベトナム戦争”をテーマにした作品のエポックメーキングと言える年となった。アメリカの田舎町から戦場に向かった若者たちの運命を描く、マイケル・チミノ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の『ディア・ハンター』、ジェーン・フォンダ扮する軍人の妻と、ジョン・ボイトが演じる半身不随となったベトナム帰還兵との愛を描く、ハル・アシュビー監督の『帰郷』。この2本が公開されたのだ。  『ディア・ハンター』はその年度のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、助演男優賞、音響賞、編集賞の5部門、『帰郷』は、脚本賞、主演男優賞、主演女優賞の3部門を受賞した。1978年は、ベトナム戦争を題材とした“反戦映画”が、他を圧した年となったのである。  『ディア・ハンター』では、平穏な日常と戦場のギャップが強烈に描かれたが、ベトナムの戦場のリアルをスクリーンに映し出す試みは、その後も連綿と続いていく。『地獄の黙示録』(79)『プラトーン』(86)『フルメタル・ジャケット』(87)『カジュアリティーズ』(89)等々。  『帰郷』のように帰還兵を題材とした作品としては、オリバー・ストーン監督、トム・クルーズ主演の『7月4日に生まれて』(89)が、その後の代表的な作品として挙げられる。しかし一方で、そうした存在を主人公にした、B級テイストのアクション映画も、頻繁に製作されるようになる。  『ローリング・サンダー』(77)『ドッグ・ソルジャー』(78)『エクスタミネーター』(80)等々。その究極の形とも言えるのが、82年に公開された、シルベスター・スタローン主演の『ランボー』第1作である。  因みに、当初その先駆けのように言われたのが、76年公開の最後の“ニューシネマ”『タクシードライバー』。しかし、デ・ニーロが演じた主人公トラヴィスは、その誇大妄想狂ぶりや虚言癖から、彼が自称する「ベトナム帰りの元海兵隊員」というのは、「信じ難い」というのが、今日では有力な説になっている。  そして“戦争アクション”という形で、80年代の半ば近くから、次々と製作・公開されるようになるのが、いわゆる“MIAもの”である。「MIA」とは、Missing in Action=「戦闘後の行方不明兵士」を意味する言葉。  では“MIAもの”とは、一体どんな内容の作品なのか?それについては、『ランボー』に続いてのテッド・コチェフ監督作品であり、このジャンルの口火を切った本作、『地獄の7人』のストーリーを紹介するのが、手っ取り早いと思う。  主人公はジーン・ハックマン演じる、退役軍人のローズ大佐。10年前にベトナム戦線で行方不明=MIAとなったひとり息子の行方を捜し求めている。  アメリカ政府から何ら有力な情報がもたらされることがない中、独自の調査で、ベトナムの隣国ラオスに在る捕虜収容所の空中写真を入手。アメリカ兵の捕虜らしき影を、そこに見出す。  ローズは自分と同じく、息子がMIAとなっている富豪から資金援助を得て、自らがリーダーとなり、救出作戦を強行することを決意する。そのために彼は、息子の戦友たちを訪ね歩き、協力を求める。  ベトナムからの帰還後、実業家として成功を収めた者が居る一方で、戦場の悪夢にうなされ続ける者も居る。大佐を含めて、集まった者は、“七人”。実戦の勘を取り戻し、作戦を成功させるための猛訓練が数週間に渡って行われた後、チームは勇躍、タイのバンコクへと旅立つ。  ここからラオスを目指す算段だった“七人”だが、そこで思わぬ邪魔が入る。ベトナムやラオスとのトラブルを恐れ、密かに彼らの監視を続けていたCIAによって、用意した装備がすべて、没収されてしまったのである。  しかし彼らは諦めず、麻薬バイヤーの中国人の力を借りて、中古の銃火器を調達。陸路で目的地へと向かう。  ラオスとの国境で、まずは一戦を構えた一行。犠牲を出しながらも、国境警備の兵士を全滅させて、ラオスへの入国を果たした。  そして遂に、目的地の捕虜収容所に達し、アメリカ兵の捕虜4名の存在を確認。ラオスの大地を血に染める、地獄の救出作戦を開始する…。  本作の翌年以降に公開されて、むしろ本作よりも知名度が高い“MIAもの”『ランボー/怒りの脱出』(85)や、チャック・ノリス主演の『地獄のヒーロー』シリーズ(84~88)も、ベースとなる展開はほぼ同じ。主人公は正規の外交交渉を飛び越え、アメリカ兵捕虜が囚われている収容所に乗り込んで救出作戦を展開。殺戮と破壊の限りを尽くす。  では80年代、なぜこうした“MIAもの”が数多く製作・公開されたのか?大きな理由の一つに挙げられるのが、1981年にロナルド・レーガンが、アメリカ大統領に就任したことである。  俳優出身で、“グレート・コミュニケーター=偉大なる伝達者”の異名を取ったレーガン大統領。ソ連など共産陣営との対決姿勢を強め、2期8年の任期=即ち80年代のほとんどに渡って、「強いアメリカ」の復活を鼓舞した。まるで、ベトナム戦争の「敗戦」という、悪夢を吹き飛ばすかのように。  そこに呼応するかのように製作されたのが、“MIAもの”だった。アメリカ国内には以前から、ベトナム領内には戦争捕虜が残されているとの見方が根強くあったが、強硬なタカ派的な姿勢が強いレーガン政権の下では、自国民を取り戻すためには、「実力行使も辞すべきではない」という考え方が、自然と強まったわけである。  レーガン政権誕生直前、中東のイランでイスラム革命が起こり、1979年から81年に掛けて、在イラン・アメリカ大使館の外交官たちが人質に取られるという事件があったことも、“MIAもの”の製作を、後押しした。まるで、アメリカ国民の間に溜まった、大きなストレスを晴らすかのように。  では“MIA”の現実は、どのようなものだったのか?果してベトナムやその周辺に、囚われのアメリカ兵は居たのであろうか?  ベトナム戦争はアメリカ軍撤退の2年後、1975年のサイゴン陥落で終結。その後アメリカとベトナムが、“国交正常化”を目指した交渉を始めるまで、10年以上の歳月を要した。  87年に両国は、“MIA”調査の進展とベトナムへの人道援助の開始で合意。91年には協力促進のため、アメリカ側の常設事務所が、ベトナムのハノイに設けられた。  その後、両国の国交は95年に正常化されるが、ベトナム側はその前後=91年から2019年までの28年間に、972体に及ぶアメリカ兵の遺骨を発見・発掘。アメリカへの返還を果たしている。更には、いまだ不明者として登録されているアメリカ兵1,597人の捜索に、毎年100億円以上の予算を注ぎ込んでいる。  この事実は即ち、少なくともベトナム国内には、ジーン・ハックマンやスタローン、チャック・ノリスが乗り込んで、武力で奪還するような捕虜は存在しなかったということを表す。“MIAもの”はその前提自体が、映画上での創作に過ぎなかったわけである。  そもそもアメリカ側の戦死者・行方不明者5万8,000人に対し、国土が泥沼の戦場と化したベトナム側は、民間人を含めて300万人が犠牲となっている。そしてその内の30万人が、いまだに行方不明のままだ。  遥か東南アジアの異国で行方不明になった者を案じて、肉親や友人がその身を救おうとするドラマに、アメリカの観客が快哉を叫んだ理由は理解できる。一概に戦死者や行方不明者の数を比較することにも、大きな意味があるとは思えない。  しかし焦土と化した地に、かつての“侵略者”側が再び乗り込んで来て、軍事作戦を慣行。数名の生存者を救うために、何十名・何百名という罪もない兵士を血祭りに上げる展開には、正直ついていけない部分を感じる。  84年の初夏、『地獄の7人』の試写に赴いた私は、同行の友人と共にその部分に大いに引っ掛かり、鑑賞直後には些かエキサイトして、この映画について批判を述べ合ったのである。そこに冷え水を浴びせるかのような、白人男性の一声。 「ダガ、アナタタチハ、センソウノゲンジツヲ、シラナイ」  彼がアメリカ人だったかどうかもわからないが、ベトナムからの帰還兵であってもおかしくない年代ではあった。しかし今となっては、日本人の少年2人に、何であんな声を掛けてきたのか、その心情は想像するより他にない。◼︎ TM, ® & © 2019 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.

この記事を読む

“社会派”の名作『ノーマ・レイ』で覚醒したサリー・フィールド

松崎まこと

 この原稿を執筆してる時点では、2018年公開の作品を対象とする、「第91回アカデミー賞」は、ノミネートが発表されたばかり。私が今回特に注目するのは、主演・助演両部門合わせて7度目のノミネートになるグレン・クローズが、遂にオスカー像を手にする瞬間が来るのか?…である。    彼女をスクリーンで初めて観たのは、『ガープの世界』(1983)。1947年生まれのグレンは、30代中盤に出演したその作品で、初めて「アカデミー賞」にノミネート(助演女優賞候補)された。それ以来、実に35年以上の長きに渡って、第一線で活躍し続けていることになる。TVドラマでの演技に贈られる「エミー賞」、舞台の演技が対象の「トニー賞」は、それぞれ3回ずつ受賞している。そんな彼女が、銀幕での演技を対象とする「アカデミー賞」だけは、未だ掌中に収めていない。    この賞を得るには、もちろん演技の実力が必要だ。しかしそれだけでは、十分でない。時勢や対抗馬の巡り合わせなど、“運”も大きく作用するのである。    ではここで、クイズを一問。生存する女優(引退した者も含む)で、そんな「アカデミー賞」の、しかも「主演女優賞」を2回獲得した者の名を、すべて挙げよ。    昨年『スリー・ビルボード』(2017)で、『ファーゴ』(1996)以来のオスカーを獲得した、フランシス・マクドーマンド、主演賞2回に加え、助演賞も1回受賞しているメリル・ストリープ(ノミネートは主演・助演合わせて、何と21回!)あたりの名は、すぐに出てきそうだ。だがこの2人以外にも、主演部門を2回制した強者が、5人健在である。    それは、グレンダ・ジャクソン、ジェーン・フォンダ、ジョディ・フォスター、ヒラリー・スワンク、そして、本作『ノーマ・レイ』のヒロインを演じた、サリー・フィールドだ。    サリーが主演女優賞をゲットしたのは、1979年公開の本作、そして84年公開の『プレイス・イン・ザ・ハート』。1946年生まれということだから、47年生まれのグレン・クローズとは、ほぼ同年代。ところがグレンが、70代に至るまでオスカーを逃し続けてきたのに対し、サリーは30代の内に、2回獲得している。相当な“強運”の持ち主とも言える。    その後のサリーの歩みを追えば、『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994)で演じた、主人公の母役をご記憶の方も多いだろう。2000年代後半に主演したTVシリーズ「ブラザーズ&シスターズ」では、「エミー賞」も受賞。近年では、スピルバーグ監督の『リンカーン』(2012)で大統領夫人を演じて、「アカデミー賞」の助演女優賞候補になっている。    では“オスカー女優”になる前の、彼女のの歩みは、ご存じであろうか?    ハイティーン時代、「ギジェットは15歳」「いたずら天使」といったTVシリーズで、大いに人気を博したというサリー。しかし私が、1970年代後半にスクリーンで彼女に邂逅した時の印象は、ただただ「バート・レイノルズの彼女」だった。    以前にも当コラムで取り上げたが、この頃のバート・レイノルズはTOPスターとして、アメリカで絶大なる人気を誇っていた。そんな彼と、カーアクションコメディの『トランザム7000』(1977)で、初共演したサリー。すでにバツイチで2人の子どもがいた彼女は、プレイボーイで鳴らしたバートと恋に落ちて、公私ともにパートナーとなった。そして『トランザム…』に続いて、『The End』(78 日本未公開)『グレート・スタントマン』(78)と、立て続けに彼の相手役を務めたのである。    当時はよく「美人とは決して言えない」などと書かれていた、童顔で小柄、ちんちくりんな印象のサリーは、毛むくじゃらのタフガイであるバートとの共演では、じゃじゃ馬的な魅力を発していた。とはいえ総体的には、「バートのペット」であり、「スーパースター主演作の付属品」的な印象もまた、免れ得なかった。    当時は、サリーの側からのバートへの依存心も、相当に強かったようだ。バートとの共演作が続いた後に出演した本作『ノーマ・レイ』では、「アカデミー賞」に先駆けて、「カンヌ映画祭」の主演女優賞も獲得しているのだが、その時の彼女のリアクションは、劇場公開時の本作プログラムによると、次のようなものであった。   「とてもうれしい。でも、バートと一緒の映画でなかったのは、淋しいわ。私にはバートと一緒に喜び合うことが、最高の幸せなの」  しかしサリーが『ノーマ・レイ』に単独で主演し、更にはオスカー女優になったことは、バートとの関係に、決して小さくはない変化を生じさせたのではないか?少なくとも『ノーマ・レイ』という作品には、そんなことを感じさせる“何か”がある。    本作でサリーが演じるのは、タイトルロールの“ノーマ・レイ”。アメリカ南部の田舎町に在る紡績工場で働く、貧しく無知で身持ちも悪い白人女性である。酒場の喧嘩で殺された元夫との間に生まれた男の子と、婚外子として生んだ女の子の、2人の子どもを持つ。    ろくな休憩所もないような、劣悪な環境の工場には、ノーマの父や母も勤めているが、2人とも長年の過酷な労働で、くたびれ果てている。それは同僚の工員たちも同じことだったが、労働者の権利を主張する術も知らず、工場側に搾取されるがままになっている。    そんな町に、ニューヨークからルーベン(演;ロン・リーブマン)という男がやって来る。彼はノーマらの勤める工場に、労働組合を作るために派遣されて来たのであった。    ふとしたことから、ルーベンと親しくなったノーマ。彼女は彼に触発されて、労働条件の改善を工場に求めるようになり、遂には組合を組織することを目指すようになる。    工場内で彼女が紡織機の上に乗り、厚紙に「UNION=組合」とクレヨンで書いて、頭上に掲げるシーンは、アメリカ映画史に残る名シーンとして、今でも度々紹介されている。また“ノーマ・レイ”は、“ヒーロー”という枠組みで、人気が高いキャラクターでもある。    労組オルグのルーベンと女工のノーマ。惹かれ合いながらも、決して男女の関係に陥らない2人の関係は、流れ者のガンマンと、その教えを受けて成長していく若者…といった構図の、例えば『シェーン』(1953)や『怒りの荒野』(1967)のような“西部劇”の、バリエーションにも見える。そこで“正義”に目覚めて貫くノーマは、なるほど確かに“ヒーロー”である。    1960年代から70年代に掛けて、アメリカ映画界に於ける“社会派”の代表的な存在だった、マーティン・リット監督の演出が素晴らしい。かつて“赤狩り”に巻き込まれ、やりたい仕事が出来ない状態に陥ったことがあるリット。本作では、労働者たちを押し潰そうとする経営側の姿勢を攻撃すると同時に、自らの権利を主張せずに自由を放棄する側の“罪”も、糾弾するかのようだ。    そんな作品『ノーマ・レイ』に主演したことで、女優サリー・フィールドは、大きな評価と勲章を得た。しかしそれこそが彼女が、バートから“自立”を図ることの、遠因になったのかも知れない。

この記事を読む

長い黒髪に白い乳房!名もなき美女の全裸死体に隠された忌まわしい秘密とは?今宵、想像を絶する恐怖があなたを襲う!〜『ジェーン・ドウの解剖』〜

なかざわひでゆき

 バージニア州の小さな町。とある平凡な一軒家で、住人全員が無残な遺体で発見される。警察が現場を検証したところ、外から誰かが侵入したような形跡はなく、むしろ被害者たちは家からの脱出を試みていたようだ。困惑する保安官。すると、家の地下室から土に半分埋まった美しい女性の死体が見つかる。女性の身元も住人との関係も不明だが、なぜか彼女だけ目立った外傷がない。事件の謎を解明するためにも、この女性の死因を特定することが急務だ。そこで保安官は、20年来の付き合いがある「ティルデン遺体安置&火葬場」へ女性の死体を持ち込み、明日の朝までに検死結果を報告するよう依頼する…。  ジェーン・ドウとは女性の身元不明死体のこと。英語圏では古くから、身元の分からない男性の死体を「ジョン・ドウ」と呼ぶ習慣がある。これはなにも死体だけに限らず、身元不明男性全般や実名を明かしたくない場合の匿名、もしくは「どこにでもいる平凡な男」の意味としても使われるので、さしずめ日本で言う「名無しの権兵衛」みたいなものだろうか。その女性版がジェーン・ドウというわけだ。最近では、’16年にアメリカで「13歳の時ドナルド・トランプ大統領にレイプされた」と訴え出た女性が、身バレを恐れてジェーン・ドウの匿名を使用していたことも記憶に新しいだろう。  さて、一家全員が謎の死を遂げた不可解な殺人事件。その家の地下室から無傷で発見された身元不明の女性「ジェーン・ドウ」の死体。運び込まれた民間の古い遺体安置所で、ベテラン検死官トミー・ティルトン(ブライアン・コックス)とその息子で助手のオースティン(エミール・ハーシュ)による死因の究明が始まる。  一見したところ目立った外傷はなし。年齢は20代半ばから後半といったところか。眼球はグレーに濁っている。ということは、死後数日は経っているはずだが、しかし死後硬直はまだ見られない。しかも、骨格の大きさに対してヒップが細すぎる。手首や足首が折れているのもおかしい。爪から採取された土は、この近辺にはない泥灰だ。なによりも2人が衝撃を受けたのは、口を開けてみると舌がちぎり取られていたこと。外見上から判断すると人身売買の被害者と似ているが、それにしてもおかしなことが多すぎる。この死体はいったい「何」なのか?その疑問を解明するべく、2人はさらにジェーン・ドウの体にメスを入れ、その中身を調べ始めるのだが、謎はより一層のこと深まっていく。  と、ここまで予備知識のないまま見てきた観客は、もしかするとテレビドラマ『BONES』のような科学捜査をテーマにした犯罪ミステリーを期待するかもしれない。だとすると、この後の展開にはいろいろな意味で驚かされることだろう。科学的に説明のつかない臓器の状態、そこから発見される思いがけないもの、そして、まるで解剖の邪魔をするかのように次々と起きていく不気味な怪現象。そう、これは身元不明の美しき女性の死体を巡って、予想だにしなかった超自然の恐怖が頭をもたげる、紛れもないオカルト・ホラーなのだ。  ユニークなのは、ほぼ全編を通して物語が遺体安置所の中だけで進行することだ。これはなかなか珍しい。確かに、遺体安置所というセッティングはホラー映画に欠かせない要素のひとつであり、例えばホルヘ・グラウ監督のスパニッシュ・ホラー『悪魔の墓場』(’74)やルチオ・フルチ監督の怪作『ビヨンド』(’81)などでも効果的な使われ方をしていた。女性検死官が主人公の『炎のいけにえ』(’74)なんていう隠れた名作もあるし、病院の遺体安置室が重要な役割を果たした『ZOMBIO/死霊のしたたり』(’85)を想起するホラー映画ファンも多いことだろう。  また、マイナーなところでは、遺体安置所がカルト教団の巣窟だったビル・パクストン出演の『モーチュアリー』(’83)も印象的だ。そうそう、病院の研修生たちが解剖実験用の死体に呪われるという『屍体』(’06)なんて映画もあった。これなどは設定的に本作と近いものがある。とはいえ、遺体安置所という限定された空間内でほぼ展開する作品となると、病院の遺体安置室で3人の若者が人気女優の死体をレイプしたところ蘇生してしまう『レイプ・オブ・アナ・フリッツ』(’15)と本作ぐらいしかパッとは思い浮かばない。しかも、『レイプ・オブ・アナ・フリッツ』はホラーではなく犯罪スリラーだ。  監督を手掛けたのは、ドキュメンタリー映画を撮影中の学生たちが北欧伝説の巨大な妖精トロールに遭遇するという、モキュメンタリー形式のダークファンタジー映画『トロール・ハンター』(’10)で話題を呼んだノルウェー出身のアンドレ・ウーヴレダル。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(’99)から『死霊高校』(’15)まで、はたまた『チュパカブラ・プロジェクト』(’00)から『クローバーフィールド/HAKAISHA』(’08)に至るまで、散々やり尽くされてきた感のあるモキュメンタリーのジャンルに「モンスター・ハント」という要素を持ち込んだアイディア、低予算ながらもユーモアを交えて工夫を凝らした演出は特筆すべきものだったが、しかしウーヴレダル監督本人にとってこの作品で注目されたことは、多少なりとも不本意な部分があったようだ。  というのも、モキュメンタリーというのは単なるギミックに過ぎないという面も否定できない。本来の自分のスタイルではない、との思いが強かったみたいだ。とりあえず『トロール・ハンター』の商業的成功で、世間的に名前は認知された。次の作品では真っ当な映像作家としての腕前を実証したい。しかし、ハリウッドに招かれたのは良かったが、声をかけられたプロジェクトはひとつも実を結ばず。そんな折、ジェームズ・ワン監督の『死霊館』(’15)を見て感銘を受けたウーヴレダル監督は、「自分もこういう映画を撮りたい!」とエージェントに働きかけたところ、しばらくしてから本作の脚本が送られてきたのだという。  ハリウッドでは「ブラック・リスト」(未映画化脚本の人気投票ランキング)の上位にも名前が挙がっていたという本作。映画の前半と後半でジャンルがガラリと変わるという意外性の面白さもさることながら、描き込まれた登場人物の背景や性格が、ストーリーの上でちゃんと意味を成している点がとてもいい。  主人公は100年近く続くティルデン遺体安置&火葬場の3代目経営者トミーと、その息子オースティン。トミーは自殺した亡き妻の死に強い責任を感じており、普段は表に出さずとも罪悪感に今なお苦しんでいる。そんな重い空気に耐えかねてか、家を出て恋人と暮らすことを考えているオースティンだが、しかし父親への深い愛情ゆえになかなか決心がつかない。複雑でありながらも強く結ばれた親子の絆。どこからどう見ても共感しか生まれないこの2人に、理不尽な恐怖が襲い掛かることとなる。  さらに、2人の性格の違いが明確に描かれているところも要注目だ。「目と手で確認できること以外は気にするな」という徹底した合理主義的な立場で、ジェーン・ドウの死因を解明しようとする父親トミーと、死因だけではなくその理由にも思いを馳せることで、その正体に迫ろうとする息子オースティン。このまるで対照的な彼らの分析や推論を通して、はじめはただの「物体」に過ぎなかった死体に少しずつ人間としての個性が宿り、いつしか観客が感情移入できる「キャラクター」へと変化していくのだ。  そればかりか、やがてこの死体が持つ明らかな「意志」や「目的」までもが見えてくる。ネタバレになるので詳しくは延べないが、ジェーン・ドウには歴史の闇に埋もれた恐ろしくも哀しい由来があったのだ。おのずと少なからぬ同情を寄せていくトミーとオースティン。しかし、この心優しい親子に対する容赦のない攻撃はエスカレートし、ジェーン・ドウが疑いようもなく邪悪な存在であることが明確になっていく。相手が善人だろうが悪人だろうが、もはや復讐の塊となった彼女には関係がないのだ。これはある意味、日本の怪談にも通じる「怨念」の怖さだと言えるだろう。  不器用で口数の少ないトミー役にはシェイクスピア俳優としても評価の高いイギリス出身の名優ブライアン・コックス、繊細で感受性豊かな青年オースティン役には『イントゥ・ザ・ワイルド』(’07)と『ミルク』(’08)の演技が絶賛されたエミール・ハーシュ。ホラー映画とは馴染みの薄い正統派俳優を主演に得たことで、複雑でありながらも深くて固い親子の絆のドラマにも厚みが加わる。そんな2人の些細な感情の機微までをも汲み取り、丹念な筆致で恐怖を盛り上げていくウーヴレダル監督の演出は、まさしく古典的ホラー映画の王道だ。一歩間違えると悪趣味になりかねない解剖シーンも、医療ドキュメンタリーさながらの正確な表現を貫くことで、機能美的な芸術性すら備えている。  その功績は、ジェーン・ドウ役の女優オルウェン・ケリーに負う部分も大きいだろう。本業はファッション・モデルであるオルウェン。その訓練で培ったヨガの呼吸法を駆使して、美しき死体を完璧なまでに演じている。もともとプロデューサー陣は人間そっくりのダミーボディを使おうと考えていたらしいが、ウーヴレダル監督は絶対に生身の女優を起用すべきだとの意見を押し通したという。もちろん、メスを入れて解剖されるシーンはダミーだが、それ以外は全てオルウェン本人。監督は照明の角度やカメラの位置を工夫することで、微動だにしない死体の顔に表情を与えていく。あたかも、何かを考え意図しているかのように。これはやはり、生身の人間でなくては説得力が生まれなかったであろう。  初の英語作品となった本作で、シッチェス=カタロニア国際映画祭の審査員特別賞をはじめ、数々の映画賞に輝いたウーヴレダル監督。次回作は作家アルヴィン・シュワルツのベストセラー児童文学「Scary Stories to Tell in the Dark(真夜中に語る怖い話)」の映画化で、ギレルモ・デル・トロが製作と共同脚本を手掛けている。原作は古い伝承や都市伝説を基にした怪奇譚を集めた短編集だが、映画化版では小さな田舎町で起きる様々な怪事件の謎にティーンエイジャーたちが迫っていくことになるという。全米公開は’19年8月の予定。これを機にハリウッド・メジャーへの進出と相成るか、今から楽しみである。■ ©2016 AUTOPSY DISTRIBUTION,LLC ALL RIGHTS RESERVED

この記事を読む

“デ・ニーロ・アプローチ”してない問題と、初監督作の関係『ブロンクス物語/愛につつまれた街』

松崎まこと

 ロバート・デ・ニーロ。 『ゴッドファーザーPARTⅡ』(1974)で、アカデミー賞助演男優賞、『レイジング・ブル』(80)で、同じく主演男優賞を受賞。他にも『タクシー・ドライバー』(76) 『ディア・ハンター』(78)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)『恋に落ちて』(84)『アンタッチャブル』(87)『ミッドナイト・ラン』(88)等々、数々の名作・話題作に出演し、当代きっての“演技派”と謳われた。  彼の役作り、それは、演じる人物になり切るためには、体重の増減は当たり前。ある時はその人物が生まれ育ったと設定される土地に数か月暮らし、またある時はその人物の職業に就く等々、徹底したリサーチを行う。その手法は、“デ・ニーロ・アプローチ”と呼ばれ、世界中の俳優に影響を与えた。  我が国に於いては、かの松田優作が、“デ・ニーロ・アプローチ”に傾倒。代表作の1本『野獣死すべし』(80)では、減量の上に奥歯4本を抜いたのに飽きたらず、身長を低くするために足の切断まで考えたというエピソードがある。  現在のハリウッドで、“演技派”と呼ばれる存在の最右翼である、クリスチャン・ベール。アカデミー賞助演男優賞を受賞した『ザ・ファイター』(2010)はもちろん、『マシニスト』(04)から『バットマン』シリーズ(05~12)まで、その役作りの仕方は、正に典型的な“デ・ニーロ・アプローチ”と言えるだろう。  しかしある頃から、映画ファンの間では、こんな冗談というか軽口が、頻繁に飛び交うようになった。 「最近のデ・ニーロって、“デ・ニーロ・アプローチ”してないじゃん!」  ある頃…多分、1943年生まれのデ・ニーロが、アラフィフとなった1990年前後からだ。『ジャックナイフ』(89)『俺たちは天使じゃない』(89)『レナードの朝』(90)『アイリスへの手紙』(90)『グッドフェローズ』(90)『真実の瞬間』(91)『バックドラフト』(91)『ケープ・フィアー』(91)『ミストレス』(92)『ナイト・アンド・ザ・シティ』(92)『恋に落ちたら…』(93)『ボーイズ・ライフ』(93)と、70~80年代のデ・ニーロだったら考えられないようなペースで出演作が公開されていった。  こんなハイピッチで映画出演が続いたら、作品ごとに身を削って挑む必要がある筈の、“デ・ニーロ・アプローチ”など到底無理な話に思える。中には、『レナードの朝』や、名コンビであるマーティン・スコセッシ監督と久々に組んだ、『グッドフェローズ』などの秀作もあったが、その多くが凡庸な出来。デ・ニーロの起用自体が、「?」な作品も少なくなかった。  かつては、「五十年先になっても人々に語り継がれるような映画でなければ作りたいとは思わない」などと語った、デ・ニーロ。それなのに、なぜこんな事態が起こったかと言えば、この頃デ・ニーロには、「金を稼ぐ」必要が生じたからだと言われている。自らの映画製作プロダクションの実現に向けて、動いていたのである。  生粋のニューヨーカーである彼は、自宅近くに在る“トライベッカ”という地域に建物を購入。フィルム・センターと高級レストランを運営すると同時に、そこを拠点とした映画製作に乗り出した。  そしてデ・ニーロは、初めて監督作品を手掛けることとなる。それが本作『ブロンクス物語/愛につつまれた街』(93)である。  それでは、稀代の名優ロバート・デ・ニーロが、それまでに築いた評価を落としかねない振舞い=凡作への出演連発までして作り上げた本作は、一体どんな作品なのだろうか?  原作者は、俳優のチャズ・パルミンテリ。ニューヨークのブロンクスで生まれ育った、イタリア系アメリカ人の彼は、少年時代に目の前で男が撃たれるのを目撃しており、その経験をベースにして、ひとり芝居の戯曲を書き上げた。  主人公は、パルミンテリ本人が投影された、カロジェロという名の少年。彼は、実直で働き者のバス運転手の父ロレンツォと、カロジェロを我が子のように可愛がる、マフィアの幹部ソニーとの板挟みになって、悩みながら成長していく。  この戯曲は、パルミンテリ本人の主演で、1989年にロサンゼルスで初演。その後ニューヨークでも上演されて大評判となり、その映画化権の争奪戦が繰り広げられた。  結局パルミンテリ本人が、映画の脚本を書いて、マフィアのソニーを演じるなどの条件で、ユニヴァーサル・スタジオが契約。映画化に際してユニヴァーサルは、“スター”の出演が必要だと考えた。そこでアプローチを行った相手が、デ・ニーロだった。  デ・ニーロは、パルミンテリの舞台を見て、すぐに「映画にしたい」と考えて出演することを決めた。条件は、400万ドルの出演料に、歩合として興行収入から映画館への分け前を引いた後の額の10%。更には「報酬なし」で、監督まで引き受けることとなったのである。  主人公の父ロレンツォを演じながら、初監督に挑むことになったデ・ニーロ。「元々、監督業には興味があった。そしてこの話なら私には特別な事が出来ると思った。全ての意味で本作は、私の人生の集大成である」と語っている。  その意味は、本作を実際に鑑賞すると、すぐに理解できる。元々は原作者のパルミンテリ本人が投影されたキャラであったカロジェロに、ブロンクスではないが、やはりニューヨークで生まれ育ったデ・ニーロが、己の少年時代を見出していることが、あからさまにわかるからである。  カロジェロは、映画のオープニングは9歳、物語が進むと17歳の姿で登場する。それぞれ年齢に合わせた2人の少年が演じているが、その容貌がデ・ニーロ本人と重なる。特に17歳のカロジェロを演じたリロ・ブランカートは、驚くほどデ・ニーロにそっくりなのである。  リロは、「デ・ニーロに似た少年を探す」という命を受けたスタッフによって、海岸で遊んでいるところをスカウトされた。彼はスカウトの前で、デ・ニーロの物まねを演じてみせたという。父親役をデ・ニーロが演じているわけだから、似た少年をキャスティングするのは当たり前かもしれないが、それにしても…と思わせられる。  少年の成長譚に付き物というか、本作では、17歳のカロジェロの初恋も、キーポイントとなる。その相手となるのは、同じ高校に通うアフリカ系の少女。当時のニューヨークでは、イタリア系とアフリカ系はいがみ合っているように描かれており、それが悲劇を招く筋立てにもなるのだが、そこでつい思い起こしてしまうのが、デ・ニーロ本人の私生活。最初の結婚相手であるダイアン・アボットをはじめ、トゥーキー・スミス、ナオミ・キャンベルなど、デ・ニーロが浮き名を流したお相手は、軒並みブラック・ビューティなのである。  この作品は、完成直前に亡くなったロバート・デ・ニーロ・シニア、即ちデ・ニーロの父に捧げられている。画家だった父は、デ・ニーロが2歳の時に彼の母と別れ、ウチを出ている。  プライベートについて滅多に語ることがないデ・ニーロが、父についてどんな思いを抱いていたかは定かではない。しかし、父と子の物語の側面が強い本作で、息子に「才能を浪費することほど悲劇的なことはない」と語り、マフィアのソニーに憧れる息子に釘を刺す父ロレンツォを演じることによって、晩年は親密な仲だった実の父に対して、何かを訴えたかったのではないか?そんな推測も出来る。  デ・ニーロにとって、「人生の集大成」である本作は、製作過程でスケジュールに遅れが生じたことから、製作費が膨らんで、ユニヴァーサルが途中で手を引くこととなった。その原因となったのは、ロレンツォが運転する60年代型式のバスの故障など、撮影中に起こった幾つかのアクシデントにもあるが、やはり大きかったのが、デ・ニーロ演出。  原作者で本作の脚本とソニー役を担当したチャズ・パルミンテリ曰く、「監督する時も、演技をする時と同じやり方でアプローチするんだ。強迫観念と言えるほど細部にこだわった。決して満足しないんだ。完璧でなければならず、もし駄目だったら、何度も繰り返すことになるのさ」。そのためデ・ニーロは、本作のために新しいスポンサーを見付けた上で、自己資金も投入したという。  そして完成した『ブロンクス物語』は、手ぐすね引いて待ち構えていた批評家たちからの評判も上々で、監督ロバート・デ・ニーロの誕生は、多くの観客からも歓迎された。またギャングや殺人者が持ち役のように思われていた、演技者としてのデ・ニーロの新生面を開いたとも評価された。  当然監督としての次作も期待されたが、マット・デイモン主演で、CIAの秘史を暴いた監督第2作『グッド・シェパード』(2006)が完成するまでには、本作後13年の歳月を要した。これもまた、“完璧主義”のなせる業なのであろう。  そしてその間、出演作に関しては真逆に、「“デ・ニーロ・アプローチ”やってないじゃん」問題が、加速した感もある。  さて『グッド・シェパード』からも13年が経ち、70代も後半となった、我らがロバート・デ・ニーロ。そろそろ監督第3作を観たい気もする、昨今である。■ ©1993 Savoy Pictures, All Rights Reserved.

この記事を読む

ハリウッド版ヒロイック・ファンタジーの金字塔が映画界に与えた影響とは!? 『コナン・ザ・グレート』

なかざわひでゆき

 ボディビル界の伝説的スーパースター、アーノルド・シュワルツェネッガーを、一躍ハリウッド映画界のトップスターへと押し上げたジョン・ミリアス監督のアクション映画『コナン・ザ・グレート』(’82)。欧米では古くから「Sword and Sorcery(剣と魔術)」と呼ばれて親しまれたヒロイック・ファンタジーのジャンルを復活させ、超人的なマッスル・ボディを持つ新たなアクション俳優像を打ち立てた本作の制作秘話と、当時の映画界に与えた知られざる影響を振り返ってみたい。  ご存知の方も多いとは思うが、『コナン・ザ・グレート』の原作は、アメリカのパルプ・フィクション作家ロバート・E・ハワードが書いたヒロイック・ファンタジー小説『英雄コナン』シリーズである。そもそも、「Sword and Sorcery」という言葉自体が、『英雄コナン』シリーズに代表されるハワード作品群を形容するために生まれたものだ。魔法や怪物が存在した古代ハイボリア時代を舞台に、筋骨隆々の大男コナンが世界を股にかけた大冒険を繰り広げる。’32年に有名なパルプ雑誌「ウィアード・テールズ」に掲載された1作目が大評判となり、以降『英雄コナン』シリーズは全18作を数える人気小説となった。  ’36年に30歳の若さでハワードは死去したものの、その後に出版された未発表作や番外編、ハワードの遺したシノプシスを基に他者が仕上げた作品などを含めると、オフィシャルなシリーズは合計で28作に及ぶ。また、H・P・ラヴクラフトの「クトゥフル神話」よろしく、ハワードに影響を受けた他の作家による非公式シリーズ作も多数存在する。それらをひっくるめて、これまでに数多くのコナン作品集が編纂されてきたが、中でも’60年代末から’70年代にかけて出版されたランサー社およびエース社のペーパーバック版では、人気ファンタジー画家フランク・フラゼッタの描いた表紙イラストが話題を呼び、超人的に筋肉の発達した屈強なバーバリアン(野蛮人)、コナンのイメージを決定づけた。そして、このフラゼッタによるイラストこそが、映画『コナン・ザ・グレート』の原点となったのだ。  ‘76年のある日、友人エドワード・サマーと一緒に映画『鋼鉄の男(パンピング・アイアン)』(’77)のラフカット版試写へ招かれたプロデューサーのエドワード・R・プレスマンは、スクリーンに映ったボディビルダー、アーノルド・シュワルツェネッガーの存在感にスターの可能性を直感し、「彼で映画を撮るならどんな役がいいだろう?」とサマーに訊ねたところ、すぐさま「そりゃもちろんコナンだよ」との答えが返ってきた。当時『英雄コナン』シリーズを知らなかったプレスマンは、サマーから作品の説明を受けながらフラゼッタのイラストを見せてもらい、なるほど、確かにイメージにピッタリ合うと納得。これをきっかけにプレスマンは『英雄コナン』の映画化権を購入し、シュワルツェネッガーにも出演依頼を打診したものの、実際に撮影へ漕ぎ着けるまでには長い時間がかかってしまった。  当初の脚本を書いたのは、企画の立役者サマーとマーベル・コミックのライターだったロイ・トーマス。マーベルは『英雄コナン』シリーズのコミック版を出していたからだ。しかし、大作映画に相応しい有名脚本家を求めるスタジオの要請を汲んで、当時『ミッドナイト・エクスプレス』(’78)でオスカーに輝いたオリヴァー・ストーンが加わり、最終的にストーンの書いた脚本が採用される。しかし、4~5万ものミュータントの大群が戦う彼の脚本は、そのまま映画化することは現実的に不可能だった。さらに、肝心の監督探しも難航。アラン・パーカーやリドリー・スコットに次々と断られて途方に暮れていたところ、プレスマンと共同製作することになったイタリアの大物製作者ディノ・デ・ラウレンティスがジョン・ミリアスに白羽の矢を立てる。当時、ミリアスはラウレンティスと監督契約を結んでいたのだが、なによりも脚本家出身のミリアスなら演出だけでなく脚本のリライトも任せられることが決め手だった。まさに一石二鳥ですな(笑)。 『ダーティ・ハリー』(’71)シリーズの脚本で名を成し、「映画監督よりも将軍になりたかった」と公言する映画界の武闘派ミリアスと、ボディビルやボクシングにのめり込んだマッチョな小説家ロバート・E・ハワードによるヒロイック・ファンタジーは、ある意味で理想の組み合わせだったとも言えよう。ただし、ミリアスは原作者ハワードとはちょっと違ったアプローチを試みる。ストーリーからファンタジーの要素をなるべく排除し、セットや衣装のデザインに正確な時代考証に基づいた古代文明の要素を盛り込むことで、あたかもコナンが太古の世界に実在した人物であるかのような、歴史絵巻的なアクション大作として仕上げたのである。  舞台はアトランティス大陸が沈んでからアーリア人が勃興するまでの間の時代。ということは、少なくとも紀元前2千年紀(日本で言うと縄文時代後期)よりも以前の話ということか。幼少期に両親を殺され奴隷となったキンメリア人コナン(アーノルド・シュワルツェネッガー)は、長じて筋骨隆々の最強グラディエーターへと成長し、冒険の旅の途中で知り合った仲間と共に、親の仇である邪教の王タルサ(ジェームズ・アール・ジョーンズ)に立ち向かう。  この邪教というのが蛇を崇拝する古代宗教で、その神殿ではモンスターのように巨大な蛇に生贄を捧げ、タルサ大王自身も蛇に変身することが出来る。旅の途中では美しくも妖艶な魔女とも遭遇。『狼男アメリカン』(’81)の特殊メイクを模倣したタルサ大王の変身シーンや、実物大のメカニカルモデルを使用した大蛇との格闘シーンなど、ファンタジー的な見せ場も用意されているが、しかしあくまでもメインは、ミリアス監督が大好きな黒澤明監督作品などの日本映画に影響を受けた(「耳なし芳一」にインスパイアされたシーンもある)チャンバラ合戦的な肉弾アクションだ。1500人のエキストラを動員した巨大寺院シーンのスペクタクルも壮観である。  かくして、1982年2月にヒューストンで行われたスニーク・プレビューを皮切りに、世界中で封切られて興行収入7000万ドル近くの爆発的な大ヒットを記録した『コナン・ザ・グレート』。その半年後にはドン・コスカレリ監督の『ミラクルマスター/7つの大冒険』が公開されてヒットし、にわかにヒロイック・ファンタジー映画のブームが到来する。このトレンドを見逃さなかったのが、B級映画の帝王として名高い製作者ロジャー・コーマンである。  スニーク・プレビューの翌日に、新聞で『コナン・ザ・グレート』の批評記事を読んだコーマンはヒットを確信し、すぐさま便乗するべく当時宣伝部スタッフだったジム・ウィノスキーに1週間で脚本を執筆するよう指示。ジャック・ヒルに監督を任せ、3月にはメキシコで撮影を行い、なんと5月には全米公開してしまう。それが、両親を殺された古代の双子美女が宿敵である邪教の魔術師に復讐する映画『Sorceress』(’82・日本未公開)だ。空飛ぶライオンとお岩さんみたいな顔した邪教女神の生首が空中バトルを繰り広げるという、世にもけったいだが最高にいかしたB級映画で、こちらもまたスマッシュヒットを記録。これに味をしめたコーマンは、『勇者ストーカー』(’84)や『野獣女戦士アマゾネス・クイーン』(’85)を矢継ぎ早にヒットさせ、それぞれシリーズ化してガッツリと稼ぎまくる。  ほかにもアルバート・ピュン監督の『マジック・クエスト/魔法の剣』(’82)や、黒澤明の『用心棒』を下敷きにしたデヴィッド・キャラダイン主演の『SFカインの剣』(’84)などが登場。本家『コナン』シリーズも続編『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』(’84)や番外編『レッドソニア』(’85)が公開された。面白いのは、ブームに便乗した類似作品が、いずれも本家シリーズとは違って史劇要素よりファンタジー要素が強いこと。フランク・フラゼッタのイラストをパクったウルトラマッチョなヒーロー&ヒロインや巨大モンスターを描いたポスターデザイン、実際に蓋を開けてみると似ても似つかぬ体形の俳優やチンケな怪物が出てくるところなんかも一緒だ(笑)。そりゃそうだろう、シュワちゃん並みの筋肉俳優なんかそうそういるわけもないし、低予算のB級映画で本家『コナン』クラスの特殊効果は不可能である。  しかし、さらに興味深いのは、この『コナン・ザ・グレート』の時ならぬ大ヒットが、当時既に途絶えて久しかったイタリア産ヒロイック・ファンタジー映画のジャンルを復活させたことだろう。もともと、ハリウッドにおける「Sword and Sorcery」映画とは、どちらかというと中世ヨーロッパの「アーサー王伝説」をルーツにした剣劇アクションの色合いが強く、『コナン』シリーズのような古代世界を舞台に、半裸のマッチョヒーローが暴れまわるような作品は皆無に等しかった。最も近いのは『類人猿ターザン』シリーズだが、ご存知の通りターザンは剣とも魔術とも全く関係がない。むしろ、このジャンルの映画的な先駆者は、『ヘラクレス』(’58)を筆頭とするイタリア産ヒロイック・ファンタジーだったと言えよう。  もともとサイレント映画の時代から古代ローマを舞台にしたスペクタクル史劇がお家芸だったイタリア映画界では、当時から筋骨隆々の英雄マチステが大活躍する映画シリーズが大人気だった。やがて戦後の’50年代、スタジオシステムの崩壊に伴う人件費の削減で、ハリウッドの映画会社が『聖衣』(’53)や『トロイのヘレン』(’56)、『スパルタカス』(’60)などの史劇大作をローマのチネチッタ・スタジオで撮影するようになる。これで活気づいたイタリア映画界は、本家本元の意地を見せるかの如く『ユリシーズ』(’54)や『ロード島の要塞』(’61)といった国産スペクタクル史劇を次々と量産。そうしたブームの中から誕生したのが、神と人間との間に生まれた古代神話の英雄ヘラクレスを主人公にしたヒロイック・ファンタジー映画『ヘラクレス』だったのだ。  翌年公開されたアメリカでは、あのハリウッド超大作『ベン・ハー』(’59)にも匹敵する興行収入を記録した『ヘラクレス』。たちまち、イタリア映画界は古代のマッチョヒーローが大暴れするファンタジー映画で溢れかえる。旧約聖書の英雄ゴライアスがドラゴンや巨大コウモリと戦う『豪勇ゴライアス』(’60)、ヘラクレスが美しき姫を救い出すため魔界の妖怪やゾンビと戦うマリオ・バーヴァ監督の『ヘラクレス 魔界の死闘』(’62)、カルロ・ランバルディが実物大のドラゴンや妖怪メドゥーサの特殊効果を手掛けた『豪勇ペルシウス大反撃』(’63)などなど、’60年代半ばにマカロニ西部劇に人気を奪われるまで、数えきれないほどのヒロイック・ファンタジー映画がイタリアで作られたのである。  また、『ヘラクレス』で特筆すべきは主演のアメリカ人俳優スティーヴ・リーヴスだ。もともと、ミスター・アメリカやミスター・ユニバースなどのタイトルに輝く伝説的なボディビル・チャンピオンだったリーヴス。そう、彼こそがシュワルツェネッガーの大先輩に当たる、ボディビルダー出身映画スターの元祖なのだ。ハリウッド俳優としては鳴かず飛ばずだったリーヴスだが、イタリアへ招かれた『ヘラクレス』でたちまち国際的なトップスターに。すぐさま第二のスティーヴ・リーヴスを狙って、レグ・パークやマーク・フォレスト、ゴードン・ミッチェル、ミッキー・ハージティなどのアメリカ人ボディビルダーがイタリア映画界へ殺到したのである。ただ、リーヴスとミッチェル以外は筋肉だけが取り柄の大根役者だったため、マカロニ西部劇ブームが到来すると一斉にスクリーンから消え去ってしまった。  そして’80年代。『コナン・ザ・グレート』が世界中で大ヒットすると、イタリア産ヒロイック・ファンタジーの元祖ヘラクレスも華麗なる復活を遂げる。それが、ルー・フェリグノ主演の『超人ヘラクレス』(’83)だ。MGMの配給で世界公開されたこの作品は、批評家から大酷評されつつも興行的にはスマッシュヒットを記録して続編も登場。さらに、ヒロイック・ファンタジーにSFを融合させたジョー・ダマート監督の『世紀末戦士アトー/炎の聖剣』(’83)も、シリーズ通算4本が作られるほどのヒットとなった。そのほか、スペインとの合作『ハンドラ』(’83)やルチオ・フルチ監督の『SFコンクエスト/魔界の制圧』(’83)、アメリカの有名なボディビルダー兄弟バーバリアン・ブラザーズを主演に迎えた『グレート・バーバリアン』(’87)などなど、イタリア産のなんちゃって『コナン』映画が雨後の筍のごとく作られたというわけだ。  そんなわけで、ハリウッド映画における古代文明系ヒロイック・ファンタジーのジャンルを本格的に確立させ、とことんまでパンプアップした筋肉美が求められる現在のアクション映画スターの素地を作り、ついでにイタリア産マッチョ史劇映画の伝統まで一時的にせよ復活させた『コナン・ザ・グレート』。これがなければ、もしかすると『スコーピオン・キング』(’02)シリーズも作られなかったかもしれない…!?■ © 1981 Dino DeLaurentiis Corp. All rights reserved.

この記事を読む