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「エンスラポイド作戦」映画化作品4本の全容~『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』~

松崎まこと

 1942年5月17日、ナチス・ドイツのSS=親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒが、チェコスロバキアのプラハで襲撃されて重傷を負い、8日後の6月4日に死亡した。レジスタンスの力を借りて、ハイドリヒの暗殺計画「エンスラポイド(類人猿)作戦」を実行したのは、亡命チェコスロバキア軍人たち。亡命先のイギリスから、母国に潜入しての決行だった。  この顛末は確認出来る限りで、今までに4回映画化されている。フリッツ・ラング監督の『死刑執行人もまた死す』(1943)、ルイス・ギルバート監督による『暁の七人』(75)、そして本作、ショーン・エリス監督の『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』(2016)、更に今年1月には、セドリック・ヒメネス監督の『ナチス第三の男』(17)が日本公開されている。  この“暗殺作戦”が、かくも欧米のフィルムメーカーたちを惹き付けるのは、なぜであろうか?まずは、ナチの中でハイドリヒが占めていた位置がポイントと思われる。  ドイツ近現代史研究者の増田好純氏が著すところによれば、ハイドリヒは「ナチズムの暗面を象徴する存在」だったという。親衛隊のTOPであるハインリヒ・ヒムラーの片腕として、ゲシュタポ=秘密国家警察を含む警察組織を掌中に収め、アドルフ・ヒトラー総統の“敵”を、徹底的に排除することに努めた。それは時には、ナチ内部の粛清にも及んだ。  そんな中で、人種的・社会的マイノリティの迫害やユダヤ人の大虐殺にも大きく関与。それが、「絞首人」や「死刑執行人」、「若き死神」「金髪の野獣」など、様々な異名を取る所以である。  1941年9月には、ハイドリヒは、ドイツの支配下だったチェコスロバキアの事実上の総督に就任。当時高まりを見せていた抵抗運動の撲滅を図って、全土に戒厳令を布告し、弾圧を強化していった。  そんな「ナチズムの暗面を象徴する存在」の暗殺が、成功したわけである。ナチが席捲していたヨーロッパでは無理でも、既にドイツと交戦状態にあったアメリカで、すぐにそれを題材にした作品が作られたのも、むべなるかな。反ナチ・レジスタンスのプロバガンダ作品として、正に打ってつけのネタであったのだ。  そうして、“暗殺”の翌年にアメリカで公開されたのが、『死刑執行人もまた死す』である。当時のハリウッドには、このニュースを映画化するのに、格好の人材が揃っていた。  監督のフリッツ・ラングは、戦前のドイツ映画界きっての巨匠。ナチスの台頭後にアメリカに渡って、活躍していた。  原案・脚本は、やはりドイツからアメリカに亡命中だった、ベルナルド・ブレヒト。20世紀最大の戯曲家のひとりで、「三文オペラ」や「肝っ玉お母とその子供たち」などを著した、あのブレヒトである。音楽はブレヒトと亡命仲間の同志である、ハンス・アイクラ―が担当した。 『死刑執行人も…』は、実際にあった“暗殺”の顛末を、事細かに描いた作品ではない。この作品で“死刑執行人”ハインリヒを暗殺するのは、レジスタンスの闘士フランツ。架空の人物である。フランツは逃走中に、マーシャという女性に救われ、匿われる。  暗殺犯の行方をつかめないゲシュタポは、犯人を密告するか自首させないと、事件とは無関係な市民たちを無差別に殺していくと宣言し、弾圧を強める。匿ってくれたマーシャの老父も連れ去られ、フランツは苦悩するが…。  連行された市民たちが、毅然とした態度で処刑されていく描写。ドイツ軍と通じている裏切り者の男を、市民たちが一丸となって罠には嵌め、暗殺犯に仕立て上げていくサスペンスなど、見事な出来栄えである。  エンディングでは、「The End」ならぬ「NOT……The End」」という文字が画面に映し出され、今は戦時中で、自由を得るためのナチスとの戦いが、これからも続いていくことが表される。普遍的にも、素晴らしい作品と言える。  とはいえこれはやはり、戦争中にハリウッドのセットで撮られた、プロバガンダ作品。戦後しばらくすると、同じ“ハイドリヒ暗殺”の映画化でも、現実の舞台だったプラハでのロケを敢行した、ぐっとリアルな描写が施されるようになる。  先にフィルムメーカー達が、この題材に惹かれる理由として、ナチの中でハイドリヒが占めていた位置を挙げたが、ここでもう一つのポイントが浮上する。実際に行われた「エンスラポイド作戦」が、あまりにも壮絶で、悲劇的な色彩を帯びている点である。  戦後30年経って映画化された『暁の七人』では、暗殺を実行するのは史実通りに、イギリスに亡命していたチェコスロバキア軍人のヤン軍曹(演:ティモシー・ボトムズ)とヨゼフ曹長(アンソニー・アンドリュース)ら。  彼らはパラシュートで母国に潜入すると、レジスタンスと合流。潜伏生活の中で暗殺計画を練り、試行錯誤の上で、ハイドリヒが車で司令部に向かう道中を待ち伏せて襲うという、大胆な作戦を決行する。  ハイドリヒの殺害は見事に成功したものの、ナチは厳重な捜査網を敷いて、レジスタンスを血祭りに上げていく。そして更に、一般のチェコスロバキア国民に対する報復行為に踏み切る。標的となったのは、リディスという田舎町。男という男は、すべて銃殺刑に処され、女性や子どもは強制収容所へと送還され、町は全滅に至った。  一方、暗殺に成功したヤンとヨゼフら7人は、協力者である教会に隠れ、脱出の日を待っていた。しかし裏切り者の密告などで、ナチに包囲されてしまう。700人もの親衛隊と、壮絶な銃撃戦を行う7人だったが、1人また1人と倒れていく。最後に地下室に逃げ込んだヤンとヨゼフは、ナチの水攻めの中で、覚悟の自決を遂げるのだった…。 『暁の七人』から30余年を経て、改めて「エンスラポイド作戦」の全容を描いたのはが、本作『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』である。史実に基づく以上大筋は変えようがないが、『暁の七人』にはまだあった、戦争映画特有の作戦遂行までのワクワク感や成功後のカタルシスが、本作では大幅に削ぎ落されている。  ハイドリヒ暗殺に成功してしまえば、ナチの追及が強まり、無関係な市民への虐殺が行われるのは、あらかじめわかっている。そのためレジスタンスのメンバーの中には、ヤンとヨゼフへの協力に躊躇する者も出てくる。  また本作では、暗殺実行後の部隊が国外脱出することの困難さが、はじめから強調されている。ハイドリヒ暗殺が“片道切符の特攻作戦”の色が強かったことが、示唆されているわけだ。  様々なリスクを想定し、それが現実のものになるのを目の当たりにした上で、それでも実行すべき作戦だったのか? 『ハイドリヒを撃て!』では、観る者も問われていく。

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全編一人称視点の異色作『ハードコア』誕生の背景

尾崎一男

■『ストレンジ・デイズ』と共有されるエクストリームなPOV視点  2015年に製作されたロシア映画『ハードコア』は、 一人称視点によってストーリーが語られるアクションスリラーだ。最大の特徴としては、主人公の目線によって状況の推移を展開させていく「POV」のショットだけで構成されている。映画用語で一人称視点をPoint of View(ポイント・オブ・ビュー)、略してPOVと呼称するが、全編をこれで通した作品というのは革新的といっていいだろう。  とはいえ長い映画の歴史において、全編POVといった試みに前例がなかったわけではない。1947年、ハードボイルド小説の第一人者であるレイモンド・チャンドラーの原作を映画化した『湖中の女』は、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とする一人称物語のスタイルを、そのまま映像へと置き換えた実験作として知られている 『湖中の女』予告編 『ハードコア』の監督であるイリア・ナイシュラーは本作を参考のために観たと、オフィシャルのインタビューにて述懐しているが(*1)、極めて古典的ということもあってか、さほどインスピレーションの喚起にはならなかったとのこと。むしろ発想に大きな影響を与えたのは1995年製作のSF映画『ストレンジ・デイズ/1999年12月31日』(95)だと言明している。女性監督キャスリン・ビグロー(『ハートロッカー』(08)『デトロイト』(17))の手によるこの映画は、他人の五感を記録し、第三者に疑似体験させるバーチャル装置「スクイッド」をめぐって、元警官が陰謀に巻き込まれていく近未来サスペンス。冒頭の約3分30秒に及ぶPOVショットが見どころのひとつといっていい。車に乗った強盗団が現金を奪い、現場に駆けつけた警官を振り切ってビルの屋上へと移動。そして別のビルの屋上へと飛び越えていくまでのエクストリームな逃走POVは、まさに『ハードコア』の起点と解釈して相違ない。ビグローのキャリア初期を飾るこの傑作は、残念なことに日本では接する機会が極端に減ってしまっているが、『ハードコア』と併せて観ると、大胆なアイディアのネタ元が分かって面白い。 ■デジタル時代が可能にした難易度の高い撮影  しかし現実的な問題として、実績のない監督が、何の担保もなくこんな長編作品を撮れるはずもない。もちろん、そこには然るべきプロセスがある。ナイシュラー監督は2013年、『ストレンジ・デイズ』のテイストを引用し、自分が所属するインディーズバンドのプロモーションビデオ'Bad Motherfucker'をPOVで監督している。それがYouTubeで話題を呼び、世界的に注目されることによって、POVスタイルの長編映画化という流れへと行き着いたのだ。 Biting Elbows - 'Bad Motherfucker'  さいわいにも、時代はこうした大胆な挑戦に対して優しい環境となっていた。一昔前だと、POVスタイルを全編通してやる、という方針をつらぬこうにも、技術的な制約が難関となって立ちはだかる。フィルムだと感光のためにライティングを必要とし、照明機材の配置が欠かせず、激しい移動をともなうショットの撮影には向かない。またフィルムカメラは大型で機動性にも限界があり、根本的にフィルム撮影では難しい手法なのである。  しかし、やがて時代はフィルムからデジタルへと移行。フィルムから解放されたカメラは小型になり、また少ない光源でも充分な明るさが得られるようになったことから、堰を切ったようにPOVスタイルの作品が群発されていく。怪獣出現のパニックをカムコーダーごしに捉えた『クローバーフィールド/HAKAISHA』(08)や、ゾンビの増殖をカメラクルーの視点から捉えた『REC/レック』(07)などがその筆頭だろう。  ただ『ハードコア』はシューティング・スタイルのバトルゲームにも似た映像表現を用いることで、他の同系統の作品とは一線を画すものになっている。加えて編集もワンショット長回しによる構成を基本とし、観客と画面上における主人公との同化率をより高いものにしている。なによりPOVがインパクトを与えるだけのものではなく、作品のテーマや結末のサプライズに結びついていくのだから徹底されている(ただ非常にショッキングな残酷描写が多いので、鑑賞には一定の配慮と注意が必要だ)。  そのため『ハードコア』の撮影には特殊な撮影機器が用いられている。アクション用のカメラ「GoPro」をマスク形のヘッドリグに装着した、ウェアラブル(着用)型の特別仕様カメラが本作のために開発され(*2)、それをかぶったスタントマンを介して撮影が行われているのだ。また磁気的に画像を安定させる機能もマスクに追加され、デジタル合成などのマッチムーブへの配慮もなされている。劇中、上空から脱出ポッドで地上へと落下したり、カーチェイスになだれ込んで撃ち合いを始めるといったアクロバティックな展開は、こうした開発の賜物といえるだろう。  ところが、あまりにもスムーズなカメラの動きは観る者に違和感を与え、リアリティを欠落させるという懸念から、わざとショットに揺れを発現させる改良がほどこされた。余談だが、スタンリー・キューブリック監督のベトナム戦争映画『フルメタル・ジャケット』(87)は、この技術的な思想を共有している。同作では戦闘シーンの撮影において揺れを抑止し、スムーズな移動映像が撮ることのできるステディカムが用いられているが、激しい戦場を写し取るのにかえって臨場感を損ねるということから、性能の精度を落として撮影がなされたのである(*3)。   ■新規ジャンルに着手する革新派ベクマンベトフ  若き監督の非凡な才能によって生まれた『ハードコア』だが、なによりもこの映画を語る上で、同作のプロデューサーであるティムール・ベクマンベトフの存在をないがしろにはできない。彼の映画に対する一貫した姿勢と無縁ではないからだ。  ベクマンベトフはナイシュラーの演出した'Bad Motherfucker'を観て、即座にコンタクトをとり映画化を提案。その即決ぶりに驚かされるが、氏はわずか数分の短編を一見しただけで、ナイシュラーのポテンシャルを感じたのだという。いわく、 「従来の手法と異なる作品は、もとより相当のスキルがないとできない」(*4)  ナイシュラー監督同様、ベクマンベトフもプロモーションビデオ作家という前歴を持ち、またCMディレクターとしてロシアの広告の発展に貢献。自国で空前の大ヒットを記録したダークファンタジー『ナイト・ウォッチ NOCHINOI DOZOR』(04)を生み出すなど輝かしい経歴を持つ。加えて『ナイト・ウォッチ』では、映画スタジオの民営化によって乱立した小規模VFXプロダクションをまとめ、大きな作品をVFXを担当できるようにインフラを整理し、ロシア映画の娯楽大作化・大型化への轍を築いたのだ。また映画やテレビドラマの劇中に実在の商品や企業を映し出すことで広告収入を得る「プロダクト・プレイスメント」をロシアで初めて導入するなど、映画にリアリティとコストダウン効果をもたらしている。また近年においても、『アンフレンデッド』(14)と『search サーチ』(18)といった作品を世に送り出し、その革新性を強く示す形となった。両方ともにPC(パソコン)のモニター上だけで物語が展開するという、これまでの映画表現にない手法を持つものだ。 『ハードコア』は監督のスタイルや実験的な着想もさることながら、それに理解を示して積極的なサポートをし、世に送り出そうとするプロデューサーがいればこそ可能になった企画なのである。■ ©2016 STX FINANCING, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

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麻薬ではなく資金の流れを追え!米法執行史上最も成功した潜入捜査「Cチェイス作戦」を描く『潜入者』

なかざわひでゆき

 2019年現在、アメリカにおける麻薬戦争とは主に対メキシコのそれを意味するが、しかしかつてのアメリカにとって麻薬戦争の最大の敵はコロンビアにあった。もともと中南米からアメリカへの麻薬供給源はメキシコだったものの、現地政府の麻薬撲滅作戦が功を奏して生産量が激減したことから、’70年代にコロンビアの麻薬組織が台頭。その中でも圧倒的な勢力を誇ったのが、一時は世界7番目の大富豪にまで上りつめた帝王パブロ・エスコバルが君臨する中南米最大の麻薬組織メデジン・カルテルだった。  そのメデジン・カルテルの資金洗浄網の実態を暴き出し、麻薬帝国崩壊のきっかけを作った潜入捜査の実話を描いた映画『潜入者』。冒頭のテロップで、同カルテルが’80年代にアメリカへ密輸した麻薬が1週間あたり4億ドルに相当する15トンもあったこと、その大半がフロリダ南部から持ち込まれたことが記されているが、実際に当時のフロリダは麻薬の大量流入で治安が著しく悪化し、マイアミはニューヨークやロサンゼルスと並ぶ全米最大(というより最悪)の犯罪都市となっていた。まさしく、ドラマ『特捜刑事マイアミ・バイス』や映画『スカーフェイス』の世界だ。  主人公は実在のアメリカ関税局捜査官ロバート・メイザー(ブライアン・クランストン)。舞台は1985年のフロリダ州タンパ。日本人にはピンと来ない人も多いかもしれないが、タンパにはフロリダ州最大規模の貿易港があり、対南米の輸出入において重要な窓口となる。おのずと麻薬カルテルの活動拠点ともなるわけで、地元関税局に勤めるメイザーはメデジン・カルテルの壊滅を目指して日夜奮闘していたわけだ。  しかし、潜入捜査で捕まえるのは末端の密売人など小物ばかり。とてもじゃないが、今のやり方ではパブロ・エスコバルやドン・チェピのような組織のトップを狙うことは出来ない。そこで彼が考えついた作戦は、麻薬そのものを追うのではなく資金の流れを追うこと。なぜなら、組織が麻薬取引で得た違法な現金は、必ずどこかで洗浄するはずだからである。  名付けて「Cチェイス作戦」。Cは現金=キャッシュ(Cash)のC。「現金を追う」からCチェイスというわけだ。後に「アメリカの法執行史上最も成功した潜入捜査のひとつ」と呼ばれることになる作戦だが、そのあらましは意外とシンプル。資金洗浄の闇商売を請け負う悪徳ビジネスマンに扮したメイザーが、おたくの仕事も引き受けまっせ!と組織に接触してその輪の中へと深く潜入し、幹部との信頼関係を築いて違法な資金の流れを掴むのである。  とはいえ、もちろん作戦計画のディテールには細心の注意が必要。少しでも矛盾が生じれば相手に正体がバレてしまい、自分はおろか同僚や家族の命まで危険にさらすことになる。劇中では触れられていないものの、もともとメイザーは大学時代に連邦税の執行・徴収を担当する内国歳入庁(IRS)の情報局でアルバイトをしていた経験があり、その頃から潜入捜査のノウハウを学んできたという筋金入りのプロだ。しかしそんな彼でも、この「Cチェイス作戦」は長年のキャリアで最も困難な捜査のひとつだったという。  なにしろ、相手は全米はおろか世界中に情報網を持つ巨大な麻薬カルテル。潜入捜査に当局の影がチラついてはいけない。例えば、偽りの身分で銀行口座ひとつ作るにしても、関税局に任せず自分自身で直接銀行へ出向いて手続きをすることが肝心。なぜなら、あらゆるところに組織のスパイや協力者がいるため、その気になれば簡単に調べがついてしまうからだ。もちろん、当局の監視が付けばすぐに見破られる。なので、少なくとも相手と接触している間は味方のバックアップは期待できない。まさに、孤立無援の状態で臨まねばならないのである。  さらに言えば、潜入捜査官は俳優ではない。要するに完全な別人を演じることは出来ないのだ。あくまでも捜査官本人のプロフィールを土台とし、そこに脚色を加えることで他人のふりをするのが潜入捜査の基本だと、メイザーはインタビューで語っている。この「Cチェイス作戦」の場合だと、彼は自分と同じイタリア系で年齢も近く、イニシャルが同じなのでサインを間違えずに済むボブ(=ロバート)・ムセラという実在した故人のアイデンティティを拝借し、同僚のエミール・アブレウ(ジョン・レグイザモ)や元囚人の協力者ドミニク(ジョセフ・ギルガン)の助言を得ながら、裏ビジネスを含む多角経営で巨万の富を得た成金ビジネスマンという架空のキャラクターを作り上げていったのだ。  裏社会の人間らしい仕草や言葉遣いを駆使してボブ・ムセラになりきるメイザー。しかし根本的な人間性までは変えられない。それゆえ、カルテル関係者との接待の場で女性をあてがわれるという想定外の事態に直面した彼は、つい「自分には婚約者がいるから浮気は出来ない」とキャラ設定にない発言をしてしまう。愛妻家の良き家庭人である彼は、たとえ職務とはいえ妻を裏切ることは出来なかったからだ。結果的に、婚約者役の女性捜査官キャシー(ダイアン・クルーガー)をミッションの心強いパートナーとして得ることが出来たのは幸いだったのだが。  ちなみに、ボブ・ムセラという架空のキャラを演出するために、メイザーは巨大なオフィスや豪華な邸宅、ロールス・ロイスやジャガーなどの高級車にプライベート・ジェットなどを用意した。ただ、その全てを関税局の予算でまかなうことは不可能だったため、劇中で描かれているように裕福な知人からオフィスなどは借り受けたそうだ。また、映画ではあっという間に潜入捜査が始まったような印象を受けるが、実際は半年以上をかけて綿密に下準備を行ったという。そもそも、この「Cチェイス作戦」自体が5年の歳月をかけて遂行されたものだった。  このように、潜入捜査の巧妙な作戦テクニックと駆け引きのスリルに目を奪われる本作。世界78か国に支店を持つ大手銀行BCCI(国際商業信用銀行)が思いがけず餌に食いつき、彼らが裏社会の資金洗浄に大きく関わっていたことが明るみになっていく過程なども実に面白い。「私たちの言っている意味、お分かりですよね?」などと、遠回しに取引を持ち掛けてくる辺りのやり取りはなんとも絶妙で、メイザーならずとも「うおっ!棚ボタで大物が引っ掛かりやがった!」と内心小躍りしてしまうこと必至だ。しかし、それに輪をかけて引き込まれるのは、犯罪の世界に身を沈めていかねばならない当事者の心理描写である。  潜入捜査のプロとはいっても一介の国家公務員。普段の平凡で平和な日常とはまるで異質な、暴力とドラッグとセックスにまみれた裏社会に身を置かねばならなくなるわけだから、その精神的なストレスは我々素人の想像を絶するものがある。任務の合間に妻子の待つ我が家へ戻ったメイザーが感じる、二重生活者ならではの虚無感や焦燥感は生々しい。しかも、演じているのがブライアン・クランストン。おのずと、平凡なダメ亭主と麻薬王の二つの仮面を持つドラマ『ブレイキング・バッド』の主人公ウォルターとイメージが重なって説得力が増す。これぞキャスティングの妙である。  そして、麻薬カルテルの輪の中に深く潜入することで、メイザーやキャシーはターゲットである犯罪者たちに感情移入していくことになる。これこそが本作最大のハイライトと言えるだろう。ある一面では確かに彼ら(カルテル幹部)は非道な悪人だが、しかし同時に良き夫や良き父親など善人の側面も持ち合わせている。仕事が麻薬密売や殺人などの犯罪行為ということを除けば、ある意味で普通のビジネスマンとあまり変わりないのだ。そんな彼らを巧みに騙して心を開かせ、その信頼と友情を利用して罠にはめ、最終的には逮捕しようというのだから、少なからず良心の呵責を覚えてしまうのは致し方ないだろう。  それもまた仕事の一部だというメイザーは、潜入捜査官には「白と黒」、「イエスとノー」の区別がハッキリとしたメンタリティの持ち主が向いているとインタビューで語っている。つまり、グレーゾーン的な思考にとらわれることなく、目的を成し遂げるために何が正しくて何が間違っているのかを明確かつ瞬時に判断できる「割り切り力」が必要とされるわけだ。なにしろ、金や女の誘惑も多い世界に身を投じるのだから、ブレることなく職務を全うするためには割り切るしかないのだろう。それだけに、クライマックスの一斉検挙は痛快であると同時に一抹のほろ苦さも漂うのだ。  なお、劇中ではメイザーがメデジン・カルテルの運び屋だったバリー・シール(マイケル・パレ)と接触するが、これは映画化に際して加えられたドラマチックなフィクション。また、冒頭で潜入捜査中のメイザーの胸に仕掛けられた盗聴器が焼けてしまうシーンも、原作本では言及されていない。  かくして、メデジン・カルテルの資金洗浄網を暴いて大物幹部を検挙し、大手銀行BCCIの悪事をも白日のもとにさらした「Cチェイス作戦」。その後、コロンビアの麻薬カルテルは衰退の道をたどることになるわけだが、しかし現在も麻薬戦争は場所や形を変えて継続しており、あえてどことは言わないが、たびたびニュースで報じられている通り犯罪組織の資金洗浄に加担する銀行も後を絶たない。それはまるで、終わりなき戦いのようだ。■ ©2016 Infiltrator Films Limited

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〜『ファンタズム』シリーズ〜 ザ・シネマでの全シリーズ連日放送は、熱心なファンにしか許されない40年の時を超えた恐怖と冒険と感動を味わえるチャンス!

なかざわひでゆき

『エルム街の悪夢』シリーズや『13日の金曜日』シリーズに比べるといささか地味だが、それでもなおカルト映画として世界中で根強い人気を誇る『ファンタズム』シリーズ。30万ドルの低予算で製作された記念すべき第1弾『ファンタズム』(’79)は、『悪魔のいけにえ』(’74)や『ハロウィン』(’78)といったインディペンデント系ホラーがメジャー級の大ヒットを飛ばす’70年代の時流に乗って、興行収入1100万ドルを超える大成功を収めた。とはいえ、その後40年近くの長きに渡って続編が作られることになろうとは、監督のドン・コスカレリ自身も想像していなかったに違いない。  もともと地元カリフォルニアのロングビーチで学生映画を撮っていたコスカレリ監督は、映画仲間クレイグ・ミッチェルとのコンビで、平凡な若者とその弟の悩み多きままならぬ青春を描いた『誰よりも素敵なジム』(’75)で劇場用映画デビューを果たす。撮影当時のコスカレリはまだ18歳。製作費はミッチェルとそれぞれの両親から借金した。なかなか買い手が見つからなかったものの、コスカレリの父親の知人だったロサンゼルス・タイムズの映画批評家チャールズ・チャンプリンがラフカット版を見てユニバーサルに推薦し、素人が撮った自主製作映画にも関わらずメジャー公開されるという幸運に恵まれる。  続いて、12歳の少年たちの平凡だがキラキラとした日常を鮮やかに切り取った青春映画の佳作『ボーイズ・ボーイズ/ケニーと仲間たち』(’76)を20世紀フォックスの配給で発表したコスカレリ監督は、少年時代から大好きだったというホラー映画の製作に着手する。前2作が高い評価のわりに興行成績が奮わず、ホラー映画ならば当たりが狙えるという目算もあったという。それが父親や知人からの借金で自主制作した低予算映画『ファンタズム』だった。  舞台はアメリカのどこにでもある風光明媚な田舎町。異次元からやって来た邪悪な葬儀屋トールマン(アンガス・スクリム)が、町の住民を次々と殺してはドワーフ型のゾンビに変えていく。いちはやく異変に気付いた13歳の少年マイク(マイケル・ボールドウィン)は、年の離れた兄ジョディ(ビル・ソーンベリー)やその親友レジー(レジー・バニスター)と共に、トールマンを倒すべく果敢に立ち向かっていくこととなる。  コスカレリ監督自身が見た悪夢を映像化したという本作。夢と現実が錯綜する摩訶不思議なストーリーに明確な説明はない。そのシュールリアリスティックな語り口はルイス・ブニュエルやジャン・コクトーを彷彿とさせ、ショッキングでスタイリッシュなイメージの羅列はダリオ・アルジェントの影響も如実に伺わせるが、しかし作品全体を覆うジューヴァナイルなセンチメンタリズムは、それまでのコスカレリ監督作品の確かな延長線上にあるものと言えよう。 『ボーイズ・ボーイズ/ケニーと仲間たち』と同じく10代前半の少年の目を通して世界を見つめる本作では、『誰よりも素敵なジム』の大学生ジムが父親の虐待から幼い弟ケリーを守ろうとしたように、ミュージシャン志望の若者ジョディが邪悪な大人トールマンの魔手から年の離れた弟マイクを守ろうとする。ジョディとマイクは両親を交通事故で失ったばかりだが、両親からネグレクトされたジムとケリーもまた親がいないも同然の孤独な兄弟だった。ある意味、『誰よりも素敵なジム』と『ボーイズ・ボーイズ~』、そしてこの『ファンタズム』は、精神的な部分で連なる三部作の様相を呈しているとも考えられるだろう。  そのうえで本作は、ストーリーなきストーリーに主人公マイクの揺れ動く複雑な心情を投影する。愛する両親を一度に失い、唯一の肉親である兄ジョディもまた、町を出てひとり立ちしようとしている。思春期の多感な少年が人生で初めて直面する喪失感、このまま一人ぼっちになってしまうのではないかという不安感、そしてまだ子供であるがゆえの無力感。それらをひとまとめにした象徴が、得体の知れない悪魔トールマンなのである。  誰もが少なからず身に覚えのある、成長期の漠然とした不安や恐怖を想起させる。それこそが、どちらかというと難解な内容でありながらも、多くのファンが『ファンタズム』に魅了される最大の理由であろう。しかし、その後の続編はちょっとばかり違った方向へと舵を切る。  大手ユニバーサルの出資で製作された第2弾『ファンタズムⅡ』(’88)は、’80年代当時のホラー映画ブームを意識した純然たるエンターテインメント作品に仕上がった。なぜなら、ユニバーサルがそれを求めたからである。  ストーリーは逞しい青年に成長したマイク(ジェームズ・レグロス)と相棒レジー(レジー・バニスター)が宿敵トールマン(アンガス・スクリム)を倒さんと各地を巡るロードムービーへと変貌し、『エルム街の悪夢』のフレディばりに神出鬼没なトールマンや前作でも強烈な印象を残した空飛ぶ殺人銀球「シルバー・スフィア」のパワーアップした恐怖が強調され、大量の火薬を使った爆破シーンやガン・アクションがふんだんに盛り込まれた。マーク・ショストロムがデザインし、弟子のロバート・カーツマンやグレッグ・ニコテロが造形した派手な特殊メイクの数々も見どころだ。  まあ、確かに続編とはいえ半ば別物のような作品だが、しかしここではヒロイック・ファンタジー『ミラクルマスター/七つの大冒険』(’82)でも披露した、コスカレリ監督の娯楽映画職人としての実力が遺憾なく発揮されている。もちろん賛否はあるだろう。ユニバーサルの要求で、マイク役を当時売り出し中の若手イケメン俳優ジェームズ・レグロスに変更させられたことも残念だ。それ以外にもスタジオからの横やりは多く、コスカレリ監督としては少なからず不満も残ったという。しかしそれでもなお、シリーズ中では最も単純明快なB級ホラー映画として十分に楽しめる。  続く『ファンタズムⅢ』(’94)でもそのエンタメ路線は引き継がれるが、製作元がメジャーからインディペンデントへと戻ったこともあり、コスカレリ監督の好きなように作られているという印象だ。なによりも、マイク役に1作目のマイケル・ボールドウィンが復活したこと、ビル・ソーンベリー演じる兄ジョディも再登板したことの効果は大きい。本作からシリーズ随一の愛されキャラ、レジー(レジー・バニスター)が実質的な主人公となり、旅の途中で出会った女戦士ロッキー(グロリア・リン・ヘンリー)や「ホームアローン」少年ティム、そして今やシルバー・スフィアと化したジョディがタッグを組み、トールマン(アンガス・スクリム)に狙われるマイクを救おうとする。  過去作で散りばめられた謎の真相を本作で明かすことを試みたというコスカレリ監督。その言葉通り、トールマンの目的やドワーフたちの正体、シルバー・スフィアの仕組みなどが解明され、いわば「ファンタズム・ワールド」の全体像がおぼろげながらも見えてくる。といっても、みなまでを詳細に語らず観客に想像の余地を残すところはコスカレリ監督ならではと言えよう。夢と現実の交錯するシュールな語り口も、原点回帰を如実に実感させて嬉しい。  しかしながら、真の意味で『ファンタズム』の原点に戻ったのは、次の『ファンタズムⅣ』(’98)である。トールマン(アンガス・スクリム)にさらわれたマイク(マイケル・ボールドウィン)を救うべく、レジー(レジー・バニスター)とスフィア化した兄ジョディ(ビル・ソーンベリー)が行方を追うわけだが、ここでは第1作目の未公開フィルムをフラッシュバクとして効果的に多用することで、失われた時間や過ぎ去った思い出に対する深い郷愁と万感の想いが浮き彫りにされていく。さらに、かつては善人だったトールマンの意外な過去を描くことで、必ずしも思い通りにはならない人生や運命の悲哀が強調されるのだ。  かつて13歳の美少年だったマイクもすっかり大人。レジーやジョディに至っては立派な中年だ。みんなもはや決して若くはない。静かに忍び寄る老いを前にした彼らの後悔と不安、そして来るべき苦難の道など想像もしなかった平和な過去へのノスタルジーが、トールマンとの終わりなき戦いの日々を通して描かれていく。30年前の幼きマイクと若きレジーの、まるで波乱の未来を予感したような複雑な表情で幕を閉じるクライマックスは、1作目から追いかけてきたファンならば涙なしに見ることは出来ないだろう。これは、『ファンタズム』と共に大人へと成長してきた大勢のファンへ対する、コスカレリ監督からの真心のこもったラブレターである。  そして、それから18年の歳月が経ち、老境にさしかかったコスカレリ監督が自らの「死生観」を投影した作品が『ファンタズムⅤ ザ・ファイナル』(’15)である。ここで彼は初めてレジー(レジー・バニスター)を単独の主人公に据える。もちろんマイク(マイケル・ボールドウィン)やジョディ(ビル・ソーンベリー)、トールマン(アンガス・スクリム)も登場するし、1作目のラヴェンダーの女(キャシー・レスターの美魔女ぶりに驚嘆!)や3作目のロッキー(グロリア・リン・ヘンリー)も再登板。しかし、物語はあくまでも年老いたレジーの視点から語られていく。  相変わらずトールマンを倒してマイクを救うための旅を続けていたレジー。しかし、ハッと目を覚ますとそこは病院で、自分が痴呆症と診断されて入院していることをマイクに告げられる。トールマンとの戦いも何もかも、彼がマイクに語って聞かせた妄想だという。しかし再び目を閉じると、トールマンによって崩壊した世界の真っただ中で、レジーはマイクと共に武器を手にして戦っている。どれが夢でどれが現実なのか全くわからない。その混沌を通して、限りある人間の生命と肉体の儚さ、それでもなお前へ進むことを諦めない精神の不滅が描かれるのだ。  病床に臥したレジーをマイクとジョディが囲むシーンはまさに胸アツ。1作目と同じキャストが演じているからこその、人生と時間の重みをまざまざと感じさせる。ここまで来ると熱心なファン以外は完全に置いてけぼりなのだが、もちろんそれで全く構わない。むしろこの感動を味わえるのは、1作目から熱心に追いかけてきたファンのみに許された特権であり、そういう自己完結したガラパゴス的な映画があってもいいと思うのだ。  この『ファンタズムⅤ ザ・ファイナル』を最後に、トールマン役のアンガス・スクリムが急逝。正真正銘のファイナルとなった。振り返れば、アンガスはコスカレリ監督のデビュー作『誰よりも素敵なジム』(ロリー・ガイ名義で出演)以来の付き合い。レジー役のレジナルド・バニスターもそうだ。マイク役のマイケル・ボールドウィンは『ボーイズ・ボーイズ/ケニーと仲間たち』からの常連。ジョディ役のビル・ソーンベリーだけは『ファンタズム』1作目が初参加だったが、それでもなお40年近く付き合ってきたことになる。『ファンタズム』シリーズはドン・コスカレル監督のみならず、その仲間たちにとってもライフワークだった。その時を超えた恐怖と冒険と感動を、ザ・シネマの全シリーズ連日放送で味わえるのは誠に贅沢だと言えよう。◼︎ © 1988 Starway International, Inc.

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チリを舞台にした小説が、“伝説”のイタリア映画になるまで〜『イル・ポスティーノ』〜

松崎まこと

「友である故マッシモに捧げる」  本作『イル・ポスティーノ』の終幕、エンドロール前にこのようなクレジットが挿入される。マイケル・ラドフォード監督が、本作の主演男優にして共同で脚色を手掛けた、マッシモ・トロイージに捧げた献辞である。  そしてこの簡潔な献辞こそが、本作を“伝説”へと、昇華させたとも言える…。 『イル・ポスティーノ』は、1994年に撮影され、その年の「ヴェネチア国際映画祭」オープニングを飾った後、製作国イタリアでヒット。翌95年にはアメリカでも公開となり、大きな話題となった。  その年度の「アカデミー賞」では、作品賞、監督賞、主演男優賞、脚色賞、オリジナル音楽賞の5部門にノミネートされるという、外国作品としては異例の高評価を獲得。結果的にルイス・バカロフのオリジナル音楽に、オスカーが贈られた。  そして96年5月に、日本公開。我が国でも、多くのファンを得た作品である。  イタリア南部ナポリの小さな島が舞台の本作の主人公は、30歳の青年マリオ。漁師の父親の後を継ぐ気もなく、今時で言えば“ニート”のような生活を送っている。  彼の暮らしを大きく変えたのは、高名な詩人パブロ・ネルーダとの出会い。ネルーダはその政治的な姿勢のために母国を追われたが、支援者の尽力で、妻マティルデと共に、この島に居を構えることとなったのだ。  ネルーダの元には、世界中から山のようなハガキや封書が届く。そのため、局長1人で運営されている島の郵便局では、人手が足りなくなり、彼の元に郵便物を運ぶ“配達員”を雇い入れる必要が生じた。  自前の自転車を使用するという条件も合って、マリオは首尾よく、その仕事を手に入れ、毎日ネルーダ邸に通うようになる。当初は郵便を届けては、幾ばくかのチップを受け取るだけの関係だったが、マリオがネルーダの著書を手に入れ、詩について質問をしたことがきっかけとなり、2人は徐々に親しい間柄になっていく。  そんな時マリオは、酒場に勤める美女ベアトリーチェに一目惚れ。恋の成就のため、詩人に協力を求めるのだが…。  アントニオ・スカルメタという、チリの小説家の作品を原作とする本作は、ベースとなる展開は原作に基づいているが、映画化に当たって大きく改変した箇所がある。一つは、原作では1960年代後半から70年代前半に掛けてのチリだった舞台を、1950年代初頭のイタリア・ナポリの小さな島に移したこと。そして原作では17歳の少年だったマリオを、30歳の青年に変えたこと。  映画化は、イタリアの監督・俳優であるマッシモ・トロイージが、原作に惚れ込んだことに始まる。彼は友人のイギリス人監督、マイケル・ラドフォードに協力を頼み、2人で映画化を進めることとなった。 1953年生まれのトロイージは、撮影時には40歳を過ぎており、さすがに17歳のマリオを演じるのは、無理。そのため、マリオの年齢は、30歳ということになった。  しかし、フランスの名優フィリップ・ノワレが演じたパブロ・ネルーダは、チリ出身の実在の人物。しかも“ノーベル文学賞”を受賞するなど、世界的に知られた存在である。  物語が展開する、時代背景や場所を移すことが可能だったのは、ネルーダが歩んだ軌跡にある。詩人であると同時に、外交官で共産党員の政治家であったネルーダは、時のチリ政府に睨まれたため、1949年2月に母国を脱出。以降、3年半に及ぶ亡命生活を余儀なくされる。  逮捕状が取り下げられ、彼がチリに帰るのは、52年8月のこと。実はその前の51年頃に、彼が仮の住まいとして身を寄せたのが、ナポリ湾に浮かぶカプリ島だったのである。  こうして、“チリ”の作家が書いた小説の舞台を“ナポリ”に移して、“イギリス人”が監督する“イタリア映画”が作られることになったわけである。  本作の魅力は、繊細ではあるが、無知な怠け者でもあったマリオが、ネルーダと出会い、“詩”の素晴らしさに目覚め、同時に“恋”を知り、成長していくところにある。共産主義者のネルーダの影響を受けて、“労働者”としての自覚が生まれたことが、彼に思わぬ悲劇をもたらしてもしまうのだが…。  そんなマリオを演じたのが、マッシモ・トロイージ。映画化に取り掛かった時、トロイージの身体は重大な疾患を抱えていた。医者からは即時の心臓移植を勧められていたが、彼は映画製作を優先した。 「映画は僕の生命。僕が新しい心臓を持つ前に、古い心臓をこの作品にあげるんだ」と語っていたというトロイージだったが、やはり無理は利かない。ほぼ出ずっぱりにもかかわらず、彼の身体は1日2時間しか撮影に耐えられなかった。  そうして、日々衰弱していくトロイージに接して、ラドフォード監督は1日の撮影が終わる度に、「明日はあるのだろうか?」と心配したという。そんなトロイージを支えたのは、『イル・ポスティーノ』に掛けた、こんな熱い想い。 「僕らは、息子たちが自慢できるような映画をつくろうとしているんだ」  そして、4か月に及ぶ撮影期間が終わる、クランクアップの瞬間、トロイージはラドフォードに言った。 「ごめんよ、僕は君に全部をあげられなかった。この次は全部あげるからね」  ラドフォードは、思わず涙したという。 …撮影が終わって12時間後、トロイージは、心臓発作を起こして、帰らぬ人となった。それ故の献辞が、「友である故マッシモに捧げる」なのである。  さてここで、原作及び実在のパブロ・ネルーダについて触れたい。原作の舞台は、1960年代後半から70年代前半のチリということは述べたが、それはそのまま現実のチリの時勢とネルーダの運命に重ね合わせられている。  原作でのネルーダは、マリオの恋を加勢する中で、チリ共産党から大統領候補へと指名され、選挙運動へと突入していく。これは実際に、1969年に起こった出来事である。  翌70年、「チリ人民連合」の統一候補にサルヴァトール・アジェンデが指名されると、ネルーダは立候補を取り下げて支援に回り、その年の9月にアジェンデ大統領が誕生。これは世界史上で初めて、合法的な選挙によって“無血”で誕生した、社会主義政権であった。  71年にノーベル文学賞とレーニン平和賞を受賞したネルーダは、72~73年にはチリのフランス大使としてパリに赴任。アジェンデ政権の外交を支える一員となる。  73年3月、アジェンデ政権は国会議員選挙でも国民の支持を得て、圧倒的な勝利を収めた。しかしその年の9月11日、中南米に社会主義政権が存在することを快く思わないアメリカが介在して、軍事クーデターが発生。アジェンデ大統領は自殺に追い込まれ、チリはクーデターの首謀者である、アウグスト・ピノチェト将軍による軍事独裁政権の時代へと、突入していく。  その時ネルーダは、癌を患いフランス大使を辞しており、チリに帰国して静養中。アジェンデ政権崩壊と共に、当局によって軟禁状態となる。そして9月24日、ネルーダは失意の中で心臓発作を起こし、69年の生涯の幕を閉じる。  チリではその後、ピノチェトによって“左派”が徹底的な弾圧を受け、数多くの者が拉致されては虐殺されたり、行方不明となった。原作では、ネルーダと親しくて共産党員となっていたマリオも権力側に連行されて、そのような運命を辿ることが暗示される…。  映画化を主導したトロイージは、映画版の舞台となったナポリの出身。この地はかねてからイタリア国内では失業率が高く、「イタリア共産党」への支持も強い地域であった。  もちろん映画版には、原作ほどの政治的エッセンスは感じられない。しかしトロイージが、常に「人民の側の詩人」であったネルーダが重要な役割を果たすこの原作に惹かれ、己の生命を賭してまで映画化を進めたのには、ある種の“共感”があったであろうことは、想像に難くない。 「僕らは、息子たちが自慢できるような映画をつくろうとしているんだ」  映画版のマリオが辿る運命、そしてトロイージ自身に訪れた“死”。かくて『イル・ポスティーノ』は、“伝説”の映画となった。■ ©1994 CECCHI GORI GROOUP. TUTTI I DIRITTI RISERVATI.  

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