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「シネマ解放区」ラインナップのうち、ザ・シネマが独自の視点で特に推薦する“お宝作品”について、他では見れないプロによる解説や評論をつけたスペシャルコラムを毎月連載中!

反ナチスに身を捧げた女性闘士ジュリアは本当に存在したのか、それとも…!?『ジュリア』

なかざわひでゆき

「反骨の劇作家」とも呼ばれたアメリカの女流劇作家リリアン・ヘルマン。’30年代に『子供の時間』や『子狐たち』といったブロードウェイの舞台戯曲を大ヒットさせて有名人となり、『ラインの監視』(’40)や『逃亡地帯』(’66)など映画の脚本家としても活躍。『子供の時間』は『噂の二人』(’61)として、『子狐たち』は『偽りの花園』(’42)として映画化もされた。そんな彼女の名声を一層のこと高めたのが、1952年5月21日に開かれた下院非米活動委員会の公聴会で読み上げた声明文だ。  第二次世界大戦前の一時期アメリカ共産党に加入し、ソビエトのスターリン政権を強く支持していたリリアン。長年のパートナーであるミステリ作家ダシール・ハメットも共産党員で、労働者運動や公民権運動の熱心な活動家だった。なので、おのずと赤狩りの時代になると反米的な要注意人物としてマークされ、下院非米活動委員会の公聴会へ呼び出されることとなる。友人・知人の共産主義者を告発しろというのだ。しかし、リリアンはこれを断固として拒否。「たとえ自分を守るためでも友人を売り渡すことは出来ない」「社会の風潮に迎合して良心を捨てることは出来ない」との声明文を読み上げたのだ。その結果、ハリウッドのブラックリスト入りし、しばらく映画界での仕事を出来なかったリリアンだが、一方でその高潔で勇気ある行動により、多くの人々から尊敬を集めることとなった。まあ、そもそも彼女の主戦場はブロードウェイの演劇界であるため、ハリウッド映画界のブラックリスト入りはさほど大きなダメージでもなかったのだが。 そんな女傑リリアンは、生涯で3冊の自伝本を出版している。『未完の女』(‘69年刊)、『ペンティメント(邦題:ジュリア)』(‘73年刊)、そして『眠れない時代』(’76年刊)だ。その中の『ペンティメント』は、リリアンが自らの人生で出会った様々な人々についての想い出を綴った短編集。そこに登場したリリアンの幼馴染とされる女性ジュリアのエピソードを映画化したのが、巨匠フレッド・ジネマン監督のアカデミー賞3部門受賞作『ジュリア』(‘77)だった。ここであえて「とされる」と表現したことの意味は、後ほど詳しく説明させて頂こう。  物語の舞台は1930年代。同居する恋人ハメット(ジェイソン・ロバーズ)の勧めで戯曲を書き始めたリリアン(ジェーン・フォンダ)だが、スランプに陥って執筆がなかなか進まなかった(当時のリリアンは映画会社MGMで、映画化候補の小説や文学のあらすじを要約する仕事をしていた)。そんな彼女が思い出すのは、幼なじみの大親友ジュリア(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)のこと。大富豪の令嬢として生まれ育ったジュリアは、少女時代から聡明で知的で意志が強く、引っ込み思案なリリアンにとって憧れの女性像そのものだった。  長じてイギリスのオックスフォード大学で医学生となったジュリアは、労働者の人権や貧困などの社会問題に強い関心を持つようになり、やがてフロイトに学ぶためウィーンの医大へ転入すると反ナチスの地下運動に傾倒していく。一方、ハメットの勧めで作品を仕上げるためパリへ赴いたリリアンは、そこでジュリアの医大がナチスに襲撃されて多数の死傷者が出たとの報道を知り、急いでウィーンへと駆け付ける。そこで彼女が見たのは、大怪我をして病院のベッドに横たわるジュリアの姿。ところが、すぐにジュリアは手術のため病院から移送され、そのままプッツリと消息を絶ってしまった。  その後、戯曲『子供の時間』の大ヒットで一躍有名人となったリリアンは、モスクワで開催される演劇祭へ招待され、パリからウィーン経由でソビエト入りすることとなる。ところが、パリのホテルでジュリアの同志ヨハン(マクシミリアン・シェル)がリリアンに接触し、経由地をウィーンではなくベルリンに変更して欲しいと申し出る。反ナチ組織の活動資金5万ドルをベルリンにいるジュリアへ届けるためだ。ユダヤ人であるリリアンにとって必ずしも安全とは言えないが、しかし彼女は最愛の親友のため、意を決して運び屋役を引き受けることにする。かくして、厳しい監視体制の敷かれたナチス支配下のベルリンへと夜行列車で向かうリリアンだったが…。  年老いたリリアンの回想形式で描かれる、リリアンとジュリアの瑞々しくも切なく哀しい友情ドラマ、そして激動する戦前ヨーロッパを舞台にした緊迫のサスペンス。リリアン役のジェーン・フォンダは、最初の夫ロジェ・ヴァディムとの間に出来た長女にヴァネッサと名付けるほど、ジュリア役のヴァネッサ・レッドグレーヴに憧れて崇拝していたらしく、それがそのまま劇中のリリアンとジュリアの関係に重ね合わせることが出来て興味深い。ハメット役ジェイソン・ロバーズの渋い枯れた味わいも素晴らしいし、フレッド・ジンマン監督の折り目正しい演出にも風格がある。リリアンの軽薄な友人アン・マリー役のメリル・ストリープ、少女時代のジュリア役リサ・ペリカンと、これが映画デビューだった女優2人も印象深い。しかし何よりも、マッカーシズムに対抗した女性闘士リリアン・ヘルマンが、活動家の友人のためとはいえ、実は反ナチ活動にも貢献していたというエピソードは少なからぬ驚きであろう。

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“映画史”の転換点に立ち会った2人…“スライ”と“ボブ”がスクリーン上で邂逅『コップランド』

松崎まこと

「スタローン壮絶。デ・ニーロ超然。」  これが本作『コップランド』が、1998年2月に日本公開された際のキャッチフレーズ。そこからわかる通り、本作最大の売りは、シルベスター・スタローンとロバート・デ・ニーロ、2大スターの“初共演”だった。  そもそもこの2人、同時代のアメリカ映画を牽引して来た存在ながら、共演など「ありえない」ことと、長らく思われてきた。それは偏に、スターとしての、それぞれの歩みの違いによるものだった。  シルベスター・スタローン、通称“スライ” 。スターとしての全盛期=1980年代から90年代に掛けては、鍛え上げたムキムキの肉体で、ボディビルダー出身のアーノルド・シュワルツェネッガーと、“アクションスターNo1”の座を争っていたイメージが強い。  そんな中でも代表作はと問われれば、誰もがまずは『ロッキー』(1976~ )シリーズ、続いて『ランボー』(1982~ )シリーズを挙げるであろう。特にプロボクサーのロッキー・バルボア役は、スタローンが最初に演じてから40年以上経った今も、『ロッキー』のスピンオフである『クリード』シリーズに、登場し続けている。  一方のロバート・デ・ニーロ、愛称“ボブ”の場合は、“デ・ニーロ・アプローチ”という言葉が一般化するほどに、徹底した役作りを行う“演技派”といったイメージが、まずは浮かぶ。 “デ・ニーロ・アプローチ”の具体例は、枚挙に暇がない。出世作『ゴッドファーザーPARTII』(1974)では、前作でマーロン・ブランドが演じたドン・ヴィトー・コルレオーネの若き日を演じるため、コルレオーネの出身地という設定のイタリア・シチリア島に住み、その訛りが入ったイタリア語をマスター。その上で、ブランドのしゃがれ声を完コピした。 『タクシードライバー』(1976)の撮影前には、ニューヨークで実際にタクシー運転手として勤務したデ・ニーロ。街を流して乗客を乗せたりもした。  特に有名なのが、実在のプロボクシングミドル級チャンピオン、ジェイク・ラモッタを演じた『レイジング・ブル』(1980)での役作り。まずトレーニングで鋼のような肉体を作ってボクサーを演じた後、引退後に太った様を表現するため、短期間に体重を27キロ増やすという荒業をやってのけた。  そんなこんなで、パブリックイメージとしては、マッチョなアクションスターのスライと、全身全霊賭けて役になり切るボブ。そんな2人の共演など、「ありえない」ことになっていたわけである。  しかしこの2人の俳優の歩みを振り返ると、スタートの時点では、そんなに縁遠いところに居たわけではない。  その起点は、1976年。  まずはマーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』が、2月にアメリカで公開された。主演のデ・ニーロが演じたのは、「ベトナム帰りの元海兵隊員」を名乗る、不眠症の孤独なタクシー運転手トラヴィス。彼はニューヨークの夜の街を走り続ける内に、次第に狂気を募らせて、やがて銃を携帯。過激で異常な行動へと、走るようになる…。  デ・ニーロは、この2年前の『ゴッドファーザーPARTⅡ』でアカデミー賞助演男優賞を受賞して、「最も期待される若手俳優」という位置を既に占めていたが、『タクシー…』はメジャー作品としては、初の主演作。公開後の5月には『タクシー…』が、「カンヌ映画祭」の最高賞である“パルム・ドール”を受賞したことなどもあり、その評価を更に高めることとなった。  同じ年の11月に公開されたのが、スタローンが脚本を書き主演を務めた、『ロッキー』である。うだつの上がらない30代の三流ボクサーであるロッキーが、世界チャンピオンから“咬ませ犬”として指名され、挑戦することになる。とても勝ち目がない勝負と思われたが、「もし最終ラウンドまでリングの上に立っていられたら、自分がただのゴロツキではないことが証明できる」と、愛する女性に告げて、ファイトに挑んでいく…。  この作品が製作され公開に至るまでの経緯は、もはやハリウッドの伝説になっている。ある時、プロボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチを、偶然に視聴したスタローン。偉大なチャンピオン=モハメド・アリに、ノーマークのロートルボクサー=チャック・ウェプナーが挑んで、大善戦したのを目の当たりにして感動。3日間で『ロッキー』の脚本を書き上げた。持ち込まれたプロダクション側は、スター俳優の起用を前提に、脚本に数千万円の値を付けた。しかし当時まったく無名の存在だったスタローンは、自らが主演することを最後まで譲らず、結局は最低ランクの資金で製作されることとなった。  そうして完成した『ロッキー』は、公開されるや誰もが予想しなかったほどの大ヒットに!正に、“アメリカン・ドリーム”を体現する作品となった。  デ・ニーロとスタローンにとって、“主演スター”としての第一歩になった、『タクシードライバー』と『ロッキー』は、その年の賞レースを席捲。翌77年の3月に開催されたアカデミー賞で、2人は“主演男優賞”部門で覇を競うこととなった。  両作は“作品賞”部門にも、共にノミネート。この激突はいま振り返れば、映画史的に非常に興味深い。  1967年の『俺たちに明日はない』以来、70年代前半まで映画シーンをリードしてきたのが、“アメリカン・ニューシネマ”というムーブメント。ベトナム戦争の泥沼化やウォーターゲート事件などで、アメリカの若者たちの間で自国への信頼が崩壊する中で、アンチヒーローが主人公で、アンチハッピーエンドが特徴的な作品が、次々と作られていった。 『タクシー…』は、そんな夢も希望もない内容の、“アメリカン・ニューシネマ”最後の作品と位置付けられている。  一方で『ロッキー』は、当初は“ニューシネマ”さながらに、主人公が試合を途中で投げ出す展開も考えられていたというが、結局は、“アメリカン・ドリーム”を高らかに歌い上げる結末を迎える。今では、翌年の『スター・ウォーズ』第1作(1977)と合わせて、“ニューシネマ”に引導を渡す役割を果たしたと言われている。  そんな因縁はさて置き、1976年度のアカデミー賞“主演男優賞”部門に、話を戻す。海外のニュースがネットで瞬時に伝わる今とは違って当時は、アカデミー賞の戦前予想は、月刊の“映画雑誌”などで読む他はなかった。それによると、“主演男優賞”はデ・ニーロ本命、対抗がスタローンといった雰囲気が伝わってきた。  ところが、ところがである。蓋を開けてみると、“主演男優賞”を獲得したのは、『ネットワーク』に出演したピーター・フィンチだった。  シドニー・ルメット監督が、視聴率獲得競争を描いてメディア批判を行ったこの作品に於いて、徐々に狂気に蝕まれていく報道キャスターを演じたフィンチは、役どころ的には、本来は“助演”ノミネートが相応しいと言われていた。しかしノミネート発表直後に、心不全で急死。同情票を集めることとなり、アカデミー賞の演技部門史上初めて、死後にオスカー像が贈られることとなったのである。 『ネットワーク』もフィンチの演技も、腐す気はまったくない。しかし40余年経った今、この結果と関係なく、『タクシー…』のデ・ニーロや『ロッキー』のスタローンの方が、未だに熱く語られる存在であることを考えると、賞など正に水物であることが、よくわかる。  とはいえ“アカデミー賞”が、映画人にとって最大の栄誉の一つであることには、疑いもない。『タクシー…』で本命と目されながらも逃したデ・ニーロは、1978年度にマイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』での2度目のノミネートを経て、80年度にスコセッシ監督の『レイジング・ブル』で、遂に“主演男優賞”のオスカー像を手にすることとなる。  これ以降もデ・ニーロは、名コンビとなったスコセッシ監督作品他で、多くの者がお手本にするような俳優として、キャリアを積み重ねていく。そしてアカデミー賞にも、度々ノミネートされることとなる。  一方のスタローン。『ロッキー』では“主演男優賞”に加えて、“脚本賞”にもノミネートされていたが、こちらも『ネットワーク』脚本のパディ・チャイエフスキーに攫われてしまった。『ロッキー』自体は、“作品賞”、“監督賞”、“編集賞”の3部門を制覇。『タクシードライバー』が無冠に終わったのに対し、大勝利と言える成果を収めたが、以降スタローンとアカデミー賞は、長く疎遠な関係となる。 『ロッキー』で大成功を収めた後の主演作となったのが、『フィスト』(1978)。スタローンは、労働組合の大物指導者でありながら、マフィアとの癒着が噂され、最終的には謎の失踪を遂げた実在の人物、ジミー・ホッファをモデルにした主人公を演じた。監督に起用されたのは、『夜の大捜査線』(1967)でアカデミー賞監督賞を受賞し、他にも『屋根の上のバイオリン弾き』(1971)『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973)などの作品を手掛けてきた、ノーマン・ジュイスン。  明らかに賞狙いの作品であった『フィスト』だが、大きな話題になることもない失敗作に終わった。同じ1978年には、スタローンが初監督もした主演作『パラダイス・アレイ』も公開されたが、『ロッキー』に続くスタローン主演作のヒットは、翌79年の続編、『ロッキー2』まで待たねばならなかった。  このように、暫しは『ロッキー』シリーズ以外のヒットがなかったスタローンだが、1980年代に、ベトナムから帰還したスーパーソルジャーを主人公にした、『ランボー』シリーズがスタート!スタローンは、アクションスターとしての地位を確立していくと同時に、1984年以降は、毎年アカデミー賞授賞式の前夜に「最低」の映画を選んで表彰する、“ゴールデンラズベリー賞=ラジ―賞”受賞の常連となっていった…。 “マネーメイキングスター”としては、常にTOPの座を争いながらも、その“演技”が評価されることは、まず「ない」存在となったスタローン。しかし彼もスタート時点は、マーロン・ブランドのような性格俳優に憧れて、初主演作では“アカデミー賞”にノミネートされた、立派な“俳優”である。アクションではない“演技”で注目されたいという気持ちは、常にあったものと思われる。  そんな彼が、50代を迎えて主演作に選んだのが、本作『コップランド』であった。ニューヨーク市警の警官が多く住むため、“コップランド”と呼ばれる郊外の町ギャリソンを舞台にしたこの作品で、スタローンが演じたのは、落ちこぼれでやる気のない中年保安官。しかし、殺人まで絡んだ警察内の不正に目を瞑ることが出来なくなり、遂には孤高の戦いを繰り広げることとなる。  スタローンは、低予算ながらドラマ性の高い本作への出演を、ほぼノーギャラで受けた。そして主人公の保安官の愚鈍さを表すために、15キロも体重を増やす、“デ・ニーロ・アプローチ”ばりの役作りを行ったという。  一方本作でのデ・ニーロは、ニューヨーク市警の内務調査官役。コップランドの警官たちの不正を暴こうとする中で、スタローンの正義感を利用する、狡猾な役どころである。とはいえ、「2大スター共演」を売りにした割りには、登場シーンもさほど多くはない、ゲスト的な出演の仕方と言える。劇場公開時には、その辺りが何とも物足りなかったが、いま見返すと、短い出番ながらさすがに的確で印象的な演技をしていることに、感心する。  余談だが、スタローンとデ・ニーロは、『コップランド』から16年後に、『リベンジ・マッチ』(2013)という作品で再共演を果たしている。こちらは本格的なW主演作品で、2人の役どころは、30年前の遺恨のために、リング上で対戦する老齢のボクサー。作品的な評価は高くないが、2人の若き日が、『ロッキー』シリーズや『レイジング・ブル』のファイトシーンから抜き出されてコラージュされている辺りが、“楽屋落ち”のように楽しめる作品ではあった。  さて本作『コップランド』の話に戻ると、公開時に“俳優”スタローンの挑戦は、それなりに高く評価はされた。しかしその演技が、賞レースなどに絡むことはなかった。  スタローンとアカデミー賞との関わりは、2016年度の『クリード チャンプを継ぐ男』で“助演男優賞”にノミネートされるまで、『ロッキー』第1作以来、実に40年ものブランクを空けることとなる。候補となったのが40年前と同じく、ロッキー・バルボア役だったというのは、逆に特筆すべきことだと思うが…。◼︎ © 1997 Miramax, LLC. 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燎原の火の如く燃え広がった「Me Too」運動の中で、私は『トッツィー』を思い出していた…。

松崎まこと

 2017年秋、ハリウッドの大物映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインが、長年に亘って何人もの女優らに、セクハラや性的暴行を行っていたことが判明。それがきっかけとなって火が付いたのが、「Me Too」ムーブメントだった。  今まで沈黙を強いられてきた、性的な“虐待”や“嫌がらせ”の被害者たちの口から、数多の有名映画人の名が、“加害者”として挙げられていく。ケヴィン・スぺイシ―、ビル・コスビー、ロマン・ポランスキー、モーガン・フリーマン…。錚々たる顔触れの中でも、私が特にショックを受けたのは、“ダスティン・ホフマン”だった。  ホフマンと言えば、アクターズ・スタジオ仕込みの演技で、“アメリカン・ニューシネマ”の寵児となった俳優。マイク・二コルズ監督の『卒業』(1967)で一躍脚光を浴び、その後も『真夜中のカーボーイ』(1969)『小さな巨人』(1970)『わらの犬』(1971)『大統領の陰謀』(1976)等々、映画史に残る作品に次々と出演した。  そして“ニューシネマ”の時代が去った後には、『クレイマー、クレイマー』(1979)と『レインマン』(1988)で、アカデミー賞主演男優賞を2度手にしている。押しも押されぬ、名優にして大スターである。  日本の観客からも、ホフマンは長く絶大な人気を誇った。大塚博堂の「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」(1976)など、彼をモチーフにした有名曲まで存在するほどだ。  そんなホフマンからの“性的嫌がらせ”を最初に告白したのは、ロサンゼルスに住む女性作家。彼女は1985年、17歳の時にインターンのスタッフとして参加したTVドラマ「セールスマンの死」の現場で、ホフマンからお尻を掴まれたり、卑猥な言葉を掛けられたりしたという。  これに対してホフマンはすぐに、「女性を尊敬する私らしくない行為だ。本当に申し訳ない」などと、正式に謝罪を行った。ところがその後も、女性プロデューサーや舞台で共演した女優などから、「彼から“性的虐待”を受けた」という告発が相次いだのである。  いずれも30年前後のタイムラグがあっての訴えで、真相を究明するのはもはや困難である。またワインスタインのように、権威を笠に着て“強姦”紛いのことを行ったわけではない。とはいえ今日の時勢では、「許されない」ことであり、今や80歳を超えたホフマンのキャリアに、少なからずダメージを与えたのは、間違いないようである。  繰り返しになるが、私は「Me Too」ムーブメントの中でも、青春期から親しんだ大スターであるホフマンの名前が挙がったことに、特に大きなショックを受けた。それは、彼のフィルモグラフィーの中に、本作『トッツィー』があることも大きい。  シドニー・ポラック監督による『トッツィー』の主人公は、ホフマンが演じる、売れない中年俳優のマイケル・ドーシ―。演技には定評があるものの、うるさ型の完璧主義者のため、誰も彼を起用しようとはしない。エージェント(ポラック監督自らが好演)からも、見放される始末である。  そんな鬱々とした日々の中でマイケルは、芝居仲間の女優サンディ(演;テリー・ガー)がTVの昼ドラ「病院物語」のオーディションを受けるのに付き合った際、自分より実力が劣る俳優が持て囃されている現実に直面する。そこで彼は、その翌日に何と女装して、そのドラマのオーディションへと乗り込むという暴挙に出る。  演出家のロン(演;ダブニー・コールマン)には相手にされなかったマイケルだが、その場で女性差別を指摘する啖呵を切ったところ、番組の女性プロデューサーのお眼鏡にかない、病院の経営者エミリー・キンバリーという重要な役どころを見事にゲット。その日からマイケル・ドーシ―変じて、女優ドロシー・マイケルズとしての日々が始まる。  エミリーを演じるに当たってドロシーは、セリフにアドリブをふんだんに盛り込んで、女性の権利を主張。自立した強い女性像を打ち出して、スタッフやキャストを驚かせる。それが視聴者にも大いに受け、“彼女”は注目の存在として、「TIME」や「LIFE」などの一流誌の表紙を飾るまでになる。  また撮影現場では、「ハニー」「トッツィー(かわい子ちゃん)」などと呼び掛けてくる演出家のロンに対して、「ちゃんと名前で呼んで」と毅然として反発。その姿勢が、後輩の女優たちからの尊敬を集めることにもなる。  そんな中でドロシーならぬマイケルは、共演者で看護師役のジュリー(演;ジェシカ・ラング)に恋をする。しかしジュリーにとってのドロシーは、先輩の“女優”としてあくまでも尊敬の対象に過ぎない。そのため、やもめ暮らしのジュリーの父親(演;チャールズ・ダーニング)の再婚相手にと、請われるようにまでなる。  どうにもならない想いに、身を引き裂かれそうになるマイケル。ある時ジュリーに対して衝動的にキスをしようとしたことから、レズビアンと勘違いされ、彼女から敬遠されるように。更には病院長役の老優ジョン(演;ジョージ・ゲインズ)に強姦されかけたりなどの憂き目に遭い、アイデンティティー崩壊の危機に陥る。  遂にはドロシーを捨て、本来の自分に戻る決断をしたマイケル。そのために彼は、衆目の集まるドラマの生放送中に、驚くべき行動を取るが…。 『クレイマー、クレイマー』で初のオスカーを得たキャリアの絶頂時に、次回作としてホフマンがチョイスしたのが、本作『トッツィー』である。本作の企画は、ホフマンがポラック監督らに投げ掛けた、次のような問いからスタートしたという。 「ねえ、ぼくが女だったらどうだろう?どんな人生になるのかな?」  役にのめり込むことで知られるホフマンは、特殊メークの力も借りながら、女性になり切ろうとした。ホントに男とバレないかをリサーチするために、女装のままレストランに出掛けたりもした。その際に、『真夜中のカーボーイ』で共演したジョン・ボイトにばったり会ったのだが、ボイトは、自分に話し掛けてきた女性ファンがホフマンだとは、まったく気付かなかったという。  そこまでして、リアルに作り上げたキャラクター。それが、売れない俳優のマイケル・ド―シーが、職を得るために女装したという設定の、女優ドロシー・マイケルズである。マイケルはドロシーを通じて、体毛の手入れやメイクなど日々の装いの煩雑さから、仕事の現場で受ける差別的な扱いまで、男社会の中で女性が生きていくことの大変さや不公平さを体験。それまでの己の傲岸不遜さにも、気付かされていく…。 『トッツィー』以前、アメリカ映画に於ける代表的な“女装もの”と言えば、ビリー・ワイルダー監督の『お熱いのがお好き』(1959)が挙げられる。この作品の中でも、ギャングから逃亡するために“女装”したジャック・レモンが、大富豪の老人に迫られている内に、段々と変な気持ちになっていくという描写はある。しかしこちらの“女装”は、あくまでもシチュエーションとしての面白さを追求した側面が強い。  それに対して『トッツィー』は、大いに笑わせる展開の中で、1970年代の“ウーマン・リブ”運動を経ても、未だ止まない女性差別の実状まで抉り出してもいる。2018年の今日見ると、LGBTの扱いなどで至らない描写も散見されるが、公開された1982年は、“セクハラ”などという言葉が一般化するよりも、遥かに以前。当時としては、実に革新的なコメディだったのである。  ホフマンは本作の演技で、この年度のアカデミー賞主演男優賞にもノミネート。ライバルに『ガンジー』(1982)のベン・キングスレーが居なかったら、2作続けてオスカーを手にする結果となっても、まったくおかしくない状況だった。 「Me Too」ムーブメントの中で、ホフマンに降りかかった火の粉に対して、「まさか!?」「あの『トッツィー』のホフマンが!?」。そんな思いを抱いた、私と同年代の映画ファンは、決して少なくなかったのでは、ないだろうか?◾︎ © 1982 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.

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成長著しいハンガリー映画界を象徴するホロコースト映画の傑作『サウルの息子』

なかざわひでゆき

 ここ数年、ヨーロッパではハンガリー映画が熱い。『サウルの息子』(’15)がカンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリに輝き、米アカデミー賞ではハンガリー映画として27年ぶりで外国語映画賞にノミネート、しかも34年ぶりに2度目の受賞という快挙を達成。ハンガリー映画史上最高額の製作費を投じた歴史大作『キンチェム 奇跡の競走馬』(’16)は、国内外で大ヒットを記録して話題になった。また、名匠イニェディ・イルディコー監督が18年ぶりに発表した長編映画『心と体と』(’17)はベルリン国際映画祭の金熊賞を獲得し、米アカデミー賞でも外国語映画賞の候補に。さらに、『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』(’14)と『ジュピターズ・ムーン』(’17)で立て続けに各国の映画祭を席巻した鬼才コーネル・ムンドルッツォ監督は、ブラッドリー・クーパーとガル・ガドット主演の『Deeper』(公開未定)でハリウッド進出が予定されている。  そんなハンガリー映画の躍進を象徴する『サウルの息子』。1944年のアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を舞台に、ゾンダーコマンドと呼ばれたユダヤ人労務部隊の実話を基にしたホロコースト映画の傑作だ。日本ではあまり目にする機会のないハンガリー映画ではあるが、それだけに本作の圧倒的なリアリズムと斬新なカメラワークに驚かされる映画ファンも少なくないことだろう。そういえば、先述した『ジュピターズ・ムーン』で話題となった空中浮遊シーンも、今まで見たことのない画期的な映像体験だった。まさにハリウッドも顔負けのハイレベルな技術力と成熟した表現力。ハンガリー映画、なんだか知らんけど凄くね!?…ということで、まずは現在までに至るハンガリー映画の歩みと背景事情を駆け足で振り返ってみたい。  かつて、ポーランドやチェコと並んで東欧随一の映画大国だったハンガリー。’56年にハンガリー社会主義労働者党書記長に就任したカーダール・ヤーノシュのもと、欧米先進国寄りの比較的自由な政策が採られた同国では、他の東欧諸国に比べて当局の検閲も緩やかだったことや、映画制作システムの大胆な改革のおかげもあって映像産業が急成長。サボー・イシュトバーンやタル・ベーラ、ヤンチョー・ミクローシュ、ゾルタン・ファーブリ、カーロイ・マックといった巨匠たちの作品が世界中の映画祭で高く評価された(残念ながら、その大半が日本では劇場未公開ないし特殊上映のみ)。しかし、’89年の民主化以降は多くの旧社会主義国と同様、資金不足や外国映画との競争にさらされ、往時の勢いと輝きを失ってしまう。  そんなハンガリー映画界にとって大きな転機となったのが、ヨーロッパにおける同国映像産業の競争力を高める目的で’04年に施行された映画法案Ⅱである。これによって、ハンガリー国内でローカルの制作会社と提携して撮影される全ての外国映画およびテレビドラマは、直接的な製作費に対して25%の税制優遇措置を受けられることとなったのだ。おかげで近年は『ダイ・ハード/ラスト・デイ』(’13)や『ワールド・ウォーZ』(’13)、『ヘラクレス』(’14)、『オデッセイ』(’15)、『インフェルノ』(’16)、『ブレードランナー2049』(’17)、『アトミック・ブロンド』(’17)、『レッド・スパロー』(’17)、『ロビン・フッド』(’18・日本公開未定)などなど、数多くのハリウッド映画や英米ドラマがハンガリーで撮影されることに。来年全米公開予定のウィル・スミス主演作『Gemini Man』や『ターミネーター』最新作のロケもブダペストで行われており、今やハンガリーはイギリスに次いでヨーロッパで最も人気のある映画ロケ地となっているのだ。今年の7月には優遇税率が30%へと引き上げられ、法律の有効期間も当初の’19年から’24年へと延ばされることが決定。それだけ成果が出ているということなのだろう。  こうした政府主導による外国映画の撮影誘致が功を奏し、ハンガリーの映像産業全体も経済的に潤っている。なにしろ、昨年だけで4000万ドルもの外貨が落とされて行ったのだから。’07年には同国最大規模の撮影所コルダ・スタジオ(ハンガリー出身の世界的映画製作者アレクサンダー・コルダに因んでいる)がオープン。’12年にはたったの5本だった国産長編映画の年間製作本数も、’17年には22本にまで増えている。だが、外国映画誘致のもたらす恩恵は、なにも経済効果だけに止まらない。  筆者は今年の1月にブダペスト郊外のコルダ・スタジオを訪問し、『アトミック・ブロンド』や『レッド・スパロー』の製作に携わった現地プロダクション、パイオニア・スティルキング・フィルムズの女性プロデューサー、イルディコ・ケメニー氏にインタビューしたのだが、彼女によれば若い人材育成という面でも非常に助かっているという。なにしろ、先述したように国産映画の本数がもともと少ないハンガリー。以前は映画学校を卒業しても、未経験の若者はなかなか仕事にありつけなかったが、外国資本の映画やテレビドラマの企画が大量に流入することで雇用機会も格段に増え、インターンから徐々に経験を積んでいく人材育成システムも確立された。しかも、ハリウッドの最先端技術も実地で学ぶことが出来る。「おかげで、ハンガリー映画のクオリティも全体的に高くなった」とケメニー氏は語っていたが、ここ数年3~5%の割合で増え続けている国産映画の国内観客動員数(昨年は130万人)などは、まさにその証拠と言えるのかもしれない。  ちなみに、ハリウッドの大物撮影監督ヴィルモス・スィグモンドとラズロ・コヴァックスがハンガリー出身(しかも一緒にアメリカへ亡命している)であることは有名だろう。しかし、ハリウッドとハンガリーの繋がりはさらにずっと古く、サイレント時代にまで遡ることが出来る。例えば、20世紀フォックスの前身フォックス・フィルム・コーポレーションの創業者ウィリアム・フォックス(本名ヴィルモス・フックス)、パラマウント映画の創業者アドルフ・ズーカーは共にハンガリー系移民。ほかにも『カサブランカ』(’42)で有名なマーケル・カーティス監督(本名ケルテース・ミハーイ)や『スタア誕生』(’54)のジョージ・キューカー監督、『巴里のアメリカ人』(’51)の撮影監督ジョン・オルトン(本名ヨハン・ヤコブ・アルトマン)、特撮映画の神様ジョージ・パル、作曲家のミクロス・ローザにマックス・スタイナーと、多くのハンガリー系移民がハリウッド黄金期を支えたのである。そして、その大半がユダヤ人であったことも忘れてはなるまい。  ヨーロッパ最大のシナゴーグがブダペストに存在することからも分かるように、古くから大勢のユダヤ人が暮らしていたハンガリー。第二次世界大戦ではナチス・ドイツの同盟国として少なからぬ戦争犯罪に加担したわけだが、とりわけ’44年3月に悪名高きナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンがブダペストへ派遣されると、それまで積極的ではなかったハンガリー国内のユダヤ人迫害も本格化。最も多い時期には一日12000人ものユダヤ人がアウシュビッツへ送り込まれ、ジェノサイド(大量虐殺)の犠牲になったという。次から次へと列車で運ばれて来るユダヤ人をガス室送りにするわけだが、しかしナチス兵士だけでは現場の手が足りない。そこで死体処理や掃除などの雑務を任されたのが、ナチスによって強制的に選ばれた同胞ユダヤ人の労務部隊ゾンダーコマンドだったのである。  当時のナチスはユダヤ人の大量虐殺を秘密にしていたため、事実を知るゾンダーコマンドは他の労務に就く囚人たちとは隔離されて生活し、3~4か月ごとにメンバーの入れ替えがなされていた。つまり、古い囚人をガス室送りにして、新しく到着した囚人を補填したのだ。そうした中、アウシュビッツのゾンダーコマンドの数名が筆記用具やカメラを手に入れ、命がけで自分たちの仕事や収容所内の日常を書き記し、数枚の証拠写真も撮影していた。後世の人々へ真実を伝えるためだ。それを彼らは地中に埋めて隠し、戦後になって掘り起こされたことから、ゾンダーコマンドの実態が明らかとなった。ナチスはホロコーストの証拠を徹底的に隠滅したし、僅かに生存した元ゾンダーコマンドのメンバーも、強要されたとはいえ己の行いを恥じて証言しようとしなかったのだ。  そんな、ヨーロッパおよびハンガリーの歴史の恥部に肉迫する『サウルの息子』。アウシュビッツで実際に起きたゾンダーコマンドの反乱が登場することから推測するに、映画の設定は1944年10月6日から7日にかけてと思われる。ただし、ストーリーはあくまでも史実を背景にしたフィクションだ。主人公はゾンダーコマンドの一人であるユダヤ系ハンガリー人サウル(ルーリグ・ゲーザ)。反乱計画の準備が秘密裏に着々と進む中、彼はガス室で生き残った少年を発見するものの、すぐナチスによって息の根を止められてしまう。ところが、その少年を自分の息子だと主張するサウルは、解剖に回された死体をこっそり盗みだし、なんとかしてユダヤ教の正式な教義に則って埋葬しようと奔走する。  自分ばかりか仲間の命まで危険に晒し、狂気に取り憑かれたかのごとく、少年の死体を埋葬しようと猪突猛進するサウル。反乱計画なんてほとんど上の空だし、必要とあれば嘘や脅迫だって厭わない。その身勝手な行動にイラつく観客も少なくないだろう。何がそこまで彼を突き動かすのか。一つのヒントとなるのは、彼がユダヤ式の埋葬にこだわる点だ。収容所では骨が灰になるまで焼き尽くされ、川へと投げ捨てられてしまう。だが、キリスト教と同様にユダヤ教も、審判の日に死者が復活すると考えられており、その際に必要となる元の体を残すために土葬される。つまり、焼却炉で焼かれてしまったら復活できないのだ。  もしかすると、この世の地獄とも呼ぶべき状況で絶望の淵へ追いやられていたサウルは、毒ガス・シャワーを生き延びた少年の生命力に希望を見出し、根絶やしにされようとしているユダヤ民族の未来を少年の復活に賭けようとしたのかもしれない。そうすれば、この収容所で起きた悲劇も人類の記憶に残ることだろう。ある意味、手記や写真で記録を残した仲間たちと、手段こそ違えども同じことをしようとしていたのではないか。サウルにとって息子とは、すなわち未来へと繋がれる希望。そう考えると、少年が本当に彼の息子なのかどうか分からないという曖昧な設定も、ラストに彼が見せる晴れやかな笑顔の意味も、わりとすんなり納得できるように思える。  有名な映画監督アンドラース・イェレシュを父親に持ち、ニューヨーク大学で映画演出を学んだネメシュ・ラースロー監督は、本作が長編映画デビュー。4×3の狭いフレームサイズでカメラが終始主人公に密着して移動し、一か所にピントを合わせることでサウルの主観的視点を客観的に再現する。つまり、彼があえて目を背けているもの(殺戮風景や死体の山など)はハッキリと映らない。この斬新な演出のアイディアは目から鱗だし、細部まで徹底して計算されたカメラワークにも息を呑む。まるでアウシュビッツを疑似体験するようなリアリズムが圧巻だ。忌まわしい過去のホロコーストの歴史を、ハンガリーを含めた世界中で民族問題が噴出する今、最先端の映像テクニックを駆使して描く。復興著しい21世紀のハンガリー映画を代表するに相応しい作品と言えるだろう。◾︎ ©2015 Laokoon Filmgroup

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監督との対話から見える『グエムル -漢江の怪物-』の輪郭

尾崎一男

■怪獣映画というジャンルに乏しい韓国 『グエムル-漢江の怪物-』には、深い思い入れがある。  本作の日本公開を控えた頃、筆者は韓国に出向いて監督のポン・ジュノや、主演のソン・ガンホ、そしてぺ・ドゥナにインタビューをおこなった。加えて韓国最大のシネコン「メガボックス」で開催されたワールドプレミア上映を取材。現地での完成報告記者会見にも参加した。  そこでショッキングだったのは、韓国と日本との「怪獣映画」に対する温度差である。  意外に思われるかもしれないが、韓国にはいわゆる日本のゴジラやガメラ、そしてウルトラマンに代表されるような「怪獣映画」の伝統がない。  もちろん、まったく作品が存在しなかったというワケではない。国内では1962年、鉄を食らう幻獣の大暴れを、精巧な模型を駆使して描いた『プルガサリ』が嚆矢として位置づけられている(後に北朝鮮が『プルガサリ~伝説の大怪獣~』(85)として再映画化)。その後「国産初の怪物映画」と自ら惹句を掲げた『宇宙怪人ワンマギ』(67)や、日本のエキスプロダクションが造形と特撮に携わった『大怪獣ヨンガリ』(67)など、日本の第一次怪獣ブームの向こうを張る形で怪獣映画が製作されている。  また70年代には、ギム・ジョンヨンとポール・レダー(『ピースメーカー』(97)で知られる女性監督ミミ・レダーの父親)が共同監督した韓米合作3D映画『A*P*E キングコングの大逆襲』(76)や、ギム・ジョンヨン監督が日本の特撮TVのバンクシーンをマッシュアップしたひどい代物『飛天怪獣』(84)が発表されている。追って90年代にはコメディ俳優シム・ヒョンレが、自身の映画製作会社「ヨングアート」を設立し、翌年にモンスターコメディ『ティラノの爪』(93)を監督。99年には『大怪獣ヨンガリ』を欧米キャストでリメイクした『怪獣大決戦ヤンガリー』(99)を製作するなど、かろうじて命脈を保ってきたのだ。 ■日本の怪獣映画にリスペクトを捧げた『グエムル』  こうした環境が如実に影響を及ぼしているのか、『グエムル』の完成報告記者会見は、怪獣映画の文化に浴してきた自分には呆然となるものだった。現地記者による質問のほとんどは、劇中で主人公カンドゥ(ガンホ)を中心とするキャラクターに関するものばかりで、誰一人として「怪獣」のことについて触れなかったからだ。そのスルーぶりたるや「(怪獣映画に接する文化がないと)ここまで主題に関する興味や優先順位が違うのか」と吹き出しそうになったほどだ。  そのうちに記者の1人が、以下のような核心を監督のポン・ジュノに問い始めた。 「そもそもなぜ、あなたがこのような作品を撮ったのか?」  1969年生まれのジュノは、延世大学校社会学科を卒業後、映画の専門教育機関である韓国映画アカデミーを経て『ほえる犬は噛まない』(00)で長編商業監督デビューを果たした。同作はマンション内での連続小犬失踪事件をめぐる住民たちのドタバタを描いた作品だが、続く2作目の『殺人の追憶』(03)では、1986年から5年の間に10人の女性が殺され、犯人未逮捕のまま控訴時効が成立した「華城(ファソン)連続殺人事件」を材にとり、後の『チェイサー』(08)や『悪魔を見た』(10)などへと連なる「韓国犯罪映画」というジャンルを確立させている。  笑いと緊迫をミックスさせた独自の作風、見る者を圧倒させる大胆な画面の構成力、そして時代考証や細部にこだわる「リアリズム作家」の筆頭として、韓国映画の未来を嘱望される存在だったのだ。  そんなジュノが、なぜ自国に根付くことのなかった怪獣映画を? そのことを問い質した記者に対し、監督は以下のように答えている。 「本格的な怪物映画を作ってみたいという意欲が芽生えたからです。感性の土台という意味では、ハリウッド映画なら『エイリアン』(79)の亜流、例えば『ミミック』(97)であるとか、そういった作品に影響を受けてきました。また、かつて世界を騒がせたネス湖のネッシーがいましたよね。ああいったUMA(未確認生物)に僕はたいへん興味を持っており「ネッシーは本当にいるのか?」あるいは「ネッシーを捕まえることが出来るのか?」と常に想像してたんです」  しかし、当の記者はそんな熱弁に要領を得ないといった表情を見せていた。というのも映画の舞台となった漢江は、UMAなどの目撃証言や伝説(真偽はさておき)が存在せず、モンスターを喚起させるようなスポットではなかったからだ。  この記者会見の前日、筆者はポン・ジュノ監督に取材をし、同じ質問を彼に投げかけている。そこでジュノは先の記者への答えに加え、「なぜ怪獣映画を?」を腑に落ちる形で補完してくれていた。 「『グエムル』の企画そのものは高校時代から温めており、自分もまた、自国に怪獣映画の伝統がないことを憂いていたんです。僕はAFKM(American Forces Korea Network)と呼ばれた米軍用放送局で、ゴジラシリーズやウルトラマンを子どもの頃によく観ていました。その幼少体験が、怪獣映画を撮ることへの思いを膨らませていったといえるでしょう。そして在韓アメリカ軍が多量の毒物を下水口から漢江に放流した「龍山基地油流出事件」が製作の契機となり、『グエムル』の企画を具体的なものにできました」  ■ベースにあるスピルバーグ型エイリアンコンタクト映画  ジュノのこうした発言を統合すると、日本の怪獣映画に対する限りないリスペクトの心情と、それが突き動かした怪獣映画への前のめりな挑戦心。そして怪獣映画に欠くことのできない社会問題の寓意性などがうかがえてくる。  しかし『グエムル』の面白い点は、怪獣出現という途方もない事態を、政治家や軍隊、科学者といったスペシャリストが攻め打っていく同ジャンルの定型を踏襲しなかったところにある。本作で怪物と戦う主人公カンドゥは、軍人でも科学者でもなければ正義と使命感に燃える人物でもない。商売人でありながら、客の注文した食べ物をこっそり自分で食べたりする、どうしようもないダメ男なのだ。  そんなカンドゥが、一人娘を救うために得体の知れない怪物に挑んでいく「家族愛」に焦点を合わせることで、ジュノの怪獣パニックは堂々成立しているのである。  こうした構成に関してジュノは、敬愛する作家としてスティーブン・スピルバーグの名を筆頭に出し、『未知との遭遇』(77)や『宇宙戦争』(05)など、異星人コンタクトという状況下での家族愛をうたった諸作を「もっとも触発された」として挙げている。それと同時にM・ナイト・シャマランの『サイン』(02)のタイトルを出し、『グエムル』の製作にあたって同作の影響があったことを認めている。 「『宇宙戦争』は本作の撮影中にスタッフに勧められて観ました。たしかに大きな状況をパーソナルな視点で描く部分で共通点はあるんですけど、物語の方向性は異なるし、むしろ影響という意味ではシャマランの『サイン』のほうが大きいかもしれません。あの作品も『宇宙戦争』と同様に宇宙人の襲撃を受けるSFですが、決してスペクタクルに執着するのではなく“家族”に焦点を合わせて物語を構成していくところに影響を受けました」  とはいえ『グエムル』は、怪獣映画のカタルシスを決しておろそかにはしていない。特に開巻からほどなく始まる、怪物が漢江の河川敷で人間を襲うデイシーンは怪獣映画史に残るようなインパクトを放つ。巨体に見合わぬ素早い動きで、逃げまどう人々を片っ端から踏みつけ、そして殺戮の限りを尽くしていく怪物——。ジュノは非凡な画面構成力と演出力で、このおぞましいスペクタキュラーを本作最大の見どころとして可視化している。   ■『グエムル』以後の韓国怪獣映画の流れ 『グエムル-漢江の怪物-』は国内観客動員数1301万人という異例の大ヒットを記録し、2014年に公開された『バトル・オーシャン 海上決戦』に破られるまで、韓国映画興行成績ランキングベスト1の座に君臨していた。しかし、こうしたヒットが韓国に怪獣映画の興隆をうながしたのたというと、そうでもないのが本作の特異たる所以である。  じっさい『グエムル』以降の怪獣映画の流れはというと、本作公開後の翌年(2007年)には『怪獣大決戦ヤンガリー』のシム・ヒョンレが、500年ごとに起こる大蛇大戦を描いた『D-WARS ディー・ウォーズ』を監督。韓国とアメリカでヒットを記録したものの、作品は国内でも海外でも酷評の嵐に見舞われている。  さらにその翌々年、巨大イノシシによる獣害パニックを描いた『人喰猪、公民館襲撃す!』(09)が公開。同ジャンルの可能性をとことんまで追求し、今後に期待をつなぐような面白さを放ったのだが、韓国初のIMAXデジタル映画として発表されたハ・ジウォン主演のモンスターパニック『第7鉱区』(11)が、『エイリアン』(79)のリップオフ(模造品)のような既視感の強さで、せっかくの好企画を台無しにしてしまった。   当然ながら大ヒットを飛ばした『グエムル』にも続編の企画があり、その前哨戦として同作の3D化がなされ、11年の釜山国際映画祭で公開された。しかし肝心の『2』製作はプロモーション用のフィルムまでできたものの、資金不足から企画は頓挫している。ジュノ自身は後年、米韓合作による配信映画『オクジャ okja』(17)に着手。アメリカ企業に捕らえられた巨大生物を救うべく、少女が孤軍奮闘するという『グエムル』を反復するような怪獣映画を展開させ、ひとまず好評を得たのだが……。  ちなみに『D-WARS ディー・ウォーズ』のプロモーションでヒョンレが来日したさい、取材で彼に『グエムル』は観たのかと質問した。すると、 「観たよ、この2つの目でね」  という元コメディ俳優らしいギャグを飛ばしてきたが、内容に対する具体的なコメントは聞き出せなかった。もしかしたら同作に対して強いライバル意識があったのかもしれないし、日本の怪獣映画と、そして自らの作家性や意匠が塩梅よくブレンドされたジュノの力作に対し、たまらなくジェラシーを感じていたのかもしれない。そんな彼も『D-WARS 2』の企画を始動させていたものの、ヨングアート社の資金の使い込みや社員の賃金未払いなどが表面化し、2012年に自己破産を申請。『D-WARS 2』は宙に浮いたままになっている。  怪獣映画の革命作『グエムル-漢江の怪物-』の初公開から、およそ12年の月日が経った。だが韓国の「怪獣映画」の未来は、まだまだ遠い先にあるようだ。▪︎ © 2006 Chungeorahm Film. All rights reserved.

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