1842年の南京条約以来、英国領となっていた香港が中国に返還されたのは1997年7月1日のこと。四方田犬彦は香港返還の直前にこう書いている。「九〇年代に入り、香港返還が近付いてくるにつれて、香港映画はますますコスモポリタンな傾向を強くしていっている。歴史とか、民族とか、これまではそれなりに尊重していた観念からどんどん遠ざかりつつ、大衆消費社会を謳歌する方向へと発展している。早い話が王家衛(ウォン・カーウァイ)であり、呉宇森(ジョン・ウー)である」(現代思潮新社刊『俺は死ぬまで映画を観るぞ』所収「香港の耐えられない軽さ 『食神』」)。これは評論のタイトルが示すとおり周星馳(チャウ・シンチー)『食神』(1996)について記したテキストの導入部分からの引用であるが、1990年代の香港映画の特徴を実に簡潔かつ的確に表しているといえるだろう。そして四方田は「当然のことながら映画はここまで軽くなっていいのだろうかという戸惑いが生じるが、それが政治的なニヒリズムと同時代的に成立しているのが一九九七年の香港なのである」という一文でこの評論を結んでいる。今回取り上げる『初恋』はまさしくこの1997年に製作された作品である。
“初恋”の言葉のイメージを覆す序盤
映画そのものの話に入る前に、エリック・コットについて少々。1980年代からラジオDJとして活動していたエリック・コットは、DJ仲間であったジャン・ラムとラップ・ユニット「軟硬天師(Softhard)」を結成。1990年代に入ると俳優として映画に出演するようになる。そんな彼の長篇初監督作品が『初恋』。『恋する惑星』(1995)、『天使の涙』(1996)、『ブエノスアイレス』(1997)といった作品を監督したウォン・カーウァイの初プロデュース作ということでも話題になった。
映画の題名が『初恋』ということで、鑑賞者はその言葉の持つイメージ──ほのかに甘いノスタルジーや成就しなかった苦々しい思い出など──を多少なりとも抱いてこの作品を観はじめるのではないだろうか。だが、その思いは開始早々に疑問符となる。最初の映像はこうだ。頬杖をついている若い女性──本作が映画初出演となるリー・ウェイウェイ──に画面外の声がこう問いかける。「リー・ウェイウェイちゃん “初恋”に出演の感想を」。その質問にリー・ウェイウェイは涙ぐみながら「言葉で言い表せません」と返答する。質問した「声」はそれを聞いていう。「こいつはまいったぞ セクハラ監督の噂があるんだ」「彼女の目がそれを訴えてる」。続いてアフロ・ヘアのウィッグに白いフレームのサングラスをかけた男が語りはじめる。「この企画は96年から始まった」「その年の初め ウォン・カーウァイ監督が──ぼくに監督しないかと言ってきた」。どうやらこの男がエリック・コットらしい。そして本作のタイトルが画面に現れ、映画の製作風景と思しき映像がテンポよくつながれてゆくのだ。しばらくそれが続いたかと思うと、ふたたびエリック・コットが登場して「初めての恋が必ずしも“初恋”とは限らない」という。なるほど確かに、と思っていると「そこでAV女優と“小鋼炮”(サポーター)の話を選んだ」。え?
映画の題名が『初恋』ということで、鑑賞者はその言葉の持つイメージ──ほのかに甘いノスタルジーや成就しなかった苦々しい思い出など──を多少なりとも抱いてこの作品を観はじめるのではないだろうか。だが、その思いは開始早々に疑問符となる。最初の映像はこうだ。頬杖をついている若い女性──本作が映画初出演となるリー・ウェイウェイ──に画面外の声がこう問いかける。「リー・ウェイウェイちゃん “初恋”に出演の感想を」。その質問にリー・ウェイウェイは涙ぐみながら「言葉で言い表せません」と返答する。質問した「声」はそれを聞いていう。「こいつはまいったぞ セクハラ監督の噂があるんだ」「彼女の目がそれを訴えてる」。続いてアフロ・ヘアのウィッグに白いフレームのサングラスをかけた男が語りはじめる。「この企画は96年から始まった」「その年の初め ウォン・カーウァイ監督が──ぼくに監督しないかと言ってきた」。どうやらこの男がエリック・コットらしい。そして本作のタイトルが画面に現れ、映画の製作風景と思しき映像がテンポよくつながれてゆくのだ。しばらくそれが続いたかと思うと、ふたたびエリック・コットが登場して「初めての恋が必ずしも“初恋”とは限らない」という。なるほど確かに、と思っていると「そこでAV女優と“小鋼炮”(サポーター)の話を選んだ」。え?
夜の街に遊ぶ夢遊病者とそれにつきそう男の恋
ここからしばらくは「ボツ企画」と本篇への導入の物語。これを経て金城武演じる清掃員ラムと夢遊病の少女に扮するリー・ウェイウェイのストーリー「精神病の男と夢遊病の少女の話」が始まるのだ。ある日、ラムがエレベーターに乗っているとウェイウェイが乗り込んできた。彼女は夢中遊行の真っ最中。ラムは毎夜毎夜の徘徊につきそうようになるうち、ウェイウェイを起こそうとするが何をやっても目覚めることはない。一方のウェイウェイは夜間徘徊中、自分がどこに行って何をしているのかを突きとめるべく、ビデオ・カメラを導入。眠る前に身につけて準備しておくことにした。「どうせ治らないなら──ビデオを見て元気を出そう」。やがてウェイウェイは徘徊中いつも同じ男性が自分と一緒にいて、毎晩違うところに連れていってくれていることをビデオの映像を通して知る。徘徊中の記憶はなく、男の顔も当然ながら思い出せない。ビデオを観ても不鮮明でわからないのだ。そのうちに夢遊病が治った代わりに不眠症になってしまうウェイウェイは、夢遊病のふりをしてラムとの夜の外出を続けるのだった──。
夢遊病のふりが功を奏してウェイウェイはラムのことを認識することができた。そんなふたりは次第に惹かれあってゆくのだが、では結末はどうか? これは映画を観てもわからない。理由は本篇をご覧いただければと思うが、ラムの夢のなかで繰り広げられるふたりの「暮らし」のシークエンスは、この物語中とびきり優しさに溢れているとだけ申し上げておこう。
夢遊病のふりが功を奏してウェイウェイはラムのことを認識することができた。そんなふたりは次第に惹かれあってゆくのだが、では結末はどうか? これは映画を観てもわからない。理由は本篇をご覧いただければと思うが、ラムの夢のなかで繰り広げられるふたりの「暮らし」のシークエンスは、この物語中とびきり優しさに溢れているとだけ申し上げておこう。
10年のときを経て紡がれる切ない物語
映画は続いてもうひとつの物語「ヤッピンとカレンの恋の後始末」へと文字通りなだれ込む。こちらの主人公は監督自ら演じるヤッピンとカレン(カレン・モク)。10年前、ふたりは結婚することになっていたが、ヤッピンは披露宴を目前にして結婚指輪を持ったままカレンから逃げ出して行方をくらませてしまった。いまや彼は別の女性と結婚し、子どもを授かり、果物や酒、飲料などを売る店を経営しており、くだんの指輪は現在の妻の指に収まっている。一方のカレンは写真店を営んでいる。ひょんなことからヤッピンの居場所、つまり彼の店を知ったカレンはそこを訪ねた。「コーラを」とヤッピンに注文するカレン。ヤッピンはカレンが復讐に来たのだと怯えているのだが、カレンは瓶のコーラをストローで飲むとそのまま帰っていった。以来、商売に身が入らないヤッピン。その後もたびたび店にやってきてはコーラを飲んでゆくだけのカレンに勝手に怒りと殺意を感じ取ってしまい、またビビるヤッピンだったが──。
この物語を端的にいうなら、身勝手な男の身勝手な妄想ということになろうか。しかし妄想から生じた怯えは、次第に別の感情へと移り変わってゆく。その途中、ところどころにみられるカレンの気持ちとそれを感じさせる行動がなんとも切ない。終盤、ある写真をプリントしているカレンの姿は何度見てもグッときて目頭が熱くなる。
この物語を端的にいうなら、身勝手な男の身勝手な妄想ということになろうか。しかし妄想から生じた怯えは、次第に別の感情へと移り変わってゆく。その途中、ところどころにみられるカレンの気持ちとそれを感じさせる行動がなんとも切ない。終盤、ある写真をプリントしているカレンの姿は何度見てもグッときて目頭が熱くなる。
タイトルに込められた思いが溢れる
「ヤッピンとカレンの恋の後始末」が一応の終わりを迎えたあと、ひと呼吸挟んで──このシークエンスもぜひ本篇で確認していただければと思う──、ふたたびエリック・コットが監督として画面に登場する。ここで彼が語るのは、この作品に自分がどんな思いで取り組んだかだ。彼にとって、映画を撮るという初めての体験は恐ろしくまたプレッシャーもあったが、やり終えてそれと同じくらいかそれ以上にドキドキできただろう。この映画の題名である“初恋”とは、そんなドキドキできたこと、すべてを投げ出すほどの情熱を傾けられたこと──それは作品のなかの恋物語であり、映画作りのことでもあるだろう──の総称であり、本作はそのいくつかの例を描いた作品といえそうである。
ドキドキできること、夢中になれることを“初恋”と称して表現した本作を別の言葉で表現するなら「映画を作る映画」となるだろう。その点ではフランソワ・トリュフォー『アメリカの夜』やフェデリコ・フェリーニ『8 1/2』とも通底しているように思う。「精神病の男と夢遊病の少女の話」のビデオ・カメラ撮影、「ヤッピンとカレンの恋の後始末」のカメラでの撮影とその結果としての写真は映画撮影と完全に入れ子構造になっているのだ。また、画面外の語りやロケ撮影、それから知っている人ならニヤリとできるある種の楽屋落ち的な表現──撮影を担当したクリストファー・ドイルの作風をダシにしたシークエンスや、ウォン・カーウァイが影響を受けている村上春樹の名前をわざと間違えるところがこれに相当する──などから、ヌーヴェル・ヴァーグ諸作、とりわけゴダール的な匂いを感じとることもできるだろう。つまり本作は「香港ヌーヴェル・ヴァーグ」なのである。そう考えると、作中に頻出する瓶のコーラも偶然ではない。と、こう書いていて瓶のコーラが俄然恋しくなった。
ドキドキできること、夢中になれることを“初恋”と称して表現した本作を別の言葉で表現するなら「映画を作る映画」となるだろう。その点ではフランソワ・トリュフォー『アメリカの夜』やフェデリコ・フェリーニ『8 1/2』とも通底しているように思う。「精神病の男と夢遊病の少女の話」のビデオ・カメラ撮影、「ヤッピンとカレンの恋の後始末」のカメラでの撮影とその結果としての写真は映画撮影と完全に入れ子構造になっているのだ。また、画面外の語りやロケ撮影、それから知っている人ならニヤリとできるある種の楽屋落ち的な表現──撮影を担当したクリストファー・ドイルの作風をダシにしたシークエンスや、ウォン・カーウァイが影響を受けている村上春樹の名前をわざと間違えるところがこれに相当する──などから、ヌーヴェル・ヴァーグ諸作、とりわけゴダール的な匂いを感じとることもできるだろう。つまり本作は「香港ヌーヴェル・ヴァーグ」なのである。そう考えると、作中に頻出する瓶のコーラも偶然ではない。と、こう書いていて瓶のコーラが俄然恋しくなった。