先日、住んでいる京都には積もるほどの雪が降った。積もるほど降るのはおそらく今冬初である。極度の寒がりで冷え性なのに、雪が降ったり積もったりするとやはり少し嬉しくなってしまう。以降も寒い日が続いており、大寒は過ぎたものの冬本番といった感じの今日この頃だ。
そんな冬には冬の映画を、ということで、エリック・ロメールの“四季の物語”シリーズのうちの1本、「冬物語」を久しぶりに観返した。
“四季の物語”はロメールが1980年代末〜1990年代後半にかけて撮った、その名の通り春夏秋冬4つの季節を背景にした物語全4作品のシリーズだ。この連載のvol.1で書いたが、私は家にあった録画ビデオテープで「満月の夜」にハマり、エリック・ロメールという監督を知り惹かれるようになった。そして次に観たロメール作品というのが、この一連の“四季の物語”シリーズだった。
観た場所は、これも前述したミニシアター、京都みなみ会館での特集上映だった。「あの満月の夜のエリック・ロメールだ!これは観に行かねば!」と4本全て観に通い、「全部めちゃくちゃいい!」と驚いた。今でも感心するのだが、この四季シリーズは本当に、4本が4本とも全部いいのだ。
すべて観終わった頃には、「満月の夜」単発ではなく自分はこの監督自体が好きだ!と確信し、すっかりロメール好きになっていた。今思い返せば、「満月の夜」の次にこのシリーズを4本まとめて観れたことで、とてもスムーズにロメールの魅力を堪能し、すんなりとロメール好きの道へ入って行けたと思う。
そんなわけでこの“四季の物語”シリーズは思い出深い作品群である。ロメールの特徴も余す所なくしっかりばっちり詰め込まれているので、これからロメールを観てみたいという人がまず最初に観てみる作品としてもおすすめだ。その場合はぜひ、4本通して観てみてほしい。
さて、ようやく「冬物語」だが、この物語は旅先の海辺の街で出会い愛し合い再会を約束した男女が、女性の超特大うっかりミスにより再会が叶わなくなってしまったというところから始まるお話しである。主人公の女性フェリシーにはそのときにできた子どもがおり、未婚のシングルマザーとして美容院で働いている。
フェリシーは相手の男性、シャルルとの再会を現在も願っているが、今は今で恋人はいる。しかも2人。しかしその2人にはそれぞれにもう1人の存在もシャルルのことも隠すことなく伝えている。2人のことは、シャルルほどには好きになれない。シャルルは特別で別格な存在なのだ。
そんな冬には冬の映画を、ということで、エリック・ロメールの“四季の物語”シリーズのうちの1本、「冬物語」を久しぶりに観返した。
“四季の物語”はロメールが1980年代末〜1990年代後半にかけて撮った、その名の通り春夏秋冬4つの季節を背景にした物語全4作品のシリーズだ。この連載のvol.1で書いたが、私は家にあった録画ビデオテープで「満月の夜」にハマり、エリック・ロメールという監督を知り惹かれるようになった。そして次に観たロメール作品というのが、この一連の“四季の物語”シリーズだった。
観た場所は、これも前述したミニシアター、京都みなみ会館での特集上映だった。「あの満月の夜のエリック・ロメールだ!これは観に行かねば!」と4本全て観に通い、「全部めちゃくちゃいい!」と驚いた。今でも感心するのだが、この四季シリーズは本当に、4本が4本とも全部いいのだ。
すべて観終わった頃には、「満月の夜」単発ではなく自分はこの監督自体が好きだ!と確信し、すっかりロメール好きになっていた。今思い返せば、「満月の夜」の次にこのシリーズを4本まとめて観れたことで、とてもスムーズにロメールの魅力を堪能し、すんなりとロメール好きの道へ入って行けたと思う。
そんなわけでこの“四季の物語”シリーズは思い出深い作品群である。ロメールの特徴も余す所なくしっかりばっちり詰め込まれているので、これからロメールを観てみたいという人がまず最初に観てみる作品としてもおすすめだ。その場合はぜひ、4本通して観てみてほしい。
さて、ようやく「冬物語」だが、この物語は旅先の海辺の街で出会い愛し合い再会を約束した男女が、女性の超特大うっかりミスにより再会が叶わなくなってしまったというところから始まるお話しである。主人公の女性フェリシーにはそのときにできた子どもがおり、未婚のシングルマザーとして美容院で働いている。
フェリシーは相手の男性、シャルルとの再会を現在も願っているが、今は今で恋人はいる。しかも2人。しかしその2人にはそれぞれにもう1人の存在もシャルルのことも隠すことなく伝えている。2人のことは、シャルルほどには好きになれない。シャルルは特別で別格な存在なのだ。
今回久しぶりに「冬物語」を観なおしていると、イタリア映画の名作、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの「ひまわり」のことがふと浮かんだ。「愛し合っていた男女が離ればなれになってしまい、女性が行方知れずになった男性を探し求める」という枠組みにおいてはこの2作品は共通していると思ったからだ。そういえば「ひまわり」の冒頭にも主人公の男女が楽しく海ではしゃいだり料理をしてじゃれあったりするシーンがあり、そこも似ている。
しかし枠組みは似ていても、この2作品の主題は全く違う。もちろん離ればなれの理由が「ひまわり」は戦争、「冬物語」はうっかりミスというところからして全然違うのだが、「冬物語」は言ってみれば、再会できてもできなくてもどちらでもよかった物語だといえると私は思う。
というのも、シャルルとの再会を願いながら2人の恋人の間で揺れ動き、これからの人生や生活のことを考えるなかで、フェリシーはある境地に辿り着く。シャルルとの再会を信じそのために生きて行くことは、そうしたからといって彼が見つかるわけではないけれど、再会の妨げにはならない、と。それは人生を棒にふるということではないかと言われても、「奇跡的な確率だとしても、再会できたらすごくうれしいから人生を賭ける。もしできなかったとしても希望のある人生だから見劣りしない」と答える。
それは哲学者パスカルの「賭けの論議」といわれる考えと同じものだった。神の存在を証明することができなくても、神が存在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、という考え方だという。その考えに自ら辿り着けた時点で、もう再会できてもできなくても、フェリシーのこれからの人生は明るくよきものになると確信できる。物語の一番のポイントはそこなのだ。
人から不幸だと言われても、そうではない。私という存在は宇宙に一人で、自分で行動し、何物にも流されてはいけない。そうフェリシーは言う。自分の幸せは自分で決めるというその姿は清々しく、物語の結末も、そんなフェリシーの強さに花を添えてくれている。
しかし枠組みは似ていても、この2作品の主題は全く違う。もちろん離ればなれの理由が「ひまわり」は戦争、「冬物語」はうっかりミスというところからして全然違うのだが、「冬物語」は言ってみれば、再会できてもできなくてもどちらでもよかった物語だといえると私は思う。
というのも、シャルルとの再会を願いながら2人の恋人の間で揺れ動き、これからの人生や生活のことを考えるなかで、フェリシーはある境地に辿り着く。シャルルとの再会を信じそのために生きて行くことは、そうしたからといって彼が見つかるわけではないけれど、再会の妨げにはならない、と。それは人生を棒にふるということではないかと言われても、「奇跡的な確率だとしても、再会できたらすごくうれしいから人生を賭ける。もしできなかったとしても希望のある人生だから見劣りしない」と答える。
それは哲学者パスカルの「賭けの論議」といわれる考えと同じものだった。神の存在を証明することができなくても、神が存在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、という考え方だという。その考えに自ら辿り着けた時点で、もう再会できてもできなくても、フェリシーのこれからの人生は明るくよきものになると確信できる。物語の一番のポイントはそこなのだ。
人から不幸だと言われても、そうではない。私という存在は宇宙に一人で、自分で行動し、何物にも流されてはいけない。そうフェリシーは言う。自分の幸せは自分で決めるというその姿は清々しく、物語の結末も、そんなフェリシーの強さに花を添えてくれている。