苅田梨都子 連載:WORD-ROBE file4 「軽やかに魅了するゴダール作品」

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苅田梨都子 連載:WORD-ROBE file4 「軽やかに魅了するゴダール作品」

目次[非表示]

  1. 哲学とコメディ、巧みな演出
  2. アンナ・カリーナのお化粧や髪型
  3. 私は女であるという自覚
 9月13日、ニュースでジャン=リュック・ゴダールの訃報を知った。当日、各SNSでゴダールを追悼する友人や著名人の投稿を横目に、かなり失礼だが、私は「まだ生きていたのか」という驚きを隠せなかった。ゴダールのイメージは映画界の巨匠であったから。そして私は彼の生前中、作品を観たことがなかった。エリック・ロメールの映画に二度ほどゴダールがキャストとして登場していることを知ってはいたものの、踏み込むタイミングを失っていた。「いつか、」なんて無いことを様々なタイミングで受け取る。

 今回は、私のようにゴダール作品をまだ観たことがない人へ。
 そして少し気になっていたけれど、どれから観始めたら良いか分からない人へ。

 そんな人へ少しでも観るきっかけになればと思い、ゴダール作品初心者の私目線で書いてみることにする。多くのファンの皆さまの熱量に怯えながら、つらつらと。少しばかり大目に見てほしい。

哲学とコメディ、巧みな演出

 ゴダールの代表作の一つと言えば「はなればなれに」。アメリカの犯罪小説をもとに製作した、型破りの3人組による恋と犯罪の物語。

「はなればなれに」
Bande à part, un film de Jean-Luc Godard. © 1964 Gaumont / Orsay Films.

 まず私が惹かれた部分はオープニングである。ここは何度も見返した。ポップなメロディと登場人物3人のテンポ良いコマ撮りに合わせ、少しずつタイトルが現れる。これから映画が始まるぞ!という意気込みある合図のようで、観客を思わずワクワクさせる。私の心はあっと言う間に鷲掴みにされてしまった。

 続けて眺めていると、台詞に引っかかった。例えば前半の授業シーン。先生が「古典的(クラシック)=現代的(モダン)」と詩人エリオットの言葉をチョークで板書する。するとオディール(アンナ・カリーナ)を名指し、“すべて新しいことは、無意識のうちに伝統的な事柄に基づく”と答える。
3人がお喋りの最中、「幸か不幸かコカ・コーラ」という駄洒落混じったクスッと笑える台詞も。文学的な台詞や記憶に残るコンパクトな台詞が映画の中にあると私は記憶に残りやすい。言葉のもたらす余韻のような効果がある。

 タイトルである「はなればなれに」の回収もきちんとラストに収められているので、そこは観てからのお楽しみということで。

 私はまだゴダールのことを完璧には知らない。まだ知ろうとしている初手で彼の思想に少し触れた程度だ。ストーリー自体はわかりやすいので、どなたでも気軽に観ていただけそうな作品だ。ただ単純明快というわけではなく様々な仕掛けが1時間半の中に沢山散りばめられており脱帽する。後半のアンナ・カリーナが脱いだニーハイソックスの巧みな使い方にも、脱いだ後どうするのだろうという観ている側へのワクワク感と同時に画にも大きな変化が加わる。

 そしてビリヤードの後にカフェか休憩所で3人が集いお喋りしているシーンでは急に約1分の音消しシーンが入る。すごくナチュラルに。こんなにラフに話しているから、こちらも気を抜いていたところに緊張が。メリハリ、飴と鞭なゴダールである。

 濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」にも音消しのシーンがあって私は大好きだ。色や音楽、装飾品などインパクトを出すために盛ることを考えがちだけれど、音消しは引き算である。服をデザインするときも足し算ばかりでなく引き算がかなり重要で難しい。そのバランス感を映画で感じられた。

アンナ・カリーナのお化粧や髪型

「はなればなれに」
Bande à part, un film de Jean-Luc Godard. © 1964 Gaumont / Orsay Films.

 女優のアンナ・カリーナは1966年の映画「ANNA」とエリック・ロメールの脇役で観た気になっていた。「ANNA」ではレインコートに黒縁眼鏡などを纏い、個性的なファッションや存在感に魅了されていた。

 今回「はなればなれに」と「女は女である」の2作品を鑑賞。モノクロである「はなればなれに」とカラーの「女は女である」ではやはり印象は異なるが、共通してアンナ・カリーナが当時20代前半と全盛期であり容姿も仕草もかなりキュートだ。
「はなればなれに」では冒頭のヘアスタイルが特に似合っていた。短いオン眉の前髪に、コンパクトにサイドの髪を2つに結っている。日本画家、中原淳一のイラストや絵本に登場しているところも想像できるくらいの完璧なビジュアルだ。他には鏡の前でスカーフリボンを髪に纏う姿など、軽やかに変身していく。

「女は女である」ではアンナ・カリーナがニコリとする度、水色のアイラインらしきお化粧がくっきり見え華美な印象を受けた。服をはじめインテリアなど“赤”の色遣いを意識している作品と感じたが、同時に“青”も同じくらい大事に使われている。「はなればなれに」と比べるとドレスアップしたヘアメイク、衣装で本物のミュージカルの主役のよう。

私は女であるという自覚

「女は女である」
©1961 STUDIOCANAL IMAGE - EURO INTERNATIONAL FILMS, S.p.A.

 「女は女である」はパリの小さな書店に勤める青年エミールと、アンナ・カリーナ演じるアンジェラが一緒に暮らしている。アンジェラは24時間以内に赤ちゃんが欲しいと言い出し、子供にも結婚にも意味を感じないエミールとはいつもの喧嘩に発展する。子供を産むと意地を張ったアンジェラは普段から彼女に気がある下の部屋に住むもう一人の男性、アルフレッドのもとへ…

 初めて再生した時、冒頭でiPadの調子が悪いのかと疑った。BGMのメロディが意図的にプツプツ無音になり、動揺する。小さな違和感。

 作中、エミールとアンジェラは終始喧嘩をしている。ただし二人の喧嘩は私たちに向かってお辞儀をしたり踊ったりとミュージカルを意識した仕様。
映画は映画の中だけで完結するのではなく、「はなればなれ」でも同様にきちんと観ている側のことも明快に頭の中にあるのだなと思わされた。第三者に対してさり気なく気配りができているということは、実際にゴダール自身も突き放したりしない、思いやりがある人なのだろう。愛される人なのだと感じ取れた。

 他にも喧嘩のシーンでは、本のタイトルの一部を見せ合い会話をするユーモア性も。喧嘩中、エミールが空腹で機嫌が最悪な時、アンジェラは焦げたローストビーフを差し出す。何でこんな時に失敗するのだろう・・・とまるで私を見ているようだった。

 タイトルの「女は女である」を受け取った印象として、少し違和感を感じた。私は時々性別自体が煩わしい名称だなと感じる。この作品が作られた年代と比べ、今はジェンダーについての意識や考え方も多様に変化してきている。私以外にも少し違和感を感じる人もいるだろう。

「女は女である」
©1961 STUDIOCANAL IMAGE - EURO INTERNATIONAL FILMS, S.p.A.

 しかしこの作品を観ると、私は女だなあと感じる部分が如実に現れている。ニコニコ愛らしい部分、気分がコロコロ変わって掴めないところ、口を膨れっ面にして拗ねてしまうところ、どっちが良い?と聞いておきながら自分の好きなものを選ぶこと。ああ、嫌でも私は女であるのだなと感じた。
連動するように男という存在も、女という輪郭がはっきりしてくると同時に明確になってくる。根本的な性の部分というのは切っても切り離せないと日々過ごしながら感じる。

 レコードの曲をかけ、歌詞で気持ちを代弁するシーン。始まりから終わりまで画面の端で抱擁しずっとキスをしているカップルの存在。部屋に飾られている黄色の花束の中に一輪だけ赤い花がある様子は、まるでアンジェラのようだ。

そんな風に、まだまだ随所に謎や余韻、仕掛けを残しまくっているゴダール。私は少し、あなたのことが気になり始めている。

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この記事のライター

苅田梨都子
苅田梨都子
1993年岐阜県生まれ。

和裁士である母の影響で幼少期から手芸が趣味となる。

バンタンデザイン研究所ファッションデザイン科在学中から自身のブランド活動を始める。

卒業後、本格的に始動。台東デザイナーズビレッジを経て2020年にブランド名を改める。
現在は自身の名を掲げたritsuko karitaとして活動している。

最近好きな映画監督はエリック・ロメール、濱口竜介、ロベール・ブレッソン、ハル・ハートリー、ギヨーム・ブラック、小津安二郎。

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