【日芸 映画批評連携】#2-2 人生はタイミングの問題だ
ミニシアター系サブスク、ザ・シネマメンバーズが大学の授業や映画を学ぶ学生と連携し、映画について考えていく学生参加型のプロジェクト第一弾:日本大学芸術学部映画学科との映画批評での連携。第二回目の題材は、ウォン・カーウァイの「花様年華」。今回は二人の批評を掲載。二人目は、田中美穂さん。
執筆者:田中美穂 映像表現・理論コース/映像専攻3年
冒頭のタイトルクレジットで⾚い背景に「花・様・年・華」と⽩い⼤きな⽂字で映し出される。
なんと⼤胆で気持ちいいのだろうと思った。『花様年華』(2000年)のあらすじを言葉にしてしまうと何の変哲もない不倫の物語だ。しかしこの映画を観終えた時、さまざまな感情に揺れ動かされる。何がそうさせているのだろうか。
なんと⼤胆で気持ちいいのだろうと思った。『花様年華』(2000年)のあらすじを言葉にしてしまうと何の変哲もない不倫の物語だ。しかしこの映画を観終えた時、さまざまな感情に揺れ動かされる。何がそうさせているのだろうか。
まずあらすじから振り返ってみる。偶然同じ⽇に隣同⼠に引っ越してきたマギー・チャン演じるチャンとトニー・レオン演じるチャウはお互いに配偶者がいるにも関わらず不倫関係になり、ともに時間を過ごしていく。2022年5作品4Kレストア版劇場上映の予告ではウォン・カーウァイの「愛がすべて/⼈⽣はタイミングの問題だ ―ウォン・カーウァイ」という文字が出てくる。その言葉通り『花様年華』ではタイミングが⼀つのコンセプトになっている。チャウが部屋を借りることになったのも、ちょうど元の部屋の持ち主の家族の⻑男が独⽴したというタイミング、チャウとチャンの引越しが重なるというタイミング、帰宅のタイミング、結婚相⼿が家を空けるタイミング、⾬のタイミング。また、部屋や廊下、屋台ですれ違うタイミングはスローモーションが⽤いられ、⾊っぽいワルツが流れ、映像的に強調されている。チャウとチャンは完璧に仕組まれたような、連続するすれ違いのタイミングのなかにいる。まるで運命がこの⼆⼈に味⽅をしているようなタイミングの連鎖が引き起こすこの瞬間は、二人が不倫関係であるという問題を差し置いて観客にこの恋愛を応援させてしまう。
この気持ち良さの要因はこの映画の他の要素からも⾒受けられる。ウォン・カーウァイ作品には恋愛にまつわるものが多く、トニー・レオンは度々彼の作品に出演している。その中でもトニー・レオンが主要人物として描かれる恋愛映画である『ブエノスアイレス』(1997年)と『花様年華』には共通点がある。それは⾞内で相⼿がトニー・レオンの肩に頭をもたれる、ことだ。『花様年華』は、チャンとチャウが別れる練習の後の帰路の⾞内のシーンである。『ブエノスアイレス』でも同様に車内である。付き合っていながらも⽔と油のような関係のレスリー・チャン演じるウィンとトニー・レオン演じるファイ。ある⽇お⾦を使い切ったファイが訳ありの時計を売ったことで傷だらけになってファイの元に帰ってくる。⼆⼈は病院に⾏き、その帰路の⾞内でウィンはファイの肩に頭をもたれる。この⼆作の共通する「肩に頭をもたれる」シーンでは、その前に起こっていたことが悲観的である。『花様年華』ではチャンは泣いているし、『ブエノスアイレス』ではウィンはボコボコにされている。しかし、その後トニー・レオンが現れては悲観的な展開に傷ついた彼らは、彼の肩という細やかな安らぎの場に着地するのである。
『花様年華』では配偶者に別れを切り出す練習をするシーンの後で傷つき涙するチャンを抱擁したのち、黒味の画面から彼の「頼むよ、ただの練習なのに。現実じゃない。」という声が聞こえてくる。そして⾞に乗っている⼆⼈の後ろ姿で「帰りたくないわ」と言って、チャウの肩にもたれるチャンが映り、お互いを求める様に握られる手が映し出される。純粋な恋愛関係でありながら不倫関係でもあり、⼆⼈で⼀緒にいたいのに一緒にいることが⼆⼈を苦しめていることが握られたチャウの手の結婚指輪が象徴している。不安と安堵が交差する⼀筋縄ではいかないこの⼆⼈の不安定な関係の中、愛するチャウの肩にたどり着いたチャンに感情移入をし、気持ちのいいワルツを聴きながら、まるでそのスローモーションの様に現実から逃避をしてしまうのだ。この映画は良くも悪くも夢見心地な気分へ誘ってくれる。
マギー・チャン演じるチャンは劇中、何度も際目立つ美しいチャイナドレスに着替えている。彼女の恋心を大家の使用人が察していることは「屋台に行くときにもお洒落をしていくの?」という何気ない台詞から読み解くことができる。この台詞はまるでチャンがいつどんな時でもチャウと会ってもいいように髪を綺麗をまとめ、美しいドレスを纏っていると解釈することができる。この台詞を踏まえると1963年のシンガポールのシーンも違う見方ができる。チャウは仕事の関係でシンガポールに行くことになったが、チャンはチャウと別れる決心がつかずにシンガポール行きのチケットを取り、シンガポールのチャウの部屋に彼には何も告げずに行っている。彼女はチャウのタバコに火をつけ、椅子に座ってタバコを吸う。そして無言の電話をかけては、自分のスリッパを置いていく。自分が来たことを知ってほしいのか、知ってほしく無いのかわからない曖昧な態度であるが、そこでも彼女は美しいドレスを着て、耳にピアスをし、髪も綺麗にまとめている。それによってその曖昧さは確信的なものに変わる。彼女がいつどんな時でも美しいのは、いつどんな時でもチャウに会ってもいい様にしているということなのだ。
その絶対的な美しさ、つまり会いたいという確信と曖昧な態度のギャップは、不倫の愛ならではの禁断の悲哀を感じさせながら、彼女の純粋な恋心も同時に感じさせる。彼女を美しく思えば思うほど、この不倫劇を切ないものとしてみてしまう。大家の使用人の一見何気ない「屋台に行くのにもお洒落をしていくの?」と言う台詞が彼女の恋心の核心をついているウォン・カーウァイの演出は実に粋である。
夢⼼地気分を増幅させるもう一つのシーンは、チャウの⽿打ちのように遺跡に秘密を告⽩するラストのシーンである。このシーンは「⼤きな秘密を抱えた者は、⼭で⼤⽊を⾒つけ、幹に掘った⽳に秘密をささやき、⼟で埋めて、秘密が漏れないように永遠に封じ込める」というチャウの話していた⾔い伝えのもとに描かれている。彼の発⾔の伏線を回収する終盤のチャウの行動は、言い伝えをもとにしているという点や遺跡というロケーションで、現実や⽇常から距離のあるものになっている。
そしてこの物語は終わる、というより、チャウによって封印されてしまう。『花様年華』の夢⾒⼼地な感覚の由来は、美しいチャンとチャウの⼆⼈の恋愛模様の中でのタイミングの良さ、チャウの肩という安全地帯の存在、言い伝えや遺跡などの⾮⽇常的なものの描写、チャウによって封印されるラストシーンが所以なのだろうか。そして、彼らのように強い存在感を放ったキャラクターの⾔動はどれもエキゾチックで優美であり観客を夢⾒⼼地にさせるのだ。
こうして『花様年華』は不倫の話、という変哲のない映画から、わたしたちをその先の境地に運んでみせる⼒を持っている。観た後、私にもタイミングが訪れトニー・レオンの様な男と⾊っぽい不倫関係を築くことができるのではないかと夢⾒⼼地のまま期待をしてしまうほどである。
選評
本稿における、“完璧に仕組まれたような連続するすれ違いのタイミング”というものは、映画の作り手によるものだという視点を入れていくと、“タイミングの連鎖が引き起こす快感”についてもっと深堀りできるように思います。そうすることで、“『花様年華』は不倫の話、という変哲のない映画から、わたしたちをその先の境地に運んでみせる⼒を持っている”ということがウォン・カーウァイの作家性から来ていることが明らかにできるのではないかと思います。
以上が選評で、ここからは総論として脱線していきますが、前回も今回も、何人もの学生さんの原稿で、“物語についての感想”がありました。それ自体は決して悪いことではないのですが、物語は映画なのか?ということを考えさせられました。
本当に起きていることではないことをそこに起こして、それを撮影し、いくつもの場面を連ねていき完成形にする、それが映画だと思います。スクリーンに映った、場面の連なりを観ている者の中でそれらが物語としての像を結ぶ。そういった、“物語が立ち上がる時”について、考えています。
(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)
以上が選評で、ここからは総論として脱線していきますが、前回も今回も、何人もの学生さんの原稿で、“物語についての感想”がありました。それ自体は決して悪いことではないのですが、物語は映画なのか?ということを考えさせられました。
本当に起きていることではないことをそこに起こして、それを撮影し、いくつもの場面を連ねていき完成形にする、それが映画だと思います。スクリーンに映った、場面の連なりを観ている者の中でそれらが物語としての像を結ぶ。そういった、“物語が立ち上がる時”について、考えています。
(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)