【日芸 映画批評連携】#1 少女ポーリーヌによる、恋の自由研究
ミニシアター系サブスク、ザ・シネマメンバーズが大学の授業や映画を学ぶ学生と連携し、映画について考えていく学生参加型のプロジェクト第一弾:日本大学芸術学部映画学科との映画批評での連携。第一回目の題材は、エリック・ロメールの「海辺のポーリーヌ」。
執筆者:エコダ95(ペンネーム) 学部4年 監督コース
本作は、夏のノルマンディーに集った5人の男女の姿を描いている。タイトルにある通り、中心となるのは15歳の少女ポーリーヌであり、この物語は彼女が一夏の思い出の中で「恋」について学ぶ姿を描いている。しかし、特筆すべきはその描き方だ。通常、このような作品では主人公が主体となりアバンチュールに巻き込まれるのが定石だが、この映画のポーリーヌは至って冷静だ。澄んだ瞳でゆっくりと、しかし熱心に恋について分析し、自分なりの答えを導いていく姿は、まるで夏休みの自由研究をする少年少女のようである。
ポーリーヌは避暑地に来るとすぐに、歳の離れた従姉マリオンに、15歳の等身大の「恋愛」について語る。マリオンはその可愛らしい「恋愛」に共感するが、すぐ後にビーチで昔の恋人ピエール、そして民俗学者でプレイボーイのアンリと出会い、恋の炎に燃え上がる。ポーリーヌはその周りをただうろうろしている。大人の三角関係の中で居場所に困っている彼女は、フレームの中でも所在なさげである。アンリの家で大人の男女3人がフランス人らしく「愛」について座談会を開く場面でも、ポーリーヌは一人カメラに背を向けて本を読んでいる。ここでの彼女の目線が可愛らしく、「大人の世界」への好奇心を隠しきれていない。本の内容もそっちのけで、話が本格化すると3人の間を落ち着きなく行き来している。
しかし、マリオンという女性は大人げがない。ポーリーヌの可愛らしいエピソードに共感したことなど忘れ、リベラルで知的なアンリの「セクシーな」人生観に触発されると、自分の大胆な男性遍歴と燃えるような「情熱的で燃え上がる愛」への憧れを大演説する。それに比べると、ピエールの考え方は青臭いが、個人的には一番共感できる。情熱を信じず、常に誠実な愛と相手を求めている彼は、ある意味で一番のロマンチストだ。さて、それを聞いたポーリーヌはどうかというと、すっかり自分の「恋愛」に自信をなくしてしまう。「作り話だったかも」と言ってしまうほどである。
その後、案の定マリオンとアンリは「燃え上がり」、ポーリーヌはその結果を目撃する。哀れなのはピエールだ。懸命に元恋人にウインドサーフィンを教え、「燃え上がろう」と腰に手を回して頑張るが、ポーリーヌと同じくマリオンとアンリが「燃え上がった」ことを知っている観客には滑稽に映る。挙句の果てにマリオンはピエールをポーリーヌに押し付け、アンリの元へ去っていく。マリオンとアンリが燃え上がると同時にピエールの嫉妬の炎も「燃え上がる」。しかし悲しいかな、誠実なピエールは馬鹿正直にマリオンに気持ちを打ち明けることしかできない。(あぁピエール……)
そんな大人たちを脇目に、恋愛について「観察」を重ねたポーリーヌは「実践」に移行する。海で知り合った少年シルヴァンと接近し、恋人は大勢いると背伸びしてみたり、マリオンたちのように音楽に合わせて彼と踊ってキスしてみたり。果てにはアンリの家のベッドに連れ込み「燃え上がってみる」のだ。ポーリーヌ、彼女もやはりマリオンと同じ血が流れている。しかし、所詮15歳の少年少女たちのすることは「ごっこ」だ。観客はその直後、アンリとマリオンが同じ曲でより情熱的に「燃え上がる」のを目撃する。まるで大人のカップルが少年少女の戯れを添削しているかのようである。
前半の関係性のセットアップが見事なのは、観客が全てを知っている状態にしている点だ。サスペンス映画のように事前に「種明かし」することで、次に展開される何も知らない登場人物たちの行動に別の文脈が生まれ、それが何ともおかしい。誠実に頑張るピエールも、大人になりきるポーリーヌも、保護者面のマリオンも、この構成によって皆、滑稽で愛らしい人物となる。
この構成が最も効果的に発揮されるのが、中盤のシーンだ。遊び人のアンリは案の定マリオンそっちのけでキャンディー売りの女を引っ掛けて家に連れ込むが、そこにマリオンが帰ってきてしまう。焦った彼はたまたまそこにいたシルヴァンを利用し、「シルヴァンが売り子と寝た」というセッティングをし、マリオンに言い訳をする。(かわいそうなシルヴァン、大人の世界そっちのけでテレビに夢中になっていただけなのに……)この出来事が軸となり、後半部が展開する。登場人物たちはそれぞれ誰が何をしていたかを誤解したまま言い争いが発展し、観客だけが真実を知っている。それによって必死に言い訳をしたり、相手を責めたりすることで拗れていく5人の男女の人間関係が「面白く」「愛らしく」感じられる。この後半部の中でも私はやはりピエールに入れ込んでしまう。上手く言い訳をして窮地を乗り越えていくアンリに対し、あまりにも不器用なピエールは真実を馬鹿正直に伝えるあまりマリオンにもポーリーヌにも嫌われる。(押し付けられたポーリーヌへのウインドサーフィンのレッスンを続けているのも実に健気だ)挙句の果てに恋敵アンリに「口が軽いやつ」と責められる。この辺りで気づくのだが、この映画に登場する3人の男(ピエール、シルヴァン、アンリ)はそれぞれ常に青、白、赤とフランスのトリコロールの衣装を身に着けており、そのどれもが劇中での彼らの性質に皮肉的に作用している。真面目すぎるが故に人間関係にがんじがらめになるピエールの青は「自由」、アンリにいいように尻拭いされる少年シルヴァンは「平等」、そして女性たちを誑かすプレイボーイのアンリは「博愛」、実にフランス人らしい洒落たユーモアだ。
少々話が逸れたが、最初に述べた通り、この映画は少女ポーリーヌが恋愛について学ぶひと夏の物語である。基本的に静的に淡々と芝居を捉えるこの映画のカメラが、最もドラマティックに動くのもポーリーヌの心の動きに関する場面だ。馬鹿真面目なピエールが最終的に真実をポーリーヌに教えるシーンでは、この映画の中で唯一被写体へのズームが使われる。ここでのカメラワークもサスペンス映画のようだ。
大人たちを「観察」し、自ら「実践」してみたポーリーヌは、得た学びをもとに愛について語る大人たちと対峙する。ここでの彼女は前半と打って変わり、能動的に恐れず自分の意見を述べる。誠実であろうとする男、ピエールには「結局、愛していない、愛されたいだけ」「自分が世界の中心のつもり?」と冷静な分析を突きつける。(あぁ、最後まで情けない男、ピエール……)狡猾にも自分にまで手を出そうとするアンリにも「男の人はなぜ率直になれないの?」と問いかけ、それらしい理屈を述べられても、納得せず嫌悪感を隠さない。そしていじらしくもアンリへの想いを捨てきれないマリオンには、その内心を見抜き、優しく「帰らない?」と提案する。マリオンもそんなポーリーヌを子供扱いせず、自分の大人としての恋愛術を教える。そこには15歳の所在なさげな少女はもういない。彼女は一夏の恋の自由研究によって、自分なりの「愛」への向き合い方を学んだのである。
選評
学生参加型の映画批評の取り組み第一弾にエリック・ロメールの「海辺のポーリーヌ」を選んだのは、ゴダールのような、あからさまに他と違う前衛的な表現がないということが一番の理由でした。なぜならば、そのことによって、ロメールの作品について語ろうとする時には、「スクリーンに何が映っていたからそう言えるのか」ということに、より向き合う必要があるからです。
今回興味深かったのは、ほとんどの学生さんが、「海辺のポーリーヌ」の劇中での、アンリの家で男女4人で恋愛談義となるシーンと、アンリがキャンディ売りのルイゼットを部屋に連れ込んでいるのを目撃されるシーンの二つを論考の中で取り挙げていたことです。皆さんこの二つのシーンが本作の物語の肝になっていることを見てとっていました。
その一方で、例えばそれがロメールによって巧妙に書かれた会話劇であること、ロメールによって仕掛けられた偶然によって、それを誰かが目撃することになり、そのことによって想像したことを誰かに話すことで、新たな展開が生まれることなど、見えていることをどう見るかにまで書かれていた方が少なかったように見受けられました。
誰の視点からそれが撮られているのか、そして、そうやって見たその光景を誰に話したのかなどに着目して見直すだけでもこの作品の恋愛喜劇としての仕掛けに関して、腑に落ちる発見があることと思います。
ご応募いただいた映画批評のなかで、今回、エコダ95さんが書かれていた、青、白、赤の考察は面白い着眼点でしたし、“ピエールが最終的に真実をポーリーヌに教えるシーンでは、この映画の中で唯一被写体へのズームが使われる。”という視点も新鮮でした。手を入れるとしたら、サスペンスの手法が何故、洒落たユーモアへと着地するのかまで考察していただくともっと面白い論考になるのではないかと思いました。
(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)
今回興味深かったのは、ほとんどの学生さんが、「海辺のポーリーヌ」の劇中での、アンリの家で男女4人で恋愛談義となるシーンと、アンリがキャンディ売りのルイゼットを部屋に連れ込んでいるのを目撃されるシーンの二つを論考の中で取り挙げていたことです。皆さんこの二つのシーンが本作の物語の肝になっていることを見てとっていました。
その一方で、例えばそれがロメールによって巧妙に書かれた会話劇であること、ロメールによって仕掛けられた偶然によって、それを誰かが目撃することになり、そのことによって想像したことを誰かに話すことで、新たな展開が生まれることなど、見えていることをどう見るかにまで書かれていた方が少なかったように見受けられました。
誰の視点からそれが撮られているのか、そして、そうやって見たその光景を誰に話したのかなどに着目して見直すだけでもこの作品の恋愛喜劇としての仕掛けに関して、腑に落ちる発見があることと思います。
ご応募いただいた映画批評のなかで、今回、エコダ95さんが書かれていた、青、白、赤の考察は面白い着眼点でしたし、“ピエールが最終的に真実をポーリーヌに教えるシーンでは、この映画の中で唯一被写体へのズームが使われる。”という視点も新鮮でした。手を入れるとしたら、サスペンスの手法が何故、洒落たユーモアへと着地するのかまで考察していただくともっと面白い論考になるのではないかと思いました。
(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)