夏に観たくなる映画というのがある。たとえば恐怖映画。なかでも溝口健二『雨月物語』や小林正樹の『怪談』、中川信夫『東海道四谷怪談』といった日本の古い怪談ものは昔から好きだ。それから「ザ・シネマメンバーズ」でも人気の高いエリック・ロメールの『海辺のポーリーヌ』や『クレールの膝』に代表されるバカンス映画もいい。そして忘れてはならないのが「ひと夏」もの。バカンス映画と近いといえば近いのだが、ひと夏ものは必ずしも避暑地などに赴くわけではなく、近場やせいぜい親戚や祖父母の家に行く程度のものもあって、どちらかといえば場所よりは体験、経験を重視した作品が多いのが特徴だ。こうしたひと夏ものだと『スタンド・バイ・ミー』、『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』、『HOT SUMMER NIGHTS/ホット・サマー・ナイツ』などが挙げられよう。今回ご紹介する『アメリカン・スリープオーバー』もいわゆるひと夏ものの作品である。
スリープオーバーの前の時間が描かれる序盤
『イット・フォローズ』(2014)、『アンダー・ザ・シルバーレイク』(2018)で知られるデヴィッド・ロバート・ミッチェルの長篇初監督作である『アメリカン・スリープオーバー』は2010年の作品。日本で公開されたのは2016年と製作から数年が経過してからのことだ。
新学期を目の前にした夏の終わり。まもなく高校生になるマギー(クレア・スロマ)は友達のベスとふたりでプールに来た。去年と同じで何もなかったというマギーとベス。何か楽しいことをしたいというマギーの視線の先には、プールの清掃や監視役をしているであろう男の子の姿があった。場面は変わってスーパーマーケット。母親と買い物をしている男の子、ロブはそこで見かけた女の子に興味津々。ショッピング・カートを押しながらすれ違うときにチラリと横目で見ると向こうも同じようにチラッと視線を送ったようだ。続いては学校のグラウンドでランニングする学生たち。トップで駆け抜けたクラウディアにジャネルが話しかける。クラウディアは最近引っ越してきたばかり。グラウンドのフェンスの向こうに停まっているクルマには年上のボーイフレンド、ショーンが待っていた。どうやらジャネルはショーンのことを知っている様子だったが、詳しいことは話さず、その晩にジャネルの家で行われる「スリープオーバー」にクラウディアを誘った。スリープオーバーとはお泊まり会のこと。子どもたち同士が親睦を深めるためのもので、新学期を前にあちこちでスリープオーバーやそれに準じたパーティーめいたことが行われるようだ。
映画の序盤は、その晩に何かしらの出来事を体験する少年、少女たちの日中の様子が代わる代わる描写されている。先に記した何人かのほかは、ガールフレンドと別れ、高校時代のクラスメートだった双子の女の子を気にしはじめるスコット、あるいはロブの友達などが登場する。彼、彼女たちがこれから体験するひと晩は、それぞれ接点があるところもあるが、基本的には群像劇であって、それほど入り組んだストーリーではない。よって全員の名前を細かく覚える必要はないのでご安心されたい。
新学期を目の前にした夏の終わり。まもなく高校生になるマギー(クレア・スロマ)は友達のベスとふたりでプールに来た。去年と同じで何もなかったというマギーとベス。何か楽しいことをしたいというマギーの視線の先には、プールの清掃や監視役をしているであろう男の子の姿があった。場面は変わってスーパーマーケット。母親と買い物をしている男の子、ロブはそこで見かけた女の子に興味津々。ショッピング・カートを押しながらすれ違うときにチラリと横目で見ると向こうも同じようにチラッと視線を送ったようだ。続いては学校のグラウンドでランニングする学生たち。トップで駆け抜けたクラウディアにジャネルが話しかける。クラウディアは最近引っ越してきたばかり。グラウンドのフェンスの向こうに停まっているクルマには年上のボーイフレンド、ショーンが待っていた。どうやらジャネルはショーンのことを知っている様子だったが、詳しいことは話さず、その晩にジャネルの家で行われる「スリープオーバー」にクラウディアを誘った。スリープオーバーとはお泊まり会のこと。子どもたち同士が親睦を深めるためのもので、新学期を前にあちこちでスリープオーバーやそれに準じたパーティーめいたことが行われるようだ。
映画の序盤は、その晩に何かしらの出来事を体験する少年、少女たちの日中の様子が代わる代わる描写されている。先に記した何人かのほかは、ガールフレンドと別れ、高校時代のクラスメートだった双子の女の子を気にしはじめるスコット、あるいはロブの友達などが登場する。彼、彼女たちがこれから体験するひと晩は、それぞれ接点があるところもあるが、基本的には群像劇であって、それほど入り組んだストーリーではない。よって全員の名前を細かく覚える必要はないのでご安心されたい。
それぞれの夜の物語
さて、日が傾いていよいよスリープオーバーが始まる。男子、女子は別々の家に集まり、ダラダラと話をしたり、女子はお酒を飲んだり──このくらいの年齢だと女子の方が総じて大人びている──、男子は家から出て女子のところに行こうかと相談したり。ジャネルの家に来たクラウディアは、自分のボーイフレンド、ショーンが以前にジャネルと関係があったことを偶然知ってしまい、戸惑いを隠せない。一方、マギーとベスは友達が参加しているパーティーに合流。こちらは男女混合で、マギーたちよりは少し年上の若者が集っている様子だ。マギーはそこで昼間にプールで見かけた男の子と再会を果たす。マギーたちが到着した時点でパーティーはお開きになるところで、彼はマギーたちを自分の仲間たちと海に泳ぎに行かないかと誘った。
ロブを含む男子たちは女子たちがスリープオーバーしている家に向かい、なかに入れてくれと頼むが断られてしまう。ロブはスーパーで見かけた女の子を見つけたいので、人探しをしているといってひとり家に入れてもらえることになったが、そこには彼女の姿はなかった。ロブがとぼとぼとみんなのところに戻ると、男子たちはロブに生卵を投げつけて手荒い歓迎をする。頭にきたロブはひとりでそこを離れていってしまうのだった。
このようにそれぞれの夜の時間が過ぎてゆくわけだが、いわゆる大事件はこの映画では起こらない。しかし、はたから見たら些細な出来事であっても彼、彼女たちにとっては重大なことなのは、自分が同じ年頃だったときを思い返せば理解できるだろう。そして、そんな出来事によって生じる気持ちの変化が丁寧に表現されていることが本作の大きな魅力となっているのである。
ロブを含む男子たちは女子たちがスリープオーバーしている家に向かい、なかに入れてくれと頼むが断られてしまう。ロブはスーパーで見かけた女の子を見つけたいので、人探しをしているといってひとり家に入れてもらえることになったが、そこには彼女の姿はなかった。ロブがとぼとぼとみんなのところに戻ると、男子たちはロブに生卵を投げつけて手荒い歓迎をする。頭にきたロブはひとりでそこを離れていってしまうのだった。
このようにそれぞれの夜の時間が過ぎてゆくわけだが、いわゆる大事件はこの映画では起こらない。しかし、はたから見たら些細な出来事であっても彼、彼女たちにとっては重大なことなのは、自分が同じ年頃だったときを思い返せば理解できるだろう。そして、そんな出来事によって生じる気持ちの変化が丁寧に表現されていることが本作の大きな魅力となっているのである。
夏の風物詩が満載の青春映画
映画の場面に話を戻すと、プールの彼と海で語らうこととなったマギーは、本当はお泊まり会の予定だったのをすっぽかしてこちらに来たという。それを聞いて「いいな お泊まり会か」とプールの彼が返した。お泊まり会なんて子どもじみていて退屈だと考えているマギーに彼は「子供の日常は素晴らしいんだ」としみじみ語った。「でも大人の真似事をするうち──家の床でパズルをしたことを忘れてしまう」。このシークエンスには本作の主題が凝縮されたかたちで表されているので、ぜひじっくりと味わってもらえたらと思う。
それにしてもこの作品には、青春期における夏の風物詩的な事象が満載だ。プール、海、お泊まり会、パーティー、肝試し、ちょっとした背伸び、誰かとの出会い、オール明けの朝日──それらのどれもがみずみずしく輝きを放っている。それから音楽がさりげなくも絶妙な効果をもたらしていることも特筆しておきたい。夜が近づきつつある時間帯、マギーとベスが自転車で街を走り、女子グループと男子グループがそれぞれのスリープオーバーに向かうシーンで流れるベイルート「Elephant Gun」、それからエンディングのザ・マグネティック・フィールズ「The Saddest Story Ever Told」は、どこか過ぎ去ってしまった日々へのノスタルジーを感じさせる曲。青春時代が昔のこととなった大人の脳裏には、映画で描かれている物語と自身の青春期の夏の思い出がクロスオーバーして浮かぶはずだ。またスコットが双子の姉妹がスリープオーバーしている大学のホールを訪れ、ふたりを連れ出すシーンではスリリングなジャズが使われ、その曲がマギーたちのいる海辺のシーンへと見事に引き継がれている(ここでのマギーのダンスもキュートでいい)。
それにしてもこの作品には、青春期における夏の風物詩的な事象が満載だ。プール、海、お泊まり会、パーティー、肝試し、ちょっとした背伸び、誰かとの出会い、オール明けの朝日──それらのどれもがみずみずしく輝きを放っている。それから音楽がさりげなくも絶妙な効果をもたらしていることも特筆しておきたい。夜が近づきつつある時間帯、マギーとベスが自転車で街を走り、女子グループと男子グループがそれぞれのスリープオーバーに向かうシーンで流れるベイルート「Elephant Gun」、それからエンディングのザ・マグネティック・フィールズ「The Saddest Story Ever Told」は、どこか過ぎ去ってしまった日々へのノスタルジーを感じさせる曲。青春時代が昔のこととなった大人の脳裏には、映画で描かれている物語と自身の青春期の夏の思い出がクロスオーバーして浮かぶはずだ。またスコットが双子の姉妹がスリープオーバーしている大学のホールを訪れ、ふたりを連れ出すシーンではスリリングなジャズが使われ、その曲がマギーたちのいる海辺のシーンへと見事に引き継がれている(ここでのマギーのダンスもキュートでいい)。
かけがえのない時間が封じ込められた傑作
デヴィッド・ロバート・ミッチェルは本作に次いで『イット・フォローズ』を監督するのだが、そちらでは10代(おそらく後半)の若者たちを主人公に、セックスによって感染し、感染した者だけに見える「それ」が追ってくる恐怖を描いている。ティーンにとっての好奇心と興味の対象であるセックスと、都市伝説的な「それ」の存在、そして「それ」から逃れるには誰かにセックスを通じてうつさねばならないという無限ループのような設定が巧みな『イット・フォローズ』も、『アメリカン・スリープオーバー』同様、大人が介入しない作品、青春映画である。また、プール、海といった夏らしいモチーフも見られるが、『アメリカン・スリープオーバー』のそれらが生の輝きを放つのとは逆に、こちらは死の匂いが充満しているのは興味深いところだ。
ふたたび『アメリカン・スリープオーバー』に戻ると、先に述べたように取り立てて大きな出来事は何も起こらない。そこにあるのはさまざまな「ひと晩」だけであって、それを淡々と表現している作品である。こう書くと魅力的な作品に思われないかもしれないが、考えてみてほしい。わたしたちの人生は些細な出来事の積み重ねではなかったか。友達との取るに足らない会話、いつか行った海、自転車で駆け抜けた夕暮れどき、夜の廃墟探索──何ということはないちょっとした思い出こそが、二度と取り戻すことができないかけがえのないものだということに、わたしたちの多くはあとから気がつくものである。本作はその意味で実に普遍的な魅力を有した映画であり、夏がやってくるたびに、そして夏が終わろうとするたびに、何度も繰り返し観たくなるのである。未見の方は、この夏のうちに一度は鑑賞しておいて損はないだろう。
ふたたび『アメリカン・スリープオーバー』に戻ると、先に述べたように取り立てて大きな出来事は何も起こらない。そこにあるのはさまざまな「ひと晩」だけであって、それを淡々と表現している作品である。こう書くと魅力的な作品に思われないかもしれないが、考えてみてほしい。わたしたちの人生は些細な出来事の積み重ねではなかったか。友達との取るに足らない会話、いつか行った海、自転車で駆け抜けた夕暮れどき、夜の廃墟探索──何ということはないちょっとした思い出こそが、二度と取り戻すことができないかけがえのないものだということに、わたしたちの多くはあとから気がつくものである。本作はその意味で実に普遍的な魅力を有した映画であり、夏がやってくるたびに、そして夏が終わろうとするたびに、何度も繰り返し観たくなるのである。未見の方は、この夏のうちに一度は鑑賞しておいて損はないだろう。