本稿の目的は、タル・ベーラの7時間19分(※18分〇秒の場合、切り上げている)にも及ぶ怪物的作品『サタンタンゴ』をその長さだけで躊躇している方、観たけれども、わからない、もう一度観る気にはなれないという方に対して、この作品を観るためのハードルをできるだけ下げる、「ちょっと見てみようかな」と、その気にさせるところにあるので、作品の内容、核心的な部分に触れます。映画をバイアスのない状態で鑑賞したいという方は、ザ・シネマメンバーズで今すぐに作品を観てください。
3本の長編を観る
『サタンタンゴ』は、7時間19分(※18分〇秒の場合、切り上げている)というトンデモナイ長尺の作品ということになっているが、劇場では2回のインターミッション(休憩)を挟んで3本立てのような形で上映されている。この上映形態と同じようにザ・シネマメンバーズでは配信する。
7時間19分という一つの塊ではなく、劇場上映時と同じインターミッションポイントでロール分けした形で配信するので、そのインターミッションで用を済ませて5分で戻ろうが、2日後に戻ろうが、それはあなた次第というわけだ。驚愕の映画体験!というのは、案外しやすいものなのだ。
★本当にこのすぐ後、『サタンタンゴ』を一文で表現してしまいます。その後も次々と核心的な部分に触れてしまいますので、くれぐれもご注意ください。
7時間19分という一つの塊ではなく、劇場上映時と同じインターミッションポイントでロール分けした形で配信するので、そのインターミッションで用を済ませて5分で戻ろうが、2日後に戻ろうが、それはあなた次第というわけだ。驚愕の映画体験!というのは、案外しやすいものなのだ。
★本当にこのすぐ後、『サタンタンゴ』を一文で表現してしまいます。その後も次々と核心的な部分に触れてしまいますので、くれぐれもご注意ください。
どんな話なのか?
この作品は、12章から成る物語で、詩的な言葉や映像からもたらされるイメージがなにか預言的なものが示されているように見えるために難しく感じるのだが、全体としてはシンプルな話で、かいつまんで書いてしまうと、「一年分の金を手にする村人たちのところにならず者が現れ、彼らをだまして金をせしめ、村人たちは散り散りになるが、それは酒に溺れながら人々の観察記をつけているように見えていた医者の書いた物語だった」という話だ。(詳しくはちょっと違うのだがそれは後述する。)
えー!と思うかもしれないし、解釈の仕方は様々かもしれないが、おおかたこのような話と思っておいて大きな間違いにはならないだろう。「解釈すること」が映画のために不可欠な語りであるとは思わないし、それ自体を優れた批評とも思わない。ただ、この常軌を逸したレベルの長大な作品に対してある一つの見方を提示することによって、観るハードルが下がったり、観るきっかけになればと思う。スクリーンに見えていることだけを追ってこの作品を捉えていきたい。
タル・ベーラという容赦のない映画作家は、原作の小説がもつ散文詩的なビジョンを映画にして見せるときに、実に原始的な映画の手法を使っているのだが、あまりにも強烈な使い方をしているために、7時間もの尺になっている。それは例えば、カネを数えるシーンでは、数え終わるまでの3分くらいをそのまま使ったり、人が歩く時は、姿が見えなくなるまでリアルにその動きの分だけの時間を使ったりするのだが、そうやって描いたシーンと同じ時間に起きていたことを別の章でも描き、視点を変えて同じ場面を撮ることでつながって重なるというものだ。つまり、観ていて進んだはずの時間が巻き戻されて重なる感覚がこの作品には何度もある。ここをしっかり紐解いていこう。
えー!と思うかもしれないし、解釈の仕方は様々かもしれないが、おおかたこのような話と思っておいて大きな間違いにはならないだろう。「解釈すること」が映画のために不可欠な語りであるとは思わないし、それ自体を優れた批評とも思わない。ただ、この常軌を逸したレベルの長大な作品に対してある一つの見方を提示することによって、観るハードルが下がったり、観るきっかけになればと思う。スクリーンに見えていることだけを追ってこの作品を捉えていきたい。
タル・ベーラという容赦のない映画作家は、原作の小説がもつ散文詩的なビジョンを映画にして見せるときに、実に原始的な映画の手法を使っているのだが、あまりにも強烈な使い方をしているために、7時間もの尺になっている。それは例えば、カネを数えるシーンでは、数え終わるまでの3分くらいをそのまま使ったり、人が歩く時は、姿が見えなくなるまでリアルにその動きの分だけの時間を使ったりするのだが、そうやって描いたシーンと同じ時間に起きていたことを別の章でも描き、視点を変えて同じ場面を撮ることでつながって重なるというものだ。つまり、観ていて進んだはずの時間が巻き戻されて重なる感覚がこの作品には何度もある。ここをしっかり紐解いていこう。
やつらがやって来るという知らせ
12章から成るこの映画では、一年分働いたカネをめぐる村人たちの思惑と関係を物語のメインの軸に据え、ならず者イリミアーシュの出現、村人たちを観察し記録する医者、少女エシュティケ、そして警察署のエピソードが交差する。
冒頭を少し細かく観ていこう。
映画は、ぬかるんだ地面の先に建物がみえる風景で始まる。何も起きない画面をしばらく見ていると牛の群れが徐々に見えてくる。なかには交尾をしている牛もいる。風の音、カラスの鳴き声、そして、牛。なにかを搾りだすかのように呻く、咆哮にも似た生命のうなり。カメラは歩くスピードで左へ横移動し、農場を順に映していく。
そして画面は暗転し、男の声で語られる
―――
秋の長雨が始まる直前の ある10月の朝
乾いた地面に雨の最初の一粒が落ちて
やがて畦道が泥沼になり
町と隔絶される直前に
フタキは鐘の音で目が覚めた
一番近い礼拝堂は8キロ離れているが
塔は戦争で倒れ 鐘もなくなっていた
町の音は遠すぎて 届くはずがなかった
―――
鳴らないはずの鐘の音が聴こえる。これは、ラース・フォン・トリアーの『奇跡の海』では、命が昇華し、魂の救済と祝福が示されるものだったが、この『サタンタンゴ』では、不吉な予感として聞こえてくる。
部屋の中が明るくなっていくそのリアルな時間分を使って窓が映し出され、男が現れる。やがて男は、「分け前を取ったら今夜出よう」と誰かに語りかける。カネ。計画。逃亡。新しい生活?
女がやってきて、床に置いてあった、たらいの上をまたぐようにしてスカートをまくり、水で股を洗う。このことで、さっきの男とこの女が身体を交わらせていたことがわかるのだが、そうすると先程の牛の鳴き声は、その行為中の声と重なるのか。と、冒頭の長いシーンへとイメージは戻っていく。
ざっと、冒頭の10分近くもある牛のシークエンスから、部屋に日が差し込むまでの数分、それに続く男と女のさらに数分の描写を観ていた自分の心の動きを記してみたが、20分近くほぼ何も起こらないのに全く飽きることなく見ている。こんな風にタル・ベーラは、出来事の時間の速度を落とす。
そして、女は見ていた悪い夢のことを語り、それに応えるように男も、聞こえるはずのない鐘の音で目を覚ましたことを話す。そうするとこれが冒頭の、「フタキは鐘の音で目が覚めた」につながり、男の名前はフタキであることが分かる。そこへ夫が帰ってくる。この二人は不倫関係だったのだ。その夫も一年分のカネのこと、高飛びする計画を女(=妻)に話す。その会話の中で、関係する人物の名前、クラ―ネル、ハリチ校長が紹介される。
フタキは夫が外へ小便しに行く隙に家を出て壁の裏で待ち、その夫が家に戻るところを捕まえ、カネの計画を問いただす。この一連で、夫がシュミットという名前であることが分かる。
そこへ、「イリミアーシュ達が来る」ということを女が知らせに来る。そこでのやりとり、「正気じゃない」「聖書の読みすぎだ。一年半も前に死んでるんだ。」「シャニが嘘をついたかも。」「ハリチの奥さんがいたんなら知ってるわね」「ホルゴシュのホラ話に決まってるけどね。」という会話を経て、雨の中、出て行くところで第一章が終わる。
普段見ている映画とは全く違う、非常に落とした速度で出来事が描写されるために困惑するかもしれないが、実に誠実な手法でタル・ベーラは、物語の登場人物とその関係性、イリミアーシュが現れることの意味を説明して見せてくれているのではないだろうか。『サタンタンゴ』は難しくないのだ。
冒頭を少し細かく観ていこう。
映画は、ぬかるんだ地面の先に建物がみえる風景で始まる。何も起きない画面をしばらく見ていると牛の群れが徐々に見えてくる。なかには交尾をしている牛もいる。風の音、カラスの鳴き声、そして、牛。なにかを搾りだすかのように呻く、咆哮にも似た生命のうなり。カメラは歩くスピードで左へ横移動し、農場を順に映していく。
そして画面は暗転し、男の声で語られる
―――
秋の長雨が始まる直前の ある10月の朝
乾いた地面に雨の最初の一粒が落ちて
やがて畦道が泥沼になり
町と隔絶される直前に
フタキは鐘の音で目が覚めた
一番近い礼拝堂は8キロ離れているが
塔は戦争で倒れ 鐘もなくなっていた
町の音は遠すぎて 届くはずがなかった
―――
鳴らないはずの鐘の音が聴こえる。これは、ラース・フォン・トリアーの『奇跡の海』では、命が昇華し、魂の救済と祝福が示されるものだったが、この『サタンタンゴ』では、不吉な予感として聞こえてくる。
部屋の中が明るくなっていくそのリアルな時間分を使って窓が映し出され、男が現れる。やがて男は、「分け前を取ったら今夜出よう」と誰かに語りかける。カネ。計画。逃亡。新しい生活?
女がやってきて、床に置いてあった、たらいの上をまたぐようにしてスカートをまくり、水で股を洗う。このことで、さっきの男とこの女が身体を交わらせていたことがわかるのだが、そうすると先程の牛の鳴き声は、その行為中の声と重なるのか。と、冒頭の長いシーンへとイメージは戻っていく。
ざっと、冒頭の10分近くもある牛のシークエンスから、部屋に日が差し込むまでの数分、それに続く男と女のさらに数分の描写を観ていた自分の心の動きを記してみたが、20分近くほぼ何も起こらないのに全く飽きることなく見ている。こんな風にタル・ベーラは、出来事の時間の速度を落とす。
そして、女は見ていた悪い夢のことを語り、それに応えるように男も、聞こえるはずのない鐘の音で目を覚ましたことを話す。そうするとこれが冒頭の、「フタキは鐘の音で目が覚めた」につながり、男の名前はフタキであることが分かる。そこへ夫が帰ってくる。この二人は不倫関係だったのだ。その夫も一年分のカネのこと、高飛びする計画を女(=妻)に話す。その会話の中で、関係する人物の名前、クラ―ネル、ハリチ校長が紹介される。
フタキは夫が外へ小便しに行く隙に家を出て壁の裏で待ち、その夫が家に戻るところを捕まえ、カネの計画を問いただす。この一連で、夫がシュミットという名前であることが分かる。
そこへ、「イリミアーシュ達が来る」ということを女が知らせに来る。そこでのやりとり、「正気じゃない」「聖書の読みすぎだ。一年半も前に死んでるんだ。」「シャニが嘘をついたかも。」「ハリチの奥さんがいたんなら知ってるわね」「ホルゴシュのホラ話に決まってるけどね。」という会話を経て、雨の中、出て行くところで第一章が終わる。
普段見ている映画とは全く違う、非常に落とした速度で出来事が描写されるために困惑するかもしれないが、実に誠実な手法でタル・ベーラは、物語の登場人物とその関係性、イリミアーシュが現れることの意味を説明して見せてくれているのではないだろうか。『サタンタンゴ』は難しくないのだ。
ならず者たち。
第二章ではイリミアーシュ達が描かれる。(大丈夫。十二章を全部解説はしない。続けよう。)第一章での、「聖書の読みすぎだ。一年半も前に死んでるんだ。」というセリフ、それを受けるように【我々は復活する】という第二章のタイトル。そして、狂暴な風が大量の紙屑や落ち葉を吹き飛ばしていく中、二人の男が歩いていく後ろ姿。この登場シーンですでに何か人知を超えた“悪”を想像させる。ところがそのまま観ていくと本人達は、警察に召喚されており、警視から職に就かないことをこんこんとたしなめられる。
ここで警視の口から重要な情報が語られる。「君達には協力する以外の選択肢はない」「君が自発的に提案したんだ」「これから私に仕えるか それとも選択の余地はないかだ」ということが明らかにされるのだ。イリミアーシュ達は、前に起こした悪事で捕まり、なにか警察(=国家組織)に対して協力することを強いられている。しかし、それが何なのかは、描かれない。省略される。
但し、これはラスト近くの第11章が丸ごと、イリミアーシュからの報告書を警察署の文書係がタイプライターで清書するくだりとなっていることで、ならず者たちは警察に協力し、報告したことがわかるのだが、その内容に関してはもう少し後で触れることにする。
その後、イリミアーシュは、立ち寄ったバーで「爆破してやる」「皆、ぶっ殺してやる。」と怒りを爆発させる。その時の、言葉に反して冷静な表情と目、バーにいる全員が凍り付くほどの強い宣言、その対比によってイリミアーシュは、この時点では、まだ絶対的な悪のように映る。
この第二章で、イリミアーシュとペトリナの二人に、少年シャニが合流する。この三人が歩く長いシークエンスの中で、シャニがイリミアーシュ達に報告する形を取って、イリミアーシュ達が死んだという噂を広めておいたこと、村人の近況を話す。それによって、観ている我々も、第一章での会話に続いて、第二章でもさらに村人の名前と関係性について追加の情報を得ることになる。動きの分だけのリアルな時間をかけて映されるというスタイルでついつい前衛的なイメージを持って接しがちだが、タル・ベーラは、つくづく丁寧に観ているこちら側に物語の設定を説明してくれているのだ。
ここで警視の口から重要な情報が語られる。「君達には協力する以外の選択肢はない」「君が自発的に提案したんだ」「これから私に仕えるか それとも選択の余地はないかだ」ということが明らかにされるのだ。イリミアーシュ達は、前に起こした悪事で捕まり、なにか警察(=国家組織)に対して協力することを強いられている。しかし、それが何なのかは、描かれない。省略される。
但し、これはラスト近くの第11章が丸ごと、イリミアーシュからの報告書を警察署の文書係がタイプライターで清書するくだりとなっていることで、ならず者たちは警察に協力し、報告したことがわかるのだが、その内容に関してはもう少し後で触れることにする。
その後、イリミアーシュは、立ち寄ったバーで「爆破してやる」「皆、ぶっ殺してやる。」と怒りを爆発させる。その時の、言葉に反して冷静な表情と目、バーにいる全員が凍り付くほどの強い宣言、その対比によってイリミアーシュは、この時点では、まだ絶対的な悪のように映る。
この第二章で、イリミアーシュとペトリナの二人に、少年シャニが合流する。この三人が歩く長いシークエンスの中で、シャニがイリミアーシュ達に報告する形を取って、イリミアーシュ達が死んだという噂を広めておいたこと、村人の近況を話す。それによって、観ている我々も、第一章での会話に続いて、第二章でもさらに村人の名前と関係性について追加の情報を得ることになる。動きの分だけのリアルな時間をかけて映されるというスタイルでついつい前衛的なイメージを持って接しがちだが、タル・ベーラは、つくづく丁寧に観ているこちら側に物語の設定を説明してくれているのだ。
酒浸りの医者
第三章では、窓辺の机から村人を観察し、それを記録し続けている医者が描かれる。この窓辺から見るという形で、第一章でシュミット夫人と不貞を働いているフタキが、帰ってきた夫のシュミットが小便をしに外へ出た隙に、家の外へ脱出するという同じ光景が医者の視点から映されるのだ。このことによって、映画の時間はもうこの時点でだいぶ経過しているのだが、今、観ているシーンが第一章と同じ時制であることが分かる。
観察日記を書き続け、酒がなくなって町へ出た医者は、酒場の前で少女にまとわりつかれて転倒する。医者が罵ると、少女は夜の闇の中へ走り去ってしまう。ここのシーンもまた別の視点から後に描かれる。
こうして、同じシーンが後に別の視点から描かれることによって、長い時間をかけて描かれた複数の出来事が実は、同じ時間に起きていたということが分かるようになっている。驚くことに冒頭の朝から、少女の死と同じくしてイリミアーシュが現れ演説するまでは、一晩(=一日)なのだ。
観察日記を書き続け、酒がなくなって町へ出た医者は、酒場の前で少女にまとわりつかれて転倒する。医者が罵ると、少女は夜の闇の中へ走り去ってしまう。ここのシーンもまた別の視点から後に描かれる。
こうして、同じシーンが後に別の視点から描かれることによって、長い時間をかけて描かれた複数の出来事が実は、同じ時間に起きていたということが分かるようになっている。驚くことに冒頭の朝から、少女の死と同じくしてイリミアーシュが現れ演説するまでは、一晩(=一日)なのだ。
イリミアーシュとは何者か
何者なのか明らかにされず、一切動じない表情や、まるで聖書の教えを説くかのような立ち振る舞いと啓示的な話し方から、イリミアーシュのことを救世主と悪魔の両面を持つ超越した存在と捉える方も多いかもしれない。しかし、第十一章の警察署の文書係のシーンで、明らかになるのは、イリミアーシュが警視の指示通りに報告を提出したという事実だ。
第二章で警視からイリミアーシュ達が「君達には協力する以外の選択肢はない」「これから私に仕えるか それとも選択の余地はないかだ」と圧を掛けられていたことを思い出そう。そしてこの第十一章で、イリミアーシュが提出した文書が読み上げられる。
それはこうだ、
―――
このような情報を文書にしたためるのは
はばかられますが
私の誠意を示すために ご指示の報告をいたします
ご期待に応えて完全に正直に報告いたします
要員の適正には問題はありません
昨日 納得いただいた通りです
このあらましは 別の結論に結び付くかも—
しれないので重要です
私のみが全員と連絡を持つことにします
―――
そして続けて読み上げられるのは、8人の村人のそれぞれの氏素性だ。
「要員の適正には問題はありません」
「このあらましは 別の結論に結び付くかもしれないので重要です」
つまりは、警察(≒国家組織)の指示でイリミアーシュは、あの村人たちを事細かに把握し、そして、国家(あるいはなにかの共同体)の要員の適正をも見立てて報告しているのだ。
また第十章において、イリミアーシュが村人たちにそれぞれの役割や仕事を与え散り散りにさせ、村人たちに対して、
――
事業を実現するために 選ばれた者だからです
目的は偉大です 分散は作戦にすぎません
互いには接触せず
私とは常に連絡を取り合いつづけるのです
――
と説いていたことも注目すべきポイントだ。警察への報告書の「私のみが全員と連絡を持つことにします」というのは、まさにこれとつながる。これまで、不吉な予感をもたらす鐘の音、死んだはずとされていた男の再来と、黙示録的な要素、詩的な演説によって、「イリミアーシュこそが悪魔である。」「実は理想郷へと導く救世主だった?」「いや、その両面をもった詐欺師なのか?」と様々な見方を彼に対してしてきたと思うが、実はイリミアーシュは、救世主でも悪魔でもなく、国家の治安機関に屈して協力し、愚かな村人たちを“要員”として取り込む“任務”を遂行する“犬”だったのだ。
第二章で警視からイリミアーシュ達が「君達には協力する以外の選択肢はない」「これから私に仕えるか それとも選択の余地はないかだ」と圧を掛けられていたことを思い出そう。そしてこの第十一章で、イリミアーシュが提出した文書が読み上げられる。
それはこうだ、
―――
このような情報を文書にしたためるのは
はばかられますが
私の誠意を示すために ご指示の報告をいたします
ご期待に応えて完全に正直に報告いたします
要員の適正には問題はありません
昨日 納得いただいた通りです
このあらましは 別の結論に結び付くかも—
しれないので重要です
私のみが全員と連絡を持つことにします
―――
そして続けて読み上げられるのは、8人の村人のそれぞれの氏素性だ。
「要員の適正には問題はありません」
「このあらましは 別の結論に結び付くかもしれないので重要です」
つまりは、警察(≒国家組織)の指示でイリミアーシュは、あの村人たちを事細かに把握し、そして、国家(あるいはなにかの共同体)の要員の適正をも見立てて報告しているのだ。
また第十章において、イリミアーシュが村人たちにそれぞれの役割や仕事を与え散り散りにさせ、村人たちに対して、
――
事業を実現するために 選ばれた者だからです
目的は偉大です 分散は作戦にすぎません
互いには接触せず
私とは常に連絡を取り合いつづけるのです
――
と説いていたことも注目すべきポイントだ。警察への報告書の「私のみが全員と連絡を持つことにします」というのは、まさにこれとつながる。これまで、不吉な予感をもたらす鐘の音、死んだはずとされていた男の再来と、黙示録的な要素、詩的な演説によって、「イリミアーシュこそが悪魔である。」「実は理想郷へと導く救世主だった?」「いや、その両面をもった詐欺師なのか?」と様々な見方を彼に対してしてきたと思うが、実はイリミアーシュは、救世主でも悪魔でもなく、国家の治安機関に屈して協力し、愚かな村人たちを“要員”として取り込む“任務”を遂行する“犬”だったのだ。
悪魔のダンスは誰が踊る?
最終章では、再び酒瓶を持って家に戻ってきた医者のパートだ。「病院で過ごした13日の間 クラ―ネル夫人は図々しく我が家に戻っては来なかった 全ては家を出た時のままだった…」と医者は語りながら記していく。こうして、あの長い時間を使って描かれた一日から、13日が経ったところを我々は観ていることが分かる。
そして、鐘の音に導かれるように医者は立ち上がり、コートを着て外へ出る。歩いた先で医者の視線の先にあるのは、もはや何の建物もない、ぬかるんだ土地だけだ。そして暗転し、カメラは再び医者の家の中。「わしは馬鹿だ 天の鐘の響きを魂の鐘と 勘違いしてしまった」とつぶやきながら、医者は、あの窓辺を板でふさいでゆく。画面が真っ暗になると、こう続けられる。
―――
ある10月の終わりの朝に
情け容赦なく 長い秋の雨季の雨の
最初の一滴が
集落の西側のはずれの アルカリ土の
ひび割れた大地に 降り始め
それから 臭い泥の海が
初霜が降りるまで
畦道を 通れなくして
町に行けなくする 直前に
フタキは鐘の音を聞いて 目を覚ました
―――
これはこの映画の冒頭に我々が聞いた一節だ。私たちがこれまで見ていたものを語っていたのは、この医者だった。ということがわかるこの第十二章のタイトルは、【輪は閉じる】だ。この映画の冒頭の一節は医者の言葉で、今まで観てきたのは医者によって創作され書かれたものだったということを示して、円環は閉じられる。
村人が10分以上踊る姿がサタンタンゴなのではなく、イリミアーシュがサタンなのでもなく、少女エシュティケの死がサタンタンゴなのでもない。国家/共同体が悪党をも取り込み、密告させ、欲にしか関心のない愚かな民衆を飲みこんでいく、その様を、壊れる寸前の酒浸りの医者が創作物として書いた時── その全てのシーンが統一体として舞曲となる。その悪魔のダンスを踊るのはこの作品を観る我々なのかもしれない。
そして、鐘の音に導かれるように医者は立ち上がり、コートを着て外へ出る。歩いた先で医者の視線の先にあるのは、もはや何の建物もない、ぬかるんだ土地だけだ。そして暗転し、カメラは再び医者の家の中。「わしは馬鹿だ 天の鐘の響きを魂の鐘と 勘違いしてしまった」とつぶやきながら、医者は、あの窓辺を板でふさいでゆく。画面が真っ暗になると、こう続けられる。
―――
ある10月の終わりの朝に
情け容赦なく 長い秋の雨季の雨の
最初の一滴が
集落の西側のはずれの アルカリ土の
ひび割れた大地に 降り始め
それから 臭い泥の海が
初霜が降りるまで
畦道を 通れなくして
町に行けなくする 直前に
フタキは鐘の音を聞いて 目を覚ました
―――
これはこの映画の冒頭に我々が聞いた一節だ。私たちがこれまで見ていたものを語っていたのは、この医者だった。ということがわかるこの第十二章のタイトルは、【輪は閉じる】だ。この映画の冒頭の一節は医者の言葉で、今まで観てきたのは医者によって創作され書かれたものだったということを示して、円環は閉じられる。
村人が10分以上踊る姿がサタンタンゴなのではなく、イリミアーシュがサタンなのでもなく、少女エシュティケの死がサタンタンゴなのでもない。国家/共同体が悪党をも取り込み、密告させ、欲にしか関心のない愚かな民衆を飲みこんでいく、その様を、壊れる寸前の酒浸りの医者が創作物として書いた時── その全てのシーンが統一体として舞曲となる。その悪魔のダンスを踊るのはこの作品を観る我々なのかもしれない。
追記
『サタンタンゴ』のもっとも有名な、エシュティケと猫のエピソードと、踊り続ける村人たちのエビソードをあえて外した形で、この作品の仕掛けを紐解いてみた。この二つのエピソードは、十二章のなかで真ん中に位置しており、ニュートラルな部分といえるからだ。この部分こそバイアスのかからない状態で観て頂けたらと思う。
★もし気に入って頂けたなら、ザ・シネマメンバーズという小さな小さなサービスをサブスクリプションという形で支援して頂けたら幸甚です。
★もし気に入って頂けたなら、ザ・シネマメンバーズという小さな小さなサービスをサブスクリプションという形で支援して頂けたら幸甚です。