アルノー・デプレシャン『映画を愛する君へ』で綴られる「シネマ」とはなにか?

LETTERS ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
アルノー・デプレシャン『映画を愛する君へ』で綴られる「シネマ」とはなにか?

目次[非表示]

  1. 現役の映画作家によるエッセイ
  2. デプレシャンのバランス感覚
  3. 「シネマ」とはなにか?
  4. 1つの視点ということ
  5. 「シネマ」の謎
  6. 最後に引用されたもの
  7. 「シネマ」はつながる
 アルノー・デプレシャンの最新作の原題はなんと、『Spectateurs !』(観客たち!)だった。フィクションとドキュメンタリーのハイブリッドによる手法で「シネマ」について考察し、綴っていくという本作には、デプレシャン自身が大切にすることが、彼らしい親しみやすさで表現されている。

現役の映画作家によるエッセイ

 『映画を愛する君へ』は、映画が観客によって見られる時についてのエッセイだ。アルノー・デプレシャンはこの作品をドキュメンタリーにはしなかった。そして、映画愛を称揚するおとぎ話にもしなかったし、少年が映画をつくるに至る単なる成長譚にもしなかった。そこが彼の映画に対する彼なりの誠実さの表れなのだろう。本作で引用される作品群は、トリュフォーやヒッチコックやカール・テオドア・ドライヤーの作品から『ダイ・ハード』や『ノッティングヒルの恋人』までが並列で扱われ、そこにはノスタルジックな語りなどはない。それは、デプレシャンが現在の視点を重んじる、現役の映画作家であるということを良く表している。

『映画を愛する君へ』
1月31日(金)より新宿シネマカリテほか全国順次公開
© 2024 CG Cinéma / Scala Films / Arte France Cinéma / Hill Valle

デプレシャンのバランス感覚

 本作は、映画の引用とドキュメンタリーとフィクションとで綴られていくのだが、映画論に傾きすぎることなく、郷愁とともに思い出を語るでもなく、実にデプレシャンらしいバランスで作り上げられている。それは例えば、こんなところだ。

 『ノッティングヒルの恋人』で、ヒュー・グラントがシーツをひょいと持ち上げて、ジュリア・ロバーツの胸を見る。このシーンを取り上げてデプレシャンは、ジュリア・ロバーツの胸を「観客は見ることはない」と語る。スクリーンに見えているもの/見えていないものについて映画作家が語る言葉で、これほどポップな事例が今まであっただろうか。

 そこで起きている出来事は、“なぜ男は胸をありがたがるのか”という問いを受けて男がその相手の胸を見るということなのだが、それが監督による視点によってカメラで撮られて、スクリーンに映し出され、その視点が共有された観客がそれを見る。その時、スクリーンの向こうで起きていることとは裏腹に、観客に見えるもの、見えないものがある。そのことの妙によって、ジュリア・ロバーツの笑顔が輝くというようなことを表しているのだが、デプレシャンは、「ほら、このシーン素敵でしょ?」という風に見せてくれる。その映像とともに語られていることは、映画理論的なことなのだが、そこはさらっと流す。映画をそんなに小難しく見たくないという人にも、“ジュリア・ロバーツの笑顔が最高なシーンで、なにが見えているのかについて話してたな。” とは伝わる。それが彼のバランス感覚なのだろう。

「シネマ」とはなにか?

 本作において、映画館のスクリーンで観ることの凄みを表現した、圧巻のシーンがある。それは、ベルイマンの『叫びとささやき』を少年時代のポールが観る場面だ。映画のシーンが挿入されてカットバックするのかと思いきや、それはスクリーンに投影されている映画そのもので、そのアップからカメラがパンをして、観客席を映し、ポールを映し、またスクリーンへと戻っていく。その一連をカットを割ることなく見せてくれるのだが、その美しさと迫力と、カメラの動きがゾクゾクするような映画の快感に満ちている、忘れられないシーンだ。

 それでもデプレシャンは、こうした映画館で映画を観ることと、家のテレビでヒッチコックやドライヤーの作品を観ることを同等に本作の中で扱っている。なぜなら、彼が本作で考え続けていることは、観客に見られる時、そこに初めて「シネマ」が立ち上がるということだからだ。それは、冒頭からすでに現れている。本作の冒頭、英語によるナレ―ションはこうだ。
America invented the first films, France found Cinema.
アメリカが最初の映像(フィルム)を発明し、フランスが映画(シネマ)を見出した。
 ここでは、意識的かつ明確にFilms(映像)とCinema(映画)を使い分けている。この作品において「シネマ」とは、観客によって見られること、観客が参加することによって初めて成立するアートフォームとして語られる。観客も「シネマ」を構成するひとつなのだ。

 『映画を愛する君へ』が出品されたカンヌ国際映画祭で、アルノー・デプレシャンがインタビューで語った言葉が素晴らしく「シネマ」について言い表している。
「シネマ」を私たち全員が共有しているのです。

シネフィルかシネフィルでないか、たまに映画館に行く観客か。それは関係ありません。「シネマ」はあなたのものです。

映画を映画館で、あるいはテレビやストリーミングで観たりするでしょう。
それらはすべて「シネマ」なのです。

このことこそが「シネマ」の素晴らしさであり、もう一度言いますが、テレビやストリーミングも含まれます。「ストリーミングによって映画は終わる」と言う人もいますが、そんなことはありません。テクノロジーの変化とともに「シネマ」は生き続ける、それは良いことなのです。
 この言葉の通り、『映画を愛する君へ』においても、映画は、映画館で観られ、学校の講堂で観られ、部屋のテレビでも観られる。それらすべてが「シネマ」なのだ。

『映画を愛する君へ』
1月31日(金)より新宿シネマカリテほか全国順次公開
© 2024 CG Cinéma / Scala Films / Arte France Cinéma / Hill Valle

1つの視点ということ

 「シネマ」について、デプレシャンが劇中で取り上げた議論の中で重要に見えたのは、大学での講義の中で、ギリシア劇では観客の視点は座る位置や角度によってそれぞれ見えるものが異なるが、映画は自分の視点は監督にゆだねられ、1つの視点を共有するということが語られる部分だ。「シネマ」の特質をわかりやすくピックアップしたこの部分は、劇中でグリフィスの『國民の創生』でのクー・クラックス・クランの描き方や西部劇でのネイティブアメリカンの描き方の問題とつながる。

 観客の視点が委ねられ、1つの視点が共有される以上、その視点がその時代における現実を歪めてはならないのだ。さらにこの1つの視点ということは、クロード・ランズマンの『SHOAH ショア』を取り上げた部分ともつながってくるのだが、残念ながら、これら二つの問題と、1つの視点が共有されるということの責任についてしっかりと呼応した構成にはなっていないので、そのことが伝わりにくい。但しそれは、主張をするためのツールとしてこの作品を作っているわけではないというデプレシャンのスタンスによるものだろう。

「シネマ」の謎

 本作において繰り返されるのが、「現実をスクリーンに映すと何が起こるのか」という言葉だが、“ではその現実とはなにか?” という問いに対する明確な答えはない。デプレシャンが「この謎に挑み続ける」と言ったのは、何が起こるのか?ということと、映画における現実とは何か?ということでもある気がしてならない。そして、観客も「シネマ」の一員である以上、わたしたちもそのことについて考え続けていくのだ。

『映画を愛する君へ』
1月31日(金)より新宿シネマカリテほか全国順次公開
© 2024 CG Cinéma / Scala Films / Arte France Cinéma / Hill Valle

最後に引用されたもの

 そして、このことに触れないわけにはいかない。エンディングロールでかかる曲は、ゴダールがかつて、『カルメンという名の女』において極めて印象的に使った、あの曲だ。アルノー・デプレシャンは、なぜこの曲をエンディングロールにもってきたのだろうか。観客、あるいはそれを含む「シネマ」とのしばしの別れを惜しむというにはあまりにも悲痛な別れの曲をもってこの映画を閉じるのはなぜなのかを観終わってから考え続けていた。

 これは感傷的かつ、飛躍が過ぎるのだろうが、自分の中では、この曲は、ゴダールに捧げられているということにしておこうと思う。もしくは、数多くの引用から成るこの『映画を愛する君へ』という作品の中で最後に引用されたのが、ゴダールの『カルメンという名の女』だったのだ。と言ってもいいのかもしれない。

「シネマ」はつながる

 さて、それで再びアルノー・デプレシャンだ。ザ・シネマメンバーズでは、今では見る機会が失われていた初期作、『二十歳の死』、『魂を救え!』、『そして僕は恋をする』の3作に加え、『そして僕は恋をする』の続編である『あの頃エッフェル塔の下で』と、直近の作品である『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』の合計5作品をお届けする。(ラインナップはこちら>>

「そして僕は恋をする」HDリマスター版
©Why Not Productions

 先にも書いたように『映画を愛する君へ』は、映画の引用、ドキュメンタリー、フィクションによって構成され、「シネマ」について綴られるわけだが、デプレシャンの創作によるフィクションの部分が、その映像の質感の調整含め、実に生き生きと素晴らしい。特に、大学生となったポールが、元カノの友だちとスタイル・カウンシルの『My Ever Changing Moods』が流れる店に行くのだが、そこでの会話のシーンは何度も見たいほど秀逸で、本当にデプレシャンは会話における目線の切り返しと表情の捉え方がうまいのだなと見とれてしまう。

「魂を救え!」HDリマスター版
©Why Not Productions

 それは、初期の作品から見られた彼の特徴のひとつだった。注目してほしいシーンを一つだけ挙げると、『魂を救え!』で、医学生の主人公マチアスが美術史を学ぶクロードとカフェで再会し、クロードが研究している、見つめ合う二人の視線と視野についてマチアスに説明するシーンだ。
 「左目を見て。」とマチアスに言い、クロードとマチアスは、お互いの左目を見る。このとき二人の視線は交わっていない。そこで、クロードだけが今度はマチアスの右目を見る。すると視線が交わり、二人は見つめ合う。この一連のやり取りを、視線と表情を捉えつつ切り返しで見せていくのだが、視線が交わる瞬間をとらえた、映画でしかできないスリルと興奮に満ちたシーンを是非体験して欲しい。

『ママと娼婦』
© Les Films du Losange

 ほかにもザ・シネマメンバーズでは、『映画を愛する君へ』で、ポールのおばあさん役を演じているフランソワーズ・ルブランの代表作『ママと娼婦』や、デプレシャン組であるマチュー・アマルリックの映画デビュー作『月の寵児たち』や、元々映画監督を目指していたというアマルリックの監督作『彼女のいない部屋』も配信中なので、是非この機会に観てみては。

映画を愛する君へ
1月31日(金)より新宿シネマカリテほか全国順次公開
監督・脚本:アルノー・デプレシャン
脚本:ファニー・ブルディーノ
製作:シャルル・ギルバート 
共同製作:オリヴィエ・ペール
音楽:グレゴワール・エツェル
撮影:ノエ・バック
衣裳デザイン:ジュディット・ドゥ・リュズ
出演:ルイ・バーマン クレマン・エルヴュー=レジェ フランソワーズ・ルブラン ミロ・マシャド・グラネール(『落下の解剖学』) サム・シェムール ミシャ・レスコー ショシャナ・フェルマン ケント・ジョーンズ サリフ・シセ マチュー・アマルリック(『フレンチ・ディスパッチ』)

2024年/88分/フランス/原題:Spectateurs! 英題:Filmlovers!/カラー/5.1ch/2.35:1
日本語字幕:福家龍一
後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ
配給:アンプラグド
© 2024 CG Cinéma / Scala Films / Arte France Cinéma / Hill Valle 
公式HP unpfilm.com/filmlovers

© 2024 CG Cinéma / Scala Films / Arte France Cinéma / Hill Valle

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この記事のライター

ザ・シネマメンバーズ 榎本  豊
ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
レトロスペクティブ:エリック・ロメールを皮切りにした2020年4月のザ・シネマメンバーズのリニューアルローンチから、ザ・シネマメンバーズにおける作品選定、キュレーションを担当。動画やチラシその他、宣伝物のクリエイティブなども手掛ける。

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