ジャン=リュック・ゴダール。JLG。または、ペンネーム:ハンス・リュカス。『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』を作った映画作家。思うにゴダールは今、“ちょっと面倒くさい”存在なのかもしれません。SNS時代にゴダールに対するスタンスの取り方を決めかねるような感じといいますか。例えば、自分がいかに「正直」で、「アートかぶれ」/「サブカルかぶれ」ではないかを表明するためにゴダールの作風やいくつかの作品を「意味がわからない」と、“あえて告白する”人も多いでしょう。一方で、映画を語るときにこの名前を出すと“引かれてしまう”ので、その名を言うことを避けている、外堀を埋めてから、いよいよその名を言ってみる…。という人も少なくないのではないでしょうか。躊躇なく無邪気にゴダールに触れてみませんか?
難解さの正体は?
もちろん、難解なイメージがある映画作家ではあるのですが、その「難解さの正体」は、ゴダールとは別のところにもあるような気がします。そして、「意味がわかる作品である」ということが一番重要なことではない。そもそも作品において全てに意味と整合性をもって創作がなされるわけでもありません。作品に触れ、感じたことを言葉にするのを避ける手段として「意味がわからない」と閉じてしまうこともまた勿体ないことです。絵画の意味や、好きな音楽の詩をどれだけ理解しているかといえば微妙でしょう。例えば、ピカソやジャクソン・ポロックの絵に意味の正解を求めたり、大合唱されるオアシスの『Don’t look back in anger』の詩に「意味がわかる」ことを求めたりするのだろうか?ということです。
目の前に見えているもの、言葉、フレーズの持つリズム、エネルギー、美しさ、それらの連なりによる、極めてあいまいな全体像ということになるのだと思うのですが、ゴダールの作品も、そのあいまいに感じ取られる「なにか」──、正確にはつかめなくても、知識としては知らなくても、「なにか」が通じ合う。それを楽しむということに尽きるのだと思います。
『女と男のいる舗道』において、アンナ・カリーナがカフェで哲学者ブリス・パランと語りあうシーンで、2500年前にギリシャ語で書かれたプラトンの言葉を引き合いに、「誰もその時代の言葉は正確には知らない。でも何かが通じ合う。表現は大事なことだ。」とブリス・パランは語っています。ゴダールの哲学の師匠でもある彼の言葉は、そのままゴダールの創作をも言い当てているようです。
70年代以前/以後のゴダール
そうはいっても、映画であるわけなので、物語を楽しみたいですよね。ザ・シネマメンバーズでお届けするゴダール作品は、軽快に表現手法の実験を繰り返しながら映画と向き合って作り続けていることがわかるラインナップ。PART1ではエンターテイメント/ストーリーとしても楽しめる60年代のアンナ・カリーナ全盛期の作品から、断片化を極めた『恋人のいる時間』までをお届けします。どれも女性に関する、女性であることを扱った、愛と人生にまつわるテーマの作品です。手法がエンターテイメントとして収まっている時代の作品をまずお楽しみください。
そして先々になりますが、PART2では、1966年に中国で起きた文化大革命をきっかけに世界中に広まった毛沢東主義や同時期の60年代後半におけるベトナム戦争の影響を受けたヒッピー/サマー・オブ・ラブの時代の空気を吸い込むようにして制作された『中国女』、『ウイークエンド』をお届け。この1967年に作られた2本の映画がゴダールにとっては大きなターニングポイントとなる形で、以降、商業映画との決別を表明し、政治的なアジテーション作品を撮り続ける70年代へと突入します。ザ・シネマメンバーズでは、67年の2作から、政治の季節は丸ごと飛ばして、商業映画復帰の第一作目、80年代ゴダールの入り口となる『勝手に逃げろ/人生』から、『パッション』『右側に気をつけろ』までをお送りします。
PART1とPART2のラインナップは、非常に対照的な作品群となっていることが、タイトルの羅列からも感じられると思いますが、ゴダールは本当にいろいろなやり方で映画を理解しようとし、また映画を創ろうとしてきたのだと改めて驚きます。是非この機会に、政治の季節をまたいだ、70年代以前/以後のゴダールに触れてみてください。
「女は女である」
「ライツ、カメラ、アクション!」という声とともにお話が始まり、ミシェル・ルグランの音楽が流れるのに、俳優は歌わない。歌ったと思った途端、音楽は消え、いわゆる普通のミュージカルのようなポイントではないタイミングで、ぶつ切りに音楽が鳴り出す。それでいて、いかにもミュージカルな効果音としての音楽がセリフの合いの手で用いられます。結果、全然ミュージカルの作り方をしていないのに、ミュージカル的なものを感じてしまうオルタナティブなコメディになっているのが60年代ゴダールの面白さ。この作品は、楽しい!幸せ!といった感覚が映画自体にあふれているのですが、それはゴダールとアンナ・カリーナの関係をそのまま反映していたのかもしれません。
ゴダール用語?
と、ここでひとつ、よくゴダールについての話の中で使われがちな言葉を紹介しましょう。それは、「ブレヒト的」という言葉です。これはゴダールの作風を表すのに大変重要なキーワードかもしれません。
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ブレヒト的
『三文オペラ』で有名な劇作家ブレヒト。演劇において、意味なく突然俳優が踊りだしたり、これは芝居です。と注意書きが出たり、客席に向かって脈絡のない行為をしたりする。そんな演出を「異化効果」と呼んで自身の特徴にした人。目の前に見えているシーンをもっと「批評的に=客観的に=引いた目で」見ることを要求した。ゴダールの映画において、突然のカットの挿入、俳優がスクリーンを観ているこちら側に目線を合わせ語り掛けてくるなどがこれ。批評家がゴダールを語るとき、「ブレヒト的」という言葉を使うのは、要するにそういうことなので、構えなくて大丈夫。ゴダールを難解にしているのは、しばしば、ゴダールのまわりで語っている人たちの言葉だったということもあるのかもしれません。
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『女は女である』で、アンナ・カリーナがスクリーンを観ているこちら側に向かってウインクしたり、ジャン=ポール・ベルモンドがアンナ・カリーナの言葉を受けて、「~と言って去る」というト書きを観客に向かって言ったり、音楽がぶつ切りでかかったりなどがこれにあたります。この要素は、ゴダールの多くの作品にみられるもので、「これはフィクションです。作り話、映画なんですよ。」と強調するようなことを撮影や編集に持ち込んでいる。この「映画であることをわざと知らせる」手法の数々は、60年代の作品では、エンターテイメントの領域内でギリギリバランスを保っているように見えます。
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ブレヒト的
『三文オペラ』で有名な劇作家ブレヒト。演劇において、意味なく突然俳優が踊りだしたり、これは芝居です。と注意書きが出たり、客席に向かって脈絡のない行為をしたりする。そんな演出を「異化効果」と呼んで自身の特徴にした人。目の前に見えているシーンをもっと「批評的に=客観的に=引いた目で」見ることを要求した。ゴダールの映画において、突然のカットの挿入、俳優がスクリーンを観ているこちら側に目線を合わせ語り掛けてくるなどがこれ。批評家がゴダールを語るとき、「ブレヒト的」という言葉を使うのは、要するにそういうことなので、構えなくて大丈夫。ゴダールを難解にしているのは、しばしば、ゴダールのまわりで語っている人たちの言葉だったということもあるのかもしれません。
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『女は女である』で、アンナ・カリーナがスクリーンを観ているこちら側に向かってウインクしたり、ジャン=ポール・ベルモンドがアンナ・カリーナの言葉を受けて、「~と言って去る」というト書きを観客に向かって言ったり、音楽がぶつ切りでかかったりなどがこれにあたります。この要素は、ゴダールの多くの作品にみられるもので、「これはフィクションです。作り話、映画なんですよ。」と強調するようなことを撮影や編集に持ち込んでいる。この「映画であることをわざと知らせる」手法の数々は、60年代の作品では、エンターテイメントの領域内でギリギリバランスを保っているように見えます。
「女と男のいる舗道」
“12景からなる映画”と冒頭で示されるとおり、情景をドキュメント的に切り取ったようにして連ねることで物語にしていく作品。何曲も仕上げてきたミシェル・ルグランの楽曲を、1曲だけピックアップし、フレーズを繰り返しながら使うのは、ロメールの『獅子座』に出演したゴダール本人が、弦楽四重奏のレコードの同じ箇所に執拗に針を落とすシーンを思い起こさせます。また、結末を予感させるような悲しげで不安な旋律を冒頭から繰り返し繰り返し使うのは、その後の『気狂いピエロ』にも引き継がれていきます。そして、背を向けたままのアンナ・カリーナが「関係ないわ」という言葉を少しずつ変えながら4回繰り返す時、何故か“詩”を感じてしまうのは、もうゴダール節としか言いようのないものです。
「はなればなれに」
悲しい物語を軽快なリズム感で映画にしてしまうのはゴダールの真骨頂。そんな本作には、ゴダールの“断片化”の素地のようなものがわかるくだりがあります。映画が始まってしばらくすると「遅れてきた観客のために映画の要点を説明しよう」とナレーションが入り、「3週間/大金/英語教室/川べりの家/ロマンチックな娘」と言葉は続く。その断片的な言葉の列挙によって、どんな物語なのかが何となくわかる。その言葉によって想起されるイメージの連なりによって作られる物語。本作の続編であるかのような『気狂いピエロ』では、男女が掛け合いで言葉の断片を呟くことでイメージが紡がれることになります。
「恋人のいる時間」
これまでの作品でみられてきた音のコラージュ、映像や言葉の断片化は、この作品で頂点に達しているように思います。体の一部をクローズアップして切り取られた映像の断片、男女が語らう言葉、わざと映像とシンクロしない音声など、極限まで断片化をして連ねた集積が映画の形になっているという、ある主婦の日常生活を掬い上げた、驚きの“断片集”。
これらの作品群を順に追っていくと、やはり60年代という時代の空気、前衛がポップでもありえた時代であり、世界中でそれまで当たり前とされてきたルールやフォーマットや権威的なものが次々と問い直されていった時代の空気をゴダールは存分に吸い込み、時代と呼応しながら作品を次々と作って世に出していった作家なのだと思うのです。
PART1に寄せてはこのへんで。
これらの作品群を順に追っていくと、やはり60年代という時代の空気、前衛がポップでもありえた時代であり、世界中でそれまで当たり前とされてきたルールやフォーマットや権威的なものが次々と問い直されていった時代の空気をゴダールは存分に吸い込み、時代と呼応しながら作品を次々と作って世に出していった作家なのだと思うのです。
PART1に寄せてはこのへんで。