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COLUMN/コラム2023.07.12
社会派の巨匠ルメットが、アル・パチーノと生み出した、実話ベースの傑作悲喜劇。『狼たちの午後』
1972年8月22日のニューヨーク。ブルックリンのチェース・マンハッタン銀行支店に、武装した3人組の強盗が押し入るという事件が、発生した。 計画したのはベトナム帰還兵で、27歳のジョン・ウォトヴィッツ。彼は60年代に、銀行で働いた経験があった。 一緒に押し入ったのは、18歳のサルバトーレ・ナチュラーレと、20歳のロバート・ウェステンバーグ。しかしウェステンバーグは、ビビって現場からすぐに逃走したため、ウォトヴィッツはナチュラーレと2人で、男性の支店長と女性従業員たち合わせて8名を人質に、14時間銀行に立て籠もることとなった…。「ライフ」誌に載った、この事件のあらましをまとめた「The Boys in the Bank」という記事に目を付けたのは、プロデューサーのマーティン・ブレグマンとマーティン・エルファンド。彼らの興味をまず惹いたのは、ウォトヴィッツのプロフィールとキャラクターにあったものと思われる。 ウォトヴィッツは妻との間に2人の子どもをもうけながら、69年に別居。71年に男性と結婚式を挙げていた。銀行強盗を企てたのは、そのパートナーが女性になるための性別適合、当時の言い方ならば、性転換の手術費用を稼ぐのが、目的の一つにあった。 籠城を続ける中で、ウォトヴィッツの振舞いや言動に、人質たちが共感を寄せたり、銀行を囲んだ野次馬たちが、熱烈な支持を表明するなどの現象が起こった。 事件当時そんな言葉はなかったが、ウォトヴィッツに起因するところの、“LGBTQ”や“ストックホルム症候群”等々といった事象に、プロデューサー陣はピンと来たのであろう。もっと下世話な言い方をすれば、「これは見世物になる」「商売になる」という直感が働いたわけだ。 世間の規範に対しての、叛逆やドロップアウトがテーマとなる、“アメリカン・ニューシネマ”の時代。この事件は映画化するには、格好の題材と言えた。「ライフ」の記事には、ウォトヴィッツの容姿について、アル・パチーノやダスティン・ホフマンに似ているという一文があった。プロデューサーのブレグマンは、実際にウォトヴィッツの写真を見て、主役をパチーノに依頼。ブレグマンとパチーノは、エージェントと俳優として、長い付き合いだった。 パチーノは題材に興味を持ちながらも、オファーを断った。前の出演作『ゴッドファーザーPARTⅡ』(1974)の撮影で疲れ切っており、しばらく映画には出たくないという気持ちと、舞台こそ自分の本分だという想いが強くなっていたのである。 パチーノの後には、元記事の表記通りに、ダスティン・ホフマンに出演交渉が行われた。しかしホフマンにも断られ、パチーノへと、オファーが戻る。 この再オファーを、パチーノは受けることにした。決め手になったのは、フランク・ピアソンが書いた脚本が、「すごい傑作」だったからだという。 ピアソンは執筆に当たって、重点を置いてまず考えたのは、視点をどこに持たせるかということ。警察なのか?人質なのか?野次馬なのか?はたまた犯人の家族なのか? 絞り込んでいって、最も興味深いのは、やはり強盗側の視点というところに行き着いた。それによって、立て籠もった銀行内が、主な舞台に決まった。 ピアソンを悩ませたのは、ウォトヴィッツから、直に話を聞けなかったこと。本人が、映画化の権料で製作陣と揉めてしまってため、刑務所での面会を拒絶されたからだ。 それならばと、彼と関わった家族や恋人、友人、事件の人質や警察等々にリサーチを敢行。しかしそれぞれの目には、ウォトヴィッツの人物像はまったく違って映っていた。 どこかに共通点はないか?探しに探して浮かび上がったのが、彼が「面倒見の良い男」であるということだった。 ピアソンは、その「面倒見の良い男」を突破口にして、『狼たちの午後』のストーリーを作り上げた。監督のシドニー・ルメットに脚本を渡す際には、「自分が皆を幸せにする魔術師と勘違いしている男の話」と伝えたという。 そして、この脚本があったからこそ、ルメットも、『狼たちの午後』の監督を引き受けたのである。 『セルピコ』(73)に続いて、ルメットと2回目の組合せになったパチーノ曰く、ルメットは「俳優を動かす天才」。子役として5歳の時からブロードウエイの舞台に立っていた経験もあって、俳優の気持ちがわかり、俳優の視点から演技を理解できる、「actor's director=俳優の監督=」と言われた。 ルメット曰く、「私自身、俳優だったから、自分の心の中を探らねばならないのは辛いということは解っている。良い演技は自分の本心を知ることで生まれる。俳優たちはそれが解っているし、私もそれが解っている」「俳優の監督」であると同時に、ルメットと言えば、“社会派”。しかも、社会派とエンタメを同時に成立させる、希有な監督としての評価が高かった。陪審員制度を描いた映画監督デビュー作『十二人の怒れる男』(57)から、ナチスの強制収容所で家族を失った男が主人公の『質屋』(64)、冷戦時代の核戦争の恐怖を描いた『未知への飛行』(64)、軍刑務所内の非人道な在り方を訴える『丘』(65)等々。 そして、『狼たちの午後』を手掛けた頃には、まさにキャリアのピーク!70年代は本作の前に、『セルピコ』(73)『オリエント急行殺人事件』(74)、本作の後に『ネットワーク』(76)といった作品を放って、社会派エンタメ監督且つ、ヒットメーカーとして異彩を放っていたのである。「俳優の監督」であるルメットが重視するのは、“リハーサル”。曰く、「自分の感じられるところまで進め、自分が望むだけやれ。望まないことはできるだけやるな。心に感じるものがあるなら、それを外に高く飛ばせ。その勘定が正しいか誤っているかは気にするな。じきにわかる。それがリハーサルのねらいだ」 ルメットは映画界に入る前、TVで生放送のドラマを、5年間で500本手掛けた。その経験もあって、入念なリハーサルを行い、いわば舞台的な演出を行った。 彼の遺作となった『その土曜日、7時58分』(2007)の出演者イーサン・ホークは、こんなことを言っている。「2週間ほどかけて入念にリハーサルした。僕らのクリエイティブな仕事の大半は、撮影開始以前に終わっていた。結論は既に出ているから、あとはそれを実行するだけ」 ルメットの初監督作『十二人の怒れる男』(1957)で、リー・J・コッブがヘンリー・フォンダと言い争そうシーンがあった。この作品は順撮りではなく、シーンの途中で撮影を終えた後、1週間ほど経ってから続きを撮ることとなった。 これだけ間が空いてしまうと、前に撮った時の感情を保つのは、困難である。しかし撮影前に、2週間に及ぶリハーサルでシーンを作り上げていたため、どういった感情で演じれば良いか、ルメットも俳優たちも、はっきりと認識できていた。 入念なリハーサルをベースに、舞台的な演出を行いながらも、映像は映画的なのも、ルメットの特徴。作品に合わせて撮影のスタイルを変えるなど、融通無碍でもあった。『狼たちの午後』は、ルメットのそうした特性が、最も有機的に作用した作品とも言える。もちろん本作も御多分に漏れず、撮影前に3週間のリハーサルが行われた。しかし本作のリハーサルに関しては、即興の演技を引き出すためのものという位置づけだった。 具体的には、リハーサルの際に脚本のセリフを言わせるのではなく、その状況の中で俳優たちにアドリブを言わせる方式を取った。そして毎晩リハーサルの後、録音してあった即興のセリフを、タイプで清書したのである。こうして練りだされたセリフが、映画で使われることになった。因みに脚本の構成は、全く変わってはいない。 本作に、実際の事件を捉えているような、ドキュメンタリーな臨場感が出たのは、こうした演出法も明らかに作用している。 ルメットがデビュー以来お得意の密室劇でもある本作で、メインの舞台となるのは、銀行。ブルックリンの、実際の事件現場からほど近い場所に空き倉庫を見つけて、外観も内装も、銀行に作り変えた。ルメットは本作に関して、スタジオで撮ることは、まったく考えなかったという。 ルメットの監督作品は、全部で43本。その内で実に29本が、己が生まれ育ったニューヨークでロケを行なっている。ルメットが生粋のニューヨーカー監督であったことも、本作にはうってつけだったと言えよう。 撮影は7週間。通常の照明ではなく、例えば銀行内は蛍光灯を軸にするなどして、リアルなルックを狙った。 因みにキャスティングには、主演のパチーノの意向が大きく働いた。舞台の共演がきっかけで信頼関係を築いた、ジョン・カザール、チャールズ・ダーニング、ランス・ヘンリセンなどが起用されることになった。『ゴッドファーザー』シリーズではパチーノの兄を演じたジョン・カザールは、本作では、強盗の共犯者役。実は脚本では、15~16歳の少年という設定だった。 それなのに、40歳に近いカザールを推してくるパチーノに、ルメットは怪訝な思いを抱いた。実際にカザールに会ってみても、30代にしか見えず、失望しかなかったという。 しかし彼の演技を目の当たりにして、考えが変わり、役の設定を変えた。結果的にパチーノは、間違ってなかったのだ。 主人公と“同性結婚”をした、トランスジェンダーの役には、クリス・サランドンが選ばれた。サランドンはそれまで、舞台が専門で、映画は初出演。彼をオーディションで選んだのは、ルメット。そしてその場に立ち合った、パチーノだった。 パチーノはクランクイン前、リハーサルも含めて、ルメットやピアソンと、役作りに関して、十分に詰めたつもりだった。しかしいざ撮影が始まって主人公を演じてみると、なぜか違和感が拭えなかった。何かが違う…。 銀行に押し入るシーンのラッシュを見たパチーノは、「ここには誰も写っていない」と主張し撮り直しを要求。その日は家に帰ると、一晩掛けてどうすれば良いかを考えた。「…おれはサングラスをかけて銀行へ入ってゆく。で、思った。ちがう。あいつはサングラスはしない。サングラスは決行の日に家に忘れてくるんだ。なぜなら、本心ではつかまりたいと思っているんだ」 そう思い至ったパチーノは、サングラスを掛けずに撮り直しを行った。そして、そこからは順調に、撮影が進んだ。 本作では様々な形で、アドリブが生かされた。代表的と言えるのが、銀行から出てきたパチーノが、野次馬たちに「アッティカ!アッティカ!」と連呼して、歓声を浴びるシーン。 アッティカとは、ニューヨーク州に在る刑務所で、71年9月、囚人たちが所内の劣悪な環境の改善を訴えて暴動を起こすという事件が起こった。本作の主人公は公権力の横暴を批判するために、この一件を引き合いに出して群衆にアピールしたわけだが、実はこのセリフは、助監督のアイディアを、パチーノが採り入れたものだった。 この「アッティカ! アッティカ!」は、本作製作後30年経った2005年に、「アメリカン・フィルム・インスティチュート」によって、名台詞ベスト100中第86位に選ばれている。 本作終盤近く、パチーノが同性の妻であるクリス・サランドンと電話で話すシーンは、リハーサルの時の即興を元に演じられた。パチーノは続けて、今度は子をなした妻の方と電話で話す。ここはパチーノの部分は即興だが、妻役のスーザン・ペレスは、脚本で書かれているオリジナルのセリフを喋っている。 この2人の妻とのやり取りは、カメラを止めず、続けて撮影された。気合い十分のパチーノは素晴らしい演技を見せたが、実はルメットは1テイク目の出来がどうであれ、2テイク目に行くことを決めていた。 1テイク目で全力を出して、すでにグッタリしていたパチーノ。そのため、本人は予想していなかった2テイク目は、気負いや虚飾が一切剥ぎ取られ、反射的に対応するようになる。 その結果はルメット曰く、「あの十四分間は、それまでわたしが見たこともないほどすばらしいシーンのひとつだった」 こんな調子で、本物の怒りや焦燥を引き出されたパチーノは、撮影終了後に過労で入院。今度こそ本当に、一時映画を離れて舞台を優先することとなる…。 完成に至った本作は、マスコミからも観客からも、熱狂的に迎えられた。アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演男優賞など6部門でノミネート。しかし受賞は、ピアソンの脚本賞だけに止まった。 この年の作品賞のライバルは、スタンリー・キューブリック監督の『バリー・リンドン』、ロバート・アルトマン監督の『ナッシュビル』、スティーヴン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』、ミロス・フォアマン監督の『カッコーの巣の上で』と、強敵揃い。その中でも『カッコー…』が圧倒的な強さを見せ、作品賞はじめ主要部門を掻っ攫っていった。 ルメットがノミネートされた監督賞は、フォアマンに、パチーノの主演男優賞は、やはり『カッコー…』のジャック・ニコルソンの手へと渡った。この時が主演・助演合わせて4度目のノミネートだったパチーノが、オスカーを実際に手にするには、17年後の『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(92)まで待たねばならなかった。 一方ルメットは、生涯で4度候補になった監督賞のオスカーを手にすることは、結局なかった。彼に贈られたオスカーは、2004年度アカデミー賞の名誉賞のみ。 ルメットほどの名匠にとっては、ただただ巡り合わせが悪かったという他はない。しかし2011年に86歳で没したルメットのフィルモグラフィーの内、少なくない数の作品が、映画史の中で語り続けられ、今でも燦然と輝いている。 本作『狼たちの午後』も、明らかにそんな1本。2009年にはアメリカ議会図書館が、「文化的・歴史的・美的価値がきわめて高い」作品と見なし、アメリカ国立フィルム登録簿に保存する作品に選んでいる。 最後に余談になるが、撮影前の取材を断ったウォトヴィッツにも、大ヒットした本作の収益の一部が支払われた。彼はその金の一部を、男性妻の性転換手術に使ったという。■ 『狼たちの午後』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2021.12.28
16年振りのシリーズ最終作。『ゴッドファーザーPARTⅢ』で、コッポラが本当に描きたかったものとは!?
アメリカ映画史に燦然と輝く、『ゴッドファーザー』シリーズ。 イタリア系移民のマフィアファミリーの物語を、凄惨で血みどろの抗争を交えて、歴史劇のように描き、今日では「クラシック」のように評されている。少なくともシリーズ第1作、第2作に関しては。 本作『ゴッドファーザーPARTⅢ』に関しては、その存在を好んで語る者は、数多くない。「黙殺」する向きさえある…。 ファミリーの首領=ドン・ヴィトー・コルレオーネをマーロン・ブランドが重厚に演じた、1972年の第1作『ゴッドファーザー』。当時の興行新記録を打ち立て、アカデミー賞では、作品賞・主演男優賞・脚色賞の3部門を獲得した。 ジェームズ・カーン、アル・パチーノ、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン、タリア・シャイアといった、70年代をリードしていくことになる若手俳優たちの旅立ちの場であったことも、映画史的には重要と言える。 74年の第2作『ゴッドファーザーPARTⅡ』。ファミリーを継いだ若きドン、マイケル・コルレオーネの戦いの日々と、先代であるヴィト―の若き日をクロスさせる大胆な構成が、前作以上に高く評価された。 興行成績こそ前作に及ばなかったものの、アカデミー賞では、作品賞・監督賞・助演男優賞・脚色賞・作曲賞・美術賞の6部門を受賞。作品賞を獲った映画の続編が、再び作品賞を得たのは、アカデミー賞の長きに渡る歴史の中でも、この作品だけである。 前作に続いてマイケルを演じたアル・パチーノは、堂々たる主演スターの座に就いた。そしてヴィト―の若き日にキャスティングされたロバート・デ・ニーロは、アカデミー賞の助演男優賞を得て、一気にスターダムを駆け上った。 余談になるが、続編のタイトルに「PARTⅡ」といった数字を付けるムーブメントは、この作品が作ったものである。 そんな偉大な2作から16年の歳月を経て登場したのが、1990年のシリーズ第3作、『ゴッドファーザーPARTⅢ』。主役は前作に続き、アル・パチーノが演じる、マイケル・コルレオーネである。 ********* 1979年、老境に差し掛かったマイケルは、資産を“浄化”するため、ヴァチカンとの取引に乗り出す。コルレオーネファミリーを犯罪組織から脱却させ、別れた妻ケイ(演:ダイアン・キートン)との間に儲けた子どもたちに引き継ぐのが、大きな目的だった。 しかし後を継ぐべき息子のアンソニーは、ファミリーの仕事を嫌って、オペラ歌手の道へと進む。一方、娘のメアリー(演:ソフィア・コッポラ)は、ファミリーが作った財団の顔として、慈善事業の寄付金集めに勤しんでいた。 そんな時マイケルの前に、妹のコニー(演:タリア・シャイア)が、長兄ソニーの隠し子であるヴィンセント(演:アンディ・ガルシア)を連れてくる。マイケルはヴィンセントの、今は亡き兄譲りの血気盛んで短気な気性を不安に思いながらも、自らの配下とする。 ニューヨークの縄張りを引き継がせた、ジョーイ・ザザが叛旗を翻した。ザザは、マイケルが仲間のドンたちを集結させたホテルを、ヘリコプターからマシンガンで襲撃。多くの死傷者が出る中、九死に一生を得たマイケルは、ザザを操る黒幕の存在を直感する。 血と暴力の世界から、抜け出そうとしても抜けられない。そんな己の人生を振り返って、マイケルは、かつて次兄のフレドまで手に掛けたことへの悔恨の念を深くする。ヴィンセントと愛娘のメアリーが恋に落ちたことも、彼を苦悩させた。 ヴァチカンとの取引も暗礁に乗り上げる中、マイケルはヴィンセントに命じて、諸々のトラブルの裏とその黒幕を探らせる。そして彼を、ファミリーの後継者に任ずると同時に、娘との恋を諦めるように諭す。 イタリア・パレルモのオペラ劇場での、息子アンソニーのデビューの夜。ファミリーが集結するそのウラで、またもや血と報復の惨劇が繰り広げられていく。 そしてマイケルには、己が死ぬことよりも辛い“悲劇”が待ち受けていた。 ********* 1990年のクリスマスにアメリカで公開された本作は、アカデミー賞では7部門でノミネートされながらも、結局受賞には至らなかった。興行的にも批評的にも、前2作には、遠く及ばない結果となった『PARYTⅢ』は、同じコッポラを監督としながらも、『ゴッドファーザー』3部作の中では、まるで「鬼っ子」のような扱いを受けるに至ったのである。 そもそも前2作の絶大なる成功がありながら、なぜ『PARTⅢ』の登場までには、16年の歳月が掛かったのか? それは一言で言えばコッポラが、「やりたくなかった」からである。 それとは逆に、製作した「パラマウント・ピクチャーズ」は、この16年の間、折に触れてはこのドル箱シリーズの第3弾を、コッポラに作らせようと働きかけた。80年代前半には、シルベスター・スタローンの監督・主演、ジョン・トラボルタの共演で、『PARTⅢ』の製作をぶち上げたこともある。 これはスタローンの『ロッキー』シリーズで主人公の妻役を演じ続けたタリア・シャイアが、実の兄であるコッポラとスタローンの橋渡し役を務めて、実現しかかった話と言われている。結局コッポラが、スタローンに『ゴッドファーザー』を任せることには翻意して、企画が流れたと伝えられる。 では「やりたくなかった」『PARTⅢ』を、なぜコッポラ本人が手掛けるに至ったのか?大きな理由は、彼の過去作である『ワン・フロム・ザ・ハート』(82)にある。 ラスベガスをセットで再現するために、スタジオまで買い取って製作した『ワン・フロム…』は、当初1,200万ドル=約35億円を予定していた製作費が、2,700万ドル=約78億円にまで跳ね上がった。しかも劇場に観客を呼ぶことは出来ず、コッポラは破産に至ってしまったのだ。 その後コッポラは、『アウトサイダー』(83)『ランブルフィッシュ』(83)『コットンクラブ』(84)等々の小品や雇われ仕事を多くこなし、借金の返済に務めることになる。しかしディズニーランドのアトラクション用である、マイケル・ジャクソン主演の『キャプテンEO』(86)まで手掛けながらも、経済的苦境から抜け出すことは、なかなか出来なかった。 そこでようやく、自分の意図を最大限尊重するという確約を取った上で、「パラマウント」の提案に乗った。コッポラにとって、最後の切り札とも言える、『ゴッドファーザーPARTⅢ』の製作に乗り出すことを決めたのだ。 コッポラは89年4月から、『ゴッドファーザー』の原作者で、シリーズの脚本を共に手掛けてきたマリオ・プーヅォと、『PARTⅢ』の脚本執筆に取り掛かった。そしてその年の11月下旬にクランクイン。 ほぼ1年後にアメリカ公開となったわけだが、先に書いた通り批評家からも観客からも、大きな支持を得ることは出来なかった。 主演のアル・パチーノも指摘していることだが、その理由は大きく2つ挙げられる。まずは、ロバート・デュバルの不在である。 前2作を通じて、ファミリーの参謀役でマイケルの義兄弟に当たるトム・ヘーゲンを演じてきたデュバルは、『PARTⅢ』への出演を断った。コッポラの妻エレノアの著書によると、デュバルが気に入るよう何度もシナリオを書き直したのに、彼が首を縦に振ることは、遂になかった。 実際はギャラの面で折り合いが付かなかったと言われているが、結果的にヘーゲンは、既に亡くなっている設定にせざるを得なくなった。もしもデュバルが出演していたら、マイケルがヴァチカンと関わることになる触媒的な役割を果たしたという。 そして『PARTⅢ』バッシングの際に、必ず俎上に上げられたのが、マイケルの娘メアリー役のキャスティング。当初この役は、当時人気上昇中だったウィノナ・ライダーが演じることになっていた。しかし突然、「気分が良くないから、参加できない」と降板。 彼女のスケジュールに合わせて3週間も、別のシーンの撮影などで時間稼ぎをしていたのが、パーとなった。そこでコッポラは急遽、実の娘であるソフィアを、メアリー役に充てたのである。「パラマウント」などの反対を押し切ってのこの起用は、マスコミの格好の餌食となった。まるでスキャンダルのように、書き立てられたのである。 デュバルとライダーが出演しなかったことに加えて、アル・パチーノは、本作の大きな間違いとして、「マイケル・コルレオーネを裁き、償わせた」ことを挙げる。「マイケルが報いを受けて、罪の意識に苦しめられるのを誰も見たくなかった」というのだ。『PARTⅢ』のクライマックス、当初の脚本では、マイケルは敵の放った暗殺者に撃たれて、人生の幕を閉じることになっていた。しかしコッポラはそのプランを変更し、マイケルが最も大切なものを失い、その魂が死を迎えるという結末に書き変えた。 まるでシェイクスピアの「リア王」や、それを原作とした、黒澤明監督の『乱』(85)の主人公が迎える結末と重なる。黒澤が、コッポラの最も敬愛する監督であることは、多くが知る通りである。 コッポラは、自らの経験をマイケルに重ねていたとも思われる。『PARTⅢ』の準備に入る3年ほど前=1986年に、コッポラは当時22歳だった長男のジャン=カルロを、ボート事故で失っているのである。 アル・パチーノが指摘する本作の大きな間違いは、実はコッポラにとって、最も譲れない部分だったのではないだろうか? さて『ゴッドファーザー』シリーズを愛する気持ちでは、人後に落ちない自負がある私だが、91年春、日本での劇場公開時に『PARTⅢ』を鑑賞した時の感想を、率直に書かせていただく。それは第1作・第2作に比べれば見劣りするが、「悪くない」というものだった。『ワン・フロム…』後の紆余曲折を目の当たりにしてきただけに、コッポラは『ゴッドファーザー』を撮らせると、やっぱり違う。この風格は彼にしか出せないと、素直に思えた。 そして前2作が、パチーノやデ・ニーロといったニュースターを生み出したのと同じ意味で、マイケルの跡目を引き継ぐことになる、ヴィンセント役のアンディ・ガルシアの登場を歓迎した。ガルシアは、『アンタッチャブル』(87)『ブラックレイン』(89)で注目を集めた、まさに伸び盛りの30代前半に本作に出演。アカデミー賞の助演男優賞にもノミネートされるような、素晴らしい演技を見せている。 本作の後、彼の主演で、レオナルド・ディカプリオを共演に迎えて、『ゴッドファーザーPARTⅣ』が企画されたのにも、納得がいく。残念ながらガルシアは、パチーノやデ・ニーロのようには、ビッグにはならなかったが…。 実はコッポラは本作に、『PARTⅢ』というタイトルを付けたくなかったという。彼が当初構想したタイトルは、『Mario Puzo's The Godfather Coda: The Death of Michael Corleone』。翻訳すれば『ゴッドファーザー:マイケル・コルレオーネの最期』である。 そしてコッポラは、『PARTⅢ』公開30周年となる昨年=2020年、フィルムと音声を修復。新たなオープニングとエンディング及び音楽を付け加えて再構成を行い、当初の構想に基づくタイトルに変えて、リリースを行った。 このニューバージョンに対し、アル・パチーノは「良くなったと確信した」と賞賛。それまで『PARTⅢ』を「好きじゃなかった」というダイアン・キートンも、この再編集版を「人生最高の出来事のひとつ」と、手放しで絶賛している。 私ももちろん、この『』を鑑賞しているが、何がどのように「良くなった」かは、今回は敢えて触れない。それはまた、別の話である。■ 『ゴッドファーザーPARTⅢ』TM & COPYRIGHT © 2022 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2021.07.08
アル・パチーノvsロバート・デ・ニーロ ライバルにして友人同士の、初の本格共演作 『ヒート』
2005年10月21日、ビバリーヒルズのホテルで、アル・パチーノを顕彰する催しがあった。その席には彼と共演経験がある者を中心に、綺羅星のようなスター達が出席。「アメリカン・シネマテーク賞」が贈られたパチーノに、次々と賞賛の声を浴びせた。 会場には姿を見せなかったものの、メッセージビデオを寄せた中には、ロバート・デ・ニーロが居た。彼はパチーノに呼び掛けるような、こんな祝いの言葉を贈った。「アル、何年にもわたり、おれたちは役を取り合った。世間のひとたちはおれたちをたがいに比較し、たがいに競わせ、心のなかでばらばらに引き裂いた。正直に言って、おれはそんな比較をしてみたことはない。たしかにおれのほうが背が高い。おれのほうが主役タイプだ。しかし正直に言おう。きみはおれたちの世代で最高の俳優であるかもしれない……ただし、おれをべつにしてだ」 1940年生まれのパチーノと、43年生まれのデ・ニーロ。まさに同世代の中で、長年ライバル同士と目されると同時に、親しい友人関係にあった。そんな2人の仲を、端的に表したメッセージと言えよう。 共に、イタリア系アメリカ人。俳優を志した若き日、ニューヨークでスタニスラフスキー・システムを基にした「メソッド演技法」を学んだのも、同じだ。但し、パチーノの師がアクターズ・スタジオのリー・ストラスバーグであるのに対し、デ・ニーロが学んだのは、かつてストラスバーグと衝突して袂を分かった、ステラ・アドラーであった。 俳優としてのキャリア初期、デ・ニーロは『The Gang That Couldn't Shoot Straight』(71/日本未公開)という作品に出演した。彼が演じたのは、パチーノが『ゴッドファーザー』(72)に出演が決まったため、断った役である。 その『ゴッドファーザー』でパチーノが演じたマイケル・コルレオーネの役は、デ・ニーロも候補として、名が挙がった1人だった。結果的にこの役を得たパチーノは、作品が記録破りの大ヒットになると同時に、スターダムにのし上がり、アカデミー賞助演男優賞の候補にもなった。 2人の初の共演作は、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)。とはいえこの作品の中で、2人が顔を合わすシーンはない。パチーノが引き続きマイケル・コルレオーネを演じたのに対し、デ・ニーロの役は、マイケルの父であるヴィト―・コルレオーネの若き日であったからだ。 パチーノは今度は、アカデミー賞の主演男優賞候補になる。一方この作品で一躍大きな注目を集めたデ・ニーロは、候補となった助演男優賞のオスカー像を勝ち取った。 これは余談になるが、デ・ニーロが演じたヴィト―の生まれ故郷は、イタリア・シチリア島のコルレオーネ村。実はこの地は、パチーノの祖父の出身地であった。 さて、『ゴッドファーザーPARTⅡ』時には30代前半だった、パチーノとデ・ニーロ。そんな2人が初の本格共演を果たすのには、それから20年以上の歳月、共に50代となるまで、待たなければならなかった。 それが、マイケル・マン製作・監督による本作『ヒート』(95)。パチーノが演じる、ロサンゼルス市警の警部ヴィンセント・ハナと、デ・ニーロが演じる、プロの犯罪者ニール・マッコリ―の対決が描かれる、2時間50分である。 *** ニール・マッコリ―をリーダーに、クリス、チェリト、タウナーらがメンバーの強盗グループの今回のターゲットは、多額の有価証券を積んだ装甲輸送車。大胆不敵な襲撃で輸送車を横転させ、警察の追っ手が掛かる前に証券を手に入れて、現場から立ち去る計画だった。 ところが新顔のメンバーが、ガードマンの1人を無意味に射殺。そのため、目撃者である他のガードマンたちも、葬らざるを得なくなる。 急報を受けてロス市警から、強盗・殺人課のヴィンセント・ハナ警部が駆けつけた、彼は犯行の手口から、強盗のリーダーが、相当に頭が切れるタイプであることを見抜く。 グループの仲間たちが家族持ちなのに対し、ニールは情の部分を断ち切った独り者。しかしある時に出会った、グラフィック・デザイナーのイーディと恋に落ちる。 一方ニールたちを追うヴィンセントは、捜査にのめり込む余り、過去に2度の離婚歴がある。現在は3番目の妻とその連れ子の娘と暮らしているが、またもや関係がギクシャクし始めていた…。 ちょっとした糸口から、ニールたちの正体を割り出したヴィンセントの捜査チームは、強盗グループが犯行に及んだところを、一網打尽にする計画を実行する。ところが犯行途中、捜査チームのちょっとしたミスから、ニールは警察の罠に気付き、企てを中止して引き上げる。 ニールは意趣返しのように、逆に罠を張る。そして、ヴィンセントはじめ捜査チームのメンバーを突き止める。 虚々実々の駆け引きを経て、ヴィンセントとニールが、直接対決する日が近づく。それが2人のどちらかにとっては、最期の日になる。そんな予感を孕んでいた…。 *** デ・ニーロと同年の、1943年生まれのマイケル・マンは、70年代から「刑事スタスキー&ハッチ」「ポリスストーリー」など、TVの有名刑事ドラマの脚本や監督を担当。80年代にはエグゼクティブ・プロデューサーを務めた、「特捜刑事マイアミ・バイス」で大当たりを取った。 映画監督としては、『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』(81)でデビュー。本作に至るまでに、『ザ・キープ』(83)『刑事グラハム/凍りついた欲望』(86)『ラスト・オブ・モヒカン』(92)といった作品を手掛けていた。 本作でパチーノが演じた刑事と、デ・ニーロが演じた犯罪者には、実在のモデルが居る。刑事のモデルは、元シカゴ市警の警察官で、退職後に脚本家となったチャック・アダムソン。マンの映画監督デビュー作『ザ・クラッカー』で、脚本及び犯罪に関する専門的なアドバイザーを担当したことがきっかけで、マンの親友となり、「マイアミ・バイス」他のマン作品に深く関わるようになった。 犯罪者のモデルは、アダムソンが警察時代に追っていた、その名もニール・マッコリ―。60年代のシカゴで仲間と共に、深夜の金庫襲撃などを繰り返していた。最終的には食料品チェーン店に強盗に入った際、監視していた警察に追い詰められ、アダムソンとその同僚によって、射殺された。 マンはアダムソンからマッコリ―の話を聞いて、2人の関係をベースにした、刑事と犯罪者の対決の物語を映像化しようと構想を練る。そしてまずは89年に、TVムービーとして、『メイド・イン・L.A.』を完成させる。 この作品は日本の場合、『ヒート』公開後に、VHSやDVDなどのソフトで観た方がほとんどと思われる。そうした順番で鑑賞すると、『メイド・イン・L.A.』は、『ヒート』をスケールダウンして、ノースターで製作した93分のダイジェスト版のように感じられる。 もちろん実際は、その逆。予算のスケールアップはもちろん、パチーノ、デ・ニーロ以外に、脇役にもヴァル・キルマーやジョン・ボイトなどのスターを配し、尺も2倍近くにしたのが、『ヒート』なのである。先に映像化したものが“ダイジェスト”のように感じられるのは、展開がほとんど変わらず、主要な登場人物の数も、ほぼ同じだからであろう。『ヒート』は長尺にした分、各キャラクターの描写が厚くなっている。正直、未消化に終わって、余計に感じられるところも散見するが。 さてアクション以外の見せ場として、両作にあるのが、クライマックスの対決に至る前に、ヴィンセントがニール(『メイド・イン・L.A.』では役名はパトリック)に声を掛け、宿敵同士である刑事と犯罪者が、コーヒーショップで会話をするシーン。これはモデルとなった2人の間に、実際にあった出来事を脚色したエピソードだという。 アダムソンがマッコーリーを尾行していた時に、期せずしてショッピングモールで、顔を合わせてしまった。その時アダムソンは、犯罪者であるマッコーリーの行動を深く理解したいと考え、コーヒーに誘ったのである。そして2人で、多くのことを語り合ったという。 この“実話”を基に、マンはヴィンセントとニールが、「…コインの裏と表のような関係…」であり、「似たもの同士…」であることを表現するシーンを作った。共にワーカホリックで、平穏な家庭生活などは望めない、孤高のプロフェッショナル。それ故に2人は、激しく戦わざるを得ないというわけだ。 作品の本質を表す、屈指の名シーンと言えるが、一方で『ヒート』初公開時にはこのシーンがあるが故に、観客らが「あらぬ疑惑」を抱く事態となった。それについては、後ほど詳述する。 本作でマンが大いにこだわったのが、“リアリティー”。俳優陣には準備段階で、犯罪者の行動原理を学ばせた。 例えば犯罪チームの一員チェリトを演じたトム・サイズモアの場合、刑務所で受刑者の話を聞いたり、営業中の銀行を訪れ、自分が強盗だったらどう狙うかをシミュレーションした。更には実在のギャング団行きつけの店のテーブルで、わざわざ食事までした。 撮影前には3カ月に及ぶ、コンバット・シューティング=実践的射撃術の訓練を実施。犯罪者チームと警官チームは、それぞれ銃の撃ち方や扱いに微妙な違いがあることから、別々のトレーナーを付けて行った。これは、劇中で対立する2つのチームに、馴れ合いの空気を作らせないための工夫でもあったという。 マンは、ロサンゼルスでのオールロケにもこだわった。ロケ場所は実に85箇所にも及んだが、ハイライトはやはり、12分間に渡る白昼の市街戦の舞台。週末にロスのオフィス街の大通りを丸ごと借り切って、映画史に残るような壮大なドンパチを繰り広げた。 主演を務めた2大スター、アル・パチーノとロバート・デ・ニーロについては、マンはその演技を、次のように語っている。「デ・ニーロは役を建築物のように構築する。細部をすこしずつ、信じられないほどこまかく研究する。…一方、アルの役への入りかたはちがう。ピカソが何も描いてないキャンヴァスを何時間もみつめて集中するようにだ。集中したあとで何刷毛か絵筆をふるう。それだけで人物が生きて立ち上がる」 そんな2人が対峙する最大の見せ場が、先に挙げた、コーヒーショップのシーンだった。しかし初公開時は、私も含めて多くの観客の中に、「?」を残す結果となった。具体的には、「パチーノとデ・ニーロ、共演してないのでは?」という疑念が、猛然と沸き上がったのである。 2人の会話シーンは、各々のバストショットの切り返しばかり。同一画面に2人が存在する、そんな2ショットのシーンが、全く存在しなかったのである。 パチーノとデ・ニーロが、いくら親しい友人同士といっても、撮影現場ではお互いTOPスターのプライドなどもあって、そうはいかなかった。だから別々に撮ったのである。そんなもっともらしい解説も、当時耳にした記憶がある。 でも実際は、そんなことはなかった。現場のスチールやメイキングなどから明らかだが、2人はちゃんと共演していたのである。しかもリハーサルなしで撮影したこのシーンは、2人のアドリブも満載に、11テイクも回していた。 では、実際にはカメラに収めた2ショットなどは、なぜ使わなかったのか?「共演してないのでは?」という疑惑を生み出すような編集に、どうしてなったのか? パチーノとデ・ニーロは、視線を合わせたり逸らしたりしながら、セリフの応酬をする。そうした中でお互いが、「似ている人間」であることを理解していく。 それを見せるためには、それぞれの表情がはっきりと映る、バストショットの切り返しが最も有効。交互に見せることで、2人の演技が融合していく。マンと編集者は、そう考えたのである。 初見から25年経って、そのシーンを観返してみて私が思ったのは、「似た者同士」である2人だが、同じ世界での共存は許されない。2ショットを省いたのには、そんなことを表す意図があったようにも思えてきた。この編集だからこそ、刑事と犯罪者、それぞれの“孤高さ”が際立ってくる。『ヒート』で初めて、本格共演を果たしたパチーノとデ・ニーロ。2人はその後、『ボーダー』(2008)『アイリッシュマン』(19)と、ほぼ10年に1度ほどのペースで共演を重ねている。 一方、その後様々な犯罪映画を手掛けたマイケル・マンは、現在ヴィンセントやニールらの、本作以前のストーリーを描く前日譚の小説化や脚本化に取り組んでいると伝えられる。この映像化が実現しても、齢80前後となったパチーノとデ・ニーロが同じ役で再登板することは、ちょっと考えにくいが…。■ 『ヒート』© 1995 Monarchy Enterprises S.a.r.l. in all other territories. 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COLUMN/コラム2020.08.06
血で血を洗うバイオレンスの応酬で描かれるデ・パルマ流ギャング映画『スカーフェイス』
ギャング映画の古典を現代にアップデート 劇場公開時は相当な物議を醸した作品である。ホラー&サスペンスの巨匠ブライアン・デ・パルマ監督にとって初めてのギャング映画。セックスとドラッグとバイオレンスが満載の過激な内容は、当時まだ高校生だった筆者を含めて若い世代の映画ファンからは熱狂的に受け入れられたものの、その一方で良識(?)ある評論家や大人たちからは眉をひそめられ、「不愉快だ」「冒涜的だ」「見るに堪えない」などと激しく非難された。そういえば、デ・パルマは『殺しのドレス』(’80)の時も同様の理由で叩かれまくったっけ。しかし、蓋を開けてみればどちらの作品も興行的には大成功。特に本作は、デ・パルマのキャリアにおいて『アンタッチャブル』(’86)や『カリートへの道』(’93)へと繋がる重要な通過点となった。今では映画史上最も優れたギャング映画のひとつに数えられている名作だ。 ご存じの通り、本作はハワード・ホークス監督によるギャング映画の古典『暗黒街の顔役』(’32)のリメイクに当たる。ストーリーの基本的な要素はオリジナル版とほぼ一緒。貧しい移民のチンピラが裏社会でのし上がり、一大犯罪帝国を築き上げて我が世の春を謳歌するものの、やがて金と権力がものをいう弱肉強食の世界に自らが呑み込まれて破滅する。恐らく最大の違いは、オリジナル版の主人公が禁酒法時代のシカゴで密造酒ビジネスを手掛けるイタリア系移民であったのに対し、本作の主人公トニー・モンタナはコカイン戦争真っ只中のマイアミを舞台に麻薬ビジネスで財を成すキューバ系移民であるという点であろう。 南米のコロンビアやボリビアから大量に密輸されるコカインが、深刻な社会問題となった’80年代のアメリカ。その入り口が常夏の避暑地マイアミを擁するフロリダ州であった。そして、そんなフロリダ州と海を挟んで目と鼻の先に位置するのがキューバ共和国。社会主義国家であるキューバは、当時まだアメリカと国交を断絶していたのだが、1980年4月20日に国家元首フィデル・カストロがアメリカへの亡命希望者に対してマリエル港からの出国を許可すると発表したことから、同年9月26日にマリエル港が閉鎖されるまでの5カ月間に渡って、実に12万5000人以上ものキューバ人がフロリダ州へと上陸した。その大半はカストロ体制を嫌う一般人や文化人だったが、中にはキューバ政府が厄介払いしたい犯罪者も含まれており、およそ2万5000人に逮捕歴があったとも言われている。本作はこうした当時の社会情勢をストーリーの背景として巧みに反映させており、ありきたりなリメイク映画とは一線を画する秀逸なアップデートが施されているのだ。 金もコネも学歴もないチンピラの成り上がり物語 物語の始まりは1980年の5月。マリアナ港から難民ボートでマイアミへ上陸した前科者トニー・モンタナ(アル・パチーノ)は、弟分マニー(スティーブン・バウアー)やアンヘル(ペペ・セルナ)らと共に難民キャンプへ強制収容されるものの、そこで麻薬王フランク・ロペス(ロバート・ロジア)の依頼を受けてカストロ政権の元幹部を殺害。その見返りとしてグリーンカードを取得し、晴れてアメリカ市民となる。 とはいえ、金もコネも学歴もないチンピラのトニーやマニーに出来る仕事と言えば、せいぜい飲食店の皿洗いが関の山。目の前で美女をはべらせ高級車を乗り回すスーツ姿のリッチなヤンキー男を眺めながら、俺だってああいう生活がしたい!こんなところで燻っていられるもんか!アメリカは誰にだってチャンスのある国じゃないか!と息巻くトニーは、持ち前の知恵と度胸とビッグマウスを武器に裏社会での立身出世を目論む。まず手始めにロペスの右腕オマール(F・マーリー・エイブラハム)から大口の麻薬取引代行を請け負ったトニーとマニー。ところが、お膳立てが整っているはずのコカインと現金の交換は、コロンビア人ギャングによる罠だった。 安ホテルでの壮絶な殺し合いの末にコカインを奪ったトニーだったが、しかし仲間のアンヘルが犠牲になってしまう。あのオマールって奴は信用ならない。ボスであるロペスのもとへコカインと現金を届けたトニーは、交渉の結果ロペスから直接仕事を引き受けることとなり、みるみるうちに裏社会で頭角を現していく。そんな彼を上手いこと利用するつもりでいたロペスだったが、しかしボリビアの麻薬王ソーサ(ポール・シェナー)との商談を独断で取りまとめ、自分の情婦エルヴァイラ(ミシェル・ファイファー)に公然と手を出そうとするトニーの大胆不敵な態度が目に余るように。このままでは自分の立場が脅かされる。そう感じたロペスは、殺し屋を差し向けてトニーを亡き者にしようとするも失敗。すぐさまトニーは仲間を集めて組織の事務所を襲撃し、ロペスだけでなく彼と癒着していた麻薬捜査官バーンスタイン(ハリス・ユーリン)をも殺害する。 かくして組織を乗っ取り新たなボスの座に君臨したトニーは、ソーサの強力な後ろ盾を得てビジネスを拡大していく。夢だった大豪邸も手に入れ、高根の花だったエルヴァイラとも結婚。貧しい暮らしをしていた大切な妹ジーナ(メアリー・エリザベス・マストラントニオ)にも贅沢をさせられるようになった。しかし、他人を蹴落として頂点に登りつめた者だからこそ、いつどこで誰に足を引っ張られるか分からない。猜疑心を深めるトニーは自らも麻薬に溺れるようになり、やがてエルヴァイラをはじめ周囲の人々との間にも亀裂が生じていく。そんな折、脱税容疑で窮地に立たされた彼は、ソーサから依頼された仕事で致命的な判断ミスを犯してしまう…。 デ・パルマとオリバー・ストーンのコラボレーション これぞまさしくアメリカン・ドリームの光と影。社会主義国キューバからやって来た貧しい移民が、資本主義社会における競争の原理を実践したところ、束の間の栄光の果てに破滅の道を辿ることになるという皮肉。確かに主人公トニーは犯罪者という分かりやすい悪人だが、しかし果たして彼のやっていることの本質は、アメリカの富を牛耳る一部の資本家や銀行家、政治家などと大して違わないのではないか。脚本を手掛けたオリバー・ストーンは、裏社会の栄枯盛衰という極めてドラマチックなストーリーを通して、物質的な豊かさばかりを追求するアメリカ型資本主義の歪んだ価値観に疑問を呈する。そこには、過度な自由競争を促して格差社会を広げる、当時のレーガン大統領の経済政策レーガノミックスに対する批判も見え隠れするだろう。そういう意味では、この4年後にオリバー・ストーンが監督する『ウォール街』(’87)とテーマ的に相通ずるものがあるようにも思える。 とはいえ、あくまでも本作が前面に押し出すのは、人間の浅ましい欲望と欲望がぶつかり合うセックス&バイオレンスの世界。堕落した資本主義の成れの果てのような虚飾の裏社会で、札束とドラッグに溺れる人々が更なる富を求め、醜い殺し合いを繰り広げていく。その露骨で赤裸々なこと!おかげで、最初に監督として白羽の矢が立っていたシドニー・ルメットは降板してしまう。実はイタリア系移民というオリジナル版の設定をキューバ系移民に変更したのもルメットのアイディア。しかし、どうやら彼は政治的なメッセージ性の高い社会派映画を目指していたらしい。ところが、仕上がって来た脚本は『仁義なき戦い』も真っ青のストレートなバイオレス映画。どう考えたってルメットの柄ではない。 そこで代役に指名されたのがブライアン・デ・パルマ。『悪魔のシスター』(’72)にしろ、『ファントム・オブ・パラダイス』(’74)にしろ、はたまた『キャリー』(’76)にしろ、それまで手掛けてきた作品のジャンルこそ違えども、観客にショックを与えて物議を醸すような映画は彼の十八番だ。本作の監督としては適任。しかも、前作『ミッドナイト・クロス』(’81)が不発に終わったデ・パルマは、ちょうど映像作家としての新たな方向性を模索していた。なるほど、彼にとって本作は文字通り「渡りに船」だったわけだ。 血で血を洗うような凄まじいバイオレンスの応酬、成金趣味丸出しのけばけばしい美術セットや衣装、’80年代を代表するヒットメーカーのジョルジオ・モロダーによる煌びやかなダンス・ミュージックを散りばめながら、ハイテンションで突っ走っていくデ・パルマの演出。放送禁止用語のFワードだって226回も登場する。こうした下世話なまでのトゥー・マッチ感こそが本作の醍醐味であり、オリバー・ストーンの脚本が描き出そうとしたレーガノミックス時代のアメリカの醜悪さそのものだと言えよう。 ただ、改めて今見直してみると、当時さんざん非難された暴力シーンも実はそこまで残酷じゃない。例えば、安ホテルのバスルームを舞台にした有名なチェーンソー惨殺シーンだって、実際はほとんど何も見せていないに等しい。スクリーンに映し出されるのは、犠牲者の苦悶の表情と大量に飛び散る血糊、そこから目を背けようと必死にもがくアル・パチーノの姿だけ。それらの間接的要素を矢継ぎ早に畳みかけることで、観客は正視に耐えないような光景を直接目撃したように錯覚するのだ。これこそが演出の力、映画のマジック。近ごろの『ゲーム・オブ・スローンズ』や『ハンニバル』のようなテレビ・シリーズの方が遥かに残酷だ。 そして、まるでイタリアン・オペラさながらのグランド・フィナーレ。屋敷へなだれ込んできた無数の殺し屋部隊を相手に、トニーが機関銃をぶっ放しまくる壮大な銃撃戦の圧巻なこと!オリジナル版の呆気ないクライマックスとは大違いだ。ちなみに、このシーンの撮影ではアル・パチーノが火薬を使って熱くなった小道具の銃に誤って触れてしまい、そのせいで左手に火傷を負ったことから、2週間の休養を余儀なくされたという。しかし、かといって撮影を中断するわけにもいかないため、その間にトニーと銃撃戦を演じる殺し屋たちをまとめ撮りしたそうなのだが、実はその際にスティーブン・スピルバーグが撮影に参加している。 スピルバーグとデ・パルマはお互いに無名時代からの仲間。かつて最初のハリウッド進出に失敗したデ・パルマは、大学時代の先輩である女優ジェニファー・ソルトとその親友マーゴット・キダーが同居するビーチハウスに半年ほど居候していたのだが、そこはマーティン・スコセッシやハーヴェイ・カイテルなどの若手映画人が将来の夢を語り合う溜まり場と化しており、その常連組の中にスピルバーグもいたのである。当初は見学だけのつもりで『スカーフェイス』のセットを訪れたスピルバーグだが、4台配置されたカメラのうち1台を彼が回すことになったという。ただ、具体的にどのカットがスピルバーグの撮ったものかはデ・パルマもハッキリと覚えていないそうだ。 ジョルジオ・モロダーの音楽とヒップホップ・カルチャーへの影響 もともとリメイクの企画を思いついたのはアル・パチーノ。かねてから『暗黒街の顔役』の評判を聞いていた彼は、たまたま通りがかったL.A.の名画座劇場で同作を初めて鑑賞したところ、主役を演じるポール・ムニの芝居にすっかり感化されてしまった。自分もトニー役をやってみたいと考えたパチーノは、『セルピコ』(’73)や『狼たちの午後』(’75)などで組んだプロデューサー、マーティン・ブレグマンに相談を持ちかけ、そこから本作の企画が始動したのだという。それだけに、トニー役を演じるパチーノの気迫は並大抵のものじゃない。賞レースではゴールデン・グローブ賞の主演男優賞候補のみに止まったが、むしろなぜオスカーから無視されたのか不思議なくらいだ。 そのトニーの相棒マニー役に起用されたのが、当時はまだ全くの無名だったスティーブン・バウアー。制作サイドの思い描いていたマニー像と驚くほど一致したため、実質的にオーディションなしの一発合格だったという。しかも、彼は3歳の時にマイアミへ移住したキューバ移民2世。これ以上望むことのない理想のキャスティングだったと言えよう。本作で一躍注目されたバウアーだが、しかしあまりにもマニー役のイメージが強すぎたせいで、その後のキャリアが伸び悩んだのは残念だった。それでもなお、現在に至るまで息の長い役者生活を続けているのだから立派なもの。テレビ『ブレイキング・バッド』で演じたメキシコ麻薬王役などは、この『スカーフェイス』あってこその仕事だったはずだ。 一方、裏社会の男たちに翻弄されるトロフィー・ワイフ、エルヴァイラ役のミシェル・ファイファーも好演。金と女と権力への欲望をたぎらせた男だらけのホモソーシャルな世界で、ただの性的なオブジェクトとしての役割しか与えられず、何か物申そうものなら「女のくせに」と頭ごなしでバカにされる。そんな屈辱的な日常を黙って受け入れているように見えつつ、次第に我慢しきれなくなり壊れていくエルヴァイラは、一見したところ地味に思えて実はかなり難しい役柄だ。当初、デ・パルマやパチーノが推したのはグレン・クローズだったそうだが、プロデューサーのブレグマンが最後まで粘ってファイファーをキャスティングしたという。これはどう考えたってブレグマンが大正解。動くバービー人形のようなミシェル・ファイファーでなければ全く説得力がない。 そのほか、ジーナ役のメアリー・エリザベス・マストラントニオにロペス役のロバート・ロジア、オマール役のF・マレー・エイブラハムにソーサ役のポール・シェナーと、脇を固める役者たちのどれもがはまり役。トニーの母親を演じるミリアム・コロンは、プエルトリコ系の有名な舞台女優で、『片目のジャック』(’61)と『シエラマドレの決斗』(’66)ではマーロン・ブランドと共演している。若い頃はえらく綺麗な女優さんだった。 なお、『フラッシュダンス』(’83)や『フットルース』(’84)の大ヒットにとって、オムニバス形式のサントラ盤ブームが巻き起こった当時だけあって、本作のサウンドトラックにも複数のアーティストが参加しているのだが、基本的に全ての楽曲でジョルジオ・モロダーが作曲・プロデュースを手掛けている。中でも要注目なのは、『アメリカン・ジゴロ』(’80)の主題歌でモロダーと組んだブロンディのリード・ボーカリスト、デビー・ハリーが歌う「ラッシュ・ラッシュ」。トニーが初めてディスコ「バビロン・クラブ」に足を踏み入れるシーンで使用されている。また、難民キャンプのシーンで流れるトロピカルなラテン・ナンバーを歌っているのは、『ダブルボーダー』(’87)や『バトルランナー』(’87)、『プレデター2』(’90)のヒロイン役で有名な女優マリア・コンチータ・アロンソ。実は彼女、もともと母国ベネズエラで歌手としてデビューしており、アメリカへ拠点を移してからも数々のラテン・ヒットを放っている人気ボーカリストだった。 そういえば音楽絡みの話題で忘れてならないのは、本作がその後のヒップホップ・カルチャーに少なからず影響を及ぼしていることだろう。アントン・フークアやイーライ・ロスといった映画人たちと並んで、ナスやリル・ウェインなど本作をこよなく愛し、自作でオマージュを捧げるラッパーが実は結構多いのだ。恐らく、社会の最底辺から裸一貫で成り上がっていくトニー・モンタナのストーリーに、我が身を重ねて共感するものがあるのだろう。■ 『スカーフェイス』(C) 1983 Universal Studios. 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COLUMN/コラム2019.01.23
ヘロイン地獄に堕ちたダメ男と田舎娘の希望の恋愛を描く初の麻薬カルチャー映画
今回紹介する『哀しみの街かど』、たぶんタイトルを見ただけだと、しっとりしたメロドラマかな?って思う人もいると思うんですが、全然違いま す。原題は『THE PANIC IN NEEDLE PARK』。「注射針公園のパニック」という意味で、注射針公園というのは、ニューヨークのマンハッタンに実在す るシャーマンズ・スクエアという小さな公園のことです。1970年頃、そこにヘロイン中毒患者が集まって、ヘロインを買ったり売ったりしていたんで、使用後の注射針もたくさん散らばっていたので、そう呼ばれるようになったわけです。「パニック」というのは、売人によるヘロインの供給が断たれて、中毒患者たちが禁断症状に襲われることを意味します。どこが「哀しみの街かど」 やねん!(笑)。 僕はこの映画を中学生の ときにTVで観ました。今では地上波で放送できないですよ。今回も、CSチャンネルのザ・シネマだから可能なんだと思います※。というのも、ヘロインの注射をこと細かく撮影していますから。実際にその俳優が注射を打ってます。ヘロインじゃなくてブドウ糖ですけど。とにかく徹底したドキュメンタリー・タッチで、音楽すら入っていない殺伐さです。 ※これを鑑み、今回ザ・シネマでは独自にR15相当として本作を放送します。15歳以上の方のみご鑑賞ください。保護者の方はご配慮をお願いします。 主演はアル・パチーノ。彼の主演第1作です。この演技で全米、全世界を驚かせて、翌年『ゴッドファーザー』(72年)の主役に抜擢されて、世界的なスターになりますね。パチーノの役は、気は優しいんだけど、ヘロインのためだったら何でもする中毒患者。ヒロインを演じるのはキティ・ウィンという女優さんで、田舎から出てきた純朴な少女だったのに、ダメ男パチーノと会ってしまったがために、どんどんヘロイン中毒に堕ちていきます。 2人は何度も立ち直ろうとするんですが、麻薬のために挫けます。 キティ・ウィンは地道にウェイトレスとして働こうとしても、勘定ができなかったり、注文が覚えられなかったりして、 ヘロインに戻ってきます。それで、ヘロイン欲しさで体を売って、アル・パ チーノは「俺という男がいるのに!」と怒りますが、彼もヘロイン欲しさで彼女に客を取ってくるようになります。そんなドン底で、2人はお互いしか頼るものがいないので、何の希望もない恋愛を続けていきます。 監督のジェリー・シャッツバーグはニューヨークのファッション雑誌のカメラマンで、いつもはオシャレでゴージャスな世界を撮っていたのに、いきなりヒリヒリするようなリアリズムの映画を撮って世間を驚かせました。 『哀しみの街かど』に衝撃を受けた映画作家は世界中にいます。特にオーバードーズ(麻薬過剰摂取)で死にかけ るシーンはクエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』(94年) やダニー・ボイルの『トレイン・スポッ ティング』(96年)に多大な影響を与えています。オイラの相棒の柳下毅一郎のトラウマ映画でもあります。あのころはT Vでやたらと放送してたから彼も観たんですよ。ああ、ほんとうにいい時代だった!■ (談/町山智浩) MORE★INFO.原作はジェームズ・ミルズが「ライフ」誌に発表した2部からなる記事。主役のボビー役にはロバート・デ・ニーロも考慮されたが、直前にブロードウェイ舞台「Me, Natalie」でオビー&トニー賞をW受賞したアル・パチーノに監督は決めていた。ヘレン役には当初ミア・ファローの予定だったが、これ がデビューとなる新人のキティ・ウィンになり、彼女はカンヌ映画祭で主演女優賞を獲得した。音楽はピューリッツァー賞音楽部門を受賞したネッド・ロアムが担当していたが、製作側の意向で自然音や背景音だけにしたため、ファイナル・カットからは除かれた。フランシス・フォード・コッポラは『ゴッドファーザー』のマイケル・コルレオーネ役にアル・パチーノを起用させるためパラマウントの経営陣に本作を見せて説得した。 © 1971 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 1999 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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NEWS/ニュース2018.12.09
町山さん自身が披露@コミコン! 来年1月〜3月の『VIDEO SHOP UFO』ラインナップ
先週12月1日、東京コミコンのメインステージにて『町山智浩のVIDEO SHOP UFO』の公開収録が行われました。12月のセレクト・タイトル『ミュータント・フリークス』の映画本編前解説と、映画本編後用の解説をあわせて収録。ステージは立ち見の盛況っぷりでした。視聴者の皆様は12月20日からの放送回でその模様はお楽しみください。 その収録終了後、会場の別のミニステージに場所を移して(ここも立錐の余地なしでした。ご来場の皆様、ありがとうございました!)、来年1月以降のラインナップも解禁。3月までの3本についても町山さんにご紹介いただきましたので、その模様をこの場でもご披露します。 ちなみに『VIDEO SHOP UFO』とは番組名。LAに超マニア向けビデオ店があり、そこの店長が町山さんという設定。町山店長が激レア映画(ソフトになってなくて見られないとか、完全に忘れ去られちゃってる、とか)を毎月1本お薦めしてくれる、たっぷり解説も付けて、という趣旨の、映画本編の前と後をサンドイッチして付く、古き良き民放TV洋画劇場形式の映画解説番組です。月々の該当作品にはタイトルに【町山智浩撰】と付けてます。バックナンバーはこちら。 さあ、ここからがトークショーの模様です。お相手はVIDEO SHOP UFOのバイト君です。では、どうぞ! ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ 町山店長「どうもよろしくお願いします。お客さん多すぎですね。トムヒ※と間違えてませんか? こっちは トモヒロですよ」 (※コミコンの来日ゲストとしてトム・ヒドルストンが来場中で、向かいのサインコーナーで撮影会などをしていた) バイト君「メインステージお疲れ様でした。『ミュータント・フリークス』は今月後半にやりますが、その先のラインナップを3ヶ月分、この場では発表していただきましょう。まず1月が『哀しみの街かど』ですね」 町山店長「主演はアル・パシーノですけど、彼の初主演作なんです。この映画、僕が子供の頃はTVで何回も何回も放送してたんですが、今では地上波ではとても放送不可能な内容ですね」 バイト君「なのでザ・シネマでは今回、R15相当に指定して放送するんですよ。15歳未満の方は視聴禁止です」 町山店長「タイトルも『哀しみの街かど』なんていうとラブストーリーみたいですけど、原題は『パニック・イン・ニードルパーク』というんですよ。『針公園』というのは、1960年代にニューヨークに実際にあった公園で、そこにはいつも麻薬中毒患者が集まっていて、ヘロインを打つ注射器の針がいっぱい落ちてたんですね。『パニック』というのは麻薬の供給が切れて売人が麻薬を売らなくなると、中毒者たちが禁断症状でパニックに陥ることを意味しています。どこが『哀しみの街かど』やねん!っていう内容なんですよ(笑)。これ凄いのは、麻薬を注射するディテールを緻密に撮影してるんですよ」 バイト君「でも結局、この人たちって、堕ちるところまで堕ちていくじゃないですか。だからやっぱり、“ダメ。ゼッタイ。”っていうのがこの映画のメッセージですよ」 町山店長「まぁ、そりゃあそうなんですが、全部演技ですからね。ヘロインじゃなくてブドウ糖を打っているらしいんですが、肌がボロボロになって、目が虚ろになっていくリアリティが凄いです。これでアル・パシーノは物凄く評価されて、『ゴッドファーザー』の主演にいきなり抜擢されることになったんです。 この映画は本当に辛い辛い映画で、何も良いことが無いんですが、麻薬中毒の悲惨さをこれほど詳細に描いた映画も珍しいですよ。麻薬中毒とは一体何か、それ自体がテーマで、一切オブラートに包まないで、真正面から現実を見せます。音楽すらまったく無くて、演出もザックリと甘さがなく、ドキュメンタリーにしか見えない。 キティ・ウィン扮するヒロインが途中で真面目になろうと思ってコーヒーショップで働き始めるんだけれど、麻薬でボロボロになっているから、勘定ができなかったり、注文を覚えられなくて、結局麻薬中毒に戻っていったり。で、お金がないから体を売るんですが、最初、アル・パシーノは「俺という男がいるのに!」と怒るんですが、だんだんと麻薬のほうが大事になってきて、自分から彼女を売るようになって、彼女の方も彼を売って、どん底に落ちていくんですよ。 あと、ラウル・ジュリアが出ていますね。『アダムス・ファミリー』のお父さんですけど、デビュー作に近いですね、彼もこの映画が」 バイト君「彼女が最初に付き合ってたのがラウル・ジュリアなんですよね」 町山店長「この映画は今では忘れられていますが、マニアの間では物凄く人気があって、中古ビデオにはプレミアがついてたりしますね。ザ・シネマで観た方が安く済むと思います(笑)」 バイト君「次の2月が『モンキーボーン』です」 町山店長「これ、ヘンリー・セリックという、ストップモーション・アニメの巨匠の唯一の実写作品なんです。ただ、闇に葬り去られてしまって、ほとんど見ている人いないと思います。 ヘンリー・セリックは、ティム・バートンが製作した『ジャイアント・ピーチ』や、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の本当の監督ですね。その後『コララインとボタンの魔女』でアカデミー賞にノミネートされます。 ただ、この『モンキーボーン』は、製作会社の20世紀FOXの経営体制が変わる時にちょうど当たってしまって、撮影中にセリックは監督をクビになり、ロクに宣伝されないまま公開されたんで、あまり観ている人はいないんですけれども、凄い面白い映画なんですよ。 ブレンダン・フレイザー扮する漫画家が、モンキーボーンという猿の形をしたキャラクターの漫画を描いたらアニメ化されて大ヒットします。フレイザーは真面目で気の弱い漫画家なんですけども、彼の中に秘めている暴力性とか性的な欲望をモンキーボーンに託して表現していたんですね。ところがモンキーボーンが暴走して、作者フレイザーの肉体を乗っ取って、フレイザー自身の人格を『ダークタウン』という名前の地獄のような世界に閉じ込めてしまう。だから、彼はそこから脱出して、自らの欲望の具現化であるモンキーボーンと戦わなければならないっていう話なんです。そうしないと、婚約者のブリジット・フォンダをモンキーボーンに盗られちゃう訳ですよ。モンキーボーンっていうのは、英語のスラングでチン×ンのことです」 バイト君「ち×ちん?」 町山店長「つまり、彼自身のペニスの象徴であるモンキーボーン君に、恋人を寝取られるという、非常に象徴的な、面白い話なんですよ。 途中で監督が替わっているから、ぎこちないところもあるにはあるんですが、クライマックスのドタバタシーンはめちゃくちゃおかしくて、死ぬほど笑いますよ」 バイト君「ちょっと『ミュータント・フリークス』と似た雰囲気もありますよね」 町山店長「FOXって、途中まで変な映画を作らせておいて、『やっぱりこれはダメだ!』って、お蔵入りにしちゃうことがよくあるんですね。でも、『ダークタウン』のピカソの絵のようなシュールなビジュアルは本当に素晴らしいし、そこで主人公を助けるローズ・マッゴーワンの演じる猫娘がまた健気で可愛いいんですよ。ケモナーの人も是非見ていただきたい映画ですね」 バイト君「そして3月が『かわいい毒草』です。これは目玉タイトルですね」 町山店長「でもこの画像、ちょっと画質悪いよ?」 バイト君「悪いんです…」 町山店長「これしか無かったの?」 バイト君「それぐらい激レアな作品ってことです」 町山店長「川喜多映画財団とかでちゃんと当時のスチルを買ってくださいよ。それはともかく、これは本当に珍しい映画ですよ。日本ではDVDはもちろんVHSも出てません。劇場公開時もさっと消えてしまって、テレビの日曜洋画劇場で1971、2年に1回放送したきりです。僕はたまたまそれを観て、一生忘れられない映画になりました。アメリカでも実はずっと幻の映画で、10年くらい前にやっとDVDになって、奇跡と言われたんですよ。 これもまた20世紀FOXの作品なんですが(笑)、この時は経営難にありまして、せっかく作ったんだけど配給や宣伝するお金がなくて、消えちゃった映画なんです。でも、これが大変な傑作。主役はアンソニー・パーキンスなんですが、彼は『サイコ』というヒッチコックの映画で… ↓↓↓↓↓↓↓↓この後『サイコ』のネタバレに言及します↓↓↓↓↓↓↓↓ 二重人格の殺人鬼を演じたんですね。って『サイコ』のネタバレしてますけど(笑)、あの役が強烈すぎて、演じたパーキンスまで変態じゃないかと思われて、ハリウッドで仕事が無くなって、ヨーロッパ映画に出ていたんですね。で、10年ぐらい経って、そろそろいいんじゃないかと思ってハリウッドに帰ってきて撮った映画がこの『かわいい毒草』なんです。が、役がいきなり、精神病院から出てきた青年という役で、何のためにヨーロッパに行ってたのかわからない(笑)。『サイコ』の続編みたいな話なんです。 パーキンスは誇大妄想症で、放火事件を起こして精神病院に入っていて、だいぶ良くなってきただろうということで退院して、働き始めたところで、チューズデイ・ウェルド扮する美少女と出会います。で、パーキンスは、彼女にいいところ見せようとして、僕は実はCIAのスパイなんだ、国を守るミッションに協力して欲しいんだと言うんですが、何と彼女の方が100倍上手の、“基地の外”に出ちゃった人だった。で、大変な連続殺人に発展していくという話なんです」 バイト君「これ、この写真が悪すぎるんですけど、チューズデイ・ウェルドって凄い可愛いんですよね」 町山店長「物凄い可愛いんです。実は当時25歳で1人の子持ちなんですが、童顔なので高校生役でも違和感ないです。チューズデイ・ウェルドは少女モデル出身で、アメリカでは1950年代にセブンアップの広告に出て大変な人気になったんですが、本人はステージママにコキ使われて、グレて、中学生くらいの年齢からセックスやアルコールで大変なことになっていました。子役の転落をそのまま絵に描いたような人で、最終的には母親と決別するんですが、そういった本人のドロドロの人生をそのまま反映したような怖い話なんですよ。 監督はノエル・ブラックという人で、残念なことにこれ1本なんですよ。今では天才と言われているんですけどね。単なるサスペンス映画ではなく、チューズデイ・ウェルドという『かわいい毒草』を、アメリカのポップカルチャーや、環境破壊の問題にまで広げている刺激的な作品です。これが今回の目玉です」 バイト君「で、この番組ですけど、前解説というのがあって、だいたいこんな映画ですよ、っていう、今いただいたお話のようなものが映画の前に付いて、そこから本編をご覧いただいて、本編が終わった後には後解説というのもあるんですよね」 町山店長「やっぱりネタバレになるから、映画の後半部についての解説は普通できないんですよね。映画の紹介は山ほどあるけど、ほとんど映画を見てない人向けの記事ですよね。でも、見た後の解説のほうが本当は重要なんですよ。映画の結末に作り手のテーマがあるわけだし。昔はテレビの映画劇場で、映画が終わった後、評論家が解説してくれましたが、今はそれがなくなっちゃいましたからね。だから、この番組ではそれを復活させようと。「で、この映画は何だったの!?」という疑問に答えていこうと思いますので、是非ご覧ください!」■
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COLUMN/コラム2018.11.03
悪魔が作らせたのか?97年の予言的映画『ディアボロス/悪魔の扉』が的中させた、21世紀のモラルハザード③(完)
(前回の②はコチラ) 「トランプ氏も来るはずだったのよ」 97年のこんな内容の映画に突然「トランプ」の名前が出てきたら、それはギクリとするではないか!だが、妙なショックはこれだけでは終わらない。 中盤、主人公は“NYいちの不動産王”というカレン氏の弁護をミルトン代表から任される。「カレンタワー」を開発中のこの“NYいちの不動産王”には、妻を惨殺した容疑がかかっている。世間が注目するセンセーショナルな世紀の刑事裁判、転職後はじめての大役だ。その“NYいちの不動産王”とキアヌは打ち合せに行く。その自宅も、やはり高級マンションのペントハウスだという。そして、そのシーンになる…。 ここは、トランプタワーではないか!! ギクリとするどころではない!ニュースで確かに見覚えがある、見まごうはずがない!あの、大理石と金箔でまがい物のヴェルサイユ宮殿風インテリアにしつらえられた、トランプタワー最上階のトランプ氏の私宅そのものだ!間違いなく本物だ!!「虚栄の極み」と前回も書いたが、撤回する。こちらこそが、極みと言うなら本当の極みだろう! テイラー・ハックフォード監督によると、制作前の打ち合わせで「このシーンはトランプ氏の邸宅みたいなイメージで撮りたい」とあくまでイメージとしてスタッフに伝えたところ、悪魔の配剤か、そのスタッフがたまたま以前にもトランプ氏と映画の仕事をしたことがあり、ロケの許可が下りたそうだ。キアヌ・リーヴスらはトランプ氏の自宅を借りて、このシーンを1日で撮影したという。トランプ氏の快い協力のおかげで「“NYいちの不動産王”の巨大なエゴ」が描けたと監督は満足げに語っている。 なお、この“NYいちの不動産王”は愛娘のことを異常なまでに溺愛していて、後半のシーンではおよそ父親のやり方ではない触り方で娘の体に触れる様が映し出されたりもするのだが、それは余談である。 今となってはこの映画のどこより驚くべき、悪魔的禍々しささえ帯びてしまっているのが、このトランプタワーでのロケシーンだ。もちろん97年時点での作り手たちの狙いを超えている。特段の見せ場に当時したかったわけでもないだろう。だが、この悪い冗談のような唯一無二のロケーションが、現代文明批判としてのこの作品の価値を大いに高めている。成功者になりたい、カネが欲しい、しかも、使い切れないほど不必要な大金を手にして貴族のような暮らしがしたい、格差社会で上位1%の側に身を置き、99%の一般大衆を踏み台にして贅沢をしたい、そのためにはモラルなんかに構ってはいられない、という、職業倫理の欠落した悪魔の手先どもを描いている、この文明批判映画の価値を。 本作で、それは高給取りのトップ弁護士たちだが、貧しい庶民にマイホームを押し売りして怪しげなデリバティブを売りさばき、11年後にリーマンショックを引き起こしたウォール街の連中や、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』的な人種も同類である。彼らこそが「21世紀型モラルハザード」の犯人、強欲の大罪にまみれた者たちだ。 我々はすでに1997年に、この映画のパーティーのシーンで、偽ヴェルサイユ宮殿のシーンで、21世紀型モラルハザードをフラッシュフォワードで目撃していたのである。そして今、2018年、それをニュースで、現実の光景として日々見せられている。未来の恐ろしい出来事を幻視してしまう、この映画は、あらゆる意味において文字通りそんな映画なのだ。 この、単なる偶然の産物である(もしくは悪魔の悪戯による)ショッキングな2つのシーンがあるために、本作最大の見せ場であるアル・パチーノの大演説シーンも、作り手の狙い以上の凄まじい説得力を帯びてくる。そこが本作のクライマックスだ。 原作とまったく異なる終局へと徐々に向かっていく、この映画版。複数の脚本家が携わっているが、どうやらトニー・ギルロイ(“ジェイソン・ボーン”シリーズ脚本。『ボーン・レガシー』では監督も)の影響が決定稿には色濃く残ったようだ。ミルトン役のアル・パチーノは出演オファーを5度にわたって断り続けたそうだが、ギルロイ稿を読んでようやく出演を決めたという。そこで盛り込まれたのは、本作終盤のミルトンの大演説、15分以上にわたるほとんど一人芝居に近いクライマックス・シーンである。そこは原作には無い。 ミルトンの正体がやはり悪魔そのものなのか、否、悪魔的な生身の人間なのか、本稿ではそのネタバレにまで踏み込もうとは思わない。ただ、悪魔を題材にしたこの映画は当然の帰結として、終局において宗教論にたどり着く。ミルトンはそれを饒舌に語る。鬼気迫るアル・パチーノのほとんど一人芝居の大演説。数日にわたってごく少人数でのリハーサルが行われ、撮影も数日をかけたという。それまでの珍しく抑制的な演技プランから一変し、アル・パチーノはギョロリと目を剥き、映画的というよりも舞台演劇的に(監督が意図してそうしている)長ゼリフを主人公に向かって浴びせかけ続ける。まさに圧巻のクライマックス! 「神の素顔を教えてやろう。神は意地悪だ!ドタバタを見て喜ぶ。まず人間に本能を与えた。それを与えてどうしたか?自らの楽しみのため、自分専用の壮大な喜劇を楽しむために、逆の掟を人間に押しつけた!! “見ろ、だが触るな”、“触れ、だが食うな”、“食え、だが飲み込むな”!人間が右往左往するのを見て神は腹を抱えて笑っている。実に嫌な奴だ!サディストだ!高見の見物のいい気な奴を崇拝できるか!?」 これが、ジョン・ミルトンが抱く神の認識だ。 それと対峙するキアヌ演じる主人公が問いかける。 「“天の奴隷より地獄の王”?」 「そうとも!」 「天の奴隷より地獄の王」とはジョン・ミルトンの著作からの引用だ。が、ジョン・ミルトンといっても17世紀イングランドの詩人で革命家の方のジョン・ミルトンである。そう、ジョン・ミルトンはかつて実在した。代表作はかの『失楽園』だ。その叙事詩に描かれた悪魔たち(かつては天使だった。堕天使である)は、神のしもべの地位に甘んじ天で奴隷であり続けるよりも、いっそ地獄で自主独立しそこの王となった方が、よほど誇り高い生き方だと独立宣言を叫ぶ。ジョン・ミルトン自身、清教徒革命では国王を処刑する革命勢力に与していた。王の権力を否定し、その奴隷である現状を覆し、自ら主権者になろうと企てた。 本作のミルトンもミルトンである以上は当然、革命を焚きつける。好きに触ればいいだろう、食らえばいいだろう、飲み込めばいいだろうというわけだ。強欲の何が悪い?虚栄の大罪こそ私の最も好きな罪だ、と彼は言い放つ。 「私は(中略)望みをかなえ裁かない。ありのままの人間を受け入れる。欠点だらけの人間のファンなのだ。最後のヒューマニストだ!」 カトリックが生活の隅々まで宗教支配し、下は農奴から上は王・皇帝まで、人々が神を畏れ畏縮して生きていた長い「暗黒時代」が中世だ。その闇を照らして近代の幕を開け、人間性の回復を高らかに宣言したのが15世紀ルネサンスの「人文主義者」たち、すなわち「ヒューマニスト」たちだった。神への“忖度”から自由になって、近代人として好きなように触れ、食い、飲み込み、その自由の素晴らしさを伸び伸びと味わって、人生の歓びを謳おう。それがヒューマニストの本分である。 ミルトンの大演説もいよいよ最高潮に達してくる。 「まともな頭で考えりゃ否定できない、20世紀は私の時代だった!完全にだ!すべてが私のものだ!絶頂を極めた!(中略)次の千年が来る!タイトル戦、ラウンド20!腕が鳴るよ!」 1997年、欲望と消費の20世紀は今や極に達した。プロテスタンティズムの倫理がその精神だったはずの資本主義の、すでに倫理などとっくに喪失した悪魔化は、とどまるところを知らない。それを退治しようと立ち上がった無神論者たちによる100年以上にわたる科学的社会主義の闘いは、この1997年の時点ですでに完全に敗退していた。東側共産圏の崩壊。強欲が完勝したのだ。目前に迫った20番目の世紀、新千年紀に勝ちのぼれるのはただ一人、強欲の悪魔だけだ。その21世紀=ミレニアムにおいては、欲望は幾何級数的に増大し続けるだろう。 キアヌ演じる主人公はミルトン代表から、こちら側、強欲と虚栄の側につくよう誘われる。まるでベイダー卿に暗黒面に誘われるルークのように(そういえばルークは姉妹をそちら側から守ろうとしてベイダー卿に斬りかかったのだった)。共に欲望のおもむくまま、触れ、食い、飲み込もう。共に21世紀に君臨し、共に世界を支配しようではないか、と。この法律事務所でならそれができる。法曹界の上層部に食い込んでいればたやすいことよ。今の世は法がコントロールしているのだから。 その“悪魔の誘い”に、主人公は「自由意志」という哲学用語を持ち出してきて、それを武器に立ち向かおうとする。欲望を満たしたいだろう?こちら側に来れば何でも思い通りにできるぞ?とミルトンに誘われ、キアヌは、もし満たしたくないと言ったら?と不敵に切り返す。ミルトンは、キアヌが自由意志で“悪魔の誘惑”に逆らおうとしているのだと悟る。 西洋哲学は、この自由意志をめぐる知的格闘の歴史だった。特に近代以降それは中心的争点であり続けた。15世紀、イタリア・ルネサンスの「ヒューマニスト」の一人ピコ・デラ・ミランドラによって「自由意志」は新定義された。人は神によって自由意志を授けられている。人以外は自由意志を持たない。どこまでいっても植物は植物、動物は動物にすぎぬ。人だけが自由意志によって、じっと何も為さぬ草花のようにも、本能のまま浅ましく動く畜生のようにも、あるいは神のようにもなれるのだ、と説いた。 今となっては言っていることが当たり前すぎて空疎にすら聞こえるが、直前の中世までは(アウグスティヌス等)、仮に完全に自由意志に委ねたら、御神に背きしアダムの末なる人間は悪に傾く、というのがキリスト教的な常識だったのだ。そもそも自由意志のせいでアダムとイヴは神に背き、悪魔に誘惑されたのだ。あの失楽園以来、子孫である人間は原罪を負う存在となり、それを善方向に補正するには神の恩寵が必要とされた。ゆえに自由意志など許してはならぬ、ひたすら教会に服従せよ。だが15世紀、このピコ・デラ・ミランドラによる自由意志の肯定が、中世を打ち破り近代の扉を開いた。 さらに後世、18世紀のカントに至って、人は自由意志、彼の用語に言う「善意志」によって義務的に善を為さねばならぬとの実践哲学に達した。義務だから善を為そうという動機こそが、逆に人間が自由である証拠なのだ(為さないことも選択できるのだから)。「困っている人を助けよう。人類が皆そうすれば、いつか自分が困っている時に誰かが助けてくれるかもしれないから」という類いの“ええ話”をカントは否定する。それは見返りが欲しいだけだ。自分も助けてもらえるかどうかは問わずに、ただただ無条件に義務感から相手を助けるべきなのだ。損得(功利主義)を超えて自律的に為すべき善とは何か、その道徳法則を、我々は自己立法せねばならない。何故ならば、我々には自由意志があるのだから。いま、キアヌは自由意志という近代武器で、おのれの利益を超克し、強欲と虚栄をはねのけ、明らかに彼にとっては究極的な損となる、最後の抵抗を試みるのである。もっとも、その方法がカント先生のお気に召すかは微妙なところだが…。 以上で、この映画について書くべきことはあらかた書き終えた。以下、エピローグ的に幾つかのトピックスについて落ち穂拾い的に書き続けていく。 ・「自由意志」は今も哲学の争点であり続けており、いまだ人類は究極の答えに到達していない。そんなものは幻想だという主張もある。あらゆる出来事は確率や因果律といったものによってあらかじめ決定されており、人間の意志など介在する余地は無いとする「決定論」の立場がそれだ。確かに、困っている人を助けるかどうかの例えで言うなら、たまたま親の道徳教育がしっかりしていたとか、たまたま遺伝的に哲学など人文科学系の思惟に秀でた資質を親から受け継いだとか、たまたま高校で倫社の先生とウマが合って真面目に倫理を勉強したとかetc。自由意志だと思い込んでいたものが外的条件によって他律的に決定されている可能性は有る。さらには、実存哲学のパイオニアである19世紀のニーチェは、自由意志もキリスト教も神も否定し、「俺には自由意志がある」なんぞというのは弱者の現実逃避であると説いた。もっとも以上のことは、この映画とは関係のない余談。 ・ミルトンの代表室の執務デスク背後の壁には、肉欲の大罪をモチーフにした地獄の風景風の巨大な白いレリーフが掲げられている。これとそっくりな既存の芸術作品が存在しており、著作権侵害で裁判沙汰になるという皮肉な運命をこの映画はたどった。映画会社側の弁護士は、そんな作品の存在など制作陣は事前には知らなかったと主張し、テイラー・ハックフォード監督が語るそのレリーフのVFX撮影プロセスを聞いても、パクったとは私には思えないのだが、法的には大きなペナルティを課されてしまった。だが私がこの映画を初見した時、その劇中のレリーフからまず想起したのは、オーギュスト・ロダンの「地獄の門」だった。ダンテの『神曲』に出てきた文字通り地獄へと通じる門を彫刻化したもので、「汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」の碑文が掲げられている。これは『エイリアン:コヴェナント』のポスターのモチーフにもなっているのではないだろうか。『エイリアン:コヴェナント』もまた、ミルトンの『失楽園』をモチーフの一つにしている映画だ。 ・この映画が予言した21世紀型モラルハザードとは、2008年リーマンショック前、21世紀初頭の、大淫婦バビロン的“堕落と退廃”の光景であって、それから10年を経た2018年のこんにちの有り様は、この映画が予言したよりもはるかに狂った、黙示録的な、差し迫った“混沌と憎悪”の様相すら呈している。ご存知の通り2017年新春、トランプ氏は大統領に就任し、トランプタワーのえせヴェルサイユからホワイトハウスの本物のオーヴァルルームに居を移した。そこには、18世紀のブルボン絶対王政など足下にも及ばない、強大な権力と武力が集中する玉座が置かれている。偽ヴェルサイユ宮を出てそこに遷御した偽王が、貧者の味方として振る舞っているという、ねじれた現実を、こんにちの我々は日々見せつけられているのである。2016年大統領選でトランプ氏はウォール街やヘッジファンドを批判し、にも関わらず政権発足後はその出身者を政権内に多く取り込み、空前の大型減税で大企業と富裕層を潤わせた。とはいえ信徒である白人貧困層を見限ったわけでもなく、彼らには、移民労働者と貿易相手国という“富の盗っ人”としての敵を与えてやり、自ら“率先垂範”してその二つを攻撃し続けることで、国富を取り戻すために戦う救国の英雄、キリスト教の闘う庇護者として、国の半分から崇められ、今や“ミニ・トランプ”なる追蹤者たちが共和党から続々中間選挙に立候補しているという。 ・悪魔は、人間を欺く。『エクソシスト』でも『哭声/コクソン』でもそれは描かれた。それはアンチキリスト、偽預言者として我々の前に現れ、善を為すごとく巧妙に見せかけ、大衆の支持を得る。マタイ福音書によると、「世の終りには、どんな前兆がありますか」と弟子から問われたイエスは、こう言ったとされる。「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。(中略)民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。(中略)多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイによる福音書第24章より)…筆者は無信仰者なので、この意味するところを解釈できないでいる。この節もまた、余談。■ © Warner Bros. Productions Limited, Monarchy Enterprises B.V., Regency Entertainment (USA), Inc. 保存保存
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COLUMN/コラム2018.11.02
悪魔が作らせたのか?97年の予言的映画『ディアボロス/悪魔の扉』が的中させた、21世紀のモラルハザード②
(前回の①はコチラ) この映画『ディアボロス/悪魔の扉』の原題であり原作小説の題名でもある「悪魔の弁護人(Devil's Advocate)」とは、本来は慣用表現である。ラテン語の「アドヴォカートゥス・ディアボリ」がそのまま英語に入ってきたもので、元はカトリックの宗教用語だ。 会議などにおいて、ただの一つの異論も出ずに議論がスムーズにまとまるということは、決して好ましくない。反対意見を言い出しづらかっただけということはないか?そうでないにせよ、思わぬ矛盾や欠点がその満場一致の結論に潜んでいる危険性は絶対に無いと言い切れるのか? そのリスクのヘッジを期待して、あえて反論だけを専門に述べる担当を設ける。本人が本音でどう考えているかはこの際関係ない。とにかく主流意見に論理的に反証していくことが組織における彼の担務なのだ。そのポストがアドヴォカートゥス・ディアボリ、「悪魔の弁護人」もしくは「悪魔の代弁者」である。カトリック教会における「これを奇跡だと認定する」「この人を聖人・福者に列する」といったお墨付きを与える会議にその反論係は置かれた。 こんにち、専門の係でなくとも、会議等でそうした役割を果たしている人のことを、英語でDevil's Advocateという。そして、同じ機能を社会的に担っているのが、近代の司法制度における弁護士なのだ(ついでながら、議会政治における野党も同様。“議論のための議論”、“反対のための反対”にも意義はある)。 「犯人め!」「一番重い刑罰を課せ!」「死刑だ!!」などと大勢が形成されつつある中でも、法律を盾に被告人利益の最大化に努める専門家が必要であることは明らかだ。「盗っ人にも三分の理」という言葉もある。やむにやまれぬ酌量すべき情状もあったかもしれないし、正当防衛や緊急避難的な動機があったかもしれない。それどころか、まったくの濡れ衣や冤罪かもしれないのだ。そうした主張を素人である被告人に代わって法的に代言してくれるプロは、近代法治社会においては不可欠に決まっている。それが無い裁判は「魔女裁判」と呼ぶのだ。 一方でこの賢明なシステムには、ワイドショーの“コメンテイター”なる連中が床屋政談調でよく放言する「殺された被害者より被告の人権ばかりが守られているのは如何なものか」という嫌いがあることもまた、否定のしようもない。原作小説『悪魔の弁護人』のモチーフは、まさにこの近代的ジレンマだ。 主人公はミルトン代表から、妻を殺めた夫を無罪に持ち込む弁護を任される。原作でのミルトン法律事務所はこの手の訴訟を専門に引き受けていて、殺人者を次々に無罪放免にして世間に野放しにしている。まさに、悪魔の手先という文字通りの意味での「悪魔の弁護人」なのである(邦題『ディアボロス/悪魔の扉』はこのWミーニングを活かせていない)。さらにそこから原作の主人公は一歩進んで、悪を世に解き放つこと自体がミルトンの究極目的ではないのか?ミルトンこそ実は本物のサタンそのものではないのか!?という妄想もしくは疑念にとらわれていくことになる。 原作小説は、1990年に出版された。これもまた、予言の書ではなかったのかと思えてくる。 例えばその翌年に、LAでロドニー・キング事件が起こる。仮釈放中の黒人青年ロドニー・キングが車で逃走、パトカーとのカーチェイスになったが観念して車から降りたところ、白人警官たちに組み伏せられ、警棒で滅多打ちにされ、リンチ(私刑のこと。刑法による刑事罰ではなく、個人が私的に好き勝手な罰を加える行為)によって半殺しにされた。彼は無抵抗で武器も帯びていなかったにもかかわらず。その一部始終は近隣住民によってハンディーカムで撮影されていた。全米も、全世界も、私も、その粗いビデオ映像をTVで目撃した。 当然ながら暴力警官たちは告発され、翌年、裁判が始まる。くだんのビデオも証拠として提出されたが、警官側の“悪魔の弁護人”がとった法廷戦術は、裁判をLA郊外の、住民の98%が白人というエリアで開廷させることだった。その人口比率を反映して選任された12人中10人が白人の陪審員は、1992年4月29日、容疑者である白人警官全員を正当防衛で無罪とする評決を下したのである。 直後「人種差別だ!」と怒り狂った一部の黒人住民が暴徒化し、LAは三日三晩の無法状態に突入する。これが92年の「ロス暴動」だ。無関係の白人が引き出されて黒人暴徒に撲殺されるなど合計50人以上の死者が出、放火でいたるところ火災も発生。商店への襲撃と略奪が横行し、住民は銃で武装し自衛と籠城を始め、ついには軍隊が投入される事態となる。州内治安維持を任務とする州兵だけでなく連邦の実戦部隊までもが投入された。BDU迷彩服にPASGT防弾ベスト&ヘルメットにM16A2アサルトライフルという、前年の湾岸戦争と寸分たがわぬ格好の兵士たちがLAの街角に出動し、誰がどう見ても“市街戦”と見えるこの光景はTV中継された。私も当時、食い入るようにニュースを見、見ながらも目を疑った覚えがある。これが、『ビバリーヒルズ・コップ』や『リーサル・ウエポン』で子供の頃から憧れてきたあの街で今、実際に起きているのか!? 第三世界の紛争地帯とかではなく? 次は95年、OJシンプソン裁判だ。黒人でアメフトの元スター選手、引退後に芸能人に転身してからも成功を収めていたOJ(映画俳優としては74年『タワーリング・インフェルノ』、78年『カプリコン・1』等に出演)が、その前の年、白人で美人の元妻とその若い恋人を惨殺した嫌疑を持たれる。逮捕される予定日に、OJは自殺をほのめかし取り乱してハイウェイを逃走。パトカー軍団による一大追跡劇が演じられたりもした。 そして翌年、世紀の裁判が始まる。あらゆる物証、DNAまでもが、犯人がOJであることを物語っていた。DNA鑑定で、犯行現場に遺された血痕とそこにいなかったはずのOJ(手にどこかで怪我を負っていた)から採血したサンプル血液は、570億分の1の確率で一致した。地球上に人間は70億しかいない。 成功者OJは大金を積み、一流どころの有名弁護士を雇い入れていく。当時は“ドリームチーム”などと持てはやされたものだが、本稿では“悪魔の弁護団”と呼ぶとしよう。彼らは、①犯人が犯行時にはめた遺留品の革手袋がOJのものにしてはキツかったこと、を突き、OJが証拠現物の手袋をはめようとしてもキツくてはめにくい、という小芝居まで本人に演じさせて(キツくても最終的にはめられるのだが…)、そのパフォーマンスを鮮烈に陪審員の網膜に焼き付けさせ、他のDNA以下の科学的証拠群の印象をすべて吹き飛ばしてしまうことに成功した。次いで、②現場検証にあたり手袋など重要証拠を発見した白人刑事が差別主義者であった事実、を証明してみせ、この訴訟が人種問題であるかのような争点ズラしをすることにも成功したのである。OJは“悪魔の弁護団”の活躍で無罪評決を勝ちとった。 …何かが、間違っている気がしないか?「疑わしきは被告人の利益に」の大原則は解る。近代法治社会が拠って立つ原理原則だ。これがなければ中世の魔女裁判になってしまう。だがしかし、絶対に、何かが腐敗していないか? 原作小説『悪魔の弁護人』は、このジレンマがモチーフとなっているに違いない。道徳を失くした司法制度、ソフィストとしての弁護士を、厳しく断罪する。 原作におけるミルトン法律事務所は、殺人者など“黒”を“白”と言いくるめる訴訟を専らとしており、そして人殺しを無罪放免にして次々と世間に解き放っている。文字通りに悪魔の手先という意味での「悪魔の弁護人」だと前に記した。その究極の目的は“邪悪を為すこと”だと主人公は疑い始める。 だが一方の映画のミルトン法律事務所の方は、性格が異なる。映画版のそれにとって、主人公は事務所初となる刑事弁護士で、むしろ異色の経歴だ。彼以外は証券取引法や海事法、国際公法、知的財産権法など様々な法律分野の専門弁護士たちで、彼らエリートが結集した“ドリームチーム”がミルトン法律事務所であり、大口クライアントを企業訴訟で勝訴に導いては巨額の弁護報酬を得ている、拝金主義の権化のような組織として描かれている。はっきり言って、カネが目的なのだ。邪悪を為すことではない。 だからこの映画は、道徳を失くした司法、という原作のモチーフも確かに主要なものとして残っているが、それ以上に、強欲を批判すること、虚栄を断罪することの方に力点が置かれている。モチーフが違う、テーマが違うのだ。そして強欲の大罪こそが、21世紀型の悪、完全に行き詰まった2010年代の資本主義が直面することになった最大の巨悪であるということを、我々は現実の差し迫った問題として知っている。1997年のこの映画は、21世紀型モラルハザードを予言してしまっているのである。それどころか、作り手の思惑さえ超えて、2018年の我々が見ると戦慄を禁じえない、いくつもの予知夢的記号に満ちてすらいるのだ。一体どうやって97年の作り手たちがその要素を入れようなどと考えつけたのか?悪魔に導かれたとしか説明がつかない。 深い考えが作り手にあったわけではないだろう。だが序盤に出てくるパーティーのシーンで、我々はまず一度、ギクリとさせられる。思わず体がビクッと反応する、とある予想もしない言葉が飛び出してくるからだ。それはミルトン法律事務所の盛大なパーティー。会場は、主人公が転居してきたマンションの上層階。NYの夜景を一望できる摩天楼のエセ天上界だ。まさに、虚栄の極み。政財界の大物や著名人も顔を見せて、密談と言うにはあまりに大っぴらに蓄財の法的相談が交わされている。そこで、出席した女性陣がこんなことを言って、2018年の我々をギクリとさせるのだ。 (つづき③(完)序盤のパーティーのシーンで突如飛び出す2018年の我々には衝撃的な言葉とは!?) © Warner Bros. Productions Limited, Monarchy Enterprises B.V., Regency Entertainment (USA), Inc. 保存保存
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COLUMN/コラム2018.10.30
悪魔が作らせたのか?97年の予言的映画『ディアボロス/悪魔の扉』が的中させた、21世紀のモラルハザード①
当チャンネルでの放映予定は当面ないが、ジョニー・デップの『フロム・ヘル』をご記憶だろうか?“切り裂きジャック”の真犯人探しモノで、19世紀末ヴィクトリア朝ロンドンの深い闇と、酸鼻きわめる猟奇描写と、あっと驚く“切り裂きジャック”の正体が見どころの、出来の良いスリラーだった。 クライマックスでついに正体を現したその人物は、傲然とこう言い放つ。「後世の人々は語るだろう、20世紀を生んだのは私だと」 まさしくそうだ。 あれは「猟奇殺人」であり、「快楽殺人」でもあったかもしれず(映画では別の犯行動機があるという話になっていたが)、そして何よりも、犯人がマスメディア(当時は新聞)に犯行声明文を送り付け、そのメディアが発信するどぎついタブロイド的・ワイドショー的情報を大量消費した資本主義社会の都市住民が、恐怖しながらも興奮した「劇場型犯罪」だった。 マスメディアを通じてそうした類いの犯罪に触れた20世紀の大衆は、それを、生理的に恐怖し嫌悪しつつ、道徳的には怒り悲しみつつも、同時にまた、それを旺盛に消費もした。猟奇事件や未解決事件を扱うドキュメンタリーやノンフィクションに恐いもの見たさの好奇心から触れて、深淵を覗き込んでしまった覚えは、誰にだってあるはずだ。20世紀、それは大衆に消費されるコンテンツの一つになった。 『フロム・ヘル』は、19世紀末のロンドンにおいて“先行配信”された20世紀型モラルハザード※のコンテンツが、悪魔の扉を開いた、という物語なのだ。 ※「モラルハザード」という言葉の本来の意味は違う。誤用が広まっている。ここでは誤用と承知で使うが正確な国語的語義は各自でおググりあれ。 そして、本稿で取り上げる1997年の映画『ディアボロス/悪魔の扉』。こちらは、90年代末のNYに存在する社会の歪みが、21世紀型モラルハザードを先取りしており、それが悪魔の扉を開くだろう、と予言した物語で、そして、実際その通りになってしまったのである。そのことを、本稿では恨み節調に書いていきたい。 まず、あらすじから始めよう。冒頭の舞台はフロリダの田舎町だ。主人公(キアヌ・リーヴス扮演)は負け知らずの若手弁護士。いま抱えているのは、被告の男性教諭が原告の女子中学生に強制猥褻をしたという裁判だ。依頼人の教師が“黒”である真相が、我々観客とキアヌの二者にだけ明かされる。女生徒が検察の質問に答えて被害の詳細を勇敢に証言している最中、依頼人は、じっとりと汗ばんだ左手で犯行時と同じ動作を、なでるような、もむような、挿入するような指の動きを、無意識のうちに再現しており、あまつさえ、反対の右手を膨らんできた己の股間にまでこっそり持っていく始末なのだ、デスクの下で。そこは誰の目からも死角。唯一、隣に座っている弁護士キアヌ・リーヴスからのみ、そこは死角ではない。その卑猥な指の動きに気づいてしまった彼は、自分の依頼人が“黒”だと悟る。たちまち生理的嫌悪が湧き上がる。が、弁護士が被告の弁護を放り出すわけにもいかない。周到に練り上げてきた法廷戦術にのっとり、彼は、女生徒が教諭の陰口を叩いていた事実、教諭を嫌い、教諭も彼女をしばしば叱っていた事実、さらには、女生徒が同級生たちと少々エッチな秘密の遊びをしていた事実を、原告の少女本人に向かい声を荒げて突きつけ、動揺させ、泣かせ、被害者であるこの女子中学生が、問題児であり、色ガキであり、先生を逆恨みしているかのように陪審員の印象を操作することに成功する。今回も彼の勝ちだった。無罪評決だ。 この裁判を傍聴していた男から、祝勝会で声をかけられる。彼はNYの法律事務所の人間で、ぜひヘッドハントしたいと言う。条件は破格だ。詳しい話を聞きにNYまで行ってみると、職場環境も社宅も申し分ない。人生の成功者の暮らしだ。事務所はワールドトレードセンターのほど近く(倒壊4年前のツインタワーが映し出される)。オフィスビルの最上階で、モダンインテリアで統一された最先端のデザイナーズオフィスだ。住環境の方は、『ローズマリーの赤ちゃん』のダコタハウスや『ゴーストバスターズ』の高層マンションを思い出させる、19世紀末築のクラシカル&クラッシーな歴史的建築物。法律事務所の代表がその不動産を丸ごと一棟所有していてスタッフを各階に住まわせているのだ。無論本人はペントハウスに君臨し、上層階から下層階へと事務所でのヒエラルキー順にフロアが割り当てられているのである。 この初老の代表がジョン・ミルトン(すごい名前だ!アル・パチーノ扮演)。家父長的なカリスマ性を発散し、確固たる成功哲学を持ち、時にそれを雄弁に語り、夜ごとパーティーを催し、若い美女たちをはべらせ、部下にもそのオコボレを与え、事務所スタッフを完全に支配しているのである。主人公は、このミルトンにまず感謝し、次いで心酔し、その下で働けることを光栄に思う。 …が、しかし。 この『ディアボロス/悪魔の扉』には原作が存在する。1990年に書かれた小説『悪魔の弁護人』がそれで、映画化時に邦訳も出たことがある。主人公がフロリダではなく元々NY郊外に暮らしていたり、ペドフィリア教員がキモでぶハゲおやじではなくレズ女教師だったりと、多少の違いはあるが、ここまではおおむね映画版も原作も同じ展開をたどる。途中から違いが広がっていき、最後には全く別の結末にそれぞれたどり着くのだが、最大の相違は何かと言えば、まず端的に、主人公の妻のキャラクター造形であり、より根本的には、そもそものモチーフとなっているもの、テーマが違うのである。 映画版で奥さんを演じるのはシャーリーズ・セロンだ。中学教諭の強制猥褻裁判でも夫を応援し、勝訴が決まれば誰より喜ぶ。野心も強く、NYでのセレブ新生活に大興奮する。気っ風の良い田舎の元ヤン若妻みたいな辣腕カーディーラーの女性だった。しかし、そんな彼女がNYで次第に精神に変調をきたし、泣きじゃくりながら被害妄想と神経衰弱の症状に陥っていく。 一方、原作小説の方では真逆のキャラクターとして描かれている。NY郊外の弁護士家庭という中の上クラスの生活に満足している専業主婦で、その地域社会に愛着も抱いており、上を目指して別の生活に飛び込もうという気はさらさら無い。夫が強制猥褻容疑の被告の弁護を担当し原告の女子中学生を人格攻撃したことも恥じている。そんな彼女が、マンハッタンに移って豪華な暮らしを始めると、カネと消費の亡者に豹変するのだ。 要は、どちらも中盤で奥さんのキャラクターがガラリと一変してしまうのである。そのトリガーとなるのが「悪魔」という本作のキーワードだ。 映画版では、奥さんシャーリーズ・セロンが、この、人も羨む勝ち組ライフのふとした瞬間に、何か禍々しい、悪魔的な存在をチラチラ垣間見るようになり、フロリダではあれほど明朗快活だった彼女が、オカルト的な影に怯えて田舎に戻りたいと泣いて懇願しだす。主人公キアヌには悪魔の影など見えないのだが、妻の方は妄想なのか何なのか、不吉な気配を繰り返し感じるようになる。 「妄想なのか何なのか」と書いたが、これはつまり、いわゆる「ニューロティック・スリラー」的展開だ。この映画は、慣れない贅沢暮らしでノイローゼになり追い詰められていく心を病んだ庶民女性の物語なのか?それとも、本当に悪魔は実在するのに、それを旦那を含む誰からも信じてもらえない孤立した女性の物語なのか?どちらなのか!? それでクライマックスまで興味を持続させるのがニューロティック・スリラーというジャンルである。 一方、原作の方もニューロティックなのだが、悪魔が実在するのか妄想なのか、どちらなのかで読者を翻弄するのは、こちらでは主人公である旦那の方だ。ミルトン代表から殺人者の弁護を任され、良心の呵責に苦しむのみならず、ミルトンこそ実は本物の悪魔ではないのか!?と疑いだす。疑うほどに、逆に妻の方は、夫のことを精神異常あつかいしつつ、自身は浪費に明け暮れていく。悪魔に取り込まれつつあるのか? ヒロインである奥さんが、このように原作と映画化版とで正反対に描かれるのだが、より重要なのは、そもそもモチーフが違う、テーマが違う、ということの方だ。次回はそこに触れていきたい。 (つづき② 原題「悪魔の弁護人(Devil's Advocate)」は慣用句。その意味を知っているか?) © Warner Bros. Productions Limited, Monarchy Enterprises B.V., Regency Entertainment (USA), Inc. 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2015.12.25
男たちのシネマ愛②愛すべき、味わい深い吹き替え映画(6)
なかざわ:その他のイチオシはどれでしょう? 飯森:「ファールプレイ」(注54)ですね。これは日曜洋画劇場でやったバージョンなんですが、ローカライズが魅力的なんですよ。日本ならではの味というか、日本語吹き替えにしか出せない味。オリジナルよりも面白くなっちゃったというパターンです。なぜなら、ダドリー・ムーア(注55)を広川太一郎(注56)さんがやっているから。もう明らかにオリジナルのセリフとは関係ないことをしゃべっているんです。 なかざわ:コメディーは特にそうだと思うんですが、笑いの文化って国によって全く違うじゃないですか。その国の生活様式であったり価値観であったりが色濃く反映されますから。それをそのまま日本に持ってきてもピンと来ないことが多いですもんね。 飯森:あくまで僕の個人的な感想ですけど、某動画配信サイトで提供している字幕版の「サタデーナイトライブ」(注57)なんかも、すごく期待して見たものの、僕みたいなリアルタイムのアメリカ事情に通じてないコッテコテの日本男児でおまけに英語弱者には、面白さがいまいち分かりづらいんですよ。 なかざわ:ユーモアって言葉の組み合わせや語呂合わせ、ニュアンスなんかから生まれたりするので、そもそもの構造が違う別言語に直接変換しても意味が伝わらないんですよね。 飯森:広川太一郎さんはいつもの調子ですよ。“選り取りみどり赤黄色”、ってギャグを言うんですけど、そんなこと英語で言っているわけがない(笑)。でも、直訳しても意味がないんですよ。結果的に面白ければいいじゃんというノリで作られた吹き替えなんです。 なかざわ:結果的に面白くて、なおかつ映画を壊してなければ全然構いませんよね。 飯森:若干壊しちゃっているんですけどね(笑)。ちょっとヤンチャが過ぎるというか。なんでもこの調子で笑い倒してしまうので、そのキャラクターじゃなくて広川太一郎が前面に出てきてしまう。特にコメディーリリーフ的な脇役をやると、全部かっさらっていくような目立ち方をするんです。だって、この映画だってダドリー・ムーアなんか殆ど出ていない。たったの3回しか出てこないんですよ。その全てに変な日本語ギャグを入れているおかげで、すごく面白い。でも異常に広川太一郎の印象が残ってしまう。 なかざわ:もはやそれはダドリー・ムーアじゃない(笑)。 飯森:なのでこれには賛否両論あるかもしれませんが、でも気に入らなければ字幕版を見ればいいんですから。僕は間違いなく字幕版より面白いと思いますね。ちなみに、キャラクターよりも前に出てきてしまうといえば、野沢那智さんもその傾向がありますよね。ただ、今回初めて野沢さん版の「ゴッドファーザー」を見たんですけど、パート1の音声を最初に聞いたとき、何度聞いても野沢さんに聞こえないの。しかも完全に違うんじゃなくて、野沢那智にすごく似ている普通の人がやっている感じなんです。ミスで違う音源が納品されたのかと確認しても、テープには’76年版と書かれているし、野沢さん以外のキャストは’76年版キャスト表と照らし合わせて間違いなく一致するので、恐らく間違ってはいないはずです。でも、これオンエアしたら音源間違いの放送事故になっちゃうんじゃないかと、いまだに若干ビビってるぐらいなんですが、こればっかりは確かめようがない。結局、100%裏を取れる確実な方法が実は無いんですよ。最後に頼れるのは自分の耳だけなんです。 なかざわ:ご本人も亡くなっていますしね。 飯森:それがね、パート3になると完全に野沢那智になってるんです。アクが強くなっているんですよ。僕らの知っている野沢さんです。誰が聞いても一発で野沢さんだと分かる個性がある。山寺宏一(注58)さんみたいにカメレオンのごとく声を変えられる方もいますけど、野沢さんは野沢那智調みたいな独特の節回しがあって、パート1とパート3を聴き比べると、それが後年になるに従って強くなっていたことが分かります。恐らく吹き替えに寛容ではない人が見ると、「これはもうアル・パチーノじゃない」ってなるんでしょうけれど、その一方で「よっ!野沢那智!」って期待している人もいますから、良きにつけ悪しきにつけだとは思いますが。いずれにせよ、パート1の頃はすごく抑えて演技をしていたんでしょうね。まだ独特のクセが生み出される前だったんだろうと。 なかざわ:声優として経験を積むことで、自分のスタイルを確立して行ったんでしょうね。 飯森:するとね、「ゴッドファーザー」にも別の物語が生まれるわけですよ。堅気の道を歩もうとした若者マイケル・コルレオーネ(注59)が、やがてマフィアのボスに登りつめる。一方で、ごくごく平凡な青年の声だった野沢さんが、パート3で年季の入ったボスを演じると途端にドスが効いているんです。 なかざわ:マイケルと野沢さんの成長がシンクロするんですね。 飯森:そうなんですよ。しかも、野沢さんも意図してやっているわけじゃないですから。そういう面白い見方もできるかもしれませんよね。 なかざわ:それは確かに意外な発見です。 ■字幕絶対派だのアンチ字幕派だのということ自体がナンセンス(飯森) 飯森:さて、最後にこれだけは言っておきたいということがあるんですが、よろしいですか(笑)? なかざわ:どーぞどーぞ。 飯森:うちのザ・シネマというのは東北新社がやっているチャンネルじゃないですか。東北新社というのは映像制作会社でCM作ったり映画作ったりCSチャンネル運営したりしてますけれど、そもそもの成り立ちは外国映画やドラマの日本語吹き替え版の制作なんです。なので、もともと吹き替えに強い会社なんですよ。 なかざわ:確かに、最初に東北新社さんの社名を覚えたのは、映画だかドラマだかの最後に出てくるクレジットだったと思います。 飯森:とはいえ、字幕も作っているんですよ。両方うちで作ってる。だから、字幕絶対派だのアンチ字幕派だのということ自体がナンセンスで、両方いいに決まっているじゃないか!というのがサラリーマンとしての僕の立場なんです。だから、そういう日本における吹き替え制作の歴史を踏まえたうえで、この「厳選!吹き替えシネマ」という企画をやっているということも、是非みなさんにお伝えしておきたいと思います。 (終) 注54:1978年制作。ローマ法王の暗殺計画に巻き込まれた女性と探偵を描いたヒッチコック風コメディー。ゴールディ・ホーン主演。注55:1935年生まれ。俳優。代表作は「ミスター・アーサー」(’81)や「ロマンチック・コメディ」(’83)など。注56:1939年生まれ。声優。ロジャー・ムーアやトニー・カーティスの吹き替えのほか、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」の古代守役でも知られる。2008年没。注57:1975年から続くアメリカの国民的なバラエティ系コメディ番組。ジョン・ベルーシやビル・マーレイなど数多くの大物コメディアンを輩出している。注58:1961年生まれ。声優。ジム・キャリーやウィル・スミスなどの吹き替えで知られ、バラエティ番組などでも活躍している。注59:映画「ゴッドファーザー」三部作を通しての主人公。コルレオーネ家の三男として生まれ、普通の人生を送ろうとするものの、やがて家業を継いでボスになる。 『ゴッドファーザー』COPYRIGHT © 2015 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED. 『ゴッドファーザーPART Ⅲ』TM & COPYRIGHT © 2015 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED 『レインマン』RAIN MAN © 1988 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved 『バーバリアン怪奇映画特殊音響効果製作所』©Channel Four Television/UK Film Council/Illuminations Films Limited/Warp X Limited 2012 『ファール・プレイ』COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.