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COLUMN/コラム2020.03.24
ソル・ギョングの身も心も削った熱演が「忘れるな!」と叫ぶ 『殺人者の記憶法』
キム・ヨンハの小説『殺人者の記憶法』は、全読書家に胸を張ってお薦めしたい傑作だ。「アルツハイマーの連続殺人犯による手記」という秀逸なアイデアは、作者がニューヨークに滞在していたころに着想したものだという。チケットが安いオフブロードウェイの演劇を片っ端から観まくっていた彼が、妻や友人たちに感想を話すと、英語のリスニング力不足のせいで内容を3分の1ほど間違えて覚えていた。「作家はそんなに正確に理解する必要はないの。たとえ間違っていても、話を理解しようと努めている間は、脳の創作領域が活性化するんだから」という妻の言葉が、彼にひらめきを与えた。同時期に、アルツハイマーにかかった作曲家が再び創作を試みる芝居を見たことも大きかったそうだ。これがもし、殺人鬼の話だったら? 軍事政権時代の混乱にまぎれ、1970年代から人知れず犯行を繰り返し、人知れず引退した連続殺人犯キム・ビョンス。田舎町の獣医としてひっそりと暮らし、70歳でアルツハイマーを発症した彼の前に、ある日「同業者」が現れる……。一人娘をつけ狙う殺人者との対決に闘志を燃やしながらも、病状は容赦なく進行。失われゆく記憶とともに、激動の時代を「絶対悪」として生き延びた彼の強固なアイデンティティも、急速に崩壊していく。スリリングな「欠落」を随所に散りばめた一人称の語りは、やがて物悲しさを帯び、等しく同じような老いを体験するであろう読者にとっても他人事ではない恐怖と共感を与える。その結末は虚しくも哀しく、美しい。同じく記憶と自我の関係を扱った、クリストファー・ノーラン監督の『メメント』(2000)、湯浅政明監督の『カイバ』(2008)といった傑作群も彷彿させる、忘れがたい読後感を与える一作である。(ちなみにキム・ヨンハ自身も、幼いときに練炭による一酸化炭素中毒事故で、10歳以前の記憶をすべて失くしている) そんな原作に負けず劣らず強烈な“記憶”を刻みつけるのが、ウォン・シニョン監督による映画版『殺人者の記憶法』だ。その成功にもっとも貢献したのが、主人公キム・ビョンス役を演じたソル・ギョングの圧倒的怪演である。思わず病院行きを勧めたくなるほどげっそり痩せこけ、見るからに人間嫌いの老人になりきった「韓国のデ・ニーロ」ことギョングの姿は、同時にとてつもなくフォトジェニックでもある。撮影期間中も、毎日カメラが回る前に約2時間の縄跳びタイムを設けて体重を維持していたというから恐ろしい。 ビョンスが単に凶悪一本槍のキャラクターであれば、ソル・ギョングもここまで熱を入れて役にのめり込まなかっただろう。悪鬼のような表情だけでなく、世間に順応できない不器用さと生真面目さ、無力な老人の頼りなさも表現しなければならない“難役”だったからこそ、凄絶な肉体改造にも嬉々として挑んだのではないか。たとえば、白昼の町なかで、殺人光線でも出ているのではないかと思うような強烈な眼力で相手を睨み付けながら「娘に近付いたらお前を切り刻んでやる」と凄むシーン。あるいは、娘を乗せて去った車のナンバーを必死に思い出そうと「8、8、8、8……」と狼狽しながら繰り返し呟くシーン。どちらの表情も、思わず真似したくなるほど魅力的だ。その振れ幅の大きさに、この俳優の力量が確かに表れている。 出世作『ペパーミント・キャンディー』(1999)から、近作『悪の偶像』(2019)に至るまで、俳優ソル・ギョングのなかに生き続ける他の追随を許さない個性とは、卓抜した「生きづらさ」の表現力かもしれない。その迫真性は、誰がどう見ても生きる世界を間違った殺人者を演じた本作でも健在である。 監督・脚色を手がけたウォン・シニョンは、原作の文体を意識したトリッキーな構成、意識の飛躍を匂わせるジャンプカットなどを全編に駆使しつつ、映画化にあたってよりエンタテインメントとしての強度と精度を高めている。原作ではビョンスの殺人の動機は詳しく語られないが、映画では「生きる価値のないクズどもの掃除」という明解な理由を追加。いわゆる仕置人タイプの設定にすることで、観客の感情移入をたやすくしている。また、原作ではひたすら殺伐としているビョンスと一人娘ウニとの関係も、かなり柔らかく情感豊かにアレンジ。このあたりのバランスのとり方が、さすが娯楽職人という感じだ。 キム・ナムギル扮する「同業者」ミン・テジュにも、原作における曖昧な描写(もちろん意図的だが)とは対照的に、ビョンスの「好敵手」としての輪郭をくっきりと与えている。それによって映画全体の作劇にも、殺人者同士の手に汗握る対決劇というエンタメ要素が強調された。激痩せしたギョングに対し、14kg増量したナムギルが見せる不敵なサイコパス演技も堂々たるものだ。『カン・チョルジュン:公共の敵1-1』(2008)から10年ぶりの共演作とあって、気合の入り方も違ったのかもしれない。 本作はまた、映画監督ウォン・シニョンの成長と軌跡を味わえる作品でもある。心霊ホラー『鬘』(2005)、誘拐スリラー『セブンデイズ』(2007)、アクション大作『サスペクト 哀しき容疑者』(2013)などで培ってきたジャンルムービー職人としての手腕は、本作でも随所に感じることができる。が、もっとも近いテイストを感じるのは、日本未公開のブラックコメディ『殴打誘発者たち』(2006)だ。山奥へドライブにやってきた女子大生と下心見え見えの音大教授が、地元のならず者集団や不良警官に絡まれ、やがて血みどろの暴力沙汰に巻き込まれていくさまを、不条理コントのように描いた怪作である。残念ながら一般受けはしなかったが、ウォン・シニョンの作家性が剥き出しになった一作で、この作品に横溢するダークなユーモア感覚が『殺人者の記憶法』では再び存分に発揮されている。 たとえば、娘を助けるために映画館に駆けつけたビョンスが、着いた途端に目的を忘れて呑気に映画を楽しんでしまうくだり。あるいは、車中で張り込みをしながら空のペットボトルに小便をしたビョンスが、次の瞬間にはそれを忘れてグビグビと……というくだり。残酷さと紙一重のユーモアは、クライマックスの対決シーンにも不意に発生し、ひきつった笑いを誘う。そのあたりに、ようやく娯楽性と作家性を両立する段階に至った監督の刻印があるように思える。ちなみに、本作でアン交番所長に扮したオ・ダルス、カルチャーセンターの詩の講師を怪演するイ・ビョンジュンも『殴打誘発者たち』の出演者だ。 さて、本作には『殺人者の記憶法:新しい記憶』と題した別バージョンが存在する。今回放映される劇場公開版よりも約10分長く、こちらのほうが監督の意図により近いかたちなのだそうだ。闇賭博場から逃げた女性をテジュが惨殺するシーンなどの追加・延長部分がある一方、ウニによるビョンスの散髪シーンが削られるなど、全体的に編集が異なる。最大の違いは、公開版とはまるで印象が異なるエンディングだろう。どちらかといえば『新しい記憶』のほうが、原作の「信用ならない語り部」が読者を翻弄する構造を忠実に再現しているのかもしれない。ただし、追加シーンのおかげで主観の統一が崩れ、まとまりが悪くなったという欠点もある。個人的には、劇場版のほうに軍配をあげたい。 文学作品ならではの醍醐味は原作だけのものと割りきり、あくまでそれを「材料」に独自のエンタテインメントを追求した監督のアプローチは、大きな成果を上げたのではないだろうか。ソル・ギョングの身も心も削るような熱演とも相まって、おそらく本作を「忘れる」ことはしばらく困難だろう。■ 『殺人者の記憶法』©2017 SHOWBOX AND W-PICTURES ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2019.03.30
『弁護人』で“韓国の至宝”ソン・ガンホが演じた元大統領の軌跡
“民主主義”を標榜するような国でも、時の政権によって“政府の敵”と見なされた者たちを標的に、“ブラックリスト”が作られることは、往々にしてある。 有名なのは、ウォーターゲート事件により辞任に追い込まれ、「史上最低の大統領」という評価もある、アメリカの第37代大統領リチャード・ニクソン(任期:1969~74)が作った、「政敵リスト」。そこには政治家やジャーナリストと並んで、ベトナム反戦や公民権運動などに熱心だったハリウッドスターたち、ポール・ニューマンやジェーン・フォンダなどの名前が挙げられていた。 ニクソンはこうした“リスト”に載せた人物たちを、「税務調査」などの手段で締め上げて、圧力を掛けることを目論んだとされる。結局は国税庁のTOPが拒んだため、調査が実施されることはなかったと言われるが。 こうした“映画人”をもターゲットにした“ブラックリスト”という意味で、近年大きなニュースが報じられたのは、韓国。2016年10月に全国紙「韓国日報」によって、その前年=15年5月に、当時朴槿恵(パク・クネ)大統領を頂く韓国政府が、“文化芸術界”の検閲すべき9,473人の名簿を作成し、関係省庁へと送ったことが明らかになった。「この“リスト”に載せたタレントや文化人は、干せ!」と、政府が暗に指示したわけである。 リストアップされたのは、大統領選挙やソウル市長選で、朴陣営に敵対する候補を支持した者や、2014年4月に発生した「セウォル号沈没事件」に関して、政府やその関係者を批判した者など。ご存知の方が多いと思うが、修学旅行中だった高校生250人を含む、300人以上の死者・行方不明者を出したこの大事故では、政府の対応の遅れや不手際が強く非難され、朴政権に大きな打撃を与えていた。 では具体的に、韓国政府の“ブラックリスト”に挙げられた“映画人”とは、どんな顔触れだったのか?『オールド・ボーイ』(03)『お嬢さん』(16)などのパク・チャヌク監督、『悪魔を見た』(10)『密偵』(16) などのキム・ジウン監督、『10人の泥棒たち』(13)などに出演する女優のキム・ヘスといった、一流どころの名前が並ぶ。そして、本作『弁護人』の主演俳優であるソン・ガンホの名も、その“リスト”に挙げられていた。 韓国映画界には、かつての“韓流四天王”=ヨン様やチャン・ドンゴンなどのイケメン系とは別に、エラが張った巨顔ですんぐりむっくりな体形の人気スター達が居る。私は“ジャガイモ系”と呼んでいるが、『哀しき獣』(10)のキム・ユンソクや『新感染 ファイナル・エクスプレス』(16)のマ・ドンソク、『容疑者X 天才数学者のアリバイ』(12)のチョ・ジヌン、本作にも“カタキ役”で出演しているクァク・ドウォンといった面々が、それである。 ソン・ガンホは、そんな“ジャガイモ系”の先駆け且つ代表的な存在として、『シュリ』(1999)『JSA』(2000)『殺人の追憶』(03)『グエムル 漢江の怪物』(06)といった、韓国映画史に残る数多のヒット作や名作に次々と出演。“国民俳優”“韓国の至宝”の名を恣にし、日本でも高い人気を誇る。名実ともに、韓国映画界きってのTOPスターである。 そんな“韓国の至宝”が、政府に睨まれる直接の原因となったのは、「セウォル号事件」の問題で署名活動に参加したこととされる。しかし2013年に製作された本作に主演したことも、その遠因になっていることは、容易に想像できる。ガンホが演じた本作の主人公=ソン・ウソクのモデルは、廬武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領だからである。 本作では、1978年から87年頃までの韓国・釜山を舞台に、ソン・ウソク≒政治の世界に進む前の廬武鉉の姿が描かれる。もちろん映画向けに創作された部分もあるが、大筋では事実をほぼ正確に描いているという。 では、廬武鉉の歩んだ道を、簡単にまとめてみたい。それは即ち、本作の内容の紹介になるし、主演俳優のガンホが、朴政権に目を付けられた理由の説明にも繋がる。 1946年、釜山の貧しい農家に生まれた廬武鉉。頭脳は優秀ながら、お金がなかったため大学に行けず、アルバイトをしながら司法試験の勉強を始めた。 途中3年間の徴兵期間を経て、75年=29歳の時に、司法試験に合格。裁判官を経て弁護士となる。本作ではこの辺りからが、描かれる。 廬武鉉は、弁護士事務所の開業からしばらくは、税務を専門とし、お金儲けに邁進した。本作の中で、豊かになった主人公が、苦学時代に食い逃げした食堂にお金を返しに行くエピソードが登場するが、これも実話が基になっているという。 転機が訪れたのは、81年。同僚弁護士に頼まれ、「釜林(プリム)事件」の被害者の弁護を担当したことだった。この事件では、釜山でマルクス主義などの本の読書会をしていた、学生や教師、サラリーマンなど22人が、令状もなく突然逮捕された。彼らは2カ月もの間不法監禁され、過酷な拷問を受けていた。 当時の全斗煥(チョン・ドファン)政権は、軍事クーデターと不正選挙で権力の座に就いたこともあって、“民主化”を目指す者たちを敵視していた。そのため思想的な背景が深いとは言えない、読書会のような集まりにも目を付けて、「国家保安法」の名の下で、“アカ=共産主義者”“北朝鮮のスパイ”扱いをして摘発。徹底的な弾圧を加えていた。 それまではノンポリで、“民主化運動”などにも関心がなかった廬武鉉だが、弁護をする若者の身体に拷問の痕を見付け、強い衝撃を受ける。それがきっかけとなって彼は、金儲けの得意な弁護士から、180度の変身を遂げる。 この事件の弁護を、まるで「家族のように」献身的な姿勢で行ったのをはじめ、貧しい人々のために、“無料”で法律相談に乗ったり弁護を引き受けるなど、いわゆる“人権派弁護士”となったのである。 このような活動を邪魔に思った政権側は、検察を使って彼を拘束したり、弁護士資格を停止したりした。映画『弁護人』で描かれるのは、この辺りまでである。