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COLUMN/コラム2023.11.29
元CIA職員が描く冷酷非情なロシアン・スパイの世界!『レッド・スパロー』
ソ連時代のロシアに実在した「スパロー」とは? 『ハンガー・ゲーム』シリーズのヒロイン、カットニス役でトップスターとしての地位を不動にした女優ジェニファー・ローレンスが、同シリーズのフランシス・ローレンス監督と再びタッグを組んだスパイ映画『レッド・スパロー』(’18)。ちょうどこの時期、シャーリーズ・セロン主演の『アトミック・ブロンド』(’17)に韓流アクション『悪女/AKUJO』(’19)、リブート版『チャーリーズ・エンジェル』(’19)にリュック・ベッソン監督の『アンナ』(’19)など、いわゆる女性スパイ物が相次いで話題となっていたのだが、その中で本作が他と一線を画していたのは、一切の荒唐無稽を排したウルトラハードなリアリズム路線を貫いたことであろう。 なにしろ、原作者ジェイソン・マシューズは元CIA職員。表向きは外交官としてヨーロッパやアジアなど各国を渡り歩きながら、その裏で工作員のリクルートおよびマネージメントを担当していたという。33年間のCIA勤務を経て引退した彼は、退職後のセカンド・キャリアとして小説家を選択。国際諜報の世界に身を置いていた時代の知識と経験を基に、初めて出版した処女作が大ベストセラーとなったスパイ小説「レッド・スパロー」だったのである。 テーマはスパロー(雀)と呼ばれるロシアの女性スパイ。彼女たちの役割は敵国の諜報員にハニー・トラップを仕掛け、自らの美貌と肉体を駆使してターゲットを誘惑し、巧みな心理戦で相手を意のままに操ること。主人公のドミニカ・エゴロワというキャラクターそのものは完全なる創作だが、しかしマシューズによるとソ連時代のロシアにはスパローの養成学校まで実在したそうだ。当時はアメリカでも同様の試みがなされたが、しかし倫理的な問題から実現はしなかったとのこと。さすがにソ連解体後のロシア諜報機関にはスパローもスパロー・スクールも存在せず、よって本作のストーリーも過去の事実を基にしたフィクションと見做すべきだが、それでもプロの女性を外部から雇ったロシアのハニー・トラップ工作は今もなお行われているという。 国家によって武器へと仕立てられた女性のサバイバル劇 舞台は現代のロシア、主人公のドミニカ・エゴロワ(ジェニファー・ローレンス)は世界的に有名なバレリーナだ。ボリショイ劇場の舞台で華やかなスポットライトを浴びるドミニカだが、しかし私生活は極めて質素なもの。ソ連時代に建てられた郊外の古い集合住宅で、病気の母親(ジョエリー・リチャードソン)と2人きりで暮らしている。そんなある日、舞台の公演中に起きた事故で片脚を骨折した彼女は再起不能に。自分の名声を妬んだライバルの仕業と知ったドミニカは、相手を半殺しの目に遭わせて復讐を遂げるものの、しかしバレリーナとしてのキャリアが断たれたことで生活が立ち行かなくなる。そこで彼女が頼ったのは、亡き父親の年の離れた弟、つまり叔父に当たるワーニャ(マティアス・スーナールツ)だった。 KGB第1総局を前身とする諜報機関、ロシア対外情報庁(SVR)の副長官を務めるワーニャ叔父さん。アパートの家賃や母親の治療費と引き換えに、彼が姪のドミニカにオファーした仕事というのが、悪徳実業家ディミトリ・ウスチノフに色仕掛けで取り入るというハニトラ工作だった。ところが、相手の携帯電話をすり替えるだけの簡単な任務だったはずが、途中から加わったSVRの殺し屋マトリンがウスチノフを殺害。結果的に要人の暗殺現場を目撃してしまった彼女は、ワーニャ叔父さんの指示に従ってスパイ養成学校へ送られることとなる。さもなければ、国家に不都合な目撃者として抹殺されてしまう。例の復讐事件で姪に工作員の素質があると見抜いた叔父は、彼女をスパイの世界へ引きずり込むための罠を仕組んだのである。 ドミニカが送り込まれたのは、ハニー・トラップ専門の工作員「スパロー」を育成する第4学校。冷酷非情な監督官(シャーロット・ランプリング)によって、美しさと強さを兼ね備えた若い男女が、己の頭脳と肉体を武器にした諜報テクニックを叩きこまれていく。中でもドミニカの成長ぶりは目覚ましく、その才能に注目したSVRの重鎮コルチノイ(ジェレミー・アイアンズ)の抜擢によって、彼女は国際諜報の最前線へ羽ばたくこととなる。その最初の任務は、SVR上層部に潜むアメリカとの内通者を炙り出すことだった。 実はドミニカがボリショイの舞台で事故に見舞われたのと同じ頃、モスクワ市内のゴーリキー公園でスパイ事件が発生。表向きはアメリカの商務参事官として米国大使館に勤務しつつ、その裏で諜報活動を行っていたCIA捜査官ネイト・ナッシュ(ジョエル・エドガートン)が、ロシア現地の内通者と接触している現場をパトロール中の警官に見つかったのである。ギリギリで米国大使館へ逃げ込んだナッシュは、外交官特権を使ってアメリカへと帰国。ロシア側は公園から立ち去った内通者がSVR内部の重要人物と睨むが、しかし身元を割り出すまでには至らなかったのだ。 そのナッシュが再び内通者と接触を図るべく、ハンガリーのブダペストに滞在中だと知ったSVRは、ドミニカを現地へ送り込むことに。ナッシュを誘惑して内通者の正体を聞き出すため、身分を偽って接触を図ったドミニカだったが、しかしすぐにSVRの工作員であることがバレてしまい、反対に二重スパイの取引を持ち掛けられる。自身と母親の身柄保護および生活保障を条件に、CIAの諜報工作に協力してSVRを出し抜こうとするドミニカだが…? ソ連時代のロシアで筆者が身近に感じたスパイの存在とは? 生き馬の目を抜く全体主義的なロシア社会にあって、国家の武器として利用され搾取されてきた女性が、自らの生き残りを賭けてロシアとアメリカの諜報機関を手玉に取っていく。多分に冷戦時代の香りがするのは、先述した通りソ連時代のスパイ工作が物語の下敷きとなっているからであろう。ハンガリーのブダペストやスロバキアのブラティスラヴァ、さらにウィーンやロンドンでも撮影されたエレガントなロケーションも、往年のスパイ映画を彷彿とさせる。ロングショットの多用やシンメトリーを意識した折り目正しい画面構図によって、冷酷非情なスパイの世界の心象風景を描いたフランシス・ローレンス監督の演出も極めてスタイリッシュだ。中でも、ドミニカの骨折事故とナッシュのスパイ事件が、インターカットによって同時進行していくプロローグの編集処理は圧巻!ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(’51)をお手本にしたそうだが、ドミニカとナッシュが何者であるのかを観客へ的確に伝えつつ、やがて両者の運命が交錯していくことも暗示した見事なオープニングである。 そんな本作で何よりも驚かされるのは、昨今のハリウッド・メジャー映画としては極めて珍しい大胆な性描写と暴力描写であろう。なにしろセックスを武器にしたスパイの話である。そもそも原作小説の性描写や暴力描写が過激だったため、製作陣は最初からR指定を覚悟して企画に臨んだという。中でも主演のジェニファー・ローレンスには、一糸まとわぬヌードシーンが要求されたため、撮影された映像は真っ先にジェニファー本人のチェックを受けたそうで、それまではラッシュ映像の試写すら行われなかったらしい。 さらに、主人公ドミニカが元バレリーナという設定であるため、演じるジェニファーもバレエの猛特訓を受けたという。ボリショイ劇場のシーンはブダペストのオペラ座で撮影。スティーブン・スピルバーグ監督のリメイク版『ウエスト・サイド・ストーリー』(’21)も手掛けた、ニューヨーク・シティ・バレエのジャスティン・ペックが振付を担当している。ジェニファーのダンスコーチに任命されたのはダンサーのカート・フローマン。1日3時間、週6日間のレッスンを3カ月も続けたという。とはいえ、さすがにボリショイ級のレベルに到達するのは不可能であるため、ジェニファー本人のパフォーマンスは主にクロースアップショットで使用。ロングショットではアメリカン・バレエ・シアターのプリンシパル、イザベラ・ボイルストンが代役を務めている。 なお、バレエ・ファンにとって要注目なのは、その卓越したテクニックと美しい容姿から日本でも絶大な人気を誇るウクライナ人ダンサー、セルゲイ・ポルーニンが、ドミニカにケガをさせるダンス・パートナー役で顔を出していることであろう。また、七三分けのクリーンカットでワーニャ叔父さんを演じるベルギー人俳優マティアス・スーナールツが、恐ろしいくらいロシアのプーチン大統領と似ているのも興味深いところ。ご存知の通り、プーチン氏はSVRの前身であるKGBの元諜報員だった。ローレンス監督曰く、特定の人物に似せるという意図は全くなかったらしいが、普段は髪が長めで髭を伸ばしているマティアスの外見を整えたところ、意外にも「ある人物」に似てしまったのだそうだ(笑)。 ちなみに、ソ連時代のモスクワで育った筆者にとって、スパイは割と身近な存在だった。なんといっても筆者の父親はマスコミの特派員。情報を扱う仕事である。当然ながら自宅の電話には盗聴器が仕掛けられ、父親が外出すればKGBの尾行が付き、家の中も外から監視されていた。なので、父親が現地の情報提供者などと電話でコンタクトを取る際は、外国人が宿泊する市内の高級ホテルの公衆電話から英語ないし日本語で連絡してもらう。また、当時は日本の本社との通信手段として、国際電話と電報とテレックスを使い分けていた時代。ただし、国際電話は盗聴されているため、ソ連当局に都合の悪い内容の場合は途中で切られてしまう。ゆえに、短い連絡は電報で、長い文章はテレックスで。もしくは、ホテルで近日中に帰国する日本人を探して原稿入りの封筒を託し、羽田もしくは成田の空港でポストに投函してもらう。時には、うちの母親が子供たちを連れて旅行へ行くふりをし、父親に車で駅まで送り届けさせる。そのままKGBの尾行は父親の車を追いかけていくので、その隙を狙って母親が電報局から日本へ電報を打つなんてこともあったそうだ。 また、日本人のみならずモスクワに住む外国人の多くが、現地のメイドや運転手などを雇っていたのだが、その外国人向け人材派遣も実はKGBの管轄だった。筆者の家でも父親の秘書や子供の面倒を見るメイドさん、ピアノ教師などを雇っていたのだが、もちろん彼ら自身がスパイというわけではない。あくまでもKGBが管理しているというだけなのだが、その代わりに勤務先の外国人家庭や外国企業オフィスなどで見聞きしたことを上に報告する義務があったらしい。それでも、筆者の家に出入りしていたメイドのシーマは孫のように我々子供たちを可愛がってくれたし、日本語の達者な秘書オーリャも明るくて愉快な女性だった。なにか悪いことをされたという記憶は殆どない。とはいえ、その一方で現地職員を装った工作員によるものと思われる日本大使館での食中毒事件なども実際に起きていたので、当然ながらダークな部分もあることは子供ながらに認識していた。今になって振り返ると異質な世界だったとは思うが、当時はそれが当たり前だったため大きな違和感はなかったのである。ほかにも、モスクワ在住時代のスパイ・エピソードは、思いがけないトラブルも含めて多々あるのだが、それはまた別の機会に…。■ 『レッド・スパロー』© 2018 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2022.03.08
同性愛者を矯正する「救済プログラム」の実態を描く問題作『ある少年の告白』
19歳で矯正施設へ送られた少年の実話 同性愛は精神疾患でも性倒錯でもなく、異性愛と同じく本人の意思で変えることのできない先天的性質である。これは世界保健機関やアメリカ精神医学会など世界中の専門組織が認めた事実であり、少なくとも現在の先進諸国においては共通の認識であるはずだが、しかしその一方で様々な理由(主に宗教的な偏見)から同性愛を犯罪として禁じる、あるいは心の病気だとして「治療」しようとする国や地域も依然として存在する。 実はLGBTQ先進国アメリカもそのひとつ。’15年に国内全州での同性婚が認められるなど、同性愛への社会的な理解が進んでいるアメリカだが、しかし今なお伝統的なキリスト教の価値観が根強い保守的な地域も多く、中には同性愛者を異性愛者に矯正する救済プログラムを実施している団体も存在する。これまでに70万人以上のアメリカ人が、そうした救済プラグラムを受けており、そのおよそ半分がティーンエージャーなのだそうだ。えっ、21世紀のアメリカで?未だに?と驚きたくもなる話だが、そんな前時代的かつ非人道的な救済プログラムの実態を、実際に体験した当事者の手記を基にして描いた作品が、この『ある少年の告白』(’18)である。 原作はNYタイムズのベストセラーにも選ばれた回顧録「Boy Erased: A Memoir」(’16年出版)。著者のガラード・コンリーは、大学生だった’04年に自らが同性愛者であることを両親に打ち明けたところ、父親の命令でキリスト教系団体Love In Action(LIA)が主催する同性愛者の救済プログラムに参加させられる。なにしろ、彼の故郷であるアメリカ南部アーカンソー州のマウンテン・ホームは保守的な田舎町で、なおかつ父親はバプテスト教会の牧師。福音派の指導者ビリー・グラハムを敬愛する原理主義者の父親によって、幼い頃から「天国と地獄は実在する」「進化論は邪悪な嘘だ」などと教え込まれた彼は、同性愛は罪深い病気だと本気で信じていたという。映画でも描かれている通り、そもそもカミングアウトの原因は大学の同級生男子にレイプされたことだったが、しかしその際にも「これは神が自分に与えた罰だ」と自分を責めたのだそうだ。いやはや、刷り込みというのは恐ろしいものである。しかも、家父長制的なクリスチャンの家庭では父親の言うことが絶対。母親も口出しは出来ない。それゆえ、当時まだ19歳のコンリーにしてみれば、父親の指示に従って救済プログラムを受ける以外に選択肢はなかったのである。 テネシー州のメンフィスにあるLIAの施設でコンリーを待ち受けていたのは、’86年から長きに渡って救済プログラムを指導してきた主任セラピストのジョン・スミッド。「同性愛は生まれつきではなく行動と選択の結果だ」と主張するスミッドは、同性愛の罪を悔いて異性愛者に生まれ変わらねば神から愛されないと若い参加者たちを脅し、君たちが同性愛者になったのは両親の育て方が悪かったからだ、家庭に欠陥があるからだ、母親が過保護なせいだなどとして、家族に憎悪を向けさせるようなセラピーを行ったという。いわば、同性愛が後天的な性質だと信じ込ませるための洗脳である。 さらに、施設内では髪型から下着まで「ゲイっぽい」かどうかのチェックが事細かく行われ、携帯電話やノートなどの私物も勝手に検閲される。男は男らしく、女は女らしく立ち振る舞わねばならない。スポーツトレーニング後に利用するシャワールームでは、マスターベーションを禁じるための砂時計まで用意されていたという。要するに、短時間でさっさとシャワーを終えろ、余計なことは一切するな、考えるなというわけだ。ほかにも、聴いてはいけない音楽や立ち寄ってはいけない場所など、施設の外で守らねばならないルールもあった。ただし、こうした救済プログラムの詳細は他言無用。家族に話すことすら禁じられていた。恐らく、プログラムの内容が重大な人権侵害であることをスミッド自身も認識していたのだろう。 もちろん、このような非科学的かつ非合理的な救済プログラムによって、同性愛者が異性愛者になれるはずなどない。実際、後にジョン・スミッド本人が「救済プログラムで変えられるのは上辺だけ」「実際に同性愛者から異性愛者への転換に成功した者はひとりもいない」と告白している。結局、救済プログラムの実態というのは、参加者に本来の自分を否定させ、強制的に異性愛者のふりをさせること。そのせいで、精神的に追い詰められた参加者が自殺するというケースも起きている。コンリーの場合は幸いにも、母親マーサが息子のSOSをちゃんと受け止め、施設へ乗り込んで救い出してくれた。「自分はまだ幸運だった」とコンリー本人も振り返っている。 皮肉なのは、同性愛者を矯正するという誤った使命感に取りつかれたジョン・スミッド自身が、実は同性愛者だったということだろう。世間からの批判を受けて’08年に教官を辞任してLIAを去った彼は、’14年にパートナー男性との同性婚を果たしている。若い頃に女性と結婚して子供をもうけたというスミッド。恐らく、彼自身が自らの性的指向に強い罪悪感を覚えていたのだろう。それゆえ、同性愛は矯正できると実証したかったのかもしれないが、結果的に身をもって「性的指向は変えられない」ことを証明してしまったのである。原作者の想いを丹念に汲み取ったジョエル・エドガートン監督 そんな日本人の知らないアメリカ社会の暗い一面を映し出す実話を描いた本作。演出を手掛けたのは、俳優のみならず映画監督としても高い評価を得ているジョエル・エドガートンだ。出版当時に原作を読んで自ら映画化することを熱望したそうだが、しかしひとつだけ大きな懸念材料があった。それは、異性愛者である自分に、果たして本作の監督が務まるのだろうか?ということ。ただ、彼にはガラード・コンリーの原作本に強く共感する理由があった。 ご存知の通り、オーストラリアの出身であるエドガートン。彼の故郷ニューサウス・ウェールズ州ブラックタウンは、コンリーの故郷マウンテン・ホームと同じく保守的かつ閉鎖的な田舎町で、エドガートン曰く「みんなが同じでなくてはならず、誰もが仲間外れにされることを恐れて、普通のふりをしながら暮らす町」だったという。しかも、両親は敬虔なカトリック教徒。当然のように彼自身も同性愛者への偏見を持っていた。「当時は周囲の価値観に染まっていただけで、実際は同性愛のことなど深くは考えていなかった」と振り返るエドガートン。しかし、16歳の時に初めて同性愛者の男性と知り合い、さらに演劇学校で学ぶため大都会シドニーへ出て視野が広がったことで、ようやくセクシャリティについてちゃんと理解するようになったという。異性愛者と同性愛者という違いこそあれ、コンリーの生い立ちには自らの生い立ちと重なる点が多かったのだ。 結局、諦めきれずに自ら映画化権を獲得したエドガートンは、原作者コンリーのみならず救済プログラムの関係者や体験者に直接会って話を聞き、さらに客観的な資料も徹底的にリサーチして脚本を書き上げたという。脚本だけでなく撮影した映像も全てコンリーの確認を取り、さらにはLGBTQのメディアモニタリングを行う組織GLAADにも本編をチェックしてもらった。なにしろ、センシティブな題材を門外漢が描くわけだから、間違った表現などがないよう細心の注意を払ったのである。 出来上がった作品は、登場人物の名前こそ架空のものに変更されているものの、それ以外は実際の出来事をほぼ忠実に再現。決してセンセーショナリズムに訴えることなく、あえて誰かを悪者に仕立てることもなく、無知や偏見に基づいた救済プログラムの危険性を訴えつつ、お互いを労わり合う親子の衝突と和解を描くファミリー・ドラマとしてまとめあげている。重苦しさよりも優しさ、憎しみや疑念よりも愛し合う家族の絆が際立つ。原作者自身が「両親を恨んでなどいない」と語っているが、その心情を丹念に汲み取ったエドガートン監督の慈しみ溢れる眼差しが印象的だ。中でも、ニコール・キッドマン演じる母親ナンシーの愛情深さには胸を打たれる。慎ましやかな南部の女性として常に夫や周囲の男性を立て、たとえ不平不満があっても黙って彼らに従ってきたナンシーが、最愛の息子を守るために「もう黙ったりしない」と夫に反旗を翻す。まさしく「母は強し」。これはクイアー映画であると同時にフェミニズム映画でもあるのだ。 結局のところ、「お前のためだ」という父親マーシャル(ラッセル・クロウ)も、「君のためだ」というセラピストのサイクス(ジョエル・エドガートン)も、実は自分の個人的なイデオロギーや信仰心のために主人公ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)を変えようとする。もちろん本人たちに悪意などなく、むしろ良かれと思ってやっているわけだが、それでもなお彼らが自分本位であることには変わりがない。他者が好むと好まざるとに関わらず、人にはそれぞれ持って生まれた特性というものがある。それはなにも性的指向だけに限らないだろう。本当に誰かのためを想うのならば、その人のありのままをまずは受け入れるべきではないのか。その大前提がないと、たとえ家族であっても信頼関係を構築することはできないだろう。 ちなみに、サイクス役を自らが演じるにあたって、エドガートン監督はモデルとなったジョン・スミッド本人にも面会したという。ニューヨークで行われた映画のプレミアにもスミッドは参加。救済プログラムのセラピストを辞任後、メディアを通じて公に謝罪をした彼だが、しかし原作者コンリーによると彼の家族への直接的な謝罪はされていないそうだ。父親はようやく息子の同性愛を受け入れたというが、それでも親子の関係には少なからぬ傷跡が残されたままだとも語っている。その後、LIAは名称を変えて救済プログラムも廃止されたが、現在は既に組織自体が解散してしまった模様。それでもなお、同種の救済プログラムを法律で禁じているのは、’20年の時点で全米50州中20州のみ。それ以外の地域では、いまだに行われているところがあるという。■ 『ある少年の告白』© 2018 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.