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COLUMN/コラム2024.01.23
リアリズム西部劇などクソ喰らえ!“巨匠”ハワード・ホークス起死回生の一作!!『リオ・ブラボー』
古代エジプトを舞台に、大々的なエジプトロケを敢行した製作・監督作『ピラミッド』(1955)が失敗に終わった後、ハワード・ホークスは、ヨーロッパへと逃れた。そして映画ビジネスに対する情熱を取り戻すまで、4年近くの歳月を要した。 それまでの彼のキャリアでは最も長かったブランクを経て、帰国してハリウッドへと戻ったホークスは、「自分が最もよく知っているものをやってやろう…」と考えた。それは、既に落ち目のジャンルのように思われていた、“西部劇”。 彼は思った。以前に観て、「あまりにも不愉快」と感じた作品の裏返しをやってみようと。その作品とは、『真昼の決闘』(52)。 ゲイリー・クーパー演じる保安官が、自分が刑務所送りにした無法者の一味の報復に脅え、町の人々の協力を得ようとするも、ソッポを向かれてしまう…。“赤狩り”の時代、体制による思想弾圧を黙認するアメリカ人を、寓意的に表した作品とも言われる。いわゆる“リアリズム西部劇”として、傑作の誉れ高い作品である。 しかしホークスに掛かれば、一刀両断。「本物の保安官とは、町を走り回って人々に助けを乞う者ではない」。プロは素人に助けを求めたりしないし、素人にヘタに出しゃばられては、かえって足手まといになるというのだ。 また別に、『決断の3時10分』(57)という作品も、ホークスの癇に触っていた。この作品では、捕らえられている悪人のボスが主人公に対し、「手下たちがやって来るまで待っていろよ」と凄んで、冷や汗を掻かせる。これもホークスからしてみれば、「ナンセンスもはなはだしい」。主人公がこう言い返せば、良い。「手下どもが追いついてこないことを祈った方がいいぞ。何故なら、そうなったら死ぬのはお前さんが真っ先だからな」 ホークスが新作の主演に想定したのは、ジョン・ウェイン。“デューク(公爵)”の愛称で、長くハリウッドTOPスターの座に君臨した彼は、特に“西部劇”というジャンルで、数多の名作・ヒット作の主演を務め、絶大なる人気を誇っていた。 そしてホークス&ウェインは、かつて『赤い河』(48)で組み、赫々たる戦果を挙げたコンビである。お誂え向きに、ウェインもホークスと同様、『真昼の決闘』に嫌悪感を抱いていた。 その頃のウェインは、ちょっとしたスランプ状態。西部劇には『捜索者』(56)以来出演しておらず、近作の数本は、ウェイン主演作としては、ヒットとは言えない興行成績に終わっていた。 こうして監督ハワード・ホークス、主演ジョン・ウェイン11年振りの組合せとなる、本作『リオ・ブラボー』(59)の企画がスタートした。 ***** テキサスの街リオ・ブラボーで、保安官のジョン・T・チャンス(演:ジョン・ウェイン)は、殺人犯のジョーを逮捕した。 しかしジョーの兄で大牧場主の有力者ネイサン(演:ジョン・ラッセル)が、弟の引き渡しを求めて、街を封鎖。殺し屋を差し向ける。チャンスの仲間は、アルコール依存に苦しむデュード(演:ディーン・マーティン)と足が不自由な老人スタンピー(演:ウォルター・ブレナン)の2人だけ。 友人のパット(演:ワード・ボンド)が加勢を申し出るが、チャンスは断わる。しかしパットは、ネイサンの一味に殺害されてしまう。 ネイサンの放つ刺客に、幾度もピンチを迎えながら、パットの護衛を務めていた早撃ちの若者コロラド(演:リッキー・ネルソン)や、流れ者の美女(演:アンジー・ディキンソン)の協力も得て、切り抜けていくチャンスたち。 そんな中でデュードを人質に取ったネイサンが、牢に居るジョーとの交換を申し入れてきた。ネイサン一味が立て籠もる納屋に向かう、チャンスとコロラド、そしてスタンピー。 いよいよ、最終決戦の時がやって来た…。 ***** 脚本はホークスお気に入りの2人、ジェールズ・ファースマンとリー・ブラケットに依頼した。基本的には、ホークスとファースマンが喋ったシーンを、ブラケットが書き留めて、形を整える。必要とあらば更に整え直して、つなぎ合わせを行い、その間にブラケット自身のアイディアを少々付け足していく。このやり方で、何度も改稿。脚本が、完成に至った。 しかしながら、これで終わりというわけではない。クランクイン前から撮影中まで、細かい変更が随時行われていった。 ジョン・ウェイン以外のキャスティングで、ホークスがデュード役に、最初に考えたのは、『赤い河』に出演していた、モンゴメリー・クリフト。しかし、最初は候補のリストに入ってなかった、歌手でコメディアンのディーン・マーティンが浮上した。 マーティンはジェリー・ルイスとの「底抜けコンビ」で人気を博したが、56年にコンビを解消。フランク・シナトラ率いる、“ラットパック(シナトラ一家)”入りした頃だった。ホークスはマーティンに会ってみて、その人柄が気に入り、彼の起用を決めた。 早撃ちの拳銃使いコロラド役には、当初年輩の俳優を当てることが考えられていた。しかしホークスに、妙案が浮かんだ。 彼が白羽の矢を立てたのは、18歳のリッキー・ネルソン。子どもの頃から、父オジー、母ハリエット、兄デヴィッドとホームコメディ「陽気なネルソン」に出演していたリッキーは、16歳で歌手デビューし、アイドル歌手として、絶大な人気を誇っていた。 当時は、エルヴィス・プレスリーが絶大なる興行力を持っており、その主演映画に観客が殺到していた。ホークスはネルソンも、似たような力を持っているに違いないと考えたのである。 実際に本作の撮影中は、数百人ものファンが、リッキーが滞在するホテルへと押しかけた。リッキーは4度もホテルを変えた挙げ句、人里離れた牧場へと避難するハメとなった。 スタンピー役は、『赤い河』などにも出演し、まるで当て書きのようなウォルター・ブレナン。当時はTVシリーズ「マッコイじいさん」で、お茶の間の人気者にもなっていた。 リッキーやブレナンがそうであるように、本作には、TVの出演俳優が多々起用されている。パット役のワード・ボンド、敵の親玉ネイサン役のジョン・ラッセル、チャンスをサポートするメキシコ人のホテル経営者役のペドロ・ゴンザレス=ゴンザレス等々。TV時代が到来している折りに、観客の間口を広げる、機を見るに敏な、ホークス流キャスティングと言えるだろう。 因みに本作は、“大男”映画でもある。ウェインとラッセルが、193㌢。監督のホークスとワード・ボンドが、190㌢。ウェインと並ぶと小さく見えるが、リッキー・ネルソンが185㌢、ディーン・マーティンも183㌢あった。 ウェイン演じる保安官とのロマンスが展開する、流れ者の美女役には、新進女優だった、アンジー・ディキンソン。これまでに自作に出演した中でも、アンジーが最高にセクシーと見て取ったホークスは、彼女が身に付ける衣裳を、細部の細部まで自ら目を通した。そして、当時の女性が着ていた型通りのものにしないことを望んで、ソフトですべすべした「女っぽい衣裳」をリクエストした。 当時はスタッフでも、女性は衣裳係とヘアの係ぐらいしか居なかった。ロケ地入りしたディキンソンは、男たちから「仲間入り」の洗礼を受けた。それは、彼らに招かれた夕食の場で出された、“牛の睾丸料理”。彼女はペロリと平らげて、無事に「仲間入り」を果した。 アリゾナ州ツーソン谷でのロケ撮影は、厳しい炎暑との戦いだった。厩のまぐさが発火しないように、4時間おきに耐火液を振りかけ、撮影中以外は、馬に大きなフードを被せて、強烈な日差しから守った。砂嵐で咳き込む馬には、人間用の咳止めを飲ませたという。 夜間撮影では、イナゴの大群が照明へと押し寄せた。仕方ないので、別に強烈なライトを焚き、そちらにおびき寄せて、撮影を進めた。 クライマックスの対決シーンで、炸裂するダイナマイト。その爆発をより派手に演出するために、美術監督は色紙を大量に、爆破される納屋の中に仕込んだ。その結果、空に舞う色紙は、「まるで爆竹のでかいやつ」のようになってしまい、その場に居合わせた一同が大笑いで、NG。再撮で、納屋を丸々イチから建て直すハメになったという。 ウェインやブレナンなどから、しっくりしないからセリフを変えて欲しいというリクエストがあると、ホークスは、その願いを受け入れた。またリハーサルの時などに、俳優が偶然思いついたことも、どんどん採用していった。 アルコール依存症のデュードを演じるディーン・マーティンが紙巻タバコを作る際に、「もし俺の指のふるえがとまらないとしたら、どうやってタバコを巻いたらいいんだ?」とジョン・ウェインに尋ねた。彼は答えた。「俺が代わりに巻いてやるさ」。 これがデュードがうまくタバコを巻けないでイライラしていると、保安官が黙ってタバコを差し出すというシーンとなった。このような形で2人のキャラクター間の友情が、巧みに表現されたのである。 音楽も、うまくハマった。ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンが、『赤い河』の挿入歌だった、「ライフルと愛馬」をデュエットする。殺し屋たちの魔の手が迫っている中で、随分と悠長なシーンではあるが、「…ふたりのすばらしい歌手がいて、うたわせないという手はない」という、ホークスの考えによる。 悪党のネイサンが保安官たちを脅かすために、酒場の楽団にリクエストする「皆殺しの歌」は、1836年3月にメキシコ軍が、テキサス分離独立派が立て籠もるアラモの砦を攻撃する前に流したと言われる曲。しかし実際の曲は、「恐ろしく陳腐で使えない」と、ホークスが判断。音楽のディミトリ・ティオムキンに、新たに作曲させた。 余談になるが、ウェインはこの曲が、非常に気に入った。そして本作の翌年、アラモの戦いを、自らの製作・監督・主演で映画化した作品『アラモ』(60)に流用したのである。 本作の撮影は、ほとんどのシーンで何テイクも回さずに、1発OKも多かったという。そして58年の5月から7月に掛けての、61日間の全日程を終えた。 本国アメリカ公開は、翌59年の3月。大ヒットとなり、日本その他海外でも、膨大な興行収入を上げた。 そんな本作も公開当時の評価は、単なる無難な“職人監督”であるホークスが手掛けた、“大衆娯楽作品”扱いに止まった。しかし後年、ホークスが“巨匠”として再評価されていく中で『リオ・ブラボー』は、彼の多彩なフィルモグラフィーの中でも、重要な1本と目されるようになっていく。 後年“西部劇”に引導を渡した1本とも言われた、サム・ペキンパー監督の『ワイルド・バンチ』(69)を、「…私なら一人がスローモーションで地上にたおれる前に、四人殺し、死体公示所につれていき、葬送する」と揶揄してみせた、ホークス。そんな彼が作った「本物の“西部劇”」が、『リオ・ブラボー』なのである。■ 『リオ・ブラボー』© David Hawks
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COLUMN/コラム2022.04.22
ジョン・ウェインのターニングポイントとなった、巨匠ハワード・ホークス初の“西部劇”『赤い河』
“デューク(公爵)”の愛称で、長くハリウッドTOPスターの座に君臨した、ジョン・ウェイン(1907~79)。“戦争映画”などの出演も多かったが、特に“西部劇”というジャンルで、数多の名作・ヒット作の主演を務め、絶大なる人気を誇った。 ジョン・ウェインと言えば、やはり“西部劇の神様”ジョン・フォード(1894~1973)作品のイメージが強い。出世作となった『駅馬車』(39)をはじめ、『アパッチ砦』(48)『黄色いリボン』(49)『リオ・グランデの砦』(50)の“騎兵隊三部作”や『捜索者』(56) 『リバティ・バランスを射った男』(62)等々、フォード監督作には、20数本に渡って出演している。 生涯、フォードを尊敬して止まなかったと言われるウェイン。しかしインタビューでは、こんな本音も覗かせている。 「わたしがスターになれたのは、たしかに『駅馬車』のおかげだ。しかし、ジョン・フォード監督はわたしを俳優として認めてくれなかった-ハワード・ホークス監督の『赤い河』に出たわたしを見るまでは」 ハワード・ホークス(1896~1977)は、サイレント期に監督デビューし、以降40年以上に渡って、スクリュー・ボール・コメディからミュージカル、メロドラマ、ギャング映画、航空映画、そして西部劇等々、様々なジャンルの作品を世に送り出した。ハリウッドではその多様性から、長らく“職人監督”として軽視されるきらいがあったが、フランスのヌーヴェルヴァーグの映画作家などに熱狂的に支持されたのを機に、本国でも60年代から70年代に掛けて、「再評価」の機運が高まった。今日では彼を紹介する際、“巨匠”と冠することに、躊躇する者は居ない。 そんなホークスは、こんな風に語っている。 「ジョン・ウェインくらいウエスタン・ヒーローにふさわしく、肉体的にも精神的にも、がっしりとした、たくましい男はいない。しかも、彼くらい的確な映画的感覚を持った俳優をわたしは知らない」 ホークスがウェインと組んだ作品は、5本で、その内4本が“西部劇”。初顔合わせとなったのが、本作『赤い河』(48)である。そしてこれは、ホークスにとって初の“西部劇”でもあった。 ***** 19世紀半ば、開拓民の幌馬車隊に同行していたトーマス・ダンソン(演:ジョン・ウェイン)は、牧畜に適した土地の目星を付け、そこに向かうことにする。相棒のグルート(演:ウォルター・ブレナン)1人と、自分の牛数頭を引き連れて。 その際に恋人フェンも同行を望んだが、危険な道中を思って、ダンソンは頑なに拒む。そして、牧場を持ったあかつきには、彼女を必ず迎えに行くことを誓う。 しかしダンソンたちが離れた隊は、先住民に襲われ、フェンも殺されてしまう。隊の唯一の生き残りとなった、12歳の少年マットを仲間に入れて、ダンソンたちは“レッド・リバー”を越え、テキサスへと向かった。 占有権を主張するメキシコ人との対決を経て、広大な土地を我がものとした、ダンソン。大牧場主として君臨する、第一歩を踏み出した。 それから14年…。南北戦争が終結した頃、テキサスでは食肉が捌けなくなり、牧場が抱える1万頭もの牛も、二束三文の価値しかなくなってしまう。そこでダンソンは、食肉の需要が見込める、北部のミズーリへと牛たちを大移動させる計画を立てる。 彼と共にロングドライブに挑むのは、相棒グルートに、成長したマット(演:モンゴメリー・クリフト)、そしてダンソンが雇ったカウボーイたち。道中では彼らに、次々と苦難が襲い掛かる。長雨や食糧不足、牛の大群のスタンピード=大暴走、山賊や先住民の脅威…。 リーダーとして、時には仲間の命を奪ってでも、統率を図ろうとするダンソンに、不満や反発が強まっていく。まったく聞く耳を持たない強権的で頑迷なダンソンに、遂に彼が我が子同様に育ててきたマットも、叛旗を翻す。 ロングドライブから置き去りにされたダンソンは復讐を誓い、マットたちの後を追うが…。 ***** 1万頭もの牛を、テキサスの10倍の値が付く北部へと大移動させる、“キャトル・ドライブ=牛追い旅”。『赤い河』の原案になったのは、その2,000㌔前後にも及ぶ行程で起こる様々な軋轢や事件を、史実に基づいて描いた、ボーデン・チェイスの小説である。 アメリカの“フロンティア・スピリット”を象徴するかのようなこの題材に惹かれたホークスは、映画化権を買い、チェイスに脚本も依頼した。しかし実際に作業に入ると、チェイスは原作の改変に抵抗。共同脚本のチャールズ・シュニーと一緒に仕事をしようとはせず、後々までホークスのことを悪し様に言い続けることになった。そんなチェイスについてホークスは、「…余り虫が好かなかった。彼は単なる馬鹿だ…」などと、後に斬り捨てている。 ダンソンの演者として、ホークスが当初イメージしていたのは、ゲーリー・クーパー。しかしクーパーには断わられ、ジョン・ウェインに依頼することに。 当時40代を手前にしたウェインは、それまではフォード以外には、一流と言える監督と仕事をしたことがなかった。ホークスからのオファーに喜びを感じつつ、一点気ががりだったのが、年を取った男を演じることだった。 そんなウェインにホークスは、声を掛けた。「デューク、君ももうすぐ老人になる。その練習をしておいたらどうだ」 ウェインはそれで、納得させられた。いざ撮影に入ると、自分をいつまでも“新人”のように扱うフォードと違って、ホークスとは対等な関係が築けたという。 マット役には、当時の全米ロデオチャンピオンである、ケイシー・ティッブズを考えた。しかし演技経験のない若者と、ウェインの組み合わせに、ホークスがリスクを感じるようになった頃、ティッブスが腕を骨折。彼が映画スターとなる機会は、失われた。 その後他の候補を経て、行き着いたのが、当時ブロードウェイの舞台で高い注目を集めていた、モンゴメリー・クリフト(1920~66)だった。アクターズ・スタジオ仕込みの、いわゆる“メソッド俳優”だったクリフトは、映画初出演作に『赤い河』が決まると、すぐにロケ地のアリゾナへと飛んだ。そこで一級のカウボーイと3週間を過ごして、乗馬・投げ縄・射撃を学び、クランクインする頃には、“西部劇”の所作を自分のものとしていた。 撮影現場ではクリフトと、ウェイン&ホークスの相性は、必ずしも良いものではなかったと伝えられる。しかし、撮影は本作の後ではあったが、同じ年に先んじて公開された、フレッド・ジンネマン監督の『山河遙かなり』(48)と合わせて、クリフトは映画の世界でも、一躍脚光を浴びる存在となる。 ダンソンの相棒グルート役には、ウォルター・ブレナン(1894~1974)がキャスティングされた。ブレナンはアカデミー賞史上でただ一人、助演男優賞を3回受賞している名脇役であるが、ホークスとの出会いとなった作品は、『バーバリー・コースト』(35~日本では劇場未公開)。 初めて会った時に、ホークスがセリフのテストをしようとすると、ブレナンは、「なしで、それとも、ありで?」と尋ねたという。ホークスが何のことかわからずにいると、それは“入れ歯”を入れたままセリフを言うか、それとも外して言うかという意味だった。ブレナンは30代の頃、撮影中に馬に蹴られて、歯を欠いてしまっていたのだ。 その後すっかり、ブレナンはホークスのお気に入りとなった。実は『赤い河』では、ブレナンと出会った時の“入れ歯”のエピソードをアレンジした、秀逸なギャグが登場する。具体的には観てのお楽しみとしておくが、その背景を知っておくと、ホークスとブレナンの信頼関係が伝わってきて、実に楽しい。 ロング・ドライブの終盤で、マットと恋に落ちるテス・ミレー役を演じたのは、ジョアン・ドルー(1922~96)。ドルーの役どころは、ホークスの諸作に登場する、いわゆる“ホークス的女性像”の典型と言える。機知とカリスマ性を持って、男性に対して強気な物言いをする。そして欲しいと思ったものを得るためには、行動的になるキャラクターである。 原住民の襲撃に出遭い、ミレーの肩に矢が突き刺さる場面がある。そしてこれが、マットとの運命的な出会いともなる。痛みを訴えることもなく、顔色ひとつ変えないミレーと、彼女を助けようとするマットのやり取りは、まさに“ホークス的女性像”を象徴する、見せ場となっている。 本作のクライマックスは、ダンソン=ウェインVSマット=クリフトの対決。壮絶な殴り合いとなるのだが、義理の父子は拳を交わす中で、お互いへの想いを確認していく。こうした展開は、ホークスの他の作品にも見受けられるのだが、彼は「…わたし自身がそういうかたちで親友を得たという体験にもとづいているのかもしれない…」と語っている。 ダンソンとマットは、親子という以上に、ライバルの意識を持っており、そんな人間同士の関わりがどのようにして生まれるか? ホークスはそれを、表現しようとしたのだという。 本作でウェイン演じるダンソンは、“レッド・リバー”とダンソンの頭文字であるDを象ったデザインのマークを、牧場の門柱に掲げ、牛の焼き印として使用している。本作撮影を記念して、このデザインをあしらったガンベルトのバックルが作られ、監督や主要キャストに配られた。 そしてウェインはその後、“西部劇”に出演する際はいつも、このバックルを身に付けるようになる。その理由を、彼は次のように語っている。「…ウエスタン・ベルトにぴったりのデザインだし、幸運がついているんだよ…」 先に記した通り、それまでウェインを「俳優として認めてくれなかった」ジョン・フォードだったが、本作を観て、「あの木偶の坊が演技できるとは知らなかった」と、親友だったホークス相手につぶやいたという。そしてそれをきっかけに、フォード作品に於けるウェインも、人間的に深みのある役どころが多くなっていく。 またウェインは、本作の大ヒットによって、翌年初めてボックス・オフィス・スターの4位にランクイン。以降20年以上、ベスト10入りを続けた。『赤い河』は紛れもなく、ウェインのターニングポイントとなり、映画俳優としての地位を盤石なものとしていく、記念碑的な作品だったのである。そして本作は、「AFI=アメリカ映画協会」が2008年に選定した「西部劇ベスト10」では、第5位にランクインしている。■ 『赤い河』© 1948 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.01.06
「シネラマ」方式の醍醐味を存分に味わえるスペクタクルなウエスタン巨編!『西部開拓史』
映画界に革命を起こした「シネラマ」とは? 激動する開拓時代のアメリカ西部を舞台に、フロンティア精神を胸に新天地を切り拓いた家族三代の50年間に渡る足跡を、当時「世界最高の劇場体験」とも謳われた上映システム「シネラマ」方式の超ワイドスクリーンで描いた壮大なウエスタン叙事詩である。全5章で構成されたストーリーを演出するのは、西部劇映画の神様ジョン・フォードに『悪の花園』(’54)や『アラスカ魂』(60)のヘンリー・ハサウェイ、喜劇『底抜け』シリーズのジョージ・マーシャルという顔ぶれ。役者陣はジェームズ・スチュワートにグレゴリー・ペック、デビー・レイノルズ、ヘンリー・フォンダ、キャロル・ベイカー、ジョージ・ペパード、そしてジョン・ウェインなどの豪華オールスター・キャストが勢揃いする。1963年(欧州では’62年に先行公開)の全米年間興行収入ランキングでは『クレオパトラ』(’63)に次いで堂々の第2位をマーク。アカデミー賞でも作品賞を筆頭に合計8部門でノミネートされ、脚本賞や編集賞など3部門を獲得した名作だ。 本稿ではまず「シネラマとは何ぞや?」というところから話をはじめたい。というのも、映画界の革命とまで呼ばれて一世を風靡した「シネラマ」方式だが、しかしその本来の規格に準じて作られた劇映画は本作および同時期に撮影された『不思議な世界の物語』(’62)の2本しか存在しないのだ。今ではほぼ忘れ去られた「シネラマ」方式とはどのようなものだったのか。なるべく分かりやすく振り返ってみたいと思う。 「シネラマ」とは3本に分割された70mmフィルムを同時に再生してひとつの映像として繋げ、アスペクト比2.88:1という超横長サイズのワイドスクリーンで上映する特殊規格のこと。撮影には3つのレンズとフィルム・カートリッジを備えた巨大な専用カメラを使用し、劇場で上映する際にも3カ所の映写室から別々のフィルムを同時に専用スクリーンへ投影する。その専用スクリーンも縦9m、横30mという巨大サイズ。しかも、観客席を包み込むようにして146度にカーブしていた。さらに、サウンドトラックは7チャンネルのステレオサラウンドを採用。各映画館には専門の音響エンジニアが配置され、劇場の広さや観客数などを考慮しながらサウンド調整をしていた。このような特殊技術によって、まるで観客自身が映画の中に迷い込んでしまったような臨場感を体験できる。いわば、現在のIMAXのご先祖様みたいなシステムだったのだ。 考案者はパラマウント映画の特殊効果マンだったフレッド・ウォーラー。人間の視覚を映像で忠実に再現しようと考えた彼は、実に14年以上もの歳月をかけて「シネラマ」方式のシステムを開発したのだ。その第一号が1952年9月30日にニューヨークで封切られた『これがシネラマだ!』(’52)。まだ長距離の旅行が一般的ではなかった当時、アメリカ各地の雄大な自然や観光名所を鮮やかに捉えたこの映画は、その画期的な上映システムと共に観光旅行を疑似体験できる内容も大きな反響を呼んだ。以降、シネラマ社は10年間で8本の紀行ドキュメンタリー映画を製作する。 この「シネラマ」方式の大成功に刺激を受けたのがハリウッドのスタジオ各社。当時のハリウッド映画はテレビの急速な普及に押され、全盛期に比べると観客動員数は半分近くにまで激減していた。映画館へ客足を戻すべく頭を悩ませていた各スタジオ関係者にとって、『これがシネラマだ!』の大ヒットは重要なヒントとなる。そうだ!テレビの小さな箱では体験できない巨大な横長画面で勝負すればいいんだ!というわけで、20世紀フォックスの「シネマスコープ」を皮切りに、パラマウントの「ヴィスタヴィジョン」にRKOの「スーパースコープ」、「シネラマ」の出資者でもあった映画製作者マイケル・トッドの「トッド=AO」など、ハリウッド各社が独自のワイドスクリーン方式を次々と開発。これを機にハリウッド映画はワイドスクリーンが主流となっていく。とはいえ、いずれもアナモルフィックレンズで左右を圧縮したり、通常の35mmフィルムの上下をマスキングしたりなど、カメラもフィルムも映写機もひとつだけという似て非なる代物で、映像と音声の臨場感においても迫力においても「シネラマ」方式には及ばなかった。 とはいえ、アトラクション的な傾向の強いシネラマ映画は鮮度が命で、なおかつ似たような紀行ドキュメンタリーばかり続いたことから、ほどなくして観客から飽きられてしまう。そこで、危機感を持ったシネラマ社はハリウッドのメジャースタジオMGMと組んで、史上初の「シネラマ」方式による劇映画を製作することに。その第1弾が『不思議な世界の物語』と『西部開拓史』だったのである。 西部開拓時代の苦難の歴史を描く壮大な叙事詩 ここからは、エピソードごとに順を追って『西部開拓史』の見どころを解説していこう。 第1章「河」 監督:ヘンリー・ハサウェイ 天下の名優スペンサー・トレイシーによるナレーションで幕を開ける第1章は、西部開拓時代の黎明期である1838年が舞台。オープニングのロッキー山脈の空撮映像は『これがシネラマだ!』からの流用だ。アメリカ東部から西部開拓地を目指して移動する農民のプレスコット一家。父親ゼブロン(カール・マルデン)に妻レベッカ(アグネス・ムーアヘッド)、娘のイヴ(キャロル・ベイカー)とリリス(デビー・レイノルズ)は、旅の途中で毛皮猟師ライナス・ローリングス(ジェームズ・スチュワート)と親しくなる。大自然と共に生きる逞しいライナスに惹かれるイヴだったが、しかし自由を愛するライナスは家庭を持って落ち着くつもりなどない。ところが、近隣の洞窟を根城にする盗賊ホーキンズ(ウォルター・ブレナン)の一味がプレスコット一家を襲撃。助けに駆け付けたライナスはイヴへの深い愛情を確信する。 アメリカン・ドリームを夢見て大西部を目指す農民一家を待ち受けるのは、美しくも厳しい雄大な自然と素朴な開拓民を餌食にする無法者たち。当時の西部開拓民がどれほどの危険に晒されていたのかがよく分かるだろう。オハイオ州立公園やガニソン川でロケをした圧倒的スケールの映像美に息を呑む。中でも見どころなのはイカダでの激流下り。臨場感満点の主観ショットはシネラマ映画の醍醐味であり、見ているだけで船酔いしそうなほどの迫力だ。ちなみに、盗賊一味が旅人を罠にかける洞窟酒場のロケ地となったオハイオ州のケイヴ・イン・ロックスでは、実際に19世紀初頭にジェームズ・ウィルソンという盗賊が酒場の看板を掲げ、仲間と共に誘拐や強盗、偽金作りを行っていたらしい。なお、盗賊ホーキンズの手下として、あのリー・ヴァン・クリーフが顔を出しているのでお見逃しなきよう。 第2章「平地」 監督:ヘンリー・ハサウェイ それから十数年後。農民の暮らしを嫌って東部へ舞い戻ったリリス(デビー・レイノルズ)は、セントルイスの酒場でショーガールとして働いていたところ、亡くなった祖父からカリフォルニアの金山を相続したと知らされる。これを立ち聞きしていたのが、借金で首が回らなくなった詐欺師クリーヴ(グレゴリー・ペック)。西へ向かう幌馬車隊があることを知り、気のいい中年女性アガタ(セルマ・リッター)の幌馬車に乗せてもらうリリス。そんな彼女に遺産目当てで近づいたクリーヴは、自分と似たような野心家のリリスに思いがけず惹かれていくのだが、しかし幌馬車隊のリーダー、ロジャー(ロバート・プレストン)もまたリリスに想いを寄せていた。 ロマンスありユーモアありミュージカルあり、そしてもちろんアクションもありの賑やかなエピソード。ここは『雨に唄えば』(’52)のミュージカル女優デビー・レイノルズの独壇場で、彼女のダイナミックな歌とダンス、チャーミングなツンデレぶりがストーリーを牽引する。イカサマ紳士を軽妙に演じるグレゴリー・ペックとの相性も抜群。そんな第2章のハイライトは、なんといっても『駅馬車』(’39)も真っ青な先住民の襲撃シーン。「シネラマ」方式の奥行きがあるワイド画面を生かした、大規模な集団騎馬アクションを堪能させてくれる。 第3章「南北戦争」 監督:ジョン・フォード 夫ライナスが南北戦争で北軍に加わり、女手ひとつで小さな農場を守るイヴ(キャロル・ベイカー)。血気盛んな若者へと成長した長男ゼブ(ジョージ・ペパード)は、自分も同じように戦場へ行って戦いたいと願っている。そんな折、旧知の北軍兵士ピーターソン(アンディ・ディヴァイン)が、ゼブをリクルートしにやって来る。はじめは頑なに拒否するイヴだったが、しかし本人の強い希望で息子を戦場へ送り出すことに。意気揚々と最前線へ向かうゼブだったが、しかし実際に目の当たりにする戦場は彼が想像していたものとは全く違っていた。 冒頭ではカナダの名優レイモンド・マッセイがリンカーン大統領として登場し、ジョン・ウェインがシャーマン将軍を、ハリー・モーガンがグラント将軍を演じる第2章。アメリカ史に名高い激戦「シャイローの戦い」を背景に、同じ国民同士が互いに血を流した南北戦争の悲劇を通じて、勝者にも敗者にも深い傷跡を残す戦争の虚しさを描く。全編を通して最も西部劇要素の薄いエピソードを、西部劇の神様たるジョン・フォードが担当。平和な農村地帯の牧歌的で美しい風景と、血まみれの死体が山積みになった戦場の悲惨な光景の対比が印象的だ。なお、砲弾飛び交う戦闘シーンの映像は『愛情の花咲く樹』からの流用だ。 第4章「鉄道」 監督:ジョージ・マーシャル 大陸横断鉄道の建設が急ピッチで進む1868年。西からはセントラル・パシフィック社が、東からはユニオン・パシフィック社が線路を敷設していたのだが、両者は少しでも長く線路を敷くためにしのぎを削っていた。なぜなら、担当した線路周辺の土地を政府が与えてくれるから。つまり、より早く敷設工事を進めた方が、より多くの土地を獲得できるのである。騎兵隊の隊長としてユニオン・パシフィック社の警備を担当するゼブ(ジョージ・ペパード)だったが、しかし先住民との土地契約を破ったり、作業員の生命を軽んじたりする現場責任者キング(リチャード・ウィドマーク)の強引なやり方に眉をひそめていた。亡き父ライナスの盟友ジェスロ(ヘンリー・フォンダ)の仲介で、先住民との良好な関係を維持しようとするゼブ。しかし、またもやキングが先住民を裏切ったことから最悪の事態が起きてしまう。 まだまだアメリカ先住民を野蛮な敵とみなす西部劇が多かった当時にあって、本作では彼らを白人から土地を奪われた被害者として描いているのだが、その傾向がハッキリと見て取れるのがこの第4章。ここでは、大西部にも近代化の波が徐々に押し寄せつつある時代を映し出しながら、その陰で犠牲になった者たちに焦点を当てる。最大の見せ場は、大量の野牛が一斉に押し寄せ、開通したばかりの鉄道を破壊し尽くす阿鼻叫喚のパニックシーン。牛のスタンピード(集団暴走)はハリウッド西部劇の伝統的な見せ場のひとつだが、本作は「シネラマ」方式のワイドスクリーン効果で格段にスペクタクルな仕上がりだ。 第5章「無法者」 監督:ヘンリー・ハサウェイ 西部開拓時代もそろそろ終焉を迎えつつあった1880年代末。亡き夫クリーヴと暮らした大都会サンフランシスコを離れることに決めたリリー(デビー・レイノルズ)は、屋敷や財産を全て売り払って現金に変え、懐かしき故郷アリゾナの牧場へ向かう。近隣の鉄道駅で彼女を出迎えたのは、保安官を引退したばかりの甥っ子ゼブ(ジョージ・ペパード)と妻ジュリー(キャロリン・ジョーンズ)、そして彼らの幼い息子たち。そこでゼブは、かつての宿敵チャーリー・ガント(イーライ・ウォラック)の一味と遭遇する。兄をゼブに殺された恨みを持つチャーリー。家族に危険が及ぶことを恐れたゼブは、チャーリーたちが列車強盗を企んでいることに気付くが、しかし後任の保安官ラムジー(リー・J・コッブ)は協力を拒む。たったひとりでチャーリー一味の強盗計画を阻止する覚悟を決めるゼブだったが…? 時速50キロで走行中の蒸気機関車で激しい銃撃戦を繰り広げる、圧巻の列車強盗シーンが素晴らしい最終章。手に汗握るとはまさにこのこと。サイレント時代のアクション映画スターで、ハリウッドにおけるスタントマンの草分け的存在でもあったリチャード・タルマッジのアクション演出は見事というほかない。ジョン・フォード映画でもお馴染みのモニュメント・ヴァレーでのロケも印象的。チャーリーの手下のひとりはハリー・ディーン・スタントンだ。ちなみに、ジョージ・ペパードのスタント代役を務めたボブ・モーガンが、列車から転落して大怪我を負うという悲劇に見舞われている。ほぼ全身を骨折した上に、顔の右半分が潰れて眼球まで飛び出していたそうだ。辛うじて一命は取りとめたものの、片脚を失ってしまったとのこと。第3章に出演しているジョン・ウェインはモーガンの友人で、この不幸な事故に胸を痛めたことから、翌年の主演作『マクリントック!』(’63)にモーガン夫人の女優イヴォンヌ・デ・カーロを起用している。 シネラマ映画はなぜ短命に終わったのか? まさしくハリウッド西部劇の集大成とも呼ぶべき2時間44分のスペクタクル映画。70mmフィルムを3本も同時に使って撮影されたスケールの大きな映像は、北米大陸の雄大な自然を余すところなく捉えて見応え十分だ。しかも、「シネラマ」方式はカメラの手前から数キロ先の背景まで焦点がブレず、解像度が高いので通常の35mm映画であれば潰れてしまうようなディテールまできめ細かく再現する。そのため、最初に用意した衣装はミシン目が肉眼で確認できてしまったことから、全て手縫いで作り直したのだそうだ。なにしろ、西部開拓時代にミシンなんて存在するはずないのだから。誤魔化しが利かないというのはスタッフにとって相当なプレッシャーだったはずだ。 また、アルフレッド・ニューマンとケン・ダービーの手掛けた音楽スコアも素晴らしい。テーマ曲は本作のために書き下ろされたオリジナルだが、その一方でアメリカの様々な古い民謡を映画の内容に合わせてアレンジし、パッチワークのように散りばめている。中でも特に印象的なのが、劇中でデビー・レイノルズ演じるリリスが繰り返し歌う「牧場の我が家(Home in the Meadow)」。これは16世紀のイングランド民謡「グリーンスリーヴス」の歌詞を本作用に書き直したもの。原曲はザ・ヴェンチャーズからジョン・コルトレーン、オリヴィア・ニュートン・ジョンから平原綾香まで様々なアーティストがカバーしている名曲なので、日本でも聞き覚えがあるという人も多いだろう。ちなみに、本作はもともとビング・クロスビーがMGMに持ち込んだ企画を、シネラマ社とのコラボ作品のひとつとしてピックアップしたもの。クロスビーは’59年にアメリカ民謡を集めた2枚組アルバム「西部開拓史」をリリースしている。 1962年11月1日にロンドンでプレミアが行われ、その後もパリ、東京、メルボルンなど世界各地で封切られた本作。アメリカでは1963年2月20日にロサンゼルスのワーナー劇場(現ハリウッド・パシフィック劇場)でプレミア上映され、シネラマ劇場の存在しない地方都市では35mmのシネスコサイズで公開された。同時期に製作されたシネラマ映画『不思議な世界の物語』と並んで、世界的な大ヒットを飛ばした本作。しかし、本来の「シネラマ」方式で撮影・上映された劇映画はこの2本だけで、以降の『おかしなおかしなおかしな世界』(’63)や『偉大な生涯の物語』(’65)、『2001年宇宙の旅』(’68)といったシネラマ映画は、どれも70mmプリントを映写機1台で専用スクリーンに投影するだけの疑似シネラマ映画となってしまった。その理由は、「シネラマ」方式が抱えた諸問題だ。 もともと3分割されたフィルムを3台の映写機で同時に投影するという構造上、どうしても繋ぎ目が目立ってしまうという問題があった「シネラマ」方式。本作ではシーンによって繋ぎ目部分に垂直の物体を配置するという対策が取られ、なおかつ現在のデジタル・リマスター版では目立たぬよう修復・補正作業が施されているのだが、それでも所々で繋ぎ目の跡が見受けられる。加えて、専用カメラに備わった3つのレンズがそれぞれ別の方角を向いてクロス(右レンズは左側、中央レンズは中央、左レンズは右側)しているため、例えば中央と右側に立つ2人の役者が向き合って芝居をする場合、撮影現場では相手役の立ち位置から微妙にズレた方角を向かねばならない。つまり、画面上は向き合っていても実際は向き合っていないのである。これではなかなか芝居に集中できない。男女の親密な会話など重要なシーンで、メインの役者が中央にしか映っていないケースが多いのはそのためだ。 また、シネラマ専用カメラはズームレンズに対応していないため、クロースアップを撮影するには被写体にカメラが接近するしか方法がなく、どれだけアップにしてもバストショットが限界だった。さらに、人間の視界範囲の再現を特色としていることから、被写界が広すぎることも悩みの種だった。要するに、映ってはいけないものまで映ってしまうのだ。そのため、撮影開始の合図とともにスタッフは物陰に隠れなくてはならず、音を拾うガンマイクも使えないのでセットの見えないところに複数の小型マイクを仕込まねばならないし、危険なスタントシーンで安全装置を使うことも出来ない。先述した列車強盗シーンでの転落事故もそれが原因だった。 こうした撮影上の様々な困難に加えて、配給の面でも制約があった。恐らくこれが最大の問題であろう。「シネラマ」方式に対応した劇場は全米でも大都市圏にしかなく、しかもその数は60館程度にしか過ぎなかった。新たに建設しようにも莫大なコストがかかる。そのうえ、運営費用だって普通の映画館より高い。初期の紀行ドキュメンタリー映画ならば採算も合っただろうが、スターのギャラやセットの建設費など予算のかかる劇映画では難しい。そのため、シネラマ社はこれ以降、3分割での撮影や上映を廃止してしまい、「シネラマ」方式は有名無実の宣伝文句と化すことになったのだ。■
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COLUMN/コラム2015.04.02
【未DVD化】翼に賭ける命 ― ハリウッド航空映画のタフガイ列伝〜『紅の翼』
監督を手がけたウィリアム・A・ウェルマンは、1896年生まれで、同年生まれのハワード・ホークスや、1895年生まれのジョン・フォードらと同様、無声映画時代から約半世紀の長きにわたってハリウッドで活躍し続けた映画界の神話的巨匠の1人。共通項のウェインを間に差し挟んで、この3人の巨匠たちの個性や作風の違いをあれこれ引き比べながら論じるなどということは、なにぶん畏れ多くて手に余る大仕事なので、ここではフォードの代わりに、これまた数々の伝説的神話で知られる大物ハワード・ヒューズを召喚し、タフで荒い気性で知られた“ワイルド・ビル”ことウェルマンと、これまた一匹狼の風雲児たる2人のハワードの交錯から生まれた、航空映画という新たな人気ジャンルの確立とその後の発展をざっとおさらいした上で、改めてこの『紅の翼』に立ち戻ってみることにしたい。 ■三つ数えろ ― 映画界の大物アビエイターたちの三つ巴の戦い というわけで、まずはウェルマンから。第1次世界大戦において、当時20歳そこそこの血気にはやる若者だった彼は、アメリカがまだ参戦を決める以前から義勇兵に志願して、フランス外人部隊に所属。名高いラファイエット飛行隊のエース・パイロットとして複数の撃墜記録を誇る活躍を見せ、軍功賞を授与されている。そして戦後、映画界入りした彼が、その輝かしい実績をもとに、大作の監督に抜擢され、世に送り出したのが、ハリウッドの航空映画の先駆的傑作にしてウェルマン自身の一大出世作ともなった『つばさ』(1927)だった。 この作品は、米陸軍航空隊の全面協力の下、200万ドルもの製作費を投じて、第1次世界大戦における戦闘機同士の息詰まる空中戦をスリルと迫力満点に描いたもの。折しもこの年、かのチャールズ・リンドバーグが大西洋横断の単独無着陸飛行に成功し、全米中に熱狂的な航空ブームを巻き起こしたことも相まって、映画は公開されるや一躍大ヒットを記録し、栄えある第1回のアカデミー作品賞にも輝いている。そして以後、ウェルマン監督自身、『空行かば』(28)、『若き翼』(30)、など、同種の作品を相次いで発表すると同時に、『つばさ』の成功に刺激を受けて、数多くの航空映画が他者の手でも撮られることとなった。 そして、ここで登場するのが、当時、亡き父から受け継いだ巨万の富を手にハリウッドに単身乗り込み、新参の映画製作者として独自の道を歩み始めていた変わり者の若き大富豪、ハワード・ヒューズ。彼は、『つばさ』を上回る迫真の空中スペクタクルを生み出そうと、第1次世界大戦で実際に用いられた本物の戦闘機を自らの資金で買い集め、1927年の秋から、大作航空映画『地獄の天使』の製作に着手。しかし何かと些事にこだわり、自分の思い通りのやり方でないとどうにも気が済まないワンマン主義者の彼が、当初の監督をクビにして自ら初監督の座に就き、あれこれ試行錯誤しながら撮影を長引かせている間に、映画界にはトーキー化の波が押し寄せ、無声映画として撮影されていた同作をそのままの形で公開すると、時代遅れな代物として観客にそっぽを向かれる恐れが生じたため、ヒューズは、製作半ばにして映画をトーキーに変更することを決断。その際、思い切って主演女優も、当時はまだ無名のジーン・ハーロウに新たに差し替えて撮り直しを断行し、製作費は400万ドル近くにまで達する一方、映画の完成がますます遅れる仕儀とあいなった(レオナルド・ディカプリオがヒューズに扮したマーティン・スコセッシ監督の伝記映画『アビエイター』(2004)の中にも、そのあたりの一端が描かれているので、ぜひご一見あれ)。 そして、その間隙を縫うようにして、もう1人の大物プレイヤーがここに参入してくる。それが、ほかならぬハワード・ホークス。もともとエンジニア志望で、大学では機械工学を専攻していた彼は、第1次世界大戦の際、召集されて陸軍航空隊に入り、国内の練兵場で飛行部隊の教官を務めた過去の経歴があった。ホークス初の航空映画となった『暁の偵察』(30)(彼は以後も、『無限の青空』(36)や『空軍』(43)など、さらなる航空映画の秀作を生み出すことになる)は、ようやく撮影が終了した『地獄の天使』の現場スタッフをちゃっかり雇い入れて聞き出した同作の内容を映画作りの参考にするなど、後発隊ならではの旨みと強みを発揮。一方、それを聞いて烈火のごとく怒ったヒューズは、トンビに油揚をさらわれてなるものかと、訴訟を起こして『暁の偵察』の製作や公開の差し止めを試み、お互いに激しい場外バトルを繰り広げた末、2つの作品は1930年に相次いで劇場公開されて共に大ヒットを記録し、航空映画という新たな人気ジャンルの確立に大きく貢献することとなったのだった。 さて、その後、ウェルマン監督は、『地獄の天使』においてプラチナ・ブロンドのセクシーな魅力で一躍人気が沸騰したジーン・ハーロウをジェームズ・キャグニーの相手役の1人に起用して、壮絶なギャング映画の傑作『民衆の敵』(31)を発表。これに対し、『暁の偵察』の時は互いに激しく対立したヒューズとホークスだが、これがかえって不思議な縁となって両者はその後、意気投合するようになり、続いてヒューズが製作、ホークスが監督としてコンビを組んだ『暗黒街の顔役』(31-2)では、『民衆の敵』と双璧をなす、トーキー初期のギャング映画を代表する古典的傑作を生み出すことに成功する。そして、2人のハワードはその後、無名の新人グラマー女優ジェーン・ラッセルを煽情的に売り出した異色西部劇『ならず者』(40-43)で、再び製作&監督コンビを組むが、ホークスは早々に監督の座を降り、結局ヒューズがその後を引き継いだものの、またしても映画の完成までには時間がかかり……、といった具合に、この3人をめぐる面白い因縁話には、実はまだまだ先があり、それを詳述していくと、いよいよヒューズの二の舞で(一介の貧乏ライターの自分を、かの億万長者になぞらえるのもおこがましいが)、こちらの文章も長くなって収拾がつかなくなるので、ここでは残念ながら割愛することにして、本来の航空映画の話に戻ることにしよう。 ■題名からひもとくハリウッド航空映画小史 『つばさ』や『地獄の天使』『暁の偵察』の大ヒット以後、ハリウッドではさらに多くの航空映画が生み出されていくことになるが、それらの作品群の題名をざっとここに並べてみると、「つばさ」(あるいは「翼」)と「天使」が、航空映画の大きなキーワードになっていることが見て取れる。無論、前者は『つばさ』、そして後者は『地獄の天使』に由来し、ウェルマンの『つばさの天使』(33)では、まさに両者が合体しており(ただし、これの原題は「CENTRAL AIRPORT」で邦題とは無関係)、それとは逆に、ホークスの『コンドル』(39)の原題は、「ONLY ANGEL HAVE WINGS」で、やはり「天使」と「つばさ」が揃い踏みとなっているのも面白い。 先に紹介した1927年のリンドバーグの大西洋横断飛行の実話は、それから30年後、ビリー・ワイルダー監督の手で『翼よ!あれがパリの灯だ』(57)として映画化される(ちなみに、アンソニー・マン監督の『戦略空軍命令』(55)やロバート・アルドリッチ監督の『飛べ!フェニックス』(65)でもやはりパイロットの主人公を演じたジェームズ・スチュワートは、第2次世界大戦時、米陸軍航空隊に志願入隊して爆撃機パイロットとして活躍し、後に空軍少将の位にまで登りつめた文字通りの空の英雄)。そしてジョン・ウェインは、この『紅の翼』の後、フォード監督と組んで『荒鷲の翼』(56)を、準主役のロバート・スタックは、ダグラス・サーク監督と組んで『翼に賭ける命』(57)に出演することになる。なおスタックは、やはりサーク監督の傑作『風と共に散る』(56)の中で、傲岸不遜な態度の奥にさまざまなコンプレックスを抱えたテキサスの石油王の御曹司を熱演しているが、この役柄のモデルとなったのが、実は何を隠そう、ハワード・ヒューズだった。 ■『紅の翼』 さて、ここでようやく話はふりだしに戻って、本来のメイン料理たる『紅の翼』の紹介に移ろう。この映画でウェインが演じるのは、戦闘機を駆って大空を勇猛果敢に飛び回る軍人のパイロットではなく、1950年代当時の平和な戦後社会を舞台に、民間の旅客機を操るベテランの副操縦士。冒頭、ウェインが最初に劇中に登場するシーンは、映画ファンなら既にお馴染みの、あの少し内股気味の独特のゆったりした足取りとは異なり、彼が片足を少し引きずりながら窮屈そうに歩く様子を、背後から捉えるところから始まる。元来、一流のパイロットの腕前を持つ彼は、かつて上空を飛行中、天候の急変に見舞われて機体が大破炎上し、愛する妻子を含む他の乗客全員が死亡する中、彼ただ一人かろうじて生き残るという悲劇を経験したことが、その後、整備士の口を通して語られ、ウェイン扮する主人公の足の障害はその後遺症であることが、観客にも了解されるわけだが、実はこれは、監督のウェルマン自身を主人公に投影させたもの。先にも紹介した通り、ウェルマンは第1次世界大戦において、フランス外人部隊の飛行隊のパイロットとして活躍したわけだが、彼自身も敵の対空砲火で撃墜された実体験を持ち、その時に負った怪我が原因で、以後は終生びっこを引くはめになったという。 しかしまたウェインは、これまた映画ファンなら御存知の通り、『静かなる男』(52)、『捜索者』(56)から『エル・ドラド』(66)、そして遺作の『ラスト・シューティスト』(76)に至るまで、心や体に傷を負いながら、その苦境の中でこそ真のタフで勇気な精神を発揮するところに、彼の不滅のヒーローたる魅力が宿っている。 ■風と共に去りぬ ― 航空映画からパニック映画への変容 そして、本作の物語が描き出すのは、ウェイン扮する副操縦士や、ロバート・スタック扮する機長ら、乗員乗客計22名を乗せて、ハワイのホノルルからサンフランシスコへ向けて飛び立った旅客機が、上空でトラブルに見舞われてエンジンの1つが突如火を噴き、絶体絶命の極限状況に陥る中、彼らの気になる運命の行く末を、多彩な人間模様を織り交ぜながらスリリングに描き出すというもの。 こうして書き記してみればお分かりの通り、実は本作は、その後、『大空港』を皮切りに計4本作られる『エアポート』シリーズ(70-79)をはじめ、『ポセイドン・アドベンチャー』(72)、『タワーリング・インフェルノ』(74)、等々、1970年代に一大ブームとなるパニック映画の原型を成すこととなった先駆的作品の1本。これらの一連のパニック映画は、運悪く同じ場所に居合わせて非常事態に遭遇した人々が、その破局的状況から必死で抜け出そうと悪戦苦闘するさまを、豪華多彩なオールスター・キャストを取り揃え、“グランド・ホテル形式”と呼ばれるハリウッドの伝統的な話法を用いて描くのが、物語の基本的パターン。大勢の出演者たちの個々の見せ場を作る必要性から、物語はおのずと断片化されてお互いにバラバラな短い挿話を寄せ集めたものとなりがちだし、それも後年になるに従ってなし崩しとなり、ドラマそのものよりも、迫真の臨場感に満ちたアクションやサスペンスを重視して、より映画のスペクタクル性を前面に押し出したイベント的な大作が一層増えるようになるのは、必然的な流れ。 上記の作品はもとより、その後のCGの発達により、『タイタニック』(97)から最近の『ゼロ・グラビティ』(2013)に至るまで、いまやすっかり当世風のパニック映画に慣れっこになっている現代の映画ファンからすると、エンジンの不調で飛行機が危機的状況に陥るまでに結構時間がかかり、その間、登場人物たちが各自、上空の密閉空間の中で動きと生彩に欠ける会話劇を延々と繰り広げる『紅の翼』の古風で悠長な話運びは、いささか退屈で冗漫に思えても致し方ないかもしれない。 このあたりの航空映画というジャンルの時代的変遷に関して、淀川長治・蓮實重彦・山田宏一の三氏が、映画の魅力を縦横無尽に語り合った鼎談集「映画千夜一夜」の中で、次のようにズバリ本質を鋭く衝く的確な指摘をしている。 山田「航空映画というのはやっぱり風の映画なんですね。」淀川「そうなんですよ。だからいまの飛行機の映画いうのは、飛行機のなかだけで『グランド・ホテル』みたいな面白さはあるけど、本来の面白さはないね。飛行機が飛んでるのか、飛んでないのかわからないものね(笑)。」蓮實「ジェット機になってからダメになったんですね。」 ■ファニー・フェイスの心優しき天使 ― MEET DOE AVEDON さて、そんな次第で、この『紅の翼』は、正直なところ、ウェルマン監督の数ある作品群の中では、上出来の部類に入るものとは言い難いのだが、それでも筆者があえて個人的な情熱を燃やして、関連情報もあれこれ盛り込みつつ、本作の紹介文を長々と書き連ねてきたのには、実はもう1つ大きな理由がある。それは、劇中、親切で温かみのある新人スチュワーデスに扮して、パニックに陥る乗員乗客たちの不安と恐怖をそっとなだめて回る、ドウ・アヴェドンという女優の存在。あまり聞きなれない女優と思う人の方が大多数だろうが、その名が示す通り、実は彼女は、「ハーパース・バザー」「ヴォーグ」などの一流雑誌で活躍した20世紀の後半を代表するファッション写真家、リチャード・アヴェドンの元妻にしてそのトップモデル。フレッド・アステア演じる人気ファッション写真家が、本屋の女店員に扮したオードリー・ヘップバーンを見初めて自分の写真のモデルに起用する様子を洒落たタッチで描いたミュージカル映画『パリの恋人』[原題「FUNNY FACE」](57)は、リチャード&ドウ・アヴェドンのありし日の関係を下敷きにしたもの。 映画の中では、熱々の新婚カップルを羨ましそうに見やりながら、「私も結婚できるかしら?」とつぶやいたりもするドウ・アヴェドンだが、実はこの時彼女は、リチャード・アヴェドンとの結婚・離婚を経て、再婚した俳優の夫とも悲劇的な事故で死別していた。そして彼女は、それから3年後の1957年、めでたく3度目の結婚を果たす。その相手こそ、誰あろう、当時、B級ノワールの傑作『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56)などを放って頭角を現わしつつあった活劇映画の名手、ドン・シーゲルその人であった! 1940~50年代に、本作を含めてわずか4本の映画といくつかのTVドラマに出演した彼女は、シーゲルとの結婚を機に女優業を引退して家庭生活に専念。1975年に彼と離婚した後、彼女は長年親交のあったジョン・カサヴェテスの晩年の個人秘書を務め、『ラヴ・ストリームス』(84)に端役で出演したきり、2011年にこの世を去ったため、この『紅の翼』は、女優ドウ・アヴェドンの姿が拝める数少ない貴重な映画の1本となる。御存知『駅馬車』(39)や『暗黒の命令』(40)でもウェインとコンビを組んだクレア・トレヴァーや、本作の熱演でゴールデン・グローブ助演女優賞に輝いた『地獄の英雄』(51)のジャン・スターリングもさることながら、ここはぜひ、アヴェドンの清楚でさわやかな演技に注目していただきたい。 ■スタア誕生 そしてシーゲルとくれば、ここでやはり最後にクリント・イーストウッドにもご登場願って、このすっかり長くなってしまった拙文を締め括ることとしたい。この2人の師弟関係については、もはやここで改めて説明するまでもないだろうが、イーストウッドがシーゲルと出会うよりも十年ばかり前、当時まだ駆け出しの新人俳優だった彼が、脇役とはいえ、初めて一流の巨匠監督の作品に出演できる機会がめぐってくる。それこそが、ウェルマン監督の本邦劇場未公開作『壮烈!外人部隊』[原題「LAFAYETTE ESCADRILLE」](58)だった。 1975年にこの世を去る同監督の、いささか早すぎる引退作となったこの最後の長編映画でウェルマンが題材に採り上げたのは、彼の青春時代の思い出がたくさん詰まった、第1次世界大戦におけるラファイエット飛行隊の物語。かつて『つばさ』で、ほんの短い出番のチョイ役ながら、鮮烈な印象を観る者の脳裏に刻み込んで、その後一躍人気に火が点いてスターへの座を駆け上っていったゲイリー・クーパーのように、ウェルマンの原点回帰というべき航空映画であり、甘酸っぱい初恋青春映画でもあるこの『壮烈!外人部隊』で、主人公と同じ飛行隊に所属する若者の1人を演じたイーストウッドは、御存知の通り、その後、現代映画界きっての大スターへの道を歩むようになる。 ここで今更ながらに思い起こすならば、ウェルマン監督は、決して航空映画専門のスペシャリストではなく、先に紹介した『民衆の敵』のようなギャング映画から、社会派ドラマ、戦争映画、西部劇など、幅広い題材を手がけた万能型の職人監督でもあって、ハリウッド・スターたちの栄枯盛衰を描いた古典的傑作『スタア誕生』(37)を放ってアカデミー原案賞に輝いたのも、ほかならぬ彼だった。同作はその後、1954年と1976年にリメイクされ、そしてウェルマン監督の異色西部劇『牛泥棒』(43)を自身が最も影響を受けた映画の1本と公言するイーストウッドが、本来ならその3度目のリメイク版の監督をする企画が進行していたはずだが、どうやら現在では、イーストウッドが、『アメリカン・スナイパー』に主演したブラッドリー・クーパーにその企画を譲り、クーパーが主演に加えて監督業にも初挑戦するということが最新ニュースで報じられている。これもぜひ楽しみに待ちたいところだ。■ COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. 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COLUMN/コラム2013.05.25
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2013年6月】銀輪次郎
野獣ハンター集団のまとめ役を演じるジョン・ウェイン、彼の男気たっぷりの魅力と小象の可愛らしさを存分に楽しめる作品。野獣ハンターといっても、生きたまま動物を捕まえるハンターですのでご安心を。アフリカの大自然を舞台に、キリンにサイに象やヒョウなど、動物追いかける映像は迫力満点。CGではないリアルな映像作品というところが、今のCG全盛の時代において、逆に魅力を感じる気がします。聞くところによれば、動物の捕獲シーンは全てノースタント。俳優達が体を張って捕獲します。そして、恋や笑いといった要素も盛り込んで、人情味溢れる作品に仕上っているところは、さすがの名匠ハワード・ホークスのなせる業。誰もが聞き覚えのある挿入歌「小象の行進」の他、ヘンリー・マンシーニが生み出す小気味よい音楽も、まさに往年の娯楽映画ならでは。ジョン・ウェインの男気に惚れた方は、ザ・シネマ6月の特集「Mr.アメリカ ジョン・ウェイン」もどうぞご覧ください。 COPYRIGHT © 2013 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2009.08.21
男たちの誇りが、テキサスを変える。『アラモ』
「アラモの戦い」はアメリカ人が米国史を語る上で欠かせない出来事だという。それは、テキサス革命における激戦の一つだ。1835年に始まったテキサス革命とは、メキシコの一州(これが後のテキサス共和国となり、さらに後にアメリカ合衆国の一州となる)が、当時のメキシコのサンタ・アナ大統領による独裁体制下から独立を果たそうとして起こした戦争のことをさす。この革命には有名な2つの戦いがある。負け戦となった「アラモの戦い」と、「サンジャシントの戦い」と呼ばれる勝利戦だ。今回放送する『アラモ』では、タイトル通り、「アラモの戦い」の描写が映画全体の約8割を占めている。単純に考えれば勝利戦「サンジャシントの戦い」の方を描きそうなものだが、テキサス革命においては、この敗北がなければ独立できなかったという点で、「アラモの戦い」の方が象徴となっているのである。映画『アラモ』には、魅力的なリーダーが4人登場する。 ■ジム・ボウイ ジム・ボウイは、有名な“ボウイナイフ”にその名を留めることになるほどの、ナイフの名手。情熱的で自由な心を持ち、優しい人柄も評判だった。 ■ウィリアム・トラヴィス ウィリアム・トラヴィスは、中佐に就任したばかりの青年で、後に病にかかるボウイに代わり、軍の指揮を任される。短気で反抗心が強い性格ゆえ部下に疎まれるが、次第に立派な指揮官へと成長してゆく。 ■デイヴィ・クロケット デイヴィ・クロケットは元下院議員。頭が良く、ボウイ同様に軍の仲間に頼りにされる存在。残念ながら彼らは「アラモの戦い」で戦死するが、それはある意味で当然のことだった。なぜならメキシコ軍1,600人に対してテキサス軍はわずか200人弱。誰が見ても劣勢な戦いに彼らは挑んだのだ。 ■サム・ヒューストン そして、4人目のリーダーが、サム・ヒューストン将軍である。「サンジャシントの戦い」で、メキシコに比べて少ない兵力にもかかわらず、彼に率いられたテキサス軍は見事勝利をおさめることになるのだ。「アラモの戦い」がテキサス軍を奮い立たせたことは間違いない。それは独立をまさに勝ち取ろうとするとき、ヒューストン将軍が叫んだ「アラモを忘れるな!」という名ゼリフにも現れている。「アラモの戦い」がテキサス軍を奮い立たせたことは間違いない。それは独立をまさに勝ち取ろうとするとき、ヒューストン将軍が叫んだ「アラモを忘れるな!」という名ゼリフにも現れている。ちなみに現在のテキサス州ヒューストンの地名は、この一言で歴史上の人物となった彼の名に由来している。さて、この、映画にするには持って来いの歴史の一幕。最新作は2004年制作だが、1960年にも映画化されている。 1960年版『アラモ』で監督・製作を務め、さらには主役のクロケットを演じたのがジョン・ウェイン。西部劇を代表する大スターがいかに情熱をかけたかは、その熱演ぶりを観ればわかる。2004年版『アラモ』でビリー・ボブ・ソーントンが演じたクロケットは硬派だったが、ジョン・ウェインはそれよりも幾分か軟派な印象。笑顔も多く、パーティで喧嘩をふっかけられ、殴っても殴られてもニコニコしている。この、なんとも憎めないクロケットの人物像にスポットライトを当てているのも、旧『アラモ』の特徴のひとつだ。だけど私は、個人的には2004年ビリー・ボブ版クロケットも捨てがたい。冒頭からカッコイイ〜と見とれていたクロケットが、最後にもばっちりキメてくれるから。彼が戦死する間際のシーンが、とても印象的なのだ。サンタ・アナに捕らえられてしまい、命を奪われるのも時間の問題、というその時。格好良い彼が「覚えてろよ、コノヤロウ!」なんてダサい台詞を吐くはずもない。「忘れるな。俺は...叫ぶ男だ」「うぁぁぁぁぁーーーーーっ」クロケットが叫ぶ。命尽きる直前に「叫ぶ」なんて、予想もしなかった。暴力を振るうでもなく、黙っているわけでもなく、命尽きる前の叫びが、世界に響く瞬間。鳥肌が立つほど痺れた。あの数秒間が2004年版『アラモ』のベストシーンと言って過言ではない。そのシーンは見ていただくとして、男たちの「誇り」。それが、この新旧『アラモ』に共通した、一貫したテーマではないだろうか。『アラモ』の4人のリーダーたちを突き動かしたのは「誇り」にほかならない。私は、そこにはやはり、なんとも形容できない美しさがあると感じてしまう。メキシコで、アメリカ人(正確にはアメリカ系メキシコ人)が独裁者に弾圧されている。彼らの心にある、アメリカ人であることの「誇り」が、怒りに火をつけ、ある者はテキサスで蜂起し、またある者ははるばるアメリカ本国からはるかメキシコのアラモまで救援にやって来たのだ。私ごとながら、在日韓国人の私は、幼い頃から「自分の民族に誇りを持ちなさい」と言われ続けて育った。しかし、ほぼ訪れたことのない土地や、ルーツや、文化を誇りに思えだなんて、いまだに妙だとしか思えない。むしろ日本の素晴らしいところの方が詳しく話せる自信がある。特に日本文化への愛着は、無意識に染みついているものだ。でも、それを誇るって、難しい。これを読む皆さんが「これが私の誇り」と言えることは、何だろう? 仕事や家族などさまざまな「誇り」があると思う。私の「誇り」のひとつは友達だ。とことんマイペースな私をいつも慕ってくれる友人達は、誇りであり、大切なものだ。だけど、国や民族を「誇り」に思える何かは、まだ見つからない。籍がどうこうじゃなく、韓国にせよ、日本にせよ、私が国だとか民族だとかに「誇り」を持てるようになるには、しばらく時間がかかりそうだ。■( 韓 奈侑) 『アラモ(1960)』© 1960 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC. ALL RIGHTS RESERVED『アラモ(2004)』© Touchstone Pictures. All rights reserved