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COLUMN/コラム2024.04.01
‘70年代パニック映画ブームの起爆剤となった不朽の名作!『ポセイドン・アドベンチャー』
映画の草創期からみんなパニック大作が大好きだった! ‘70年代のハリウッドを席巻したパニック映画ブーム。その原点は『エアポート』シリーズ第1弾の『大空港』(’70)とされているが、しかしブームの起爆剤となったのは間違いなく『ポセイドン・アドベンチャー』(’72)であろう。アメリカでは「ディザスター映画」と呼ばれる一連のパニック映画群。その名の通り天災や事故、パンデミックなどの大規模な災害(ディザスター)パニックを題材に、そこへ運悪く巻き込まれてしまった人々による決死のサバイバルを描く。そもそも、映画業界の草創期から非常にポピュラーなジャンルのひとつだ。古くは大地震を題材にした『桑港』(’36)に『シカゴ』(’37)、南の島に巨大台風が襲来する『ハリケーン』(’37)、地球と惑星の衝突を描いた『地球最後の日』(’51)、旅客機が太平洋横断中にエンジン故障に見舞われる『紅の翼』(’54)などが有名だが、しかしなんといってもディザスター映画の王道といえば豪華客船の沈没であろう。 なにしろ、世界で最初のディザスター映画と呼ばれるのが、タイタニック号の沈没を描いたドイツ映画『In Nacht und Eis(夜と氷の中で)』(’12)である。以降も巨匠E・A・デュポンの『アトランチック』(’29)にジーン・ネグレスコの『タイタニックの最期』(’53)、ロイ・ウォード・ベイカーの『SOSタイタニック/忘れえぬ夜』(’58)などなど、主にタイタニック号事件を直接的ないし間接的な元ネタとしたスペクタクルな海洋パニック映画が数多く作られてきた。この『ポセイドン・アドベンチャー』については、ポール・ギャリコの原作小説も含めてタイタニック号事件との関連性は全くないものの、しかしこうしたジャンルの伝統と系譜をしっかりと受け継いだ正統派のディザスター映画であることは間違いない。 まずはあらすじをザックリと紹介しよう。ある年の大晦日のこと。ニューヨークからアテネへ向けて航海中の豪華客船ポセイドン号では、ベテランのハリソン船長(レスリー・ニールセン)と船主代理人ライナーコス(フレッド・サドフ)が激しく対立していた。というのも、船体が老朽化していることもあって転覆の危険性があるため、安全第一を考えるハリソン船長は速度を落として慎重に航行していたのだが、しかしコスト最優先のライナーコスは3日間の遅れが出ていることを問題視し、全速力で船を走らせるよう要求していたのだ。それでも頑として譲ろうとしないハリソン船長。しかし、最終的な決定権を持つライナーコスに逆らいきれず、不本意ながらも部下へ全速前進を指示するのだった。 一方、それぞれに事情を抱えた乗客たちは、新年パーティへ出席するための準備をしている。「神は自ら努力する者だけを救う」と主張するスコット牧師(ジーン・ハックマン)は、その弱者を切り捨てるような主張が教会から非難され、左遷先のアフリカ大陸へ向かう途中だった。ユダヤ人の金物屋マニー(ジャック・アルバートソン)とベル(シェリー・ウィンタース)のローゼン夫妻は、孫に会うためギリシャ経由でイスラエルへ向かうところ。彼らは一人旅をする親切な独身中年男性マーティン(レッド・バトンズ)を何かと気にかけていた。17歳のスーザン(パメラ・スー・マーティン)と12歳のロビン(エリック・シーア)のシェルビー姉弟は、目的地のアテネで両親と落ち合う予定。ニューヨーク市警のマイク・ロゴ警部補(アーネスト・ボーグナイン)は、元売春婦の妻リンダ(ステラ・スティーヴンス)と新婚旅行でイタリアへ向かう途中なのだが、しかし昔の客と遭遇することを恐れるリンダは客室から出ようとせず、それが夫婦喧嘩の原因になっていた。 やがて夜になると大食堂ホールで盛大な新年パーティが始まり、カウントダウンへ向けて乗客たちも大いに盛り上がる。ところがその頃、操縦室では重大な問題が起きていた。クレタ島の北西部で大規模な地震が発生したとの連絡が入ったのだ。慌てて遭難信号を送信したうえで、来るべき津波を警戒するハリソン船長と乗組員たち。ところが、それは彼らの想像を遥かに超えた大きさで、あっという間にポセイドン号は津波に飲み込まれてしまう。新年を迎えて祝賀ムードに沸き立つ大食堂ホールも、一転して阿鼻叫喚の地獄絵図へと変貌。転覆した船体は180度ひっくり返り、乗客たちは次々と天井へ真っ逆さまに落ちていく。 ほどなくして意識を取り戻した生存者たち。責任者のパーサーは「このまま救助隊が来るまでじっと待つべきだ」と指示し、生存者たちの大半が従うことにするのだが、しかしスコット牧師はこれに強く反発する。今やここが船底だ。いつ来るか分からない救助隊を待っていても、それまでに浸水してしまう危険性が高い。ならばイチかバチかでも上へあがって、すぐに助けてもらえるような場所へ移動するべきじゃないか!というわけだ。このスコット牧師の主張に賛同したのは、ローゼン夫妻にロゴ警部補夫妻、シェルビー姉弟にマーティン氏、そしてパーティ・バンドの歌手ノリー(キャロル・リンレイ)にボーイのエイカーズ(ロディ・マクドウォール)と僅か9名だけ。巨大クリスマスツリーを伝って上へ登った彼らだが、その直後に船内で爆発が起きて大食堂ホールへ海水がなだれ込む。断末魔の悲鳴を上げながら沈んでいく大勢の人々。その光景を目の当たりにして茫然とするスコット牧師だったが、それでも生き残りを賭けて9名の生存者たちの先頭に立っていく。彼らの行く手に次々と立ちはだかる試練と難関。果たして、全員が無事に生きて脱出することは出来るのか…? 原作者の実体験から生まれた作品だった! 『ポセイドン・アドベンチャー』の生みの親はプロデューサーのアーウィン・アレン。本作に続いて『タワーリング・インフェルノ』(’74)や『スウォーム』(’78)、『世界崩壊の序曲』(’80)などを世に送り出し、「ディザスター映画の王様」の異名を取ったアレンだが、もともとはテレビ・ドラマの出身だった。当時の彼が得意としていたのは『原子力潜水艦シービュー号』(‘64~’68)に『宇宙家族ロビンソン』(‘65~’68)、『タイムトンネル』(‘66~’67)などなど、劇場用映画ばりのスケール感で大ヒットした特撮アドベンチャー物。これらの成功に手応えを感じていたアレンは、おのずとテレビから映画への進出を目論むようになり、当時ちょうど出版されたばかりだったポール・ギャリコの同名小説の映画化企画を、専属契約を結んでいた20世紀フォックスに提案したのである。 1969年に出版されたポール・ギャリコの小説「ポセイドン・アドベンチャー」。ギャリコといえば「ハリスおばさん」シリーズや「七つの人形の恋物語」などが日本でも人気の高い作家だ。ポセイドン号のモデルになったのは、実在した有名な豪華客船クィーン・メリー号。1936年から’67年まで北大西洋を横断する定期便として運行したクィーン・メリー号は、乗客2020名に乗員1200名を収容することが出来るという超大型客船で、同時期に活躍したクィーン・エリザベス号に匹敵するほどの人気を誇った。作者のギャリコも’37年に乗船。ところが、船は2日間に渡って荒波に揉まれ、ギャリコが一等客専用の食堂で昼食を取っていたところ、急な高波に襲われて船全体が激しく傾いたことがあった。大事には至らなかったものの、それでも食堂は大変なパニックに陥ったという。その時の恐怖体験を基にして書き上げた小説が「ポセイドン・アドベンチャー」だったというわけだ。 ところが…である。20世紀フォックスはアレンの企画提案をにべもなく却下してしまう。なにしろ、当時のフォックスは『ドリトル先生不思議な旅』(’67)に『スター!』(’68)、『ハロー・ドーリー』(’69)と多額の予算を投じた大作映画が立て続けに興行的惨敗を喫しており、そのせいで会社の経営自体が傾いていた。明らかに予算のかかるディザスター映画を作っている余裕などなかったのである。加えて、当時はアメリカン・ニューシネマの全盛期。映画界のトレンドは『真夜中のカーボーイ』(’69)や『イージー・ライダー』(’69)などの小規模なアート映画だった。本作のような、いかにもハリウッド的な大作映画は客の入る見込みが低かったため、どうやらスタジオは二の足を踏んだようだ。 その後、’71年に帝王ダリル・F・ザナックが財政不振の責任を取って社長の座を降り、新社長ゴードン・T・スタルバーグのもとで経営再建に舵を切った20世紀フォックス。ここへきてようやく、『ポセイドン・アドベンチャー』の企画にもゴーサインが出る。とはいえ、与えられた予算はたったの500万ドル。『大空港』の1000万ドル、『タワーリング・インフェルノ』の1400万ドルと比べると、いかに低予算だったのかお分かりいただけるだろう。しかも、途中で会社側が金を出し渋り始めたため、最終的にプロデューサーのアレンが予算の半分250万ドルを、友人・知人からかき集めて調達することとなったそうだ。 キャスティングにも予算を抑えるカラクリが!? やはり最大の見どころは、上下逆さまとなった豪華客船内で繰り広げられる決死のサバイバル・アドベンチャー。中でも、実物大のセットを本当に丸ごとひっくり返したという津波パニック・シーンは今見ても圧巻である。特撮の演出を担当したのはアーウィン・アレン。よくこれだけ大掛かりな見せ場を用意しながら、500万ドルの予算内にきちんと収めたもんだと感心するが、そこはやはり長いことテレビ・シリーズを手掛けてきた人だけあって、少ない予算でいかに見栄えを良くするのか熟知していたのであろう。一方、作品全体の演出は『ミス・ブロディの青春』(’69)で高い評価を得たイギリス出身のロナルド・ニーム監督が担当。もともと巨匠デヴィッド・リーンの脚本家だっただけあって、登場人物それぞれの人生背景を丁寧に織り込んだ濃密な人間ドラマに冴えを見せる。この手のパニック大作は人間描写がおろそかになりがちだが、本作に限っては手抜かりが全くない。 また、’70年代パニック大作映画の定番であるオールスター・キャストにも、実は予算を抑えるためのカラクリが隠されている。どういうことかというと、当時旬の大物スターはスコット牧師を演じるジーン・ハックマンひとりだけ。それ以外は、既に全盛期を過ぎた過去のスターたちで固めているのだ。何故なら、旬のスターはギャラも高くついてしまうが、しかし過去のスターであれば知名度の割にギャラは安く済むから。なので、アーネスト・ボーグナインにシェリー・ウィンタース、ジャック・アルバートソンと3名のオスカー俳優が含まれながら、実はキャストの出演料はそれほどかかっていないのだ。なお、主演のハックマンは本作の撮影中に『フレンチ・コネクション』(’71)でオスカーに輝いている。 ちなみに、劇中の新年祝賀パーティで演奏される主題歌「モーニング・アフター」も忘れてはならないだろう。地獄のような一夜を経て訪れる、希望の朝の安堵感を歌った爽やかなソフトロック・ナンバー。アカデミー賞では見事にオリジナル歌曲賞を獲得し、その直後からラジオ局へのリクエストが殺到したそうで、最終的にビルボードのシングル・チャートでナンバーワンを獲得、’73年の年間シングル・チャートでも28位をマークした。これがレコード・デビューとなった歌手モーリーン・マクガヴァーン(劇中の歌声はセッション歌手のレネー・ア-マンド)は、その後も『タワーリング・インフェルノ』やロジャー・ムーア主演作『ゴールド』(’74)などにも参加し、映画やドラマの主題歌シンガーとして引っ張りだこになる。 かくして、1972年12月12日にロサンゼルスのエジプシャン・シアターでプレミア上映され、なんと予算の25倍に当たる1億2500万ドルもの興行収入を稼ぎ出す大ヒットとなった『ポセイドン・アドベンチャー』。アカデミー賞ではオリジナル歌曲賞と特別賞(特撮チーム)に輝き、’73年の年間興行収入ランキングでは堂々の第1位をマークした。この大成功を機にディザスター映画ブームが本格的に到来し、ハリウッド業界は徐々に大作主義の時代へと向かっていくことになる。■ 『ポセイドン・アドベンチャー』© 1972 Twentieth Century Fox Film Corporation.
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COLUMN/コラム2024.01.18
フリードキン流ドキュメンタリーの手法が、アクチュアルなド迫力を生んだ!『フレンチ・コネクション』
昨年87歳でこの世を去った、ウィリアム・フリードキン。1935年生まれの彼が、映画監督として最高のスポットライトを浴びたのは、『フレンチ・コネクション』(71)『エクソシスト』(73)の2本をものした、30代後半の頃であったのは、間違いない。 近年には、長らく“失敗作”扱いされ、キャリアの転換点とされた、『恐怖の報酬』(77)の再評価などがあった。しかし、『フレンチ…』『エクソシスト』を連発した際の、リアルタイムでのインパクトはあまりにも凄まじく、それ故に、以降は“失墜”した印象が、強くなったとも言える。 そんなフリードキンのキャリアのスタートは、TV業界。10代後半、父親が早逝し、大学に進む気がなかった彼が、必要に駆られて職に就いたのが、生まれ育った地元シカゴのローカルテレビ局の郵便仕分け係だった。 ところがこの局では、異動の度に様々な職種を経験していくシステムになっており、やがて彼は、番組の“演出”を担当するようになる。元はディレクター志望だったわけではないが、水が合ったらしく、その後幾つか局を移りながら、20代後半までに、ヴァラエティ、クイズ、クラシック音楽、野球など2,000本以上の生番組を手掛け、10数本のドキュメンタリーを世に送り出した。 フリードキンが映画界へと進んだのは、30代を迎えた60年代後半。舞台の映画化作品である『真夜中のパーティー』(70)などが評判にはなったが、決定打が出ないまま、70年代へと突入した。 思い悩む彼がアドバイスを求めたのが、ハワード・ホークス監督。スクリュー・ボール・コメディからミュージカル、メロドラマ、ギャング映画、航空映画、西部劇等々、様々なジャンルでヒットを放ってきた巨匠ホークスがフリードキンに言ったのは、次の通り。「誰かの抱えている問題や精神的な厄介ごとについての話なんて誰も聞きたかねぇんだよ。みんなが観たいのはアクションだ。俺がその手の映画をイイ奴らと悪もんをたくさん使って作ると必ずヒットするのさ」 そしてちょうどそのタイミングで、スティーヴ・マックィーン主演の刑事アクション『ブリット』 (68)で大ヒットを飛ばした、プロデューサーのフィリップ・ダントニから、出版前のゲラ刷りが、フリードキンへと持ち込まれた。それが、ロビン・ムーアの筆によるノンフィクション「フレンチ・コネクション」だった。 ニューヨーク警察が、フランスから持ち込まれた大量のヘロインの押収に成功した、61年に実際に起こった大捕物を記したこの原作に、フリードキンは心惹かれた。更にはニューヨークに行って、この捜査の中心だった、麻薬捜査課の2人の刑事、エドワード・イーガン、サリヴァトーレ・グロッソの実物と会ってからは、本当に夢中になって映画化に取り組んだ。 そこから納得のいく脚本づくりに時間を掛けて、本作『フレンチ・コネクション』がクランクインしたのは、1970年の11月30日。翌71年の3月に入るまで、65日間の撮影では、セットは一切使わなかった。ニューヨーク、それも実際の事件の舞台となった場所を使用した、オールロケーションを敢行したのである。 ***** ニューヨーク・ブルックリンで、麻薬の摘発に勤しむ2人の刑事、ジミー・ドイルとバディー・ルソー。“ポパイ”と呼ばれるドイルの強引なやり口を、ルソーがフォローする形で捜査を含める、名コンビだった。 ある時2人で出掛けたナイトクラブで、豪遊する男サル・ボカを見て、ドイルの“猟犬”の勘が働く。妻と共に軽食堂を営むサルを張り込み、店の盗聴を行った結果、彼の仲介で、フランス・マルセイユから届くヘロインの大きな取引が行われることがわかった。 取引の中心に居るのは、フランス人実業家のシャルニエ。殺し屋の二コリを従えて、ニューヨークのホテルに滞在していた。 財務省麻薬取締部の捜査官も交えて、シャルニエらの尾行が始まる。ある日ドイルの尾行に気付いたシャルニエは、地下鉄を利用。狡猾なやり口で、まんまとドイルを撒いた。 証拠不十分でドイルが捜査から外されたタイミングで、二コリがライフルでドイルを狙撃する。弾を逃れたドイルは、高架を走る地下鉄へと逃げ込んだ二コリを追うため、通りがかりの車を徴発。高架下を猛スピードでぶっ飛ばす。 地下鉄をジャックして、ノンストップで走らせたニコリだが、終着駅で停車していた車両に衝突。何とか逃げおおせようと、地下鉄を脱出するものの、追いついたドイルによって、射殺される。 ドイルは捜査へと復帰。いよいよシャルニエたちの麻薬取引が迫る中、繰り広げられる虚々実々の闘いは、終着点へと向かう…。 ***** 主役のドイル刑事に選ばれたのは、ジーン・ハックマン。40歳になったばかりの「ハックマンは、それまでに『俺たちに明日はない』(67)などで、2度アカデミー賞助演男優賞にノミネートされるなど、知名度はそこそこにあったが、本格的な主演作は初めて。 無名俳優を使いたかったフリードキンと、スターを主演にしたかった製作会社。その妥協によって、中間的な位置にいたハックマンが起用されたという。 ハックマンは、相棒のルソー刑事に選ばれたロイ・シャイダーと共に、自分たちの役のモデルとなった、イーガン、グロッソ両刑事の捜査などに、2週間密着。麻薬常習者の溜まり場に踏み込んだり、その連行を手伝ったりまでして、役作りを行った。 刑事たちが追うシャルニエ役に、フェルナンド・レイが選ばれたのは、実は手違いからだった。フリードキンは当初、ルイス・ブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』(67)に出演していた、フランシスコ・ラバルをキャスティングしようと考えていたのである。 ところがキャスティング・ディレクターが、勘違い。同じブニュエル監督のドヌーヴ主演作、『哀しみのトリスターナ』(70)の共演者だったレイが、ニューヨークの撮影へと招かれた。フリードキンはその時会って初めて、自分が考えていた俳優とは、別人だと気付いたという。 実はこれが、瓢箪から駒となった。役のモデルとなった犯罪者は、粗野なコルシカ人だったが、フェルナンド・レイは、見るからに洗練された紳士。粗野なドイル刑事とのコントラストが、効果的に映えた。因みに当初想定されていたラバルは、英語がまったく話せなかったので、そうした意味でも、大成功のキャスティングとなった。
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COLUMN/コラム2023.08.28
ヨーロッパ映画を彷彿とさせる骨太で硬派な政治スリラーの隠れた名作『アンダー・ファイア』
物語の背景となるニカラグア革命とは? 惜しくも、劇場公開時は興行的に全くの不発だったものの、しかしその一方でロジャー・エバートやジョン・サイモンなど名だたる映画評論家から高く評価され、映画ファンの間でも今なおカルト的な人気を誇っている政治スリラー映画の隠れた名作である。 1981年1月20日、アメリカでは元ハリウッド俳優ロナルド・レーガンが第40代アメリカ合衆国大統領に就任する。ご存知の通り、当時は東西冷戦の真っ只中。’60年代末から続いていたデタント(米ソの緊張緩和)は’79年のソ連によるアフガニスタン侵攻で崩壊し、人権問題を重視した先代・カーター大統領の穏健な外交政策はおのずと「弱腰外交」と批判される。そうした中で誕生したレーガン政権は、一転してタカ派的な強気の外交政策を展開。ソ連を「悪の帝国」と呼んで激しく非難し、反共の理念を旗印にして中南米や中近東などの不安定な政情にも介入していく。折しも’80年代のハリウッドでは、アカデミー賞を賑わせた『レッズ』(’81)や『ミッシング』(’82)などを筆頭に、世界各地の革命や紛争を題材にした政治スリラー映画が静かなブームを呼んでいたが、その背景にはこうした東西冷戦の激化が影響していたと考えてもおかしくはないだろう。 中でも当時流行ったのが、様々な情報が錯綜する革命や紛争、圧政の渦中にあって、真実を追求するために命がけで奔走するジャーナリストを描いた映画群だ。恐らくそのきっかけとなったのは、メル・ギブソンがスカルノ政権末期のインドネシアに派遣されたテレビ特派員を演じる『危険な年』(’82)。オーストラリア映画だがアメリカでも大ヒットを記録し、男性カメラマン役を演じたリンダ・ハントがアカデミー助演女優賞を獲得した同作の成功を皮切りに、カンボジア内戦を舞台にした『キリング・フィールド』(’84)やエルサルバドル内戦を題材にした『サルバドル/遥かなる日々』(’86)、アパルトヘイト政策の弾圧に立ち向かった南アフリカの黒人活動家と新聞記者の戦いを描く『遠い夜明け』(’87)など、ジャーナリズムの使命とその重要性を改めて知らしめるような政治スリラー映画の力作が次々と公開される。『エア★アメリカ』(’90)や『007/トゥモロー・ネバー・ダイ』(’97)でお馴染み、ロジャー・スポティスウッド監督の出世作となった『アンダー・ファイア』(’83)もそのひとつだ。 本作の題材はニカラグア革命。さすがに筆者も国際紛争や中南米史の専門家ではないため、ここでは一般常識的な基礎知識をサクッと振り返ってみたい。自国の覇権を拡大・維持するため、20世紀初頭から中南米諸国の政治に介入してきたアメリカ合衆国。ニカラグアもそのひとつで、1927年に親米的な保守党政権に対し自由党が内戦を仕掛けると、米国は海兵隊を送り込んで鎮圧しようとする。結局、世界大恐慌の影響で米海兵隊は撤退するも、’34年に自由党軍のサンディーノ将軍はアメリカに支援された国家警備隊に暗殺され、その首謀者であるアナスタシオ・ソモサ・ガルシアは’37年に大統領へ就任。以降、ソモサ親子3名は43年間に渡って国家権力を私物化し、「ソモサ王朝」と呼ばれる独裁的な強権政治を敷いたのである。 ‘72年にニカラグアで起きたマナグア大地震。世界中から多くの支援金や支援物資が集まったものの、その大半をソモサ一家が着服して身内企業などに分配。さらに、’78年には反体制派新聞の社長が政府によって暗殺され、いよいよソモサ王朝に対する国民の怒りが頂点へと達する。’79年にはサンディーノ将軍の遺志を継ぐ左翼革命組織・サンディニスタ民族解放戦線が武装蜂起。現地での取材を試みた米テレビ局ABCのレポーター、ビル・スチュワートが国家警備隊に射殺され、その様子をたまたま撮影したニュース映像が世界中で報道されるに至り、それまで「親米」を理由にソモサ政権を支援してきた米政府も看過できなくなる。かくして、アメリカから見放されたアナスタシオ・ソモサ・デバイレ(ガルシアの次男)大統領は失脚。マイアミを経て各地を転々とした挙句、’80年に亡命先のパラグアイで暗殺された。 以上が、本作の背景となる史実のあらまし。基本的には登場人物もストーリーもフィクションだが、しかしビル・スチュワート事件を下敷きにした出来事が物語の重要なカギとなり、劇中ではソモサ大統領まで登場してドラマに絡んでくる。やはり本作を鑑賞するにあたって、ある程度の予備知識は必要であろう。 ジャーナリストはどこまで中立であるべきなのか 時は1979年。物語の始まりは、軍事政権と反政府軍の内戦が収束に向かいつつあるアフリカのチャド共和国。命知らずのタフな報道カメラマンのラッセル・プライス(ニック・ノルティ)は、旧知の傭兵オーツ(エド・ハリス)と戦場で偶然再会する。政府軍に雇われたはずなのに、間違えて反政府軍と行動を共にしているオーツ。そのいい加減さに、2人は思わず笑い転げる。この戦場はマジでクソだ!全く金にならん!今どき稼ぐならニカラグアだな!そう愚痴をこぼすオーツと別れてホテルへ戻ったラッセルは、敬愛する先輩であり親友でもある記者アレックス・グレイザー(ジーン・ハックマン)の送別パーティに参加する。野心家のアレックスは、念願だったニュース番組のアンカーマンに抜擢され、晴れてニューヨークへ戻ることになったのだ。しかし、恋人のラジオ報道記者クレア・ストライダー(ジョアナ・キャシディ)はアレックスに同行することを拒否。ジャーナリストとしての使命感に燃える彼女は、現場から足を洗う気などさらさらなかったのだ。次の行き先は革命の動乱に揺れるニカラグア。意地を張ったアレックスは、自分もニカラグアに付いていくと言い出す。 それから暫くの後、中米ニカラグアには世界中から報道関係者が集まり、その中にはラッセルやアレックス、クレアの姿もあった。政府関係者やマスコミ関係者が行きつけのナイトクラブでディナーを楽しむ3人。ソモサ政権のスパイと噂のフランス人ビジネスマン、マルセル・ジャジー(ジャン=ルイ・トラティニャン)の姿もあった。すると、革命軍によってナイトクラブが爆撃を受け、ラッセルはその惨状をカメラに収める。ところがその直後、彼は理由もなく国家警備隊に逮捕され、翌朝には釈放されたもののカメラを壊されてしまった。マルセルが嫌がらせで仕組んだものと睨むラッセル。自分がソモサ大統領直属のスパイだと認めるマルセル。ラッセルとクレアを自宅へ招いた彼は、革命軍のリーダー、ラファエルが地方都市レオンにいるとの極秘情報を伝える。これまで一度も写真に撮られたことがなく、その存在自体が半ば伝説化したラファエルは、ラッセルがニカラグア入りしてからずっと追いかけていた人物だ。ラファエルを写真に収めることが出来れば特ダネである。半信半疑ながらも、ラッセルとクレアは一路レオンへと向かう。 まるで戦場のようなレオンの町。ラッセルとクレアは革命軍の若者たちと親しくなり、市街戦の様子を間近から取材することに成功する。ふと気づくと、政府側の兵士の中に傭兵オーツの姿が。ジャーナリストとして「中立の立場」が信条のラッセルは、死体の山に隠れたオーツの存在を革命軍に黙っていたが、そのせいで革命軍の気さくな指揮官ペドロがオーツに射殺されてしまう。果たして、自分の判断は正しかったのか。深い罪の意識を覚えるラッセル。そんな彼を慰めるクレア。志を同じくする仲間として共鳴し、やがて男女関係の一線を超えてしまうラッセルとクレア。彼らの変化になんとなく気付いていたアレックスだが、しかしキャリアを優先してニューヨークへ戻ってしまう。そんな折、ラファエルの暗殺に成功したことをソモサ大統領(ルネ・エンリケス)が記者会見で発表。当然ながら革命軍側はこれを否定し、その証拠としてラファエル本人が取材に応じるとラッセルに申し出る。指定された場所へ向かうラッセルとクレア。そこで彼らは、ジャーナリストとしての職業倫理に関わる重大な決断を迫られる…。 基本的なプロットは、戦時下を舞台にした大人のラブストーリー。戦争の動乱に揺れるエキゾチックな異国の地を舞台に、強い信念を持つ勇敢な2人の男性が同じようにタフな1人の女性を愛し、そんな彼らの三角関係に周辺の政治的な思惑が絡んでいく。まるで『カサブランカ』(’42)のごとし。そういえば、チャールズ・ブロンソン主演の『太陽のエトランゼ』(’79)やショーン・コネリー主演の『さらばキューバ』(’79)も似たような話だったと思うが、本作がそうした『カサブランカ』症候群的なハリウッド映画と一線を画すのは、あくまでもラブストーリーがメインテーマを浮き彫りにするための道具のひとつに過ぎない点であろう。 本作が真に描かんとするのは報道記者の在り方だ。ジャーナリストは「中立の立場」が基本だとして、権力側にも抵抗勢力側にも肩入れすることなく、世界各地の紛争地帯を取材してきた報道カメラマンのラッセル。しかしニカラグアでは少々勝手が違ってくる。国民を弾圧して反対派を迫害するソモサ政権下のニカラグア。革命軍と実際に行動を共にしたラッセルは、彼らが独裁者へ対する憤怒の念に駆られた平凡な若者たちに過ぎず、その背後には人権を蹂躙された大勢の市民たちの支持があることを知識ではなく肌で実感し、やがて「中立の立場」というジャーナリストの職業倫理が、むしろ独裁者の悪事に加担することになっているのでは?との疑問を抱くようになるのだ。 そもそも、本作には「仕事だから」と割り切って悪へ加担するプロたちが大勢出てくる。金払いの良い相手なら誰のもとでも働く傭兵オーツに、ソモサ政権のスパイ活動を一手に担うフランス人実業家マルセル、ソモサ政権の対外的なイメージ向上に奔走するアメリカ人の広報官キトル(リチャード・メイジャー)などなど。そのキトルは「ソモサ大統領にだって言い分はある」と独裁者を擁護し、マルセルも「誰が正しいのか分かるのは20年後だ」と嘯く。まるで正義の概念など立場によって変わるとでも言わんばかりに。しかし、果たして本当にそうなのだろうか?世の中には普遍的な正義というものが確かに存在し、それを我々は「良心」と呼ぶのではないか。そして、それこそ野心家の親友アレックスには不似合いな現場主義の女性記者クレアと似た者同士のラッセルが結ばれたように、職業倫理などという建前に縛られることなく、己の「心の声」に従って行動することも、時として報道記者にとって必要なのではないかと問いかける。 映画のリアリズムを支えたキャスト陣の存在 さらに、本作では撮影監督ジョン・オルコットのカメラがドキュメンタリーさながらのリアリズムを醸し出す。オルコットといえば、『2001年宇宙の旅』(’68)から『シャイニング』(’80)までのスタンリー・キューブリック作品を手掛け、『バリー・リンドン』(’75)でオスカーに輝いた伝説的な名カメラマン。本作でも『バリー・リンドン』さながらの自然光を活かした撮影に徹しており、実際にスポティスウッド監督はジッロ・ポンテコルヴォやコスタ=ガヴラスの影響を受けたそうだが、それこそヨーロッパの左翼系インテリ映像作家による社会派映画のような風情すら漂わせている。実に骨太な作品だと言えよう。 もちろん、役者の顔ぶれも素晴らしい。ベトナム戦争の従軍記者を演じた『ドッグ・ソルジャー』(’78)を見て、ラッセル役には彼しかいない!と初めからニック・ノルティ一択だったというスポティスウッド監督だが、しかし当時のノルティは超の付く売れっ子。そのうえマイペースな人だったそうで、自宅に山ほど届く出演オファーの脚本も土日しか目を通さないため、大半が読まれることなく埋もれていたらしい。そこで、スポティスウッド監督は本作の脚本を50部もコピーし、ノルティの親友ビル・クロスに頼んで彼の自宅に置いてもらったという。当時は家じゅうのあちこちに未読脚本の山があったそうで、そのどこに手を出しても本作の脚本が最初に来るよう配置したのだそうだ(笑)。おかげで、週明けにはノルティから出演を熱望する連絡があり、アレックス役のジーン・ハックマンもオファーを快諾したという。 しかし、本作におけるキャスティングの要は、やはりクレア役のジョアナ・キャシディであろう。『ブレードランナー』(’82)のレプリカント役で脚光を浴びたばかりのキャシディだが、実は当時すでに38歳。そもそも女優デビューした時点で27歳、2人の子供を持つ母親だった彼女は、その人生経験や下積みのおかげもあるのだろう、クレア役に説得力を持たせるに十分な逞しさと生活感を兼ね備えていた。いわゆるハリウッド的な若い美人女優が演じていたら、決してこうはならなかったはずだ。筋金入りのタフガイ、ノルティとの相性も抜群。というか、ノルティと互角に渡り合えるほどタフな女優は、彼女かチューズデイ・ウェルドしか考えられない。 さらに、コスタ=ガヴラスの『Z』(’69)でカンヌ国際映画祭の男優賞に輝いたフランスの名優ジャン=ルイ・トラティニャンが、本作でハリウッド映画デビューを飾っているのも要注目。ニック・ノルティはトラティニャンが何者なのか知らなかったらしく、あまりの演技の巧さに現場でビックリして、「ジーン・ハックマンを相手にするだけでも大変なのに、あんな凄い奴まで連れてきやがって!」と監督に文句を言ったそうだ。なお、トラティニャンのハリウッド映画出演は、結果的にこれが最初で最後となった。 なお、映画でも描かれるようにソモサ大統領の国外逃亡によって独裁政権は崩壊し、富の再分配や貧困の解消を掲げる革命政府が樹立したニカラグア。アメリカのカーター政権もその存在を容認したわけだが、しかしレーガン大統領になって状況は一変。アメリカに好都合な傀儡政権の樹立を目指したレーガン政権は、ニカラグアの革命政府を倒すためにCIAや統一教会を使って親米反革命勢力「コントラ」を支援。ニカラグアの内戦は再び泥沼化していくことになる。■ 『アンダー・ファイア』© 1983 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.08.11
2021年の今だからこそ観るべき“戦争巨篇”『遠すぎた橋』
1977年の夏休み、中1の私が公開を待ち望んでいた作品があった。それが本作『遠すぎた橋』である。 その年の春頃から、配給元が大々的にプロモーションを展開。ジョン・アディスンによる、いかにも戦争大作のテーマといった風情の勇壮なマーチも、ラジオ番組などで頻繁に耳にしていた。「史上空前の製作費90億円」「世界の14大スーパースターが結集」「すべてが超弩級。壮大な歴史を舞台にした戦争巨篇」 数々のきらびやかな惹句に、映画少年になりたての私の心はワシづかみにされた。また当時としては珍しく、B5判のチラシが3種類も作られて映画館などで配布されていたのも、本作の“超大作”感を際立たせた。 そうしたチラシなどに記された、本作で取り上げられるオペレーションの説明も、興奮を高めた。 ~〔マーケット・ガーデン作戦〕それは、連合軍、最大の、空陸大作戦。規模において、壮絶さにおいて、[ノルマンディ作戦]を遥かに凌ぐという。その厖大な史実が、いま白日のもとに~ [ノルマンディ作戦]と言えば、映画ファン的には、『史上最大の作戦』(62)である。あれを凌ぐとは、どれほどのものなのだろうか? 日本版のチラシやポスターでは、「14大スター」の中でも強く押し出されていたのが、ロバート・レッドフォード。『明日に向って撃て!』(69)でスターダムにのし上がって以降、70年代は『追憶』(73)『スティング』(73)『大統領の陰謀』(76)等々の話題作に次々と出演し、押しも押されぬ大スターとして、日本でも絶大な人気を誇っていた。 さて7月に公開されると、本作はその夏の映画興行では本命作品だった、『エクソシスト2』や『ザ・ディープ』などを上回る成績を上げた。配給収入にして、19億9000万円。興収に直せば40億円前後という辺りで、文句なしの大ヒットであった。 しかし私を含め、当時実際にスクリーンで本作に対峙した者たちは、一様に同じような違和感を抱いた。何か、思っていた戦争映画とは、違う…。 *** 第2次世界大戦のヨーロッパ戦線。ノルマンディ上陸作戦の成功で、連合軍の優勢へと、戦況は大きく傾いた。その3か月後の1944年9月、イギリスの最高司令官モントゴメリー元帥が中心になって、ドイツが占領するオランダを舞台にした、「マーケット・ガーデン作戦」の実行を決定する。 それは5,000機の戦闘機、爆撃機、輸送機、2,500機のグライダー、戦車はじめ2万の車輛、30個の部隊、12万の兵士を動員するという、史上空前の大作戦。ネーデル・ライン川にかかるアーンエム橋を突破して、一気にヒトラー率いるドイツの首都ベルリンまでの進撃路を切り開こうという目的だった。 モントゴメリーの命を受けた、イギリスのブラウニング中将から作戦の説明を受けた、連合軍の司令官たちは、戸惑いの表情を見せる。歴戦の勇士である彼らには、その作戦が無謀で危険なものであることが、わかったのである。 レジスタンスと連携して得た情報から、この作戦に疑義を示す声などももたらされた。しかしそれは無視され、作戦は決行される。 9月17日の日曜日、巨大な編成の輸送機が空を埋め尽くし、夥しい数の落下傘が、アーンエム近郊に降下。ベルギーからは無数の戦車が列をなして、アーンエムへと北上していく。「マーケット・ガーデン作戦」が、遂に始まったが…。 *** 先に記した通り本作は間違いなく、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線での、連合軍最大の空陸大作戦を描き、その厖大な史実を白日のもとに晒す内容であった。しかしそれは失敗した作戦、即ち連合軍の“負け戦”を描いたものだったのだ。 原題「A BRIDGE TOO FAR」をほぼ直訳した邦題である、『遠すぎた橋』。これは作戦が目標としたアーンエム橋が、連合軍にとっては「遠すぎた」という、かなりストレートに、本作の内容を表している。 勇猛果敢な兵士たちの活躍を描くような、スポーティなノリの戦争映画を期待していると、もろにハズされる。プロモーションにある意味騙されて映画館に足を運んだ我々は、完全にそんな感じだった 大々的に“主演”と謳われていた、レッドフォードにも吃驚させられた。175分という上映時間の中で、作戦を決行する見せ場ではあったものの、彼が実際に登場するのは、たった十数分間だけだったのだ。 レッドフォードのギャラが「6億円」であるのをはじめ、14大スターの高額ギャラも話題だった本作。製作費90億円で3時間近い長尺であることが、「高すぎた橋」「長すぎた橋」などと、やがて揶揄の対象にもなっていった。 中1の自分にとっては、「期待はずれの戦争大作」だった『遠すぎた橋』。しかしそれから44年経った今年=2021年の夏に、久々に鑑賞すると、別の感慨が湧き上がってきた。その詳しい内容は後に回して、先に本作の成り立ちについて、記したい。 「90億円」を調達して本作を実現したプロデューサーは、ジョゼフ・E・レヴィン。映画業界に於いて大々的な宣伝手法を確立した人物であり、『卒業』(67)や『冬のライオン』(68)などで知られる、アメリカ人プロデューサーである。 本作の監督リチャード・アッテンボローによると、彼の初監督作である『素晴らしき戦争』(69)を、レヴィンがわざわざロンドンまで観に来て激賞したことから、縁が出来た。そしてレヴィンは、「史上最大の作戦」の原作や「ヒトラー最後の戦闘」など、第2次世界大戦の戦史に関する作品で知られるジャーナリスト、コーネリアス・ライアンが1974年に上梓した「遥かなる橋」を映画化するに当たって、アッテンボローに白羽の矢を立てる。「マーケット・ガーデン作戦」について行った膨大な取材をまとめ、邦訳にして上下巻合わせて600頁近くに上る「遥かなる橋」を読んだアッテンボローは、そのスケールが大きすぎるため、まずこんな疑問を抱いたという。本当に映画化できるのか? 作戦の詳細が複雑すぎるのも、悩ましかった。上空から地上、東から西へと、作戦の舞台が頻繁に変わっていく。観客にわかるように作るには、どうすれば良いのか? そこで思い付いたのは、シーンと登場人物を結び付けることだった。例えば橋を陥落するための決死の渡河作戦のシーンの主人公は、レッドフォードが演じるクック少佐、敵弾に倒れた上官の命を救うために、ジープで敵陣を突破するシーンは、ジェームズ・カーンのドーハン軍曹といった具合に。そうすることで観客は、登場人物と共にその場面を即座に思い出すことが可能になり、話の展開を理解できるようになるというわけだ。 因みに本作の脚本は、ウィリアム・ゴールドマン。『明日に向って撃て!』と『大統領の陰謀』で、2度アカデミー賞を受賞している彼は、本作執筆に当たって、まずは原作のエピソードを、アメリカ、イギリス、ドイツと国別に分類して整理。小さな紙きれを用意して、関係各国の状況や出来事を、事細かに書き込んでいった。 そうした上で、ここはジーン・ハックマン演じる、ポーランドのソサボフスキー中将の出番だなとなったら、ポーランドの欄に目をやり、使う話を選ぶ。そうやって、史実に基づいた内容を盛り込んでいった。 ゴールドマンはこの作業を繰り返して、膨大な原作を解体・再構成。脚本を書き上げたのである。 因みにシーンと登場人物を結び付けて観客に理解させるためにも不可欠だった、大スターたちの出演交渉は、主にアッテンボローの担当だったという。大金を持って、何人ものスターの元を訪れた。脚本家のゴールドマン言うところの「爆撃」を以て、ショーン・コネリーやマイケル・ケイン、ダーク・ボガート等々を、次々と陥落した。 しかしアッテンボローは、俳優として『大脱走』(63)『砲艦サンパブロ』(66)で共演し、親しくしていたスティーヴ・マックィーンの出演交渉には、失敗。彼がギャラを「9億円」要求したため、折り合いがつかなかったと言われる。結局マックィーンの代わりに出演が決まったのは、「6億円」のレッドフォードだった…。 撮影現場にリアリティーをもたらすためには、アッテンボローは、演技ではない“本物”が必要と考えた。そこで彼は、100名のイギリス人若手俳優たちに、クランクイン前の数週間、訓練を施すことにした。 それは、お茶の飲み方から銃器の取り扱いまで、兵士らしい立ち居振る舞いができるようにする特訓。「アッテンボローの私有軍隊」と謳われた、この若手俳優たちが撮影現場に居ることで、スタッフから大スターたちまで、「ヘタなマネはできない」という、良い緊張感が生み出されたという。 実際に「マーケット・ガーデン作戦」に参加して、本作にも実名で登場する英米の司令官や指揮官を、テクニカル・アドバイザーとして現場に招いた。これもまた、戦場や軍のリアリティーを強めるのに、寄与した。 戦場を再現するための、CGなき時代の大物量作戦も凄まじい。ヨーロッパ各国の軍隊や博物館、美術館からコレクターまで協力を得て、大量の戦車や軍用機を調達。使用した火薬量は、19,250㎏にも及んだという。 圧巻なのは、オランダ陸軍空挺部隊の協力を得て撮影された、大規模な空挺降下のシーン。風の影響などもあって、想定通りには進まないこのシーンを撮るためには、19台のカメラが用意された。その際に活躍したのは、ドキュメンタリーのカメラマンたち。何が起こっても即応し、フィルムに収められる者を集めたのである。 光学合成などの後処理が行われた部分はあるものの、スピルバーグの『プライベート・ライアン』(98)で、戦争映画の描写が決定的に変わってしまうよりも、21年も前の作品。当時としては、考え得る限りのリアリティーを求める試みが、為されたと言える。 それだけの巨額と物量を投じて、アッテンボローは自覚的に「反戦映画」として、『遠すぎた橋』を作っている。ヒトラーの殲滅という大義はあろうとも、「戦争は、最低の最終手段」であり、「いかなる理由や目的があっても、武力行使は人間としての良識を欠いた、自尊心を否定する行為」という主張なのである。 そして本作はまた、アッテンボロー版の「失敗の本質」とも言える。本作に於いては、作戦の実行者であり責任者として描かれるのは、ダーク・ボガート演じるフレデリック・ブラウニング中将。彼は作戦を決行する上で、都合の悪いデータは見なかったことにして、その報告者は左遷してしまう。作戦の明らかな失敗を受けても、「われわれは遠すぎた橋に行っただけだ」と嘯くのみだ。 この辺りのブラウニング中将の描き方は、その家族や関係者から、抗議を受けたり、不快感を示されたりもしたという。しかしアッテンボローは、徹底したリサーチの上で、自分たちの判断を示したと、揺るがなかった。 実際のところで言えば、「マーケット・ガーデン作戦」の発案者且つ最高責任者は、先に記した通り、イギリスのモントゴメリー元帥。映画の製作中はまだ存命であったために、このような描写になったとも言われる。本作には俳優が演じるモントゴメリーは、登場しない。 因みにモントゴメリーはその著書で、「マーケット・ガーデン作戦」を次のように回顧している。「…オランダの大部分を開放し、それにつづくラインランドの戦闘で成功を収める飛び石の役割を果たしたのである。これらの戦果を収めることができなかったら、一九四五年三月に強力な軍をライン河を越えて進めることはできなかったであろう…」 その上で彼は作戦を、「90%は成功」と強弁したとされる。 中1で『遠すぎた橋』を鑑賞した時は、後に非暴力主義の偉人を描いた『ガンジー』(82)や、南アフリカでのアパルトヘイトを告発する『遠い夜明け』(87)を製作・監督することになるアッテンボローの本意を、読み取ることが出来なかった。しかし時を経て次第に、彼が描きたかったものに思いを致せるようになっていくと、本作を観る目も変わっていった。 そしてこの夏、新型コロナ禍の中で「TOKYO2020」なるイベントの強行を、私は目にすることとなった。『遠すぎた橋』に於ける、「都合の悪い情報は無視」「部下たちに忖度させる」「責任は決して取ろうとしない」指揮官の姿は、更に趣深く映るようになったのである。■
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COLUMN/コラム2020.05.07
映画監督イーストウッドの評価を決定づけた、「最後の西部劇」。『許されざる者』
本作『許されざる者』は、1992年に本国アメリカで公開されるや、大ヒットになると同時に、高い評価を受けて、数々の映画賞を受賞。「第65回アカデミー賞」では9部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、助演男優賞、編集賞の4部門を獲得した。 製作・監督・主演を務めたのは、クリント・イーストウッド。主演男優賞こそ、『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(92)のアル・パチーノに譲ったが、作品賞と監督賞の2つのオスカー像を掌中にしたのである。 今やハリウッドを代表する“巨匠”と誰もが認めるイーストウッドの作品が賞レースに絡むことは、近年では当たり前となっている。しかし本作を撮る頃までは、だいぶ事情が違っていた。アメリカ国内に於いて彼の作品への評価は、不当なまでに低かったのだ。 マカロニ・ウエスタンでの“名無しの男”や『ダーティハリー』シリーズでのハリー・キャラハン刑事に代表されるような、“アクションスター”というイメージが強かったせいもあるだろう。彼の監督作や出演作に、“マッチョイズム”“性差別”“タカ派”的な部分を見出し、それを忌み嫌う映画評論家などが少なからず存在したことも、マイナスに作用したと思われる。 むしろ評価されたのは、国外の方が早かった。映画評論家の蓮實重彦氏はその様を、『許されざる者』の劇場用プログラムで、次のように記している。 ~時代はようやくイーストウッドに追いつこうとしている。あと数年で映画百年を迎える二〇世紀も暮れ方になってから、アメリカのジャーナリズムも、この偉大な映画作家の存在を遅まきながら認知し始めたようだ…~ ~…『許されざる者』の監督がまぎれもなく日本で発見された作家であり、ヨーロッパは十年遅れで、アメリカでは二〇年遅れでその偉大さに気づいたにすぎないとだけはいっておきたい気がする…~ 日本の映画ジャーナリズムに於いて、蓮實氏や山田宏一氏のような重鎮が、イーストウッドの監督作品を早くから評価していたことは、紛れもない事実である。それは実在のジャズサックス奏者チャーリー・パーカーの音楽と生涯を、フォレスト・ウィテカー主演で描いた、イーストウッドの製作・監督作『バード』(88)が、フランスの「カンヌ国際映画祭」などで高く評価されるよりも、「早かった」という主張でもある。 何はともかく、イーストウッドの初監督作『恐怖のメロディ』(71)から二十年余。16本目の監督作にして、4本目の“西部劇”である『許されざる者』は、彼の作品としては初めて「アカデミー賞」の主要部門の対象となり、見事な“大勝利”を収めたわけである。 『許されざる者』の舞台となるのは、1880年のワイオミング。イーストウッド演じる主人公ウィリアム・マニーは、かつて列車強盗や冷酷な殺人で悪名高き男だったが、善良なる妻の愛によって改心し、足を洗った。 そんな妻を3年前に天然痘で亡くなり、マニーはまだ幼い2人の子どもを育てながら、豚の肥育や耕作を行っていた。しかしいずれも順調とは言えず、老齢期に差し掛かったマニーには、厳しい日々が続いていた。 ある日“スコフィールド・キッド”と名乗る、若いガンマンが訪ねてきた。町で娼婦の顔をナイフでメッタ切りにした牧童2人の首に、仲間の娼婦たちが1,000㌦の賞金を懸けた。その賞金を稼ぎに行こうという、誘いだった。キッドは人伝に、かつてのマニーの悪逆非道な凄腕ぶりを耳にして、協力を求めに来たのである。 一旦はその誘いを断ったマニーだったが、生活の苦しさから、11年振りに銃を手に取ることを決意する。老いて馬に乗ることさえやっとだった彼は、かつての相棒ローガン(演;モーガン・フリーマン)も誘い、キッドの後を追う。 2人の牧童を狙って町には、伝説的殺し屋であるイングリッシュ・ボブ(演;リチャード・ハリス)なども現れる。しかしそんな彼らの前に、手荒なやり方で町を牛耳る保安官(演;ジーン・ハックマン)が、立ち塞がるのだった…。 劇場公開時以来何度も観ているが、陰惨な印象がいつも強く残る。まずは、物語の発端となる事件を起こした2人の牧童。娼婦の顔を切り刻んだ“実行犯”の方はともかく、もう1人は、仲間のご乱行に巻き込まれただけ。なぜ命を奪われるのか?本人もわかっていない感が強い。 そして“殺し”の旅に出向きながらも、「過去の自分と違う」「真人間になった」ことを幾度も強調する、マニー。しかしいざとなったら、誰よりも躊躇なく、人を撃ち殺すことが出来た。 その時、昔のように人を撃つことは出来なくなっていた仲間のローガンは、改めて理解する。マニーが運命的なまでに根っからの“殺し屋”であることを。だからこそいち早く、その場から立ち去ろうとする。そして保安官の仲間に捕まり拷問を受けると、マニーが保安官たちを殺しに来ることを、予言する。 実際にマニーは、それを耳にすると、“復讐”を果しに町に戻る以外、取る道はないのである。 『許されざる者』は、「勧善懲悪」などとは程遠い世界観で綴られる。保安官は、己の町を守るという「正義」のために、“暴力”を行使していた。しかしそれは、娼婦たちの人間としての尊厳を踏みにじり、マニーの相棒の命を奪うこととなる。 保安官にとっては「正義」だが、マニーにとっては、「悪党め」と吐き捨てるしかない行為である。「正義」と「悪」の境界線など、あくまでも主観的で、曖昧なものなのだ。 そして“暴力”は、どこまでも連鎖していく…。 思えばイーストウッドは、ずっとずっとそうであった。『荒野の用心棒』に始まる、イタリアでセルジオ・レオーネ監督と組んだ“ドル箱三部作”(64~66)に於ける“名無しの男”。その“原作”となった黒澤明監督の『用心棒』(61)と一線を画すのは、黒澤作品の主人公が持ち合わせていた“正義感”のようなものが、“名無しの男”には極めて乏しいことである。 またアメリカに戻ってからの決定打となった、『ダーティハリー』シリーズ(71~88)。イーストウッドにとって、“師”であるドン・シーゲルのメガフォンによる第1作からして、主人公のキャラハン刑事は、彼が対峙する殺人者と、「紙一重」なのである。シリーズを通じても、ハリーの持つ「正義」は常に揺らぎ続ける。自らメガフォンを取った83年の第4作では、レイプ犯に復讐を果たした連続殺人犯を、己の裁量で見逃すに至る。 そんなイーストウッドが、『許されざる者』の物語に惹かれたのは、無理もない。陰惨で居心地の悪い佇まいの作品ではあるが、長年イーストウッド作品に触れてきた観客にとっても、彼が“殺し屋”であったことは、説明されるまでもなく、「知っている」わけであるし。 この作品が、製作される直前の89年に亡くなったセルジオ、91年に亡くなったドンに捧げられているのも、至極納得がいく話だ。 さて、自らには物語を作り出す資質はないことを認めるイーストウッド。では彼はいかにして、『許されざる者』の物語を手に入れ、“映画化”に至ったのか? 元となった脚本は、あの『ブレードランナー』(82)を手掛けたことで知られる、デヴィッド・ウェッブ・ピープルズが、1976年に書き上げた「切り裂かれた娼婦の殺し」。後に「ウィリアム・マニーの殺し」と改題され、80年代初頭には、フランシス・フォード・コッポラ監督が、“映画化権”を持っていた。 それはその後イーストウッドの手に渡り、80年代半ばには映画化の企画を立ち上げた。しかし先に、同じ“西部劇”である『ペイルライダー』(85)を製作することとなり、『許されざる者』は、一旦ペンディングとなったのである。 実際に『許されざる者』の撮影に着手したのは、『ペイルライダー』の公開から6年後の91年秋。公開はその翌年となったわけだが、結果的にこのチョイスは、大正解だった。1930年生まれのイーストウッドが、足を洗った老齢のガンマンを演じるに当たっては、60歳を超えるのを待ったからこそ、説得力のある風貌とイメージを得ることが出来た。 また、時勢も彼に味方した。1970年代以降は何度も「終わった」ジャンル扱いされた“西部劇”だったが、1990年に公開されたケヴィン・コスナー製作・監督・主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』が、大ヒット!「アカデミー賞」でも作品賞、監督賞をはじめ7部門を受賞した直後で、“西部劇”を見直す動きが強まっていたのである。 イーストウッドは『許されざる者』の製作について、次のように語っている・ 「…わたしはただ、ぜひともこの物語を伝えたいと思っただけだ。ウエスタンという神話に、わたしなりの落とし前をつけるためにね。最後のウエスタンをつくるとしたら、これほどうってつけの作品はないだろう…」 彼が言うところの「最後の西部劇」を作るには、正に絶好のタイミングだったのである。彼が心の底から渇望したアメリカでの評価=アカデミー賞を得るためにも、これ以上にない時機であった。 それにしても、それから30年近く。齢90にならんとする現在まで、イーストウッドが精力的に作品を発表し続けるとは、さすがにその時は想像もつかなかったが…。■ 『許されざる者(1992)』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2019.02.26
アメリカ「唯一の敗戦」で生じた、“MIA問題”のリアルな顛末〜『地獄の7人』〜
本作『地獄の7人』には、映画の内容以上に強烈な思い出がある。 1983年に製作されたこの作品は、同年にアメリカで公開されて、日本公開は翌84年の6月だったから、多分その直前の話。ラジオ局のプレゼントでホール試写が当たった私は、友人と2人で出掛けた。 映画が終わった直後、ちょっと興奮した私たちがこの映画について語っていると、やはり客席に居た白人の男性から、こんな言葉を浴びせられた。 「ダガ、アナタタチハ、センソウノゲンジツヲ、シラナイ」 穏やかながら痛烈な口調に、私たちは吃驚して、暫し沈黙せざるを得なかった…。 ********** アメリカ合衆国の歴史上で、「最大級の汚点」とされる、“ベトナム戦争”。ソ連との冷戦時代、「ベトナムの共産化を阻止する」という名目で、アメリカは南ベトナム軍を支援し、1965年から本格的に軍事介入を行った。しかし、北ベトナム軍及び南ベトナム解放戦線との戦闘は長期化し、戦況は泥沼化の一途を辿っていく。 次第に劣勢に追い込まれたアメリカ軍は、73年に撤退を余儀なくされる。これを、アメリカの対外戦争に於ける、「唯一の敗戦」と見なす者も多い。 アメリカ兵の戦死者・行方不明者は、5万8,000人。国家の威信は大きく揺らぎ、若者たちは深く傷ついた…。 映画は「社会の鏡」である。アメリカ映画に於いて、“ベトナム戦争”がどのように描かれているかの変遷は、そのままアメリカ社会や世相の変化を表している。 西部劇の大スターにして、ハリウッドを代表するタカ派のジョン・ウェインが、1968年に監督・主演した『グリーン・ベレー』は、娯楽映画の衣を纏いながら、アメリカによるベトナムへの軍事介入の“大義”を高らかに謳い上げる、プロバガンダ作品だった。 しかしほぼ同時期、ベトナム戦争を一つのきっかけとして、それまでの権威が大きく崩れていく。そして、既成の権威に牙を向く、“アメリカン・ニューシネマ”の時代が訪れる。“ニューシネマ”の中では、例えば朝鮮戦争を舞台とする、ロバート・アルトマン監督の『M★A★S★H マッシュ』(70)や、ラルフ・ネルソン監督の西部劇『ソルジャー・ブルー』(70)のような作品の中で、“ベトナム戦争”を暗に批判した描写が見られるようになる。 “ニューシネマ”が終焉を迎えた後、1978年は、“ベトナム戦争”をテーマにした作品のエポックメーキングと言える年となった。アメリカの田舎町から戦場に向かった若者たちの運命を描く、マイケル・チミノ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の『ディア・ハンター』、ジェーン・フォンダ扮する軍人の妻と、ジョン・ボイトが演じる半身不随となったベトナム帰還兵との愛を描く、ハル・アシュビー監督の『帰郷』。この2本が公開されたのだ。 『ディア・ハンター』はその年度のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、助演男優賞、音響賞、編集賞の5部門、『帰郷』は、脚本賞、主演男優賞、主演女優賞の3部門を受賞した。1978年は、ベトナム戦争を題材とした“反戦映画”が、他を圧した年となったのである。 『ディア・ハンター』では、平穏な日常と戦場のギャップが強烈に描かれたが、ベトナムの戦場のリアルをスクリーンに映し出す試みは、その後も連綿と続いていく。『地獄の黙示録』(79)『プラトーン』(86)『フルメタル・ジャケット』(87)『カジュアリティーズ』(89)等々。 『帰郷』のように帰還兵を題材とした作品としては、オリバー・ストーン監督、トム・クルーズ主演の『7月4日に生まれて』(89)が、その後の代表的な作品として挙げられる。しかし一方で、そうした存在を主人公にした、B級テイストのアクション映画も、頻繁に製作されるようになる。 『ローリング・サンダー』(77)『ドッグ・ソルジャー』(78)『エクスタミネーター』(80)等々。その究極の形とも言えるのが、82年に公開された、シルベスター・スタローン主演の『ランボー』第1作である。 因みに、当初その先駆けのように言われたのが、76年公開の最後の“ニューシネマ”『タクシードライバー』。しかし、デ・ニーロが演じた主人公トラヴィスは、その誇大妄想狂ぶりや虚言癖から、彼が自称する「ベトナム帰りの元海兵隊員」というのは、「信じ難い」というのが、今日では有力な説になっている。 そして“戦争アクション”という形で、80年代の半ば近くから、次々と製作・公開されるようになるのが、いわゆる“MIAもの”である。「MIA」とは、Missing in Action=「戦闘後の行方不明兵士」を意味する言葉。 では“MIAもの”とは、一体どんな内容の作品なのか?それについては、『ランボー』に続いてのテッド・コチェフ監督作品であり、このジャンルの口火を切った本作、『地獄の7人』のストーリーを紹介するのが、手っ取り早いと思う。 主人公はジーン・ハックマン演じる、退役軍人のローズ大佐。10年前にベトナム戦線で行方不明=MIAとなったひとり息子の行方を捜し求めている。 アメリカ政府から何ら有力な情報がもたらされることがない中、独自の調査で、ベトナムの隣国ラオスに在る捕虜収容所の空中写真を入手。アメリカ兵の捕虜らしき影を、そこに見出す。 ローズは自分と同じく、息子がMIAとなっている富豪から資金援助を得て、自らがリーダーとなり、救出作戦を強行することを決意する。そのために彼は、息子の戦友たちを訪ね歩き、協力を求める。 ベトナムからの帰還後、実業家として成功を収めた者が居る一方で、戦場の悪夢にうなされ続ける者も居る。大佐を含めて、集まった者は、“七人”。実戦の勘を取り戻し、作戦を成功させるための猛訓練が数週間に渡って行われた後、チームは勇躍、タイのバンコクへと旅立つ。 ここからラオスを目指す算段だった“七人”だが、そこで思わぬ邪魔が入る。ベトナムやラオスとのトラブルを恐れ、密かに彼らの監視を続けていたCIAによって、用意した装備がすべて、没収されてしまったのである。 しかし彼らは諦めず、麻薬バイヤーの中国人の力を借りて、中古の銃火器を調達。陸路で目的地へと向かう。 ラオスとの国境で、まずは一戦を構えた一行。犠牲を出しながらも、国境警備の兵士を全滅させて、ラオスへの入国を果たした。 そして遂に、目的地の捕虜収容所に達し、アメリカ兵の捕虜4名の存在を確認。ラオスの大地を血に染める、地獄の救出作戦を開始する…。 本作の翌年以降に公開されて、むしろ本作よりも知名度が高い“MIAもの”『ランボー/怒りの脱出』(85)や、チャック・ノリス主演の『地獄のヒーロー』シリーズ(84~88)も、ベースとなる展開はほぼ同じ。主人公は正規の外交交渉を飛び越え、アメリカ兵捕虜が囚われている収容所に乗り込んで救出作戦を展開。殺戮と破壊の限りを尽くす。 では80年代、なぜこうした“MIAもの”が数多く製作・公開されたのか?大きな理由の一つに挙げられるのが、1981年にロナルド・レーガンが、アメリカ大統領に就任したことである。 俳優出身で、“グレート・コミュニケーター=偉大なる伝達者”の異名を取ったレーガン大統領。ソ連など共産陣営との対決姿勢を強め、2期8年の任期=即ち80年代のほとんどに渡って、「強いアメリカ」の復活を鼓舞した。まるで、ベトナム戦争の「敗戦」という、悪夢を吹き飛ばすかのように。 そこに呼応するかのように製作されたのが、“MIAもの”だった。アメリカ国内には以前から、ベトナム領内には戦争捕虜が残されているとの見方が根強くあったが、強硬なタカ派的な姿勢が強いレーガン政権の下では、自国民を取り戻すためには、「実力行使も辞すべきではない」という考え方が、自然と強まったわけである。 レーガン政権誕生直前、中東のイランでイスラム革命が起こり、1979年から81年に掛けて、在イラン・アメリカ大使館の外交官たちが人質に取られるという事件があったことも、“MIAもの”の製作を、後押しした。まるで、アメリカ国民の間に溜まった、大きなストレスを晴らすかのように。 では“MIA”の現実は、どのようなものだったのか?果してベトナムやその周辺に、囚われのアメリカ兵は居たのであろうか? ベトナム戦争はアメリカ軍撤退の2年後、1975年のサイゴン陥落で終結。その後アメリカとベトナムが、“国交正常化”を目指した交渉を始めるまで、10年以上の歳月を要した。 87年に両国は、“MIA”調査の進展とベトナムへの人道援助の開始で合意。91年には協力促進のため、アメリカ側の常設事務所が、ベトナムのハノイに設けられた。 その後、両国の国交は95年に正常化されるが、ベトナム側はその前後=91年から2019年までの28年間に、972体に及ぶアメリカ兵の遺骨を発見・発掘。アメリカへの返還を果たしている。更には、いまだ不明者として登録されているアメリカ兵1,597人の捜索に、毎年100億円以上の予算を注ぎ込んでいる。 この事実は即ち、少なくともベトナム国内には、ジーン・ハックマンやスタローン、チャック・ノリスが乗り込んで、武力で奪還するような捕虜は存在しなかったということを表す。“MIAもの”はその前提自体が、映画上での創作に過ぎなかったわけである。 そもそもアメリカ側の戦死者・行方不明者5万8,000人に対し、国土が泥沼の戦場と化したベトナム側は、民間人を含めて300万人が犠牲となっている。そしてその内の30万人が、いまだに行方不明のままだ。 遥か東南アジアの異国で行方不明になった者を案じて、肉親や友人がその身を救おうとするドラマに、アメリカの観客が快哉を叫んだ理由は理解できる。一概に戦死者や行方不明者の数を比較することにも、大きな意味があるとは思えない。 しかし焦土と化した地に、かつての“侵略者”側が再び乗り込んで来て、軍事作戦を慣行。数名の生存者を救うために、何十名・何百名という罪もない兵士を血祭りに上げる展開には、正直ついていけない部分を感じる。 84年の初夏、『地獄の7人』の試写に赴いた私は、同行の友人と共にその部分に大いに引っ掛かり、鑑賞直後には些かエキサイトして、この映画について批判を述べ合ったのである。そこに冷え水を浴びせるかのような、白人男性の一声。 「ダガ、アナタタチハ、センソウノゲンジツヲ、シラナイ」 彼がアメリカ人だったかどうかもわからないが、ベトナムからの帰還兵であってもおかしくない年代ではあった。しかし今となっては、日本人の少年2人に、何であんな声を掛けてきたのか、その心情は想像するより他にない。◼︎ TM, ® & © 2019 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2014.09.30
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2014年10月】にしこ
1950年代から1960年代にかけて、アメリカで人種差別の撤廃を求めて行われた公民権運動。白人公民権運動家2人と彼らが保護した1人の黒人青年が、ミシシッピ州で行方不明になる。この事件に動いたFBIからウィリアム・デフォーとジーン・ハックマン演じる2人の捜査官がミシシッピに送られる。事件の真相に近づけば近づくほどに、彼らは想像を絶するほどの非人道的な差別と対峙する事になり…失踪事件の捜査とうい一級のサスペンスでありながら、60年代、南部で横行していた差別主義者による黒人差別がいかに非人道的で、許しがたいものであったかを「目をそらすな」という強いメッセージと共に観る者に訴えかける傑作です。差別を生む要素が決して単純なものでない事を説得力をもって語るジーン・ハックマンの演技が光ります。 MISSISSIPPI BURNING © 1988 ORION PICTURES CORPORATION.All Rights Reserved