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COLUMN/コラム2023.07.04
パク・チャヌクが描いた、「ヴァンパイア神父 meets テレーズ・ラカン」『渇き』
本作『渇き』は、2009年の作品。パク・チャヌク監督が、『JSA』(00)、そしていわゆる“復讐三部作”『復讐者に憐れみを』(02)『オールド・ボーイ』(03)『親切なクムジャさん』(05)などを経て、韓国映画界のTOPランナーの一人として、十分な名声を得た後に発表した作品である。 しかしその構想は、『JSA』の頃には既にあった。またそのアイディアの原点は、監督の少年時代にまで遡るという。 幼い頃は、カトリックの信者だったというチャヌク。毎週教会に通っており、聖職者に関心があった。 しかし高校生の時に、知人の神父が父親を訪ねてきたのが、転機になる。神父はチャヌクの熱心さを見て、神学校に通わせるのを薦めた。しかし当の本人には、結婚願望があったのだ。 生涯妻帯を許されず、即ち童貞のまま生きていかねばならない。そんな“神の道”を、チャヌクは選ぶことはできず、結果的には、宗教から遠ざかることとなる。 しかし、聖職者という存在への興味は止むことはなかった。更に言えば、「人間の原罪」というものへの意識は、常に抱いていたという。『渇き』の根源にあったアイディアは、チャヌク曰く「…あくまでも“神父の映画”を作るというものでした。この世で最も高潔な職種と見られている神父。その中でも人一倍高潔な人類愛に溢れ、自己犠牲的な精神を持った一人の神父が、神学校時代の親友がAIDSに罹って終末期にあることを知り、新薬開発のための人体実験の素材となるべく自ら志願してパリの研究所に行く。けれどもそこで彼自身が同じ不治の病を感染してしまう…」 これはチャヌクがたまたま目にした雑誌の記事にインスパイアされて、浮かんだストーリー。実際にAIDS治療薬開発のための被験者を募ったところ、多くの宗教者や医師が応じたという。 そこにチャヌクが、幼少期から目の当たりにしていた光景を思い出しての、閃きが加わった。カソリックに於けるミサの儀式では、イエス・キリストの血に見立てた葡萄酒を飲む。イエスの血を毎日口にする神父が、己が生きていくために、本物の人の血を飲まなければいけなくなったら、どうなるだろうか?神父がヴァンパイアになったら、一体どんな振舞いをするのか? 考える内に、より背徳的な筋立てになっていく。人の血を求めるようになった神父は、同時に本能を抑えることができなくなり、最終的には、性的な快楽をも追及してしまう。しかしこうした構想を煮詰めていく中でも、神父が愛してしまう女性像というのが、なかなか明確にはならなかった。 本作は当初、“復讐三部作”にピリオドを打った、『親切なクムジャさん』の前後に撮影が予定されていた。しかしそんなこともあって、製作が延び延びになっていく。 同時にチャヌクには、別にやりたい企画が浮かんでいた。それは19世紀のフランスの文豪エミール・ゾラの小説「テレーズ・ラカン」。 愛人と結託して、病弱な夫との不幸な結婚生活にピリオドを打ちながらも、良心の呵責から、やがて愛人共々破滅へと向かう若い女性テレーズの物語である。サイレントの頃から、時にはアレンジを加えながら、幾度か映像作品が製作されてきたこの物語だが、チャヌクは19世紀のパリを舞台に、原作に忠実な映画化を構想した。 ヴァンパイア神父と「テレーズ・ラカン」の融合を思い付いたのは、女性プロデューサーのアン・スジョンだった。『渇き』を作るお膳立てはとうに出来ているのに、別の企画ばかり優先しようとするチャヌクに対して、彼女の焦りもあったのかも知れない。 しかしこのミクスチャーは、チャヌクにとっても腑に落ちるものだった。すべてのパズルがハマって、いよいよ本作は製作に至ったのである。 ***** 孤児院出身で、謹厳実直なカソリックの神父サンヒョン。病院で重病患者を看取ることに無力感を募らせた彼は、アフリカの荒野に佇む研究所に向かう。 そこでは、死のウィルスのワクチン開発が進められていた。サンヒョンは、その実験台を志願したのだ。 発病し死に至った彼だが、提供者不明の輸血で、奇跡的に復活。ミイラ男のような姿で帰国し、“包帯の聖者”と崇められる。 サンヒョンは幼馴染みのガンウと、期せずして再会。彼の家に出入りするように。 ガンウの家族は、一人息子の彼を溺愛する母親のラ夫人と、妻のテジュ。地味で無愛想なテジュだったが、あどけなさの中に不思議な色香を漂わせ、サンヒョンの心は掻き乱される。 実はサンヒョンの身には、恐ろしい異変が起こっていた。人の血を吸わなければ生きていけない、ヴァンパイアになっていたのだ。しかし神父の身で、人殺しはできない。彼は病院に忍び込んでは、昏睡中の入院患者の血をチューブで吸って、飢えをしのいだ。 太陽光を浴びられないなどの不自由さと引換えに、驚異的な治癒能力や、跳躍力などを身に付けたサンヒョンは、お互いを強く意識するようになったテジュと、やがて男女の仲になる。サンヒョンの正体を知って、一時は恐れおののいたテジュだったが、2人の関係はどんどん深みにはまっていく。 やがては己の幼馴染みで、テジュの夫であるガンウに強い殺意を抱くようになったサンヒョン。彼はテジュと共に、越えてはならない一線を、ついに踏み越えてしまう…。 ***** マザコンで病弱な夫に仕え、義母の営む服店で働くテジュの設定は、「テレーズ・ラカン」とほぼ同じ。サンヒョンとテジュが共謀し、ボート遊びに誘ったガンウを溺死させる件や、その後病に倒れて口がきけなくなったラ夫人の目線に、2人が脅かされる展開など、小説をベースにしている部分は多い。 本作の最初の構想が浮かんだのは、ちょうど『JSA』を製作していた頃。撮影の合間にその内容を一番初めに話した相手は、ソン・ガンホだったという。そんなこともあって、ガンホが本作の主演を務めるのは、どちらからともなく自然に決まっていた。 ガンホは10㌔減量。神父にしてヴァンパイアという、それまで主に欧米で映画化されてきた、数多もの吸血鬼ものの類型を脱した役作りに挑んだ。 テジュ役のキム・オクビンに、チャヌクが最初に会ったのは、知人の薦め。彼のイメージでいけば、オクビンの年齢が若すぎるため、正直なところあまり気乗りしないまま、“キャスティング”を前提としない、面会だった。 ところがいざ対面してみると、彼女の掴み所の無い、不安定な印象に魅了された。そしてもう一点、チャヌクの心を鷲づかみにしたのが、オクビンの“手”であった。 韓国では一般的に、色白で小さい手の持ち主が、美人とされる。ところがオクビンの手は、指が長くて掌も広かった。この力強い“手”が、サンヒョンのことを一度摑んだら離さないという、テジュのイメージと合致したのである。 テジュの役にオクビンの抜擢を決めると、チャヌクは彼女に、アンジェイ・ズラウスキー監督の『ポゼッション』(1981)を観るように指示した。イザベル・アジャーニの人妻が、自らの妄想が生み出した魔物とセックスするシーンがあるこの作品のように、臆病にならずに演技をして欲しいという、意図からだった。因みにテジュの衣裳が、後半で印象的な“青”となるのは、『ポゼッション』でヒロインが着ていた衣裳に対する、リスペクトの意味も籠められているという。 もっとも、“青”になるのは、それだけが理由ではない。初登場からしばらくの間、義母と夫に抑圧されながら暮らすテジュの顔色は青白い。髪にもほとんど櫛を入れることはなく、身に纏うのは、すべて地味な色の洋服。 ところがサンヒョンと出会ってから、活力を得た彼女の頬の色は、ピンクに輝くようになる。髪も整えるようになった彼女が着るのが、真っ青な服。頬の色を強調するためにも、対照的な色彩の“青”が不可欠だったわけである。 因みにサンヒョンの出で立ちにも触れると、登場時は無色で柔らかな素材の、いかにも聖職者らしい服装だったのが、ヴァンパイアになった後の服装はラフになり、ボサボサの髪型。先に挙げた通りの、役作りでの減量も効果的に、少し若返った印象に映る。 チャヌクは演出に当たっては、ヴァイオレンスとセックスをどう結合させるかを、テーマにした。暴力に馴染んでしまった官能性、そしてエロスの中にある暴力。その2つのものが完全に融合するということを、強く意識したという。 本作のポスターやチラシのメインヴィジュアルでは、オクビンが情事の時に見せるような表情をしながら、ガンホの首を絞めている。この図は本作の作品のコンセプトを、見事に表していると言える。 2000年代から10年代に掛けてのパク・チャヌク監督作品は、過剰なまでに、エロスとヴァイオレンスが溢れかえっていた印象が強いかも知れない。しかしそんな中で、『親切なクムジャさん』から『お嬢さん』(2016)に掛けての10年余で、彼の“フェミニスト”的な視点が確立していくのも、決して見落としてはならない。 チャヌクが、肉体の欲望に裏打ちされた愛の姿を特に強調して描きたかったという本作も、そうした文脈の中で語られるべき1本である。 最新作『別れる決心』(2022)では、根底に流れるものには共通性を感じさせながらも、敢えてヴァイオレンスとセックスの描写を封印してみせたパク・チャヌク監督。彼の作品には、まだまだ驚かされることが、多そうである。■ 『渇き』© 2009 CJ ENTERTAINMENT INC., FOCUS FEATURES INTERNATIONAL & MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.12.09
1980年代韓国の“闇”を斬り裂いた!№1監督ポン・ジュノの出世作!!『殺人の追憶』
1960年代生まれで、80年代に大学で民主化運動の担い手となり、90年代に30代を迎えた者たちを、韓国では“683世代”と呼んだ。そしてこの世代は、政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在となる。『パラサイト 半地下の家族』(2019)で、「カンヌ国際映画祭」のパルム・ドールと「アカデミー賞」の作品賞・監督賞などを受賞するという快挙を成し遂げた、韓国№1監督ポン・ジュノも、まさにこの世代。本人は69年生まれで、88年に大学に入ったので、あまり実感がなく、その分け方自体が「好きではない」というが。 確かに90年代、“韓国映画ルネッサンス”と言われる潮流が起こった時、彼はまだ長編監督作品を、ものしてなかった。そして2000年になって完成した第1作『ほえる犬は噛まない』は、一部で高い評価を得ながらも、興行的には振るわない結果に終わっている。 しかしプロデューサーのチャ・スンジェは、『ほえる…』の失敗をものともせず、ポン・ジュノに続けてチャンスを与えた。彼が取り掛かった長編第2作が、本作『殺人の追憶』(2003)である。 題材は、“華城(ファソン)連続殺人事件”。86年から91年に掛け、ソウルから南に50㌔ほど離れた華城郡台安村の半径2㌔以内で起こった、10件に及ぶ連続強姦殺人事件である。180万人の警察官が動員され、3,000人の容疑者が取り調べを受けたが、犯人は捕まらないまま、10年余の歳月が流れていた。 この事件はすでに演劇の題材となっており、「私に会いに来て」というタイトルで、1996年に上演されていた。ポン・ジュノはこの演劇を原作としながら、事件を担当した刑事や取材した記者、現場近隣の住民に会って話を聞き、関連資料を読み込んだ。 そして自分なりに事件を整理してみたところ、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」という。この作業に半年掛けた後、脚本の執筆は、1人で行った。 因みに63年生まれで、ポン・ジュノよりは6歳ほど年長ながら、同じ“386世代”で、すでに『JSA』(00)でヒットを飛ばしていたパク・チャヌク監督も、「私に会いに来て」の映画化を考えていた。しかしポン・ジュノが取り組んでいることを知って、あきらめたという。 “華城連続殺人事件”には、“386”の代表的な監督たちの興味を強く引く、“何か”があったのだ。 未解決の連続殺人事件を映画化するということで、スタッフとキャスト全員で追悼式を行ってからクランクインした本作。事件から10数年経って、華城は当時の農村風景が残る環境とはかなり様相が変わっており、また住民の感情も考慮して、事件現場よりも更に南部の全羅道でロケが行われた。 製作費は、30億ウォン=3億円。通常の韓国映画より、少し高い程度のバジェットであった。 ***** 1986年、華城の農村で連続猟奇殺人が発生する。被害者の若い女性は、手足を拘束され、頭部にガードルを被せられたまま、用水路などに放置されていた。 担当のパク・トゥマン刑事(演:ソン・ガンホ)は、「俺は人を見る目がある」と豪語するが、捜査は進まない。そんなある日、頭の弱い男クァンホが、被害者の1人に付きまとっていたという情報を得る。トゥマンは相棒のヨング刑事と共に、拷問や証拠の捏造まで行って、クァンホを犯人にしようとするが、うまくいかない。 そんな時にソウルから、ソ・テユン刑事(演:キム・サンギュン)が派遣されてくる。テユンは、「書類は嘘をつかない」と言い、各事件の共通性として「雨の日に発生した」こと、「被害者は赤い服を着ていた」ことを見つけ出す。更に彼の指摘通り、失踪していた女性が、死体となって発見される。 やり方が正反対のトゥマンとテユンは、対立しながら、捜査を進める。しかし有力な手掛かりは見つからず、犠牲者は増えていく。 雨で犯行の起こる日、必ずラジオ番組に「憂鬱な手紙」という曲をリクエストしてくる男がいることがわかる。その男ヒョンギュ(演:パク・ヘイル)は、連続殺人が起こり始めた頃から、村で働き始めていた。 有力な容疑者と目星を付け、現場に残された精液とヒョンギュのDNAが一致するか検査を行うことになる。しかし当時の韓国には装備がなく、アメリカに送って鑑定が返ってくるまで、数週間待たねばならない。 一日千秋の思いで結果を待つ刑事たちだったが、その間にまた犯行が起きて…。 ***** 本作の内容は、事件の実際と、それを基にした演劇と、更にはポン・ジュノの想像を合わせたものだという。例えば、被害者の陰部から、切り分けた桃のかけらが幾つも見付かったことや、捜査に行き詰まった刑事たちが霊媒師を訪ねたこと、頭の弱い容疑者が、尋問後に列車に飛び込み自殺したことなどは、“事実”を採り入れている。 有力な容疑者のDNA鑑定は、実際には、日本に検体を送って行われた。これをアメリカに変更したのは、当時の米韓の対比を描きたかったからだという。 容疑者がラジオ番組に歌をリクエストするというのは、まったくのフィクション。この設定は、原作の演劇にもあったが、その曲はモーツァルトの「レクイエム」であった。ポン・ジュノはそれを、「1980年代の雰囲気が重要」と、当時の歌謡曲である「憂鬱な手紙」に変えたのである。 因みに原作の「私に会いに来て」で、主人公の相棒の暴力刑事を演じたキム・レハと、頭の弱い容疑者役だったパク・レシクは、そのまま本作で、同じ役どころを与えられている。 本作を、典型的な“連続殺人事件もの”として作ったり、最初はいがみ合っている刑事たちが、やがて力を合わして捜査に取り組んでいく、“バディもの”として描くことも可能であった。しかし先に記した通り、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」というポン・ジュノは、韓国社会が通ってきた80年代の暗部を描くのを、メインテーマとした。 事件当時の新聞には、88年に開催が迫った「ソウルオリンピック」が大見出しとなっている下に、「華城でまた死体発見」という小さな記事が載っている。ポン・ジュノはそれを見て、妙な気がした。そして「…これは不条理ではないかと思った」という。「華城事件」で10人の女性が殺された86年から91年は、ちょうど全斗煥大統領による軍事政権に対する民主化要求運動が、全国的な広がりを見せた時代である。そしてこの頃の警察は、ド田舎の村の人々を守ることよりも、政権を守るためにデモを鎮圧することの方を、重視していた。 本作の中では、機動隊がデモ隊を取り締まるために出動している間に、事件が起こる描写がある。また夜道を歩いていた女子学生が犯人に襲われる場面は、政府の灯火管制により、村のあちこちで消灯したり、シャッターが下ろされたりして、人為的に暗闇が訪れていくのと、執拗にカットバックされる。政府が作り出した暗闇が、罪のない女子学生の命を奪う犯人を、サポートしてしまうのだ。 これぞポン・ジュノ言うところの「不条理」。「時代の暗黒が殺人事件の暗黒を覆う…」わけである。 高度成長期でもあるこの時期、稲田や畑ばかりだった農村に、工場が建てられる。それまでは村全体が一つの大家族のような繋がりだったのに、縁もゆかりもない、見も知らぬ労働者が大挙して移り住んでくることによって、“事件”が起こるという構図も、まさに時代が生んだ殺人事件と言える。 因みに我が国でも、64年の東京オリンピック前年には、5人連続殺人の“西口彰事件”や、4歳の子どもを営利誘拐目的で殺害した“吉展ちゃん事件”などが起きている。奇しくも日韓共に、五輪が象徴する時代の転換期には、猟奇的な事件が発生しているわけだ。 “西口彰事件”については、それをモデルにした、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(79)という有名な邦画がある。本作の演出に当たってポン・ジュノは、この作品を非常に参考にしたという。 本作の邦題『殺人の追憶』は、原題の直訳だ。これはデビュー作『ほえる犬は噛まない』で、「フランダースの犬」(原題)という意に沿わぬタイトルを映画会社に付けられてしまい、結果的に内容と合わないことも、興行の失敗に繋がったという反省から、ポン・ジュノ自らが付けたもの。「殺人」の「追憶」という連なりには、組合せの妙を感じる。「追憶」という言葉を使ったのは、80年代の韓国、その“暗黒”を、積極的に振り返るという、ポン・ジュノの想いが籠められているのである。 そうした想いを、具現化していくための演出も、半端なことはしない。この規模の作品では、通常3~4ヶ月の撮影期間となるが、本作は半年間。これは「冒頭とラストだけ晴で、後は曇りでなくてはダメ」という、監督のこだわりによって掛かった。特に件の女子学生が犠牲になるシーンでは、理想的な曇天を待つために、1か月を要したという。 本作は先に挙げたように、“連続殺人事件もの”“バディもの”といった、ジャンル映画に括られることから逃れているのも、特徴だ。ポン・ジュノは毎作品、「ジャンルの解体」を目指しているという。 これに関しては、『岬の兄弟』(2019)『さがす』(22)などの作品で注目を集めた片山晋三監督が、興味深い証言をしている。片山は『TOKYO!/シェイキング東京』(08)『母なる証明』(09)という2作で、日本人ながら、ポン・ジュノ監督作品の助監督を務めている。「…ジャンルを意識しないで一カット、一カットごとに映画の見え方がホラーだったりコメディだったりサスペンスだったりに変わっても成立すること、むしろその方が面白いと気づいたのが僕にとっての収穫です」 この言から、片山の『さがす』も、確かに「ジャンルの解体」を目指した作風になっていることに思い当たる。 さてここで、ポン・ジュノの期待に応えた、本作の出演者についても、触れねばなるまい。本作に続いて、『グエムル‐漢江の怪物‐』(06)『スノーピアサー』(13)そして『パラサイト 半地下の家族』(19)といったポン・ジュノ作品に主演。「最も偉大な俳優であり、同伴者」と、ポン・ジュノが称賛を惜しまない存在となっている、ソン・ガンホも、本作のトゥマン刑事役が、初顔合わせ。『反則王』(00)『JSA』(00)といった主演作で大ヒットを飛ばし、すでにスター俳優だった彼が、駆け出しの監督の作品に主演したのは、『ほえる犬は噛まない』を観て、笑い転げたことに始まる。「ポン監督に自分から電話をかけて関心を示した情熱が買われ、キャスティングされた」のだという。いち早く監督の才能を、見抜いていたわけだ。またガンホが無名時代にオーディションに落ちた際、その作品の助監督だった、ポン・ジュノに励まされたというエピソードもある。 いざクランクインし、序盤の数シーンを撮ってみると、アドリブも多いガンホに対して監督は、「野生の馬」という印象を抱く。そして彼をコントロールする方法としては、「ただ垣根を広く張り巡らしておいて、思いっきり駆け回れるようにしたうえで、放しておこう」という考えに至った。「…優れた感性と創造力、作品に対する理解力を持ち合わせている」芸術家と、認めてのことだった。 キム・サンギョンを起用したのは、ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』(02)を観てのこと。サンギョンは本作の脚本を読んで、テユン刑事に感情移入。「同じ気持ちになって猛烈に腹が立った」という。 有力な容疑者として追及されるヒョンギュ役は、パク・ヘイル。ポン・ジュノは脚本の段階から、彼の特徴的な顔を、思い浮かべていた。 ラスト、未解決に終わった事件から歳月が経ち、今や刑事を辞めて営業マンになったトゥマンが、殺人のあった現場を訪れ、自分の少し前に犯人らしき男が、同じ場所を訪れていたことを、その場に居た女の子から聞いて愕然とする。そして観客を睨みつけるような彼の顔のアップとなって、終幕となる。 これは「俺は人を見る目がある」「目を見れば、わかる」などと、本作の中で容疑者の肩を摑んでは、その顔を見つめる行為を続けてきた、トゥマンの最後の睨みである。ポン・ジュノの、「観客として映画を見るかもしれない真犯人の顔を俳優の目でにらみつけたかった」という想いから、こうしたラストになった。 実はこのシーンは、クランクインから間もなく撮られたもので、監督はガンホに、「射精の直前で我慢しているような表情でやってほしい」と演出を行った。監督曰く、ガンホは本当にあきれた顔を向けたというが、実際は何度も耳打ちで注文してはリテイクする監督を見て、「この人はこのシーンに勝負をかけているんだな」と理解。渾身の力を、注ぎ込んだという。 さて本作は公開されると、韓国内で560万人を動員。2003年の№1ヒット作となり、数多の賞も受賞した。紛れもなくポン・ジュノの出世作であり、国際的な評価も高い。20年近く経った今でも、彼の「最高傑作」であると、主張する向きが少なくない。 ここで“華城事件”の終幕についても、触れたい。2019年になって、真犯人が浮上した。その時56歳になっていた、イ・チュンジェという男。 94年に、妻の妹を強姦殺害した罪で、無期懲役が確定し、24年もの間服役中だった。改めてのDNA鑑定の結果、彼が真犯人であることが確定したが、一連の事件はすべて「時効」が成立していた。 ここで改めて注目されたのが、警察の杜撰な捜査。容疑者の中には自殺者が居たことも記したが、特に酷かったのは、10件の殺人の内、1件の犯人として逮捕され、20年もの間収監されていた男性が居たことである。 本作『殺人の追憶』が、事件の解決には役立ったのかどうかは、明言できない。しかし、あの時代の“闇”を、紛れもなく斬り裂いていたのだ。■ 『殺人の追憶』© 2003 CJ E&M CORPORATION, ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.09.02
歴史的事実をベースに、まさに“韓国の至宝”のための脚色!?『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』
1979年10月26日。韓国で朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が、側近によって暗殺された。 最近ではイ・ビョンホン主演の『KCIA 南山の部長たち』(2020)でも描かれたこの事件で、16年間に及ぶ“軍事独裁政権”は終焉を迎え、それまで弾圧されていた、“民主派”の人々が表舞台へと現れた。いわゆる、「ソウルの春」である。 しかし、それから2ヶ月も経たない12月12日、暗殺事件の戒厳司令部合同捜査本部長だった軍人の全斗煥(チョン・ドファン)が、“粛軍クーデター”を起こして、全権を掌握。翌年=80年5月17日には全国に戒厳令を発布し、野党指導者の金泳三(キム・ヨンサム)氏や金大中(キム・デジュン)氏らを軟禁し逮捕した。 強権的な“軍事独裁”の再来に対して、学生や市民は抵抗。金大中氏の地元全羅南道の光州(クァンジュ)市でも、学生デモなどが行われたが、戒厳軍は無差別に激しい暴力で応じ、21日には実弾射撃に踏み切った。そして27日、光州市は完全に制圧された。 一連の過程の中で、市民や学生の中には、死傷者が続出。これが世に言う、“光州事件”のあらましである。 本作『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』(2017)は、ノンポリの傍観者だった小市民が、偶然の出来事から、韓国近現代史の重要な節目となったこの事件に、対峙せざるを得なくなる物語である。 ***** キム・マンソブは、11歳になる娘を男手一つで育てている、ソウルの個人タクシー運転手。出稼ぎ先のサウジアラビアで重労働に従事したこともある彼は、業務中にデモ行進による渋滞などに巻き込まれると、「デモをするために大学に入ったのか?」「この国で暮らすありがたみがわかってない」などと、舌打ちするような男だった。 家賃や車の修理代にも事欠くマンソプは、ある日タクシードライバーの溜まり場である飲食店で、これから外国人客を乗せ、光州と往復すれば、10万ウォンもの報酬が得られるという話を耳にする。マンソプは依頼を受けた運転手になりすまし、クライアントのドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターを車に乗せる。 サウジで覚えた片言以下の英語でヒンツペーターとやり取りしながら、光州に向かったマンソプ。厳しい検問を訝しく思いながら、口八丁手八丁で何とか掻い潜り、市内へと入っていく。 ヒンツペーターの目的が、光州での軍部の横暴をフィルムに収めることと知ったマンソプは、巻き込まれるのは御免と、何度もソウルに戻ろうとする。しかし光州の学生や市井の人々と親しくなると同時に、共に行動するヒンツペーターの、ジャーナリストとしての矜持に触れ、彼の中の“何か”も変わっていく…。 ***** ドイツ人俳優トーマス・クレッチマンが演じたユルゲン・ヒンツペーターは、実在のジャーナリストで、1980年の5月20日から21日に掛けて。光州市内の取材を敢行。軍事独裁政権による強力な報道規制が敷かれる中で彼がカメラで捉えた“真実”は、22日に母国ドイツの放送局で放送され、翌日以降は各国で、ニュースとして報じられた。 彼がその後制作した、“光州事件”を扱ったドキュメンタリーは、全斗煥政権が続く韓国にも、密かに持ち込まれた。そして公的には「北朝鮮による扇動」「金大中が仕掛けた内乱」などと喧伝された事件の真相を、少なくない人々に知らしめる役割を果したのである。 韓国で1,200万人もの観客を動員する大ヒットとなった本作『タクシー運転手』は、長く厳しい闘いを経て、“民主化”を遂げた現在の韓国社会に、“光州事件”の記憶を呼び起こした。そして映画公開の前年=2016年1月に78歳で亡くなったヒンツペーターと、彼の協力者だった“タクシー運転手”の存在に、スポットライトを浴びせたのだ。 本作を“エンタメ”として成立させるために、チャン・フン監督ら作り手が、些か…というか、事実よりもかなり「盛った」描写や設定の改変を行っているのは、紛れもない“真実”である。誤解のないよう付記しておくが、私はそれを批判したいのではない。歴史的事実を活かし、時には知られざるエピソードを詳らかにしながら、血塗られた近現代史を堂々たる“社会派エンタメ”に仕立て上げる、韓国映画の逞しさや強かさには、心底驚嘆している。 詳細は観てのお楽しみとするが、本作クライマックス、光州脱出行のカーチェイスは、どう考えても「ありえない」。事実をベースにした“社会派エンタメ”の最新作、リュ・スンワン監督の『モガディシュ 脱出までの14日間』(2021)でも同様な描写が見られたが、ここまで踏み切ってしまう、その果断さが、逆に「スゴい」とも言える。 そんな本作で最も劇的な脚色が行われているのは、実は主人公である“タクシー運転手”の設定である。ソン・ガンホが演じるマンソプのモデルとなったのは、キム・サボクという人物。ヒンツペーターが2003年に韓国のジャーナリスト協会から表彰された際などに、“運転手”の行方探しを呼び掛けながらも、見付からず、生涯再会が果たせなかったのは、紛れもない事実である。 しかし本作に於ける、“タクシー運転手”が、偶然耳にした情報から客を横取りして、その目的も知らないままに光州へ向かったという描写は、映画による完全な創作。本作の大ヒットによって、サボク氏の息子が名乗り出て明らかになったのは、サボクとヒンツペーターは、“光州事件”取材の5年前=1975年頃から知り合いで、“同志的関係”にあったという事実だった。 またサボクは、マンソプのようなノンポリの俗物ではなく、“民主化”の波に参加するような人物であったという。そして、ヒンツペーターの呼び掛けにも拘わらず、サボク本人が見付からなかった背景には、“光州事件”そのものがあった。 現場を目の当たりにしたサボクは、「同じ民族どうしが、どうしてこうも残忍になれるのか」と言いながら、1度はやめていた酒を、がぶ飲みするようになったという。そして“事件”取材の4年後=84年に、肝臓癌で亡くなっている。 サボク氏の息子は本作を観て、「喜びと無念が交錯した」という。自分の父が“民主化”に無言で寄与したことが知られたのは嬉しかったが、前記の通り、マンソプのキャラが、父とはあまりにもかけ離れていたからだ。 息子さんの「無念」は理解しつつも、この“脚色”を、私は積極的に支援したい。それは、ソン・ガンホの主演作だからである。 “韓国の至宝”であり“韓国の顔”とも謳われるソン・ガンホ。出演する作品のほとんどが、代表作と言えるような俳優であるが、歴史的史実をベースにした作品も、彼の得意とするところだ。 時代劇では、『王の運命 -歴史を変えた八日間-』(15)『王の願い ハングルの始まり』(19)のように、朝鮮王朝に実在した君主を演じる“王様”俳優でもあるが、近現代を舞台にした作品こそ、印象深い。『大統領の理髪師』(04)『弁護人』(13)『密偵』(16)そして本作である。『大統領の理髪師』は1960年代から70年代を舞台に、ひょんなことから“独裁者”の大統領(朴正煕をモデルとする)の理髪師となってしまった、平凡な男が主人公。否応無しに、政府の権力争いに巻き込まれていく。『弁護人』では、後に“進歩派”の大統領となる、盧武鉉(ノ・ムヒョン)の弁護士時代をモデルにした役を演じた。政治には興味がない金儲け弁護士が、時の全斗煥政権による学生や市民への弾圧に憤りを覚え、“人権派”に変貌を遂げていく。『密偵』は、日帝の植民地時代が舞台。日本人の配下にある警察官が、スパイとして独立運動の過激派組織に近づきながら、やがて彼らの考え方に共鳴していく。こちらは、実在した組織「義烈団」が、1923年に起こした事件をモデルとしている。 ここに本作を並べてみれば、どこにでも居るような男が、歴史の大きなうねりに翻弄されて、変貌を遂げていくといった流れが浮かび上がる。時代劇の中でも、朝鮮王朝時代のクーデター事件をモチーフにした『観相師 -かんそうし-』(13)で演じた役どころなどは、この系譜と言えるだろう。 本作に関してチャン・フン監督は、シナリオを読んだ瞬間に、ガンホの顔が思い浮かんだという。そしてオファーを受けたガンホは、一旦は断わったものの、時間が経過してもその内容が頭から離れず、結局は引き受けることになった。それはこの役を演じるのに、他の誰よりも自分が適役であることを、感じ取っていたからではないのか? さて今生で再び相見えることは叶わなかった、本作登場人物のモデルである、ドイツ人ジャーナリストと、韓国人“タクシー運転手”。本作大ヒットの翌々年=2019年に、約40年振りの再会を果すこととなった。 その舞台は、光州事件の犠牲者を追悼、記憶するために設立された「国立5.18民主墓地」。その中に設けられた、ヒンツペーター氏の爪と髪が埋葬されている「ヒンツペーター記念庭園」に、サボク氏の遺骨が改葬されたのである。 これもまた、韓国のダイナミックな“社会派エンタメ”作品がもたらした、ひとつの果実と言えるだろう。■ 『タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜』© 2017 SHOWBOX AND THE LAMP. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2020.04.24
20年経っても変わらず胸を打つ、パク・チャヌク監督の出世作 『JSA』
韓国映画の面白さに取り憑かれたきっかけは、2002年の東京国際映画祭で『復讐者に憐れみを』(02年)を観て、そのあまりの傑作ぶりにぶっ飛ばされたからだった。そして、なぜ『復讐者に憐れみを』を映画祭でいち早く観たかというと、『JSA』のスタッフ・キャストによる新作だったからである。 考えてみれば『JSA』こそ、僕がいちばん最初に「心底面白いと思った“リアルタイムの”韓国映画」だったかもしれない。日本でも鳴り物入りで公開された話題作『シュリ』(99年)は確かに派手で面白かったが、あくまで「珍しい国から来た目新しいエンタメ大作」という印象だった。 しかし、『JSA』は違った。南北分断という韓国ならではのテーマを扱った点では『シュリ』と同じだが、映画としての完成度には雲泥の差がある。上質のドラマと、達者な俳優陣の演技、そして派手さに頼らない実直かつモダンな演出で魅せる、文句なしに面白い映画だった。いま観返しても、その印象は変わらない。時代を超えて胸に響く、本当によくできた映画だと改めて思う。 物語はこうだ。1999年10月のある夜、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の軍事境界線上にある共同警備区域(Joint Security Area=JSA)で、謎めいた銃撃事件が起こる。朝鮮人民軍の将校と兵士が、自軍の哨戒所で韓国軍兵士によって射殺されたのだ。現場に居合わせた人民軍下士官オ・ギョンピル(ソン・ガンホ)、容疑者の韓国軍兵長イ・スヒョク(イ・ビョンホン)の証言は大きく食い違い、真相究明のために中立国監視委員会から調査官が派遣される。かくして、朝鮮人の父を持つスイス軍少佐ソフィー(イ・ヨンエ)が板門店を訪れ、さっそく双方への聞き取り調査を開始。やがて目撃証言とはまったく異なる事実が浮かび上がる……。 いわゆる“藪の中”スタイルで、女性将校の視点から「その夜、何が起こったのか?」を解き明かしていくミステリードラマとして始まる第1幕。ひょんなことから知り合った韓国軍兵士と北朝鮮軍兵士の友情をユーモラスに描いていく第2幕。そして、事件の悲しい経緯が明らかにされる第3幕。観客の興味を巧みに惹きつつ、各章ごとにテイストを変え、時に語り手の視点まで変えながら、いっさい澱みなく進行していく三部構成がじつに見事だ。パク・ヨンサンによる原作小説『DMZ』(邦訳題『JSA 共同警備区域』、文春文庫刊)は、事件を通して捜査官の複雑なバックグラウンドを掘り下げていく物語だったが、映画では銃撃事件とその当事者に焦点を絞り、より明解かつ鮮烈に分断のもたらす悲劇を描くことに成功している。 それぞれにハマり役としか言いようのない俳優陣のアンサンブルも素晴らしい。まだ本格的ブレイクを迎える前のスターたち……頼れるアニキ感を漂わせつつ、北朝鮮軍のベテラン軍人を悠々と演じるソン・ガンホ。その若き同志に扮し、初々しいコメディリリーフぶりを見せるシン・ハギュン。精悍さのなかにデリケートな茶目っ気が溢れる韓国軍兵士役のイ・ビョンホン。ナイーブすぎる後輩兵士を訥々と演じるキム・テウ。彼らが等身大の兵士としてスクリーンに同居し、国家やイデオロギーの壁を越えて心を通わせ合う、その時間のなんと贅沢なことか! 凛とした美しさを放ちながら物語の牽引役を務める、イ・ヨンエの好演も印象深い。 イ・ビョンホン、ソン・ガンホを筆頭に、この映画から一気にスターダムを駆け上っていった者は少なくないが、なんといってもいちばんの出世頭はパク・チャヌク監督その人であろう。『JSA』を撮るまでの彼は、B級テイストと作家主義がちぐはぐに混ざり合う2本の低予算映画『月は…太陽の見る夢』(92年)『三人組』(97年)しか実績のない、無名の若手シネフィル監督だった。しかし、この作品で初めて大作規模のプロジェクトに取り組み、趣味性を封印した職人的アプローチで、万人に届く堅実なエンタテインメントを作り上げてみせた。『JSA』は彼が本来持ち合わせていた才能……娯楽性と芸術性を絶妙なバランスで両立させる演出スタイルを開花させ、のちの『オールド・ボーイ』(03年)や『お嬢さん』(16年)といった代表作の誕生につながっていく。そして、真っ向からヒューマニズムを描いた反動から『復讐者に憐れみを』という非情な傑作も生まれることとなった。監督の性格をよく知る人からは「別人が撮ったみたい」とまで評されたらしい『JSA』だが、いろいろな意味でその存在意義は大きかった。 大人の仕事を貫いたとはいえ、映画作家パク・チャヌクの刻印は随所にある。たとえば室内シーンにおける光と影のコントラストが際立つライティングは、兵士たちの証言の「二面性」を示唆すると同時に、いかにもシネフィルらしい往年のフィルムノワールへのオマージュでもある。あるいは、検死台に横たわる北朝鮮軍兵士の遺体の背面が、台のかたちにぺったり変形している不必要なまでに冷酷なディテール。似たような描写は『復讐者に憐れみを』にも、『JSA』監督起用のきっかけにもなった1999年の傑作短編『審判』(ソウル三豊百貨店崩落事故をモチーフに、病院の霊安室で起きるいざこざを描いたブラックコメディ)にもある。クライマックスの銃撃戦における、情無用の血飛沫エフェクトは言うまでもない。 また、原作では中年男性の設定だったスイス人将校を、映画では女性に変更している点にも注目したい。パク・チャヌク監督はのちのインタビューで「男の軍人しか出てこない映画なんて、むさくるしいでしょう?」とジョークを飛ばしつつ、「女性だという理由だけで相手を見下し、軽んじる軍隊社会の排他的性格も描きたかった」とも語っている。ソフィーが捜査官として有能さを発揮しながらも、それを否定され、曖昧な調査報告を要求される展開は、いま観ると『ボーダーライン』(15年)でエミリー・ブラントが演じたFBI捜査官の姿とも重なる。のちに『渇き』(09年)や『お嬢さん』で「抑圧された女性の解放」を描くことになるパク・チャヌクの問題意識は、20年前から一貫していたのだ。 さらに、パク・チャヌクは企画の初期段階で、兵士たちのドラマに同性愛的感情を盛り込もうと提案していたとも聞く。もしかしたら『JSA』には、軍隊内における性的マイノリティの葛藤、そして女性差別という「分断」も並列的に描かれていたかもしれない。実際、スヒョクを慕う後輩ソンシクの「男前ですね」というセリフや、無邪気にじゃれ合う南北兵士たちの姿には、その残り香がかすかに漂う。近年、韓国ノワール映画で描かれる男同士の愛憎劇を「萌え」として愛でる文化も、すでに本作から潜在的なかたちで表れていたのだ。 『JSA』は2000年6月に実現した南北首脳会談の3カ月後、9月9日に韓国で封切られ大ヒットを記録。南北融和ムードのなか、本作を観ることが一種の社会参加行事となるような空気が生まれ、一大ブームを巻き起こした。しかし、制作中は監督もプロデューサーも「北朝鮮に同情的である」といった理由で国家反逆罪に問われることまで覚悟していたそうだ(実際、パク・チャヌクはその後のパク・クネ政権下で「左翼的先導者の疑い」がある映画人としてブラックリストに載せられた)。監督としては、むしろ南北対立ムードが高まったタイミングで本作公開をぶつけたかったらしい。後日、『JSA』のフィルムは当時の北朝鮮最高指導者・金正日のもとにも送られ、高い評価を受けたという逸話もある。 それから20年、いまだに南北統一は実現していない。『JSA』の物語が真の意味で「過去」として語られる日も、残念ながら来ないままだ。 2017年、ソウル市立美術館で開催されたカルティエ現代美術財団の企画展「ハイライト」のために、パク・チャヌクは弟パク・チャンギョンとともに短編映画『隔世の感』を制作した。南楊州総合撮影所に現存する『JSA』の板門店のセットに、マネキン人形を置いて3Dカメラで撮影し、そこに『JSA』本編の音声などを被せ(なんと42台のスピーカーを駆使した超立体音響!)、時代の変化と進展しない状況を浮き彫りにする作品だという。日本ではまだ観る機会がないが、『JSA』ファンとしては否応なしに興味をそそられる一編だ。パク・チャヌク曰く、「いつかこの作品をピョンヤンで上映できたらいいね」。■ 『JSA』©myungfilm2000
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COLUMN/コラム2019.03.30
『弁護人』で“韓国の至宝”ソン・ガンホが演じた元大統領の軌跡
“民主主義”を標榜するような国でも、時の政権によって“政府の敵”と見なされた者たちを標的に、“ブラックリスト”が作られることは、往々にしてある。 有名なのは、ウォーターゲート事件により辞任に追い込まれ、「史上最低の大統領」という評価もある、アメリカの第37代大統領リチャード・ニクソン(任期:1969~74)が作った、「政敵リスト」。そこには政治家やジャーナリストと並んで、ベトナム反戦や公民権運動などに熱心だったハリウッドスターたち、ポール・ニューマンやジェーン・フォンダなどの名前が挙げられていた。 ニクソンはこうした“リスト”に載せた人物たちを、「税務調査」などの手段で締め上げて、圧力を掛けることを目論んだとされる。結局は国税庁のTOPが拒んだため、調査が実施されることはなかったと言われるが。 こうした“映画人”をもターゲットにした“ブラックリスト”という意味で、近年大きなニュースが報じられたのは、韓国。2016年10月に全国紙「韓国日報」によって、その前年=15年5月に、当時朴槿恵(パク・クネ)大統領を頂く韓国政府が、“文化芸術界”の検閲すべき9,473人の名簿を作成し、関係省庁へと送ったことが明らかになった。「この“リスト”に載せたタレントや文化人は、干せ!」と、政府が暗に指示したわけである。 リストアップされたのは、大統領選挙やソウル市長選で、朴陣営に敵対する候補を支持した者や、2014年4月に発生した「セウォル号沈没事件」に関して、政府やその関係者を批判した者など。ご存知の方が多いと思うが、修学旅行中だった高校生250人を含む、300人以上の死者・行方不明者を出したこの大事故では、政府の対応の遅れや不手際が強く非難され、朴政権に大きな打撃を与えていた。 では具体的に、韓国政府の“ブラックリスト”に挙げられた“映画人”とは、どんな顔触れだったのか?『オールド・ボーイ』(03)『お嬢さん』(16)などのパク・チャヌク監督、『悪魔を見た』(10)『密偵』(16) などのキム・ジウン監督、『10人の泥棒たち』(13)などに出演する女優のキム・ヘスといった、一流どころの名前が並ぶ。そして、本作『弁護人』の主演俳優であるソン・ガンホの名も、その“リスト”に挙げられていた。 韓国映画界には、かつての“韓流四天王”=ヨン様やチャン・ドンゴンなどのイケメン系とは別に、エラが張った巨顔ですんぐりむっくりな体形の人気スター達が居る。私は“ジャガイモ系”と呼んでいるが、『哀しき獣』(10)のキム・ユンソクや『新感染 ファイナル・エクスプレス』(16)のマ・ドンソク、『容疑者X 天才数学者のアリバイ』(12)のチョ・ジヌン、本作にも“カタキ役”で出演しているクァク・ドウォンといった面々が、それである。 ソン・ガンホは、そんな“ジャガイモ系”の先駆け且つ代表的な存在として、『シュリ』(1999)『JSA』(2000)『殺人の追憶』(03)『グエムル 漢江の怪物』(06)といった、韓国映画史に残る数多のヒット作や名作に次々と出演。“国民俳優”“韓国の至宝”の名を恣にし、日本でも高い人気を誇る。名実ともに、韓国映画界きってのTOPスターである。 そんな“韓国の至宝”が、政府に睨まれる直接の原因となったのは、「セウォル号事件」の問題で署名活動に参加したこととされる。しかし2013年に製作された本作に主演したことも、その遠因になっていることは、容易に想像できる。ガンホが演じた本作の主人公=ソン・ウソクのモデルは、廬武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領だからである。 本作では、1978年から87年頃までの韓国・釜山を舞台に、ソン・ウソク≒政治の世界に進む前の廬武鉉の姿が描かれる。もちろん映画向けに創作された部分もあるが、大筋では事実をほぼ正確に描いているという。 では、廬武鉉の歩んだ道を、簡単にまとめてみたい。それは即ち、本作の内容の紹介になるし、主演俳優のガンホが、朴政権に目を付けられた理由の説明にも繋がる。 1946年、釜山の貧しい農家に生まれた廬武鉉。頭脳は優秀ながら、お金がなかったため大学に行けず、アルバイトをしながら司法試験の勉強を始めた。 途中3年間の徴兵期間を経て、75年=29歳の時に、司法試験に合格。裁判官を経て弁護士となる。本作ではこの辺りからが、描かれる。 廬武鉉は、弁護士事務所の開業からしばらくは、税務を専門とし、お金儲けに邁進した。本作の中で、豊かになった主人公が、苦学時代に食い逃げした食堂にお金を返しに行くエピソードが登場するが、これも実話が基になっているという。 転機が訪れたのは、81年。同僚弁護士に頼まれ、「釜林(プリム)事件」の被害者の弁護を担当したことだった。この事件では、釜山でマルクス主義などの本の読書会をしていた、学生や教師、サラリーマンなど22人が、令状もなく突然逮捕された。彼らは2カ月もの間不法監禁され、過酷な拷問を受けていた。 当時の全斗煥(チョン・ドファン)政権は、軍事クーデターと不正選挙で権力の座に就いたこともあって、“民主化”を目指す者たちを敵視していた。そのため思想的な背景が深いとは言えない、読書会のような集まりにも目を付けて、「国家保安法」の名の下で、“アカ=共産主義者”“北朝鮮のスパイ”扱いをして摘発。徹底的な弾圧を加えていた。 それまではノンポリで、“民主化運動”などにも関心がなかった廬武鉉だが、弁護をする若者の身体に拷問の痕を見付け、強い衝撃を受ける。それがきっかけとなって彼は、金儲けの得意な弁護士から、180度の変身を遂げる。 この事件の弁護を、まるで「家族のように」献身的な姿勢で行ったのをはじめ、貧しい人々のために、“無料”で法律相談に乗ったり弁護を引き受けるなど、いわゆる“人権派弁護士”となったのである。 このような活動を邪魔に思った政権側は、検察を使って彼を拘束したり、弁護士資格を停止したりした。映画『弁護人』で描かれるのは、この辺りまでである。
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COLUMN/コラム2018.12.03
監督との対話から見える『グエムル -漢江の怪物-』の輪郭
■怪獣映画というジャンルに乏しい韓国 『グエムル-漢江の怪物-』には、深い思い入れがある。 本作の日本公開を控えた頃、筆者は韓国に出向いて監督のポン・ジュノや、主演のソン・ガンホ、そしてぺ・ドゥナにインタビューをおこなった。加えて韓国最大のシネコン「メガボックス」で開催されたワールドプレミア上映を取材。現地での完成報告記者会見にも参加した。 そこでショッキングだったのは、韓国と日本との「怪獣映画」に対する温度差である。 意外に思われるかもしれないが、韓国にはいわゆる日本のゴジラやガメラ、そしてウルトラマンに代表されるような「怪獣映画」の伝統がない。 もちろん、まったく作品が存在しなかったというワケではない。国内では1962年、鉄を食らう幻獣の大暴れを、精巧な模型を駆使して描いた『プルガサリ』が嚆矢として位置づけられている(後に北朝鮮が『プルガサリ~伝説の大怪獣~』(85)として再映画化)。その後「国産初の怪物映画」と自ら惹句を掲げた『宇宙怪人ワンマギ』(67)や、日本のエキスプロダクションが造形と特撮に携わった『大怪獣ヨンガリ』(67)など、日本の第一次怪獣ブームの向こうを張る形で怪獣映画が製作されている。 また70年代には、ギム・ジョンヨンとポール・レダー(『ピースメーカー』(97)で知られる女性監督ミミ・レダーの父親)が共同監督した韓米合作3D映画『A*P*E キングコングの大逆襲』(76)や、ギム・ジョンヨン監督が日本の特撮TVのバンクシーンをマッシュアップしたひどい代物『飛天怪獣』(84)が発表されている。追って90年代にはコメディ俳優シム・ヒョンレが、自身の映画製作会社「ヨングアート」を設立し、翌年にモンスターコメディ『ティラノの爪』(93)を監督。99年には『大怪獣ヨンガリ』を欧米キャストでリメイクした『怪獣大決戦ヤンガリー』(99)を製作するなど、かろうじて命脈を保ってきたのだ。 ■日本の怪獣映画にリスペクトを捧げた『グエムル』 こうした環境が如実に影響を及ぼしているのか、『グエムル』の完成報告記者会見は、怪獣映画の文化に浴してきた自分には呆然となるものだった。現地記者による質問のほとんどは、劇中で主人公カンドゥ(ガンホ)を中心とするキャラクターに関するものばかりで、誰一人として「怪獣」のことについて触れなかったからだ。そのスルーぶりたるや「(怪獣映画に接する文化がないと)ここまで主題に関する興味や優先順位が違うのか」と吹き出しそうになったほどだ。 そのうちに記者の1人が、以下のような核心を監督のポン・ジュノに問い始めた。 「そもそもなぜ、あなたがこのような作品を撮ったのか?」 1969年生まれのジュノは、延世大学校社会学科を卒業後、映画の専門教育機関である韓国映画アカデミーを経て『ほえる犬は噛まない』(00)で長編商業監督デビューを果たした。同作はマンション内での連続小犬失踪事件をめぐる住民たちのドタバタを描いた作品だが、続く2作目の『殺人の追憶』(03)では、1986年から5年の間に10人の女性が殺され、犯人未逮捕のまま控訴時効が成立した「華城(ファソン)連続殺人事件」を材にとり、後の『チェイサー』(08)や『悪魔を見た』(10)などへと連なる「韓国犯罪映画」というジャンルを確立させている。 笑いと緊迫をミックスさせた独自の作風、見る者を圧倒させる大胆な画面の構成力、そして時代考証や細部にこだわる「リアリズム作家」の筆頭として、韓国映画の未来を嘱望される存在だったのだ。 そんなジュノが、なぜ自国に根付くことのなかった怪獣映画を? そのことを問い質した記者に対し、監督は以下のように答えている。 「本格的な怪物映画を作ってみたいという意欲が芽生えたからです。感性の土台という意味では、ハリウッド映画なら『エイリアン』(79)の亜流、例えば『ミミック』(97)であるとか、そういった作品に影響を受けてきました。また、かつて世界を騒がせたネス湖のネッシーがいましたよね。ああいったUMA(未確認生物)に僕はたいへん興味を持っており「ネッシーは本当にいるのか?」あるいは「ネッシーを捕まえることが出来るのか?」と常に想像してたんです」 しかし、当の記者はそんな熱弁に要領を得ないといった表情を見せていた。というのも映画の舞台となった漢江は、UMAなどの目撃証言や伝説(真偽はさておき)が存在せず、モンスターを喚起させるようなスポットではなかったからだ。 この記者会見の前日、筆者はポン・ジュノ監督に取材をし、同じ質問を彼に投げかけている。そこでジュノは先の記者への答えに加え、「なぜ怪獣映画を?」を腑に落ちる形で補完してくれていた。 「『グエムル』の企画そのものは高校時代から温めており、自分もまた、自国に怪獣映画の伝統がないことを憂いていたんです。僕はAFKM(American Forces Korea Network)と呼ばれた米軍用放送局で、ゴジラシリーズやウルトラマンを子どもの頃によく観ていました。その幼少体験が、怪獣映画を撮ることへの思いを膨らませていったといえるでしょう。そして在韓アメリカ軍が多量の毒物を下水口から漢江に放流した「龍山基地油流出事件」が製作の契機となり、『グエムル』の企画を具体的なものにできました」 ■ベースにあるスピルバーグ型エイリアンコンタクト映画 ジュノのこうした発言を統合すると、日本の怪獣映画に対する限りないリスペクトの心情と、それが突き動かした怪獣映画への前のめりな挑戦心。そして怪獣映画に欠くことのできない社会問題の寓意性などがうかがえてくる。 しかし『グエムル』の面白い点は、怪獣出現という途方もない事態を、政治家や軍隊、科学者といったスペシャリストが攻め打っていく同ジャンルの定型を踏襲しなかったところにある。本作で怪物と戦う主人公カンドゥは、軍人でも科学者でもなければ正義と使命感に燃える人物でもない。商売人でありながら、客の注文した食べ物をこっそり自分で食べたりする、どうしようもないダメ男なのだ。 そんなカンドゥが、一人娘を救うために得体の知れない怪物に挑んでいく「家族愛」に焦点を合わせることで、ジュノの怪獣パニックは堂々成立しているのである。 こうした構成に関してジュノは、敬愛する作家としてスティーブン・スピルバーグの名を筆頭に出し、『未知との遭遇』(77)や『宇宙戦争』(05)など、異星人コンタクトという状況下での家族愛をうたった諸作を「もっとも触発された」として挙げている。それと同時にM・ナイト・シャマランの『サイン』(02)のタイトルを出し、『グエムル』の製作にあたって同作の影響があったことを認めている。 「『宇宙戦争』は本作の撮影中にスタッフに勧められて観ました。たしかに大きな状況をパーソナルな視点で描く部分で共通点はあるんですけど、物語の方向性は異なるし、むしろ影響という意味ではシャマランの『サイン』のほうが大きいかもしれません。あの作品も『宇宙戦争』と同様に宇宙人の襲撃を受けるSFですが、決してスペクタクルに執着するのではなく“家族”に焦点を合わせて物語を構成していくところに影響を受けました」 とはいえ『グエムル』は、怪獣映画のカタルシスを決しておろそかにはしていない。特に開巻からほどなく始まる、怪物が漢江の河川敷で人間を襲うデイシーンは怪獣映画史に残るようなインパクトを放つ。巨体に見合わぬ素早い動きで、逃げまどう人々を片っ端から踏みつけ、そして殺戮の限りを尽くしていく怪物——。ジュノは非凡な画面構成力と演出力で、このおぞましいスペクタキュラーを本作最大の見どころとして可視化している。 ■『グエムル』以後の韓国怪獣映画の流れ 『グエムル-漢江の怪物-』は国内観客動員数1301万人という異例の大ヒットを記録し、2014年に公開された『バトル・オーシャン 海上決戦』に破られるまで、韓国映画興行成績ランキングベスト1の座に君臨していた。しかし、こうしたヒットが韓国に怪獣映画の興隆をうながしたのたというと、そうでもないのが本作の特異たる所以である。 じっさい『グエムル』以降の怪獣映画の流れはというと、本作公開後の翌年(2007年)には『怪獣大決戦ヤンガリー』のシム・ヒョンレが、500年ごとに起こる大蛇大戦を描いた『D-WARS ディー・ウォーズ』を監督。韓国とアメリカでヒットを記録したものの、作品は国内でも海外でも酷評の嵐に見舞われている。 さらにその翌々年、巨大イノシシによる獣害パニックを描いた『人喰猪、公民館襲撃す!』(09)が公開。同ジャンルの可能性をとことんまで追求し、今後に期待をつなぐような面白さを放ったのだが、韓国初のIMAXデジタル映画として発表されたハ・ジウォン主演のモンスターパニック『第7鉱区』(11)が、『エイリアン』(79)のリップオフ(模造品)のような既視感の強さで、せっかくの好企画を台無しにしてしまった。 当然ながら大ヒットを飛ばした『グエムル』にも続編の企画があり、その前哨戦として同作の3D化がなされ、11年の釜山国際映画祭で公開された。しかし肝心の『2』製作はプロモーション用のフィルムまでできたものの、資金不足から企画は頓挫している。ジュノ自身は後年、米韓合作による配信映画『オクジャ okja』(17)に着手。アメリカ企業に捕らえられた巨大生物を救うべく、少女が孤軍奮闘するという『グエムル』を反復するような怪獣映画を展開させ、ひとまず好評を得たのだが……。 ちなみに『D-WARS ディー・ウォーズ』のプロモーションでヒョンレが来日したさい、取材で彼に『グエムル』は観たのかと質問した。すると、 「観たよ、この2つの目でね」 という元コメディ俳優らしいギャグを飛ばしてきたが、内容に対する具体的なコメントは聞き出せなかった。もしかしたら同作に対して強いライバル意識があったのかもしれないし、日本の怪獣映画と、そして自らの作家性や意匠が塩梅よくブレンドされたジュノの力作に対し、たまらなくジェラシーを感じていたのかもしれない。そんな彼も『D-WARS 2』の企画を始動させていたものの、ヨングアート社の資金の使い込みや社員の賃金未払いなどが表面化し、2012年に自己破産を申請。『D-WARS 2』は宙に浮いたままになっている。 怪獣映画の革命作『グエムル-漢江の怪物-』の初公開から、およそ12年の月日が経った。だが韓国の「怪獣映画」の未来は、まだまだ遠い先にあるようだ。▪︎ © 2006 Chungeorahm Film. All rights reserved.