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COLUMN/コラム2023.08.28
ヨーロッパ映画を彷彿とさせる骨太で硬派な政治スリラーの隠れた名作『アンダー・ファイア』
物語の背景となるニカラグア革命とは? 惜しくも、劇場公開時は興行的に全くの不発だったものの、しかしその一方でロジャー・エバートやジョン・サイモンなど名だたる映画評論家から高く評価され、映画ファンの間でも今なおカルト的な人気を誇っている政治スリラー映画の隠れた名作である。 1981年1月20日、アメリカでは元ハリウッド俳優ロナルド・レーガンが第40代アメリカ合衆国大統領に就任する。ご存知の通り、当時は東西冷戦の真っ只中。’60年代末から続いていたデタント(米ソの緊張緩和)は’79年のソ連によるアフガニスタン侵攻で崩壊し、人権問題を重視した先代・カーター大統領の穏健な外交政策はおのずと「弱腰外交」と批判される。そうした中で誕生したレーガン政権は、一転してタカ派的な強気の外交政策を展開。ソ連を「悪の帝国」と呼んで激しく非難し、反共の理念を旗印にして中南米や中近東などの不安定な政情にも介入していく。折しも’80年代のハリウッドでは、アカデミー賞を賑わせた『レッズ』(’81)や『ミッシング』(’82)などを筆頭に、世界各地の革命や紛争を題材にした政治スリラー映画が静かなブームを呼んでいたが、その背景にはこうした東西冷戦の激化が影響していたと考えてもおかしくはないだろう。 中でも当時流行ったのが、様々な情報が錯綜する革命や紛争、圧政の渦中にあって、真実を追求するために命がけで奔走するジャーナリストを描いた映画群だ。恐らくそのきっかけとなったのは、メル・ギブソンがスカルノ政権末期のインドネシアに派遣されたテレビ特派員を演じる『危険な年』(’82)。オーストラリア映画だがアメリカでも大ヒットを記録し、男性カメラマン役を演じたリンダ・ハントがアカデミー助演女優賞を獲得した同作の成功を皮切りに、カンボジア内戦を舞台にした『キリング・フィールド』(’84)やエルサルバドル内戦を題材にした『サルバドル/遥かなる日々』(’86)、アパルトヘイト政策の弾圧に立ち向かった南アフリカの黒人活動家と新聞記者の戦いを描く『遠い夜明け』(’87)など、ジャーナリズムの使命とその重要性を改めて知らしめるような政治スリラー映画の力作が次々と公開される。『エア★アメリカ』(’90)や『007/トゥモロー・ネバー・ダイ』(’97)でお馴染み、ロジャー・スポティスウッド監督の出世作となった『アンダー・ファイア』(’83)もそのひとつだ。 本作の題材はニカラグア革命。さすがに筆者も国際紛争や中南米史の専門家ではないため、ここでは一般常識的な基礎知識をサクッと振り返ってみたい。自国の覇権を拡大・維持するため、20世紀初頭から中南米諸国の政治に介入してきたアメリカ合衆国。ニカラグアもそのひとつで、1927年に親米的な保守党政権に対し自由党が内戦を仕掛けると、米国は海兵隊を送り込んで鎮圧しようとする。結局、世界大恐慌の影響で米海兵隊は撤退するも、’34年に自由党軍のサンディーノ将軍はアメリカに支援された国家警備隊に暗殺され、その首謀者であるアナスタシオ・ソモサ・ガルシアは’37年に大統領へ就任。以降、ソモサ親子3名は43年間に渡って国家権力を私物化し、「ソモサ王朝」と呼ばれる独裁的な強権政治を敷いたのである。 ‘72年にニカラグアで起きたマナグア大地震。世界中から多くの支援金や支援物資が集まったものの、その大半をソモサ一家が着服して身内企業などに分配。さらに、’78年には反体制派新聞の社長が政府によって暗殺され、いよいよソモサ王朝に対する国民の怒りが頂点へと達する。’79年にはサンディーノ将軍の遺志を継ぐ左翼革命組織・サンディニスタ民族解放戦線が武装蜂起。現地での取材を試みた米テレビ局ABCのレポーター、ビル・スチュワートが国家警備隊に射殺され、その様子をたまたま撮影したニュース映像が世界中で報道されるに至り、それまで「親米」を理由にソモサ政権を支援してきた米政府も看過できなくなる。かくして、アメリカから見放されたアナスタシオ・ソモサ・デバイレ(ガルシアの次男)大統領は失脚。マイアミを経て各地を転々とした挙句、’80年に亡命先のパラグアイで暗殺された。 以上が、本作の背景となる史実のあらまし。基本的には登場人物もストーリーもフィクションだが、しかしビル・スチュワート事件を下敷きにした出来事が物語の重要なカギとなり、劇中ではソモサ大統領まで登場してドラマに絡んでくる。やはり本作を鑑賞するにあたって、ある程度の予備知識は必要であろう。 ジャーナリストはどこまで中立であるべきなのか 時は1979年。物語の始まりは、軍事政権と反政府軍の内戦が収束に向かいつつあるアフリカのチャド共和国。命知らずのタフな報道カメラマンのラッセル・プライス(ニック・ノルティ)は、旧知の傭兵オーツ(エド・ハリス)と戦場で偶然再会する。政府軍に雇われたはずなのに、間違えて反政府軍と行動を共にしているオーツ。そのいい加減さに、2人は思わず笑い転げる。この戦場はマジでクソだ!全く金にならん!今どき稼ぐならニカラグアだな!そう愚痴をこぼすオーツと別れてホテルへ戻ったラッセルは、敬愛する先輩であり親友でもある記者アレックス・グレイザー(ジーン・ハックマン)の送別パーティに参加する。野心家のアレックスは、念願だったニュース番組のアンカーマンに抜擢され、晴れてニューヨークへ戻ることになったのだ。しかし、恋人のラジオ報道記者クレア・ストライダー(ジョアナ・キャシディ)はアレックスに同行することを拒否。ジャーナリストとしての使命感に燃える彼女は、現場から足を洗う気などさらさらなかったのだ。次の行き先は革命の動乱に揺れるニカラグア。意地を張ったアレックスは、自分もニカラグアに付いていくと言い出す。 それから暫くの後、中米ニカラグアには世界中から報道関係者が集まり、その中にはラッセルやアレックス、クレアの姿もあった。政府関係者やマスコミ関係者が行きつけのナイトクラブでディナーを楽しむ3人。ソモサ政権のスパイと噂のフランス人ビジネスマン、マルセル・ジャジー(ジャン=ルイ・トラティニャン)の姿もあった。すると、革命軍によってナイトクラブが爆撃を受け、ラッセルはその惨状をカメラに収める。ところがその直後、彼は理由もなく国家警備隊に逮捕され、翌朝には釈放されたもののカメラを壊されてしまった。マルセルが嫌がらせで仕組んだものと睨むラッセル。自分がソモサ大統領直属のスパイだと認めるマルセル。ラッセルとクレアを自宅へ招いた彼は、革命軍のリーダー、ラファエルが地方都市レオンにいるとの極秘情報を伝える。これまで一度も写真に撮られたことがなく、その存在自体が半ば伝説化したラファエルは、ラッセルがニカラグア入りしてからずっと追いかけていた人物だ。ラファエルを写真に収めることが出来れば特ダネである。半信半疑ながらも、ラッセルとクレアは一路レオンへと向かう。 まるで戦場のようなレオンの町。ラッセルとクレアは革命軍の若者たちと親しくなり、市街戦の様子を間近から取材することに成功する。ふと気づくと、政府側の兵士の中に傭兵オーツの姿が。ジャーナリストとして「中立の立場」が信条のラッセルは、死体の山に隠れたオーツの存在を革命軍に黙っていたが、そのせいで革命軍の気さくな指揮官ペドロがオーツに射殺されてしまう。果たして、自分の判断は正しかったのか。深い罪の意識を覚えるラッセル。そんな彼を慰めるクレア。志を同じくする仲間として共鳴し、やがて男女関係の一線を超えてしまうラッセルとクレア。彼らの変化になんとなく気付いていたアレックスだが、しかしキャリアを優先してニューヨークへ戻ってしまう。そんな折、ラファエルの暗殺に成功したことをソモサ大統領(ルネ・エンリケス)が記者会見で発表。当然ながら革命軍側はこれを否定し、その証拠としてラファエル本人が取材に応じるとラッセルに申し出る。指定された場所へ向かうラッセルとクレア。そこで彼らは、ジャーナリストとしての職業倫理に関わる重大な決断を迫られる…。 基本的なプロットは、戦時下を舞台にした大人のラブストーリー。戦争の動乱に揺れるエキゾチックな異国の地を舞台に、強い信念を持つ勇敢な2人の男性が同じようにタフな1人の女性を愛し、そんな彼らの三角関係に周辺の政治的な思惑が絡んでいく。まるで『カサブランカ』(’42)のごとし。そういえば、チャールズ・ブロンソン主演の『太陽のエトランゼ』(’79)やショーン・コネリー主演の『さらばキューバ』(’79)も似たような話だったと思うが、本作がそうした『カサブランカ』症候群的なハリウッド映画と一線を画すのは、あくまでもラブストーリーがメインテーマを浮き彫りにするための道具のひとつに過ぎない点であろう。 本作が真に描かんとするのは報道記者の在り方だ。ジャーナリストは「中立の立場」が基本だとして、権力側にも抵抗勢力側にも肩入れすることなく、世界各地の紛争地帯を取材してきた報道カメラマンのラッセル。しかしニカラグアでは少々勝手が違ってくる。国民を弾圧して反対派を迫害するソモサ政権下のニカラグア。革命軍と実際に行動を共にしたラッセルは、彼らが独裁者へ対する憤怒の念に駆られた平凡な若者たちに過ぎず、その背後には人権を蹂躙された大勢の市民たちの支持があることを知識ではなく肌で実感し、やがて「中立の立場」というジャーナリストの職業倫理が、むしろ独裁者の悪事に加担することになっているのでは?との疑問を抱くようになるのだ。 そもそも、本作には「仕事だから」と割り切って悪へ加担するプロたちが大勢出てくる。金払いの良い相手なら誰のもとでも働く傭兵オーツに、ソモサ政権のスパイ活動を一手に担うフランス人実業家マルセル、ソモサ政権の対外的なイメージ向上に奔走するアメリカ人の広報官キトル(リチャード・メイジャー)などなど。そのキトルは「ソモサ大統領にだって言い分はある」と独裁者を擁護し、マルセルも「誰が正しいのか分かるのは20年後だ」と嘯く。まるで正義の概念など立場によって変わるとでも言わんばかりに。しかし、果たして本当にそうなのだろうか?世の中には普遍的な正義というものが確かに存在し、それを我々は「良心」と呼ぶのではないか。そして、それこそ野心家の親友アレックスには不似合いな現場主義の女性記者クレアと似た者同士のラッセルが結ばれたように、職業倫理などという建前に縛られることなく、己の「心の声」に従って行動することも、時として報道記者にとって必要なのではないかと問いかける。 映画のリアリズムを支えたキャスト陣の存在 さらに、本作では撮影監督ジョン・オルコットのカメラがドキュメンタリーさながらのリアリズムを醸し出す。オルコットといえば、『2001年宇宙の旅』(’68)から『シャイニング』(’80)までのスタンリー・キューブリック作品を手掛け、『バリー・リンドン』(’75)でオスカーに輝いた伝説的な名カメラマン。本作でも『バリー・リンドン』さながらの自然光を活かした撮影に徹しており、実際にスポティスウッド監督はジッロ・ポンテコルヴォやコスタ=ガヴラスの影響を受けたそうだが、それこそヨーロッパの左翼系インテリ映像作家による社会派映画のような風情すら漂わせている。実に骨太な作品だと言えよう。 もちろん、役者の顔ぶれも素晴らしい。ベトナム戦争の従軍記者を演じた『ドッグ・ソルジャー』(’78)を見て、ラッセル役には彼しかいない!と初めからニック・ノルティ一択だったというスポティスウッド監督だが、しかし当時のノルティは超の付く売れっ子。そのうえマイペースな人だったそうで、自宅に山ほど届く出演オファーの脚本も土日しか目を通さないため、大半が読まれることなく埋もれていたらしい。そこで、スポティスウッド監督は本作の脚本を50部もコピーし、ノルティの親友ビル・クロスに頼んで彼の自宅に置いてもらったという。当時は家じゅうのあちこちに未読脚本の山があったそうで、そのどこに手を出しても本作の脚本が最初に来るよう配置したのだそうだ(笑)。おかげで、週明けにはノルティから出演を熱望する連絡があり、アレックス役のジーン・ハックマンもオファーを快諾したという。 しかし、本作におけるキャスティングの要は、やはりクレア役のジョアナ・キャシディであろう。『ブレードランナー』(’82)のレプリカント役で脚光を浴びたばかりのキャシディだが、実は当時すでに38歳。そもそも女優デビューした時点で27歳、2人の子供を持つ母親だった彼女は、その人生経験や下積みのおかげもあるのだろう、クレア役に説得力を持たせるに十分な逞しさと生活感を兼ね備えていた。いわゆるハリウッド的な若い美人女優が演じていたら、決してこうはならなかったはずだ。筋金入りのタフガイ、ノルティとの相性も抜群。というか、ノルティと互角に渡り合えるほどタフな女優は、彼女かチューズデイ・ウェルドしか考えられない。 さらに、コスタ=ガヴラスの『Z』(’69)でカンヌ国際映画祭の男優賞に輝いたフランスの名優ジャン=ルイ・トラティニャンが、本作でハリウッド映画デビューを飾っているのも要注目。ニック・ノルティはトラティニャンが何者なのか知らなかったらしく、あまりの演技の巧さに現場でビックリして、「ジーン・ハックマンを相手にするだけでも大変なのに、あんな凄い奴まで連れてきやがって!」と監督に文句を言ったそうだ。なお、トラティニャンのハリウッド映画出演は、結果的にこれが最初で最後となった。 なお、映画でも描かれるようにソモサ大統領の国外逃亡によって独裁政権は崩壊し、富の再分配や貧困の解消を掲げる革命政府が樹立したニカラグア。アメリカのカーター政権もその存在を容認したわけだが、しかしレーガン大統領になって状況は一変。アメリカに好都合な傀儡政権の樹立を目指したレーガン政権は、ニカラグアの革命政府を倒すためにCIAや統一教会を使って親米反革命勢力「コントラ」を支援。ニカラグアの内戦は再び泥沼化していくことになる。■ 『アンダー・ファイア』© 1983 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.06.06
血と硝煙とバイオレンスの強臭にむせる『ダブルボーダー』
■保安官と麻薬王、袂を分かつ二人の男たち ジャック・ベンティーン(ニック・ノルティ)とキャッシュ・ベイリー(パワーズ・ブース)は、幼い頃からの親友どうしだ。だが今では、片やエルパソ郊外の小さな町で働くテキサスレンジャーで、片やメキシコを牛耳る麻薬王だ。ジャックにとってキャッシュは、治安を乱す元凶でもあり、かつて愛した女性サリタ(マリア・コンチータ・アロンゾ)を奪い合う宿命のライバルだった。 ウォルター・ヒル監督が1987年に発表した映画『ダブルボーダー』は、テキサスとメキシコを挟んだ国境の町を舞台に、袂を分かった男同士が血で血を洗う抗争を繰り広げていくバイオレンスアクションだ。銃を交えることでしか、その存在を主張することができない者たちへの、熱き魂のレクイエムである。 いっぽうこの映画では、もうひとつのエピソードがメインストーリーとともに並走していく。ポール・ハケット少佐(マイケル・アイアンサイド)率いる、米陸軍特殊部隊の臨時ユニットにまつわるものだ。この部隊を構成する6人の兵士たちは、全員が死亡報告を受けたゴーストアーミーであり、ベンティーンの監視のほか、町に関する覆面捜査を担っていた。 そんな彼らの目的もまた、私設軍隊を率いる麻薬王ベイリーの殲滅にあったのだ。 このように物語を大殺戮へと向ける布石とサスペンスフルな構造を経て、映画はベイリー殲滅作戦を遂行しようとするベンティーンとハケット少佐が目的を一致させ、共にベイリーが拠点とするメキシコへと赴かせていく。 ■原題が示す意味と製作までの紆余曲折 ところでこの『ダブルボーダー』、先述した二つの国境にちなんでつけられた邦題だが、原題の“Extreme Prejudice”が分かりづらいことへの配慮もあった。もともとこの言葉は、軍事作戦における「極端な偏見をもって事を終わらせる」という処刑の婉曲な表現で、劇中におけるベイリー殲滅作戦を示している。本国においてこの独自のフレーズは、ベトナム戦争映画『地獄の黙示録』(79)で周知の一助となっていた。 その『地獄の黙示録』の脚本を担当したのが、この『ダブルボーダー』の原案者としてクレジットされているジョン・ミリアスである。 もともと『ダブルボーダー』は、『コナン・ザ・グレート』(82)『若き勇者たち』(84)の監督として知られるミリアスが起案したもので、自身の脚本・監督のもとワーナー・ブラザーズによって製作される計画が立てられていた。本来ならば1976年10月にテキサスで撮影に入る予定だったが、ミリアスがサーフィンをモチーフにした青春映画『ビッグ・ウェンズデー』(78)を先に手がけたことにより、プロジェクトは暗礁に乗り上げる。加えてミリアス自身が本作を監督することに興味を失ってしまったことから、プロデューサーは別の監督の起用を検討し、改めて1976年11月の撮影開始日が設定された。 しかしプロジェクトは再々の延期を余儀なくされ、しびれを切らしたワーナーは権利売却のため、カサブランカ・レコードおよびフィルムワークスと交渉していたが、その契約も頓挫し、製作は塩漬け状態となっていく。 事態が大きく動いたのは1984年。『ランボー』(82)を世界的に大ヒットさせたカロルコ・ピクチャーズが『ダブルボーダー』の権利を買収し、『ランボー』の監督であるテッド・コッチェフの次回作としてようやくプロジェクトが再始動となったのだ。しかしコッチェフ監督は方向性の違いからプロジェクトを降り、後に『羊たちの沈黙』(91)でメジャーとなるジョナサン・デミが監督するよう交渉が進められた。デミは1985年3月までには脚本のリライトを完了させ、同年夏にミリアスと共にテキサスでの撮影を開始する予定だったが、残念ながら実現に至ることはなかった。 そこでカロルコは新たにウォルター・ヒルを監督に任命し、彼がスティーブ・マックイーン主演のアクション『ブリット』(68)でアシスタントディレクターを担当していたとき、脚本家としてかかわっていた旧友の脚本家ハリー・クライナーを雇い脚本を書き直したことを機に、プロジェクトは一気呵成に進行。1986年4月14日にテキサス州エルパソ地域で主な撮影が始まり、ディストリビューターのトライスター・ピクチャーズは同年のクリスマスシーズンに本作を公開する態勢が整っていく。 だがヒル監督とプロデューサーサイドは翌1987年4月の公開を主張。原因は出演者に約3ヶ月の軍事訓練を課したことや、加えて上映時間の関係からハケット少佐以下ゴーストアーミーのパートが大幅に削られ(ちなみにこの大幅にカットされた場面は、映画の公開と同時期に刊行されたノベライズで確認することができる)、その説明不足を補うための追加パート撮影を余儀なくされたことなど諸事情が絡み、結果的に映画は1987年4月24日に1071スクリーンでの公開となった。 しかし最初の10日間こそ650万ドルを獲得したものの、トータル的な収入は製作費の半分にも満たない1.100万ドルにとどまり、大幅な赤字を記録してしまった。とはいえ贅沢にかけられた予算と徹底した戦闘描写が求心力となり、本作はウォルター・ヒル監督のフィルモグラフィにおいてカルト的な人気を得ている。 ■『ワイルドバンチ』とサム・ペキンパーへの敬意 また『ダブルボーダー』は、『わらの犬』(71)『ゲッタウェイ』(72)の監督サム・ペキンパーに対して、ヒル監督がオマージュを捧げた作品として認識されている。とりわけ本作はペキンパーの代表的傑作『ワイルドバンチ』(69)のリメイクであるかのように感じられる箇所が多い。 ゴーストアーミーたちの死亡報告書を見せる冒頭からして、映画は『ワイルドバンチ』のアヴァンタイトルで展開するストップモーションと運びが似ているし、パイク(ウィリアム・ホールデン)率いるワイルドバンチと『ダブルボーダー』のゴーストアーミーが共にメキシコを目指そうとする目的の一致も然り。そして敵対するベイリーの麻薬組織は、『ワイルドバンチ』で私設軍隊を持つマパッチ将軍(エミリオ フェルナンデス)と同工異曲の存在だ。 他にも特に際立つ類似点は、クライマックスにおける銃撃戦の描写だろう。集中豪雨のように画面を覆い尽くす銃弾の嵐や、スローモーションでシューティングされた崩れゆく人々——。これらは「デス・バレエ(死の舞踏)」と喩えられた、『ワイルドバンチ』における最後の銃撃描写を踏襲したものだ。ご丁寧なことに両作とも、同シチュエーションは約5分間と尺まで足並みを揃えている。 こうしたホットな引用は単に表現上のものではなく、戦いによって仲間を失いながらも、それでも屍を越えて前に進もうとする男たちの「滅びの美学」を体現している。ペキンパーの精神を現代に受け継ごうとしたヒルの尊敬心を、この『ダブルボーダー』は何よりも示したものといっていい。 だが、そんな滅びの美学を悪人が示す『ワイルドバンチ』とは異なり、本作のベンティーンたちは、不器用ながらもそれを正義で追求しようとする。 「悪の道はたやすい。だが正義の道は果てしなく困難だ」 劇中、ベンティーンの上司ハンク(リップ・トーン)がいう言葉どおり、映画は最後の最後まで、善悪をめぐる葛藤が物語を大きく左右に揺り動かしていく。だからこそ、正義に準じた者には最高の見せ場が与えられるのだ。厭世的だったペキンパーと異なり、どこかヒーローに対して希望を残していたヒルの性質を、ここでは対照的なものとしてうかがうことができるだろう。 それにしても、ジョナサン・デミ監督による『ダブルボーダー』というのも、こうして評価の定まった今となっては観たかった気もするが……。■
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COLUMN/コラム2019.08.28
普通の映画とはちょっと違う純文学な味わいのあるビートニクス世代のアクション映画
今回紹介する『ドッグ・ソルジャー』(78年)は、人狼兵士が出てくる2002年のイギリス映画のほうじゃないですよ。ニック・ノルティ扮するレイ・ヒックスというベトナム戦争からの帰還兵が主人公です。 アメリカに帰ってきたレイは、ベトナムにいた親友から送られた大量のヘロインを金に換える仕事を頼まれます。それを嗅ぎつけた麻薬取締局の捜査員たちは腐敗していて、金のためにヘロインを横取りしようと企む。だから彼らに捕まれば、殺されてしまう。なので親友の奥さんを守りながらメキシコへ逃げます。愛用のM16ライフルで追っ手と戦いながら。 こう聞くと、すごくワクワクするアクション映画になりそうですが、ちょっと違うんですね。というのも、原作はロバート・ストーンという人が書いた純文学なんです。 ロバート・ストーンは、もともと“ビート・ジェネレーション”、ビートニクスという運動から出てきた人です。ビート・ジェネレーションというのは、1950年代に始まった若者たちの文学活動。それまでアメリカの保守的な宗教やモラルから解放されて、自由を謳歌する運動で、後のベトナム反戦運動や、ヒッピー・ムーブメント、カウンター・カルチャーの源泉になりました。 だからレイはベトナム帰還兵といっても、『タクシードライバー』(76年)のトラヴィスのような病んだ男ではないんです。原作では、“禅”の研究家で、侍に憧れていたり、ニーチェの哲学を信奉していたり、合気道とか中国拳法の達人として描かれています。 というのも、レイはニール・キャサディというヒッピーのヒーローをモデルにしているからです。キャサディはビート文学の金字塔である、ジャック・ケルアックの小説『オン・ザ・ロード(路上)』で、ケルアックの分身であるサルを引っ張り回して全米を放浪する悪友ディーン・モリアーティのモデルです。 キャサディはその後の1964年、『カッコーの巣の上で』の原作者ケン・キージーと共にサイケデリックにペイントしたバスに乗って全米各地でLSDを配ったことでも有名です。それはアレックス・ギブニー監督の『マジック・トリップ』(11年・未)というドキュメンタリー映画にもなっています。キージーとキャサディは60年代、メリー・プランクスターというヒッピー集団と一緒にコミューンに住んでいました。 この『ドッグ・ソルジャー』はヒッピーが滅んだ数年後の話なので、コミューンは廃墟になっています。そこを砦にして、主人公レイは、襲い来る敵軍団をたった1人で迎え撃ちます。 監督のカレル・ライスはユダヤ系チェコ人で、ナチから逃れてイギリスに渡った人です。第二次世界大戦後、彼は“怒れる若者たち”の小説を映画化していきます。「怒れる若者たち」とは、貴族や地主ら支配階級に、労働者階級の若者たちが怒りを爆発させた文学運動です。そこでビート・ジェネレーションとつながってきます。 レイが守るヒロインはチューズデイ・ウェルド。1950年代のティーンアイドルで、10代から酒や麻薬に溺れた人なので、ヘロインを注射するシーンはリアルです。 主題歌はCCRの「フール・ストップ・ザ・レイン」。ベトナム戦争中のヒット曲で、「誰が雨を止めてくれるのか」という歌詞の「雨」はベトナムへの空爆だと言われています。 以上のように深い深い背景のある異色のアクション、『ドッグ・ソルジャー』、ぜひ、ご覧ください!■ (談/町山智浩) MORE★INFO.●原作はロバート・ストーンがベトナム戦争終結直前の74年に出版した『DOG SOLDIERS』(日本では未訳)。翌75年度の全米推薦図書賞に輝いた。●当初、主役のレイ・ヒックス役にはクリス・クリストファーソンを製作者側は希望していたが、出演料が高くて断念。監督のライスが偶然見た『リッチマン・プアマン』(76年TV)のノルティのアクションに感心して本作に推薦した。●ノルティは海兵隊員らしい姿勢を維持するため、撮影の間ずっと背中に固定器を着けていた。●主演ノルティとチューズデイ・ウェルドはあまり相性がよくなかったらしい。彼女は撮影後、契約条項に入っていた「スター扱い」されなかったことでユナイテッド・アーティスツを2500万ドルで訴えた。 © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2014.05.03
【DVD吹き替え未収録】役者エディ・マーフィをどう解釈し、どう演じ直すか。日本が誇るべき文化、“吹き替え”の真髄がそこにある。
海外で作られた映画・ドラマ・アニメなどの台詞を翻訳し、新たに俳優陣が演じ直す “吹き替え”。日本の映画ファンには、様々な理由を挙げて“字幕派”を標榜する人がいるが、中には只の原語至上主義者もいて、これらを一緒くたにすることには違和感がある。一方、“吹き替え派”は、字幕より吹き替えのほうが作品を理解するのに必要な情報量が多いことに加え、吹き替えを手がけた日本のスタッフ・キャストがどう作品を解釈したかも味わうという大きなお楽しみを共有している。 外国作品を吹き替えで見るのが当たり前という国は多い。アートの国フランスもそうだし、米国こそ、まるで字幕を毛嫌いしているかのようだ。たとえば日本の宮崎駿監督のアニメには、そうそうたる顔ぶれのハリウッドスターが英語吹き替えに集結している。 よく日本の吹き替えは世界最高レベルといわれるが、1本の作品に声優として参加する俳優の数が多い事実は確かだ。米国アニメ「ザ・シンプソンズ」のオリジナル・キャストは主要6人で30人を超えるキャラを演じるが、日本の吹き替えでも台詞が一言しかない複数のキャラを少数の俳優が演じ分けることが多いとはいえ、最終的に映画1本に20人以上が出演することも。こんな“吹き替え”を、文化と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。 前置きが長くなった。エディ・マーフィ。1980年代のハリウッドに彗星のごとく現れ、多数のヒット作に主演しているスーパースターだ。近年では『ドリームガールズ』でアカデミー助演男優賞にノミネートされながら、自分が受賞を逃したと知ってすぐ授賞式の会場を後にするというホットなエピソードを残した。そんな破格の才能マーフィを、日本の吹き替え文化はどう解釈してきたのか。 マーフィが全米で注目を集めたのは、人気バラエティ番組「サタデーナイトライブ」でのこと。初出演当時はまだ19歳で脇役扱いだったが、その芸達者ぶりが認められ、そのシーズンが終わる頃には史上最年少でレギュラーに格上げされた。自身と同じアフリカ系をからかい、セレブたちも同等にコケにするという独自の過激な芸風で人気を博した。 そんなマーフィが映画デビューを飾ったのが1982年の『48時間』。相棒を殺されたジャック刑事(ニック・ノルティ)は、犯人について詳しい受刑者レジー(マーフィ)を48時間だけ釈放させ、捜査に同行させる。ザ・ポリスのヒット曲「ロクサーヌ」をエキセントリックに歌いながら、マーフィは登場。それまでのシリアスな空気を一瞬でユーモラスに変えてしまうだけでなく、主演のノルティを食いかねない、圧倒的存在感を見せた。 『48時間』が日本テレビ系で、続編『48時間PART2/帰って来たふたり』がフジテレビ系で放送された際、レジーを演じたのは下條アトム。実力派俳優だが、海外ドラマ『刑事スタスキー&ハッチ』でスタスキーの声を演じ続けた、吹き替えの名手でもある。“スタハチ”はバディもののお手本のようなドラマだが、そこで三枚目に近いスタスキーを演じた下條にマーフィ演じるレジーをアテさせたのは、下條のネームバリューとバディものを演じるスキルの高さ、両方が生む相乗効果を計算してのキャスティングだったと思う。相手役のノルティをアテたのが、『48時間』では故・石田太郎(吹き替えでは『新刑事コロンボ』も有名)、『48時間PART2~』ではアーノルド・シュワルツェネッガーなどタフガイ役を得意とする玄田哲章というのも、下條の軽妙さをより際立たせる。ちなみに、第1作と第2作の両方で樋浦勉が異なる悪役を演じているが、こんな洒落っ気も吹き替えの魅力だ。 そしてマーフィにとって、今なお語り継がれる代表作になったのが『ビバリーヒルズ・コップ』の3部作。マーフィが演じるのは、不況の町デトロイトで働く刑事アクセル。頭の回転が速く腕っぷしも強い、しかしユーモアを大事にする愛すべき男だ。そんなアクセルが友人を殺した犯人を追って高級住宅街ビバリーヒルズへ。そこでルールやモラルを重んじる地元警察の刑事たちと対立する。第1作の見ものはデトロイトとビバリーヒルズの文化ギャップを軽々と乗り越えるアクセルの活躍。冒頭の違法取引でのマシンガントークから、まさにマーフィの独壇場となっている。 気にしたいのは、『48時間』第1作ではまだ準主演だったマーフィが、『ビバリーヒルズ・コップ』では主演に格上げされている点。マーフィ自身のプロダクションも製作に名を連ねている。『48時間』の大ヒットを受け、映画会社パラマウントはマーフィと独占契約を結んだ(一説によれば5本の出演に対し1500万ドルも払うという破格の待遇だった)。なお余談だが、当初はシルヴェスター・スタローンの主演が予定されたが、スタローンは脚本を直したいといういつもの悪い癖(?)を出し、マーフィがアクセル役に抜擢された。 第1作がテレビ朝日系で放送された際、マーフィの声を演じたのは富山敬。アニメ界において『宇宙戦艦ヤマト』の古代進役といった二枚目役から『タイムボカン』シリーズのコミカルなナレーションまで幅広い役柄を演じた伝説の名優だ。洋画吹き替えでも二枚目から三枚目(TV『特攻野郎Aチーム』のクレージーモンキー役など)まで幅広くこなしたが、『ビバリーヒルズ・コップ』のアクセルもまた二枚目と三枚目の二面性を持ち、名人・富山の豊かな表現力がフルに発揮された。 しかし続編の『ビバリーヒルズ・コップ2』は、放送したのが第1作と異なりフジテレビ系だったためか、『48時間』2部作の下條アトムがアクセル役に。下條にとってもマーフィに慣れたのか、安定した吹き替えとなった。下條はマーフィのヒット作『星の王子ニューヨークへ行く』がフジテレビ系で放送された際も、主人公アキーム王子を好演した。 そして、いよいよこの人の出番だ。山寺宏一。最終的にマーフィのほとんどの作品で彼の声をアテる、まさに真打ちになっていく。ザ・シネマが放送する『ビバリーヒルズ・コップ3』は、山寺がアクセルを演じたテレビ朝日バーションだ。 なぜ山寺マーフィが待望されたか。それはマーフィ自身の芸風の変化に理由がある。往年の喜劇スター、ジェリー・ルイスに影響を受けたのか、少年時代から物真似の天才といわれたマーフィは、1人で何役も演じる芸を売りにすることが増える。『星の王子ニューヨークへ行く』でマーフィは、特殊メイクの力も借りて1人4役に挑戦。また、ルイス主演の『底抜け大学教授』をリメイクした『ナッティ・プロフェッサー クランプ教授の場合』では1人7役に挑み、続編『ナッティ・プロフェッサー2 クランプ家の面々』ではマーフィ本人を含むとはいえ、1人9役にエスカレート。こうなるとマーフィの声は、“七色の声を持つ男”、山寺にしか演じられないというように評価が定まってしまう。 そんな山寺だが、実はマーフィ以外の仕事でも亡くなった富山敬の後を継いでキャスティングされることが多い。こうして星と星はつながり、マーフィは“吹き替え”界の大きな星座になっているのだ。 以上を通じ、“吹き替え”のスタッフやキャストが、作品や出演者をどう解釈し、それをどう日本語に乗せようと苦労しているのが、何となくでも見えてくるだろう。コンピュータの自動翻訳なんて足元にも及ばない、“吹き替え”の真髄がここにはある。■ Copyright © 2014 by PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.