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COLUMN/コラム2023.04.13
不朽の名作は新たな才能の饗宴の場でもあった!『アラビアのロレンス』
第1次世界大戦の最中、中東を支配していたオスマン=トルコ帝国に対する、“アラブ反乱”が起こった。それを支援したイギリス軍人で「アラビアのロレンス」として名高い存在だったのが、トーマス・エドワード・ロレンス(1888~1935)。『アフリカの女王』(1951)『波止場』(54)などのプロデューサーであるサム・スピーゲルは、ロレンスが記した回想録「七つの知恵の柱」の映画化権を60年に獲得。インドに居たデヴィッド・リーンの元へと、向かった。 リーンはかの地で、マハトマ・ガンジーの生涯を映画化する企画に取り掛かっていたのだが、そちらは棚上げ。前作『戦場にかける橋』(57)で組み、赫赫たる成果を上げたパートナー、スピーゲルからのオファーを受けた。 これが映画史に残る、未曽有のスペクタクル大作にして不朽の名作、『アラビアのロレンス』(62)のスタートだった。 リーンは、ロレンスという人物が事を為した時に28歳という若さだったことを挙げ、「…大人物であったと思う」と評しながらも、彼が普通社会には受け容れられない、“異常人物”であると断じている。その上で、ロレンスが自伝の中で自らの欠点を告白している点に、いたく興味を持ち、そこに魅力を感じたという。 ***** 1935年のイギリス。ひとりの男が、運転していたバイクの事故で死ぬ。彼の名は、T・E・ロレンス。「アラビアのロレンス」として勇名を馳せながら、彼のことを真に理解する者は、ひとりとして居なかった…。 1916年、トルコに対してアラビア遊牧民のベドウィンが、反乱を起こそうとしていた。イギリスはそれを援助する方針を固め、その適任者として、カイロの英陸軍司令部に勤務し、前身は考古学者でアラビア情勢に詳しい、ロレンス(演:ピーター・オトゥール)を選んだ。 ロレンスは、反乱軍の指導者ファイサル王子(演:アレック・ギネス)の陣営に向かって旅立つ。目的地に辿り着く前には、後に盟友となる、ハリト族の族長アリ(演:オマー・シャリフ)との出会いがあった。 反乱軍と合流したロレンスは、トルコ軍が支配し、難攻不落と言われたアカバ要塞の攻略を目指す。だがそれは、灼熱の砂漠を越えなければ実施できない、無謀な作戦だった。 しかしロレンスと彼が引き連れた一行は、見事に砂漠を横断。蛮勇で名を轟かせていたハウェイタット族のアウダ・アブ・タイ(演:アンソニー・クイン)も仲間に引き入れ、遂にはアカバのトルコ軍を撃破する。 その後もゲリラ戦法で、次々と戦果を上げるロレンス。彼が夢見るアラブ民族独立も、いつか実現する日が来るように思えた。 しかしイギリスははじめから、独立など許す気はなく、己の権益の拡大のみが、目的だった。ロレンスはやがて、理想と現実のギャップに引き裂かれていく…。 ***** リーン曰く、本作の前半は、ロレンスが英雄にまつりあげられるまでの上昇のプロセス。そして後半では、英雄気取りになった彼が、「…神のような高さからついに地上へ落下する…」という、下降のプロセスを描く。 そんな中での、ロレンスの人物造形。これについては、映画評論家の淀川長治氏が、『アラビアのロレンス』について書いた一文を引用したい。 ~ロレンスの伝記。しかも複雑怪奇なロレンス像。その砂漠の第一夜からホモの影を匂わせてこのロレンスの男の世界をリーンは身震いするほどのせんさいで描いて見せた…~ こうした一筋縄ではいかない主人公の物語を構築するに当たって、大いなる戦力となったのは、脚色を担当した、ロバート・ボルト。劇作家として高い評価を受けていたボルトだが、映画の脚本を書くのは、これが初めてだった。 プロデューサーのスピーゲルは、台詞の一部を担当させるぐらいのつもりで、ボルトに声を掛けた。しかし執筆が始まると、スピーゲルもリーンも、その才能に脱帽。6週間拘束の約束が延びに延びて、結局18か月間、ボルトは『ロレンス』にかかり切りとなった。 付記すれば、ここに始まった、ボルトとリーンの縁。『ロレンス』の後、『ドクトル・ジバゴ』(65)『ライアンの娘』(70)まで続く。 ロレンスの複雑怪奇さを表現できたのは、演者にピーター・オトゥールを得たことも、大きかった。当初この役の候補には、マーロン・ブランドやアルバート・フィニーの名も挙がったという。しかしリーンは、シェークスピアものの舞台などで評価されていたオトゥールを、大抜擢。 オトゥールは4か月の準備期間に、ロレンスを知る人物を次々と訪ね、また彼に関する本と記録を片っ端から読破。原作である「七つの知恵の柱」に至っては、暗記してしまった。 因みにファイサル王子役のアレック・ギネスは、以前に舞台で、ロレンスの役を1年近く演じ続けた経験がある。オトゥールは自分の解釈が壊されるのを恐れ、ギネスとの接触を、可能な限り避けた。 ラクダ乗りの訓練とアラビア語のレッスンに関しても、オトゥールは誰よりも熱心に取り組んだという。 そうした努力の甲斐もあって、オトゥールにとってロレンスは、「生涯の当たり役」となり、後々には“名優”と言われる存在となっていった。しかし、好事魔多し。 本作でスピーゲルやリーンには、またもやオスカー像が贈られた。それに対してオトゥールは、この初めてにして最大の「当たり役」が、“アカデミー賞主演男優賞”のノミネート止まりで終わってしまったのである。 その後はどんな役をやっても、ロレンスの上を行くのが、難しかったからでもあろう。幾度候補となっても、オスカーを手にできないジレンマに陥った。 生涯で、結局8回も“主演男優賞”の候補になりながら、彼が手にしたオスカー像は、2003年のアカデミー賞名誉賞だけ。これはまあ、「残念賞」とも言える。 新しいスターという意味では、砂漠の蜃気楼の中から陽炎のように現れる、アリ役のオマー・シャリフの登場も、鮮烈だった。中東ではすでに人気俳優だったシャリフだが、この1作で世界の檜舞台へと駆け上がった。 このようにKEYとなる人材を得たとはいえ、1962年CGがない時代に、これだけのものを作ってしまったというのは、やはり驚きだ。 撮影は大部分、ヨルダンの砂漠で行われた。スタッフは砂漠にテントを張って、寝泊りしながら撮影を行ったというが、その拠点はアカバに置かれた。 70エーカーの土地を借りて、まるで新しい町が出現した。そこには、製作事務所、撮影部、衣装部、美術部、メーキャップ部、機械整備部、資材部、大道具・小道具の製作工場、大食堂、酒舗、郵便局等々の建物が立ち並び、ラクダの放牧場や大駐車場まで在った。600人に上る撮影隊のために、そこから少し離れた海岸部には、レクリエーション・センターまで設けられたという。 当時のヨルダン国王は、撮影隊に全面協力。3万人の砂漠パトロール隊員を提供した他、1万5千人のベドウィン族が、家族や家畜と共に参加し、アラブ兵やトルコ兵に扮した。 こうした大群衆を動かすため、リーンは、「撮影開始」の合図には、ロケット弾を打ち上げさせた。そして空撮のためにヘリコプターを飛ばし、空中から拡声器で指示を出すこともあった。 撮影隊は突然起きる砂嵐や蜃気楼、日陰でも50度前後に達する昼間の高温が、夜には氷点下となることもある寒暖の差、100%近い湿度等々、大自然の脅威に悩まされながらも、ヨルダンでの撮影を終えた。 続いて、モロッコ、南スペインなどでも、ロケが行われた。 ある石油採掘業者が、本作の撮影隊を指して、こんなことを言った。「白人がこの砂漠でひと夏過ごすのは不可能だ」と。しかしその予言は、見事に外れた。リーンは本作の撮影のため、合わせて3年ほども、砂漠の中で過ごしたと言われる。 もしも現在CGやVFXなしで撮影したら“300億円”以上掛かると言われる。世紀の超大作は、こうして完成に向かっていった。 スピーゲルとのコラボで、前作『戦場にかける橋』で、ビッグバジェットは経験済みとはいえ、本作は桁違いの超大作。改めて、ここに至るまでのリーンの歩みを振り返ってみたい。 若き日は撮影所でカメラマン助手や編集など技術スタッフを務めていたリーンの才能を発見したのは、ノエル・カワード。俳優・作家・脚本家・演出家・映画監督などなど、多方面にてマルチな才能を発揮し、イギリスで一時代を築いたアーティストだった。 カワードが製作・監督・脚本・主演を務めた『軍旗の下に』(42)で、リーンは共同監督として、デビューを飾った。カワードは、9歳下のリーンを大いに気に入り、その後自らのプロデュースで、自作の戯曲を映画化するに当たって、3本続けてリーンに監督を委ねた。その中にはイギリス映画史に残る、恋愛映画の名作『逢びき』(45)がある。 カワードとの蜜月後、『大いなる遺産』(46)『オリヴァ・ツイスト』(48)と、イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズの小説を2作続けて映画化。評判を取った。 この頃までのリーン作品は、すべてイギリス国内が舞台だった。 初めての海外ロケ作品は、『旅情』(55)。キャサリン・ヘップバーン演じるアメリカ人の独身中年女性が、イタリアのベネチアで、旅先の恋に身を震わすこの物語から、リーンは新たなステップに入っていく。「アフリカやアメリカの西部や、アジア各地など、映画は世界中をスクリーンの上に再現して見せてくれ、私の心を躍らせた。私が『幸福なる種族』(44)や『逢びき』のようなイギリスの狭い現実に閉じこもった作品から脱皮して、『旅情』以後、世界各地にロケして歩くようになったのは、映画青年時代からの私の映画を通しての夢の反映であるわけだ。私は冒険者になった気持で、一作ごとに知らない国を旅行して歩いているのである」 そしてリーンは、『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』という、異国の地を舞台にしたスペクタクル巨編へと進むわけだが、こうしたチャレンジを行うようになった下地としては、彼の恩人であるノエル・カワードから贈られた言葉もあったようだ。曰く、「いつも違う道を歩きなさい」。 これらの超大作は共通して、舞台は「脱イギリス」だが、イギリス人の冒険を求める心が描かれているのが、特徴だ。両作を手掛けた、デヴィッド・リーン本人の心持ちとも、重なっていたように思える。 さて話を『ロレンス』に戻せば、撮影が終わって仕上げに入る段階で、また1人得難い“才能”が参加する。フランス出身の作曲家、モーリス・ジャールである。 ジャールは映画音楽を書くためのインスピレーションは、脚本ではなく、スクリーンで映像を観た時に得るものが、最も大きいと語る。「脳とハートを働かせ、監督と一緒に仕事をして色々なアイディアを交換することで、インスピレーションが湧いてくる…」のだそうである。『ロレンス』は、曲を作る段階で、撮影はすべて終わっていた。そしてジャールは作品に参加後、最初の1週間は、40時間の未編集の映像を、ひたすら観ることとなった。 リーンから「これをカットして、4時間の映画にする」と言われたが、その内2時間分の音楽を、6週間で書き上げなければならないという過酷なスケジュール。昼も夜も書き続けて、レコーディングが終わる頃には、「ほとんど死んでいました(笑)」と、後にジャールは述懐している。 因みにサム・スピーゲルからは、「オペラのような感じを出したい」と、注文を出された。当時は本作のような大作の場合、映画の始まる前や休憩の時に、音楽を流すのが流行していた。まず序曲があって、それが終わるとカーテンが開いて、オペラが始まる。そんなイメージだったという。 ジャールは曲の出だしで、パーカッションを用いて、観客を「…一瞬でアラビアにいるような気持ちにさせる…」ように工夫した。そしてそれは、大成功を収める。 因みに先にも触れた、オマー・シャリフ演じるアリの登場シーン。ジャールはリーンに、観客に何かを語る音楽を作るかと提案したら、「そこに音楽は要らない」と返された。静寂の中、少しずつラクダの足音が近づいてくる方が、ずっとドラマティックというわけだ。風の音や自然の一部も、すべて音楽だというリーンの考えであった。 ジャールはリーンとは、最後の監督作品『インドへの道』(84)まで付き合うこととなる。 さて今回「ザ・シネマ」で放送されるバージョンは、全長227分もの[完全版]。実は1962年の本作初公開時は、諸般の事情でカットが重なり、リーン監督にとっては不本意な形になってしまった。 その後カットされたフィルムが見つかったのを機に、88年に本来の状態に構成し直してデジタル・リマスタリングされたものが、この[完全版]である。 再編集はリーン自らが行い、音声素材が残っていなかった未公開シーンではオトゥールをはじめオリジナルキャストが再結集。改めてアフレコを行った。 多額の資金が必要だったこのプロジェクトで、大きな役割を果たしたのが、マーティン・スコセッシとスティーブン・スピルバーグ。2人とも『アラビアのロレンス』及びデヴィッド・リーンから、ただならぬ影響を受けて育った映画監督である。 スピルバーグが最も尊敬する“巨匠”が、リーンであることは、つとに有名だ。そしてリーンの監督作品の中でも『アラビアのロレンス』(57)は、自作を撮影する前に必ず見直す作品の1本だと語っている。 [完全版]は、今や正規バージョンとなっている。劇中のロレンスの悲劇的な最期と対照的に、映画作品として「めでたしめでたし」の帰結である。 その一方で、忘れてはならないことがある。ロレンスが関わった“アラブ反乱”の、リアルなその後だ。 当時のイギリスが、アラブの独立など認める気がなかったのは、記した通り。内容が矛盾する様々な密約を、アラブ側やユダヤ勢力と結ぶ、いわゆる悪名高き「三枚舌外交」を展開していた。これが「パレスチナ問題」のような、今日でも解決の糸口が見えないような、大きな問題に繋がっている。 T・E・ロレンスは、映画を観た我々にとっては、「アラブ諸国の独立に尽力した人物」「アラブ人の英雄」のように映るが、実際はどうだったのか?実はイギリスの「三枚舌外交」の尖兵だったのでは?そんな指摘も為されている。 どうであれ、本作が紛れもない傑作であるのは、揺るぎはしまい。しかし鑑賞の際、アラブの現在やパレスチナの悲劇に思いを馳せるのは、忘れないようにしたい。 私にはそれが、砂漠とアラブの人々を愛した、本作に登場するキャラクターとしての、ロレンスの遺志に添うことのように思えるのである…。■ 『アラビアのロレンス』© 1962, renewed 1990, © 1988 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.02.14
北の野人が壁を越え、王都を占領し鉄の玉座に就いて七王国を統べる。その統治の終焉を描く『ラストエンペラー』
『ラストエンペラー』公開時、筆者は小学校卒業まぢか。日本社会が大騒ぎになっていたことを覚えている。87年度アカデミー賞で作品賞・監督賞以下9部門を総ナメにし、特に作曲賞を坂本龍一が受賞すると、社会現象に近い興奮になっていった記憶がある。今でもそうだが「ニッポン凄い!」、「世界が絶賛!」といった他者評価にめっぽう弱い国民性。まして当時のこと。これほどの晴れ舞台で日本人が顕彰されては、国民的な熱狂もいたしかたない。 坂本龍一は作曲家として第60回アカデミー作曲賞を他の2人と共同で受賞したが、実は役者としての参加が最初に決まっており、作曲のオファーは後からだったそうな。役者としては甘粕正彦役を不気味に演じている。甘粕は最後は満洲映画協会のトップに収まった“映画業界人”だが、その前は満洲国建国のための陰謀に暗躍した人物。さらにその前、憲兵だった頃の関東大震災では、反体制思想家カップルを締め殺したりもしている。異様な凄みをみなぎらせているのは、そのため。 昭和62年夏、金曜ロードショーで『西太后』がオンエアされた。筆者の仲の良いクラスメイトたちは全員TV洋画劇場を見ていた。西太后のライバルの側室が、両手両足を切断され甕の中に首から下を押し込まれて飼い殺しにされる、というシーンの話題で、週明けの教室は持ちきりになる、そんな時代だった。年が明け昭和63年の正月第2弾として『ラストエンペラー』が劇場でかかり、第60回アカデミー賞の発表を挟んで、春にはスピルバーグ『太陽の帝国』が公開された。なぜか“あの時代”の“あのあたり”が盛り上がっていた昭和の末頃だった。 当時は、“あの時代”の日本の侵略や戦争は良くなかった、という反省が、まだ戦後の良識として日本国民の間で当然に共有されていた。“あの時代”を生きて酷い目に遭った世代(筆者の祖父のような)もいまだ健在で、逆に、『ラストエンペラー』にせよ『太陽の帝国』にせよ、特に説明がなくともむしろ日本人こそ当事者として欧米人以上にバックグラウンドを理解しやすかったはずだが、今やあれからさらに30年以上がたって、“あの時代”を知る世代も減り、小6の小僧は45歳の中年になり、世代は入れ替わった。改めて、“あの時代”に何が起こったのか、むしろ映画の外側にある出来事を確認しておく必要が、今となってはありそうだ。 『ラストエンペラー』とは、もちろん秦の始皇帝(The First Emperor)との対比であって、中華帝国最後の皇帝の生涯を描いた歴史ドラマである。それは、映画を見れば解る。中学生でも解る。筆者は中学に上がってTV放映された際にこの映画を初めて見たが、そこまでは解った。解らないのは、この中華皇帝が実は中国人であるのかどうだか微妙、という、複雑な歴史的背景だ。そのバックグラウンドまで理解していないと、この映画のシーン・シーンで何が起こっているのかまで付いていけない。以下、映画と無関係なような話が続くが、ご勘弁ねがいたい。映画を理解する上で必要な情報だ。 中国共産党の全面支援のもと、かつての紫禁城こと故宮博物院でロケを敢行。3度のアカデミー撮影賞に輝く撮影監督ヴィットリオ・ストラーロにより、明・清2王朝の皇宮が鮮烈な色彩美と深い陰影でとらえられた。なお故宮の「故」とは、「故事」「故郷」と同じく「昔の、古い」という意味で、つまり「元宮殿」という意味。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 異論の余地なく中国人(漢民族)による中華帝国であったのは、『ラストエンペラー』の清朝の一つ前、明朝だが、後期その支配が緩んだところで、今の中国東北部、北朝鮮の上のあたりに、清は興った。いや、まだ清とは呼べない。「女真族」という民族が強大化して、後に清国を建国するのだが、その頃はまだ女真族と呼ばれていた。彼らは中国人(漢民族)ではない。中華化していない外側の土地(「化外の地」)に暮らす、北方の異民族なのだ。 女真族は500年前にも「金」という帝国を築き、中国の上半分を支配する形で中国史に登場したこともあったが、モンゴル帝国(後の元朝)によってこの金朝は滅ぼされてしまう(1234年なので覚えやすい)。蒙古襲来の時に日本に押し寄せてきた蒙古軍の中には、モンゴル人、中国人、高麗=朝鮮人だけでなく金朝の遺民である女真族も含まれていたというから、彼らは鎌倉時代に一度、我が日本と因縁があったということになる。20世紀初めの『ラストエンペラー』の時代まで続く、中国、蒙古、朝鮮、女真(後の満洲)、日本という主要プレイヤー“五族”が、遠い鎌倉時代の元寇の時点ですでに一度出揃っていたのだ。 元が衰退した後は、元の後を襲った明朝の間接支配下に甘んじてきた女真族だが、次第に勢力を盛り返し、今度は明が弱体化すると再び天下を狙って動きだし、初代皇帝の時にジンギスカンと同じ「カン(遊牧民の首領)」の称号を名乗り、「後金」の国号も蘇らせた。 さらに2代皇帝の頃には、元朝から伝来する正統な大元帝国の後継国の証しである国璽をモンゴル系部族から献上され、モンゴル諸部族を糾合して正式にカンに押し立てられる(女真族はモンゴル系でも遊牧民でもないのに)。これにより元朝は名実ともに消滅。ここで後金は国号をさらに「清」へと変更し、部族名も女真族から「満洲族」に改めた。満洲は「マンジュ」と発音し、文殊菩薩の「文殊」のことで、聞こえのいい響きだった。こうしてモンゴル帝国≒元朝の後継国となった上で、北方(今の中国東北部、北朝鮮の上のあたり)から万里の長城を越境して、中華帝国・明への侵犯を繰り返すようになる。 3代皇帝とその後ろ盾の叔父の代に、明が農民反乱により皇帝一家無理心中をもって滅びると(おそらくこれが本当の意味でラスト中国人エンペラーだったろう)、「亡き皇帝の仇討ちとして反乱軍を討伐する」との大義名分をかかげ(自分たちもさんざん明に侵寇していたのに)長城を越え中華文明圏に入り、今回はそのまま北京に居座ってしまった。これを「入関」という。「関」の字はキーワードなので後述する。そして中華帝国の都・北京で3代皇帝はあらためて即位式を執り行う。時に1644年。日本では徳川幕府3代将軍家光の時代だ。 かくして、その後1912年(明治45年=大正元年)まで、中国人ではない満洲族による清朝が、中国を支配した。「この中華皇帝が実は中国人であるのかどうだか微妙」と前述したのは、以上の歴史的な経緯があるためである。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 三国志などで中国史に親しみのある者にとって、現代の中華人民共和国は三国志時代と比べて東西に数倍拡大したように、“むっちゃくちゃデカく”見える。そうなったのは比較的最近の清代なのだ。下の地図のうち濃い黄色が、歴史的・伝統的な本来の中国の範囲である。その本来の中国を、東の満洲(MANCHURIA)が3代皇帝の時に後から飲み込んだ、という順番になり、MANCHURIAはそのまま今も中華人民共和国に残っている。また先に見た通り、2代皇帝が満洲に併合したモンゴル(MONGOLIA)のうち、内蒙古(INNER MONGOLIA)も「内モンゴル自治区」として今もそのまま中国に留まっている。ちなみに外蒙古(OUTER MONGOLIA)は今日のモンゴル国にあたるので、今は中国領ではない。 また、時代下って18世紀末〜19世紀初めの清最盛期の名君・6代乾隆帝の時代に(地図は子の7代皇帝時代の版図)、西の新疆ウイグル(TARTARY。新疆とは「新たな領土」の意味)やチベット(TIBET)を征服し、西方にまで領土を大きく広げ、清は最大版図を実現。この新疆もチベットも、今も中国に留まっている。 地図はWikipediaより 地図の薄いレモン色が、清が新たに中国にもたらした領土である。ちなみに朝鮮・沖縄・東南アジアなどのオレンジ色は、外国ではあるが従属国だ。このように、東部→中央(本来の中国。濃い黄色)→西部へと、満洲族の清朝は領土を広げていき、その版図がそのまま中華人民共和国として今日にまで引き継がれているのである(赤い点線が現在の中華人民共和国の国境)。西の新疆ウイグルは今もとかく話題にのぼるが、東の満洲もまた、以上のいきさつを見れば、歴史的に複雑な経緯をへて“中国”に最近なった土地だとわかる。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ところで。男で後頭部だけ頭髪を1メートルぐらいに伸ばし、その他は青々と剃り上げ、三つ編みのような、いわゆるラーメンマンの髪型(辮髪)にして、キョンシーの帽子(朝冠)をかぶっている姿。あれは、満洲族の習俗であって、中国人の伝統ではない。中国人は元来、聖徳太子か頼朝か秀吉のような、あるいは韓流歴史ドラマのような、髪をマゲに結ってその上から黒い冠(「紗帽」)をかぶる髪型をしてきた。清代の中国人は、支配者満洲族の習俗を押し付けられてあの独特な格好をしていたのだ。入関すると3代皇帝(の後ろ盾の叔父)は即刻「薙髪令」を発布し、「留頭不留髪,留髪不留頭(首をとどめたいなら髪をとどめるな、髪をとどめたら首はとどめられないぞ)」と強制したのである。「ナメられないには最初が肝心。まず無茶ぶりしてシメてビビらせてやろう」ということか? また、チャイナドレスもチャイナのものではない。イップマンが着ている裾の長い「長袍(チャンパオ)」も、キョンシーが着ている黒と青の官服もそうだが、いずれも満洲族の被服文化であって、中国の伝統的民族衣装である「漢服」とは異なる。漢服もやはり、中大兄皇子や中臣鎌足、韓流歴史ドラマの王様、あるいは、チマチョゴリや高松塚古墳の飛鳥美人図のようなデザインである。それが中華文明の影響圏(日本・朝鮮ふくむ)で3000年にわたって、各国でアレンジされながらも共有されてきた衣服文化だ。清朝のものは、それらとは系統がまるで違う。満洲が非中華圏・異文化圏であったことは、こうした点からもよく解る。 若き溥儀とジョンストンさんが“キョンシー帽”ことフォーマルな朝冠をかぶっている。清の朝冠の冠頂には官位を表す宝玉が付く。溥儀が上にまとっている服は「旗装」で、下にはマオカラー「立領」式の内衣を着ている(これらをもとに後世チャイナ・ドレスが生まれた)。伝統的な中国の民族衣装とは全く系統が異なる形状をしており、そこに、中国伝統の「ドラゴン柄」や「皇帝イエロー」が組み合わされている。 左から、明(本当の中国)最盛期を築いた永楽帝、朝鮮の聖君・世宗大王、そして日本の秀吉。頭にかぶるのは「紗帽」で、服は、着物のように体に巻いて着る式のローブ型の内衣の上から、丸襟の上衣「袍」をまとっている。それを皇帝や王が身につける場合は厳密には「袞龍袍」、「翼善冠」と美称で呼ばれたり、秀吉がまとっているものは「袍」を先祖として日本で独自に進化した「直衣」だったりはするが、ザックリ言って同系統であることは一目瞭然だ。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 中華文明圏の外側、東西南北の化外の地に暮らす諸民族は、中華的世界観においては野人と見なされ蔑まれてきた。中華とは世界の中心で咲く花であり、満洲族は北部辺境の野人にあたる。その野人が、世界の中心に乗り込んできて花になってしまった。 余談だが、仰げば尊し中華の恩と慕ってきたのが朝鮮で、中華皇帝の使節のための迎賓館を「慕華館(中華を慕う館)」、その使節が通る門を「迎恩門(恩を迎える門)」と名付けていたほどだ。しかも明には、秀吉の朝鮮出兵の際に援軍を送ってもらった大恩まであった。明vs清抗争期、朝鮮は明の方に義理を通そうとしたが、清2代皇帝に服従を迫られ、徹底抗戦を決意するものの厳寒の篭城戦にたえきれなくなって降伏。親征してきた清2代皇帝の前で朝鮮国王が土下座(三跪九叩頭の礼)をし、以後、服従を誓い、明を裏切って清側に付く、という屈辱的な出来事があった。これを「丙子胡乱(へいしこらん)」と言う。丙子は1636年をさし、「胡」は北の化外の地に住む野人を蔑視した差別用語である。 韓国映画界は、この出来事をアクション仕立てにした『神弓-KAMIYUMI-』(2011)や、忠実に歴史を描いた『天命の城』(2017)等を制作している。『天命の城』は、抗戦派重臣をキム・ユンソク、和平派重臣をイ・ビョンホン、王をパク・ヘイルが演じた、堂々たる歴史映画だ。 韓流歴史ドラマや映画で、北の野人との戦いが描かれている作品は、枚挙にいとまがない。たいがいはエスキモーのような毛皮の服をまとい、顔は赤茶色に雪焼けして唇はガサガサにひび割れ、鼻や頬を真っ赤に染めて鼻水を垂らした風体で描かれる(最近だと2017・18年の『神と共に』シリーズなど)。これは、満洲族として清朝を打ち立て世界の中心で咲く花となる前の、胡と蔑まれていた頃の女真族である。「オランケ」「オランカイ」とも呼ばれる。清以前の時代の女真族を、中華文明に憧れてきた朝鮮王朝(の末裔の韓国映画界)がどう見ているか、うかがい知れて興味深い。 余談はここまでにして本論に戻る。中華は≒中国は、歴史的には万里の長城の内側だけを指す。そこでは様々な中華王朝が4000年にわたって興亡と栄枯盛衰を繰り広げてきた。いわば七王国のようなものである。王都はここ数百年間は北京で、そこには鉄の玉座があるというわけだ。そして今、壁の向こうから侵入してきた北の野人が、王都を占領して鉄の玉座に君臨してしまったと喩えれば、ゲースロのファンならばどれほどの事態が起こったか、諒解されよう。もっとも、実はそうした事態は珍しくなく、中国史用語では「征服王朝」と呼ばれ繰り返されてきたことではあるのだが(例えば金と元だ)、それがよりにもよって、最後の中国王朝・ラスト中華エンペラーになってしまったことが、事態を複雑にしている。 後回しにしていた「関」の話をしよう。万里の長城には壁に開けられた出入口「関」がある。容易に突破されないよう城塞化されていて、日本の江戸時代の関所の比ではない。北の野人との間にある長城の関は「山海関(さんかいかん)」と呼ばれ「天下第一関」とされる(下画像)。万里の長城ひとつめ(最東端)の関だからだ。その外側、北の野人が住む化外の地を「関外」、内側の中華世界≒中国を「関内」と呼ぶ。関を入ってくること、つまり北の野人が七王国の文明世界に入ってくることを「入関」と言う。 画像はWikipediaより さらに、満洲の土地は関の北というより北東、右上の方角なので「関東」とも言う。関東≒満洲なのだ。そして、そこに駐留した大日本帝国の軍隊の名称を「関東軍」と言う。さあ、いよいよ我らが日本の出番である。“あの時代”のメインプレイヤーだ。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 開国後の日本にとって、最大の脅威はロシアだった。当時は帝国主義の時代。ボーっと生きていればたちどころに餌食にされ植民地化されるだけ。それを恐れ、まず明治維新で自国を近代化し富国強兵を急ピッチで推し進め、並行して、朝鮮もどうにかせねばと考えた。まずは日本の味方になってくれる親日の独立国、同盟国にしようと構想。朝鮮のためを思ってではなく、日本を守る盾にしようとしたのだ。朝鮮は近代化をしておらず、まさに格好の餌食で、ここがロシアに獲られたら日本はロシアの脅威に直接さらされてしまう。朝鮮が盾になってくれれば日本はワンクッション挟んで(これを「戦略的緩衝地帯」と呼ぶ)ロシアと対峙できる。 当然、朝鮮はそう都合よく日本に従ってはくれない。朝鮮からすれば「勝手な話だな!」としか言いようがない。そこで日本は、強引に朝鮮への進出を図る。先に見た通り、朝鮮国王が清朝皇帝に土下座しその権威を受け入れたため、清は朝鮮の“保護者”的立場であり、朝鮮にちょっかいを出されて黙っているはずがない。そこでまず日清戦争が勃発(戦場となったのは朝鮮半島だ)。勝ったのは日本だった。 清はこの敗北で、アヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱と、半世紀以上もうち続いてきた内憂外患、断末魔の大混乱にますます拍車がかかってしまい(その後で義和団事件まで起きて)、ついに1911年に武漢から始まった辛亥革命にて、1912年、滅亡。その時に最後の皇帝だったのが、本作『ラストエンペラー』の主人公、宣統帝・溥儀である。映画の中では描かれないこの清朝滅亡と皇帝退位のいきさつは、溥儀本人が知る由もないし理解もできなかったであろう6歳の時、宣統3年に、実は映画の外では起こっていたのだ。 溥儀が即位したのはわずか3歳の時だった。映画冒頭の即位式のシーンで、幼い宣統帝が飽きてグズって暴れ出し、今や臣下となった実の父親が「シーっ!シーっ!すぐに終わるからね」となだめ、それを聞いた周囲がギクッとするシーンが出てくるが、これは実際にあったエピソード。「清の世はすぐに終わる」という不吉な予言的失言となってしまったのだ。 この時、溥儀に12代皇帝の白羽の矢を立てたのが西太后である。3代前の9代皇帝の側室だった老婆だ。宣統帝・溥儀の2代前の10代皇帝は、西太后自身が腹を痛めて産んだ我が子だったが、彼女は何から何まで口出しして自ら政治を行う毒親であり、息子はフテて風俗狂いに。挙げ句の果てに性病をもらってきて19歳で若死にしてしまう。次いで、過去の皇帝の血筋である男子(この子も3歳だった)を引っ張り出してきて11代皇帝に据え、またも彼女は後見人として自ら政治を行うのだが、この時に日清戦争が起こり、清は相対的には強大かつ最新鋭の海軍を保有していたにもかかわらず、軍事予算が西太后の道楽のため流用されていたので整備不足であり、格下の日本海軍相手に完敗を喫してしまう。そんな中11代皇帝は成長し、西太后と対立してでも清を救うため政治改革と近代化=維新を断行しようとするが、しかし結局は西太后の巻き返しによってわずか100日で潰されてしまう(史に言う「百日維新」である)。皇帝は幽閉され、10年後に実権を取り戻せないまま37歳で謎の死を遂げる(今では毒殺されたことが遺体の法医学検査で判明している)。皇帝薨去の翌日、西太后も死ぬ。直前に12代皇帝に3歳の溥儀を選んでいた。 映画『西太后』では別の若いライバル側室の両手両足を切断し甕に漬けるという、小6の筆者の幼心に強烈なイメージを残した歴史上の人物で“中国三大悪女”の一人。その映画では、西太后の出身氏族「エホナラ氏」の女が清の後宮に入ればいずれは清朝を滅ぼす、という予言“エホナラの呪い”も語られていた。この2つのエピソードはあくまでフィクションだが、西太后が清滅亡の元凶であった事実は変わらない。 宣統帝・溥儀もその後わずか3年で辛亥革命により6歳で退位し、ここに清朝は滅亡するわけだが、革命政府に飲ませた「清室優待条件」によって、溥儀は紫禁城の中で軟禁状態ながらも皇帝としての礼遇を受けながら暮らし続けることだけは許されてきた。しかしその日々にも終わりがやってくる。清朝滅亡後の新生中華民国は、軍閥が群雄割拠する戦国時代さながらの様相を呈していた。そんな中1924年、「北京政変」と呼ばれるクーデターが発生し、18歳になっていた廃帝(廃止された皇帝)溥儀ら帝室一家は、その巻き添えを喰う格好で、清室優待条件を廃止され、紫禁城を追放されることになるのである。 紫禁城追放時の溥儀。溥儀のトレードマークである色眼鏡に気を取られるが、“チャオズ帽”ことカジュアルな「瓜皮帽」をかぶって「長袍」を着ていることに注目したい。この時すでに皇帝ではないため「朝冠」や「朝袍」といった清朝廷のフォーマルウェアは身につけていないのだ。なお、「瓜皮帽」は満洲由来ではなく、明代に「六合一統帽」として初代・洪武帝が発明したもので、明・清・民国初期の3時代を通じ中国人のシンボルとなった。 ところで、故宮に乱入してきた軍閥クーデター部隊が掲揚する旗は「五色旗」。清代から軍旗として使われており、そのまま革命後は中華民国国旗として使用され続けた。この政府から追い出された孫文の派閥が用いた旗が「青天白日満地紅旗(今の台湾国旗)」で、孫文派が後に全国を統一した時、そちらの方が中華民国の新国旗とされた。では、用済みとなった旧五色旗はどうなったかと言うと…後述する。 話を日清戦争終結の時点まで戻す。この勝利が逆に藪蛇となって、日本が恐れていた通り、ロシアが南下してきて満洲の利権を獲得し、朝鮮(王が皇帝と改称して「大韓帝国」となっていた)にも手を伸ばそうとしてきた。新興国日本つぶしであり、日本にとっては最悪の展開だ。一時は「満韓交換論」でロシアと話をつけたいとの伊藤博文らの動きもあった。「満洲はそっちの物、朝鮮はこっちの物、お互い干渉せず」という考えだが、上手くまとまらず、ついに日露戦争が始まり(今度の戦場は満洲だ)、これにも日本はまさかの勝利をおさめる。結果、日韓併合によって朝鮮半島は完全に日本のものとなり、加えて、ロシアが獲得していた満洲の権益までも日本は棚ボタ式に手に入れる。 かくして、明治維新以来、戦略的緩衝地帯として欲してきた朝鮮半島のみならず、広大な満洲にまで進出の足がかりを得た日本は、今度は朝鮮と同じように満洲を完全に我が物にしよう、日露戦争では「十万ノ英霊、二十億ノ国帑(10万人の命と20億円の戦費)」という多大な犠牲を払ったのだから当然の権利だ、との発想を持つに至る。いつしか、ロシアの脅威から国を守ろうとか、植民地化されないための戦略的緩衝地帯の確保とかいった理由はどこかに消え、気がつけば植民地を貪欲に喰いあさる側へと自分自身が回っていた。 この底なしの欲望を実現するべく、東京の国家意志を無視して独断専行で暴走しまくったのが、満洲の主「関東軍」である。長城の「関」の「東」側に駐留する、元々はロシアから獲得した鉄道を警備するために置かれた守備隊程度のものが肥大化した、日本陸軍の海外展開軍だ。彼らは自作自演の謀略を次から次へと繰り出し、野望の実現を目指す。 彼ら関東軍の当初の計画は、朝鮮同様、満洲の併合であった。しかし国際的批判がかわせないと判断して断念。明治維新直後に朝鮮をそうしようと構想していたように「親日の独立国・同盟国」にする方針へと転換する。1932年、かくて満洲国(共和政)が建国され、そのトップたる執政の座には、清の廃帝、ラストエンペラー溥儀が就任。彼は26歳になっていた。なおこの時、国際世論の目を満州から逸らそうと、関東軍は遥か遠い上海の地で日本海軍に自作自演の軍事衝突事件を起こさせたりもした。しかし、ここまでしてエクスキューズを設けてもなお全世界からの非難はかわしがたく、日本は満洲問題で吊し上げを喰らったことを不服とし、国際連盟から脱退。また、満洲国は溥儀の熱望どおり2年後には帝政に移行して満洲帝国となり、元宣統帝であった溥儀はその最初にして最後の皇帝「康徳帝」として即位するのである。この時には関東軍は内蒙古にも侵攻した。内蒙古は満洲国の一部であるとの理屈で。さらには、長城線を越えて関内にまで戦火は一時拡大したのであった。 中華民国が使わなくなった五色旗は、満洲国の国旗「新五色旗」として引き継がれた。当時はまだ「つい数年前まではこっちの方が中国の旗だったのに」という印象があったはずだ。劇中では溥儀が軍服を着た時の帽章にも注目を。なお、この写真のシーンは、中華帝国の古式にのっとって皇帝即位を天帝(という神)に報告する「郊祭式」が催されているところだが、その式次第や作法、そして旗も、細かく見ると、慣れない日本が急ごしらえで作った“パチもん感”溢れる偽物であったという。今でも、この、日本が作った傀儡の満洲国・満洲帝国は、中国で「偽満」と呼ばれている。 日本は、以上の満洲獲得だけではまだ飽き足らず、むしろこれに味をしめる。関内すなわち長城内側の中国本体にまで領土的野心を抱き始めた軍部は、ますます暴走。東京の陸軍中央、政府、さらには天皇でさえコントロール不能になっていく。国民とマスゴミがこぞって応援したからだ。彼ら出先の軍部が自作自演の謀略で衝突を起こし、東京の指示を待たずに独断で軍事行動を起こし、国民とマスゴミが大声援を送り、東京は事後承諾する、というパターンが繰り返されていく。そんなことをやっているうちに国際的にさらに孤立を深め、ナチスドイツのような札付きしかつるむ相手がいなくなっていく。 満洲での手口は国際的に激しく非難されたが、中国本体への野心はもはやレッドラインを踏んでしまっており、アメリカが本気で怒り始めると、今度はそれに対抗するためフィリピンの米軍基地に距離的に近い、縁もゆかりもない南方、ベトナム北部に、日本は陸軍を進駐させる。日本軍は満洲や朝鮮でロシアと戦うために存在してきたというのに!そして、このことがむしろ逆に、決定的にアメリカが引いたレッドラインを大きく踏み越える格好になってしまい、いよいよ日本は、10年後の昭和20年8月15日の一点に向かって、自滅の道を突き進んでいくことになるのである。 そしてそれは、日本が作った傀儡国家・満洲帝国の崩壊の時でもあるのだ。日本敗戦から3日後、溥儀、退位宣言。康徳12年(=昭和20年)8月18日であった。紀元前221年のファーストエンペラー即位から数えて2167年目の出来事だ。■ ©Recorded Picture Company
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COLUMN/コラム2012.06.22
映画音楽の魅力を再発見!
昨年12月にニーノ・ロータ生誕100年に合わせて、ザ・シネマで「特集:映画音楽の巨匠たち」を放送した際に、「映画の大きな魅力のひとつである映画音楽の魅力を再発見した」、「懐かしいメロディを聞き、もう一度見たくなった」など、多くの暖かいご意見、ご感想をいただきました。私も子供時代に映画音楽大全集というLPレコードBOXを誕生日に親にねだって買ってもらったことを思い出し、○○年ぶりにLPに針を落とし映画音楽の魅力にドップリひたりました。ザ・シネマでは毎月、映画音楽の魅力にあふれた名作を放送中です。モーリス・ジャールの壮大なテーマ曲が印象的な名作「アラビアのロレンス」は7月に放送です。また、12月の特集ではお届けできなかったニーノ・ロータの代表作「ゴッドファーザー」は8月にシリーズ一挙放送です。映画音楽ファンの皆様、お楽しみに。 ※『アラビアのロレンス/完全版』 ※『ゴッドファーザー[デジタル・リストア版]』さて、映画音楽といえば、ザ・シネマのグループ・チャンネル、クラシック音楽専門チャンネル クラシカ・ジャパンで7月にスペシャルな映画音楽特集を放送します。こちらも、チェックしてみてください。以下、ご紹介です。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■みなさん「シネコン」って知っていますか? 「映画館」のことではありません。シネマ・コンサート、略して「シネコン」。この映画音楽を本格オーケストラで楽しむシネコン、実は最近即日完売の人気ぶり。そりゃー魅力的、でも映画館と違ってわざわざホールに行くのは敷居が高いし、ちょっと… という方。なんとテレビで気軽に楽しめてしまう素敵な番組があるのです!その名も「特集:クラシックと映画のステキな関係」。クラシック音楽専門チャンネル、クラシカ・ジャパンで7月放送予定とのこと。ラインナップをのぞいてみると…何やら楽しそうな予感。まずクラシック音楽の本場ウィーンとロンドンで話題となった豪華シネコン。映画音楽の金字塔「ニュー・シネマ・パラダイス」から始まり「E.T.」「スター・ウォーズ」「ハリー・ポッター」など新旧の名作がずらり。また巨匠アラン・シルヴェストリ氏による「バック・トゥ・ザ・フューチャー」自作自演(?)や、「007/慰めの報酬」でビル・タナーを演じたロリー・キニアも登場。クラシックとはいいながら、内容は完全に映画ファン向け。いや、これは映画好きなら見逃せません!サントラで音楽を聴くのとは違って、大オーケストラを前にすると、まるで録音現場に立ち会ったような気分を味わえます。その他にも三大テノール、プラシド・ドミンゴ主演のオペラ映画や、あのマイケル・ビーンが出演した音楽映画など興味深い特集が満載。映画とクラシックって意外に共通点が多いんですね。 この機会に新発見があるかもしれません!詳しい放送情報はこちら! ■クラシック音楽専門チャンネル クラシカ・ジャパン 7月特集:クラシックと映画のステキな関係▼ハリウッド in ウィーン20117月13日(金)21:00- (再放送あり) © ORF/Milenko Badzic ▼BBCプロムス2011 映画音楽の夕べ7月20日(金)21:00- (再放送あり) ©Chris Christodoulou 2011