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COLUMN/コラム2024.03.08
ディカプリオが惹かれた「謎の大富豪」。若きハワード・ヒューズの20年を描く。『アビエイター』
「謎の大富豪」。 1976年、ハワード・ヒューズ70歳での訃報に直に触れたことのある者は、こんなフレーズを、やたらと耳にした記憶があるかと思う。 1958年の公式インタビューを最後に、亡くなるまでの20年近くは、マスコミから姿を隠し、ラスベガスのホテルに独居。立退きを迫られると、そのホテルごと買収して、ほとんど外出せずに暮らし続けたという。 遺された総資産が360億㌦にも上り、「謎の大富豪」のフレーズがあまりにも立ち過ぎた故、私などは彼の業績や実績を、かなり後年までほとんど知らなかった。“発明家”“飛行家”そして“映画製作者”として名を馳せたという事実を。 190cmと高長身で、ハリウッドスター並みの容貌。ひとつの人生で何人分もの体験をして、多くのことを成し遂げたヒューズには、「20世紀で最高に寛大な金持ち」「身勝手な人」など、正反対の評価が付いて回る。 そんなヒューズの人生に、魅せられた男がいた。レオナルド・ディカプリオだ。 1974年生まれの彼は、『ギルバート・グレイプ』(1993)で、19歳にしてアカデミー賞助演男優賞の候補となり、『タイタニック』(97)で、押しも押されぬ若手のTOPスターとなる。 彼がヒューズに興味を持ったのは、10代の頃。この「謎の大富豪」を、正面切って描いた伝記映画は、長く存在しなかった。そしてディカプリオは、20代の8年間、ヒューズの人生を映画化するプロジェクトに心血を注いだのである。 ヒューズは、“飛行機”と“映画”と“女性”に、同じような情熱で関わったという。ディカプリオはその伝記を何冊も読み、様々な書き手が、各々違う見方で彼について書いているのを発見。一言では言い表せない複雑な人間だからこそ、こんなにも惹かれるのだと、得心した。そこに俳優としてのやりがいを強く感じると同時に、自分とヒューズの共通点が、「完璧への執着」であることを見出したという。 ディカプリオは、製作会社「アピアン・ウェイ」を設立。その第1作としてこの企画を取り上げ、自らは製作総指揮と主演を務めることにした。 タイトルは、“飛行家”という意味の“アビエイター”に。そして監督は、マーティン・スコセッシに決まる。 スコセッシとディカプリオは、前作『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)に続く顔合わせ。…と言うよりも、本作『アビエイター』(2004)は今日に於いては、『キラー・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)まで6作に及ぶ名コンビの、2作目という位置付けになるのだろうか? しかしスコセッシの起用は、当初はディカプリオの頭にはなく、スコセッシ自身も、“ハワード・ヒューズ”という題材には、まったく興味がなかったという…。 ***** 1920年代。ヒューズは父から受けた莫大な遺産を元手に、夢のひとつ“映画製作”を開始。念願の企画だった航空アクション映画『地獄の天使』製作で、本物の戦闘機を買い集め、自ら空中スタントをこなし、ついには監督まで務めることとなった。この作品は、2年近く掛けてようやくクランクアップ。しかしトーキー映画第1作『ジャズ・シンガー』を観たヒューズは、サイレント映画だった『地獄の天使』を、全編音声入りで撮り直すことを決めた。 史上空前の莫大な予算を掛けて3年がかりで完成した『地獄の天使』は大ヒット。しかし大赤字に終わる。 ヒューズはもう一つの夢だった、“航空事業”に着手。会社を立ち上げ、世界一速い飛行機の開発を始めた。 女性と次々と浮名を流していたヒューズは、新進女優のキャサリン・ヘプバーンと恋に落ちる。2人は真剣だったが、やがてズレが生じ、破局が訪れる。 以前から潔癖症の傾向があったヒューズの病みは深まり、強迫神経症の症状が顕著となる。一時は服を着ることも水に触れることも出来ず、全裸のまま暮らし、他人との接触や外出を、恐怖と感じるようになった…。 その後ヒューズは、大手航空会社「TWA=トランス・ワールド航空」のオーナーとなる。第二次大戦開始後には、政府からの資金を受けて、世界最大の輸送機の開発を進める。同時に偵察機を開発し、自らテスト飛行を行うが、墜落事故で瀕死の重傷を負う。 復帰後の彼を襲ったのは、開発が遅れていた輸送機に関し、公費の不正使用を疑うFBIの強制捜査だった。公聴会でライバル企業の息が掛かった上院議員と対決することとなったヒューズは、精神状態が著しく悪化。試写室に全裸で引き籠もって、絶体絶命のピンチを迎えた。 元恋人の女優エヴァ・ガードナーのサポートで、ヒューズは公聴会に何とか出席する。果して彼は、この難局を乗り切れるのか!? ***** 構想から実現までの8年間、ディカプリオはヒューズの伝記をはじめ、関係する本や資料を読み漁った。更には録音テープを聴き、古い映画を何本も鑑賞。その上で、ヒューズと交際していた女優も含め、彼を直接知る人々に会うなど、「ハワード・ヒューズとして」生活するところから、役作りを始めた。 ヒューズ流の、向こう見ずな“飛行術”を学んだのも、その一環。ヒューズが悩まされていた、異常な潔癖症の実際を知るためには、この病気に詳しい医者を訪ね、症状を詳しくリサーチした。“映画化”まで時間が掛かった分、ディカプリオは十分な準備ができたとも言える。 監督は、『ヒート』(95)や『インサイダー』(99)のマイケル・マンに依頼。そのマンを通じて脚本は、『グラディエーター』(2000)や『ラスト サムライ』(03)のジョン・ローガンにオファーした。 ディカプリオとマンは、ヒューズの全生涯を追ったり、狂気に侵された晩年を描いたりするのではなく、彼の若い頃に焦点を当てることにした。奇行で有名な「謎の大富豪」ではなく、“航空機”と“ハリウッド”の両方の世界で大活躍する、過激なほどの想像力と先見性を兼ね揃えた、精力的で若々しい“英雄”としての、ハワード・ヒューズである。 物語の核には、大きな2つの出来事を、据えることを決めた。それは、ヒューが20代後半に挑んだ、『地獄の天使』製作、そして1940年代、ヒューズ率いる「TWA」が、国際航空会社大手として出現した絶頂期である。本作は、「いくつかの出来事を凝縮させたり、順序を変えたり、登場人物を組み合わせたりしつつも、出来るだけ真実に近いもの」を作り出す試みだった。 そんなヒューズの20年間に焦点を当てた物語の幕を引くのは、“1947年”。ヒューズにとっては「晩年の第一歩目」とも言うべき年だったと、マンが決めたのである。 しかしマンは中途で、本作に関して監督はせず、製作に専念することとなった。では誰が、監督に適任か? 本作の脚本を、スコセッシに読むよう薦めたのは、彼のエージェント。誰が関わっている企画かは、一切隠してのことだった。実はこのエージェントは、当のディカプリオの担当も、兼ねていた スコセッシはちょうど、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の編集で忙しかった頃。しかし渡された脚本に目を通すと、あっという間に、頁をめくるのに夢中になったという。 スコセッシがそれまでヒューズに興味を持たなかったのは、「奇人変人の類かと思っていた」という、お定まりの理由だった。そんな彼が脚本を読んで最も興味深いと思ったのは、「すごくハンサムで活力に満ちた頭の切れる若者が、自分自身の欠点に苦しむ男になった」という部分だった。 スコセッシは、監督兼プロデューサーとして渾身の力を籠めた、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の次に手掛ける作品は、彼のフィルモグラフィーで言えば、『ハスラー2』(86)や『ケープ・フィアー』(91)のような作品と考えていた。即ち、自分が出した企画ではなく、監督として依頼された、雇われ仕事である。 そんなタイミングで、本作の企画が持ち込まれた。スコセッシは、「ハリウッドの20年代、30年代、40年代、まさにアメリカン・ドリームの一部だった頃を再現できるという魅力」に抗えず、受けることを決めた。 スコセッシは、監督に決まると、ローガン、ディカプリオと3人で、ストーリーの微調整を行った。数多くの女性と浮名を流したヒューズだが、その内の2つの恋を、最も重要だったものとしてピックアップすることに決めたのである。 それはキャサリン・ヘップバーン(1907~2003)、エヴァ・ガードナー(1922~90)という、2人のハリウッド女優との恋愛。実在の2人を演じるは、2人のケイト。ケイト・ブランシェットとケイト・ベッキンセールである。 その中でも本作で印象深いのは、ブランシェット演じる、キャサリン・ヘップバーン。ヘップバーンとヒューズには、多くの共通点があり、共に凄い野心家であったことが描かれている。 奇しくも“ケイト”という愛称だったキャサリン・ヘップバーン役を、ケイト・ブランシェットにオファーすることが決まったのは、「ゴールデン・グローブ賞」の授賞式だったという。その席でブランシェットを見たスコセッシの妻が、彼に耳打ちした。「ほら、あなたのキャサリン・ヘップバーンが見つかったじゃない」。スコセッシも、「その通りだ!」と答えたという。 オファーを受けたブランシェットは、「…正直言ってマーティン・スコセッシが監督でなかったら、こんなことやってみようとは思わなかった」という。それはそうだろう。キャサリン・ヘップバーンは、アカデミー賞主演女優賞を史上最多の4度受賞し、誰からも尊敬されている大女優。しかもこの作品の製作が本格化した頃は、存命であった。 ブランシェットは、役を外見ではなく、エネルギーの部分から自分のものにしていった。具体的には、ヘップバーンの声をよく聞いた。人がどう呼吸するかは、その人の考え方を表現する大切な要素だからである。 スコセッシ流のサポートは、シネフィルの彼らしく、“映画上映”だった。ブランシェットの移動場所に合わせて、ヘップバーンの昔の主演作=1930年代の作品を、大きなスクリーンに映し出すよう、計らったのだった。 余談になるがヘップバーンは、血液の循環が良くなるという、冷水のシャワーを浴びる習慣があった。そこでブランシェットも役作りとして、冷たいシャワーを浴びることにした。しかしこれは続かず、すぐに温水に切り替えたそうである。 1920年代から40年代という時代を再現するのに力を発揮したのは、衣裳や美術、撮影といったスタッフ陣。衣裳デザインのサンディ・パウエルは、最高に洗練された当時の豪華ファッションを再現した他、ヒューズの着こなしの変化を表現した。 撮影監督のロバート・リチャードソンは、ナイトクラブなどの実物大のセットを組む、美術のダンテ・フェレッティと、綿密に打合せ。また飛行シーンの視覚効果チームとも話し合って、色合いやカメラワークなどの同調も行った。 リチャードソン、フェレッティ、パウエルの3人は、スコセッシの相方とも言うべき、編集のセルマ・スクーンメーカーと共に、アカデミー賞が贈呈されるという形で、報われた。2004年度のアカデミー賞では本作に、その年最多の5部門が贈られたのだ。 しかし当然のように狙っていた、作品賞や監督賞、主演男優賞は、ノミネート止まり。この年度のアカデミー賞を制したのは、4部門の受賞ながら、作品賞、監督賞などに輝いた、クリント・イーストウッド監督・主演の『ミリオンダラー・ベイビー』だった。 5度目のノミネートにして、またも受賞できなかった“監督賞”のオスカーを、スコセッシが手にするのは、6度目の正直。2006年の『ディパーテッド』。 一方ディカプリオが主演男優賞を手にしたのは、本作から10年以上経った2015年の『レヴェナント: 蘇えりし者』。主演・助演合わせて、奇しくもスコセッシと同じ、6度目でのノミネートでの受賞となった。 本作に於いて、ある意味最もチャレンジャーで、しかも大勝利を収めたのは、ケイト・ブランシェットだったと言えよう。ほとんどの人が実物を知らないハワード・ヒューズと違って、誰もが知っていた稀代の名優キャサリン・ヘップバーンを演じて、初めてのオスカー=アカデミー賞助演女優賞を手にしたのだから。■ 『アビエイター』© 2004 IMF. 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COLUMN/コラム2024.01.29
大都会の孤独という現代社会の病理を描いた巨匠マーティン・スコセッシの傑作『タクシードライバー』
荒廃した’70年代のニューヨークを彷徨う孤独な魂ベトナム戦争の泥沼やウォーターゲート事件のスキャンダルによって国家や政治への信頼が地に堕ち、経済の低迷に伴う犯罪増加や治安悪化によって社会の秩序まで崩壊した’70年代のアメリカ。都市部の荒廃ぶりなどはどこも顕著だったが、中でもニューヨークのそれは象徴的だったと言えよう。今でこそクリーンで安全でファミリー・フレンドリーな観光地となったタイムズ・スクエア周辺も、’70年代当時はポルノ映画館やストリップ劇場やアダルト・ショップなどの怪しげな風俗店が軒を連ね、売春婦やポン引きや麻薬の売人が路上に立っているような危険地帯だった。そんな荒み切った大都会の片隅で孤独と疎外感を募らせ、やがて行き場のない怒りと不満を暴走させていくタクシー運転手の狂気に、当時のアメリカ社会を蝕む精神的病理を投影した作品が、カンヌ国際映画祭のパルムドールに輝いたマーティン・スコセッシ監督の問題作『タクシードライバー』(’76)である。 主人公は26歳の青年トラヴィス・ビックル(ロバート・デ・ニーロ)。ベトナム帰りで元海兵隊員の彼は不眠症で夜眠ることが出来ず、それなら夜勤のタクシー運転手でもして稼いだ方がマシだと考え、ニューヨークのとあるタクシー会社に就職する。人付き合いが苦手で友達のいない彼は、先輩のウィザード(ピーター・ボイル)などドライバー仲間たちとも付かず離れずの間柄。昼間は狭いアパートの部屋で日記を付けているか、四十二番街のポルノ映画館に入り浸っている。乗客の選り好みはしないし、危険な地域へ送り届けるのも構わないが、しかし我慢ならないのは街中に溢れるクズどもだ。娼婦にゴロツキにゲイに麻薬の売人。ああいう社会のゴミを一掃してやりたい。ギラギラとネオンが煌めく夜のニューヨークをタクシーで流しながら、トラヴィスはひとりぼっちで妄想の世界を彷徨う。 そんなある日、トラヴィスは街で見かけたブロンドの若い女に一目惚れする。彼女の名前はベッツィ(シビル・シェパード)。次期大統領候補であるパランタイン上院議員の選挙事務所で働くスタッフだ。いかにも育ちが良さそうで頭の切れる自信家の才媛。一介のタクシー運転手には不釣り合いな別世界の住人だが、彼女に執着するトラヴィスは半ばストーカーと化し、やがて思い切ってベッツィをデートに誘う。なにかと茶々を入れてくる同僚スタッフのトム(アルバート・ブルックス)に退屈していたベッツィは、興味本位でデートの誘いを受けたところ、なんとなく良い雰囲気になって次回の映画デートを約束する。思わず有頂天になるトラヴィス。ところが、あろうことか彼女をポルノ映画館に連れて行ってしまい、憤慨したベッツィは席を立って帰ってしまう。それっきり彼女とは音信不通に。アンタも結局はお高くとまった鼻持ちならない女だったのか。ベッツィの職場へ怒鳴り込んだトラヴィスは、散々恨み言を吐き捨てた挙句に追い出される。それ以来、彼の不眠症はますます酷くなり、精神的にも不安定な状態となっていく。 ちょうどその頃、トラヴィスがタクシーを路駐して客待ちしていたところ、未成年と思しき少女が乗り込んでくる。しかし、すぐにチンピラ風の男スポーツ(ハーヴェイ・カイテル)に無理やり引きずり降ろされ、そのまま夜の街へと消えていった。一瞬の出来事に唖然とするトラヴィス。それから暫くして、タクシーにぶつかった通行人に目を向けたトラヴィスは、それがあの時の少女であることに気付く。少女の名前はアイリス(ジョディ・フォスター)。何かに取り憑かれたようにアイリスの後を追いかけ、彼女が売春婦であることを確信した彼は、今度は何かに目覚めたかの如く知人の紹介で闇ルートの拳銃4丁を手に入れ、なまった体を鍛え直すためにハードなトレーニングを開始する。ある計画を実行するために…。 トラヴィスは脚本家ポール・シュレイダーの分身脚本を書いたのは『レイジング・ブル』(’80)や『最後の誘惑』(’88)でもスコセッシ監督と組むことになるポール・シュレイダー。当時人生のどん底を味わっていたシュレイダーは、いわば自己療法として本作の脚本を書いたのだという。厳格なカルヴァン主義プロテスタントの家庭に生まれて娯楽を禁じられて育った彼は、17歳の時に生まれて初めて見た映画に夢中となり、カリフォルニア大学ロサンゼルス校を経て映画評論家として活動。ところが、結婚生活の破綻をきっかけに不運が重なり、住む家を失ってホームレスとなってしまった。手元に残った車で当て所もなく彷徨いながら車中生活を余儀なくされる日々。気が付くと3週間以上も誰とも話しておらず、不安と孤独のあまり心身を病んで胃潰瘍になってしまった。このままではいけない。ああはなりたくないと思うような人間になってしまいそうだ。そう強く感じたシュレイダーは、元恋人の留守宅を一時的に借りて寝泊まりしながら、およそ10日間で本作の脚本を仕上げたそうだ。現実の苦悩を物語として書くことで心が癒され、「ああなりたくない人間」から遠ざかれるような気がしたというシュレイダー。その「ああなりたくない人間」こそ、本作の主人公トラヴィス・ビックルだった。 「大都会は人をおかしくする」と語るシュレイダー。確かに大勢の人々がひしめき合って暮らす大都会は、それゆえ他人に無関心で人間関係も希薄になりがちだ。東京で就職した地方出身者がよく「都会は冷たい」と言うが、周囲に家族や友人がいなければ尚更のこと世知辛く感じることだろう。なおかつ大都会には歴然とした格差が存在し、底辺に暮らすマイノリティはその存在自体が透明化され無視されてしまう。中西部出身のよそ者で社交性に欠けた名も無きタクシー運転手トラヴィスが、ニューヨークの喧騒と雑踏に囲まれながら孤独と疎外感に苛まれていくのも不思議ではなかろう。そんな彼がようやく巡り合った希望の光が、いかにもWASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)なイメージのエリート美女ベッツィ。この高根の花を何としてでも手に入れんと執着するトラヴィスだが、しかしデートでポルノ映画館に連れて行くという大失態を演じて嫌われてしまう。こうした願望と行動の大きな矛盾は彼の大きな特性だ。 清教徒的なモラルを説きながらポルノ映画に溺れ、健康を意識しながら不健康な食事をして薬物を乱用し、人の温もりを求めながらその機会を自ら台無しにする。まるで自分で自分を孤独へ追いつめていくような彼の自滅的言動は、人生に敗北感を抱く落伍者ゆえの卑屈さと自己肯定感の低さに起因するものだろう。こうして捨てるもののなくなった「弱者男性」のトラヴィスは、自分よりもさらに底辺のポン引きや娼婦や麻薬密売人などを蔑んで憎悪の目を向け、やがて自分の存在意義を証明するために社会のゴミと見做した彼らを「一掃」しようとするわけだが、しかしここでも彼の矛盾が露呈する。なにしろ、最初に選んだターゲットはパランタイン上院議員だ。誰がどう見たって、自分を振った女ベッツィへの当てつけである。しかも、ボディガードに気付かれたため、慌てて引き返すという情けなさ。「あらゆる悪と不正に立ち向かう男」と自称しておきながら、その実態は単なる逆恨みのチキン野郎である。結局、このままでは終われない!と背に腹を代えられなくなったトラヴィスは、未成年の少女アイリスを売春窟から救い出すという大義名分のもと、ポン引きや用心棒らを銃撃して血の雨を降らせるというわけだ。 ある意味、「無敵の人」の誕生譚。実はこれこそが、今もなお本作が世界中のファンから熱狂的に支持されている理由であろう。確かに’70年代アメリカの世相を背景にした作品だが、しかしその核となる人間像は極めて普遍的であり、古今東西のどこにでもトラヴィス・ビックルのような男は存在するはずだ。事実、ますます格差が広がり閉塞感に包まれた昨今の日本でも、彼のように鬱屈した「無敵の人」とその予備軍は間違いなく増えている。そもそも、誰の心にも多かれ少なかれトラヴィス・ビックルは潜んでいるのではないだろうか。だからこそ、世代を超えた多くの人々が彼の不満や絶望や怒りや願望にどこか共感してしまうのだろう。それほどまでの説得力が役柄に備わったのは、ひとえにポール・シュレイダー自身の実体験から生まれた、いわば分身のようなキャラクターだからなのだと思う。 映画化への長い道のりとスコセッシの情熱このシュレイダーの脚本に強い感銘を受け、是非とも自らの手で映画化したいと考えたのがマーティン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロ。揃って生まれも育ちもニューヨークの彼らは、主人公トラヴィスに我が身を重ねて大いに共感したという。世渡りが下手で社会の主流から外れ、大都会の底辺で不満と幻滅を抱えて悶々としたトラヴィスは、若き日の彼らそのものだったという。偶然にも実家が隣近所で、子供の頃から顔見知りだったというスコセッシとデ・ニーロは、当時『ミーン・ストリート』(’73)で初タッグを組んだばかり。その『ミーン・ストリート』の編集中に、スコセッシは盟友ブライアン・デ・パルマから本作の脚本を紹介されたという。 それは’70年代初頭のカリフォルニア州はマリブ。ニューヨークのサラ・ローレンス大学でブライアン・デ・パルマと自主製作映画を作っていた女優ジェニファー・ソルトは、ジョン・ヒューストン監督の『ゴングなき戦い』(’72)のオーディションで知り合った女優マーゴット・キダーと意気投合し、マリブのビーチハウスで共同生活を送るようになったのだが、そこへハリウッド進出作『汝のウサギを知れ』(’72)を解雇されたデ・パルマが転がり込んだのである。ジェニファーを姉貴分として慕っていたデ・パルマは、その同居人であるマーゴットと付き合うようになり、3人で作った映画が『悪魔のシスター』(’72)だ。で、そのビーチハウスの隣近所にたまたま住んでいたのが、ほどなくして『スティング』(’73)を大ヒットさせて有名になるプロデューサー夫婦のマイケル・フィリップスとジュリア・フィリップス。やがて両者の交流が始まると、デ・パルマとジェニファーのニューヨーク時代からの仲間であるロバート・デ・ニーロを筆頭に、スコセッシやシュレイダー、スティーブン・スピルバーグにハーヴェイ・カイテルなどなど、ハリウッドで燻っている駆け出しの若い映画人たちが続々とビーチハウスへ集まり、将来の夢や映画談義などに花を咲かせるようになったのである。 まずはそのデ・パルマに本作の脚本を見せたというシュレイダー。自分向きの映画ではないと思ったデ・パルマだが、しかし彼らなら関心を示すだろうと考え、フィリップス夫妻とスコセッシにそれぞれ脚本のコピーを渡したという。フィリップス夫妻はすぐに1000ドルで脚本の映画化権を買い取り、これは自分が映画にしないとならない作品だと直感したスコセッシは彼らに自らを売り込んだが、しかし当時のスコセッシは映画監督としての実績が乏しかったため、遠回しにやんわりと断られたらしい。そこで彼は編集中の『ミーン・ストリート』のラフカット版をフィリップス夫妻やシュレイダーに見せたという。ニューヨークの貧しい下町の掃きだめで、裏社会を牛耳る叔父のもとで成り上がってやろうとする若者チャーリー(ハーヴェイ・カイテル)と、無軌道で無責任でサイコパスな親友ジョニー・ボーイ(ロバート・デ・ニーロ)の破滅へと向かう青春を描いた同作は、いわば『タクシードライバー』の精神的な姉妹編とも言えよう。これを見てスコセッシとデ・ニーロの起用を決めたフィリップス夫妻とシュレイダーだったが、しかし脚本の内容があまりにも暗くて危険だったためか、どこの映画会社へ企画を持ち込んでも断られたという。 ところが…である。フィリップス夫妻は『スティング』でアカデミー賞の作品賞を獲得し、スコセッシも『アリスの恋』(’74)がアカデミー賞3部門にノミネート(受賞は主演女優賞のエレン・バースティン)。さらにデ・ニーロも『ゴッドファーザーPARTⅡ』(’74)の若きヴィトー・コルレオーネ役でアカデミー賞助演男優賞に輝き、シュレイダーは『ザ・ヤクザ』(’74)の脚本で高い評価を受けた。ほんの数年間で関係者の誰もがハリウッド業界の有名人となったのである。こうなると話は違ってくるわけで、ジュリアの知人でもあったコロンビア映画の重役デヴィッド・ビゲルマンからの出資を獲得し、映画化にゴーサインが出たのである。ちなみにこのビゲルマンという人物、芸能エージェント時代にクライアントだったジュディ・ガーランドの無知につけ込んで彼女の財産をごっそり横領し、本作の翌年には会社の資金横領と小切手の偽造で逮捕されてコロムビア映画を解雇されるという筋金入りの詐欺師。それにも関わらず、長年に渡って各スタジオの重役を歴任したというのだから、ハリウッド業界というのもろくなもんじゃありませんな。まあ、最終的には自身の制作会社の倒産で多額の借金を抱えて拳銃自殺してしまうわけですが。 賛否両論を呼んだジョディ・フォスターの起用静かに狂っていくトラヴィスの心象風景をトラヴィスの視点から映し出すことで、映画全体がまるで白日夢のごとき様相を呈している本作。あえてカメラが主人公をフレームの外へ追い出し、一見したところ全く関係のないような風景を捉えることでセリフにない深層心理を浮き彫りにするなど、既存の型に囚われない自由でトリッキーな演出は、どちらもゴダールの熱烈なファンを自認するスコセッシと撮影監督のマイケル・チャップマンがヌーヴェルヴァーグにインスパイアされたものだという。ほかにもヒッチコックの『間違えられた男』(’56)のカメラワーク、ファスビンダー作品の率直さ、フランチェスコ・ロージ作品の手触り、マリオ・バーヴァ作品やヴァル・リュートン作品の怪奇幻想ムードなど、過去の様々な名作群に学んでいるところは、さすがフィルムスクール出身のスコセッシらしさだと言えよう。 撮影準備が始まったのは’75年の初旬。当時ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』(’76)の撮影でヨーロッパにいたデ・ニーロは、週末ごとにニューヨークへ戻ってタクシー運転手の研修を受けてライセンスを取得し、同作がクランクアップするとすぐに帰国して10日間ほど、実際にニューヨークで流しのタクシー運転手として働いたという。ある時は運転席の身分証を見てデ・ニーロだと気付いた乗客から、「オスカーを獲っても役者の仕事にあぶれているのか?」とビックリされたのだとか。それにしてもまあ、役になりきることを信条とするメソッド・アクター、デ・ニーロらしいエピソードではある。ただし、いよいよ狂気を暴走させ始めたトラヴィスのモヒカン刈りは、次回作『ラスト・タイクーン』(’76)で映画プロデューサー役を演じることが決まっており、実際に頭髪を刈り上げるわけにはいかなかったため、特殊メイク担当のディック・スミスが制作したカツラを着用している。これが全くカツラに見えないのだから、さすがは巨匠ディック・スミス!と言わざるを得まい。 理想の美女ベッツィ役にシュレイダーが「シビル・シェパードのような女優を」と注文付けたところ、その話を聞いた彼女のエージェントから「シビル本人ではいかがでしょうか?」と打診があって本人の起用が決定。当時の彼女は『ラスト・ショー』(’71)に『ふたり自身』(’72)に本作にと重要な映画が続き、まさにキャリアの絶頂期にあった。そのベッツィの同僚トム役には、当初ハーヴェイ・カイテルがオファーされていたものの、しかし本人の希望でポン引きスポーツ役をゲット。当時ニューヨークの悪名高き危険地帯ヘルズ・キッチン(現在は高級住宅街)に住んでいたカイテルにとって、スポーツみたいなポン引きは近所でよく見かけたので演じやすかったようだ。その代わりにトム役を手に入れたのは、後に『ブロードキャスト・ニュース』(’87)でオスカー候補になるコメディアンのアルバート・ブルックス。このトムという役柄はもともとオリジナル脚本にはなく、リハーサルで監督と相談しながら作り上げていく必要があったため、即興コメディの経験があるブルックスに白羽の矢が立てられたのである。また、ポルノ映画館の売店でトラヴィスが言い寄る黒人の女性店員は、本作での共演がきっかけでデ・ニーロと結婚した最初の奥さんダイアン・アボットだ。 しかしながら、恐らく本作のキャストで最も話題となり賛否両論を呼んだのは、未成年の娼婦アイリスを演じた撮影当時12歳の子役ジョディ・フォスターであろう。もともとスコセッシ監督の前作『アリスの恋』に出演していたジョディ。その監督から「娼婦役を演じて欲しい」と電話で連絡を受けた彼女の母親は、「あの監督は頭がおかしい」とビックリ仰天したそうだが、それでも詳しい話を聞いたうえで納得して引き受けたという。とはいっても本人は未成年である。子役を映画やドラマに出演させる際、当時すでにハリウッドでは厳しいルールが設けられており、教育委員会の許可を得る必要があったのだが、しかし娼婦という役柄が問題視されて肝心の出演許可が下りなかった。そこで制作サイドは弁護士を立て、この役を演じるに問題のない精神状態かどうかを精神科医に判定して貰い、さらに性的なニュアンスのあるシーンは8歳年上の姉コニーが演じるという条件のもとで教育委員会の許可を得たという。 そんなジョディに対してスコセッシ監督が細心の注意を払ったのが、終盤の血生臭い銃撃シーンである。なにしろ、銃弾で指が吹き飛んだり脳みそが飛び散ったりするため、まだ子供のジョディがショックを受けてトラウマとならぬよう、特殊メイク担当のディック・スミスが全ての仕組みを懇切丁寧に説明したうえで撮影に臨んだらしい。ただ、このシーンは「残酷すぎる」としてアメリカ映画協会のレーティング審査で問題となり、色の彩度を落として細部を見えづらくすることで、なんとかR指定を取ることが出来たのだそうだ。 ちなみに、アイリス役にはモデルとなった少女がいる。ポール・シュレイダーがたまたま知り合った15歳の娼婦だ。撮影の準備に当たってスコセッシ監督やジョディにも少女を紹介したというシュレイダー。パンにジャムと砂糖をかける習慣や、妙に大人びた独特の話し方など、ジョディの芝居には少女の特徴が取り入れられているという。劇中ではアイリスがトラヴィスのタクシーで轢かれそうになるシーンが出てくるが、そこでジョディの隣にいる友達役がその少女である。 そして忘れてならないのは、本作が映画音楽の巨匠バーナード・ハーマンの遺作でもあることだろう。それまで自作の音楽には既成曲しか使っていなかったスコセッシにとって、作曲家にオリジナル音楽を依頼するのは本作が初めて。ハーマンが手掛けたヒッチコックの『めまい』(’58)や『サイコ』(’60)の音楽が大好きだったスコセッシは、最初から彼にスコアを付けてもらうつもりだったようだ。当時のハーマンはハリウッド業界に見切りをつけてロンドンへ拠点を移していたのだが、『悪魔のシスター』と『愛のメモリー』(’76)でハーマンと組んだデ・パルマから連絡先を聞いたスコセッシは、短気で気難しいと評判の彼に国際電話をかけて相談をしたのだが、即座に「タクシー運転手の映画などやらん!」と断られたのだそうだ。最終的にロンドンへ送った脚本を読んで引き受けてくれたわけだが、しかし当時のハーマンはすでに心臓が弱っており、ロサンゼルスでのレコーディングに参加するための渡航が大きな負担となってしまった。そのため、実際にスタジオでタクトを振ったのは初日だけ。翌日からは代役がオーケストラ指揮を務め、レコーディングが終了した’75年12月23日の深夜、ハーマンは宿泊先のホテルで就寝中に息を引き取ったのである。まるで主人公トラヴィスの孤独と絶望に寄り添うような、ダークでありながらもドリーミーで不思議な温かさのあるジャジーなサウンドが素晴らしい。■ 『タクシードライバー』© 1976, renewed 2004 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.04.07
スコセッシ&デ・ニーロ“ギャングもの”3部作の最終作!?『カジノ』
2012年、イギリスの「Total Film」誌が、映画史に残る「監督と俳優のコラボレーション50組」を発表した。第3位の黒澤明と三船敏郎、第2位のジョン・フォードとジョン・ウェインを抑えて、堂々の第1位に輝いたのが、マーティン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロだった。 この時点で、スコセッシ&デ・ニーロが世に放っていた作品は、8本。その内には、『タクシードライバー』(76)や『レイジング・ブル』(80)など、今日ではアメリカ映画史上の“クラシック”として語られる作品も含まれる。 しかしながらこのコンビと言えば、まずは“ギャングもの”を思い浮かべる向きも、少なくないだろう。これは多分、デ・ニーロがスコセッシ作品と並行して出演した、『ゴッドファーザー PARTⅡ』(74)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)『アンタッチャブル』(87)などの印象も相まってのことと思われるが…。 何はともかく、95年までのコンビ作8本の内3本までが、“ギャングもの”に分類される作品だったのは、紛れもない事実である。スコセッシ&デ・ニーロの“ギャングもの”3部作、それはコンビ第1作の『ミーン・ストリート』(73)を皮切りに、『グッドフェローズ』(90)、そして95年に発表した本作『カジノ』へと続いた。 ***** 1970年代初頭、サム“エース”ロスティーン(演:ロバート・デ・ニーロ)は、ギャンブルでインサイダー情報などを駆使。儲けさせてくれるノミ屋として、知られていた。 そんなサムに目をかけていたギャングのボスたちの肝煎りで、彼はラスベガスへと送り込まれる。任されたのは、巨大カジノ「タンジール」の経営。サムはカジノの売り上げを大幅にアップさせ、ボスたちの取り分も倍にする。 サムと同じ街で育ったギャング仲間の親友ニッキー・サントロ(演:ジョー・ペシ)も、ラスベガスに現れる。ニッキーは、いとも簡単に人を殺してしまう、荒くれ者。サムは危惧を抱きながらも、用心棒として頼りにする。 ある時サムは、カジノの常連で、ギャンブラーにして詐欺師のジンジャー(演:シャロン・ストーン)と出会い、惚れ込む。彼女が自分に愛は抱いておらず、腐れ縁のヒモに金を注ぎ込んでいるのも知っていたが、いずれ「愛させてみせる」と、自信満々にプロポーズ。2人の間には、早々に娘が生まれる。 しかしジンジャーは変わらず、やがて夫婦生活は暗礁に乗り上げる。彼女は酒とドラッグに溺れ、手に負えなくなっていく。 凶暴性を抑えることがない、ニッキーの暴走も、サムの頭痛の種に。しかもジンジャーが、慰めてくれるニッキーと、不倫の関係に陥ってしまう。 妻と親友の裏切り。そしてFBIの捜査の手がカジノに伸びてくる中で、サムは破滅への道を歩んでいく…。 ***** 1905年に砂漠の中に設立されて始まった、欲望渦巻くギャンブルの街ラスベガスを舞台にした、本作『カジノ』。登場人物はいずれも、「生まれつきかたぎの道には無縁の者たち」である。 原作&脚本でクレジットされているのは、ニコラス・ビレッジ。主に70年代のラスベガスに材を取り、実在のギャングたちとその興亡に関して、5年がかりで取材を進めた。 ビレッジは、スコセッシ&デ・ニーロの“ギャングもの”3部作の前作、『グッドフェローズ』の原作者兼脚本家でもある。しかし前作が、すでに出版されていた自作を、スコセッシと共に脚本化するというやり方で映画化したのに対し、今作でスコセッシから共同脚本の依頼を受けた時は、まだ書籍は書き始めたばかりだった。 当初は撮影が始まる前には、本も仕上げようと考えていたビレッジだったが、そのプランは雲散霧消。結局はスコセッシと共に、5か月間もシナリオの執筆に没頭することになる。 ビレッジ曰くスコセッシは、彼が提供したリサーチやメモに目を通して、「…何もないところから、つまりただのメモから脚本を書いた…」という。その作業は『グッドフェローズ』の時よりも、「…数段難しかった…」と述懐している。 そんな中でビレッジが驚かされたのは、スコセッシが脚本に、音楽を書き、カット割りを書き、ビジュアルの絵を描き、作品のトーンまで書いてしまうことだった。この時点でスコセッシの頭の中では、トータルな映画が出来上がっていたわけである。『カジノ』は、『グッドフェローズ』で成功した手法に、更に磨きを掛けた作品と言える。ひとつは“ヴォイス・オーバー・ナレーション”。 登場人物の心理をナレーションで語らせてしまうのは、ヘタクソな作り手がやると、目も当てられないことになる。しかしスコセッシは、サムそしてニッキーの胸の内をガンガン語らせることで、説明的なシーンの省略に成功。3時間近くに及ぶ長大なストーリーを、中だるみさせることなく、テンポよく見せ切ってしまう。 音楽の使い方も、前作を踏襲。できるだけその時代に合わせることを意識しながらも、ローリング・ストーンズからフリードウッド・マックなどのポップス、バッハの「マタイ受難曲」のようなクラシック、『ピクニック』(55)や『軽蔑』(63)のような作品のサントラまで、様々なジャンルの音楽を使用。エンドロールを〆る、ホーギー・カーマイケルの「スターダスト」まで、実に50数曲がスクリーンを彩る。 本作に登場する「生まれつきかたぎの道には無縁の者たち」の相当部分は、実在の人物を基にしている。主人公サムのモデルとなったのは、フランク“レフティ”ローゼンタールという男。実際にフランクがラスベガスで仕切っていたのは、4つのカジノだったが、本作では1箇所に集約。架空の巨大カジノ「タンジール」を作り出した。 因みに、この映画のファーストシーンで描かれる、サムがエンジンを掛けた車が爆発して吹き飛ばされるシーンは、モデルとなったフランクが、82年に実際に経験したことである。映画で描かれたのと同様に、フランクは九死に一生を得たものの、彼のラスベガスでのキャリアは、終焉を迎えることとなる。 そして後々、ニコラス・ビレッジの取材に対して自らの半生を語り、それが本作『カジノ』となる。そうした流れを考えても、あれ以上のファーストシーンは、なかったと言えるだろう。 さて、「生まれつきかたぎの道には無縁の者たち」を演じる俳優陣。デ・ニーロはもちろん、『グッドフェローズ』でアカデミー賞助演男優賞を獲得しているジョー・ペシにとっても、そんな役どころはもはや、「お手の物」のように映る。 そんな2人に対して、当時「意外」なキャスティングと話題になったのが、ジンジャー役のシャロン・ストーンだった。シャロンは『氷の微笑』(92)で、セックスシンボルとして注目を集め、一躍スターの仲間入りした印象が強い。 本人もスコセッシに対して、「…私のようなタイプの役者を必要とする映画とは無縁の人…」のように感じていたという。まさか彼の映画に出ることになるとは、夢にも思わなかったわけである。 しかしスコセッシは、シャロンがぽっと出のスターなどではなく、そこに至るまで20年近く、この世界で頑張っていたことを知っていた。スコセッシはシャロンと何度か話をして、彼女の中にジンジャーを自分のものとして演じられる重要な要素、死にもの狂いの必死さを見出したのである。 シャロンの起用はスコセッシにとって、「冒険ではあったけれど、一方では充分な計算に基づいてもいた…」という。 いざ撮影に入ると、シャロンに対して、デ・ニーロが惜しみなく助言を行った。それに励まされてか、シャロンは次々と有機的な提案を行う。子どもの前でコカインを吸うシーンや、衣装に少々たるみを出すことで、生活が崩れてボロボロになった様を表す等々は、彼女のアイディアが、スコセッシに採用されたものである。 本作のクランクアップが迫る頃になると、シャロンには、最高の仕事を成し遂げた実感が湧いてきたという。その実感に、間違いはなかった。本作での演技は彼女のキャリアでは唯一、“アカデミー賞主演女優賞”にノミネートされるという成果を上げた。 さて本作で、俳優陣以上の存在感を発揮しているのが、文字通りのタイトルロールである、“カジノ”だ!スタジオにセットを建てるよりも、実際のカジノで撮った方が、独特の熱気や照明が手に入るという判断に基づいて、ロケ地探しが行われた。 結果的に120か所以上のロケ地が使用されたが、メインの「タンジール」のシーンでは、1955年にラスベガスに建てられた、「リヴィエラ・ホテル」を使用することとなった。このホテルは90年に入ってから改装されていたが、それはちょうど本作の舞台である、70年代風へのリニューアル。お誂え向きだった。「リヴィエラ」での撮影は、カジノの一部を使って、週4日、夜の12時から朝の10時まで、6週間以上の期間行われた。本作では売上げをマフィアへ運ぶ男が、ラスベガスの心臓部を早足で通り抜けていくシーンがある。これはこの撮影体制があってこそ可能になった、ステディカムでの長回しである。 賭場のシーンでは、前方にこそ、70年代の服装をさせたエキストラを配置したが、後方に控えるは、実際に徹夜でギャンブルに勤しんでいる、「リヴィエラ」の本物のお客。スロットマシーンなどのサウンドは鳴りっぱなしで、勝った客が、大声で叫んだりしているというカオスだった。「まるで人とマシーンと金が一つの大きな固まりになって、息をしている…」この空間で撮影することを、スコセッシは大いに楽しんだ。もちろん大音響の中で聞き取れないセリフは、アフレコでフォローすることになったのだが。 そんな中で撮影された一つが、ジョー・ペシ演じるニッキーが、立ち入り禁止にされているにも拘わらず、カジノに押し入ってブラック・ジャックに挑むシーン。ペシはアドリブで、トランプのカードをディーラーに投げつけたり、汚い言葉で悪態を突いたりする。 その撮影が済んだ後ディーラーを務めていた男が、スコセッシにこんなことを言ってきた。「本物はもっと手に負えない奴でしたよ」。何と彼は、ニッキーのモデルになったギャングと、実際に相対したことがある、ディーラーだったのだ。 このエピソードからわかる通り、本作では本物のディーラーやゲーム進行係が、カードやチップ、ダイスを捌いている。更には、カジノの連絡係などを、コンサルタントに雇った。“本物”にこだわったのである。 そんな中でなかなか見つからなかったのが、「騙しのテクニックを教えてくれる人間」。そうした者は、「カジノでは絶対に正体を知られたくない…」からである。 ・『カジノ』撮影現場での3ショット(左:ジョー・ペシ、中央:マーティン・スコセッシ、右:ロバート・デ・ニーロ) スコセッシは本作で、マフィアなどの組織犯罪が力を失っていく姿を、「…1880年代にフロンティアの街が終りを告げた西部大開拓時代の終焉…」に重ね合わせたという。そして、落日の人間模様を描くことにこだわった。 また、敬虔なクリスチャンとして知られるスコセッシは、本作の物語を「旧約聖書」にも重ねた。主人公たちは、高慢と強欲があだとなって、1度は手にした楽園を失ってしまうのである。 そうして完成した本作は、後に「監督と俳優のコラボレーション50組」の第1位に輝くことになる、スコセッシ&デ・ニーロにとって、一つの区切りとなった。お互いの手の内がわかり過ぎるほどにわかってしまう2人は、この後暫しの間、コラボの休止期間に入る。 21世紀に入って、スコセッシのパートナーは、レオナルド・ディカプリオへと代わった。『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)から、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(13)まで、そのコンビ作は5本を数える。 スコセッシとデ・ニーロとの再会は、『カジノ』から実に24年後の、『アイリッシュマン』(19)まで待たなければならなかった。70代になった2人が組んだこの作品もまた、“ギャングもの”である。■ 『カジノ』© 1995 Universal City Studios LLC and Syalis Droits Audiovisuels. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.03.13
スコセッシ&デ・ニーロ!コンビの第5作『キング・オブ・コメディ』は、“現代”を予見していた!?
脚本家のポール・D・ジマーマンが、本作『キング・オブ・コメディ』(1983)の着想を得たのは、1970年代のはじめ、あるTV番組からだった。それは、スターやアイドルに殺到するサイン・マニアの恐怖を取り上げたもので、そこに登場したバーブラ・ストライサンドの男性ファンの言動に、ジマーマンはひどくショックを受けたという。 バーブラは、その男に付き纏われることを非常に迷惑がっているのに、彼に言わせれば、「バーブラと仕事をするのは難しい」となる。自分勝手な解釈をして、事実を大きく歪曲してしまうのだ。 前後して、雑誌「エスクワイア」の記事も、ジマーマンを触発した。そこに掲載されたのは、TVのトークショーのホストのセリフを一言一句メモしては、毎回査定を続けている熱狂的ファン。 本来は手が届かない筈の大スターや、TV画面の向こうの存在が、その者たちにとっては、いつの間にか生来の友達のようになってしまっている…。「ニューズウィーク」誌のコラムニストからスタートし、映画評論家を経て脚本家となったジマーマンは、そこに「現代」を見た。そして本作のあらすじを書き、『ある愛の詩』(70)『ゴッドファーザー』(72)などのプロデューサー、ロバート・エヴァンスの元に持ち込んだのである。 このシノプシスを気に入ったエヴァンスは、ミロス・フォアマン監督に声を掛けた。フォアマンはジマーマンの家に寝泊まり。10週間を掛け、2人で脚本を仕上げることとなった。 しかし両者の意見は、途中から嚙み合わなくなる。結局フォアマン主導のものと、ジマーマン好みのものと、2バージョンのシナリオが出来てしまった。 当初はフォアマン版の映画化企画が動いたが、実現に至らず。フォアマンはやがて、このプロジェクトから去った。 そこでジマーマンは、自らの脚本をマーティン・スコセッシへと売り込んだ。スコセッシは一読した際、「内容がもうひとつ理解できなかった」というが、何はともかく、盟友のロバート・デ・ニーロへと転送する。 デ・ニーロはこの脚本を大いに気に入り、すぐに映画化権を買った。そして後に『キング・オブ・コメディ』は、スコセッシ&デ・ニーロのコンビ5作目として、世に放たれることとなる。 ***** ニューヨークに住む30代の男ルパート・パプキン(演:ロバート・デ・ニーロ)は、今日もTV局で出待ちをしていた。彼が憧れるのは、人気司会者でコメディアンのジェリー・ラングフォード(演:ジェリー・ルイス)。 ひょんなことからジェリーの車に同乗することに成功したパプキンは、まるで長年の知己のように、ジェリーに話しかける。そして彼のようなスターになりたいという夢を、とうとうと語った。 そんなパプキンをあしらうため、ジェリーは自分の事務所に電話するよう告げて、居宅へ消えた。パプキンは、スターの座が約束されたように受取り、天にも上る心地となる。 ジェリーに言われた通り、電話を掛け続けるも、梨の礫。そこでパプキンは、アポイントも取らず、事務所へと乗り込む。 しかし、ジェリーには一向に会えない。自分のトークを吹き込んだテープを持参しても、秘書にダメ出しをされ、挙げ句はガードマンに排除されてしまう。 それでもメゲないパプキンは、ジェリーの別荘に、勝手に押しかける。もちろんジェリーは、怒り心頭。パプキンを追い出す。 そこでパプキンは、やはりジェリーの熱狂的な追っかけである女性マーシャ(演:サンドラ・バーンハード)と共謀。白昼堂々、ジェリーを誘拐してマーシャ宅に監禁し、彼を脅迫するのだった。 その要求とは、「俺を“キング・オブ・コメディ”として、TVショーに出せ!」 命の危険を感じたジェリーは、やむなく番組スタッフへと連絡。意気揚々とTV局へ向かうパプキンだが、誇大妄想が昂じた彼の夢は、果して現実のものとなるのか? ***** スコセッシとデ・ニーロのコンビ前作である『レイジング・ブル』(80)は、絶賛を受け、アカデミー賞では8部門にノミネート。作品賞や監督賞こそ逃したものの、実在のボクサーを演じたデ・ニーロは、いわゆる“デ・ニーロ アプローチ”の完成形を見せ、主演男優賞のオスカーを手にした。 それを受けての、本作である。先に記した通り、スコセッシがピンとこなかった脚本を、デ・ニーロが買って、改めてスコセッシの所に持ち込んだ。 デ・ニーロは何よりも、パプキンのキャラを気に入った。その大胆さや厚かましさ、行動理念の単純さを理解し、「この男が愚直なまでに目的に向かって突進するところがいい」と、ジマーマンに語ったという。 そしてデ・ニーロは、スコセッシを説得。遂には、本作の監督を務めることを、決断させた。そして2人で、ジマーマンが書いた脚本のリライトへと臨んだ。 ジマーマンは当初、パプキンには、『虹を掴む男』(47)のダニー・ケイのようなタイプをあてはめ、ファンタジー色が強い映画を作ることを、イメージしていた。ところがスコセッシとデ・ニーロが仕上げてきた脚本では、パプキンの“異常性”が強調され、よりリアルな肌触りを持つ作品となった。 デ・ニーロもスコセッシも、実際に狂信的なファンの被害に遭った経験がある。それが脚本にも、反映されたのだろう。 また80年代はじめは、スターへの関心が、爆発的に高まった頃である。それを最悪の形で象徴する衝撃的な事件が起こったのが、80年12月。ジョン・レノンが、彼の熱狂的ファンであるマーク・チャップマンによって、殺害されてしまう。 本作が本格的に製作に入った81年3月には、スコセッシ&デ・ニーロを直撃するような事件も発生する。彼らの存在を世に知らしめた『タクシードライバー』(76)で、少女娼婦を演じたジョディ・フォスターに恋した、ジョン・ヒンクリーという男が居た。彼は、『タクシー…』のストーリーに影響を受け、時のアメリカ大統領レーガンを狙撃。全世界を震撼とさせる、暗殺未遂事件を起こしたのである。 本作『キング・オブ・コメディ』のような作品が製作されることには、ある意味社会的な必然性があったと言えるだろう。パプキンやマーシャのような“ストーカー”(そんな言葉はこの当時はまだ存在しなかったが…)は、スターたちにとってのみならず、現実社会にとっても、明らかに脅威となる存在だったのだ。 そんな連中のターゲットとなってしまう、ジェリー・ラングフォード役のキャスティング。ジマーマンの当初のイメージは、構想がスタートした70年代初頭にTVやラジオで大活躍だった司会者、ディック・カヴェットだったが、それから10年ほどが経った時点では、誰もがジョニー・カースンを思い浮かべた。 NBCの「ザ・トゥナイト・ショー」の顔であり、アカデミー賞授賞式の司会を何度も務めたジョニーには、実際に出演交渉が行われた。しかし、誘拐事件を実際に引き起こしかねないという恐怖と、TVのトークショーなら1回で撮り終えてしまうのに、1シーンを40回も撮り直さなければならないようなことには耐えられないという理由から、あっさりと断られてしまう。 次なる候補としてスコセッシが思い浮かべたのが、フランク・シナトラやオーソン・ウェルズなどの大物。いわゆる“シナトラ一家=ラット・パック”のメンバーからは、サミー・デイヴィス・Jrやジョーイ・ビショップも候補となった。 そして、“シナトラ一家”には、ディーン・マーティンも居るな~と思った流れから、最終的に絞り込まれたのが、マーティンが“ラット・パック”の一員になる前に、『底抜け』シリーズ(49~56)でコンビを組んでいた、往年の人気コメディアン、ジェリー・ルイスだった。 ジェリーは「この映画では自分はナンバー2だと承知している。君に面倒はかけないし、指示どおりにやってみせよう…」と言って、スコセッシを感激させた。 ジェリーの“ストーカー”マーシャは、当初の脚本では、もっとめそめそしたセンチメンタルな女性だったという。それをスコセッシが、攻撃的で危険な性格へと書き換えた。 デ・ニーロはこの役を、お互いの実力をリスペクトし合っている友人のメリル・ストリープに演じて欲しいと、考えていた。しかしストリープは、脚本を読みスコセッシと話した後で、このオファーを辞退。 オーディションなどを経てマーシャ役は、20代中盤の個性的な顔立ちのスタンダップ・コメディエンヌ、サンドラ・バーンハードのものとなった。サンドラ曰く、当時の自分は「完全にイッちゃってた」とのことで、その生活ぶりは「最低で、デタラメ」で、マーシャに「そっくりだった」という。 スコセッシは本作では、「即興はほとんどやってない」としている。そんな中でも即興の部分を担わせたのが、バーンハードだった。監禁して身動きを取れなくしたジェリーに、色仕掛けで迫るシーンなどで、コメディエンヌとしての芸を、たっぷり披露してもらったという。 パプキンの幼馴染みで、彼が思いを寄せる、現在はバー勤めの女性リタ役には、ダイアン・アボット。アボットは、デ・ニーロの最初の妻で、撮影当時は別居中。オーディションにわざわざ呼ばれて、この役に決まったというが、その裏に作り手側のどんな思惑があったかは、定かではない。 デ・ニーロの役作りは、例によって完璧だった。彼は、コメディアンの独演を何週間も見学。また、ジョン・ベルーシやロビン・ウィリアムズとの友情も、助けになったという。 デ・ニーロは撮影中、ジェリー・ルイスの“完璧な演技”に畏敬の念を抱いた。ルイスも同様で、デ・ニーロの仕事ぶりを評して、「一ショット目で気分が入ってきて、十ショット目になると魔法を見ているようになる。十五ショット目まで来ると、目の前にいるのは天才なんだ…」と語っている。 スコセッシはデ・ニーロと共に、「…主人公をどこまで極端な人物に描くことができるか」に挑戦した。パプキンのような人物を演じて、デ・ニーロが俳優としてどこまで限界を超えられるか、やってみようとしたのだという。その結果についてはスコセッシ曰く、「私の見る限り、あれはデ・ニーロの最高の演技だ…」 脚本のジマーマンは、出来上がった作品について、次のように語っている。「僕はこの映画を生んだのは自分だと思っている。ただ、たしかにこの映画は僕の赤ん坊だが、顔がマーティ(※スコセッシのこと)にそっくりなんだ」。 作り手たちにとっては、満足いく作品に仕上がった。「カンヌ国際映画祭」のオープニング作品にも選ばれ、一部評論家からも、絶賛の声が届けられた。 しかし、『タクシードライバー』でデ・ニーロが演じたトラヴィスの自意識を、更に肥大化させたようなパプキンのキャラは、観客たちには戸惑いを多く与えることとなった。 私が『キング・オブ・コメディ』を初めて鑑賞したのは、日本公開の半年ほど前、1983年の晩秋だった。本作は配給会社によって「芸術祭」にエントリーされており、その特別上映で、いち早く目の当たりにすることができたのだ。 その際、パプキンそしてマーシャの、独りよがりで執拗な振舞いに、まずは圧倒された。それと同時にそのしつこさに、観ている内に、かなり辟易とした記憶がある。 悪夢再び。スコセッシ&デ・ニーロにとっては、コンビ第3作だった『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)の如く、2,000万㌦の製作費を掛けた『キング・オブ・コメディ』は、興行的に大コケに終わる。 しかし、それでこの作品の命運が尽きたわけではない。デミアン・チャゼル監督の『ラ・ラ・ランド』(2016)が公開された際、大きな影響を与えた作品として、先に挙げた『ニューヨーク・ニューヨーク』が再注目されたように、本作も製作から36年の歳月を経て、新たにスポットライトが当てられる事態となった。 トッド・フィリップスの『ジョーカー』(19)とホアキン・フェニックスが演じたその主人公の造型が、本作及びルパート・パプキンのキャラクターにインスパイアされたものであることは、一目瞭然。フィリップス監督はご丁寧にも、TVトークショーの司会役にロバート・デ・ニーロを起用して、その影響を敢えて誇示した。 ネット時代、有名スターに対するファンの距離感とそれにまつわるトラブルが、頻繁に問題化するようになった。現代に於いてこの作品は、そうした“加害性”を、いち早く俎上に載せた作品としても、評価できる。 そんな流れもあって、初公開時の大コケぶりを覆すかのように、『キング・オブ・コメディ』は、アメリカ映画の歴史を語る上で、今や無視できない作品となった。 スコセッシ&デ・ニーロ。そうした辺りは、「さすが」としか言いようがない。■ 『キング・オブ・コメディ』© 1982 Embassy International Pictures, N.V. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2021.10.01
スコセッシ&デ・ニーロ。名コンビが『レイジング・ブル』でなし遂げたこと。
30代中盤を迎えたマーティン・スコセッシは、心身ともに疲弊の極みにいた。『ミーン・ストリート』(1973)『アリスの恋』(74)、そして『タクシー・ドライバー』(76)の輝かしき成功を受けて、意気揚々と取り組んだ『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)が、興行的にも批評的にも、惨憺たる結果に終わってしまったのである。私生活で2番目の妻と離婚に至ったのも、大きなダメージとなった。 どん底から這い出すきっかけとなったのは、78年9月。入院していたスコセッシを、ロバート・デ・ニーロが見舞った時のことだった。「よく聞いてくれ、君と俺とでこれをすばらしい映画にすることができる。やってみる気はないか?」 デ・ニーロが言った「これ」とは、本作『レイジング・ブル』(80)のこと。盟友の誘いにスコセッシも、「やろう」と答えたのだった。 と言っても本作の準備は、その時にスタートしたわけではない。それよりだいぶ以前から、進められていたのである。 本作の原作は、元ボクシング世界チャンピオンで、現役時代に“レイジング・ブル=怒れる牡牛”と仇名された、ジェイク・ラモッタの自伝である。それがデ・ニーロに届いたのは、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)撮影のため、73年にイタリアのシチリア島に滞在していた時。その暴力的なエネルギーとラモッタの特異なキャラクターに惹かれたデ・ニーロは、『アリスの恋』に取り組んでいたスコセッシに、この題材を持ち込んだ。 脚本は、『ミーン・ストリート』『ニューヨーク・ニューヨーク』などで2人と組んだ、マーディク・マーティンに託された。スコセッシが当初は、デ・ニーロほどは本作に乗り気でなかったこともあって、その後しばらくはマーティンに任せっぱなしとなり、何年かが過ぎた。 77年になってから、2人はマーティンの脚本を読んで、不満を覚える。そのため執筆は、『タクシードライバー』のポール・シュレーダーへと引き継がれた。 しかし、シュレーダーが書き上げた脚本には、大きな問題があった。ラモッタの性格が暗すぎる上に、シュレーダー本人が「僕が書いた中で最高の台詞」というそれは、刑務所の独房に入れられたラモッタが、自慰をしながらするモノローグだった…。 この作品に本格的に取り組むことを決めたスコセッシと、それを促したデ・ニーロの2人で、脚本に手を加えることとなった。カリブ海に浮かぶセント・マーティン島に3週間ほど缶詰めになって、シュレーダーの書いた各シーンを再検討。必要ならばセリフを書き加えて、最終稿とした。 撮影に関してのスコセッシの申し入れに、製作するユナイテッド・アーティスツは、目を白黒させた。彼の希望は、「モノクロで撮りたい」というもの。70年代も終わりに近づいたこの時期に、正気の沙汰ではない。 この頃は『ロッキー』(76)の大ヒットに端を発した、ボクシング映画ブームの真っ最中。『ロッキー』シリーズ、『チャンプ』(79)『メーン・イベント』(79)、挙げ句はカンガルーのボクサーが世界チャンピオンと闘う『マチルダ』(78)などという作品まで製作され、続々と公開されていた。 スコセッシの希望は、当然のようにカラー作品である、それらのボクシング映画とは一線を画したいという、強い思いから生じたもの。そして同時に、当時浮上していた、カラーフィルムの褪色という、喫緊の課題に対するアピールの意味もあった。 その頃に撮影の主流を占めていた、イーストマンのカラーフィルムは、プリントは5年、ネガは12年で色がなくなってしまうという、衝撃的な調査結果が出ていた。撮影から上映まで、ほぼすべてがデジタル化した、現在の映画事情からは想像がつかないかも知れないが、映画の作り手にとっては、至極深刻な問題だったのである。「…僕はこれを特別な映画にしたいんだ。それになによりも黒白は時代の雰囲気を映画に与えてくれる」そんなスコセッシの思いは届き、ユナイトはモノクロ撮影に、OKを出した。 一時期は「これが最後の監督作」とまで思っていたスコセッシの元に、79年4月のクランク・インの日、1通の電報が届いた。差出人はシュレーダー。その文面は、“僕は僕の道を行った。ジェイクは彼の道を行った。君は君の道を行け”というものだった。 *** 1964年、ニューヨークに在るシアターの楽屋。1人のコメディアンが、セリフの暗唱を行っている。その男は、42才になるジェイク・ラモッタ(演:ロバート・デ・ニーロ)。でっぷりと肥え太ったその身体には、かつての世界ミドル級チャンピオンの面影はなかった…。 時は遡り、41年。19歳のジェイクは、デビュー以来無敗を誇っていたが、初めての屈辱を味わう。ダウンを7回奪ったにも拘わらず、判定負けを喫したのだ。 妻やセコンドを務める弟のジョーイ(演:ジョー・ペシ)に当たり散らすジェイクだったが、そんな時に市営プールで、15歳の少女ヴィッキー(演:キャシー・モリアーティ)に、一目で心を奪われる。妻がいるにも拘わらず、ジェイクはヴィッキーを口説いて交際を開始。やがて2人は、家庭を持つこととなる。 43年、無敵と謳われたシュガー・レイ・ロビンソンをマットに沈めるも、その後行われたリターンマッチでは、ダウンを奪いながらも判定負けとなったジェイク。これからのことを考えると、それまで手を組むことを拒んできた裏社会の大物トミーを、後ろ盾にする他はなかった。そして、タイトルマッチを組んでもらう見返りに、ジェイクは格下の相手に、八百長で敗れるのだった。 49年、フランスの英雄マルセル・セルダンに挑戦。TKOで、ジェイクは遂に世界チャンピオンのベルトを手に入れた。しかし栄光の座を得ると共に、異常なまでの嫉妬心と猜疑心が昂じて、ジェイクは妻ヴィッキーの浮気を執拗に疑うようになる。そしてあろうことか、公私共にジェイクを支え続けてきた弟ジョーイを妻の相手と思い込み、彼に苛烈な暴力を振るってしまう。 この一件でジョーイから見放され、やがてチャンピオンの座から滑り落ちることになるジェイク。54年には引退し、フロリダでナイトクラブの経営者となるが、ヴィッキーも彼の元を去る。 遂にひとりぼっちになってしまったジェイク。その行く手には、更なる破滅が待ち受けていた…。 *** スコセッシは言う。~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~と。 その原作者であるジェイク・ラモッタは、本作のボクシングシーンの撮影中、デ・ニーロに付きっきりで、喋り方からパンチのコンビネーションまで、自分のすべてを伝授したという。中でも口を酸っぱくして指導したのが、己のファイトスタイル。それは「絶対にホールドするな」というものだった。 本作ではデ・ニーロの共演者として、ジョーイ役のジョー・ペシとヴィッキー役のキャシー・モリアーティが、一躍注目の存在となった。ペシはデ・ニーロと同じ歳だが、それまではほとんど無名の存在。ペシの過去の出演作のビデオをたまたま目にしたデ・ニーロが、スコセッシにも観ることを勧めた。スコセッシも彼の演技に興味を引かれ、会ってみることにしたのである。 ところがその時、ペシは俳優の仕事に疲れ果てて、辞めようと決意したばかり。スコセッシのオファーを、真剣に取り合おうとしなかった。 スコセッシはペシを、何とかなだめすかして、セリフ読みをしてもらうと、その喋り方が非常に気に入ったという。更に即興演技をしてもらうと、やはり素晴らしかったため、ジョーイ役を彼に頼むことに決めた。 ジョー・ペシの起用によって、呼び込まれたのが、キャシー・モリアーティだった。1960年生まれで当時18歳だったキャシーは、高校卒業後にモデルをしながら、女優を目指していた。 ペシはキャシーの近所に住んでおり、彼女がヴィッキー・ラモッタに似ていることに気が付いた。キャシーは、ペシに頼まれて自分の写真を渡し、それをスコセッシが見たことから、本作のスクリーンテストを受けることとなったのである。そして次の日には、合格の電話を受け、見事ヴィッキーの役を射止めたのだった。 役作りに際しては、ジェイク・ラモッタ本人がベッタリ付きだったデ・ニーロとは真逆に、キャシーは自分が演じるヴィッキーと会うことを、スコセッシに禁じられたという。ヴィッキー本人がセットを訪れた際も、キャシーは顔を合わせないように、仕向けられた。演技はほぼ素人で、すべて直感で演じたというキャシーが、ヴィッキーの影響をヘタに受けないようにするための配慮であったと思われる。 さて主演のデ・ニーロ。本作での役作りこそ、彼の真骨頂と言って差し支えなかろう。チャンピオンを演じるために、タイトルマッチに挑むプロボクサー以上のトレーニングを積んだのは、まだ序の口。引退後のでっぷりと太ったラモッタを演じるため、4カ月で25㌔増量という荒技に挑んだ。 フランスやイタリアまで出掛け、お腹が減らなくとも1日3回、高カロリー食を詰め込むという苦行を繰り返す。それによってデ・ニーロは、体重を72.5㌔から97.5㌔まで増やすのに、成功したのである。 役に合わせて、顔かたちや体型まで変化させる。当時はまだそんな言われ方はしてなかったが、本作ではいわゆる“デ・ニーロ・アプローチ”の究極の形が見られる。逆に『レイジング・ブル』があったからこそ、“デ・ニーロ・アプローチ”という言葉が生まれ、一般化したとも言える。 では、そんなデ・ニーロが挑むボクシング試合。スコセッシはどんな手法で作り上げたのか? 通常のボクシング映画では、リングの外に数台のカメラを置き、様々なアングルから捉えたものを、編集するというやり方が一般的である。ところが本作撮影のマイケル・チャップマンが回したカメラは、1台だけ。しかもその1台をリングの中に持ち込み、常にボクサーの動きに焦点を合わせた。 この撮影は、スコセッシが描いた絵コンテを、忠実になぞって行われた。それはパンチ1発から、マウスピースが飛んでいくようなところまで、各ショットごとに細かく描き込まれたものだった。 スコセッシは、リング上では観客がボクサーの眼を持つようにしたかったという。観客自身が、殴られているのは自分だという意識を持続するように。それもあって、試合のシーンでは、絶対に観衆を映さなかった。 サウンドも、リングで戦うジェイクの立場から作ることを決めていた。パンチがどんな風に聞こえるか? 観衆の声は、どんな風に届くのか? ライフルの発射音やメロンの潰れる音などを駆使して、結局ミキシングには、当初予定していた7週間の倍の時間が掛かったという。 本作で初めてスコセッシ作品に参加し、後々彼の作品には欠かせない存在になっていく、編集のセルマ・スクーンメイカー。彼女はこう語っている。「…監督があらかじめとことん考え抜いておかなければ、『レイジング・ブル』のような映画の編集は生まれてこないわ。あの映画を偉大にしているのは背後にある考え方であって、それはもちろん私のでなくてスコセッシのものなのよ」『レイジング・ブル』は、アカデミー賞で8部門にノミネートされ、デ・ニーロに主演男優賞、スクーンメイカーに編集賞が贈られた。この年はロバート・レッドフォードの初監督作『普通の人々』があったため、作品賞や監督賞は逃したものの、スコセッシの見事な復活劇となった。 ~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~ それはこの作品に全力を投じた、スコセッシにも当てはまることだった。■ 『レイジング・ブル』© 1980 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2018.12.19
“映画史”の転換点に立ち会った2人…“スライ”と“ボブ”がスクリーン上で邂逅『コップランド』
「スタローン壮絶。デ・ニーロ超然。」 これが本作『コップランド』が、1998年2月に日本公開された際のキャッチフレーズ。そこからわかる通り、本作最大の売りは、シルベスター・スタローンとロバート・デ・ニーロ、2大スターの“初共演”だった。 そもそもこの2人、同時代のアメリカ映画を牽引して来た存在ながら、共演など「ありえない」ことと、長らく思われてきた。それは偏に、スターとしての、それぞれの歩みの違いによるものだった。 シルベスター・スタローン、通称“スライ” 。スターとしての全盛期=1980年代から90年代に掛けては、鍛え上げたムキムキの肉体で、ボディビルダー出身のアーノルド・シュワルツェネッガーと、“アクションスターNo1”の座を争っていたイメージが強い。 そんな中でも代表作はと問われれば、誰もがまずは『ロッキー』(1976~ )シリーズ、続いて『ランボー』(1982~ )シリーズを挙げるであろう。特にプロボクサーのロッキー・バルボア役は、スタローンが最初に演じてから40年以上経った今も、『ロッキー』のスピンオフである『クリード』シリーズに、登場し続けている。 一方のロバート・デ・ニーロ、愛称“ボブ”の場合は、“デ・ニーロ・アプローチ”という言葉が一般化するほどに、徹底した役作りを行う“演技派”といったイメージが、まずは浮かぶ。 “デ・ニーロ・アプローチ”の具体例は、枚挙に暇がない。出世作『ゴッドファーザーPARTII』(1974)では、前作でマーロン・ブランドが演じたドン・ヴィトー・コルレオーネの若き日を演じるため、コルレオーネの出身地という設定のイタリア・シチリア島に住み、その訛りが入ったイタリア語をマスター。その上で、ブランドのしゃがれ声を完コピした。 『タクシードライバー』(1976)の撮影前には、ニューヨークで実際にタクシー運転手として勤務したデ・ニーロ。街を流して乗客を乗せたりもした。 特に有名なのが、実在のプロボクシングミドル級チャンピオン、ジェイク・ラモッタを演じた『レイジング・ブル』(1980)での役作り。まずトレーニングで鋼のような肉体を作ってボクサーを演じた後、引退後に太った様を表現するため、短期間に体重を27キロ増やすという荒業をやってのけた。 そんなこんなで、パブリックイメージとしては、マッチョなアクションスターのスライと、全身全霊賭けて役になり切るボブ。そんな2人の共演など、「ありえない」ことになっていたわけである。 しかしこの2人の俳優の歩みを振り返ると、スタートの時点では、そんなに縁遠いところに居たわけではない。 その起点は、1976年。 まずはマーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』が、2月にアメリカで公開された。主演のデ・ニーロが演じたのは、「ベトナム帰りの元海兵隊員」を名乗る、不眠症の孤独なタクシー運転手トラヴィス。彼はニューヨークの夜の街を走り続ける内に、次第に狂気を募らせて、やがて銃を携帯。過激で異常な行動へと、走るようになる…。 デ・ニーロは、この2年前の『ゴッドファーザーPARTⅡ』でアカデミー賞助演男優賞を受賞して、「最も期待される若手俳優」という位置を既に占めていたが、『タクシー…』はメジャー作品としては、初の主演作。公開後の5月には『タクシー…』が、「カンヌ映画祭」の最高賞である“パルム・ドール”を受賞したことなどもあり、その評価を更に高めることとなった。 同じ年の11月に公開されたのが、スタローンが脚本を書き主演を務めた、『ロッキー』である。うだつの上がらない30代の三流ボクサーであるロッキーが、世界チャンピオンから“咬ませ犬”として指名され、挑戦することになる。とても勝ち目がない勝負と思われたが、「もし最終ラウンドまでリングの上に立っていられたら、自分がただのゴロツキではないことが証明できる」と、愛する女性に告げて、ファイトに挑んでいく…。 この作品が製作され公開に至るまでの経緯は、もはやハリウッドの伝説になっている。ある時、プロボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチを、偶然に視聴したスタローン。偉大なチャンピオン=モハメド・アリに、ノーマークのロートルボクサー=チャック・ウェプナーが挑んで、大善戦したのを目の当たりにして感動。3日間で『ロッキー』の脚本を書き上げた。持ち込まれたプロダクション側は、スター俳優の起用を前提に、脚本に数千万円の値を付けた。しかし当時まったく無名の存在だったスタローンは、自らが主演することを最後まで譲らず、結局は最低ランクの資金で製作されることとなった。 そうして完成した『ロッキー』は、公開されるや誰もが予想しなかったほどの大ヒットに!正に、“アメリカン・ドリーム”を体現する作品となった。 デ・ニーロとスタローンにとって、“主演スター”としての第一歩になった、『タクシードライバー』と『ロッキー』は、その年の賞レースを席捲。翌77年の3月に開催されたアカデミー賞で、2人は“主演男優賞”部門で覇を競うこととなった。 両作は“作品賞”部門にも、共にノミネート。この激突はいま振り返れば、映画史的に非常に興味深い。 1967年の『俺たちに明日はない』以来、70年代前半まで映画シーンをリードしてきたのが、“アメリカン・ニューシネマ”というムーブメント。ベトナム戦争の泥沼化やウォーターゲート事件などで、アメリカの若者たちの間で自国への信頼が崩壊する中で、アンチヒーローが主人公で、アンチハッピーエンドが特徴的な作品が、次々と作られていった。 『タクシー…』は、そんな夢も希望もない内容の、“アメリカン・ニューシネマ”最後の作品と位置付けられている。 一方で『ロッキー』は、当初は“ニューシネマ”さながらに、主人公が試合を途中で投げ出す展開も考えられていたというが、結局は、“アメリカン・ドリーム”を高らかに歌い上げる結末を迎える。今では、翌年の『スター・ウォーズ』第1作(1977)と合わせて、“ニューシネマ”に引導を渡す役割を果たしたと言われている。 そんな因縁はさて置き、1976年度のアカデミー賞“主演男優賞”部門に、話を戻す。海外のニュースがネットで瞬時に伝わる今とは違って当時は、アカデミー賞の戦前予想は、月刊の“映画雑誌”などで読む他はなかった。それによると、“主演男優賞”はデ・ニーロ本命、対抗がスタローンといった雰囲気が伝わってきた。 ところが、ところがである。蓋を開けてみると、“主演男優賞”を獲得したのは、『ネットワーク』に出演したピーター・フィンチだった。 シドニー・ルメット監督が、視聴率獲得競争を描いてメディア批判を行ったこの作品に於いて、徐々に狂気に蝕まれていく報道キャスターを演じたフィンチは、役どころ的には、本来は“助演”ノミネートが相応しいと言われていた。しかしノミネート発表直後に、心不全で急死。同情票を集めることとなり、アカデミー賞の演技部門史上初めて、死後にオスカー像が贈られることとなったのである。 『ネットワーク』もフィンチの演技も、腐す気はまったくない。しかし40余年経った今、この結果と関係なく、『タクシー…』のデ・ニーロや『ロッキー』のスタローンの方が、未だに熱く語られる存在であることを考えると、賞など正に水物であることが、よくわかる。 とはいえ“アカデミー賞”が、映画人にとって最大の栄誉の一つであることには、疑いもない。『タクシー…』で本命と目されながらも逃したデ・ニーロは、1978年度にマイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』での2度目のノミネートを経て、80年度にスコセッシ監督の『レイジング・ブル』で、遂に“主演男優賞”のオスカー像を手にすることとなる。 これ以降もデ・ニーロは、名コンビとなったスコセッシ監督作品他で、多くの者がお手本にするような俳優として、キャリアを積み重ねていく。そしてアカデミー賞にも、度々ノミネートされることとなる。 一方のスタローン。『ロッキー』では“主演男優賞”に加えて、“脚本賞”にもノミネートされていたが、こちらも『ネットワーク』脚本のパディ・チャイエフスキーに攫われてしまった。『ロッキー』自体は、“作品賞”、“監督賞”、“編集賞”の3部門を制覇。『タクシードライバー』が無冠に終わったのに対し、大勝利と言える成果を収めたが、以降スタローンとアカデミー賞は、長く疎遠な関係となる。 『ロッキー』で大成功を収めた後の主演作となったのが、『フィスト』(1978)。スタローンは、労働組合の大物指導者でありながら、マフィアとの癒着が噂され、最終的には謎の失踪を遂げた実在の人物、ジミー・ホッファをモデルにした主人公を演じた。監督に起用されたのは、『夜の大捜査線』(1967)でアカデミー賞監督賞を受賞し、他にも『屋根の上のバイオリン弾き』(1971)『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973)などの作品を手掛けてきた、ノーマン・ジュイスン。 明らかに賞狙いの作品であった『フィスト』だが、大きな話題になることもない失敗作に終わった。同じ1978年には、スタローンが初監督もした主演作『パラダイス・アレイ』も公開されたが、『ロッキー』に続くスタローン主演作のヒットは、翌79年の続編、『ロッキー2』まで待たねばならなかった。 このように、暫しは『ロッキー』シリーズ以外のヒットがなかったスタローンだが、1980年代に、ベトナムから帰還したスーパーソルジャーを主人公にした、『ランボー』シリーズがスタート!スタローンは、アクションスターとしての地位を確立していくと同時に、1984年以降は、毎年アカデミー賞授賞式の前夜に「最低」の映画を選んで表彰する、“ゴールデンラズベリー賞=ラジ―賞”受賞の常連となっていった…。 “マネーメイキングスター”としては、常にTOPの座を争いながらも、その“演技”が評価されることは、まず「ない」存在となったスタローン。しかし彼もスタート時点は、マーロン・ブランドのような性格俳優に憧れて、初主演作では“アカデミー賞”にノミネートされた、立派な“俳優”である。アクションではない“演技”で注目されたいという気持ちは、常にあったものと思われる。 そんな彼が、50代を迎えて主演作に選んだのが、本作『コップランド』であった。ニューヨーク市警の警官が多く住むため、“コップランド”と呼ばれる郊外の町ギャリソンを舞台にしたこの作品で、スタローンが演じたのは、落ちこぼれでやる気のない中年保安官。しかし、殺人まで絡んだ警察内の不正に目を瞑ることが出来なくなり、遂には孤高の戦いを繰り広げることとなる。 スタローンは、低予算ながらドラマ性の高い本作への出演を、ほぼノーギャラで受けた。そして主人公の保安官の愚鈍さを表すために、15キロも体重を増やす、“デ・ニーロ・アプローチ”ばりの役作りを行ったという。 一方本作でのデ・ニーロは、ニューヨーク市警の内務調査官役。コップランドの警官たちの不正を暴こうとする中で、スタローンの正義感を利用する、狡猾な役どころである。とはいえ、「2大スター共演」を売りにした割りには、登場シーンもさほど多くはない、ゲスト的な出演の仕方と言える。劇場公開時には、その辺りが何とも物足りなかったが、いま見返すと、短い出番ながらさすがに的確で印象的な演技をしていることに、感心する。 余談だが、スタローンとデ・ニーロは、『コップランド』から16年後に、『リベンジ・マッチ』(2013)という作品で再共演を果たしている。こちらは本格的なW主演作品で、2人の役どころは、30年前の遺恨のために、リング上で対戦する老齢のボクサー。作品的な評価は高くないが、2人の若き日が、『ロッキー』シリーズや『レイジング・ブル』のファイトシーンから抜き出されてコラージュされている辺りが、“楽屋落ち”のように楽しめる作品ではあった。 さて本作『コップランド』の話に戻ると、公開時に“俳優”スタローンの挑戦は、それなりに高く評価はされた。しかしその演技が、賞レースなどに絡むことはなかった。 スタローンとアカデミー賞との関わりは、2016年度の『クリード チャンプを継ぐ男』で“助演男優賞”にノミネートされるまで、『ロッキー』第1作以来、実に40年ものブランクを空けることとなる。候補となったのが40年前と同じく、ロッキー・バルボア役だったというのは、逆に特筆すべきことだと思うが…。◼︎ © 1997 Miramax, LLC. 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COLUMN/コラム2016.10.13
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年11月】キャロル
80年代~ウォール街でウルフ(狼)と呼ばれた実在の人物ジョーダン・ベルフォートの回顧録『ウォール街狂乱日記』を映画化。若くして巨万の富を築いた証券マンの栄光と転落をレオナルド・ディカプリオ&マーティン・スコセッシ監督が5度目のタッグで描く。あらすじはというと・・・学歴もコネもない22歳の青年ジョーダン・ベルフォートは、お金持ちになりたい!という夢を抱きウォール街で株式ブローカーとして働き出します。ところが働き始めてすぐに「ブラックマンデー」と呼ばれる大恐慌が起きて会社は倒産。そこでジョーダンは仲間を集めて証券会社を設立し、巧みな話術を活かしたセールストークと詐欺まがいの株取引で大金を稼ぐようになります。会社を大企業に成長させて自らも億万長者となったジョーダンは、ドラッグとセックスまみれの豪遊生活に明け暮れる・・・。結局、派手にいろいろやりすぎて警察から目を付けられ、投資詐欺で逮捕され服役するのですが・・・その顛末を描いたお話です。(ちなみに出所した彼は、自伝(この映画の原作)を書いたり、セールストークの講演会とか開いたりして現在も大儲けしているそうです。さっすが~!なのか?!)本作は、まぁ、つまるところ酒を浴びまくりドラッグをキメまくり人を騙しまくってカネを儲けまくるという、よくぞ映像にしたものだと思うほど、とにかくクレイジーな映画なのです。(っていうかこれが実話だってことに驚愕!!)それに加えてディカプリオが、ロウソク垂らしてアヒアヒする全裸SMプレイで完全ドMになったり、ドラッグが効き過ぎて涎ダラダラ状態で床を這いつくばったり・・・レオ様ってば、これはいくらなんでもやりすぎでしょ(それほどアカデミー賞欲しいのね?)・・・と思わずにはいられない史上最大級の崩れっぷりが、本当に、スゴイ。そしてこのクレイジーすぎる暴れっぷりラリっぷりは、実在のジョーダン・ベルフォート本人から「実際はこうだった」とアドバイスをもらって再現したもので、本当にぜーんぶ実際に起こった話だっていうんだから、驚きを通り超して呆れてしまいます!!とにかく百聞は一見にしかず。マーティン・スコセッシ監督が「彼は何でも出来る」と絶賛した、レオナルド・ディカプリオの超スゴ演技を11月のザ・シネマで是非ご覧ください!! COPYRIGHT © 2016 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2015.11.28
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2015年11月】うず潮
『ギャング・オブ・ニューヨーク』でコンビを組んだマーティン・スコセッシ×レオナルド・ディカプリオが再びタッグ!実在した大富豪ハワード・ヒューズの波乱の半生を、スケール満点で描いた伝記大作。 主演のハワード・ヒューズ役のディカプリオは憑依ぶりを発揮し、その存在感はさすがの一言。そして、ヒューズの恋人オスカー女優キャサリン・ヘプバーン役にはケイト・ブランシェット。若きヘプバーンを豪快でどこか可愛らしい彼女を見事に演じきり、アカデミー賞助演女優賞を見事獲得。さらに本作は1920~30年代の車や航空機、ファッションなどその時代を感じられ、ヒューズが製作した映画『地獄の天使』に登場する戦闘機バトルを再現したシーンは迫力満点。 ヒューズは映画の他に航空事業にも乗り出すのですが、軍事用に開発した巨大輸送機の飛行シーンは男子なら、是非見てほしいシーン。ロマンを感じます!この映画を見たあとは、ハワード・ヒューズについてもっと知りたくなりますよー。是非見たあとにググってみてくだい! ザ・シネマでは、こんな飛行機野郎たちが登場する映画を【男たちの大航空時代】と題して特集放送!本作のほか『レッド・バロン』『トラ・トラ・トラ・』を放送します!こちらもお楽しみに! ©2004 IMF. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2014.01.01
2014年1月のシネマ・ソムリエ
■1月11日『ザ・ローリング・ストーンズ・ア・ライト』 ロック通の巨匠M・スコセッシと、ザ・ローリング・ストーンズのコラボレーションが実現。2006年、ニューヨークのビーコン・シアターで行われたライブの記録映画だ。 『JFK』のロバート・リチャードソンなど、ハリウッドの一流撮影監督が多数参加。カメラ18台を駆使した見事なカット割りの映像で、ストーンズの熱い演奏を見せる。 バディ・ガイ、ジャック・ホワイトらのゲストを迎えたステージは臨場感満点。セットリストが直前まで届かずに苛立つスコセッシの姿を捉えたオープニングにも注目を。 ■1月18日『ブルーベルベット』 ハンサムな大学生ジェフリーが野原で人間の片耳を拾う。好奇心に駆られ、事件の関係者であるクラブ歌手ドロシーの自宅に侵入した彼は、そこで異常な光景を目撃する。鬼才D・リンチの世界的な名声を揺るぎないものにしたフィルムノワール。のどかな田舎町に潜む倒錯的な暴力とセックスを描き、賛否両論の大反響を呼び起こした。「この世は不思議なところだ」という劇中セリフに象徴される映像世界は、猟奇的かつ淫靡でありながら優雅でもある。変態のサディストを怪演したD・ホッパーも強烈! ■1月25日『アクロス・ザ・ユニバース』 ビートルズ・ナンバー33曲をフィーチャーした青春ミュージカル。ベトナム反戦運動に揺れる1960年代の米国を舞台に、若者たちの恋と挫折をドラマチックに描き出す。監督は独創的な舞台演出家でもあるJ・テイモア。サイケな視覚効果が圧巻の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」など、名曲の数々を巧みに物語に融合した。美形女優E・R・ウッドらのキャストが見事な歌声を披露。登場人物にルーシー、ジュードといったビートルズの歌詞にちなんだ名前が付けられているのも要チェック。 『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』©2007 by SHINE A LIGHT, LLC and GRAND ENTERTAINMENT (ROW) LLC. All rights reserved./『ブルーベルベット』BLUE VELVET © 1986 STUDIOCANAL IMAGE. All Rights Reserved/『アクロス・ザ・ユニバース』© 2007 Revolution Studios Distribution Company, LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2012.09.21
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2012年10月】飯森盛良
今はIKEAがあるあたりだ。バブル崩壊から数年後、当時はバブルの徒花の巨大屋内スキー施設が建っていて、深夜にはそのシルエットが黒々と天高くそびえ、不気味だった。ふもとは港湾倉庫街。二浪が確定し、終夜バイトをしていたオレ。人生ドン詰まり感、世に出れない焦燥感を抱きながら、海からの寒風吹きすさぶスキー施設の足元を、M-65の襟を立て、バイト先の倉庫まで週6日通った。なんだか解らんが何かに凄まじくムカついてたオレは、トラヴィスにおのれを重ねながら、何十回もこの映画を観た。家ではパッチン腕立てと東京ガスで鉄拳焙りをしてたのは言うまでもない。厨二ではなく二十歳の頃の話だ。そのおかげか、今どうにかこんな仕事で喰えてる。M-65は黄緑に色褪せたが、20年来オレのバディであり続けてくれてる。で、だ若者よ!不景気と閉塞感に窒息しそうな今日の若者よ!とりあえず、M-65を着なさい。全てはそこからだ。そしてトラヴィスを胸に、とりあえずパッチンと東京ガスをしながら、雌伏の今日を生きるのだ!そのうちなんとかなるだろう。 Copyright © 1976, renewed 2004 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.