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COLUMN/コラム2022.11.04
スピルバーグ、最初にして最後の“ディレクターズ・カット”―『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』―
「この映画には多くの美徳がある。ほとんどのハリウッド作品やパルプSFとは異なり、人間と地球外生命体との接触は、主に平和的であると考えられていることだ」カール・セーガン(天文学者・作家) 「スピルバーグが描く異星人には自然の善良さが表れており、生や死を超えた善なるものが感じられる」ドゥニ・ヴィルヌーヴ(『メッセージ』(16)『DUNE/デューン 砂の惑星』(21)監督) スティーヴン・スピルバーグの壮大なSF叙事詩『未知との遭遇』は、人類と地球外知的生命体とのコンタクトを真摯に、そして迫真的に描いた嚆矢の商業長編映画で、一般市民や科学者、軍などそれぞれの視点から捉えたサスペンスフルな異常事態が、やがて友好的なエイリアン・コンタクトの輪郭をあらわにしていく実録調の構成をとり、この種のジャンルの語り口や目的を一新させた。なによりスピルバーグ自身、フィルモグラフィで単独脚本を兼ねた唯一の監督作として特別な思いを抱いており、そのため過去に二度も手を加え、完成度を極限にまで高めている。 ◆悔いを残した「オリジナル劇場版」 1977年11月16日、『未知との遭遇』はニューヨークのジーグフェルド・シアターとハリウッドのシネラマドームで限定公開され、連日ヒットを記録。そして1か月後には全米272館の劇場で拡大公開され、翌年の夏に上映が終了するまで全米総収入1億1639万5460ドルを稼ぎ出し、配給元であるコロンビア・ピクチャーズの過去最高となる売上を叩き出した。さらには海外における公開によって、1億7100万ドルが追加計上された。当時コロンビアは株価が下落して経営難の状態にあり、スピルバーグはメジャースタジオを倒産の危機から救い出したのた。 だが、こうした好転を得るために、コロンビアはクリスマス興行を必要とし、本来の予定よりも7週間も早い公開をスピルバーグに要求。ひとまずの完成を急務としたため、彼は自身が望んでいたように作品に仕上げることができなかったのである(以下、当バージョンを「オリジナル劇場版」と呼称)。 スピルバーグの不満は、主人公であるロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファス)のエピソードと、第三種接近遭遇を調査するラコーム博士(フランソワ・トリュフォー)とメイフラワー・プロジェクトのエピソードとの並置にあり、さらにはいくつかのシーンの削除と、省略したシーンの追加を望んでいた。加えてバミューダ三角海域にて消息を絶った輸送船コトパクシ号が、海岸から500kmも離れたゴビ砂漠で発見されるシーンを撮影できなかったことにも不満を抱いていた。 そこで1978年の夏、本作が劇場公開を終えたタイミングで、スピルバーグはコロンビアに「自分が望む形で映画を完成させるため、予算を与えることは可能か?」と訊ねた。そこでコロンビアは、暫定的に計画を立てていた同作のリバイバル公開を条件に、追加撮影をほどこした更新バージョンをリリースする機会をスピルバーグに持ちかけたのだ。 ただし映画への再アクセスにはマーケティング戦略上、マザーシップ内部を見せる撮影が必要だとコロンビアは提示してきたのだ。多くの批評家や観客が、ロイが巨大な宇宙船に乗った後に起こったことを見たいという願望を表明していたからだ。 スピルバーグは「オリジナル劇場版」に調整を加え、作品に統一感を持たせたいと感じており、最終的には自身の作品をアップデートさせるという希求にあらがえず、提示された条件を承諾したのである。 コロンビアはスピルバーグに再撮影の製作費200万ドル(150万ドルという説あり)と7週間の期間を与え(撮影は結果的に16〜19週間を要した)、『未知との遭遇/特別編』(以下「特別編」)の製作へと至ったのである。ただこの時期、すでに監督は次回作となる戦争スペクタクルコメディ『1941』(79)の撮影に入っており、その間に「特別編」の制作チームの再編成を着々と進めた。 ◆理想に近づいた「特別編」 多くのスタッフ、ならびにキャストはこの意欲的なプロジェクトへの再登板を表明したが、ラコーム博士を演じたフランソワ・トリュフォーは監督作『終電車』(80)の撮影に入っており、また撮影監督のビルモス・ジグモンドはライティングに対するコロンビアの無理解が溝となって身を引き、デイブ・スチュワートが代わりを担当することになった。視覚効果スーパーバイザーのダグラス・トランブルと視覚効果撮影監督のリチャード・ユリシッチは、パラマウントで『スター・トレック』(79)に取り組んでいたことと、トランブルは契約上の解釈から無報酬が懸念されたことで参入を見送り、代わりにアニメーション監督のロバート・スウォースが、前者の薦めにより視覚効果の指揮をとることになった。そして命題ともいえるマザーシップ内部は『スター・ウォーズ』(77)『エイリアン』(79)などでコンセプト・アーティストを務めたロン・コッブがデザインし、モデル作成はちょうど『1941』のミニチュア制作に参加していたグレッグ ジーンが続投した。 ミニチュア制作の作業は1979年の夏に始まったが、スピルバーグは『1941』の撮影が終わるまで同作に集中するつもりでいた。しかしロイ役のリチャード・ドレイファスが多忙だったため、1979年2月に1日だけ空いた彼のスケジュールを利用し、先行して一部撮影に踏み切った。そしてドレイファスが新たに建設された、マザーシップへのランプを上っていく様子が撮影された。ハッチ内部の両方の壁に並び、ロイを船内に迎え入れる小さなエイリアンたちは、多くの女の子をエキストラで配役している。「特別編」ではロイがランプをのぼり、密閉されたボールルームに入ると、天井が突然上向きに浮揚し始め、コッブの設計した小型のUFOが飛行して脱着する壮大なドッキングエリアへと移動するが、ドッキングエリアの一部がランプとハッチの内部としてセットで建造され、残りはミニチュアと視覚効果を駆使して表現された。 スピルバーグは『1941』の劇場公開から数週間後の1980年1月より本格的な作業を開始し、手始めにゴビ砂漠のシーンに着手。20世紀フォックスの裏庭に置かれていた古い船の模型をジーンが改造し、カリフォルニア州デスバレーの近くで撮影した。特別な撮影機材やポストプロダクションでのエフェクト効果に頼らず、強制遠近法を用いて同シーンに挑んでいる。コトパクシ号の模型を前景に置き、俳優や車両を含むすべての要素を約200ヤード離れたバックグラウンドに配置して、あたかも実物大のコトパクシ号が目の前にあるかのように演出したのである(一説によれば、同シーンの撮影は後に『E.T.』(82)『太陽の帝国』(87)でスピルバーグと組む、シネマトグラファーのアレン・ダヴィオーが手がけたという)。 これらの撮り下ろし映像が揃うと、スピルバーグとエディターのマイケル・カーンは「特別編」の編集を開始。まずは不必要だと判断した多くのシーンを削除することから始めた。もっとも顕著なのは、ロイがデビルズタワーの模型を作るために、近所から破壊したものを家に持ち込むシーケンスだ。空軍の記者会見シーンも削除され、ロイが電力会社で原因不明の停電について話し合う冒頭のシーンなどもオミットされた。逆に「オリジナル劇場版」制作時に撮影したが使わなかった、ロイがシャワーで感情を崩壊させるシーンが差し戻され、妻ロニー(テリー・ガー)が彼のもとを離れる動機を明確にしている。加えて会話の小さな断片が各所で削除され、結果としてオリジナル劇場版から16分を削除し、以前にカットした7分を復元。さらに新たに撮影した6分のフッテージを追加し、「特別編」は「オリジナル劇場版」より3分短かくなった。 また音楽面でも改変をおこなった。それは最後のクレジットで、ジョン・ウィリアムズ作曲によるエンドタイトルを流していたものを、「特別編」ではディズニーの長編アニメーション『ピノキオ』(40)の歌曲「星に願いを」のメロディを挿入したインストゥルメンタルに変更した。これは劇中、ロイの家で鉄道模型の卓上に置かれていた、ピノキオのオルゴールを受けての伏線回収でもあり、映画のテーマに同期する曲としてスピルバーグは使用を熱望したのだ。もともとはクリフ・エドワーズが歌うオリジナル曲を引用していたのだが、1977年10月19日におこなわれたダラスの試写では観客の反応が悪かったために代えた経緯があり、インスト版を用いることにした。 この「特別編」は1980年7月31日にビバリーヒルズの映画芸術科学アカデミー本部のサミュエル・ゴールドウィン・シアターでマスコミ向けに上映され、同年8月1日に北米750館の劇場で一般公開。その後すぐに海外での公開がおこなわれた。そして1600万ドルの収益を上げ、コロンビアは再びその投資から、リバイバルとしては悪くない利益を得た。 批評家と観客の反応はまちまちで、変更がより焦点を絞り、まとまりをもたらしたと称賛する者もいれば、改ざんの必要性を問い批判する者もいた。なによりも誤算だったのは、あれだけこだわったマザーシップ内部の描写に、あまり賞賛を得られなかったことだろう。 スピルバーグ自身も、この件に関しては後悔の念を強く抱き、後年「オリジナル劇場版」と「特別編」の両方が観られる初のレーザーディスクを米クライテリオン・コレクションでリリースするにあたり、VFX専門誌「シネフェックス」当時の編集長ドン・シェイのおこなったインタビューで心情を吐露している。 「理想的な『未知との遭遇/特別編』は「オリジナル劇場版」のエンディングで終わることだったね。リチャード(・ドレイファス)がマザーシップの内部に入って、あたりを見回し、 ハイテク器機や蜂の巣のようなスペースシップを眺めることはなかったんだ。映像はきれいだったし、想像力に溢れていてよくできていると思う。でもオリジナルのエンディングのほうがずっと好きだ」 ◆究極の『未知との遭遇』〜「ファイナル・カット版」 『未知との遭遇/ファイナル・カット版』(以下「ファイナル・カット版)は、こうした経緯を経て2種類となった『未知との遭遇』の決定版とするべく、スピルバーグが承認した最終バージョンである。叩き台になったのは1981年1月15日にABCテレビネットワークで放送された143分のもので、これは「劇場オリジナル版」と「特別編」がひとつに統合され、多くのカットシーンが残されていた(スピルバーグは後に脚本に協力したハル・バーウッドに「すべての要素を含んだお気に入りのバージョンだ」と語っている)。このABCテレビ放送版に沿う形で、両バージョンの要素を組み合わせながら、いくつかのシーンを短くし、あるいは長くするなどの調整をしたものである。 「ファイナル・カット版」における最大の特徴は、ロイがマザーシップ内部に入り込むクライマックスが完全にオミットされている。そして「星に願いを」のインスト版が「オリジナル劇場版」のエンドタイトルに戻された。前者に関しては、『未知との遭遇』4K UHD Blu-rayソフトに収録された特典インタビュー“Steven Spielberg 30 Years of CLOSE ENCOUNTERS“(『スティーヴン・スピルバーグ 30年前を振り返って』)の中で、スピルバーグは以下のように語っている。 「船内の様子は、観客の想像の中だけに存在するべきと考えたんだ」 同バージョンで初めて『未知との遭遇』に接する若い世代は、はたしてマザーシップの向こう側に、どのような光景を想像するのだろうか? ちなみにこの「ファイナル・カット版』、正式な呼称は”The Definitive Director's Version“で、スピルバーグは本作をフィルモグラフィにおいて唯一の“ディレクターズ・カット”だと位置付け、以後、自作の改変はしないといった意向を示している。まさに文字どおりのファイナルであり、そういう意味においても希少なバージョンといえるかもしれない。■ 『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』© 1977, renewed 2005, © 1980, 1998 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.04.02
“天才”スピルバーグ、ハリウッドの王への第一歩 『ジョーズ』
1975年8月、小5の夏休み。両親と弟2人との5人家族で、東北周遊旅行の途中、私は高熱を発し、父に抱えられ病院へと担ぎ込まれた。 処置としては、解熱剤でも注射してもらったのだと思う。別行動となった母と弟たちと再び合流するための、駅での待ち時間。父が飲み物など買いに行き、私は独り父が置いていったスポーツ紙を、ぼっーと眺めていた。 その時、目に飛び込んできたのだ!大きく口を開けたサメの横で、電話を掛けている若い男の写真が!! それはアメリカで、人喰いザメの映画が特大ヒットとなっており、歴代の興行記録を悉く塗り替えているという記事だった。写真の男はその監督で、まだ20代と紹介されていた。そしてその作品は、日本では年末に正月映画として公開されるということだった。 それまで映画は1年に1度、“ディズニー”などの子ども向き作品に連れていってもらうぐらいで、さほど興味がなかった。しかしその記事で取り上げられている映画には、生まれて初めて、「観たい!」という熱烈な感情が沸き起った。それがスティーブン・スピルバーグ監督の、『ジョーズ』だった。 4カ月後=75年12月、私は有楽町の旧・丸の内ピカデリーで『ジョーズ』を鑑賞。その後の人生に、大きな影響を受けることとなる。元を正せばあの夏の日、件の記事を目にしなければ、今このコラムを書いていることも、恐らくなかった筈だ…。 1946年12月生まれで、当時は弱冠28歳だったスピルバーグが、ハリウッドの頂点に上り詰めていく第一歩となったのが、本作『ジョーズ』である。一体どんな経緯で映画化されたのか?そして20代の若僧が、なぜ監督を任されたのか?その舞台裏は、現在ミュージカルの舞台化が企てられているほど、それ自体が「劇的」な出来事の連続だったのである。 少年時代から父の8㎜カメラを奪って映画を作っていた、スピルバーグ。そんな彼がハリウッド入りを果たすきっかけとなったエピソードは、もはや伝説と言える。 18歳の夏にロサンゼルスの「ユニバーサル・スタジオ」の観光ツアーに参加したスピルバーグは、そのツアーを抜け出して、観光客には立ち入り禁止のサウンドステージや編集室などを見て回った。その際に、偶然出会った映画ライブラリー館長から3日間のパスを貰い、連日の撮影所通いが始まる。それは3日間の期限が切れた後も、門衛の黙認の下に続いた。 そうやって撮影所のスタッフと知り合いになり、諸々雑用なども言いつかるようになったスピルバーグ。自ら監督したインディーズ作品でお偉方にアピールし、やがてTVシリーズの一編やTVムービーなどの監督を任されるようになっていく。 その中の1本『激突!』(71)は、あまりの出来の良さに、アメリカ以外の各国では劇場公開に至った。そして『続・激突!/カージャック』(74)で、正式に劇場用映画の監督としてデビューを飾った。 邦題に相違して、『激突!』とは全く無関係の『続・激突!…』。新人監督の作品として批評が良かったにも拘わらず、興行はぱっとしなかった。しかしプロデューサーを務めたリチャード・D・ザナックとデヴィッド・ブラウンは、スピルバーグの力量を認めることとなる。それが『ジョーズ』に繋がっていったのである。 ピーター・ベンチリ―の原作は、1974年2月に出版され、大ベストセラーになったもの。ザナック&ブラウンは、その出版前に権利を買って、映画化の準備を進めていた。 スピルバーグは、ブラウンのデスク上にあった、出版前の原作ゲラ刷りを何気なく読み始めた。その結果己の次回作として、『ジョーズ』を撮りたいと希望するに至る。ところがその時は既に、『男の出発』(72)などのディック・リチャーズが、『ジョーズ』を監督することが、決まっていた。 数週間後、リチャーズがレイモンド・チャンドラー原作で、ロバート・ミッチャムが探偵フィリップ・マーローを演じる『さらば愛しき女よ』(75)を監督するために、降板。お鉢はスピルバーグへと、回ってきた。 ベンチリ―の原作は、ヘンリック・イプセンの「民衆の敵」をベースに、ハーマン・メルヴィルの「白鯨」などの要素を織り込んだストーリーだった。「民衆の敵」は、ノルウェーの田舎町で1人の医師が、観光に利用しようとしている温泉が、廃水で汚染されていることに気付いたことから、他の町民と対立し孤立していく物語。医師を警察署長に、温泉の汚染を、夏の海水浴場に現れたホオジロザメに置き換えたのが、「ジョーズ」である。そして「白鯨」は、自分の片足を喰いちぎった、白いマッコウクジラに報復を果たそうとする、エイハブ船長とそのクルーの物語である。「ジョーズ」には、サメ捕りに執念を燃やす漁師が登場する。 プロデューサーとの契約では、原作者のベンチリ―が脚本も手掛けるということになっていた。ベンチリ―は草稿を3本ほど書いたが、それらはスピルバーグを満足させるには至らなかった。 原作では、人喰いザメの襲撃を隠蔽しようとする町の勢力にマフィアが絡んでいたり、サイドストーリーとして警察署長の妻と海洋学者の不倫話が盛り込まれたりしている。スピルバーグがこれらの要素を、「不要」と判断したことも、原作者によるシナリオに、不満を持った理由かも知れない。 結局シナリオは、ハワード・サックラ―という脚本家が大きくリライト。原作にないエピソードの大部分は、本人の都合でクレジットされてない、サックラ―が付け加えたといわれる。 その後を引き受けることになったのは、スピルバーグの旧友だった、カール・ゴッドリーブ。彼は俳優として呼ばれた筈だったのに、完全な脚本が出来ていないままクランクインした撮影現場では、脚本家としての役割の方が大きくなっていった。毎日の撮影台本は、監督及びキャストの意見を汲んだ上で、連日徹夜で彼が仕上げていったのだ。 主演級である3人のキャストは、いずれも第一候補ではない者に決まっていった。夏場の稼ぎで1年間を過ごす町アミティの警察署長ブロディ役には、スティーブ・マックイーンやチャールトン・ヘストンの名が上がったが、スピルバーグはヘストンに関して、「彼なら勝つに決まっているって誰でもわかるじゃないですか!」と、異議を唱えたという。なるほど、ニューヨークの警官の激務に嫌気が差して、のどかなリゾート地の警察に身を移した設定のブロディ役には、マックイーンやヘストンのようなヒーロー俳優は、確かにそぐわない。 結局ブロディには、スピルバーグが推した、ロイ・シャイダー(1932~2008)が決まった。シャイダーは舞台で高い評価を受けた後、『フレンチ・コネクション』(71)でアカデミー賞助演男優賞の候補になった辺りから、映画界で存在感が高まりつつある頃だった。 海洋学者のマット・フーパ―役の有力候補は、当初はピーター・ボグダノヴィッチ監督の『ラスト・ショー』(71)で評判になった2人、ティモシー・ボトムズとジェフ・ブリッジスだった。結局はスピルバーグの盟友ジョージ・ルーカスが監督した、『アメリカン・グラフィティ』(73)の主演、リチャード・ドレイファス(1947~ )に決まる。 若僧ということで、撮影現場では、どうしても出演者たちから舐められがちだったスピルバーグ。同年代で相談相手にもなったドレイファスの存在には、かなり助けられたという。 サメ捕りのプロ、漁師のクイント役は、リー・マーヴィンやスターリング・ヘイドンに断られた後、『スティング』(73)でのギャングのボス役で評判を取った、ロバート・ショウ(1927~1978)に。こうして3人のキャストが、固まった。 『ジョーズ』の最大の見せ場となるのは、このメインキャスト3人による、海洋でのサメとの対決シーンである。海に見立てたプールでの撮影を勧められたスピルバーグだったが、“本物”にこだわったため、ほぼ全てを海上ロケで撮ることになった。そしてこれが、トラブル続きの引き金となる…。 ロケ地の島マーサーズ・ヴィニヤードに乗り込み、陸上のシーンをあらかた撮り終えた後、勇躍海上シーンに挑む。まず悩まされたのが、レガッタレース。そこはボートやヨットでレースを楽しむ人々が、引きも切らないスポットだったのである。撮影隊はヨットが姿を消すまで、延々と待たなければならなかった。 海の潮流にも、悩まされた。カメラや発電装置、サメの模型などを乗せた船の錨を引きずって位置を変えてしまうため、元の場所に戻すのに時間が掛かったのだ。 この繰り返しで、1日に撮れるのが1カット。或いは全くカメラを回せない日もあった。 トドメになりそうだったのが、“サメ”である。スピルバーグの弁護士の名に由来して、「ブルース」と名付けられた全長7m以上、重量1.5tの機械仕掛けのサメは、最初のカメラテストの日に海面に浮かばせると、水面を切って疾駆する筈が、動き出すや否や、海底へと沈んでいってしまったのだ。 修理には3~4週間を要する。しかも現場に戻ってきても、期待通りの動きは望めない。 このままではスピルバーグの降板、或いは製作を中止するしか、手段がないように思われた。早急に代替案を考える以外に、撮影を続ける道はなかったのである。 悩みに悩んだスピルバーグだったが、そこからが“天才”だった。翌日採るべき道を見付けたのである。 「サメを見せずに、その存在だけを暗示する―ともかく全身は見せない」 かくて、サメの襲撃シーンなどで、そのヒレや尾、鼻先など、一部しか見せない演出となった。サメの全貌は映画の後半、ブロディが船上から撒き餌をしているところに出現するまでは、一切画面に現れないのである。 この演出が成功する鍵となったのは、ポストプロダクション。ヴァーナ・フィールズによる見事な“編集”と、ジョン・ウィリアムズ作曲の“テーマ曲”があったからこそ、映画史上に残るサスペンス演出が完成したのである。 映画『ジョーズ』の成功には、原作からの改変や追加も、大いに寄与している。先にも記した通り、マフィアや不倫といった要素をバサッと切り落としたわけだが、これによって、強大な敵であるサメとの対決に向かうまでの展開が、明快且つシャープになったのだ。 クイントはなぜ、サメを殺すことに執念を燃やすのか?その動機を説明するシーンを追加したのも、絶妙に生きている。 第2次世界大戦に従軍したクイントは、乗務していた巡洋艦が、日本軍に撃沈された過去を持つ。その時、海面に浮かびながら救けを待つ彼と仲間たちを、サメの群れが襲った。1人また1人と喰われていった中で、彼は辛うじて生き残ったのである。 このエピソードの大本は、ハワード・サックラ―が考えた。スピルバーグは、友人で軍事オタクのジョン・ミリアス監督に依頼して、ディティールを加えてもらった。それは少々長くなったため、セリフを実際に喋るロバート・ショウに頼んで、言い易いように短くしてもらった。 最終的には、サメとの最後の対決シーンを原作から大きく改変したことが、“映画”の大勝利に繋がったと言えるだろう。原作ではクイントは、「白鯨」のエイハブ船長さながらにサメに銛を突き立てるも、そこに繋がったロープが足に巻き付いたため、海へと引き摺り込まれて、溺死してしまう。そしてサメも、クイントのその一撃が致命傷となって、絶命する。ブロディは対決の傍観者として、生還するというラストである。 当初は映画でも、原作に準拠したラストにするプランだった。しかしスピルバーグは原作者の反対を押し切って、クイントを噛み殺したサメと、ブロディの直接対決という大興奮の見せ場を作った。 多くの方が知るであろうが、未見の方のため、敢えて細かくは書かない。しかしブロディが、「笑え化け物!」と叫んだ後の怒涛の展開に、75年12月私が『ジョーズ』を初鑑賞した時の旧・丸の内ピカデリーでは、大拍手が起こったのだ。こんなことは、私のロードショー館に於ける数多の鑑賞経験の中で、今日まで唯一無二の出来事である。付記すればこれは同時期、『ジョーズ』を上映する、各地の映画館で見られた現象である。 さて撮影期間13週、製作費230万ドルの予定で始まった『ジョーズ』は、最終的には20週で800万ドルまで膨れ上がった。撮影が終わってロケ地の島を出る時、「2度と戻らん」とまで言ったスピルバーグは、その後の作品では、すべての撮影基盤が完璧に整うまでは、決して製作に入らないようになった。『ジョーズ』の苦闘があったが故に、クリント・イーストウッドと並ぶ、「早撮り」の巨匠となったわけである。 何はともかく、終わり良ければ全てよし!『ジョーズ』は、75年6月にアメリカ公開すると、スピルバーグにとっては兄貴分だった、フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』(72)を瞬く間に抜き、歴代№1の興行成績を打ち立てた。その年末に公開した日本でも、大ブームを巻き起こし、史上最高の興収を叩き出した。 №1ヒットの記録は、アメリカでは2年後に、スピルバーグの盟友ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』(77)によって更新された。しかし日本に於ける№1の座は、やはりスピルバーグが監督した『E.T.』(82)が公開されるまでの7年間、守られた。 “天才”スピルバーグの名を全世界に轟かせた、『ジョーズ』。正直に言う。この作品とリアルタイムで出会えただけでも、悪くない人生だと思う。№1である以上に、永遠の「オンリーワン」作品である。■ 『JAWS/ジョーズ』© 1975 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2012.04.25
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2012年5月】招きネコ
個人的な話で申し訳ないのですが、この作品が封切られた子供時代、全く映画を見ない私の父に「映画館に一緒に行こう」と誘われたことが「エエッ!?」と幼心に強烈でした。それくらい、世の中は「ジョーズ」大ヒットで、普段映画を見ない老若男女が映画館に押し寄せていました。でも、私はせっかくの誘いをコワイ映画が苦手でお断りし、それ以来、現在に至るまで父と一緒に映画を見たことはありません。そして、成長した私は、必ず見るべき映画として鑑賞したのですが、人食いザメがコワイのなんの、数日よく眠れない夜を過ごしました。小さい子供には見せちゃいけません、特に海水浴前夜になど・・・。それくらい、ジワジワくる話の盛り上げ、模型のサメと実写のサメの編集、そして音楽が心臓に悪いんです。これは、一種、ジェット・コースターのようなものなのかもしれません、わかっててコワイ目に遭いたいという・・・そういう意味で、何度でも楽しめる、娯楽映画として満点です。 © 1975 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.