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COLUMN/コラム2023.08.14
“戦争映画”の歴史を塗り替えた!巨匠イーストウッドの“日本映画”。『硫黄島からの手紙』
2000年代中盤、70代半ばとなったクリント・イーストウッドの監督としてのキャリアは、まさにピークを迎えていた。『ミスティック・リバー』(03)は、アカデミー賞6部門にノミネート。ショーン・ペンに主演男優賞、ティム・ロビンスに助演男優賞のオスカーをもたらした。翌年の『ミリオンダラー・ベイビー』(04)では、ヒラリー・スワンクに主演女優賞、モーガン・フリーマンに助演男優賞が渡っただけではなく、イーストウッド自身に、『許されざる者』(1992)以来となる、それぞれ2度目の作品賞と監督賞が贈呈された。 もはや彼を、「巨匠」と呼ぶのに、躊躇する者は居なかった。次は何を撮るのか?常に注目される存在となっていた。『ミリオンダラー・ベイビー』に続いて選んだ監督作品は、硫黄島を舞台にした"戦争映画”。小笠原諸島の一部であり、東京とサイパンのちょうど間に位置するこの島では、太平洋戦争末期に激しい戦闘が行われ、日米双方に多大な犠牲者が出ている。戦死者は両軍合わせて、2万7,000人近くに及ぶという。 ノンフィクション小説(邦訳「硫黄島の星条旗」)をベースにした、『父親たちの星条旗』(06)。この企画を彼に持ち掛けたのは、スティーブン・スピルバーグだった。 イーストウッドは、『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本家ポール・ハギスに、再び仕事を依頼。ハギスはイーストウッドとミーティングを重ねて、脚本を完成させた。 この作品の主人公は、硫黄島の戦いに参加して英雄となりながらも、その後戦争について語らなかった元米兵。彼が死の床に就いた時、その息子は関係者に話を聞いて初めて、父親の秘めたる真実を知る…。 イーストウッドは若き日、ユニバーサル・スタジオで、オーディ・マーフィーと出会った。マーフィーは第2次大戦の英雄であり、終戦後にハリウッドでスターとなった男で、彼の自伝的映画である『地獄の戦線』(55)という大ヒット作もあった。 しかし彼は、戦争のことを語りたがらなかった。彼がPTSDに苦しんでいたことを、イーストウッドは後に知る。 戦争で死に直面するような経験をした者は、多くを語らない。遠方で差配しているような者に限って、見てきたような勇ましい戦話をするのである。 戦争に英雄などいない。正しい戦争などなく、無意味な「人殺し」しかない。これがイーストウッドの、“戦争観”である。 しかしそれと同時に、死んだ兵士には、敵味方を問わず最大限の敬意が払われるべきなのだ。イーストウッドは言う。「私が観て育ったほとんどの戦争映画では、どちらかが正義で、どちらかが悪だった。人生とはそんなものではないし、戦争もそんなものではない」 そんなイーストウッドだからこそ、米兵を主人公にした『父親たちの星条旗』の製作準備中に、ある疑問に行き当たる。米軍と戦った日本兵たちは、一体どんな状況だったのか? リサーチを続ける中で、イーストウッドの興味を強く惹く、日本の軍人が現れた。硫黄島の戦いで、常識にとらわれない傑出した作戦を打ち出した最高指揮官。その名は、栗林忠道。 1944年5月に硫黄島に着任した栗林中将は、長年の場当たり的な作戦を変更。米軍の攻撃に対抗するため、島中にトンネルを掘り、地下要塞を作り上げる。5,000もの洞穴、トーチカを蜂の巣のように張り巡らせ、日本兵がそこから、米兵を狙えるようにした。 また彼は、日本軍の悪弊である、部下に対する理不尽な体罰を戒め、玉砕を許さなかった。最後の最後まで生き抜いて、1日でも長くこの島を守り抜こうとした。 米軍が欲したのは、この島の飛行場。ここが敵の手に落ちたら、B29の中継基地となって、日本本土への大規模な爆撃が可能となってしまう。栗林は、一般市民が大量に犠牲になるのを、避けるか遅らせるかしたかったと言われる。 アメリカ軍は1945年2月16日に、硫黄島への攻撃を開始。19日から上陸。23日までには、島全体を制圧できると考えていた。しかし実際は栗林の智略の前に、その後も約1ヶ月間、合わせて36日間も戦闘が続いた。 調べれば調べるほど、イーストウッドは栗林への関心が高まっていった。戦前には、アメリカに留学。ハーバード大で英語を学び、その後カナダにも、駐在武官として滞在している。その時代にできた友人も多く、アメリカとの戦争にも反対していた。これが軍の一部から、アメリカ贔屓と見られ、疎まれる結果になったとも言われる。 イーストウッドは、彼が戦地から妻と息子、娘に宛てた手紙にも心を打たれた。住まいの台所のすきま風を心配したり、硫黄島で育てているひよこの成長を、幼い娘に書き送ったり…。 また栗林が率いた若い兵士たちが、「アメリカ兵と実によく似ていた」ことにも、胸を掴まれた。「あれから何十年も経った今、どちらが勝ったとか負けたとかいうことに関係なく、わたしは日本の人々に彼らの生き様を認めてもらうことが必要だと考えた。正しいかどうかは別として、祖国のために彼らが払った犠牲に目を向けてもらいたかったー実際、彼らは犠牲者だったのだから」 そしてイーストウッドは、前代未聞のプロジェクトに挑む決断をする。硫黄島の戦闘をアメリカ側の視点から描く『父親たちの星条旗』だけでなく、日本側の視点から描いた作品も、同時に製作する。 この戦争映画の歴史に残る、画期的なチャレンジ。当初は日本人監督の起用も考えたというが、イーストウッドは『父親たちの星条旗』に続けて、自らメガフォンを取ることを決めた。 脚本はポール・ハギスの推薦で、日系アメリカ人二世の、アイリス・ヤマシタの起用となった。 戦場に於いて米兵だったら、生きて帰れる可能性に賭ける。一方日本兵は、死を覚悟して戦う。アメリカ人のイーストウッドにとっては凡そ理解し難い、この日本兵のメンタリティーに迫るため、彼は様々な勉強を重ねたという。 本作『硫黄島からの手紙』(06)は、『父親たちの星条旗』の撮影終了後、すぐにクランクイン。内容的には、栗林をはじめ主要な登場人物の過去の回想シーンなど織り交ぜながらも、硫黄島での日本軍の戦闘準備から、米軍上陸、激戦、終結までを描く。 主役の栗林を演じたのは、渡辺謙。ハリウッドデビュー作の『ラスト サムライ』(03)でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、『バットマン ビギンズ』(05)『SAYURI』(05)と、大作への出演が続いていた。憧れの人イーストウッドの『父親たちの星条旗』製作の報を耳にして、1シーンでもいいから出たいと、願ったという。 それと対になる本作の栗林役に決まると、関係資料を読んだり、栗林の孫や甥に会って、彼の遺した書など見せてもらったりなどのリサーチを行った。 栗林が生まれ育った長野県の生家には、取り壊される前日に訪問。その際に墓参りをすると、雪がちらついてきて、渡辺は思った。こんな寒い場所で育った人が、南方の暑い島で死を賭して戦うとは、さぞ辛かったであろうと。 本作で渡辺は、“主役”である以上の働きを見せた。英語で書かれた脚本を、日本語の表現に換えていく作業を手伝ったのをはじめ、日本側で発見した栗林のエピソードや記録も付け加えてもらった。また若き日本兵を演じた、加瀬亮と二宮和也の役が、当初書かれていた年齢から逆転していたので、2人の関係や生まれた土地のことなども考慮して、微妙なニュアンスのリライトを行った。 危惧されたのは、全編日本語での撮影であること。しかしイーストウッドは、意に介さなかった。 彼の俳優としての出世作である、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタンでの経験が、大きかった。主にスペインでの撮影で、キャストやスタッフが全く異なる言語を話す状況の中、イタリア人のレオーネは当時、英語などろくに話せない状態だった。それにも拘わらず、主演のイーストウッドと二人三脚で、『荒野の用心棒』をはじめとした傑作群をものしているのだ。「いい演技というものは、言葉に関係なくいい演技として伝わるもの…」。セリフの間違いなどテクニカルなことは、通訳を通じて修正すれば良い。その上で、日本人俳優の目や顔など感情表現の小さな違いが、イーストウッドにとっては、「新鮮な発見」だったという。 二宮和也は、台本に書いてないことを急にやりたくなった時に、「そういうことをやっていいの?」と、イーストウッドに尋ねた。それに対する彼の答は、「いいんだよ」。イーストウッド本人が、俳優として「台本に書いてないこと、自分のアイデアを提案することが好き」だったためだ。役作りに関しては、自由に膨らませていいと、出演者たちに伝えた。 栗林と同じく、実在の人物だったバロン西を演じたのは、伊原剛志。西は、1932年のロサンゼルス五輪馬術競技の金メダリストで、ロスの名誉市民章も貰っている国際人だった。撮影前に西の息子に会って話を聞くなどした伊原は、俳優の自主性を重んじるイーストウッドの演出について、「彼の中の大きな枠、方向性があって、そこを間違うと修正されるというような感じ…」と、語っている。 伊原は、軍隊についての資料やビデオ、例えば敬礼の仕方などを収録したDVDなどを集めて、撮影地へと持ち込んだ。これが多くの“日本兵”たちの役に立った。 憲兵失格で戦地に送られた兵士を演じた加瀬亮は、オーディションに受かってから撮影までの時間がなかった。そのため、軍事訓練どころか、敬礼の仕方もわからないままの現地入りだった。伊原のDVDの存在を知った彼は、二宮らと伊原の部屋へと押しかけて、即席で勉強したという。 渡辺は文献や映像から、栗林を実践的な人と判断。硫黄島も自分の足で調査したのだろうと考えて、当初はブーツしか用意されていなかったのを、衣裳として地下足袋やゲートルを提案。日本から取り寄せてもらった。 イーストウッドに対して、“父親”を感じたという渡辺は、ある時にはっと閃いた。「(自分の)この役は、クリント自身なんだな」。それからは、イーストウッドとスタッフとのやり取りなどを、つぶさに観察。語り方や目線、立ち居振る舞いを参考にして、栗林を演じたという。 演出は本能的に行うという、イーストウッド。俳優たちが己の役を、過剰に考えたり分析しすぎたりして、あまりにも細かい要素を入れようとすると、本質を見失ってしまうと、考えている。そのために撮影も、最初のテイクこそ最良のものが出るという思想で、テストもほとんどしない。その結果として、「早撮り」になる。 下士官の1人を演じた中村獅童曰く、「「リハーサルだろうな」と思っていたら、「OK」と突然言われて、撮っていたことに気付くこともあった」 戦闘シーンなど本作の撮影の大部分は、経費や安全面から、アイスランドの火山島でロケーション。日本政府などの許可を得て行われた硫黄島ロケは、メインキャストでは1人だけ、渡辺謙が参加した。 栗林が海岸を調査するシーンや、山に登って、島全体を見渡すシーンなどが撮影されたが、この地で見聞したものは、渡辺の想像を超えていたという。 地下壕や司令部が在った場所で、その狭さや息苦しさ、暑さを実感し、僅かな食糧や水で何日も過ごすことなど、考えるだけで体が震えてきた。先にこの体験をしていたら、「…怖ろしさで演じられなかったかも…」と、渡辺は語っている。 単に日程的な問題だったのかも、知れない。しかし「役を作り込ませ過ぎない」イーストウッドの演出法から考えて、ひょっとすると硫黄島での撮影が後回しだったのも、その辺りの配慮があったのかもなどと、想像が働く。『硫黄島からの手紙』は、2006年12月に日米で公開。日本では興収50億円を超える大ヒットとなった。アメリカでは、興行的には成功したと言い難い結果となったが、評価は高く、アカデミー賞では作品賞を含む4部門にノミネート。その内、音響編集賞を受賞した。 巨匠クリント・イーストウッドによる、“日本映画”とも言える本作。製作から17年経った今日でも、“戦争映画”の歴史に於いて、エポックメーキングとして語り継がれる。■
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COLUMN/コラム2021.10.12
エドワード・ズウィック積年の夢の実現と、それに応えて羽ばたいた日本人キャストたち『ラスト サムライ』
エドワード・ズウィックにとって、本作『ラスト サムライ』(2003)の製作は、長年抱いてきた夢だった。 1952年生まれの彼は、17歳の時に黒澤明監督の『七人の侍』(54)を観て、黒澤映画を1本残らず研究しようと決意。それが、フィルムメイカーへの道に繋がった。 ハーヴァード大学に進むと、彼を指導したのは、エドウィン・O・ライシャワー。日本で生まれ育ったライシャワーは、61年から5年間、駐日アメリカ大使を務め、ハーヴァードでは、日本研究所所長の任に就いていた。 その門下で歴史を学ぶようになったズウィックが、特に興味を持ったのが、日本の“明治維新”。ズウィック曰く、「どの文化においても、古代から近代への移行期というのはとりわけ感動的でドラマティックです…」「周りを取り巻く文化全体も混乱を極めている時代に、個人的な変容を経験していく登場人物を観察するということには、感動する何か、我を忘れるほどの魅力があるのです」 ズウィックは、『グローリー』(89)や『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(94)といった監督作、アカデミー賞作品賞を獲った『恋に落ちたシェイクスピア』(98)といったプロデュース作などで評価を得ながら、本作の構想を固めていく。そして『グラディエーター』(00)などの脚本家ジョン・ローガンと組んで、シナリオ執筆を進めた。 出来上がったシナリオを、トム・クルーズに送ると、日本人の“サムライ魂”に関心があったというトムはすぐに気に入り、主演及びプロデューサーとして、本作に参加することが決定。スーパースターを得たことで、本作の製作は、本格的に進められることとなった。 アクションには、ノースタントで挑むことで知られるトム・クルーズが、本作で演じるのは、元アメリカ軍人で日本へと渡るネイサン・オールグレン。二刀流の剣術や格闘術、乗馬をこなす必要があったため、撮影までの約1年間、毎日数時間掛けて厳しいトレーニングを行ったという。 *** 時は1870年代。かつては南北戦争の英雄と讃えられたネイサンだったが、ネイティブ・アメリカン虐殺に加担して受けた心の疵が癒えないまま、酒浸りの日々を送っていた。 そんな彼が、大金を積まれてのオファーを受けて、軍事教官として日本に赴くことに。雇い主は、誕生して日も浅い明治新政府の要人・大村(演;映画監督の原田眞人)だった。 新兵たちの訓練が行き届かない内に、政府への反乱を討伐するための、出動命令が下る。ネイサンの「まだ戦える状態ではない」との主張は退けられ、彼もやむなく同行することとなる。 反乱を率いるのは、明治維新の立役者の一人だった、勝元盛次(演:渡辺謙)。大村らを軸に近代化政策が進められる中で、かつてのサムライたちがないがしろにされていく流れに抗して、野に下っていた。 ネイサンの危惧通り、出動した部隊は、サムライたちの猛攻にひとたまりもなかった。ネイサンは孤軍奮闘するも、瀕死の重傷を負い、囚われの身となる。 山中の農村へと運ばれたネイサンは、勝元の妹たか(演:小雪)の看病を受け、次第に回復。村人たちの素朴な生活に癒され、やがてサムライたちの精神世界に魅せられていく。 剣術の鍛錬を始めたネイサンは、サムライたちのリーダー格である氏尾(演:真田広之)と手合わせを行う。はじめは歯が立たなかったが、遂には引き分けるまでに腕を上げる。 ネイサンは、勝元とも固い絆で結ばれていく。そして、信念に敢えて殉じようとする勝元たちと、最後まで行動を共にすることを決意するのだったが…。 *** ズウィックが影響を受けたことを認めているのが、日本文学研究者のアイヴァン・モリスの著書「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」。この中で取り上げられた、新政府の樹立に加担するも、やがて叛旗を翻す西郷隆盛の物語に強く惹かれたという。 本作に於ける勝元盛次が、不平士族の反乱を起こした、西郷や江藤新平をモデルにしているのは、明らかだ。舞台設定である1877年は、実際に西郷が“西南戦争”を戦い、命を落とした年である。 また敵役となる大村の名は、明治政府で兵制の近代化と日本陸軍の創設に尽力した大村益次郎から取ったものと思われる。但しキャラ設定的には、当時政商として暗躍した岩崎彌太郎と、西郷を失脚に追い込んだ大久保利通を、足して2で割ったようなイメージだが。 さてトム・クルーズ主演作であるが、本作の場合、日本人俳優のキャスティングが肝要だった。その役割を担ったのは、日本では作詞家・演出家としても著名な、奈良橋陽子。日本やアジア圏の俳優をハリウッド映画などに紹介する、キャスティング・ディレクターとしての歩みを、本格化させていった頃の仕事である。 奈良橋はズウィックに、様々な映像資料等を送付して、やり取り。彼が来日するまでにある程度の人数に絞り込んでは、オーディションのセッティングを行った。 日本でのキャスティングは、トムの参加が決まる前、即ち本作製作に正式なGOサインが出る前から、秘かに進められていた。ある時はズウィックの来日に合わせて体育館を借り切り、真田広之をはじめ殺陣ができる俳優たちを集め、ショーを見せたという。 カメラマンも一緒に来日して撮影したというこの殺陣ショーに、監督は大喜びで、「この映画を絶対に撮るんだ」と決意も新たに帰国。トムの主演が決まったのは、それから数か月後のことだった。 その後真田をはじめ、小雪や明治天皇役の中村七之助等々、キャストが次々と決まっていく。そんな中で難航したのが、最も重要な勝元役だった。 実は奈良橋は、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(87)をはじめ、時代劇俳優の印象が強い渡辺を、ズウィックに最初に紹介して、京都のホテルでインタビューを受けてもらっている。しかしこの時は渡辺の印象が、なぜか監督の頭に残ることがなかった。 勝元役が決まらない中で、奈良橋はズウィックに、もう1回渡辺と会ってもらえないかと頼み、帝国ホテルのスイートルームでのオーディションをセッティングした。渡辺の英語力はまだそれほどではなかったというが、気負うことなく楽に役を演じたのが良かったか、ズウィックの目はオーディションの最中から輝き、終了して渡辺が部屋を出た瞬間には、「彼こそ勝元だ!」とガッツポーズを取ったという。 そんなズウィックが、クランクインが近づいた頃、新しい役を作ったと奈良橋に連絡してきた。その役名は“サイレント・サムライ”。農村に囚われの身となったネイサンを常に見張り、話しかけられても一切返事をしない、名前を名乗ることもない、“沈黙の侍”である。 奈良橋の著書によると、その時ふと思い浮かんだのが、福本清三だったという。東映の大部屋俳優で、その当時にして40年以上映画やTVドラマに出ては、2万回以上斬られてきたという、「日本一の斬られ役」である。 この辺り、福本にインタビューした書籍によると、彼のファンクラブのメンバーが、『ラスト サムライ』が製作されることを報じたスポーツ紙の記事を読んで、奈良橋に連絡を取り資料を送ったのが、きっかけだったという。福本本人は、そんなこととはつゆ知らず、ある時突然奈良橋から携帯に電話が掛かってきて、吃驚した。 福本は東京に呼ばれ、奈良橋の事務所で、半袖シャツにチノパンという出で立ちで、立ち回りや、彼の十八番である、斬られて海老反りで倒れるところなどを撮影。また“サイレント・サムライ”役ということで、「無表情の演技」も撮った。 そのビデオを監督に見せると、すぐに出演が決まった。東映太秦撮影所で旧知だった真田広之も、福本出演を聞いて、大喜びだったという。 さて『ラスト サムライ』は、日本でクランク・イン。姫路の圓教寺でのロケ後は、京都の知恩院で撮影を行った。 悲しいことに、日本のロケ事情の問題で、後は海外に19世紀の日本を再現しての撮影となる。ロサンゼルスのワーナー・ブラザースがスタジオ近くに持つ野外撮影用地は、普段はニューヨーク通りと言われ、西洋風の建造物が建ち並んでいる。ここを木材やファイバーグラスのタイルなど使って外観を飾り替えることで、文明開化の頃の東京、通称“エド村”を作り上げた。 “エド村”での撮影を終えると、ニュージーランドへ移動。田舎町に10億円を投じて借り切り、キャストやスタッフのための住宅を用意した。その近くの山の中には、畑、家屋、畦道まで精緻な仕上がりの、日本の農村が完成。クライマックスの戦闘シーンも、ニュージーランドでの撮影であるが、そのために日本から500人のエキストラを参加させ、本番のために数カ月間、本物の軍隊と同じ訓練を施した。 ズウィックの本作への思い入れもあってか、時代考証などは内外の専門家の意見を受けて慎重に進められた。ハリウッド映画に度々登場するような「おかしな日本」にならないように、最大限の努力を行っている。 またこの点では、真田広之の尽力も大きい。彼は出番のない日でも、セットを訪れて、衣装、小道具、美術などをチェックし、資料ではわからない着こなしや道具の使い方などのアドバイスを行ったという。 それでも「おかしな」ところは、見受けられる。例えば勝元の村に、暗殺部隊である“忍者”集団が現れたり、戦闘シーンではサムライたちが、明治時代にもなって甲冑を身に纏っていたり…。 この辺りは、監督はじめ主要スタッフも「あり得ない」ことは、理解していた。全世界で公開される“サムライムービー”として、観客のニーズに応えたと言うべきか?或いは黒澤映画の大ファンであるズウィックが、“時代劇”を撮る以上は、絶対やりたかった要素だったのかも知れない。 それから逆に考えて、なぜ日本の観客が「おかしい」と思うのかにも、思いを至らせた方が良い場合もある。当たり前のことだが、明治の日本や侍の時代を、実際に体験したことがある者は既に居ない。我々の基準は、日本のテレビや映画で観た“時代劇”から生まれている可能性が大いにある。 衣装デザイナーのナイラ・ディクソンは、素材の豊富な在り処を日本で見付け、衣装の多くをそこで作った。甲冑なども彼女の担当だったが、ある時に兜のデザインを、渡辺と真田に見せたことがある。すると2人とも、「日本にこんなものはない」という反応。そこで彼女は、分厚い写真集を持ち出して、2人に見せた。それは確かに、日本の兜だったのである。 さてご存知の方が多いと思うが、世界的に大ヒットとなったこの作品で、渡辺謙は見事アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。その後は頻繁にハリウッド映画に出演する他、ブロードウェイの舞台「王様と私」に主演し、トニー賞にもノミネートされている。 真田広之もこの作品がきっかけとなって、拠点をロサンゼルスに移し、国際的な活躍を続けている。近作はジョニー・デップ主演の『MINAMATA―ミナマター』(21)だが、この作品でも舞台である1970年代の日本に見えるよう、少し早めに現場に入っては、小道具を選別したり、旗やゼッケンの日本語をチェックして自分で書いたりなどしたという。 さて本稿は、ニュージーランドでのロケ中は、他の侍役の俳優たちを呼んでは、よくカレーを作って振舞っていたという、福本清三の話で〆たい。彼が本作で演じた「サイレント・サムライ」は、先にも記した通り、とにかく無言を通す男。そんな男が、たった一言だけセリフを放つシーンがある。ここは結構な泣かせどころにして、福本の最大の見せ場である。 今年の元旦、77歳で亡くなった「日本一の斬られ役」に哀悼の意を捧げながら、皆さん心して観て下さい。■ 『ラスト サムライ』© Warner Bros. Entertainment Inc.