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PROGRAM/放送作品
マジェスティック(1974)
移民を助ける大農園の主をチャールズ・ブロンソンが演じる、異色の痛快クライム・アクション
大農園主に扮したチャールズ・ブロンソンがショット・ガンを携えて町の差別主義者どもを退治する、痛快クライム・アクション。『トラ・トラ・トラ!』のフライシャー監督がブロンソンと初めてタッグを組んだ。
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COLUMN/コラム2021.04.07
血まみれサムとマックィーンの黄金時代『ゲッタウェイ』
本作『ゲッタウェイ』(1972)の監督は、サム・ペキンパー。その異名“血まみれサム”は、多くの方がご存知の通り、彼の作品の特徴である、血飛沫飛び散るヴァイオレンス描写に由来するものである。 しかし“血まみれ”なのは、撮影現場やスクリーン上だけの話ではなかった。ペキンパーは常に、製作会社やプロデューサーと、血で血を洗う戦いを繰り広げていた。その戦いについて、彼は本作が製作・公開された年のインタビューで、こんな風に語っている。「西部のガンマンの対決なんか、製作費の問題での対決にくらべれば屁みたいなものさ。俺はいつもケチなプロデューサーを相手に、嘘をつき、ゴマ化し、チョロマカす。でもこれまで大方、この闘いは負けだった。いつも、プロデューサーとケンカして、クビさ。じっさい、この世界には、寄生虫やハイエナがウヨウヨだ。殺されるなんてものじゃない。生きたまま食われちまうんだぜ」 そんな血みどろの戦いの中で、“血まみれサム”は自らのスタッフをも、次々と血祭りに上げたことでも、知られる…。 ドン・シーゲル門下ということでは、現代の巨匠クリント・イーストウッドの兄弟子に当たる、ペキンパー。1925年生まれの彼が、TVドラマの西部劇シリーズなどを経て、映画監督としてのスタートを切ったのは、齢にして30代中盤だった。 デビュー作は、『荒野のガンマン』(60)。それに続く『昼下がりの決斗』(61)では、興行的な成果こそ得られなかったものの、新しい時代の西部劇の担い手として、注目されるに至った。 そしてこの作品では、フィルムを大量に回し、膨大なそのすべてを把握して編集するという、彼一流の手法が、確立した。ペキンパー組の常連俳優だったL・Q・ジョーンズ曰く、「脚本を壊し、全てを断片にし、それから組み合わせる」やり方である。 続いて手掛けたのが、『ダンディー少佐』(65)。主演のチャールトン・ヘストンが、『昼下がりの決斗』に感銘を受けたのが、ペキンパー起用の決め手となった作品だ。 しかし『ダンディー少佐』は、ペキンパーに悪名を与える、決定打となった。いわく、「予算もスケジュールも守らない」「スタッフに過大な要求をし、出来なければ情け容赦なくクビにする」「大酒飲みのトラブルメーカー」といった具合に。 製作したコロムビアと大揉めに揉めたこの作品では、ペキンパーは最終的に編集権を奪われる。そして彼が編集したものより、大幅に短縮された作品が、公開されるに至った。 このパターンは、その後のペキンパー作品について回る。しかしそれ以前の段階としてペキンパーは、『ダンディー少佐』から4年以上の間、干されることとなった。 雌伏の時を経て、ペキンパーが69年に放ったのが、代表作『ワイルドバンチ』である。この作品でペキンパーは、彼の代名詞とも言える、銃撃戦などアクションを“スローモーション”で捉える手法を、初めて用いた。これが、「デス・バレエ=死の舞踏」などと評され、正にペキンパーの「血の美学」が、世界中にセンセーションを巻き起こしたのである。 後に続くフィルムメーカーたちに多大な影響を与え、映画史に残るマスターピースとなった『ワイルドバンチ』。しかしこの作品も、ペキンパー作品の辿る悪しきパターンから、逃れられなかった。 ペキンパーが当初完成させたバージョンは、2時間24分だったが、公開後興行成績が思ったほど伸びなかったため、製作元のワーナーはペキンパーに無断で、フラッシュバックなどをカット。2時間12分版を作って、全米の劇場に掛けたのである。 それはともかく、『ワイルドバンチ』で悪名以上の勇名を得たペキンパーは、続けて「恐らく私のベストフィルム」と胸を張る、『ケーブル・ホーグのバラード』(70)(日本初公開時のタイトルは『砂漠の流れ者』)を完成。更にダスティン・ホフマンを主演に迎え、イギリスで撮影した初の現代劇『わらの犬』(71)では、その暴力描写が、賛否両論の嵐となった。 キャリア的には正にピークを迎えんとするタイミングで、ペキンパーは、当時名実と共にNo.1アクションスターだった、スティーヴ・マックィーンと組むことになる。その作品は西部を舞台に、ロデオの選手を主人公にした現代劇、『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』(72)。ペキンパーのフィルモグラフィーでは、銃撃と死体の登場しない、唯一の作品である。 実はペキンパーはこの作品以前に、マックィーンとの邂逅があった。それはマックィーンがポーカーの名手を演じた、『シンシナティ・キッド』(65)である。時期的には『ダンディー少佐』で、悪名を轟かせた直後。そしてペキンパーは、『シンシナティ・キッド』の撮影開始から1週間足らずで、監督をクビになったのである。 この時マックィーンは、ペキンパーの解雇に同意したという経緯があった。『ジュニア・ボナー』で、そんなペキンパーとの因縁の組み合わせが決まった時のことを、後にマックィーンはこう思い起こしている。「俺はいつも完璧主義者だから、多くの人の頭痛の種だったし、サムも悪評高かった。彼と俺で、大したコンビさ。スタジオ側は頭痛薬をたっぷり用意してたと思うよ」 いざ『ジュニア・ボナー』の撮影が始まると、2人の間には最初こそ緊張感が生じたものの、次第に解消していったという。マックィーンが頻繁に自分の登場シーンを書き換えることで、対立などもあったが、両者の関係は概ね良好だった。 ペキンパーはマックィーンについて、「…奴のことを好きな人間はあまりいないみたいだが、私は好きだね」と語っている。一方でマックィーンは、「サム・ペキンパーは傑出した映画作家だ…」と、リスペクトを表明している。『ジュニア・ボナー』は、評判の高さに比して、興行は期待外れに終わった。しかしマックィーン×ペキンパーの両雄は、続けて組むこととなる。 それが、本作『ゲッタウェイ』である。 ジム・トンプソンの犯罪小説を映画化するというこの企画は、『ローズマリーの赤ちゃん』(68)『ゴッドファーザー』(72)などのヒット作を手掛けた、パラマウントのプロデューサー、ロバート・エヴァンスがスタートさせた。ペキンパーに監督させるというプロジェクトだったのだが、不調に終わり、一旦ご破算になった。 続いてパラマウントの別のプロデューサーが、マックィーン主演作として企画を進めることとなったが、それも頓挫。マックィーンは、ポール・ニューマンやシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドらと設立した製作会社ファースト・アーティストの第1回作品として、本作の製作を決める。 脚本は、原作者のトンプソン自らが手掛けたが、マックィーンがその内容を気に入らず、没に。当時新進の脚本家だった、ウォルター・ヒルが担当することとなった。 マックィーンが、監督の第一候補と考えていたのは、ピーター・ボグダノヴィッチ。当時『ラスト・ショー』(71)で高い評価を得ていた、新進気鋭の若手監督だった。しかしスケジュールの問題などで、実現せず。 そこで白羽の矢が立てられたのが、ペキンパーだった。彼にとっては、元より興味があった企画の上、次なる監督作として取り組んでいた『大いなる勇者』『北国の帝王』などが、諸事情によって、他の監督の手に渡ってしまったタイミング。そこで『ジュニア・ボナー』に続けて、マックィーンと組むこととなった。 テキサスの刑務所に、銀行強盗の罪で服役していた男が、10年の刑期を半分も務めることなく、4年で仮釈放となった。男の名は、ドク・マッコイ(演:スティーヴ・マックィーン)。迎えに来た妻キャロル(演:アリ・マッグロー)と、4年振りの熱い夜を過ごす。 ドクの早すぎる仮釈放は、地方政界の実力者ベニヨン(演:ベン・ジョンソン)との裏取引によるもの。出所と引き換えに、田舎町の小さな銀行を襲って、その分け前をベニヨンに納めるという約束だった。 ベニヨンはドクに、銀行強盗の仲間として、ルディ(演:アル・レッティエリ)、ジャクソン(演:ボー・ジャクソン)という2人を引き合わせる。綿密な計画が立てられ、キャロルを含めて4人での、決行の日がやってくる。 すべてがスムースにいくと思われたが、青二才のジャクソンが、銀行の守衛を射殺したことから、全ての歯車が狂い出す。ドクとキャロル、ルディとジャクソンの二手に分かれて逃走を図るも、ルディはジャクソンを突然射殺。集合場所でドクも撃ち殺して、金を独り占めしようと図るが、気配を察したドクに、逆に撃ち倒される。 ドクは黒幕のベニヨンの元に、取り引きに行く。ベニヨンは、今回の銀行強盗の裏事情を明かし、ドクを釈放させた背景に、キャロルとの情事があることを仄めかす。ショックを受けるドクの背後に、突然キャロルが現れた。そしてベニヨンに、銃弾をぶち込む。 互いに傷つき、その絆が揺らぎながらも、逃避行を続けるドクとキャロルの夫婦に、次々とアクシデントが襲い掛かる。更にはベニヨンの手下たち、そしてドクに撃たれながらも、生きながらえていたルディが、追っ手となって迫る。 ドクとキャロル、犯罪者の夫婦が大金を手にしたまま国境越えを目指す、“ゲッタウェイ”逃走劇は、果して成功するのか!? キャロル役のアリ・マッグローは、白血病のヒロインを演じて観客の涙を絞った『ある愛の詩』(70)が、大ヒットして間もない頃。私生活では、本作を当初プロデュースする予定だったロバート・エヴァンスと、結婚生活を送っていた。本作のヒロインにキャスティングされたのも、その流れからと思われる。 ところが『ゲッタウェイ』の撮影中、マッグローは、前妻と15年の結婚生活にピリオドを打ったばかりのマックィーンと、恋に落ちてしまう。結局マックィーンによる略奪婚という形で、マッグローはエヴァンスと別れ、撮影終了後に2人は夫婦となった。 72年2月にクランクインした本作は、そんなスキャンダラスな話題も交えながら、順撮り、即ち物語の進行の順番通りに、撮影を進めていった。そして5月には、クランクアップ。予算的にもスケジュール的にも、ペキンパー作品としては大過ない、進行と言えた。 しかしポストプロダクションで、トラブる。ペキンパーは、『ワイルドバンチ』『わらの犬』に続いて、音楽をジェリー・フィールディングに依頼するも、完成したスコアは、マックィーンの意向で、すべて差し替え。画面を彩ったのは、クインシー・ジョーンズのジャズっぽいスコアとなった。 更にマックィーンは、最終編集権をペキンパーには渡さずに、作品を完成させた。アクション映画の諷刺を目指して本作に挑んだというペキンパーは、完成版を目にした時に、「これは俺の映画じゃない!」と、叫んだと伝えられる。 本作の次に撮った『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(73)では、MGMの判断で勝手に編集が行われた際、ペキンパーはその経営者に、メキシコから殺し屋を差し向けようとまで思い詰めたという。それでは本作のマックィーンに対しての怒りは、どんな形で発露されたのか? 意外や意外、2人の友情は、その後も続いたという。それは一体、なぜだろうか? 一見、いつもの悪しきパターンにはまり込んだかのような『ゲッタウェイ』だったが、興行の結果が他のペキンパー作品とは、大きく違った。彼のフィルモグラフィーに於いて、最大のヒット作となったのである。 ペキンパーは、興収から多額の歩合も貰える契約を、マックィーンと結んでいた。これでは、矛を収める他はなかったのかも知れない。 だが、そんな裏事情を敢えて無視して、本作を眺めてみよう!すると、ごく単純化されたストーリーラインの中で、至極楽しめる極上の娯楽作品となっていることが、わかる。 公開時は、42才。ノースタントのアクションスターとして、まさに脂が乗り切っていた、マックィーンの身のこなし。そして、銃器の扱いに関しては、右に出る者がないと言われた彼が魅せる、ガンアクション。 ペキンパーは、47才。お得意の“スローモーション”を駆使した、ヴァイオレンスシーンの演出に磨きがかかり、観る者の度肝を抜く。 本作では、そんな両者の技能が、まさに融合。“映画的瞬間”を、作り出しているのである。 そして2021年の我々は、知っている。1972年にピークを迎えた、2人のその後の運命を。 マックィーンはこの後、たった8年しか生きられず、50歳でこの世を去ってしまう。ペキンパーの余命も、あと12年。60才を迎える前に、彼の心臓は止まってしまう。 そんな彼らが全盛期に手を組んで、輝きを放つ、『ゲッタウェイ』。今こそ感慨を新たに、フィルムに焼き付けられた、2人の“黄金時代”を、凝視したい。■ 『ゲッタウェイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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PROGRAM/放送作品
ゴッドファーザー 【デジタル・リストア版】
非情なマフィアの世界とファミリーの絆を重厚に描く、映画史に輝く大河ドラマ・シリーズ第1弾
マリオ・プーゾのベストセラー小説を、フランシス・フォード・コッポラ監督が重厚かつ緻密な映像美によって映画化したシリーズ第1弾。アカデミー賞作品賞・主演男優賞(マーロン・ブランド/辞退)・脚色賞を受賞。
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COLUMN/コラム2019.06.02
マルセル・カルネとナチス・ドイツ占領下のフランス映画
フランス映画史上の最高傑作との呼び声高い映画であり、巨匠マルセル・カルネによる「詩的リアリズム映画」の集大成とも呼ばれる『天井桟敷の人々』(’45)。詩的リアリズム映画とは’30年代のフランス映画黄金期を牽引した代表的ジャンルのこと。その主な特徴は、貧しい市井の人々の生活に目を向けたリアリスティックな題材と、スタイリッシュで洗練されたポエティックなアプローチである。日常的でありながら非日常的。そのペシミスティックな傾向は、世界大戦の足音が近づく時代の社会不安を如実に反映していた。スタジオ撮影によって再現された疑似的なリアリズムは、実際の街中へカメラが飛び出したイタリアのネオレアリスモとの最大の違いと言えるだろう。 その先駆けはジャン・グレミヨンの『父帰らず』(’30)とも、ジャン・ヴィゴの『アトラント号』(’34)とも言われるが、立役者と呼べるのは間違いなくジャック・フェデーの『外人部隊』(’34)と『ミモザ館』(’34)であろう。ジュリアン・デュヴィヴィエの『我等の仲間』(’36)や『望郷』(’37)、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』(’37)や『獣人』(’38)などが後に続くわけだが、フェデーの愛弟子だったカルネもまた、『ジェニイの家』(’36)や『霧の波止場』(’38)、『北ホテル』(’38)などの名作を連発する。しかし、そんな「詩的リアリズム映画」のムーブメントも、実は’30年代が終わりを告げるとともに下火となった。その最大の理由は第二次世界大戦である。 ナチス占領下のフランス映画界 ‘39年のナチス・ドイツによるポーランド侵攻を受けて、フランスはドイツに宣戦布告。翌’40年にドイツはフランスへと侵攻し、6月22日の独仏休戦協定をもってフランスは実質的にナチスの占領下に置かれる。辛うじて国家の主権は保たれたが、しかし独裁者ペタン元帥によって樹立されたヴィシー政府はナチスの影響下にあった。おのずとナチスもヴィシー政府も映画のプロパガンダ利用を考え、実際にナチスの国家啓蒙・宣伝大臣ゲッペルスはパリに映画会社コンチネンタル社を設立。ヴィシー政府も映画産業組織委員会(COIC)を創設した。 一方の映画界では、ルノワールやデュヴィヴィエなどの巨匠たちが次々と国外へ脱出。マルセル・カルネは祖国に留まって抵抗を試みたが、しかし「ユダヤ人と結託してフランスの道徳精神を堕落させた」張本人として名指しで非難されるなど、その活動は困難を伴うこととなった。道徳回復運動によって国家体制の秩序を整えようとしていたヴィシー政府にとって、犯罪者や売春婦、浮浪者などを含む底辺の人々に同情や共感の眼差しを向けたカルネの作品群は、やり玉にあげるには格好の材料だったのだろう。 ただ興味深いのは、この約4年間に渡るヴィシー政府時代のフランスにおいて、いわゆる国家プロパガンダ的な映画はほとんど存在しなかったこと。そもそも、ナチスは国家主義的な啓蒙映画の製作をフランスに強要するつもりなどなかった。ゲッペルスの日記には「フランス人は軽い、内容のない、バカげた映画で満足するべき」と明記されている。いわば愚民政策だ。ところが…である。ナチス配下のコンチネンタル社はゲッペルスの意向を汲まず、自社の映画人たちに対しては基本的に「監視はすれど強要はしない」という限定的な自由を与えた。それはヴィシー政府の姿勢も同様で、映画の道徳的・思想的な検閲はしても具体的な介入はしなかった。むしろ、あからさまなプロパガンダは逆効果になると考えたようだ。 とはいえ、暗い時代ゆえに大衆は深刻な芸術映画よりも、明るい娯楽映画を好むようになった。もちろん検閲だってある。そのため、たとえプロパガンダ的な要素は含まれずとも、なるべく「無害」であることを志向する作品が多かったことは否定できないだろう。カルネもまた、検閲を考慮して『悪魔が夜来る』(’42)をファンタジックな中世の御伽噺に仕立てた。しかし、それはあくまでも表向きの装いであり、悪魔(=ナチス)によって石にされた若い恋人たちの、それでもなお脈打つ心臓の鼓動に「フランス人の誇り」と「支配者への抵抗」の意味を込めたのである。 『天井桟敷の人々』に込めたカルネとプレヴェールの意図とは このような状況下で作られた映画が『天井桟敷の人々』だった。物語の設定は19世紀前半のパリ。数多くの劇場や見世物小屋が立ち並ぶ犯罪大通り(現在のタンプル大通り)を舞台に、1人の美女を巡って4人の男たちが、燃えるような愛と友情と嫉妬のドラマを繰り広げていく。ヒロインである宿命の美女ガランス(アルレッティ)こそ架空の人物だが、彼女を取り巻く男たちはいずれも実在の人物をモデルにしている。 ガランスに一途な純愛を向ける主人公バチスト(ジャン=ルイ・バロー)は、ボヘミア出身の有名なパントマイム俳優ジャン=ガスパール・ドビュローが元ネタ。そのバチストと友情を育みつつ、恋敵となるプレイボーイの不良俳優フレデリック・ルメートル(ピエール・ブラッスール)は、当時の犯罪大通りを代表する人気スターにして劇作家だった。殺人や強盗を繰り返す犯罪者ピエール・フランソワ(マルセル・エラン)のモデルは、ブルジョワの出自でありながら特権階級への抗議として凶悪犯罪を重ね、バルザックやドストエフスキーにも影響を与えた犯罪者ピエール・フランソワ・ラスネール。また、財力にものを言わせてガランスを囲うモントレー伯爵(ルイ・サルー)は、ナポレオン3世の異父弟シャルル・ド・モルニー公爵を下敷きにしているという。 脚本を手掛けたのは、当時のマルセル・カルネ作品には欠かせない盟友にして、「民衆の詩人」「抵抗の詩人」とも呼ばれたジャック・プレヴェール。誰もが知るシャンソンの名曲「枯葉」は、カルネの次回作『夜の門』(’46)のテーマ曲として、ジョゼフ・コズマのメロディにプレヴェールが詩を付けたものだ。一見したところ、愛すれども決して結ばれることのない男女の哀しきラブロマンス。しかし、カルネとプレヴェールはその背景として、貧しいフランス庶民の猥雑な日常を「詩的リアリズム」の手法で大胆に活写し、雑草のごとき彼らの逞しい生命力やバイタリティを描き込むことで、この宿命的なメロドラマを紛うことなき民衆派映画へと昇華している。 本作の原題は「天国の子供たち」。昔のフランスでは最上階の天井に近い観客席を「天国」(邦題では天井桟敷)と呼び、観劇料が安いことから貧しい庶民の人々が利用。彼らはまるで子供のように、舞台へ向かって野次や歓声を飛ばしていたという。幼い頃に親しんだ大衆演劇を自身の芸術的ルーツと考えていたカルネは、恐らくその伝統にフランス民衆の普遍的なエネルギーを感じていたのだろう。 また、プレヴェールは犯罪者ラスネールに、ある種の義賊的な魅力を見出していたとも言わる。「(ナチスは)ラスネールの映画を作ることは許さないだろうが、ドビュローの物語にラスネールが出てくる分には構わないだろう」とも述べていたそうだが、もしかすると彼のキャラクターに、フランス革命以来の庶民の抵抗と反骨の精神を投影していたのかもしれない。いずれにせよ、本作がナチス・ドイツに支配されたフランスの国民ヘ受けて、いま一度民族の誇りを取り戻させる意図が少なからずあったと思われる。 製作期間はおよそ3年と3か月。物資不足の戦時下にも関わらず、南仏ニースの巨大セットに19世紀のパリを丸ごと再現し、総勢1800人にも及ぶエキストラが投入された。実はその多くが反独レジスタンスで、映画撮影を抵抗活動の隠れ蓑にしていたという。その一方でヴィシー政府のスパイも現場に紛れており、そのことがバレて撮影中に逃亡した役者もいた。困難を極めた撮影の終盤にはノルマンディー上陸作戦の一報も入り、カルネは連合軍によるフランスの解放を待つため、わざと制作を長引かせたとも言われている。そして’44年8月26日にパリが解放され、その直後に『天井桟敷の人々』も完成。翌年5月にパリで封切られた本作は、世界へ向けてフランス映画の底力を見せつけたのである。■
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PROGRAM/放送作品
(吹)ゴッドファーザー 【デジタル・リストア版】
非情なマフィアの世界とファミリーの絆を重厚に描く、映画史に輝く傑作シリーズ第1弾
マリオ・プーゾのベストセラー小説を、フランシス・フォード・コッポラ監督が重厚かつ緻密な映像美によって映画化したシリーズ第1弾。アカデミー作品賞・主演男優賞(マーロン・ブランド/辞退)・脚色賞を受賞。
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ゲッタウェイ(1972)
バイオレンスの鬼・ペキンパーの真骨頂!マックィーンの代表作!そして、ガンアクションの最高傑作!
お尋ね者夫婦の逃避行をマックィーンとアリ・マッグローが演じた傑作アクション。クライマックスのショットガンによる銃撃戦はペキンパー演出の象徴的シーンであり、かつアクション映画史に残る名シーンだ。
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PROGRAM/放送作品
ゲッタウェイ
バイオレンスの鬼ペキンパーの真骨頂!マックィーンの代表作!そして、ガンアクションの最高傑作!
お尋ね者夫婦の逃避行をマックィーンとアリ・マッグローが演じた傑作アクション。クライマックスのショットガンによる銃撃戦はペキンパー演出の象徴的シーンであり、かつアクション映画史に残る名シーンだ。
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PROGRAM/放送作品
天井桟敷の人々
巨匠マルセル・カルネが描く、19世紀パリの歓楽街に集う様々な男女の波乱万丈の人生と恋愛ドラマ
映画ランキングでは上位に顔を出すフランス映画の金字塔。ナチス・ドイツ占領下、数年の製作日数を費やし完成した執念の超大作。エスプリの利いた台詞と名優達の華麗な演技合戦と共に二部構成で物語が紡がれていく。
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PROGRAM/放送作品
ゲッタウェイ(’72)
バイオレンスの鬼ペキンパーの真骨頂!マックィーンの代表作!そして、ガンアクションの最高傑作!!
お尋ね者夫婦の逃避行をマックィーンとアリ・マッグローが演じた傑作アクション。クライマックスのショットガンによる銃撃戦はペキンパー演出の象徴的シーンであり、かつアクション映画史に残る名シーンだ。
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マジェスティック
移民を助ける大農園の主をチャールズ・ブロンソンが演じる、異色の痛快クライム・アクション
大農園主に扮したチャールズ・ブロンソンがショット・ガンを携えて町の差別主義者どもを退治する、痛快クライム・アクション。『トラ・トラ・トラ!』のフライシャー監督がブロンソンと初めてタッグを組んだ。