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PROGRAM/放送作品
(吹)トップガン 【木曜洋画劇場版】
スカイアクションと恋愛を爽快に描く!トム・クルーズの出世作となった、80’sを代表する青春映画
スカイアクション映画の代名詞で、教官×生徒の王道ラブストーリー。さらにトム・クルーズの出世作でトム着用の衣装まで大流行し、主題歌もヒット。監督の代表作でもあるという、まさに、80年代を象徴する1本。
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COLUMN/コラム2022.05.24
『トップガン』 - 革命的なジェット戦闘機アクション誕生の背景 -
◆戦闘機版『地獄の黙示録』を起点とした企画 インパクトと主張の強さを覚えるタイトルは、アメリカ海軍パイロットのエリート養成訓練校を示す俗称だ。この一握の精鋭たちが属するアカデミーが舞台の映画『トップガン』は、海軍飛行兵の精鋭ピート“マーヴェリック”ミッチェル(トム・クルーズ)を主人公に、彼が戦闘機訓練や軍人としての人間関係を経て成長していく姿を描いた、1986年製作のアクションロマンスである。 ロックとポップソングで構成されたサウンドトラック、そして洗練されたビジュアルスタイルやハイテンポな編集はMTVカルチャーとの並走により築き上げられたもので、このアプローチを牽引力に、本作は視覚的にも音響的にも現代アクションのメルクマールとなった。結果として映画はヤング層を魅了し、世界規模において大ヒットを記録。当時はまだ駆け出しの若手俳優だったトム・クルーズのキャリアを一気にスーパースターへと押し上げた。同時にその口当たりのいい表層的なアプローチが「ポップコーンムービー」などと称され、外観に凝り中身のない作品だと揶揄される言説も過去にはうかがえた。だが映画史において画期的な作品であることは、改めてここで示しておかないといけないだろう。 なによりも『トップガン』は、ジェット戦闘機をフィーチャーしたミリタリーものとして最大の特徴を有し、同ジャンルを開拓した映画として並々ならぬ価値を放つ。当時、現物のジェット戦闘機を主体とした作品自体が少なく、かろうじて挙げられるのはデヴィッド・リーン(『アラビアのロレンス』(62)『ドクトル・ジバゴ(65))が1952年に発表した『超音ジェット機』か、あるいはロケット機ベルX-1が音速の壁を破るシーンを描いた米宇宙開拓史映画『ライトスタッフ』(83)くらいしかなかった。理由は複合的なもので、大きくは映画に必要な現用機は軍事機密の塊で、商業映画に用いるのに米国防総省=ペンタゴンが難色を示していたこと。そして技術的な点では、飛行ショットをカメラに収めるのが非常に難しいことなどが挙げられた。 この企画を始動させたのは、当時『フラッシュダンス』(83)『ビバリーヒルズ・コップ』(84)などの慧眼に満ちた諸作で、パラマウント映画のヒットに貢献していたプロデューサーのジェリー・ブラッカイマー。彼は1983年、米カリフォルニア・マガジン5月号に掲載されたエフド・ヨネイのノンフィクションルポ「TOP GUNS」を目にし、海軍戦闘機兵学校の訓練プログラムを受けるF-14パイロットに迫ったその内容に惹かれ、映画化を切望。ペンタゴンを説得し、映画の実現へとこぎつけていったのだ。 そして本作が視覚性を重視することから、監督はトニー・スコットに白羽の矢を立てた。スコットは当時、テレビコマーシャルの世界を経て優れた映像スタイリストであることを示しており、またデヴィッド・ボウイ主演の吸血鬼映画『ハンガー』(83)で商業長編映画デビューを果たしている。だがその内容は観念的で重苦しく、およそ娯楽的な要素からはかけ離れたものだった。そのため戦闘機アクションというテーマに難色を示していたが、先に商業映画デビューを果たしていた兄リドリー・スコット(『エイリアン』(79)『ブレードランナー』(82))に触発され、自身もメジャーの大きな舞台に立とうとプロジェクトに挑んだのだ。 しかしやはりというか、プリプロダクションの時点では『ハンガー』に程近い、戦いのためのエリート部隊の苦衷を描く暗いテイストの内容だったようだ。ヨネイの記事がリアリティを重視した迫真的なものだったことから、企画当初はフランシス・コッポラが手がけたベトナム戦争映画『地獄の黙示録』(79)のように混沌とした戦闘スペクタクルが検討されていたともいう。しかしペンタゴンの協力を経るため、幾度かのプロット見直しがはかられ、海軍への入隊を促進させるような、プロパガンダ的な性質を持つストーリーへと加工ががなされていったのである。 ◆困難だった機内撮影を可能にしたもの そんな『トップガン』が『地獄の黙示録』志向の戦争スペクタクルだったことを示すものとして、作品のフォーマットが挙げられる。加えてそれが前掲の、困難といわれた機内撮影への突破口を開いたのだ。 契機となったのは、スーパー35mmという規格のフィルムである。ブラッカイマーとスコットは、同作の空戦シーンをダイナミックな幅広のワイドスクリーンで展開しようと企図していた。そのため65mmフィルムでの撮影や、圧縮した撮像をレンズで戻して横長画面を得るアナモルフィックレンズでの全編撮影が検討されたのだ。しかし前者は65m撮影用の大型カメラがコクピット内に収められず、後者は6Gにも達する飛行時の圧力によってカメラレンズが歪み、まったく使い物にならなかったのだ。 そこで用いられたのがスーパー35mmである。同フィルムは1コマに露光される撮像領域を最大限に活かした撮影が可能で、そこから用途に応じたアスペクト比を切り出すことができる。これによって本作は通常の35mmカメラでのコクピット撮影を可能にし、ワイドスクリーンを実現のものとしたのである。 ちなみに当時のスーパー35mmは通常の35mmとの混同を避けるため、歪像に対して平面ということから「フラット・ネガ」とも呼称されていた。当時、製作元のパラマウントはビデオ市場への目配りとして、同フィルムでの撮影を推奨しており、まさにうってつけの題材が見つかったというわけだ。 ちなみにトニーが本作で同フォーマットの有効性を示したことに感化され、兄リドリーが日本を舞台にした刑事アクション『ブラック・レイン』(89)で自らもスーパー35を使用。兄からトム・クルーズを自作に紹介してもらったことに対し、技術供与という形で返礼を果たしている(本作におけるトム・クルーズの起用は、以前に筆者が手がけた『レジェンド/光と闇の伝説』(85)のコラム[リンク]に詳しい)。 こうして『トップガン』は制作上の大きな問題点を克服したが、リアリティを追求した結果、あまりいい効果を得られなかった部分もある。それは可変翼戦闘機F-14の聴覚を刺激する飛行音など、サウンドエフェクト面でのことだ。 音響編集のジョン・ファサルと共に、本作の音響の共同監修をつとめたセシリア・ホールは、実際のF−14の飛行音や駆動音を採取したものの、意図にそぐわぬ退屈で味気ないものだったとドキュメンタリー映画『ようこそ映画音響の世界へ』の作中で述懐している。そこで彼女は動物の咆哮を転調させてエンジン音と重ねることにより、迫力と攻撃性の高いサウンド効果を創造したのだ。 この大胆な試行によって、ホールは女性の音響効果担当として初の米アカデミー賞にノミネートされ、女性がこの分野において貢献的な役割を果たす先駆けとなった。サウンド面でのこうしたこだわりは36年ぶりの続編となった『トップガン:マーヴェリック』でも受け継がれ、同作はオーディオの没入感と臨場感をより高めるために、サウンドデザイナーの大家であるゲイリー・ライドストロームがコンサルタントとなり、ホールの偉業を発展させる形で迫力のあるサウンドデザインに取り組んでいる。 ◆その意志は、36年ぶりの続編へと受け継がれる 他にも『トップガン:マーヴェリック』にこのタイミングで触れるのならば、無視できない要素がある。タイトルキャラクターであるマーヴェリックが教官となり、古巣に戻ってくる同タイトルは、新世代のアカデミー卒業生たちに焦点を定め、無人化する軍事において戦闘パイロットの存在を再定義していく。 監督のジョセフ・コシンスキーは、今回の主要機となる戦闘機F/A-18のコックピット内に、ソニーと共同開発したVENICE 6K シネマカメラを実装。そして世界で最も規格の大きな視覚フォーマット、IMAXを本作に導入している。これは機内撮影を成功させた『トップガン』のコクピット撮影を発展させたものであり、スーパー35mmで問題解決を得た、前作の技術的挑戦を反復するものと言えるだろう。コシンスキーは続編の撮影にあたり、偉大な前作への賞賛を惜しまない。 「トニーは大作を製作していたが、それをまるでアート映画のように撮ったんだ。照明やグラデーションフィルター、そしてフレーミング。この映画には、彼の映画のスタイルに対するオマージュのような瞬間がいくつかある」 『トップガン:マーヴェリック』は、トニー・スコットに謝意が捧げられている。彼の存在無くしては、この画期的な戦闘機映画は生まれなかったのだ。■ 『トップガン』© 2022 Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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トップガン
スカイアクションと恋愛を爽快に描く!トム・クルーズの出世作となった、80’sを代表する青春映画
スカイアクション映画の代名詞で、教官×生徒の王道ラブストーリー。さらにトム・クルーズの出世作でトム着用の衣装まで大流行し、主題歌もヒット。監督の代表作でもあるという、まさに、80年代を象徴する1本。
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COLUMN/コラム2019.12.26
“モダンホラーの帝王”が描いた、 おぞましくも恐ろしい物語 『ペット・セメタリー』
“モダンホラーの帝王”として知られ、日本でも、その著作の多くが翻訳・出版されている、アメリカの小説家スティーヴン・キング。彼が1974年に発表して出世作となったのが、いじめられっ子の少女の超能力が覚醒し、プロムの夜に大殺戮を起こす物語「キャリー」である。 翌75年には、日本でも出版。ブライアン・デ・パルマ監督、シシー・スペイセク主演による映画化作品は、76年の全米ヒット作の1本となった。映画版の日本公開は、77年春。1964年生まれの筆者の世代は、“青春ホラー”の傑作である、映画版『キャリー』によって、原作者であるキングの名を知った者が多い。 キング作品で続いて映画化されたのは、巨匠スタンリー・キューブリックが監督した、『シャイニング』(80)。キューブリックによる原作からの改変が目立つこの作品は、大ヒットに反比例するかのように批評は芳しくなく、キングからも「エンジンが付いてないキャデラック」と忌み嫌われた。しかし現在では、ホラー映画の“古典”という評価が定着している。 『キャリー』『シャイニング』両作の興行的成功によって、キングの小説は発表と同時に、次々と映画化やTVドラマ化されるようになった。最近では「キャリー」や「IT」のように、過去に映像化された作品のリメイクも多くなっている。 そんな中の1本であるのが、『ペット・セメタリー』。日本語に訳せば“ペット霊園”というタイトルのこの作品は、1983年に出版され、89年に最初の映画化。30年後の2019年にリメイク作品が製作された。 因みに原作及び新旧映画作品のオリジナルタイトルは、「ペット・セメタリー=PET CEMETARY」ではなく、「ペット・セマタリー=PET SEMATARY」。子どもの綴り間違いという劇中の設定によるもので、日本での出版タイトルもオリジナルに準拠して、「ペット・セマタリー」となっている。 さて今回「ザ・シネマ」で紹介するのは、『ペット・セメタリー』の最初の映画版である。1980年代に『クジョー』(83)『デッドゾーン』(83)『クリスティーン』(83)『炎の少女チャーリー』(84)『スタンド・バイ・ミー』(86)『バトルランナー』(87)等々、キングの原作が次々と映画化された中では、『シャイニング』以来の大ヒットとなった。3年後の92年には、原作のストーリーからは離れた続編、『ペット・セメタリー2』が製作されたほどである。 そんな大ヒット作の原作に関して、キングは出版されるより前に、こんな述懐をしている。「あまりにも恐ろしくて忌まわしいのでこれまで出版を見送ってきた作品がある…」。そんな話を裏付けるかのように、本作の原作は、キングが79年に一旦完成させながら、出版されたのは、4年後の83年だった。 実はその後キングは別のインタビューで、「恐ろしくて忌まわしい」から「出版を見送ってきた」わけではなく、「原稿に手を入れる気にもならないほど恐ろしい作品を書いた」というのが真意であったと、明かしている。わかり易く言えば、文章の推敲を日延べしている内に、出版が遅くなったというわけだ。 しかし原作者本人が、「恐ろしくて忌まわしい」或いは「おぞましくて恐ろしい」ことを作品にしたと、語っていたのは事実である。時が経つ内に、『ペット・セメタリー』原作に関しては、「あまりの恐ろしさに発表を見あわせていた」という風評が、いつしか伝説化してしまった。 確かにこの原作に関しては、キングが「出版を見送ってきた」ことが(実際には“伝説”に過ぎないにしても)、なるほどと頷けてしまう。こんなに「おぞましい」ストーリーは、ない。特に、子どもを持つ親にとっては…。 メイン州の小さな町ラドローに越してきた、ルイス・クリードと妻のレイチェル、娘のエリーと息子のゲイジ。そんな一家を、向かいに住む老人ジャドは、温かく迎えた。 クリード家の新居の前を走る道路は、日夜大型トラックが猛スピードで行きかい、そのため犬や猫など、数多くのペットが轢かれて死んでいた。そしてその多くが、クリード邸の裏の小道から続く、森の中の“ペット霊園”に葬られていた。 医師として大学の医療センターに勤務を始めたルイスは、大事故で頭の一部が削られるほどの大怪我をした若者ヴィクター・パスコーが、息を引き取る瞬間に立ち会う。ところが、死んだ筈のパスコーが突然目を開け、知る筈のないルイスの名を呼んだ。 夢か現か、亡者のパスコーがその夜、ルイスの寝室へと現れる。パスコーはルイスを“ペット霊園”へと誘い、この更に奥に在る忌まわしき地には、絶対足を踏み入れてはならないと警告する。 それから少し経って、一家の飼い猫であるチャーチが、車にはねられて死んでいるのが見付かる。幼いエリーがチャーチを可愛がっていたことを知る隣人のジャドは、ルイスを“ペット霊園”の先の地に案内し、そこに自らの手で埋めるよう指示する。 翌朝、家族に内緒で埋葬した筈のチャーチが戻ってきた。まるで違う猫になったかのように、凶暴性を帯びて。 ジャドは、エリーを悲しませないために、先住民の間で語り伝えられてきた秘密の森の力を利用したことを、ルイスに教える。「死んだ人間を埋めたことはあるのか?」と尋ねるルイスに、「そんな恐ろしいことを、誰がするか!」と、色をなして否定するジャド…。 やがてクリード家を、どん底へと叩き落す悲劇が起こる。一家の団らん中、ちょっと目を離した隙に、ヨチヨチ歩きのゲイジが道路へと飛び出し、トラックにはねられて死んでしまったのだ。 失った幼子のことを諦められないルイスは、ジャドの警告を振り切って、一旦埋葬した息子の遺体を掘り起こす。そして禁断の森へと、足を踏み入れていく…。 翻訳版で、上下巻合わせて700頁以上という長大な原作を映画化するに当たっては、改変された部分や割愛されたキャラクターなども居る。しかし、原作者のキング自らが執筆した脚本による最初の映画版は、概ね原作に忠実な展開となっている。 それにしてもキングはなぜ、こんな「おぞましい」話を書いたのだろうか?実は『ペット・セメタリー』原作は、キングの家庭に振りかかったアクシデントを基にして、描かれた物語だったのである。 キングとその家族は一時期、メイン州のオリントンという町の、車通りの多い道沿いの家に暮らしていた。そしてその近所には、交通事故で死んだペットのために、地元の子ども達が作った墓地があった。 ある時キングの幼い娘が飼っていた猫が、その道路で轢かれて死んだ。更にはその後、2歳の息子が、同じ道路でトラックに轢かれかかるという“事件”があった。その時、我が子が道路に飛び出す直前に、その体を掴んだというキングは、「5秒遅かったら、子どもを1人失っていた」と、後に語っている。 この経験をベースに、『ペット・セメタリー』原作は書かれたわけだが、キングはそれ以前に発表された作中で既に、子どもを殺した“前科”があった。81年に出版された、狂犬病に罹ったセントバーナードが人を襲う『クジョー』の原作でも、主人公である母親の眼前で、幼い息子が命を落としてしまう(83年の映画化作品では結末が改変され、息子は助かる)。なぜキングは自作で、子どもを殺してしまうのだろうか? それについて彼は、こんな風に語っている。 「ある晩、親ならだれでもするように、子どもたちがちゃんと寝てるかいるかどうか見にいったときに、とんでもないことを考えます。子どもたちのひとりが死んでいるのを発見するんじゃないかってね。 …優れた想像力は、持ち主によいことばかりもたらしてくれるわけではない。想像力は、自分の子どもが死んでいるのを見つけることを、たんなる小説のアイデアだけにとどめておいてはくれないのです。そうした状況を総天然色で鮮明に描いて見せる。 …そして、自分の子どもの死という、考えに取りつかれてしまうわけです。こうしたことが、考えつくことで最悪のことであれば、作家はそのアイデアを作品に書き込むことによって、一種の悪魔祓いをするのです」 キングは幼い頃に、実の父親が失踪。そのために女手一つでキングとその兄を育て上げた母が、いつも口にしていた教えがある。 「最悪のことを考えていれば、それが現実となることはないよ」 キングはそれに倣って、作中で子どもの命を奪う。彼の言葉を借りれば、「もし、ブギーマンが誰かの子どもを餌食にする小説を書けば、自分の子どもにはそんなことは起こらないだろう…」というわけだ。キングにとって“モダンホラー”を書くという行為は、即ち、彼と家族を守るための、魔法陣を描くようなことであったのだ。 だからこそ『ペット・セメタリー』は、ここまで「おぞましい」ストーリーになったわけである。 因みに本作の大ヒットを受け、先述したように原作を離れて製作された『ペット・セメタリー2』は、第1作のクリード家の悲劇から、何年か経った後のラドローが舞台。先住民からの語り伝えに則り、死せるものを蘇らせる筋立ては同じだが、原作や第1作で打ち出されていた~蘇らせる側の“想い”が重要~という“ルール”が無視されている。 劇中で最初に蘇らせるのは、メインの登場人物の1人が可愛がっていたペットというのは同じだが、その後は憎悪の対象としていた人物が眼前で死んだのを、「ヤバい」「困った」という理由で蘇らせる。 更には蘇った死者が、仲間を増やすつもりなのか、わざわざ殺した相手を埋める、「死者が死者を蘇らせる」仰天の展開となる。第1作と同じメアリー・ランバート監督のメガフォンだが、B級・C級感がより強い…。 ここで間もなく公開される、ケビン・コルシュ&デニス・ウィドマイヤーという2人の監督が共同で手掛けた、“リメイク版”の『ペット・セメタリー』にも触れておこう。オリジナル版の配役が、ほぼノースターだったのに対し、こちらのメインキャストは、ジェイソン・クラーク、エイミー・サイメッツ、ジョン・リスゴーといった有名俳優である。 原作やオリジナル版からの、最も大きな改変点は、不慮の事故で亡くなるのが、息子のゲイジではなく、娘のエリーであること。ヨチヨチ歩きの息子よりも、人や動物の“死”に怖れを抱き出す年頃の、小学生の娘が犠牲になる方が、より痛ましさが増す。また、蘇った後の“凶行”に関しても、演出がし易いという、作り手側の計算が働いたものと思える。 監督の1人が、「リメイク版というよりは、…キングの小説を再解釈した作品」と語っているが、最も驚いたのは、一部『ペット・セメタリー2』の方の、“ルール破り”ぶりを援用しているかのような描写があること。ネタバレを避けるために、これ以上の詳述は控えるが…。 いずれにしろ“子どもの死”という、原作者キングが最も怖れたことがテーマになっているのは、同じである。原作が最初に書かれてから40年、オリジナルの映画版が公開されてから30年経っても、それが人にとって、普遍的に「おぞましい」ことであるのは、絶対的に変わりようがない…。■ 『ペット・セメタリー』TM & COPYRIGHT © 2020 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.
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(吹)トップガン 【ゴールデン洋画劇場版】
スカイアクションと恋愛を爽快に描く!トム・クルーズの出世作となった、80’sを代表する青春映画
スカイアクション映画の代名詞で、教官×生徒の王道ラブストーリー。さらにトム・クルーズの出世作でトム着用の衣装まで大流行し、主題歌もヒット。監督の代表作でもあるという、まさに、80年代を象徴する1本。
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COLUMN/コラム2017.03.01
世間に不敵な挑戦状を叩きつけた連続殺人鬼の実話事件を映画化した、“アナザーサイド・オブ『ダーティハリー』”というべき秀作〜『ゾディアック』〜03月30日(木)ほか
■この暗号文を解いてみよ! 謎の連続殺人鬼〈ゾディアック〉、ここに登場 1960年代末、アメリカ西海岸のカリフォルニア州サンフランシスコ周辺を舞台に、残忍な手口による殺人や傷害事件が相次いで発生。やがて、当初は丸に十文字のマークを署名代わりに記し、後に〈ゾディアック〉と名乗ることになる正体不明の犯人が、3つの新聞社に、自らの犯行を認める声明書のみならず、アルファベットやギリシャ文字、天気記号や占星術の記号などを組み合わせた謎めいた暗号文も同時に送りつけてきて、これを解けば、俺の正体は判る、この暗号文を新聞に掲載しなければ、俺はまた人殺しをして暴れまくってやると脅し、自らの存在を世間に向けて挑戦的にアピールした。 彼の要求に応じて新聞の一面に掲載されたその暗号文は、ほどなくして「俺は人殺しが大好きだ。なぜなら、それはとても面白いからだ」云々と書かれてあったことが解読されるが、そこには「お前たちに俺の名前を教えてなんかやるものか」とも書かれていて、〈ゾディアック〉の正体は一向に明らかになることがないまま、以後も彼は、半ばゲームを楽しむかのように不敵な犯行や言動を繰り返して、警察や報道陣を翻弄。現代のメディア社会を揺るがす劇場型犯罪の愉快犯としてその悪名を轟かせ、やがて彼の名を騙った模倣犯まで登場して、世間をすっかり不安と恐怖、混沌の渦へと陥れた。 しかし、1971年以降、〈ゾディアック〉から送りつけられる挑戦状は間遠になって数も減り、1978年の手紙を最後にそれもふっつりと途切れて事態は沈静・収束化した。〈ゾディアック〉は総計37名にも及ぶ殺人を犯したと豪語したが、彼の手によるものと警察が断定した犯行は4件で、死者は5名。結局、一連の事件の真相も、連続殺人鬼の正体も、不明で未解決のまま、事件は迷宮入りとなって、〈ゾディアック〉は伝説的存在と化し、既に皆もよく御存知の通り、まだ事件の記憶もホットで生々しい頃から、あの『ダーティハリー』(1971 ドン・シーゲル)でクリント・イーストウッド演じるはみ出し者の刑事が対決する連続殺人鬼、〈さそり〉のモデルとなったのをはじめ、映像や音楽、文学など、多種多様なポップカルチャーの題材の源泉となり、あるいはまた、その後の現実社会で起きた多くの劇場型犯罪事件の雛型ともなって、今日まで広く知れ渡っている。 ■適材適所の監督起用となった、フィンチャーによる『ゾディアック』映画化 1969年、〈ゾディアック〉が最初の手紙と暗号文を送りつけた新聞社のひとつ、サンフランシスコ・クロニクル紙に、当時、見習いの諷刺漫画家として在籍していて、はからずも事件と運命的に遭遇し、以後も一連の騒ぎを間近で見聞して、最後まで事件の真相と真犯人を執念深く追い続けたロバート・グレイスミスがその顛末を綴った2冊のノンフィクションをもとに、この〈ゾディアック〉事件を映画化する本作の企画が立てられ、その監督として、真っ先に白羽の矢が立ったのが、ほかならぬデイヴィッド・フィンチャーだった。これは本作のプロデューサーたちからすれば、当然の人選だったと言えるだろう。 周知の通り、フィンチャーは先に、彼の出世作となった『セブン』(1995)で、猟奇的な連続殺人鬼を題材にしたサスペンス・スリラーを手がけている。そこでは、ブラッド・ピット演じる若手刑事が、ケヴィン・スペイシー扮する連続殺人鬼の挑発と煽動にまんまと乗せられて、抜き差しならぬ深みにはまり、最終的にはスペイシーが仕掛ける殺人ゲームの最後の総仕上げを行う、共犯者の役割を割り当てられていた。 あるいはまた、20世紀末に生み出され、その後21世紀初頭にはからずも現実のものとなる、〈9.11〉テロの光景をいち早く先取りする衝撃作となった『ファイト・クラブ』(1999)。ここでは、ブラッド・ピットが逆に、エドワード・ノートン扮する主人公の分身たる誘惑的な煽動者として登場し、彼との殴り合いを通して、ノートンもまた危険なゲームへとひたすら暴走・没入していく姿を、けれん味たっぷりの映像と音響を通してセンセーショナルに描き、フィンチャー監督自身、現代の映画界におけるトリックスター的な攪乱者として、頭角を現していた。その名もずばり『ゲーム』(1997)と題された作品もある通り、フィンチャーの映画世界においては、主人公たちが、ある種のゲームを介して、互いに対立・闘争し、あるいは惹かれ合って不思議な共犯関係を結ぶことが、常に物語を始動させる大きな役割を果たしていて、この『ゾディアック』は、フィンチャーにとっても、まさにうってつけの題材であったに違いない。 それに加えて、〈ゾディアック〉が現実に暴れ回っていた当時、まだ子供だったフィンチャーは、奇しくもサンフランシスコから北にわずか30kmほど離れた地域に住んでいて、スクールバスに乗って下校する際、ハイウェイ・パトロールの連中がしばらく警護でバスにつき添うのを自ら実際に体験し、〈ゾディアック〉と呼ばれる連続殺人鬼がスクールバスとそれに乗る児童たちを標的にした恐るべき犯行予告を行っていたことを、父親の口から聞かされたことがあったという(幸いにも現実にはそうした凶行事件は起きなかったが、映画『ダーティハリー』の中では、アンディ・ロビンソン扮する連続殺人鬼の〈さそり〉がスクールバス・ジャックの暴挙に打って出て、子供たちやそれをなす術もなく見守る市民らを、恐怖のどん底に叩きこむことになる)。 本作の監督依頼のオファーを受け入れたフィンチャーは、この〈ゾディアック〉事件を映画化するにあたって、実証主義的なアプローチによる徹底したリサーチを改めて行った上で、実際に起きた出来事を努めてリアルに再現するのに心血を注ぎ、従来、『セブン』や『ファイト・クラブ』などで披露してきた、これ見よがしの才気走った派手で過剰な作風とはうって変わり、きわめて抑制の効いた渋い演出を全篇にわたって披露して、映画作家としての成熟ぶりを窺わせる充実した作品に仕上がっている。 その一方で、『セブン』では、ケヴィン・スペイシー演じる連続殺人鬼が“七つの大罪”を犯した連中に天誅を下す様子は、直接的に画面には映さず、既に凶行がなされた後の酸鼻を極めた犯行現場という形で、彼の異常者ぶりが示されていたのに引き比べると、この『ゾディアック』では、正体不明の〈ゾディアック〉が、夜、人気のない暗がりに車を停めてデートを楽しもうとしていた1組の高校生のカップルや、あるいは、湖畔で昼間ピクニックを楽しんでいた大学生のアベックらを相手に、冷酷非情な犯行に及ぶ決定的瞬間を、迫真の臨場感できわめて即物的に描いているのが本作の特色となっていて、その何ともクールでドライな感触が、〈ゾディアック〉の得体の知れなさと薄気味悪さをいっそう際立たせている。 そしてまた、街の全景を捉えた冒頭のロングショットから、恐怖におびえる被害者の顔のアップ、さらには、きっとこれはデジタル合成処理をしたものだろうが、夜の街路を走り抜けるイエローキャブを真上からぴたりとフォローして滑らかに捉えたマジカルな俯瞰移動撮影まで、その都度、被写体と絶妙の距離感を保ちながら、スタイリッシュな画面をリズミカルに構成する、フィンチャーの卓越した映像センスと、ハリス・サヴィデスの見事な撮影手腕(『エレファント』(2003)、『ラストデイズ』(2005)など、ガス・ヴァン・サント監督とのコンビでも知られた名キャメラマンだが、2012年、惜しくも55歳でこの世を去った)も、素晴らしい。 映画の前半は、〈ゾディアック〉による犯行場面の描写を主体に話が進行していくが、彼が書いた手紙と暗号文が自分たちの働く新聞社に届いたのをきっかけに、ジェイク・ギレンホール扮する本作の原作者にして諷刺漫画家と、ロバート・ダウニーJr.扮する同僚の敏腕記者が、暗号解読と犯人の正体探しに熱中するようになって相棒を組む一方、マーク・ラファロとアンソニー・エドワーズが、事件を捜査する担当刑事に扮して、やはりコンビで劇中に登場。物語の焦点は、次第に2組のコンビへと重点をシフトしつつ、彼らがそれぞれ〈ゾディアック〉の正体を突き止めようと懸命に奔走する様子が、じっくりと描き出されることとなる。 フィンチャー監督は、本作を映画化するにあたって、やはり1970年代前半のほぼ同時代、ワシントン・ポスト紙の2人組の新聞記者が、とある軽犯罪事件の裏に秘められた意外な政治的陰謀を明るみにし、当時の合衆国大統領ニクソンをついに辞任に追い込んだ衝撃的な政治スキャンダル、〈ウォーターゲイト事件〉の顛末を映画化した『大統領の陰謀』(1976 アラン・J・パクラ)を、下敷きとして活用したことを自ら明かしている。ただ、『大統領の陰謀』の新聞記者コンビが、その粘り強い地道な取材活動の末に、事件の真相を暴くことに成功して社会的正義を最終的に勝ち取り、彼らにとっても、そしてそれを見守る観客にとっても、それなりのカタルシスを得られるのに対し、この〈ゾディアック〉事件は、先にも説明した通り、現実において、犯人の正体も居所も一向に掴めぬまま、歳月ばかりが空しく過ぎ去っていく。 ■『ダーティハリー』の裏版 !? 本来は『ゾディアック』が表看板だったはずなのに… この『ゾディアック』の物語のちょうど中間の折り返し点にあたる箇所で、劇中の登場人物たちが、この現実に起きた〈ゾディアック〉事件に想を得て作られた映画『ダーティハリー』を、皆で揃って劇場へ見に行くという印象的な一場面が登場する。いささか皮肉めいたこの場面において、マーク・ラファロ演じる刑事は、映画をあくまで絵空事や他人事として楽しんで鑑賞することが出来ずに途中退席してしまう。そして、ロビーでひとり煙草を吹かしているところへ、映画を見終わって外に出てきた同僚から、「あの(クリント・イーストウッド扮する)キャラハン刑事は、君がてこずっている事件を、ものの見事に解決してくれたじゃないか」と声をかけられたラファロは、「正当な法の手続きは、必要ないってわけか、ふん」とふてくされた態度を見せ、それを脇で見守っていたギレンホールが見るに見かねて、「きっとあなたが、彼(=〈ゾディアック〉)を捕まえますよ」とラファロに慰めの言葉をかけると、「でも、既にもう、こうして映画は出来上がっているじゃないか」と、あらためて彼は自嘲気味の捨て台詞を吐くことになるのだ。 映画『ゾディアック』のドラマは、ここから4年の歳月を一気に飛び越えた上で、なおもこの先しばらく続くことになるが、疲労と焦燥のみが蓄積されていくその煮詰まった事態についに耐えかねて、ギレンホール&ダウニーJr.、そしてラファロ&エドワーズという2組のコンビは、共に後者の相棒が別れを告げて去って行き、コンビを解消するはめとなる。さらに今度は、お互いに取り残された者同士でギレンホールとラファロが新たなコンビを組むものの、その2人の関係も次第に冷え込み、〈ゾディアック〉のおぼろげな影をひたすら追いかけるという欲望と執念ばかりが自己目的化して亢進・肥大化し、心の内に募らせたオブセッションによって、自らの人生そのものが崩壊の危機に瀕し、愛する妻子からも愛想を尽かされてひとり孤独を噛み締める、ギレンホールの哀れでやるせない姿が大きく浮き彫りとなっていくのだ。このあたりの展開は、フィンチャー監督が、『大統領の陰謀』と並んで、本作を作る上で大いに参照した、1970年代の政治サスペンス映画を代表する傑作『カンバセーション…盗聴…』(1974 フランシス・フォード・コッポラ)の影響が色濃く見て取れるはずだ。 フィンチャー監督の映画は、往々にして上映分数が2時間半を超える長尺の作品が多く、気軽に見るにはいささかしんどくて疲れることもなきにしもあらずだが、やはり2時間半強の長さがあるこの『ゾディアック』の場合、彼らの人生の軌跡を見つめる上で、その作品の長さにはそれなりの必然性があったと言えるだろう。ギレンホールにダウニーJr.、そしてラファロら、実力演技派の俳優たちが顔を揃え、人騒がせな連続殺人鬼〈ゾディアック〉の出現と挑発によって人生を狂わされ、茨の道を歩むはめとなる彼らの見応えのある競演を、どうかぜひ腰を据えてじっくりと味わって欲しい。■ © Warner Bros. Entertainment Inc. and Paramount Pictures Corporation
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PROGRAM/放送作品
(吹)トップガン
スカイアクションと恋愛を爽快に描く!トム・クルーズの出世作となった、80’sを代表する青春映画
スカイアクション映画の代名詞で、教官×生徒の王道ラブストーリー。さらにトム・クルーズの出世作でトム着用の衣装まで大流行し、主題歌もヒット。監督の代表作でもあるという、まさに、80年代を象徴する1本。
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COLUMN/コラム2009.06.13
トム・クルーズ様へ。あなたを変えた『マグノリア』
拝啓トム・クルーズ様突然このような公の場で、お会いしたこともないあなたについて、ブログを書く無礼をお許し下さい。僕があなたを初めて観たのは、86年の大ヒット作『トップガン』でした。生意気そうで、でもどこかナイーブな雰囲気漂うあなたに、僕の母や姉をはじめ、世の女性はメロメロ(死語?)になりました。この作品はあなたにとっても、スターダムを駆け上がるきっかけとなった思い出深い作品だと思います。いま改めて『トップガン』を観ると、ケニー・ロギンスの歌う「デンジャーゾーン」からも、そして極めてわかりやすい起承転結の上に描かれた若々しいあなたの姿からも、80年代特有のノー天気さを感じずにはいられません。もちろん、これはあなたの映画をけなしているわけではあ……\x8Aません。なぜならあの頃、つまりバブル期の私たちが求めていたのは、観ているときは楽しくて、終わった後は気分爽快!! ストーリーはエンドロールと共に綺麗さっぱり記憶から消えてしまう、そんな娯楽映画のお手本のような映画だったのです。あなたは見事にその期待と要求に応えてくれました。そして当時、まだ少年だった僕にも大きな影響を与えました。F14トムキャットを操れない代わりに、僕は映画をベースにしたファミコンソフト(もちろんシューティングゲーム!!)で遊ぶことで、あなたに近づこうとしました。『トップガン』を機に、あなたはハリウッドスターとして確固たる地位を手に入れ、あなたの出演作のほとんどは、繰り返しテレビで放送されました。おそらく、あの頃青春時代を過ごした人のなかで、あなたの出演作を観たことのない人はいないのではないでしょうか? それほど80年代から90年代前半にかけてのあなたはすごかった。『ハスラー2』『カクテル』『レインマン』『7月4日に生まれて』『デイズ・オブ・サンダー』などなど、駄作、傑作の両方がありましたが、あなた以上に"スター"という言葉が似合う俳優はあの頃誰一人としていませんでした。だからこそ、『マグノリア』でフランクを演じるあなたを見たとき、僕は最初、その姿を素直に受け入れることができなかったのです。それはどう見ても、少年時代の僕に大きな影響を与えた、トム・クルーズが演じるべき役ではないように感じました。「女を誘惑してねじ伏せろ!」と卑猥な言葉と仕草で男達を煽りつつ、モテる秘訣を記した自著を教典のごとくかかげるフランク。その胡散臭さは、持って生まれたあなたの甘いマスクと、大げさな身振り手振りの演技によってさらに輪をかけたものになっていました。フランクを演じたあなたの姿に、驚いた人はけして少なくなかったでしょう。なぜなら、それは多くの人々が抱く、甘く優しい"トム・クルーズ"像をまっこうから否定するものだったからです。しかも『マグノリア』であなたが演じたフランクは、始終作品の中心にいるわけではなく、群像劇の一部を担う役に過ぎませんでした。つまり『マグノリア』はあなたがいなくても成立するとさえ感じました。でも、映画を見終わった後、僕はその考えが間違っていたことに気づいたのです。『マグノリア』では、あなたを含む10人の男女の人生が、ラストに向けて不思議に絡み合っていきます。彼らの人生は、映画を観る人の多くと同じように、それぞれに深刻で、滑稽な問題を抱えています。でも問題解決の糸口が、物語の中でとくに提示されるわけでもありません。『マグノリア』で提示されるのはただ一つ。人生の教訓です。親との確執、過去との決別、死と向き合うこと、などなどなど。それらは言葉に置き換えにくい、生きるヒントみたいなものです。誰かが身をもって体験する。それを私たちは、見たり聞いたりすることで、自分の教訓とします。あなたは映画のなかで、とてもハリウッドスター的でない男を演じることによって、そんな教訓の一つを僕に教えてくれたのです。正直に申し上げて、90年代半ばからあなたの活躍を目に、耳にする機会はずいぶん減ったように感じていました。もちろん僕が、少年から青年へと成長するにつれ、映画の好みが変わったこともあるでしょう。でもそれだけではありません。天才子役が、いつまでも子役を演じ続けられないのと同じように、90年代のあなたは時代に消費されるアイドル的ハリウッドスターから、人生の重みと深みを表現できる映画俳優へステップアップしようと試みている時期だったように思います。僭越ながら、『マグノリア』からは、そんなあなたのチャレンジ精神を感じました。今回、では、アイドル的ハリウッドスターから映画俳優へと転身していくあなたの様子を『トップガン』『ア・フュー・グッドメン』『マグノリア』『コラテラル』の4作品で放送します。『トップガン』では、初々しいあなたを。『ア・フュー・グッドメン』ではアイドル的薫りを残しつつ、硬派な芝居を見せたあなたを。『マグノリア』では、長年僕たちが抱いていたトム・クルーズ像を見事に壊したあなたを。そして『コラテラル』では『マグノリア』以降の、一皮むけたあなたを観ることができます。これらは、きっと多くの視聴者の方に楽しんでいただけるでしょう。そうそう、ついでに申し上げると『マグノリア』で演技派俳優としてのステップを踏み出すかのように見えるあなたが、2000年代に突入しても『宇宙戦争』や『M:i:III』のように限りなくベタなハリウッド映画で、これまたお決まりの主人公を演じてしまうところに、僕は尊敬の念すらおぼえます。かの有名な「ジャンプ・ザ・カウチ」をはじめ、まだまだ書き足りないことは多いのですが、長くなりますので、ここらで切り上げます。ますますのご活躍を極東のカタスミからお祈り申し上げます。 (奥田高大) 『トップガン』Copyright © 2009 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.『マグノリア』©MCMXCIX NEW LINE PRODUCTIONS, INC.ALL RIGHTS RESERVED.
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PROGRAM/放送作品
ペット・セメタリー2
死者が蘇る墓地の恐怖、再び!『ターミネーター2』のエドワード・ファーロング主演の続編
スティーヴン・キングが原作・脚本を手がけて人気を博した同名ホラー映画の続編。『ターミネーター2』の美少年エドワード・ファーロングが、母親を亡くした少年の複雑な思いを繊細に演じている。
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PROGRAM/放送作品
ナーズの復讐 II/ナーズ・イン・パラダイス
オタク系ガリ勉軍団がフロリダで大暴れ!体育会系グループとの新たな抗争を描く青春コメディ第2弾
ドジでサエないオタク系ガリ勉大学生たちが、フロリダのリゾート地に舞台を移して大暴れ。宿敵である体育会系グループの嫌がらせや、ボロ宿の怪しい住人らサブキャラもパワーアップ。