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PROGRAM/放送作品
恐怖の報酬(1953)【4Kレストア版】
大量のニトログリセリンを車で運ぶ危険な道中に手に汗握る!カンヌ映画祭グランプリ受賞の傑作サスペンス
仕事にあぶれた移民たちが少しの揺れでも爆発するニトログリセリンを運ぶ危険な任務を、ただならぬ緊張感で描き出す。カンヌ国際映画祭グランプリと男優賞(シャルル・ヴァネル)、ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞。
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COLUMN/コラム2022.05.09
ヒッチコックが嫉妬!世界中の度肝を抜いた、フランス製スリラー映画のマスターピース『悪魔のような女』
年配の方にはお馴染みだった、テレビ時代劇の「必殺シリーズ」。その顔である藤田まことが主演した中に、「江戸プロフェッショナル 必殺商売人」(1978年/全26話)というシリーズがある。凝った構成や展開が多い作劇だったが、その内の一編「殺して怯えた三人の女」というエピソードが、当時10代の私に、強烈な印象を残した。 呉服問屋の後家と義理の娘、女中の3人が、色悪な番頭に弄ばれる。そこで女たちは共謀して、番頭を殺害。池に沈めるも、その後まるで番頭が生きてるかのような奇怪な出来事が次々と起こり、3人は次第に追い詰められていく…。 初見時、ただただ感心して視聴したのだが、後年に本作『悪魔のような女』(1955)を観て、気付いた。ああ、これだったか! TV時代劇の黄金期は、過去の名作洋画を良く言えばインスパイア、悪く言えばパクった内容の作品が数多くあった。私が至極感心した、「必殺」の1エピソードは、明らかに本作の影響を受けたものだったのだ。 ***** 舞台は、パリ郊外に在る全寮制の寄宿学校。校長のミシェル(演:ポール・ムーリス)は、妻で教師のクリスティーナ(演:ヴェラ・クルーゾー)の資産を利用して、現在の地位を得た男だった。それにも拘らず、吝嗇で勝手し放題。心臓が弱い妻を、日々いたぶっていた。 教師の1人ニコール(演:シモーヌ・シニョレ)は、ミシェルの公然の愛人。やはりクリスティーナ同様、彼の暴君のような振舞いに嫌気がさしていた。 奇妙な連帯感で結ばれた妻と愛人は、共謀。寄宿学校から遠く離れたニコールの自宅にミシェルを秘かに呼び出して、強い睡眠薬を盛り、そのまま浴槽に沈めて殺害した。 車で死体を運んだ2人は、季節外れで使われていない、寄宿学校のプールに死体を投げ入れる。酔った挙句に、足を滑らせて溺死したように見せかける計画だった。 ところが、何日か過ぎても死体は発見されない。そこで2人は図って、プールの水を、用務員が抜くように仕向ける。 しかし、空になったプールからは、何も出てこなかった。ミシェルの死体は、忽然と消えてしまったのだ。 その後まるで、ミシェルが生きているかのような、奇怪な出来事が次々と続く。更には、セーヌ川に浮かんだ身元不明の死体を、もしやと思ってクリスティーナが確認しに行ったことがきっかけで、退職した警察官のフィシェ(演:シャルル・ヴァネル)に目を付けられ、纏わりつかれるようになる。 2人の女は、徐々に追い詰められていく。特に心臓に病を抱える、クリスティーナの疲弊はひどく…。 ***** 本作『悪魔のような女』には、原作がある。フランスのミステリー界の重鎮だったピエール・ポワローとトマ・ナルスジャック初めての共作で1952年に出版された、「CELLE QUI N'EAIT PLUS=その女の正体」(日本では現在「悪魔のような女」というタイトルで出版されている)だ。 こちらは、平凡なセールスマンの男と、その愛人の女医が共謀。男の妻を殺して、保険金をせしめようとする話である。 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督はここから、殺害とアリバイ作りのトリックや、死体が消えて、まるで生きているかのような痕跡を残していく中で、犯人たちが徐々に追い詰められていく展開等を抽出。先に紹介したように、寄宿学校をメインの舞台に、横暴な男をその妻と愛人が葬ろうとする話へと設定を変えて、脚色を行った。 1955年の公開時、大いに話題になったのは、オープニングのスーパー。 「これからこの映画を御覧になるお友達の興味を殺がないように―どうぞこの映画の筋はお話にならないで下さい」 本国フランスの首都パリでは、公開時にストーリー自体を発表しなかった。日本では、結末だけを伏せておく“宣伝戦略”が取られた。それは物語の〆に、衝撃的などんでん返しが待ち構えているからである。 映画史的にあまりにも有名な作品なので、ご存じの方も多いとは思う。しかし本稿では初公開時に倣って、未見の方のために、ショッキングなラストは、「観てのお楽しみ」としておく。 フランスをはじめ、ヨーロッパ、アメリカ、そして日本でも大いに話題になった本作。谷崎潤一郎は随筆「過酸化マンガン水の夢」の中で、本作について記している。 谷崎は、「要するにこれは見物人を一時脅かすだけの映画にて、おどかしの種が分ってしまへば浅はかな拵へ物であるに過ぎない」と指摘。本作を貶めているのかと思いきや、「しかしこの絵が評判になり多くの映画ファンの好評を博したのは、しまひには一杯食はされることになるけれども、観客をそこまで引き擦って行く手順の巧妙さと俳優の演技に依る」と、娯楽作として実は高く評価をしている。 特に気になったのは、ニコール役のシモーヌ・シニョレだったようで、「-あゝ云ふタイプを主役に持って来なければあの絵が狙う凄味は出せない。あの女なら情夫の頭を両手で摑んで水槽に押し込むことくらゐ出来さうに思へる」と、記述。またクリスティーナ役のヴェラ・クルーゾーに関しても、適役と評している。 文豪谷崎が、本作を大いに楽しんだのは間違いないようで、映画のストーリーを微に入り細に入り、かなり詳しく書き記している。ラストのネタばらしまで行っているのは、まあルール違反であるが…。 世界的に評判になった本作だが、実はその原作は、“サスペンスの神様”アルフレッド・ヒッチコックも、映画化を熱望。権利を買おうとしたものの、クルーゾー監督に先を越されたと言われている。 そうした経緯から、本作の大成功を見て、ヒッチコックは相当に悔しかったらしく、原作者のポワロー&ナルスジャックが次に書いた小説の映画化権を、早々に取得。これがヒッチコックのフィルモグラフィーの中でも、現在では名作の誉れが高い、『めまい』(58)となった。 更に『サイコ』(60)を製作・監督した際には、『悪魔のような女』を徹底的に研究。本作と同じモノクロ画像の陰鬱なムードの中で、浴室で恐るべき犯罪が行われる展開に挑戦した。また公開時のプロモーションでは、「途中入場禁止」のキャンペーンを行って、衝撃のラストへの期待感を、大いに煽ったのである。 さて『悪魔のような女』は、その後アメリカで2度ほどTVムービーとしてリメイク。本作から40年余後の1996年には、再び劇場用作品が、製作された。 こちらはポワロー&ナルスジャックの小説ではなく、クルーゾー監督・脚本による本作を原作とするもの。寄宿学校を舞台に、シニョレがやった役をシャロン・スートン、ヴェラ・クルーゾーの役をイザベル・アジャーニが演じている。 オリジナルでは、男性のシャルル・ヴァネルが演じた元刑事を、女性に変えて、キャシー・ベイツをキャスティングするなどの変更はあれど、リメイク版の構成や展開は、本作とさほど変わらない。大きく違うのは、オリジナルのどんでん返しに加えて、更にもう1回どんでん返しを重ねるところである。 それが成功しているか否かは、本稿では触れない。いずれにしてもリメイク版は、今日ではほぼ忘れられた存在となっている。 実は日本でも、最初に挙げた「必殺」のようなインスパイアものではなく、原作小説の映像化権を正式に得て、製作された作品が存在する。元祖2時間サスペンスの「土曜ワイド劇場」で、2005年に放送された、「悪魔のような女」である。 ヒロインは菅野美穂が演じる、心臓に疾患を抱えたガラス工芸作家。その親友の女医が浅野ゆう子、夫が仲村トオル、元刑事が串田和美というキャスティングで、テレビの「世にも奇妙な物語」や映画『パラサイト・イブ』(97)『催眠』(99)などの落合正幸が、監督を務めた。 最初は優しげな振舞いをしていた夫が、結婚後に本性を現し、ヒロインが亡き親から継いだ大邸宅を狙う。そこでヒロインは、夫の愛人でもあった女医の力を借りて…という筋立て。 原作小説及び映画化作品から、様々な趣向を選りすぐりながら、なかなか巧みにアレンジした一編となっている。しかしながらラストで、殺された者の幽霊が登場して犯人を呪い殺すという、Jホラーさながらの展開となるのには、仰天。オリジナルと違った意味で、吃驚させられた。「呪い」つながりで言えば、オリジナルの『悪魔のような女』自体が、呪われているのでは?と騒がれたことがある。 ヒロインのクリスティーナを演じたヴェラ・クルーゾーには、実際に心臓疾患があったのだが、本作の5年後、パリのホテルの浴室で、変死しているのを発見される。折しも、彼女の夫だったアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督と、女優のブリジット・バルドーの不倫による、三角関係がスキャンダルになっている渦中であった…。■ 『悪魔のような女』© 1954 - TF1 DROITS AUDIOVISUELS - VERA FILMS
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PROGRAM/放送作品
密告(1943)
一通の怪文書が小さな町に波紋を呼ぶ…フィルムノワールの巨匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾーのサスペンス
『恐怖の報酬』のアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督が実際に起きた事件を基に描くサスペンス。匿名の怪文書が人々を疑心暗鬼に駆り立て、平和な町を一変させていく恐ろしさをセンセーショナルに映し出す。
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COLUMN/コラム2020.08.28
日本では劇場未公開となった フランスの名匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の遺作
今回ご紹介する映画『囚われの女』 (68年)は、巨匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の作品です。クルーゾー監督といえば、ニトログリセリンを運ぶトラックのハラハラ映画『恐怖の報酬』(53年)や、妻と愛人が共 謀してクソ夫を殺す『悪魔のような女』(55年)という2本のサスペンス 映画が全世界で大ヒットしました。 どちらもハリウッドでリメイクされましたが、オリジナルの面白さには 及びませんでした。 そのクルーゾーの遺作が『囚われの女』です。1960年代末のパリを舞台に“ポップ・アート”の芸術家ジルベ ール(ヴェルナール・フレッソン)と その妻ジョセ(エリザベート・ウィネル)、それにポップ・アートの画商スタン(ローラン・テルジェフ)の3人の三角関係を描いています。 画商スタンが売っているアート作品は縞々です。この縞々が目の錯覚でチラチラ動いて見える。これをオップ・アートと呼びました。オプティカル(光 学的)アートの略です。当時、大変な話題になって、縞模様の服も流行し、『ウルトラマン』(66〜67年)に登場した三面怪人ダダの体の縞模様にまで影響を与えました。 あと、スタンはキネティック・アート=動く彫刻、いわゆる“モビール”も売ってます。これもインテリアとして大流行しました。つまりポップ・アートとは、アートの大衆消費化です。 また、この映画でポップ・アートに関わる主人公たちは、自分や相手に結婚相手がいようがいまいが、おかまいなしにセックスします。これも1968 年当時流行していた「フリー・ラブ」です。結婚に縛られないで好きな人と 恋愛やセックスをしてもいい、という考え方です。 『囚われの女』は、ポップ・アートとフリー・ラブという当時の流行に、製 作当時61歳だったクルーゾー監督が「それって本当のアート?」「それって 本当の愛?」って因縁をつけてるよう な映画です。 ところが、最後のほうで、「それはいくらなんでもいきなりすぎる」と言いたくなる展開に転げ落ちて、僕は大爆笑してしまいました。 もっと驚いたのは、これがもともと、 あのマルセル・プルーストの大長編小説『失われた時を求めて』の映画化として企画された映画だったということですね。 どこがだよ! と言いたくなる、巨匠の知られざる遺作、お楽しみに! (談/町山智浩) MORE★INFO.・本作は1964年の撮影中に、主演者とアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督自身までもが心臓発作で未完となった『L'enfer(地獄)』を、監督がリトライした作品。・名優ミシェル・ピコリ、ピエール・リシャー ル 、 さ ら に ジ ョ ア ン ナ ・ シ ム カ ス ら が ノ ン・ クレジットでカメオ出演。・冒頭場面は『サスペリアPART2』(75年) の手袋をした謎の殺人鬼が人形を触る場面 に影響を与えている。・クルーゾー監督の死後、『L'enfer』の脚本 を元に、クロード・シャブロル監督が新たに 演出した『愛の地獄(』94年)が作られた。・『L'enfer』の残されたフィルムを復元+物語を補足する映像の追加+当事者の証言で 構成された『アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの地獄』が2009年に発表されている。 (C) 1968 STUDIOCANAL - Fono Roma
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PROGRAM/放送作品
囚われの女(1968)
新しい価値観が世界を変えた68年、還暦を超えた巨匠が遺したお説教とは!?
『恐怖の報酬』や『悪魔のような女』で知られるクルーゾー監督。カウンターカルチャーが流行りモダンアートが持て囃された68年に遺作で残したメッセージとは?
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COLUMN/コラム2017.01.20
極限の緊張サスペンスに込めたクルーゾ監督の狙いと、それを継受した1977年リメイク版との関係性を紐解く〜『恐怖の報酬(1953)』〜01月10日(火)深夜ほか
わずかの振動でも爆発をおこす膨大な量のニトログリセリン(高度爆発性液体)を、悪路を眼下にトラックで輸送する--。それを耳にしただけでも、全身の毛が逆立つような身震いをもたらすのが、この『恐怖の報酬』だ。この映画が世に出て、今年で63年。その間、いったいどれほど多くの類似ドラマや引用、パロディが生み出されてきたことだろう。 だが一度は、それらを生み出したオリジンに触れてみるといい。先に挙げた設定をとことんまで活かした、観る者を極度の緊張へと至らしめる演出と仕掛けが、本作にはたっぷりと含まれている。 「この町に入るのは簡単さ。だが出るのは難しい“地獄の場所”だ」 アメリカの石油資源会社の介入によって搾取され、スラムと化した南米のとある貧民街。そこは行き場を失ったあぶれ者たちの、終着駅のごとき様相を呈していた。そんな“地獄の場所”へと流れてきたマリオ(イブ・モンタン)を筆頭とする四人の男たちは、貧困がぬかるみのように足をからめとる、この呪われた町から脱出するために高額報酬の仕事に挑む。その仕事とは、爆風で火を消すためのニトログリセリンを、大火災が猛威をふるう山向こうの石油採掘坑までトラックで運ぶことだった。 舗装されていないデコボコの悪路はもとより、道をふさぐ落石や噴油のたまった沼など、彼らの行く手には数々の難関が待ち受ける。果たしてマリオたちは無事に荷物を受け渡し、成功報酬を得ることができるのかーー? 仏作家ジョルジュ・アルノーによって書かれた原作小説は、南米グァテマラの油田地帯にある石油採掘坑の爆発と、その消火作業の模様を克明に描いた冒頭から始まる。その後は、 「四人が同じ地に集まる」 「ニトログリセリンを運ぶ」 と続く[三幕構成]となっているが、監督のアンリ・ジョルジュ・クルーゾはその構成を独自に解体。映画は四人の男たちの生きざまに密着した前半部と、彼らがトラックで地獄の道行へと向かう後半の[二部構成]へと配置換えをしている。そのため、本作が爆薬輸送の物語だという核心に触れるまで、およそ1時間に及ぶ環境描写を展開していくこととなる。 しかし、この構成変更こそが、物語をどこへ向かわせるのか分からぬサスペンス性を強調し、加えて悠然とした前半部のテンポが、どん詰まりの人生に焦りを覚える男たちの感情を、観る者に共有させていくのだ。 そしてなにより、視点を火災に見舞われた石油資源会社ではなく、石油採掘の犠牲となった町やそこに住む人々に置くことで、映画はアメリカ資本主義の搾取構造や、極限状態におけるむき出しの人間性を浮き彫りにしていくのである。 ■失われた17分間の復活 だが不幸なことに、クルーゾによるこの巧みな構成が、フランスでの公開から36年間も損なわれていた時代があったのだ。 今回ザ・シネマで放送される『恐怖の報酬』は、クルーゾ監督の意向に忠実な2時間28分のオリジナルバージョン(以下「クルーゾ版」と呼称)で、前章で触れた要素が欠けることなく含まれている。 しかし本作が各国で公開されたときにはカットされ、短く縮められてしまったのだ(以下、同バージョンを「短縮版」と呼称)。 映画に造詣の深いイラストレーター/監督の和田誠氏は、脚本家・三谷幸喜氏との連載対談「それはまた別の話」(「キネマ旬報」1997年3月01日号)での文中、封切りで『恐怖の報酬』を観たときには既にカットされていたと語り、 「たぶん観客が退屈するだろうという、輸入会社の配慮だと思うんですけど」 と、短縮版が作られた背景を推察している。確かに当時、上映の回転率が悪い長時間の洋画は、国内の映画配給会社の判断によって短くされるケースもあった。事実、本作の国内試写を観た成瀬巳喜男(『浮雲』(55)監督)が、中村登(『古都』(63)監督)や清水千代太(映画評論家)らと鼎談した記事「食いついて離さぬ執拗さ アンリ・ジョルジュ・クルゾオ作品 恐怖の報酬を語る」(「キネマ旬報」1954年89通号)の中で、試写で観た同作の長さは2時間20分であり、この時点でクルーゾ版より8分短かったという事実に触れている。 しかし本作の場合、短縮版が世界レベルで広まった起因は別のところにあったのだ。 1955年、『恐怖の報酬』はアメリカの映画評論家によって、劇中描写がアメリカに対して批判的だと指摘を受けた(同年の米「TIME」誌には「これまでに作られた作品で、最も反米色が濃い」とまで記されている)。そこでアメリカ市場での公開に際し、米映画の検閲機関が反米を匂わすショットやセリフを含むシーンの約17分、計11か所を削除したのである。それらは主に前半部に集中しており、たとえば石油の採掘事故で夫を亡くした未亡人が大勢の住民たちの前で、 「危険な仕事を回され。私たちの身内からいつも犠牲者が出る。死んでも連中(石油資源会社)は、はした金でケリをつける」 と訴えるシーン(本編37分経過時点)や、石油資源会社の支配人オブライエン(ウィリアム・タッブス)が、死亡事故調査のために安全委員会が来るという連絡を受けて、 「連中(安全委員会)を飲み食いさせて、悪いのは犠牲者だと言え。死人に口なしだ」 と部下に命じるシーン(本編39分経過時点)。さらにはニトログリセリンを運ぶ任務を負った一人が、重圧から自殺をはかり「彼はオブライエンの最初の犠牲者だ」とマリオがつぶやく場面(本編45分経過時点)などがクルーゾ版からカットされている。 こうした経緯のもとに生み出された短縮版が、以降『恐怖の報酬』の標準仕様としてアメリカやドイツなどの各国で公開されていったのである。 なので、この短縮版に慣れ親しんだ者が今回のクルーゾ版に触れると「長すぎるのでは?」と捉えてしまう傾向にあるようだ。それはそれで評価の在り方のひとつではあるが、何よりもこれらのカットによって作品のメッセージ性は薄められ、この映画にとっては大きな痛手となった。本作は決してスリルのみを追求したライド型アクションではない。社会の不平等に対する怒りを湛えた、そんな深みのある人間ドラマをクルーゾ監督は目指したのである。 1991年、マニアックな作品選定と凝った仕様のソフト制作で定評のある米ボイジャー社「クライテリオン・コレクション」レーベルが、本作のレーザーディスクをリリースするにあたり、先述のカットされた17分を差し戻す復元をほどこした。そしてようやく同作は、本来のあるべき姿を取り戻すことに成功したのである。この偉業によってクルーゾの意図は明瞭になり、以降、このクルーゾ版が再映、あるいはビデオソフトや放送において広められ、『恐怖の報酬』は正当な評価を取り戻していく。 ■クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版 こうしたクルーゾ版の正当性を主張するさい、カット問題と共に大きく浮かび上がってくるのは、1977年にウィリアム・フリードキン監督が手がけた本作の米リメイク『恐怖の報酬』の存在である。 名作として評価の定まったオリジナルを受けての、リスクの高い挑戦。そして製作費2000万ドルに対して全米配収が900万ドルしか得られなかったことから、一般的には失敗作という烙印を捺されている本作。しかし現在の観点から見直してみると、クルーゾ版を語るうえで重要性を放つことがわかる。 フリードキンは米アカデミー賞作品賞と監督賞を受賞した刑事ドラマ『フレンチ・コネクション』(71)、そして空前の大ヒットを記録したオカルトホラー『エクソシスト』(73)を手がけた後、『恐怖の報酬』の再映画化に着手した。その経緯は自らの半生をつづった伝記“THE FRIEDKIN CONNECTION”の中で語られている。 フリードキンは先の二本の成功を担保に、当時ユニバーサル社長であったルー・ワッサーマンに会い「わたしが撮る初のユニバーサル映画は本作だ」とアピールし、映画化権の取得にあたらせたのだ。 しかし権利はクルーゾではなく、原作者であるアルノー側が管理しており、しかも双方は権利をめぐって確執した状態にあった。だがフリードキン自身は「権利はアルノーにあっても、敬意を払うべきはクルーゾだ」と考え、彼に会って再映画化の支えを得ようとしたのだ。クルーゾは気鋭の若手が自作に新たな魂を吹き込むことを祝福し、『フレンチ・コネクション』『エクソシスト』という二つの傑作をモノした新人にリメイクを委ねたのである。 こうしたクルーゾとフリードキンとの親密性は、作品においても顕著にあらわれている。たとえば映画の構成に関して、フリードキンはマリオに相当する主人公シャッキー(ロイ・シャイダー)が、ニトログリセリンを輸送する任務を請け負わざるを得なくなる、そんな背景を執拗なまでに描写し、クルーゾ版の韻を踏んでいる。状況を打破するには、命と引き換えの仕事しかないーー。そんな男たちの姿をクローズアップにすることで、おのずとクルーゾーの作劇法を肯定しているのだ。 しかしラストに関して、フリードキンの『恐怖の報酬』は、シャッキーが無事にニトログリセリンを受け渡すところでエンドとなっていた。そのため本作は日本公開時、このクルーゾ版とも原作とも異なる結末を「安易なオチ」と受け取られ、不評を招く一因となったのである。 ところがこの結末は、本作の全米興行が惨敗に終わったため、代理店によってフリードキンの承認なく1時間31分にカットされた「インターナショナル版」の特性だったのだ。アメリカで公開された2時間2分の全長版は、クルーゾ版ならびに原作と同様、アレンジした形ではあるがバッドエンドを描いていた。にもかかわらず場面カットの憂き目に遭い、あらぬ誤解を受けてしまったのである。 そう、皮肉なことにクルーゾもフリードキンも、改ざんによって意図を捻じ曲げられてしまうという不幸を、『恐怖の報酬』という同じ作品で味わうこととなってしまったのだ。 さいわいにもクルーゾ版は、こうして自らが意図した形へと修復され、本来あるべき姿と評価をも取り戻している。なので、クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版も、多くの人の目に触れ、正当な評価を採り戻してもらいたい。それを期待しているのは、決して筆者だけではないはずだ。■ ©1951 - TF1 INTERNATIONAL - PATHE RENN PRODUCTIONS - VERA FILM - MARCEAU CONCORDIA - GENERAL PRODUCTIONS
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PROGRAM/放送作品
悪魔のような女(1955)
夫の愛人と妻が共謀した完全犯罪の行方は?予想もしない真実と驚愕のラストに息を呑む傑作サスペンス
『恐怖の報酬』のアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督による犯罪サスペンス。シモーヌ・シニョレと監督の妻ヴェラ・クルーゾーが完全犯罪に挑む女性2人を熱演。台詞と効果音のみで緊張感を高める演出が秀逸。
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COLUMN/コラム2016.12.29
極限の緊張サスペンスに込めたクルーゾ監督の狙いと、それを継受した1977年リメイク版との関係性を紐解く〜
わずかの振動でも爆発をおこす膨大な量のニトログリセリン(高度爆発性液体)を、悪路を眼下にトラックで輸送する--。それを耳にしただけでも、全身の毛が逆立つような身震いをもたらすのが、この『恐怖の報酬』だ。この映画が世に出て、今年で63年。その間、いったいどれほど多くの類似ドラマや引用、パロディが生み出されてきたことだろう。 だが一度は、それらを生み出したオリジンに触れてみるといい。先に挙げた設定をとことんまで活かした、観る者を極度の緊張へと至らしめる演出と仕掛けが、本作にはたっぷりと含まれている。 「この町に入るのは簡単さ。だが出るのは難しい“地獄の場所”だ」 アメリカの石油資源会社の介入によって搾取され、スラムと化した南米のとある貧民街。そこは行き場を失ったあぶれ者たちの、終着駅のごとき様相を呈していた。そんな“地獄の場所”へと流れてきたマリオ(イブ・モンタン)を筆頭とする四人の男たちは、貧困がぬかるみのように足をからめとる、この呪われた町から脱出するために高額報酬の仕事に挑む。その仕事とは、爆風で火を消すためのニトログリセリンを、大火災が猛威をふるう山向こうの石油採掘坑までトラックで運ぶことだった。 舗装されていないデコボコの悪路はもとより、道をふさぐ落石や噴油のたまった沼など、彼らの行く手には数々の難関が待ち受ける。果たしてマリオたちは無事に荷物を受け渡し、成功報酬を得ることができるのかーー? 仏作家ジョルジュ・アルノーによって書かれた原作小説は、南米グァテマラの油田地帯にある石油採掘坑の爆発と、その消火作業の模様を克明に描いた冒頭から始まる。その後は、 「四人が同じ地に集まる」「ニトログリセリンを運ぶ」 と続く[三幕構成]となっているが、監督のアンリ・ジョルジュ・クルーゾはその構成を独自に解体。映画は四人の男たちの生きざまに密着した前半部と、彼らがトラックで地獄の道行へと向かう後半の[二部構成]へと配置換えをしている。そのため、本作が爆薬輸送の物語だという核心に触れるまで、およそ1時間に及ぶ環境描写を展開していくこととなる。 しかし、この構成変更こそが、物語をどこへ向かわせるのか分からぬサスペンス性を強調し、加えて悠然とした前半部のテンポが、どん詰まりの人生に焦りを覚える男たちの感情を、観る者に共有させていくのだ。 そしてなにより、視点を火災に見舞われた石油資源会社ではなく、石油採掘の犠牲となった町やそこに住む人々に置くことで、映画はアメリカ資本主義の搾取構造や、極限状態におけるむき出しの人間性を浮き彫りにしていくのである。 ■失われた17分間の復活 だが不幸なことに、クルーゾによるこの巧みな構成が、フランスでの公開から36年間も損なわれていた時代があったのだ。 今回ザ・シネマで放送される『恐怖の報酬』は、クルーゾ監督の意向に忠実な2時間28分のオリジナルバージョン(以下「クルーゾ版」と呼称)で、前章で触れた要素が欠けることなく含まれている。 しかし本作が各国で公開されたときにはカットされ、短く縮められてしまったのだ(以下、同バージョンを「短縮版」と呼称)。 映画に造詣の深いイラストレーター/監督の和田誠氏は、脚本家・三谷幸喜氏との連載対談「それはまた別の話」(「キネマ旬報」1997年3月01日号)での文中、封切りで『恐怖の報酬』を観たときには既にカットされていたと語り、 「たぶん観客が退屈するだろうという、輸入会社の配慮だと思うんですけど」 と、短縮版が作られた背景を推察している。確かに当時、上映の回転率が悪い長時間の洋画は、国内の映画配給会社の判断によって短くされるケースもあった。事実、本作の国内試写を観た成瀬巳喜男(『浮雲』(55)監督)が、中村登(『古都』(63)監督)や清水千代太(映画評論家)らと鼎談した記事「食いついて離さぬ執拗さ アンリ・ジョルジュ・クルゾオ作品 恐怖の報酬を語る」(「キネマ旬報」1954年89通号)の中で、試写で観た同作の長さは2時間20分であり、この時点でクルーゾ版より8分短かったという事実に触れている。 しかし本作の場合、短縮版が世界レベルで広まった起因は別のところにあったのだ。 1955年、『恐怖の報酬』はアメリカの映画評論家によって、劇中描写がアメリカに対して批判的だと指摘を受けた(同年の米「TIME」誌には「これまでに作られた作品で、最も反米色が濃い」とまで記されている)。そこでアメリカ市場での公開に際し、米映画の検閲機関が反米を匂わすショットやセリフを含むシーンの約17分、計11か所を削除したのである。それらは主に前半部に集中しており、たとえば石油の採掘事故で夫を亡くした未亡人が大勢の住民たちの前で、 「危険な仕事を回され。私たちの身内からいつも犠牲者が出る。死んでも連中(石油資源会社)は、はした金でケリをつける」 と訴えるシーン(本編37分経過時点)や、石油資源会社の支配人オブライエン(ウィリアム・タッブス)が、死亡事故調査のために安全委員会が来るという連絡を受けて、 「連中(安全委員会)を飲み食いさせて、悪いのは犠牲者だと言え。死人に口なしだ」 と部下に命じるシーン(本編39分経過時点)。さらにはニトログリセリンを運ぶ任務を負った一人が、重圧から自殺をはかり「彼はオブライエンの最初の犠牲者だ」とマリオがつぶやく場面(本編45分経過時点)などがクルーゾ版からカットされている。 こうした経緯のもとに生み出された短縮版が、以降『恐怖の報酬』の標準仕様としてアメリカやドイツなどの各国で公開されていったのである。 なので、この短縮版に慣れ親しんだ者が今回のクルーゾ版に触れると「長すぎるのでは?」と捉えてしまう傾向にあるようだ。それはそれで評価の在り方のひとつではあるが、何よりもこれらのカットによって作品のメッセージ性は薄められ、この映画にとっては大きな痛手となった。本作は決してスリルのみを追求したライド型アクションではない。社会の不平等に対する怒りを湛えた、そんな深みのある人間ドラマをクルーゾ監督は目指したのである。 1991年、マニアックな作品選定と凝った仕様のソフト制作で定評のある米ボイジャー社「クライテリオン・コレクション」レーベルが、本作のレーザーディスクをリリースするにあたり、先述のカットされた17分を差し戻す復元をほどこした。そしてようやく同作は、本来のあるべき姿を取り戻すことに成功したのである。この偉業によってクルーゾの意図は明瞭になり、以降、このクルーゾ版が再映、あるいはビデオソフトや放送において広められ、『恐怖の報酬』は正当な評価を取り戻していく。 ■クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版 こうしたクルーゾ版の正当性を主張するさい、カット問題と共に大きく浮かび上がってくるのは、1977年にウィリアム・フリードキン監督が手がけた本作の米リメイク『恐怖の報酬』の存在である。 名作として評価の定まったオリジナルを受けての、リスクの高い挑戦。そして製作費2000万ドルに対して全米配収が900万ドルしか得られなかったことから、一般的には失敗作という烙印を捺されている本作。しかし現在の観点から見直してみると、クルーゾ版を語るうえで重要性を放つことがわかる。 フリードキンは米アカデミー賞作品賞と監督賞を受賞した刑事ドラマ『フレンチ・コネクション』(71)、そして空前の大ヒットを記録したオカルトホラー『エクソシスト』(73)を手がけた後、『恐怖の報酬』の再映画化に着手した。その経緯は自らの半生をつづった伝記“THE FRIEDKIN CONNECTION”の中で語られている。 フリードキンは先の二本の成功を担保に、当時ユニバーサル社長であったルー・ワッサーマンに会い「わたしが撮る初のユニバーサル映画は本作だ」とアピールし、映画化権の取得にあたらせたのだ。 しかし権利はクルーゾではなく、原作者であるアルノー側が管理しており、しかも双方は権利をめぐって確執した状態にあった。だがフリードキン自身は「権利はアルノーにあっても、敬意を払うべきはクルーゾだ」と考え、彼に会って再映画化の支えを得ようとしたのだ。クルーゾは気鋭の若手が自作に新たな魂を吹き込むことを祝福し、『フレンチ・コネクション』『エクソシスト』という二つの傑作をモノした新人にリメイクを委ねたのである。 こうしたクルーゾとフリードキンとの親密性は、作品においても顕著にあらわれている。たとえば映画の構成に関して、フリードキンはマリオに相当する主人公シャッキー(ロイ・シャイダー)が、ニトログリセリンを輸送する任務を請け負わざるを得なくなる、そんな背景を執拗なまでに描写し、クルーゾ版の韻を踏んでいる。状況を打破するには、命と引き換えの仕事しかないーー。そんな男たちの姿をクローズアップにすることで、おのずとクルーゾーの作劇法を肯定しているのだ。 しかしラストに関して、フリードキンの『恐怖の報酬』は、シャッキーが無事にニトログリセリンを受け渡すところでエンドとなっていた。そのため本作は日本公開時、このクルーゾ版とも原作とも異なる結末を「安易なオチ」と受け取られ、不評を招く一因となったのである。 ところがこの結末は、本作の全米興行が惨敗に終わったため、代理店によってフリードキンの承認なく1時間31分にカットされた「インターナショナル版」の特性だったのだ。アメリカで公開された2時間2分の全長版は、クルーゾ版ならびに原作と同様、アレンジした形ではあるがバッドエンドを描いていた。にもかかわらず場面カットの憂き目に遭い、あらぬ誤解を受けてしまったのである。 そう、皮肉なことにクルーゾもフリードキンも、改ざんによって意図を捻じ曲げられてしまうという不幸を、『恐怖の報酬』という同じ作品で味わうこととなってしまったのだ。 さいわいにもクルーゾ版は、こうして自らが意図した形へと修復され、本来あるべき姿と評価をも取り戻している。なので、クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版も、多くの人の目に触れ、正当な評価を採り戻してもらいたい。それを期待しているのは、決して筆者だけではないはずだ。■
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PROGRAM/放送作品
囚われの女(1968)【町山智浩撰】
町山智浩推薦。新しい価値観が世界を変えた68年、還暦を超えた巨匠が遺したお説教とは!? 町山解説必聴!
町山智浩セレクトのレア映画を町山解説付きでお届け。『恐怖の報酬』や『悪魔のような女』で知られるクルーゾー監督。カウンターカルチャーが流行りモダンアートが持て囃された68年に遺作で残したメッセージとは?
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COLUMN/コラム2016.12.24
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年1月】うず潮
本作は1953年制作のモノクロ・フランス映画。500キロ離れた油田に火災が発生、消化材として大量のニトログリセリンが必要に。運び手に選ばれたのは、希望のない日々を送る男たち。一獲千金のため、彼らは命を賭けてトラックでニトロを運ぶという超絶シンプルなストーリー。しかし、そのトラック輸送の過程を、世界三大映画祭を制覇したアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督が緻密に練り込んだ演出で見せまくります。 曲がりくねった林道、舗装されていない砂利道、重油の沼に山道…ちょっとした振動でさえ恐怖を感じ、徐々に高まる緊張感で手に汗を握りっぱなし!主演のイヴ・モンタンがインテリ風のヤサ男から、命を張る男へと心情が変化していく様を見事に演じ、その脇を固める俳優陣も味のある演技で答えています。 モノクロ関係なく、一度見たらもう夢中!ハラハラドキドキな気分を存分に味わえる1本ですので、是非ご覧ください!ちなみに1977年にロイ・シャイダー主演で、ハリウッドでリメイクも。興味のある方はこちらもチェックしてみてください! ©1951 - TF1 INTERNATIONAL - PATHE RENN PRODUCTIONS - VERA FILM - MARCEAU CONCORDIA - GENERAL PRODUCTIONS