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PROGRAM/放送作品
スケアリーストーリーズ 怖い本
米国の子供たちを恐怖に陥れた怪談本が映像に!ギレルモ・デル・トロ製作で描くホラーサスペンス
米国各地の怖い話を集めた児童書をギレルモ・デル・トロ製作・原案で映画化。原作の各エピソードを巧みにつなげ、また本の中の恐ろしい挿絵も忠実に再現し、子供も大人も震えるダークファンタジーに仕上がっている。
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COLUMN/コラム2019.05.13
マシスン原作の核に迫る映像化、そして幻となったシュワルツェネッガー版とは? ——『アイ・アム・レジェンド』——
■前映画化作品に勝る、地上に一人残された主人公の“孤独感” 2007年に公開された『アイ・アム・レジェンド』は、リチャード・マシスンによる終末パニックホラー小説「吸血鬼」(54)の3度目となる長編劇映画化だ。前回の映画化作品『地球最後の男/オメガマン』(71)のリメイクとして、ワーナーはこの企画を世紀をまたぎ息づかせてきた。 しかし本作はマシスンの小説に立ち返ることで、単なるリメイクではなく、原作と『オメガマン』両方の性質を持つ内容となっている。ウィル・スミス演じる主人公ネビルは『オメガマン』と同じく科学者に設定されており(原作のネビルは工場労働者)、ただ事態に翻弄されるのではない、原因究明の使命を帯びたキャラクターを受け継いでいる。また過去回想のインサートによって、ネビルの背景と感染パニックの起点が明らかになる構成は原作に準拠したものだ。 いっぽう『オメガマン』からの変更点は時代設定のほか、人類がウイルス感染し、吸血鬼症を引き起こす原因が同作とは異なっている。前者は製作年度よりもやや先の2012年が舞台となり(『オメガマン』の時代設定は1977年)、そして後者は癌の治療薬として有効視されていた新型ウイルスが、抑制不能の伝染性ウイルスに変化したため引き起こされたものと改められた(『オメガマン』では中ソ戦争での生物兵器使用が原因)。 それにともない感染者の容姿や症状にも、著しい変化がもたらされている。『オメガマン』では感染者は肌の色素を失い、視力の退化した新種のミュータントと化し、自分たちの生存権を主張していた。しかし『アイ・アム・レジェンド』の感染者は「ダーク・シーカー」と呼ばれ、本能的に人を襲う凶暴な夜行性肉食生物として描かれている。その変化は「コミュニケーションのとれない外敵」という性質をおのずと強いものにし、9.11同時多発テロ以降のハリウッド映画らしい、姿なきテロリズムを暗喩したものになっている。 そして過去の映画化作にはない『アイ・アム・レジェンド』固有の特徴として、主人公ネビルの「孤独」を強調する演出が挙げられる。怪物化した感染症者との戦いもさることながら、地上から自分以外の人間が消え、ネビルは自律によって理性を保ち、近代文明から切り離された極限状態での生存を余儀なくされていく。マシスンの原作は、こうした孤独との葛藤を緻密に綴ることで、シチェーションそのものが持つ恐怖をとことんまで追求し、そして後半部の驚くべき展開への布石として機能させている。こうした原作に対する細心の配慮が、原作の根強い支持者だけでなく『オメガマン』に批判的だったマシスンの信頼をも取り戻していくのである。 ■徹底した封鎖措置と、デジタルの駆使によるニューヨークの廃墟化 そんなネビルの孤独を引き立たせるため、本作は無人となって廃墟化した市街地のシーンに創造の力点が置かれている。『オメガマン』では、この都市が無人化するインパクトのある場面を、舞台となるロサンゼルスで撮影。歩行者の少ない休日のビジネス街を中心にゲリラ撮影をおこない、効果的なショットの数々を生み出した。『アイ・アム・レジェンド』もこのアプローチにならい、作品の舞台であるニューヨーク市で実際にロケ撮影が行なわれている。ただ異なるのはその規模と方法で、こちらは南北は五番街を挟んだマディソン街と六番街の間、そして東西は49丁目から57丁目の間で歩行者と車の交通を完全に遮断し、人が一人として存在しない同シチェーションを見事に視覚化したのだ。ネビルを演じたウィル・スミスは、当時の撮影状況を以下のように振り返っている。「一生かけても無人のニューヨークなんて目にすることは絶対にないからね。あれはパワフルな光景だった。五番街の一角を無人にしたとき、僕たちは前例のないことをやっているんだということを痛感したよ」(*1) このようにして得た廃墟のショットを、本作はさらにデジタルで修正し加工することで、映画は無人となった都市の景観が、経年によってどのように変貌していくのかをシミュレートしたものにもなっている。本作のプロデュースと脚本を兼任したアキヴァ・ゴールズマンは、なによりそのモチベーションが『オメガマン』にあったのだと、同作への対抗意識をあらわにしている。「ロサンゼルスと違って、ニューヨークは24時間ひっきりなしに人が動いている。そんな場所で無人のゴーストタウンを作り出すなんて、それだけで挑戦的な価値があるといえるね」(*2) リメイクの話が幾度となく出ては消える、そんなサイクルが常態化していた『アイ・アム・レジェンド』の映画化は、まさに作り手の企画に対する情熱的な思いと、映画技術の熟成こそが突破口を開けたのだ。 ■リドリー・スコット×シュワルツェネッガー版『アイ・アム・レジェンド』の幻影 そもそも『アイ・アム・レジェンド』は、本来ならば1990年代の中頃には完成が予定されていたものだ。当時アクション映画のトップスターだったアーノルド・シュワルツェネッガーが主演し、『エイリアン』(79)『テルマ&ルイーズ』(91)の巨匠リドリー・スコットが監督する形でプロジェクトが進んでいたのである。 リドリーはこの『アイ・アム・レジェンド』を『G.I.ジェーン』(97)の直後に手がけるつもりで、ワーナーとシュワルツェネッガー側からマーク・プロトセヴィッチ(『ザ・セル』(00))による脚本と、ジョン・ローガン(『ラストサムライ』(03)『007 スカイフォール』(12))による改訂稿を受け取っていた。リドリーは監督のオファーを承諾。その理由は意外なことに「アーノルドと一度仕事をしてみたかった」からだったという。 リドリーはローガンの改訂稿をもとにプロジェクトに着手。同稿はストーリーの流れがプロトセヴィッチの脚本(実際に映画化されたものはアキヴァ・ゴールズマンがこれを改訂)にほぼ近いが、ネビルの職業は科学者ではなく建築家で、また物語の後半、ネビルと、そして“カシーク”と名付けられた感染症者のリーダーとの壮絶な戦いが中心になっている。これは奇しくもリドリーの代表作『ブレードランナー』(82)における、デッカードとレプリカント・ロイとの異種同士の戦いを彷彿とさせ、図らずも同作を反復する刺激的な内容になっている。それでなくとも『アイ・アム・レジェンド』はリドリーの『ブレードランナー』以来のSF映画として、ファンの期待も相当に大きかったのだ。 しかし、予算計上が1億ドルを超えたあたりでワーナーは企画の進行に難色を示し、プロジェクトは暗礁に乗り上げた。シュワルツェネッガーの高額のギャラに加え、ロサンゼルス(企画時点での舞台設定)を封鎖して撮影をするという計画は、費用対効果の面で懸念の対象となったのだ。加えて当時はデジタル技術も過渡期にあり、物理的に廃墟を作り出すことを中心にする以外にない。同様の理由で吸血鬼症の感染者の表現も課題として、シュワルツェネッガー版の障害として立ちはだかった。リドリーの演出プランでは感染者は常時、皮膚を紫外線から隠すためにベドウィン(アラブの遊牧民族)のような外装をしていたが、実際に映画化されたクリーチャーに近いプロダクションデザインがなされ、その映像化にも多くの予算が費やされるであろうことが予測されたのだ。 とはいえ、このシュワルツェネッガー版、かなり長期にわたりプリプロダクション(撮影前の準備)がおこなわれていたようで、筆者(尾崎)が2000年代のリドリー・スコット作品の編集にたずさわった横山智佐子さんに取材したさい、編集室にひょっこりシュワルツェネッガーが顔を出すことがあったと語っていた。そのさいシュワは守秘義務などどこ吹く風で「今度リドリーと『アイ・アム・レジェンド』をやるんだよ、ガハハハハ!」と自慢げに話していたというから、本人もさぞや乗り気だったのだろう。ちなみに改訂稿にはネビルが葉巻を好むなど、実際のシュワルツェネッガーを想定して執筆したような痕跡が見られる。それだけシュワ自身としても肝煎りの企画だっただけに、個人的心情としては彼のバージョンも観てみたかった気がする。 ■シュワルツェネッガー版に異を唱えたギレルモ・デル・トロ ところが、もう一人『アイ・アム・レジェンド』の監督に名乗りをあげた人物は、こうしたシュワルツェネッガーのキャスティングに異を唱えている。人間と半魚人との恋を描いた『シェイプ・オブ・ウォーター』(17)で、後にアカデミー賞を手中にするギレルモ・デル・トロだ。 ギレルモは当時、長編デビュー作『クロノス』(93)を完成させ、ジェームズ・キャメロン(『タイタニック』(97)『アバター』(09)監督)の米国での支援を受けながら、メジャーデビューへの糸口を探っていた。そして同作のために収集した吸血鬼の研究素材を『アイ・アム・レジェンド』に活かし、同作を企画中のワーナーに自ら監督の売り込みをかけたのだ。しかし既にシュワルツェネッガー主演で企画が検討されていることを知ったギレルモは、そのキャスティング案に違和感を覚え、マシスンの原作の精神に反するとワーナーの担当者に説いたという。彼は言う。「マシスンの原作は、普通の男が感染者たちから伝説として恐れられるところに意味を持たせている。シュワルツェネッガーの超人的なイメージは、それに合致するものとは思えないよ」(*3) これらのリジェクト(却下された)企画に対し、実際に完成した『アイ・アム・レジェンド』以上に解説を費やした気もするが、その存在の正当性を示すには、背後に消えたものが何よりも強く声を放つことがある。とはいえジョン・ローガンの改訂稿にあった鹿の群れと遭遇する場面や、ネビルが罠に足をとられてしまう展開などは完成版でも引き継がれているし、リドリー・スコットはローガンと共に、SFに向けていた創作の熱意を古代ローマへと舵修正し、英雄史劇『グラディエーター』(00)という一大成果を生んだ。そしてギレルモ・デル・トロは、温めていた『アイ・アム・レジェンド』のアイディアを『ブレイド2』(02)に活かし、型破りで新しいヴァンパイアヒーローのさらなる洗練に成功している。そしてギレルモの危惧したネビル像は、アクションスターではあるが自然な演技感覚を持つウィル・スミスにより、理想的な形で具体化されたといっていい。 当人たちにはたまったものではないだろうが、こうしてリジェクト企画を振り返るのも、作品を知るうえで決して後ろ向きな行為ではないのだ。■
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PROGRAM/放送作品
ダーク・フェアリー
邪悪な妖精たちが闇にうごめく…ダーク・ファンタジーの鬼才ギレルモ・デル・トロ製作の戦慄ホラー
『パンズ・ラビリンス』のギレルモ・デル・トロが、英国TV映画「地下室の魔物」をリメイク権獲得から16年後にプロデュース。ファンタジー要素に独自の不気味なアレンジを施す。
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』⑥(完) 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
ミア・ワシコウスカとジェシカ・チャステイン、そしてトム・ヒドルストンのこと ミア・ワシコウスカは映画『イノセント・ガーデン』(2013年)にも娘役で主演している。母親役はニコール・キッドマン。一族の呪われた秘密、恐ろしい狂人、おぞましい近親相姦(の一歩手前)が盛り込まれたスリラーだ。この母娘を描く上で、パク・チャヌク監督は「おとぎ話の女王と王女として、ゴシック調の城に閉じ込められているイメージを抱いていた」と明言している。そしてニコール・キッドマンは『アザーズ』(2001年)というアレハンドロ・アメナーバル監督のゴシック風心霊ホラーにも主演していて、そちらで描かれるのはお屋敷に閉じ込められたニコール・キッドマンと、夜ごとの心霊現象、一族の呪われた(アッと驚く)秘密なのだ。 ここではニコール・キッドマンのことはいい。ミア・ワシコウスカである。『ジェーン・エア』に、『イノセント・ガーデン』に、そして『クリムゾン・ピーク』に主演した彼女こそが、当代においてはゴシック/ゴスを体現する女優なのだ。ひと昔前ならヘレナ・ボナム=カーターかウィノナ・ライダーが担っていたポジションである。ミアの、青白いとさえ言える肌の白さ。破顔一笑とは決していかない抑えた感情表現。ハの字眉はいつも困ったように眉根が寄せられている。薄幸そうで儚なげなそのM的ルックスは、まさにゴスのために用意された道具立てとしか思えない。よって当然、デル・トロと並ぶゴス偏愛監督の双璧ティム・バートンもまた、彼女のことを起用せずにはいられない。『アリス・イン・ワンダーランド』(2010年)である(そういえばティム・バートンもまた、フランケンシュタインに魅入られたゴス教祖だ。『シザーハンズ』や『フランケンウィニー』を見れば明らかな通り)。 しかし、演技者たるもの、同じような役ばかり何度も演じていたのではチャレンジにならない、という考え方もあっていい。それを公言する、あまつさえこの『クリムゾン・ピーク』のプロモーション活動中に誰憚ることなく言い放つ、という、関係者が凍りつくようなマウンティングに出たのが、誰あろうジェシカ・チャステインである。恐い女である。つまり、最高だ! 実は当初、ヒロインのイーディス・カッシング役は彼女がオファーされていたのだ。「でも、イーディスと似たようなキャラクターは以前演じたことがあると感じたの。そして、一度も演じたことがないキャラクターを見つけた。演じる上で最大のチャレンジとなる役。そう、ルシールよ」と、公式書籍『ギレルモ・デル・トロ クリムゾン・ピーク アート・オブ・ダークネス』(DU BOOKS出版刊)の中で、彼女はこの、“誰かさん”への当てこすりとも取れる豪語をしている(ゲスの勘ぐりだろうか?)。この発言、ジェシカのクールでS的な美貌とも相まって、一部の男性ファンにはある意味で堪らないものがあるだろう。最高だ!が、さらに、彼女が演じることになったルシール役のイメージとも見事に重なるのである。すなわちサディストの「怪人めいた(女)主人」という、つまりはゴシックロマンスにおいて一番美味しい役どころだ。結果的に本人もいたく満足し、役に入れ込んだ旨の発言を同書の中でしている。 ミアのM的な魅力と、ジェシカのS的な魅力。この2つを本作でデル・トロ監督は具体的に、蝶と蛾の対比的イメージに託している。2人(が演じたキャラクター)は、美しい蝶と、それを捕食する肉食の蛾だ、と監督は語っている(“肉食の蛾”なるものを寡聞にして知らないが)。そして蝶と蛾のモチーフは時に歴然と、時に隠れキャラのようにして、本作の映像の中に頻繁に描きこまれているのである。 なお、ジェシカ・チャステインが「イーディスと似たような役を以前演じたことがある」と言っているのは、おそらくは、日本未公開・未ソフト化の彼女の映画デビュー作『JOLENE』(2008年)のことをさしているのではないかと睨んでいるのだが、はたしてどうか?我が国では見る手段が現状ない幻の映画なので、以下、再々の脱線にはなるが、オチまで含め『JOLENE』について余談ながら詳しく書き残しておこう。 不幸な生い立ちの孤児ジョリーン。愛に飢えていて、メガネのヒョロヒョロへなちょこダサ男君と16歳女子高生の身空で学生結婚。ダサ男君の叔父夫婦の家に居候するが、ダンディーちょいワル叔父と2人きりの時に関係を迫られ、愛され願望の強い彼女は喜んでそれに応じてしまい、以降、叔母と旦那の目を盗んで暇さえあれば義理の叔父とヤリまくる。しかし、事の最中に叔母に踏み込まれて修羅場に。旦那のダサ男君は衝動的に自殺。叔父は相手が16歳ということで和姦であっても未成年者強姦罪で逮捕され実刑となり、一家離散に。これを皮切りにその後も、他者依存体質の彼女が、援交ヒッチハイクをしながら“アメリカ流れ者”となってどこかの土地に流れ着き、誰かとくっついてはさんざん翻弄され関係破綻し、また次の愛を求めて全米をさまよう、というパターンが繰り返されていく。精神科少年院(『17歳のカルテ』的な)のレズ看守長、ロマンチストで優しくて妻ジョリーン以外の女にも全部そう接するチャラ男のタトゥー屋ヤク売人、抗争まっただ中のベガスの組長、バイブルベルトの原理主義トゥルーリッチマンなど。彼女はわらしべ長者的に、前の相手との短い結婚生活で学んだ経験をもとに毎回少しずつ成長し、最後にはグラフィック・ノベル画家として自活を実現。25歳の自立した大人の一女性としてLAの目抜き通りをスクリーンの奥へと去っていき、そこで映画の幕は閉じる。 ジョリーンは、男どもに依存し庇護されないと1人では何もできない無力な少女だったが、やがて自ら考え状況を切り拓く思考力と勇気を獲得していく。彼女には唯一、絵を描く才能だけはあり、最初はただの手すさびだったものが、最後には筆一本で食っていくところまでいって、この、少女の成長と自立の物語は終わる。『クリムゾン・ピーク』ヒロインのイーディス・カッシングと確かに被るのだ。イーディスもまた、成金の父や英国貴族の夫などに庇護される、自分では何一つできない世慣れぬ若妻のアマチュア小説家であり、しかし次第に、事態を自己解決できるたくましさを身につけ、やがては自立した女として、おそらくはペンで身を立てていくことになるのだろう。 ジェシカ・チャステインは、16歳の女子高生から25歳社会人までのジョリーンを演じきるのだが、これがスクリーンデビューとは思えぬその演技の幅に驚かされる(実年齢は当時30歳)。特に冒頭からしばらく続く16歳時のエピソードでは、アラサー女優が高1を演じるという年齢的な無理、しかも決して童顔ではない彼女がそれを演じるという苦しさをいささかも感じさせない(無論25歳の方は25歳にちゃんと見える)。この16歳パート、おそらく、芸名「マリリン・モンロー」になる前の十代の頃のモンロー、つまりノーマ・ジーンを参考に役作りしたのではと睨んでいるのだが、この見立て、はたして当たっているだろうか?赤い巻き毛に赤いリボン、真っ赤な口紅。頭が弱く、性にだらしがない。俗に言う“サセ子”のイメージだ。ノーマ・ジーン=後のモンローもまた、不幸な生い立ちの孤児であり、そのため愛に飢え、生涯に3度結婚。相手は無名の整備工(16歳で!)から国民的大リーグ選手、高名な劇作家まで。さらには司法長官や合衆国大統領とも不倫関係だったことは周知の通りである。ジョリーンはモンローとも大いに重なるのだ。30歳のジェシカ・チャステインはピンナップやエロ写真の中の幼いノーマ・ジーンそっくりに外見を仕立てることでこの役を作っていったのではないだろうか。 また、16歳女子高生おさな妻と義理の叔父が同じ屋根の下で繰り広げる愛欲の日々、というのは完全にロリータ映画の展開だが、そのタブー感を強調するためにか、映画『JOLENE』ではかのバルテュスの絵画が何度か引用される。これは絵の才能だけは持って生まれたヒロインの人物造形ともリンクしてくる。まず、タイトルバックで「本作の主人公はこの絵に描かれている少女です」とでも宣言せんばかりに全画面にバーン!と映し出される絵画からして、バルテュスの作品なのだ。具体的には「横たわるオダリスク(Odalisque allongée)」という一幅。19世紀に流行った伝統的かつ官能的な画題を、バルテュス流の筆致で、気だるく背徳的に描いた画家晩年の佳作だ。その絵姿はジョリーンに瓜二つ。さらに、ジョリーン自身が自らを描いた自画像までもが、どこかバルテュス風なのである。十代前半の少女たちがモデルを務めたバルテュスの絵画。本人たちに判断力は備わっていないが、画家の求めに応じエロチックなポーズをとらされ、倒錯的な絵に描かれた。そのことと、愛が欲しいあまり、言われるがまま男の要求に応じ続けた十代のジョリーンの姿も、どこか重ならないだろうか? …余談が長くなりすぎた。いい加減『クリムゾン・ピーク』に戻らねばならない。最後にもう一人、トム・ヒドルストンにも言及しないわけにはいかないのだから。 ヒドルストンは、名目上は屋敷の当主でありながら、実質的な主である恐るべき姉にコントロールされ、それでも善の心をまだ完全には失いきっておらず、人間性を取り戻そう、呪われた一族から脱け出そうとあらがう貴族(正確には世界史の教科書に出てくる「郷紳」、ジェントリ階級)トーマス・シャープ準男爵役を演じる。トム・ヒドルストン自身もジェントリの血を引き、イートン校→ケンブリッジ大へと進んだ本物のジェントルマンで、この学歴は奇しくもゴシックロマンスの元祖である18世紀の貴族作家ウォルポールと同じだ。別の映画でロキを演じる時にも見せてくれる彼のあの貴公子っぷりは、実はほとんど素なのではないだろうか。プロモーション時のインタビューではゴシックロマンスに関する見識も言葉の端々に覗かせている。インテリであることが隠しきれないほどに教養あふれる演技者なのである。 本作は登場人物が多くはなく、中心となるのは以上の3人だが、3人を演じる俳優三者が三様に本来的に備えている資質を最大限に引き出し、魅力的で実在感あるキャラクターを創造しえたことは、本作の大きな成功点だ。すべからく映画とはそうあるべきだが、多くの凡作では実現できていない。最悪ミスキャストという駄作も多い。そして、彼らがまとう惚れ惚れする衣装、ゴシック館をセットで丸々一軒建ててしまう大がかりな美術、それらを通貫する徹底的に設計された色彩美は、これぞまさしく映画だ。その上、過去の偉大なる文学的遺産ともリンケージする豊かな間テクスト性については、ここまで縷々書き連ねてきたとおりである。本来であればさらにここで、文学だけでなく19世紀の画壇、ロマン主義絵画や「挿絵の黄金時代」の画家たちによるイラストレーションと本作との視覚的リンクについても言及せねば片手落ちになるのだが、さすがに紙幅も尽きてきた。そろそろまとめに入らねばならない。 デル・トロ監督の、溢れる奇想のイマジネーションと、汲めども尽きぬ文学・芸術分野の教養、その2つが緻密な計算に基づき込められ、150年も前に流行し、やがて廃れた文芸ジャンルを美しくも恐ろしく現代の映画として蘇らせた本作。かくも豊かな映画、これぞ映画、これこそが映画、文字通りの「ザ・シネマ」を撮れてしまうクリエイターは、当然、アカデミー監督賞にこの上もなく相応しいし、彼のクリエイトした映画芸術がアカデミー作品賞を獲るのもまた、早晩必至だったのだ。 2018年の今年、「プラチナ・シネマ」最終回を飾るのに相応しい映画、もとい、身に余るほどの傑作、それが『クリムゾン・ピーク』である。■ © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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PROGRAM/放送作品
パシフィック・リム
巨大ロボットと怪獣の決戦がハリウッドで実現!ギレルモ・デル・トロの特撮愛が燃えるSFアクション
日本の特撮やアニメから影響を受けたギレルモ・デル・トロ監督が、日本テイストの怪獣映画をハリウッド・クオリティの映像技術で描く。パイロット役の菊地凜子やその幼少期役の芦田愛菜ら日本人俳優も存在感を発揮。
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』⑤ 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
イーディス・ウォートンとブロンテ姉妹 イーディス・ウォートンは『エイジ・オブ・イノセンス』(1921年)で知られるが、実は短編怪奇小説の名手でもあり、「祈りの公爵夫人」(1900年)や「小間使いを呼ぶベル」(1902年)などの初期短編は典型的なゴシックロマンスである。そして、本作の作家志望のヒロイン、イーディス・カッシングと、その実在の小説家イーディス・ウォートンは、ほとんど同世代の同じ米国女性のはずだ。イーディス・ウォートンは1899年に小説家デビューし上記の初期短編を物した。一方、本作『クリムゾン・ピーク』は1901年という時代設定で、我らがヒロインのイーディス・カッシングは冒頭、怪奇小説の原稿を出版社に持ち込んでボツにされ、後に映画を通して描かれていくその年の冬の恐怖体験を『クリムゾン・ピーク』という長編小説に仕立てて上梓する、という設定なのだから(劇中劇と解釈する余地も大いにあるが…)、両者は完全に被っているのである。 ヒロインのイーディス・カッシングは、デビュー作を「女なんだから恋愛小説を書くべきだ」との理由で男性編集者にボツにされた後、タイプライターで原稿を打ち直す。手書きだと女の筆跡というだけで偏見にさらされ、まともに作品を評価してもらえないと感じたからだ。実在のイーディス・ウォートンもフェミニズムの先駆的な作家だと位置付けられているのだが、実際問題その時点からさかのぼること約1世紀前の作家ではあるものの、例のジェーン・オースティンもメアリー・シェリーも、前者はby a ladyとして匿名で、後者は女であることさえ伏せて、作品を発表していたのである。さらにはかのブロンテ姉妹ですら、1901年のほぼ半世紀前という時代になってもまだ、男性名のペンネームで男として執筆した。姉の『ジェーン・エア』(1847年)も妹の『嵐が丘』(同年)もそうだ。 そして、『ジェーン・エア』も『嵐が丘』も、実はゴシックロマンスをベースにしたノベルなのである。ジェーン・オースティンがゴシックロマンスをパロディとしてイジり倒して純文学に到達したのに対し、ブロンテ姉妹は決してパロディにはしなかった。姉はジェーン・オースティンの作風を「彼女が描いた紳士淑女たちと一緒に、あのエレガントな屋敷に引きこもって暮らしたい、なんて私には全然思えない」、「激情というものを彼女はからっきし理解してない」と、何度も酷評している。姉妹は、ゴシックロマンスのフォーマットである「貴族のお屋敷に閉じ込められた純真無垢なお嬢様が、夜ごとの心霊現象、秘密の地下室と屋根裏部屋、怪人めいた当主、恐ろしい狂人、忌まわしい婚礼、一族の呪われた秘密、おぞましい近親相姦といった、建物に染み付いた深い闇に怯える」という“お約束”を踏襲しつつも、同時に“人間を深く描き”、通俗的読み物としての怪奇小説には着地させずに、不滅の文学的価値をも獲得したのである。 ところで、ミア・ワシコウスカは、2011年にイギリス・アメリカ合作の文芸映画『ジェーン・エア』にて、ジェーン・エア役も演じたことがある。不遇な孤児ジェーン・エアが成長し家庭教師として住み込むことになったお屋敷には狷介な貴族の当主(怪人めいた主人)がいて、やがてそんな彼に見そめられ結婚しかけるが(忌まわしい婚礼)、次第に心霊(っぽい)現象、秘密の屋根裏部屋、恐ろしい狂人、一族の呪われた秘密(同時にもう一つの忌まわしい婚礼でもある)が明かされていき、その一方でジェーン・エアは従兄からのしつこい求愛も受けるのだ。(続く) <次ページ『クリムゾン・ピーク』(完)~ミア・ワシコウスカとジェシカ・チャステイン、そしてトム・ヒドルストンのこと~> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存
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PROGRAM/放送作品
(吹)パシフィック・リム
巨大ロボットと怪獣の決戦がハリウッドで実現!ギレルモ・デル・トロの特撮愛が燃えるSFアクション
日本の特撮やアニメから影響を受けたギレルモ・デル・トロ監督が、日本テイストの怪獣映画をハリウッド・クオリティの映像技術で描く。パイロット役の菊地凜子やその幼少期役の芦田愛菜ら日本人俳優も存在感を発揮。
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』④ 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
メアリー・シェリー作『フランケンシュタイン』(1818年) 弱冠20歳にも満たないメアリー・シェリーが書いた『フランケンシュタイン』は、ゴシックロマンスの原点『オトラント城奇譚』同様、作者がある晩に見た「マッドサイエンティストがおぞましい人造人間を作ってしまって後悔し、後悔しながらもまどろんでハッと目が醒めると、その怪物がベッド脇でこっちを見下ろし立っていた!」という悪夢がインスピレーションとなってシュールレアリスティックに執筆された物語だ。しかし重要なのは、この作品がゴシックロマンスの到達点にして最高傑作と評されている、もしくは、ゴシックロマンス50年の成果の上により普遍的なテーマを打ち立て、ゴシックロマンスの枠を超えた不朽の名作へと深化したと評されている、という点だ。『クリムゾン・ピーク』のヒロインがジェーン・オースティンよりもメアリー・シェリー(どちらもヒロインと同じ二十歳前後で傑作小説を物した)の方が好きだと言い切るのは、それが理由だろう。下らない、子供じみた、人間が全然描けてない、低俗な娯楽だとレッテルを貼られてきたジャンルを極限まで磨き上げ、永久に色褪せぬ芸術の域にまで昇華させたような作品を、私は作りたいんだ!という決意表明である。 そんな決意を本当に達成してしまった実在の偉大なクリエイターが、メアリー・シェリー以外に少なくとももう1人いる。その人物は、少女が迷い込む妖精地底王国だの、デーモン族vs悪魔の力身につけた正義のヒーロー(赤)だの、汎用人型決戦兵器vsカイジューの特撮バトルだの等々、荒唐無稽なファンタジーやSFのジャンルムービーばかりを撮ってきた、いい歳したヲタクの映画監督であり、いわゆる“人間が描けている”、“上質なヒューマンドラマ”的な作品が評価されがちなアカデミー賞において、ついに監督賞と作品賞を勝ちとった男である。それも、半魚人映画で! なお、メアリー・シェリーについては、エル・ファニング主演の伝記映画の公開が2018年内に控えている。ここでは詳述しないが、ロリ略奪婚など波乱万丈のドラマチックな人生を駆け抜けた女性で、本作ヒロインが憧れ、目標とする女流作家がどのような人物だったのかを知るために、『クリムゾン・ピーク』を見た人ならあわせて必見の映画となりそうだ。期待しよう。 それはさておき、小説『フランケンシュタイン』は、科学が好奇心の赴くままに弄んだ生命(ひいてはテクノロジー)が暴走し、コントロール不能に陥る恐怖、という、優れて今日的な主題で、SFジャンルの“種の起源”として評価されることが多いが、もう一つのテーマである、異形者の救いなき疎外感、「望んでこの状態で生まれてきた訳ではないのに、そのせいで自分は孤独だ。誰かの愛が欲しい」という、怪物が抱く絶望的孤独の方が、永遠のヲタク少年デル・トロにとっては重要だろう。そちらの方こそ、彼が自作の中で繰り返し描き続けてきたテーマなのだから。その孤独がついに癒され救済される。そんなロマンティックを、どれだけ表面上バイオレントでもグロでも、彼の映画はしばしば見せてくれた。デル・トロはハッピーエンドの『フランケンシュタイン』を撮り続けている作り手なのだ。 本作においては、ヒロインの「メアリー・シェリーの方が好き」の台詞に加え、デル・トロはヒロインの名前を通じても『フランケンシュタイン』に重ねてオマージュを捧げている。ヒロインの名前はイーディス・カッシング。ラストネームの「カッシング」はピーター・カッシングから採ったのだろう。1957年のハマー映画『フランケンシュタインの逆襲』でタイトルロールのフランケンシュタイン博士を演じたホラー俳優だ。 前述した彼の怪奇屋敷風アトリア「荒涼館」には、人の背丈ほどもある巨大なお面や、等身大のリアルなスタチューなど、フランケンシュタインの怪物のオブジェが複数飾られてもいる。コレクションの目玉扱いだ。いかに『フランケンシュタイン』が彼にとって重要か! ところで、ファーストネームの「イーディス」の方は何からかというと、米国の女流作家イーディス・ウォートンからの引用である。(続く) <次ページ『クリムゾン・ピーク』④~イーディス・ウォートンとブロンテ姉妹~> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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MAMA
[PG12]幼女に憑く“それ”は何?ギレルモ・デル・トロ製作総指揮×ジェシカ・チャステイン主演ホラー
アルゼンチンの無名監督の短編をデル・トロが絶賛!本人に長編化させたホラー。全米初登場1位を獲得し、同監督は引き続き『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』でメガホンを執り10年代ホラーの旗手に。
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』③ 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
ジェーン・オースティン作『ノーサンガー・アビー』(1817年)『ノーサンガー・アビー』の「アビー」とは、ご存知ドラマ『ダウントン・アビー』のアビーと同じで「僧院」の意。元修道院だった建物が払い下げられ富裕層の住居として転用されるという特殊な住宅事情が英国にはあった。16世紀宗教改革期にローマ教会と対立したヘンリーVIII世が1536~39年にかけ強行した大修道院解散法の結果だ。築数百年の宏壮な元僧院の現住宅というだけで不気味なイメージが付きまとい、いかにもゴシックロマンスの舞台にはうってつけである。『ノーサンガー・アビー』のヒロインは、ゴシックロマンスにハマっている、いわばラノベヲタクの少女である。本物の中世の古城だと信じ込んで最近建てられたゴシック風テーマパーク城の聖地巡礼に胸ときめかすような無邪気な娘が、複雑な同性・異性の友人関係に悩まされながら精神的成長をとげていく。 物語後半でノーサンガー僧院に招待され長逗留することになり、そこの息子であるゴシックロマンスヲタク男子とも話が合って意気投合、恋心を抱く。お話に出てくるようなオカルト現象やドラマチックすぎる展開がこの館で我が身にも訪れてくれるのではと彼女は期待する。そう期待するようヲタク男子が煽るからだ。がしかし、ことごとく「思ってたんと違う」式もしくは「幽霊の、正体見たり、枯れ尾花」式に期待は裏切られていく。終いには、思い込みが激しすぎて館の当主を“怪人めいた主人”=極悪人だと早合点。尻尾を掴もうと人の家をコソコソ嗅ぎ回っている現場を押さえられてしまい…というのが『ノーサンガー・アビー』のあらすじだ。つまりこのノベル、ゴシックロマンスのパロディであり、ゴシックロマンスあるあるでもある。 illustration of Nothhanger Abbey, Artist Unknown, 1833 Bentley Edition of Jane Austen's Novels またも脱線するが、人生に夢を見すぎて平凡な現実との落差に苦しむ心理状態のことを「ボヴァリスム」と呼ぶ。フランスのノベル『ボヴァリー夫人』(1856年)がその語源だ。ヒロインのボヴァリー夫人はロマン主義の時代を生きる女性で、人生に劇的な出来事の訪れを夢見、ロマンティックな結婚生活に期待を膨らませるが、結婚後のあまりにも退屈な日常に失望して不倫と浪費を繰り返し、最期は身の破滅を招く。この小説が元となって「ボヴァリスム」という言葉が生まれたのだが、『ノーサンガー・アビー』のヒロインもまた、軽度のボヴァリスム症状と言える。 ところで、ミア・ワシコウスカは、2014年にドイツ・ベルギー・アメリカ合作の文芸映画『ボヴァリー夫人』にて、マダム・ボヴァリー役を演じたことがある。ロマンティックな夢が全て破れ、森のぬかるんだ泥道で毒をあおって孤独に野垂れ死ぬ場面からその映画は始まる。 話を『ノーサンガー・アビー』に戻そう。こちらのヒロインはジェーン・オースティンのノベルらしく、野垂れ死になどはせずにハッピーエンドに無事たどり着くのだが、作中、例の家捜しがバレてヒロインが大恥をかくくだりの直後、作者オースティン自身の言葉として、ゴシックロマンスは魅力的ではあるが「おそらく、そういった小説の中には、人間の性質などは求めるべきではないのだろう」との一文がある。「人間が描けていない」という、よくある批判だ。いつだって通俗小説や娯楽映画はこの手の批判にさらされてきた。 実はこの『ノーサンガー・アビー』、ゴシックロマンス流行期に書き上げられていたのだが、作者がまだ無名だったため版元に原稿を死蔵され、ようやく世に出たのは20年後のブームも末期の頃で、名が売れた作者の死後だった(執筆時は二十代前半)。決定打となるこのパロディ小説の刊行により、ゴシックロマンスとその愛読者は“イジられる”対象となってしまい、ブームは下火へと向かっていく。この中では、子供っぽい厨二病的空想よりも、現実の恋愛を知り、そこに大人として人生の本物の喜びを見出すこと、つまりは、少女時代からの卒業が、リアリズムをもって描かれた。 ジェーン・オースティンは「田舎の村の三つか四つの家族というのは格好の題材です」「細かい毛筆を使って、どんなに手間をかけても効果がほとんど目に見えないものを描いた小さな(二インチ幅の)象牙のような私の作品」との言葉を残している。彼女のノベルはどれも、田舎の狭いソサエティを舞台に、上流社会に触れた中産階級女子の心の機微が、ブリジット・ジョーンズ的な恋のから騒ぎの中でユーモラスに活写される。等身大の近代女子の内面をリアルに描出する(=人間が描けている)ことで普遍性を持ち、近代文学・純文学として不動の地位を獲得したのである。ロマンスからノベルへ。18世紀の通俗小説から19世紀の純文学へ。しかし、そのための踏み台にゴシックロマンスはされてしまったと言えなくもない。 映画『クリムゾン・ピーク』の開始早々、ミア・ワシコウスカ演じる怪奇作家志望のヒロインが、「まるで現代のジェーン・オースティン気取りね」と、周囲の、着飾るばかりで能のない、夢は玉の輿に乗ることというレベルの同性たちから揶揄されるシーンが出てくる。彼女らは、英国から渡米してきた貴族の殿方とお近付きになりたいわ、舞踏会でお相手してほしいの、求婚されたらどうしましょ、などとキャピキャピやっているのだが、この雰囲気、ダンスやプロポーズがどうしただの、玉の輿に乗るだの乗らないだのは、きわめてジェーン・オースティン的であり、彼女のノベルではお馴染みの女子トークであり、そして『クリムゾン・ピーク』のヒロインが心底どうでもいいと思っていそうなことである。彼女はそういう作品を書きたいわけではないのだ。それ以上に、ゴシックロマンスや怪奇小説を愛し、そのジャンルの物書きになりたいと夢見ているヒロインとしては、それのパロディを書きイジり倒してブームを終わらせてしまった作家になぞらえられて気分が良かろうはずがない。 そこで彼女はこう切り返す。「ありがと。でも私どちらかと言うとメアリー・シェリーの方が好きなの」 そう言われても、玉の輿狙いのパリピ女どもに、この当意即妙のウィットは通じたかどうか。(続く) <次ページ『クリムゾン・ピーク』④~メアリー・シェリー作『フランケンシュタイン』(1818年)~> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存