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PROGRAM/放送作品
美女と野獣(1946)
純粋な心を持つ野獣と美しい娘が心を通わせる…ジャン・コクトーの美意識が光るファンタジーロマンス
フランスの幻想小説を芸術家ジャン・コクトーが映画化。繊細な舞台美術によって絵画のような映像美を実現。野獣が住む館で壁やテーブルから伸びた手が客をもてなすなど、特撮技術を用いない魔法描写もユニーク。
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COLUMN/コラム2020.04.07
詩人ジャン・コクトーの芸術美学が詰め込まれた“大人のための御伽噺”。『美女と野獣(1946)』
原作『美女と野獣』とは…? フランスを代表する詩人であり小説家にして、戯曲家、画家、彫刻家、映像作家などなど、芸術的な好奇心と想像力の赴くままに様々な分野で類稀なる才能を発揮し、20世紀フランスの芸術文化に偉大な足跡を残した天才ジャン・コクトー。その彼が、第二次世界大戦の悪夢によって荒廃した人心を癒す“大人のための御伽噺”として制作し、後のディズニー・アニメ版『美女と野獣』(’91)にも少なからず影響を与えた作品が、この溜息が出るほどに幻想的で耽美的で、ほのかに官能的ですらある元祖映画版『美女と野獣』(’46)である。 原作は18世紀のフランス貴族ヴィルヌーヴ夫人が、1740年に発表した同名の御伽噺。『妖精物語』で知られるドーノワ夫人を筆頭に、17世紀後半~18世紀のパリ社交界では貴族のご婦人方が子供向けの御伽噺を出版することが流行った。それは一見したところ裕福な貴族女性の道楽みたいなものだったが、しかし同時に当時の封建的な貴族社会に対する彼女たちなりのささやかな抵抗という側面もあったと言えよう。しばしば彼女たちは、御伽噺のストーリーに家父長制や男女の不平等に対する痛烈な風刺を込め、抑圧された女性ならではの不満や願望をファンタジーの世界に投影していた。実際、ヴィルヌーヴ夫人の執筆したオリジナル版『美女と野獣』では、ベルおよび野獣それぞれの生い立ちに関する“秘密”が描かれているのだが、そこには当時の貴族社会で当たり前だった政略結婚への不満や、女性の経済的・社会的な自立に対する強い願望が見て取れる。 ただし、現在広く知られている『美女と野獣』の物語は、ヴィルヌーヴ夫人版を簡潔に短縮したボーモン夫人版である。ロンドン在住のフランス人家庭教師だったボーモン夫人は、教え子たちに読み聞かせることを念頭に置いて、自己流にアレンジした『美女と野獣』を1756年に出版。その際に彼女は原典の風刺的な要素をざっくりと取り除き、登場人物や設定をシンプルにすることで、典型的なシンデレラ・ストーリーとしてまとめ上げたのである。その粗筋はこうだ。 とある屋敷に住む裕福な商人には、3人の息子と3人の娘がいる。息子たちは兵隊に出ていて留守。娘たちはいずれも器量良しだったが、しかし最も美しいのは知的で心優しい末っ子のベルで、そのため傲慢で見栄っ張りな姉たちは彼女のことを嫌っていた。あるとき町へ向かった商人は、その帰り道に夜の暗い森で迷ってしまう。たまたま見つけた無人の城で温かい食事にありついた彼は、ベルが土産にバラの花を欲しがっていたことを思い出し、庭に咲いているバラを1輪摘んで持ち去ろうとしたところ、そこに城の主である野獣が現れた。恩を仇で返すのかと商人に迫る野獣は、命と引き換えに娘を差し出すよう要求。帰ってきた父親から話を聞いたベルは、自分が身代わりになろうと野獣のもとへ赴く。彼女の美しさに平伏す野獣。はじめこそ野獣の醜い姿を見て慄くベルだったが、やがて彼の純粋な心に惹かれていく。だが、大好きな父親に会いたい気持ちは募るばかり。そこで彼女は、1週間という期限付きで実家へ戻ることとなる。ところが、意地悪な姉たちはベルを引き留めようと画策。自分の不在中に野獣が衰弱していると知ったベルは、すぐに城へ戻って瀕死の野獣に愛を告白する。そのとたん、呪いの解けた野獣は彼女の目の前でハンサムな王子様に戻り、2人は結婚して末永く幸せに暮らしました…というわけだ。 コクトーと盟友ベラールの作り上げた幻想美の世界 そんな18世紀の古典的な御伽噺を、初めて長編劇映画化したのがジャン・コクトー。基本的な設定やストーリーはボーモン夫人版に忠実だが、最大の違いはヒロインのベル(ジョゼット・デイ)に横恋慕する美青年アヴナン(ジャン・マレー)の存在であろう。映画版に登場する商人の子供たちは娘3人に息子が1人。その放蕩息子ルドビック(ミシェル・オークレール)の悪友がアヴナンだ。ベルが1週間の約束で実家へ戻って来た際、2人の姉はお姫様のような美しい身なりの妹に嫉妬し、多額の借金を抱えたルドビックは野獣(ジャン・マレー2役)の城に眠るという財宝に関心を示すわけだが、ベルが野獣に心惹かれていると気付いたアヴナンは彼らを焚きつけ、野獣を殺して財宝を奪おうと計略を立てる。醜い容姿に美しい心を持つ野獣と、美しい容姿に醜い心を持つアヴナン。この両者を対比させることによって、コクトーは本作を単なるシンデレラ・ストーリーではなく、より深い示唆に富んだ純愛ドラマへと昇華させていると言えよう。 コクトーが本作の構想を練り始めたのは戦時中のこと。詩人として夢や空想の世界を通して真実を語ることを信条としていた彼は、ナチ・ドイツの侵略を受けたうえ、激しい戦火に見舞われ疲弊しきったフランス国民に必要なのはファンタジーだと考え、幼い頃に乳母から語り聞かされた『美女と野獣』の映画化を思いついたのだという。脚本が完成したのは終戦間際の’44年3月。野獣と王子、そしてアヴナンの3役は、当時コクトーの恋人でもあった二枚目俳優ジャン・マレーを当初から想定していた。映画会社ゴーモンとの交渉にはマレーのほか、当初からベル役を熱望していた女優ジョゼット・デイや作曲家ジョルジュ・オーリックらも同席し、’45年6月より撮影がスタートすることとなる。ところが、しばらくしてゴーモンからの出資が役員会議によって反故にされてしまった。理由は「モンスターの出てくる映画など当たるはずがない」から。やはり、当時のファンタジー映画に対する認識・評価はその程度のものだったのだろう。 そこでコクトーが企画を持ち込んだのが、脚本を手掛けた映画『悲恋』(’43)のプロデューサーだったアンドレ・ポールヴェ。脚本の読み合わせに同席した夫人が感動で涙を流したことから、妻の意見を尊重するポールヴェが自身のプロダクションでの制作を決めたと伝えられている。こうしてゴーサインの出た『美女と野獣』だったが、しかし戦前に50分強の中編実験映画『詩人の血』(’30)を発表していたとはいえ、コクトーにとって本格的な長編劇映画を演出するのはこれが初めて。しかも、大掛かりなセットや衣装、特殊効果を駆使するファンタジー映画である。自分一人では心もとないと感じたコクトーは、当時処女作『鉄路の闘い』(’46)を準備中だったルネ・クレマンにテクニカル・アドバイザーとして演出のサポートを依頼。さらに、コクトー自身が全幅の信頼を置く親友の一人、クリスチャン・ベラールに、本作で最も重要な位置を占める美術セットと衣装のデザインを任せることにする。 もともとシュールレアリスムの画家としてキャリアをスタートしたクリスチャン・ベラールは、ココ・シャネルやニナ・リッチなどのファッション・イラストレーター、クリスチャン・ディオールのショップ・デザイナー、バレエ・リュスのポスター・デザイナーとして活躍した人物だが、特に評価が高かったのは舞台演劇における豪華絢爛で想像力豊かな美術や衣装のデザインだった。そんな彼が知人を介してコクトーと知り合ったのは’25~’26年頃。どちらも当時はまだ珍しいオープンリー・ゲイだった2人は、芸術的な感性が似通っていたこともあり意気投合し、コクトーは自身の舞台劇の美術と衣装を彼に任せるようになる。映画未経験のベラールを『美女と野獣』のスタッフに加えることに現場からは異論もあったそうだが、しかし自身のイマジネーションを具現化するために必要不可欠な存在であることから、コクトーは周囲の反対を押し切って彼を起用したという。野獣の特殊メイクデザインも実はベラールの仕事。いわば作品全体のビジュアル・コンセプトを一任されたわけで、本作のオープニングでベラールが「イラストレーター」としてクレジットされている理由はそこにある。 本作でコクトーがベラールを介して表現しようとしたのは、その神秘的な作風が日本でも人気の高い版画家ギュスターヴ・ドレがシャルル・ペローの童話集のために制作した挿絵の世界観。実際、野獣の棲む森や城のシーンには、ドレのイラストにソックリなショットが幾つも出てくる。また、ベルが暮らす実家ののどかな日常風景は、ヨハネス・フェルメールやピーテル・デ・ホーホといったオランダ黄金時代の画家からインスピレーションを得た。女性たちが身にまとう豪奢なコスチュームは、まるでベラスケスやゴヤなど宮廷画家たちの肖像画を彷彿とさせる。廊下の壁から生えた人間の手が燭台を支えていたり、暖炉を囲む彫刻がよく見ると本物の人間だったりと、独創的かつ奇抜な美術セットのデザインにも驚かされる。 そんな摩訶不思議なダーク・ファンタジー的世界を、モノクロの陰影を強調した照明と流れるように滑らかなカメラワークで幻想的に捉えたのが、『ローマの休日』(’53)や『ベルリン・天使の詩』(’87)でも知られる名カメラマン、アンリ・アルカン。コクトーは当初、『詩人の血』で組んだジョルジュ・ペリナルを希望していたが、スケジュールが合わないためクレマンの推薦するアルカンが起用された。この夢と現実の狭間を彷徨うかのごとき、マジカルでシュールレアリスティックな映像美こそ、本作が数多の子供向けファンタジー映画と一線を画すポイントと言えよう。また、コクトーが庇護した作曲家集団「フランス6人組」の一人、ジョルジュ・オーリックによる華麗な音楽スコアもロマンティックなムードを高める。 こうして完成した『美女と野獣』は、出品されたカンヌ国際映画祭でこそ受賞を逃したものの、批評家からも観客からも大絶賛され、権威あるルイ・デリュック賞にも輝く。あのウォルト・ディズニーも本作の高い完成度にいたく感銘を受け、当時構想していた『美女と野獣』のアニメ化企画を諦めたと言われる(その40数年後に映画化されるわけだが)。当のコクトー自身は初めての長編劇映画ゆえ、どう受け取られるのか心配だったらしく、初号試写では緊張のあまり隣に座った親友マレーネ・ディートリヒの手を握りしめ続けていたそうだ。面白いのは、当時は心優しい野獣に同情や親しみを感じるあまり、最後にハンサムな王子様へ変身したことを不満に思う観客も少なくなかったらしい。あの大女優グレタ・ガルボが「私の野獣を返して!」と言ったのは有名な逸話だが、実際に観客からも抗議の手紙が多数舞い込んだそうだ。 これだけある!バラエティ豊かな映像版『美女と野獣』 ちなみに、恐らく今の日本の映画ファンにとって『美女と野獣』といえば、ディズニーによる’91年のアニメ版と’17年の実写版が最も親しまれていると思うが、このコクトー版の大成功を皮切りに、これまで数多くの映画化作品が作られている。その一つが、B級モンスター映画で有名なエドワード・L・カーン監督が撮った『野獣になった王様』(’62)。これは日没とともに野獣となってしまう呪いをかけられた若き王様が、王座を狙う宮廷内の陰謀をかわしつつ、心美しき婚約者のお姫様の愛によって救われるという、原作を大胆に改変したファンタジー映画で、特殊メイクをユニバーサル・ホラーで有名なジャック・ピアースが手掛けていることもあり、野獣が狼男にしか見えないという珍品であった。 ほかにも、ジョン・サヴェージとレベッカ・デモーネイが主演したキャノン・フィルム版『Beauty and the Beast』(’87・日本未公開)は、原作をミュージカル仕立てでほぼ忠実に再現した正統派。フランスでもヴァンサン・カッセルとレア・セドゥを主演に迎えた『美女と野獣』(’14)が作られている。さらに、『美女と野獣』のコンセプトを現代に置き換えた、ヴァネッサ・ハジェンズとアレックス・ペティファー主演の青春ファンタジー『ビーストリー』(’11)という作品もあった。現代版『美女と野獣』と言えば、’80年代に人気を博したリンダ・ハミルトン主演のテレビ・シリーズ『美女と野獣』(’87~’90)および、そのリメイクに当たる『ビューティ&ビースト/美女と野獣』(’12~’16)も忘れてはならないだろう。 また、実はボーモン夫人の原作の舞台をロシアに置き換えてアレンジした小説も存在する。それが、帝政ロシアの文学者セルゲイ・アクサーコフが1858年に出版した『赤い花と美しい娘と怪物の物語』。こちらもソ連時代に映画化され、アニメ版(’52年)と実写版(’78年)が作られているが、どちらも残念ながら日本では公開されていない。そうそう、旧東欧版『美女と野獣』といえば、チェコの鬼才ユライ・ヘルツによる『鳥獣の館/美女と野獣より』(’78)もカルト映画として有名。そのタイトルの通り、巨大な鳥の姿をした野獣のビジュアルがインパクト強烈で、ストーリー自体はボーモン夫人の原作にほぼ忠実であるものの、東欧映画独特の悪夢的な映像美がとてもユニークな作品だ。 『美女と野獣(1946)』© 1946 SNC (GROUPE M6)/Comité Cocteau
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PROGRAM/放送作品
ファントマ/ミサイル作戦
スコットランドの古城でファントマと最終対決!ユーモア満点の犯罪コメディ3部作完結編
フランスの人気小説「ファントマ」シリーズの映画化3部作完結編。これまでのパリから離れてスコットランドの古城を舞台に、おなじみのジューブ警部、ファンドール記者がファントマに対して徹底抗戦に打って出る。
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COLUMN/コラム2016.09.17
ジャン・マレーの"陰"とルイ・ド・フュネスの"陽"がガチで渡り合う魅惑の「ファントマ」シリーズ
怪盗とドシな警視が端から勝敗が分かった出来レースを展開する。とても映画ファンフレンドリーなプロットだ。そこから、「ピンク・パンサー」の怪盗VSクルーゾー警部を思い浮かべる人もいるだろうし、一方で、スパイ・アクションとして切り取れば、ジェームズ・ボンドが世界制覇を狙うスペクターを追撃する「007」シリーズも想定内だろう。でも、ピーター・セラーズがシリーズ第1作『ピンクの豹』(64)でその天才的な"間の演技"で一世一代の当たり役、クルーゾーを世に送り出した同じ年、そして、『007 ドクター・ノオ』(63)でボンドが特命を受けてジャマイカに飛んだ翌年、フランスから発射された大ヒット怪盗シリーズがあった。それが「ファントマ」だ。 基の原作はピエール・スーヴェストルとマルセル・アラン共著による大衆小説で、後に母国フランスでサイレントやモノクロ映画にもなっているが、映画史的にはフランスのGaumont製作で20世紀フォックスによって世界配給されたシリーズが最も有名。でも、同じ時代のヒットシリーズ「ピンク・パンサー」や「007」に比べるとも知名度で劣る気がする。実際、映画マニアの中でも未見の人が多いと聞く。しかし、改めて観てみるとこれが楽しいことこの上ない。「007」と比較するのは申し訳ないような緩いアクションと俳優の個人芸、笑いの中に漂う不気味さと癒やし、それらが、シリーズの肝でもあるフランスのエスプリの皿に乗せられ、大衆食堂のテーブルにサーブされるかの如く。 神出鬼没の怪盗、ファントマが街を賑わせる中、パリ警視庁のジューヴ警部と新聞記者のファンドールが怪盗の素顔を暴き、逮捕に漕ぎ着けようとするが、ファントマは頭脳戦でこれに抵抗。両者の攻防はシリーズ第1作『ファントマ 危機脱出』のパリから、第2作『ファントマ 電光石火』のローマへ、さらに第3作『ファントマ ミサイル作戦』のスコットランドへと舞台を移して行く。そんなヒット映画のルーティンに則ったロケーション・ムービーとしての視覚効果はさておき、このシリーズ最大の楽しさは変装術にある。 ファントマの特技は野望達成のために生来の鉄仮面(設定上)の上に他人の顔をコピーして被り、相手を巧みに欺くこと。『危機脱出』の冒頭でヴァンドーム広場の宝石店からハイジュエリーを強奪するシェルドン卿と、物語の後半では刑務所の看守に化けて現れるファントマだが、『電光石火』では、ファントマによって拉致される科学者、ルフューヴル教授自身と、教授に化けたファントマ、さらに、ファントマを欺くために教授になりすましたファンドールが三つ巴で絡み合う。それらのキャラクターは、全員、主演のジャン・マレーが特殊メイクで1人2役、3役、またはそれ以上を演じているのを見逃す人はいないだろう。(勿論、ファントマは誰か?という秘密も)この種のシーンで当時常識とされていたのはスタンドイン。マレー演じる人物が同じ画面で対峙する時、片方はマレーが、もう片方は顔を隠して似た体型の他人が演じるお馴染みの手法だ。映画史に於いて、同じ人物同士が合成によって画面で対面した最初の作品は,恐らくケヴィン・クラインがアメリカ大統領とそのそっくりさんを1人2役で演じた『デーヴ』(93)ではなかったかと思う。いずれにせよ、「ファントマ」ほどスタンドインが堂々と、むしろ意図的に活躍する映画は少ないので、是非、その際の確信犯的カメラアングルに注目して観て欲しい。 変装するのはファントマやファンドールだけじゃない。『電光石火』では孤児院の子供がファントマのマスクを被って仲間を驚かせ、劇中のハイライトである仮装舞踏会では、ファントマが鉄仮面の上にアラブ王子のメイクを施して登場。『ミサイル作戦』では犬がキツネの着ぐるみを着てハイランドを疾走する。それを見てジューヴは『犬までが!?』と嘆くが、変装、仮装、仮面というアイテムは『オペラ座の怪人』『ジゴマ』『アルセーヌ・ルパン』を例に挙げるまでもなく、フランス大衆文学の必須要素。その脈々たる伝統を『ファントマ』も受け継いでいる。 出世作『美女と野獣』(46)で恩師、ジャン・コクトーから獣のメイクを施されたジャン・マレーが、20年後に巡ってきたヒットシリーズで、再びメイクを駆使した役で脚光を浴びるという宿命も感じないわけにはいかない。マレーが『危機脱出』で老紳士、シェルドン卿に扮して画面に現れた時、マレーの美貌にクラクラだった日本の女性ファンは、そのリアルな老けメイクを見て、彼が本当に老け込んでしまっと勘違いしてショックを受けたという逸話も。もし、それが本当なら、本人はさそがし愉快だったことだろう。 変装で魅せるマレーに対して、変幻自在の顔芸と、まるでコマ送りしたような俊敏な動きで笑いを取るのは、フレンチコメディ界のレジェンド、ルイ・ド・フュネスだ。ジューヴ警部に扮したフュネスは、画面にいる時は常時、喋りのスピードに合わせて顔の筋肉を躍動させ、体もそれに連動してまるで瞬間移動を繰り返しているかのよう。深夜、ベッドの上で奇怪な音に反応して飛び起きたり、防音のため耳栓をしていたのを忘れて、朝、寝室に音もなく現れた部下のベルトラン(『グリーンフィンガース』(00)等で知られるフランスのバイプレーヤー、ジャック・ディナムがフュネスと絶妙な掛け合いを見せる)に悲鳴を上げたり等々、人として普通の行動がフュネスの肉体を通すと問答無用で爆笑に繫がるシーンが、不気味なファントマとの対比で絶好のスパイスになっている。 スペイン、カスティーリャ地方の没落貴族の末裔から叩き上げ、フランス屈指のコメディアンになったフュネスの、これは『大混戦』(64)で始まる"サントロペ・シリーズと並ぶヒット作。様々な職業人の特徴を演じ分け、その人物独特の動きをパントマイムで表現する彼の演技手法は、俳優を正業にするまであらゆる仕事をこなしたというフュネスの実地体験から派生しているものだろう。 人気役者に美貌は決して求めず、人間味こそがエスプリの源と信じるフランス人にとって、フュネスがいかに偉大なアイコンだったかは、1964年の年間フランス国内興収の1位に『大混戦』、4位に『ファントマ 危機脱出』が、明けて1965年の1位に人気コメティアン、ブールヴィル共演の『大追跡』、4位にサントロペ・シリーズ第2弾『ニューヨーク大混戦』、6位に『ファントマ 電光石火』が同時ランクインしていることでも明らかだ。因みに、1966年に興収トップとなったフュネス&ブールヴィルの『大進撃』は、1997年に『タイタニック』に抜かれるまでフランス歴代興収最高位を維持し続けた。 そう考えると『ファントマ』シリーズは詩人、ジャン・コクトーに見出された美男俳優、ジャン・マレーの"陰"と、大衆に愛され続けたコメディアン、ルイ・ド・フュネスの"陽"がガチで渡り合った、別の意味での対決映画と取れなくもない。一説によると、撮影中マレーとフュネスの関係は良好ではなかったとか。それはもしかして本当かも知れない、と思ってみたりして。■ © 1964 Gaumont
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PROGRAM/放送作品
ファントマ/電光石火
青色マスクのファントマ、再び現る!シリーズ第2弾はレトロフューチャー感が全編に漂うSFコメディ
不気味なファントマが世界征服を企てる、シリーズ第2弾。前作と同じキャストが顔をそろえ今回もドタバタ劇を展開する。「テレパシー銃」など珍兵器とも言うべき道具たちがいかにもキッチュで見ていて楽しい。
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PROGRAM/放送作品
ファントマ/危機脱出
フランスが生んだ変幻自在の怪盗ファントマ!ルパン三世に通じるコミカルでレトロな大人気活劇
1910年代にサイレントで5本の映画が製作されているほどの人気を誇る連続小説をもとに、新たに製作された3部作の1作目。ファントマ役のクレジットはシークレットになっているが、よく見ればきっと分かるはず。