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PROGRAM/放送作品
招かれざる客
黒人と白人の結婚を主題に、スタンリー・クレイマー監督が人種問題に一石を投じたドラマ
クレーマー監督が『手錠のまゝの脱獄』に続き放った、人種問題を描くドラマ。スペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘップバーンという映画史上のベスト・カップル最後の共演作にして、トレイシーの遺作。
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COLUMN/コラム2020.06.04
2020年、アメリカの大混乱を憂慮しながら、1967年製作の『招かれざる客』を想う
つい先日(2020年5月25日)、ミネソタ州ミネアポリスで、黒人男性のジョージ・フロイドさんが、白人警察官の不当な制圧によって死亡するという事件が発生した。これがきっかけとなって、アメリカ各地へと抗議運動が広がる中、それを敵視するトランプ大統領の差別的な言動もあって、深刻な事態へと発展していった。 「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命だって大切だ)」 このフレーズを噛み締めながら、半世紀以上前の1967年、当時の“理想主義者たち”によって作られた、本作『招かれざる客』へと、思いを致してみたい。 サンフランシスコの空港に降り立った、ジョン・プレンティス(演;シドニー・ポワチエ)とジョーイ・ドレイトン(演;キャサリン・ホートン)。30代後半と20歳そこそこ、ちょっと歳が離れたこのカップルが人目を引き、通りすがりに眉をしかめる者さえ見受けられたのは、ジョンが黒人男性で、ジョーイが白人女性だったからである…。 ハワイで出会い、恋に落ちた2人は、結婚を決意。ジョーイの両親に報告するため、サンフランシスコへとやって来た。 ジョーイの父マット(演;スペンサー・トレイシー)は、新聞社を経営。人種差別反対のキャンペーンなどを行ってきた、筋金入りのリベラル派である。そんな彼を支えてきたのが、妻のクリスティナ(演;キャサリン・ヘップバーン)。 進歩的な考え方の両親に育てられてきたからこそ、ジョーイの前には人種の壁がなかった。そして彼女は、この結婚を親が反対するなど、微塵も考えなかったのである。 ジョーイにジョンを紹介され、クリスティナは一瞬驚きの色を見せる。しかし娘のことを誰よりも愛し理解する彼女は、すぐにジョーイたちの味方となった。 一方父のマットは、優秀な医師で聡明なジョンに対して、好感を抱くものの、ひとり娘のパートナーとなると、話が違った。黒人との結婚など、世間の目も厳しく、ジョーイが苦労するに決まっている。簡単に賛成など、出来なかった。 ジョンもジョーイとは違って、手放しで祝福してもらえるなどとは、思っていなかった。そして、マットの賛成が得られなければ、「結婚はできない」と考えている旨を、彼へと伝える。 しかしジョーイは、幸せいっぱい。父が苦悩しているなど、思いもよらない。 そんな中ジョンの両親も、息子のフィアンセにいち早く会いたいと、サンフランシスコへとやって来た。しかし息子の相手が、「白人の若い女性」などと思ってもいなかったため、ジョーイの顔を見て、大いに困惑するのであった。 ジョーイはその夜遅くには、ジョンの赴任先であるスイスのジュネーヴへと、共に旅立つつもりになっていた。白人のドレイトン家と黒人のプレンティス家が、一堂に会する晩餐の席までには、マットはこの結婚への態度を決めなければならない。 ジョンとジョーイ、真剣に愛し合い、慈しみ合っている2人の“結婚”の行方は!? 本作『招かれざる客』は、多くのシーンがドレイトン家を舞台にした“会話劇”として進行する。天真爛漫なジョーイを別として、ほとんどの登場人物たちは、大いに悩み、時には感情を高ぶらせながらも、至極理知的に意見を交換し合う。議論を通じてコミュニケーションすることこそが、偏見を乗り越え、理解し合うための最大の武器である。そう主張しているかのようである。 黒人であるジョンに対し、あからさまに「差別的」で「興味本位」に接してくる者は、早々に物語の外へと追いやられる。それは、“コミュニケーション”以前の問題だからであろう。 ジャーナリストのマットが、“リベラル”であるが故に悩むというのが、物語の肝になっている。彼の親友で、やはり進歩的な考え方を持つ神父が、「自分の主義に復讐された」「リベラルの化けの皮が剥がれたな」などと、マットをからかう。だがマットは、“理想”を掲げて長年戦ってきたからこそ、己の内部にもある“差別心”に、真摯に対峙せざるを得ないわけである。 ジョンがジョーイを「大切に思う」が故に、まだ男女の関係になっていない点などは、この時代ならではの描写という気もする。しかしそんな点も含めて、とにかくほとんどの登場人物が、理性的で「話せばわかる」人たちなのである。ちょっと、あり得ないぐらいに。そのため本作には、登場人物たちも物語の展開も、ちょっと「優等生」すぎるという指摘もある。 ここで、本作が製作された1967年頃の、アメリカの情勢を眺めてみたい。実はこの年の6月までは、17の州で異人種間の結婚が禁じられていた。1964年7月2日に、人種差別を禁じる「公民権法」が制定されてから3年ほど経っていたが、この映画の撮影中はまだ、白人と黒人が結婚することが罪になる州が、存在したのである。 そして翌68年、「非暴力」を唱えていた、公民権運動のリーダー、キング牧師が暗殺される。以降の黒人解放運動は、過激化の一途を辿ることとなる。 “映画史”的に鑑みれば、本作製作の1967年に、“アメリカ映画”には大変革が起こった。『俺たちに明日はない』『卒業』の2作が公開され、“ニューシネマ”の時代が始まったのだ。“ベトナム戦争”に対する“反戦運動”が盛り上がる世相と呼応するかのように、映画界的にも、反体制・反権力的のムーブメントが、主流となっていく。 そしてこの4年後には、映画界でも黒人のパワーが爆発!『黒いジャガー』(71)などの“ブラックスプロイテーション”が、旋風を巻き起こす。 こうした流れの中では、『招かれざる客』に、「優等生すぎる」というレッテルが貼られがちになったのも、むべなるかな。ディスカッションによって、人種偏見が乗り越えられるなど、「夢物語」に過ぎないというわけだ。 しかし、この映画のスタッフ・キャストは、そんなことは十分にわかっている。わかっていながらも、世の中は「こうあるべきだ」という、理想主義的な「夢物語」を作ったのである。 製作・監督のスタンリー・クレイマー(1913~2001)は、ハリウッドでは筋金入りの“社会派”であった。プロデューサーとして、アメリカの影の部分を抉ったアーサー・ミラーの戯曲を映画化した『セールスマンの死』(51)や、“赤狩り”の時代を批判したとも言われる西部劇『真昼の決闘』(52)を手掛けた後に、監督デビュー。脱獄囚の白人と黒人が、人種偏見を乗り越えていく『手錠のまゝの脱獄』(58)、核戦争後の世界を描いた『渚にて』(59)、ナチス・ドイツの戦犯裁判を題材にした『ニュールンベルグ裁判』(61)等々の社会派作品を、世に問うてきた。 マット・ドレイトンを演じたスペンサー・トレイシー(1900~67)は、『我は海の子』(37)『少年の町』(38)で、史上初めて2年連続でアカデミー賞主演男優賞を得た名優。クレイマー作品には、『ニュールンベルグ裁判』や『おかしなおかしなおかしな世界』(63)に続いての出演となった。 マットの妻クリスティナ役は、トレイシーとは公私ともにパートナーだった、キャサリン・ヘップバーン(1907~2003)。その生涯に於いて、アカデミー賞では史上最多の4度、主演女優賞に輝いているが、トレイシーと9本目にして最後の共演作となった本作で、2度目の獲得となった。 ヘップバーンは、婦人参政権運動にも積極的に関わった社会活動家の両親の下に育ち、ハリウッドの女優としては、自らの出演作にプロデューサーとして関わるようになった、先駆け的な存在。1940年代後半、ハリウッドに“赤狩り”の嵐が吹き荒れた頃には、その反対集会に参加し、政府の“ブラックリスト”に載せられることも厭わず、演説まで行っている。 そして、シドニー・ポワチエ(1927~ )である。その人品には、誰もが感銘を受けざるを得ない、黒人医師ジョン・プレンティス役は、この時代にポワチエの存在がなければ、成り立たなかったであろう。 ポワチエは、『暴力教室』(55)の高校生役で注目を浴びた後、クレイマー監督の『手錠のまゝの脱獄』で、黒人俳優として初めてアカデミー賞主演男優賞にノミネート。そして『野のユリ』で、黒人初の主演男優賞受賞に至った。 人気も絶大で、本作が公開された67年には、「マネー・メイキング・スター」の第7位にランクイン。翌68年には、堂々第1位に輝いている。 しかしその一方で、インテリ層の役を演じることが多かった彼に対しては、多くの批判も寄せられた。現実にアメリカに住む黒人たちの多くが、貧困層に属し、まともな教育も受けられない中で、ポワチエの役柄は、「白人にとっての、黒人の理想像に過ぎない」というわけである。「白人化した黒人」更には「白人のペット」などという、心ない罵声を浴びせられたりもした。 しかし彼が、クレイマー監督の諸作や『夜の大捜査線』(67)など、人種差別に物申す数々の作品に出演。更には“公民権運動”にも積極的に参加して、黒人の地位向上に大きな役割を果たしたのは、紛れもない事実である。 2002年開催のアカデミー賞、デンゼル・ワシントンが『トレーニング・デイ』(01)で、『野のユリ』のポワチエ以来38年振りに、主演男優賞を受賞した黒人俳優となった。その際に会場に居たポワチエに対して、「ずっと貴方を目標にしている」とスピーチを行ったが、確かにポワチエが居なければ、この日が来るのは、もっと遠かったかも知れない。 ポワチエは、「白人受け」する黒人俳優として人気を得て、黒人のイメージを向上させながら、“公民権運動”などに積極的に関わった。仲間たちのためにも、実は至極したたかに、立ち回っていたのである。 “1967年”に於いては、“人種差別”の問題を取り上げ、しかも商業映画としての評価や人気を勝ち取るためには、時には「優等生すぎる」ようにも映る、『招かれざる客』のやり方が「ベター」だったのである。観客や評論家からの信頼も厚い、この監督この出演者たちによって、ディスカッションを通じて、白人と黒人が人種の壁を乗り越えていく「夢物語」を紡いだからこそ、本作は広く支持を集めて、世間に一石を投じることにも、成功したわけである。 しかし、それから半世紀以上が過ぎた今、現実を見ると、絶望的な気分に襲われる。本作の中のセリフが実現したが如く、“黒人大統領”まで誕生した後に、まさか“差別主義者”の大統領が君臨する日が来るとは…。 今日のアメリカ、そして世界にとっては、彼こそが“招かれざる客”と言えるだろう。■ 『招かれざる客(1967)』(C) 1967, renewed 1995 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
招かれざる客(1967)
黒人と白人の結婚を主題に、スタンリー・クレイマー監督が人種問題に一石を投じたドラマ
クレーマー監督が『手錠のまゝの脱獄』に続き放った、人種問題を描くドラマ。スペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘップバーンという映画史上のベスト・カップル最後の共演作にして、トレイシーの遺作。
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COLUMN/コラム2017.06.30
少年たちの一夏の冒険を描くロードムービー『動物と子供たちの詩』ふきカエ版、これスタンドバイミー超えてないかい!?の巻
さあ第2部【ネタバレ編】に突入ですが、その前に。出し抜けに第2部って何!?という人もいるでしょうからご説明を。この『動物と子供たちの詩』はまごうかたなき傑作!ただしネタバレで台無しになるタイプの映画です。そこで、1部2部とご紹介しようと。未見の方に向けて第1部【ネタバレ前まで編】を、ワタクシが連載を持たせていただいております「ふきカエル大作戦!!」さんのコラムに寄稿しました。コチラです。 なので本編未見の方は、まずはそちらをお読みください。逆にここは絶対読まないで!それと営業妨害するつもりはないのですが、各有名映画データベースサイトなどでの本作の情報は、「ブルース・ウィリスは死んでた」級の致命的ネタバレをしまくってますので、検索する際はご注意ください。 では、以下、第2部【ネタバレ編】です。すでに映画を見た人に向けて、ネタバレ全開のことを書きます。映画を見た後でさらに追加で知っとくべき情報なんてあるの!? もう十分だろ!とならないよう、映画を見ただけではわからない情報も書こうと思います。第1部に引き続いてお付き合いください。 おっとその前に一つ余談が。視聴者さんがツイッター上で「三原順の漫画『はみだしっ子』にもつながった映画」とつぶやかれていました。ワタクシは無知でその作品については知りませんが、知ってる人には価値ある情報かと思われますので、ここに勝手ながら一文コピペだけさせていただきます。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 第2部【ネタバレ編】 さあ、ついに2晩目、目的地にたどり着きました。牧場のような場所で、フェンスがあります。その内側に侵入してそこでコケた過保護虚弱夜尿症少年の手に、血がベットリ着く。「バッファローの血だ…」とつぶやきます。 そこで回想シーン。彼らが、例の「銃は友達」トラッシュ指導員の車で、キャンプ場を出て遊びに行った数日前の昼間に話はさかのぼります。指導員は主人公チームのバンガローの担当なのです。着いたところはフェスティバル会場。「本物のバッファローが目の前で見られるんだぞぉ」と指導員は得意げに言います。みんな遠足ノリで浮かれ気分です。 しかし!そこで想定外の大虐殺が始まりショックを受ける。フェンスに閉じ込めたバッファローの群れを、全米ライフル協会みたいな人たちが猟銃で撃ち殺しまくるという、それは殺戮フェスだったのです!弱者の痛みを知る6人組はそんな光景見たくない。しかし指導員はニタニタしながら殺戮を見物していて、あろうことか、というか案の定、My猟銃をおもむろに取り出し、嬉々として大虐殺に加わります。 これは一体何イベントなのか?原作小説の方に詳しい説明が載っていますので引用しましょう。「彼ら若い見学者たちがたまたまやって来たその日は、アリゾナ州狩猟局が管理主催する年三回の《ハント》の二日目だった。一世紀前、アメリカ西部には六千万頭の野牛がさまよっていたが、現在は二、三千頭しか生きのこっていなかった、そしてそれは保護されるために少数の群れにして特定の場所に集められ、いろいろな州あるいは連邦政府によって管理されていた。そして、野牛の頭数の自然増加と、彼らの特殊な生息環境に適したその限定された地域とのあいだに、ある科学的な比率を維持していくため、各群れとも定期的に《間引き》というか《採集》する必要があった。アリゾナ州にはふた群れが保護されていて、他の一群はグランド・キャニオンの北部、カイバブで保護されていた。そしてこのフラッグスタッフに近い保護地区においては一年おきにだいたい百五十頭から二百五十頭の、健康で子ウシを生む雌ウシとじゅうぶん発育した雄ウシを減らしていた。その夏には一日三十頭の割合で三日間、つまり合計九十頭がアリゾナの狩猟愛好家たちによって《採集》されることになっていた。」 グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社. あくまでワタクシ個人の意見ですが、頭数管理の必要性は理解できる。ハンティングというスポーツだって否定はしない。肉も普通に喰いますし、あとプロの屠畜業者さんには常日頃から勤労感謝の念しかない。しかし、柵に閉じ込めて(もはやハンティングじゃねー)、それをシロウトがお祭り騒ぎの遊び半分で、アメリカン愛国的ブラスバンド曲をBGMでガンガンにかけながら、ビールぐびぐび射殺しまくる、とは何事か!そして、そこに一片の憐れみも無し、という底抜けの無神経さには、さすがにドン引きしますわな!「お祭り気分がもりあがってきた。狩猟はたちまちにして学校のピクニック、伝道集会、市民バーベキュー大会、愛国的儀式、そして虐殺のカーニバルと化した。視覚、聴覚、嗅覚、それに人間的品位は打ち負かされた。澄みきった空気は銃声とそのこだまでずたずたに引き裂かれ、火薬のためにしだいによごれてきた。勝利のホーン(ザ・シネマ注:車のクラクションのこと)がぷうぷう鳴りわたった。カー・ラジオが音楽とコマーシャルをがなりたてた。ビールの記念碑が建てられた。子供たちが薬莢を拾い集めるためにとびまわった。電気のこぎりがごりごり骨を切り、皮はぎ小屋の床に鮮血が流れた。」 グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社. しかも、この映画では望遠ロングショットの実際の記録映像を使うことでグロさをまだ抑えていますが、原作小説を読むと、実態は阿鼻叫喚の地獄絵図のよう。 「三十頭の野牛を殺すには六時間から七時間を要した。そのような近距離からならば、屠殺業者が畜牛をやっつけるように、耳にただ一発撃ちこむだけで瞬間的に、また人間的にそれらの野牛を殺すことができるはずであったが、しかし、老若男女を問わず、あるいは腕ききの射手、アマチュアの狩猟家を問わず、彼らアメリカ人には、彼らがあらゆる動物の中で最もアメリカ的なものに照準を定めたとたん、なにかしら不思議なことがおこるのだった。百ヤード足らずの距離から巨大な静止した標的めがけ、30~30.6口径、あるいは30~33口径といった強力な銃で撃ちながら、心理的さもなくば肉体的にどういうことになるのか、いずれにしても彼らはうまく撃ち殺すことができないのだった。 彼らは腹を撃った。 彼らは頭の角を吹きとばした。 彼らは目を見えなくさせた。 彼らはあと脚の膝やけづめのところを粉砕して、脚を不自由にさせた。 彼らは急所を射当てるまえに出血多量で殺してしまった。 彼らは無益であると同時に無慈悲にも、屠殺場にたいして縦射の位置で撃った。(ザ・シネマ注:ターゲットの前後に別のものがいる状態で射撃すること。意図せず手前のものに当たってしまったり、弾がターゲットを貫通したりターゲットを外れたりで意図せず奥のものに当たってしまう可能性がある。この状態では苦しまないよう急所を狙って1発で仕留めてあげるなんてハナから無理)」 グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社. この他にも凄惨な描写が原作では延々と続きます。どこにどう弾が命中し、どうやってもがき苦しみ死んでいくか、そして、その後どうやって解体されるかまでが文章で詳細に記されている。こんなの映像では見せられんわ! 少年たちはこの光景に戦慄します。そして、嬉々として大虐殺に打ち興じている全米ライフル協会みたいな人たちに向かって「殺し屋!」とか「お前ら人間じゃないぞ!」とか罵詈雑言を浴びせますが(ここは台本でアドリブ指示が声優さんたちに出てます)、当然、うっせークソガキ!パヨクはけえれ!ってな反応が返ってくる。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ちょうど今ウチで放送している同じく未DVD化の激レア作で、闘牛映画『真実の瞬間』という伝説の超大傑作がありまして、自分の命を賭け金にして闘牛の世界でテッペン獲ったる、という野心家青年のド貧困からののし上がりドラマです。それもまぁ闘牛シーンは十分残酷なんですけど、なぜか本作ほど非倫理的には感じられない。 まずそれは、作り手のスタンスとして、闘牛文化を批判的には取り上げておらず、道義的価値判断を込めていないから、というのが理由のひとつ。監督フランチェスコ・ロージお得意の伊ネオレアリズモ由来の乾いたドキュメンタリー・タッチで撮られているため、淡々と事実を追う、それが迫真のリアリティを生む、という趣向が凝らされていて、スタンリー・クレイマー監督が劇映画としてのドラマ性を追求し、強いメッセージ性もこめた『動物と子供たちの詩』とは、そこが大きく違っている。 ただもうひとつの理由として、闘牛では闘牛士も命懸けだから残酷であっても卑怯には見えない、という我々観客側の印象の違いも挙げられるでしょう。本物の闘牛士でもある主演俳優による「これはガチで命懸けだ、一歩間違えば死ぬ」という、どっからどう見たってヤバすぎる映像のオンパレード。実際、数メートル突き上げられて気絶したか死んだかしている人の姿も映ります。人間側もそこまでのリスク負ってんだから五分と五分で、残酷だけどまぁ許せるかな、と思えなくもない。それに比べ『動物と子供たちの詩』の「銃は友達」連中は、自分らは遠くの絶対安全圏にいて、そこからスコープで狙って飛び道具で撃っている。あまつさえビール飲みながら!そこが大違いでして、これにはちょっと、ただごとじゃない生命への冒涜感がある。あっちは許せてもこっちは許せない!あくまで個人的意見ですが。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ふきカエ再放送版ではカットされていますが、仕留めたバッファローの巨大な生首、今度こそ干し首ではなくて本当に血のしたたる生首を、ラジオフライヤー(アメリカンな赤い台車)に積んで運んでいる、同い年ぐらいのガキの全米ライフル協会員みたいな奴が出てきて、それに6人組は絡みます。その生首をトロフィーに仕立てるんだとガキは自慢してくる。第1部で言及したHunting trophyを思い出してください。1等賞のトロフィーはバッファローでしたね?あの剥製たちもこうやって斬首されたのでしょう。今、あの伏線がおぞましい形で回収されたのです。だからここも重要なシーンなのでカットは痛恨なんだけどねぇ…。 自慢に対しカイさんから「殺しは楽しい?」と思いがけないことを聞かれ、ガキは「射撃はうまくなかった。でも肉はうまいよ」とトンチンカンに答えます。射撃が上手くなかったってことは、原作にある通り、急所を外してしまい標的を苦しませながら時間をかけて死なせたのでしょう。でも肉は美味かったと。そういう話じゃねーだろ!でも「何か問題でも?」という顔でポカ~ンとしている。 彼に悪意はない。このガキ、自分が悪いことをしているとも、人によってはそれを悪と受け止めるかもしれないとも、想像さえつかない様子。6人組とこのガキには通じ合える言語すらない。返す言葉も見つからず、お互い見つめ合ってしばし黙り込むしかない。 やがて沈黙に耐えきれなくなったガキは「どうせ生きてても役に立たない」と言い訳します。非難されていることにようやく気付いたのでしょう。さすがカイさん、「役に立たない人間も多いけど殺さない」と即座に反論する。正論です。役に立たない人間とは自分たちのことでしょう。するとガキは間髪を容れず「毎日殺されてるよ。テレビをごらん」と喰ってかかる。 この映画の1971年当時はベトナム戦争最悪の泥沼期で、ナム戦はTVのニュースで米兵の死体映像が生々しく映った初の戦争でした。この心ない暴言にはミリヲタリーダーがキレます。彼の尊敬する父親は海兵隊の大尉ですから、時期的にベトナムに派兵されていてもおかしくないのです。字幕で訳されていませんがリーダーがYou little bastard!(このガキゃ!)と罵りラジオフライヤーを蹴飛ばすと、ガキは「パパは下品な言葉を使うと怒るよ!」と逆に説教タレてくる始末。汚い言葉は使うな、口を石鹸で洗うぞ、そして銃は友達だ、役立たずどもを撃ち殺して楽しく遊ぼう、と父親からこのガキは教育されてきたのでしょう。 もしくは、反戦運動に学園紛争に人種対立と、アメリカ内地でも死者が出る騒動が各地で頻発し、それが連日TVのニュースで報道されていた時代でもありましたから、あるいはリビングでの家長を囲んだ一家団欒の一コマとして、夜のニュース見ながら「ヒッピーだのサヨクだの黒人だのなんて役立たずどもは死ねばいい」みたいな会話が、日常的に交わされているようなご家庭なのでしょう。でなけりゃ年端もいかぬガキの口から「毎日殺されてるよ。テレビをごらん」なんて言葉がポンポン出てくる訳がない。“子は親の鏡”ってことですなぁ…。もはや付ける薬もないと、6人は絶望してその場を離れます。 キャンプ場に帰った後、トラッシュ指導員は子供たちを怒鳴りつけます。これが、第1部で言及した、本作でもっとも重要なトラッシュの吐く長ゼリフというやつ。以下、全文を文字起こししてご覧に入れますが、池田勝さんの文字化できない発声、ガラガラだみ声、巻き舌、巧みに忍ばせた促音などの技巧は、ぜひとも放送で、その耳で、お確かめください。文章で再現はできません。 「恥かかせやがって、前歯ヘシ折ってやりてェよ!人前でデカい声はり上げやがって!(ザ・シネマ注:子供たちがハンターを「殺し屋!」などと罵ったことをさす)死に損ないのお前らァ見てると俺だって胸が痛むさ!可哀想に、トンマなバッファローめがってな!だがもう我慢できんっ!これからは、ラジオは禁止だ。音楽も!映画も!夜のダベりもぜぇんぶ禁止だっ!監督が言ってた、お前らぁ感情的に障害があるって。感情がピンボケなんだっ!! “ハミ出し”なんだ!!!(ザ・シネマ注:“ハミ出し”は原語で「ディング」、ding。本作のキーワード。おそらくこの当時の流行語で今日ではあまり使われていない模様) “ハミ出し”って知ってるか?マトモに収まらない奴さ!どんな場所にも、どんな時にも、どんなことに対しても、お荷物になるだけで役に立たない奴さ!みんな邪魔にして始末に困ってる奴さ!だから生きてる価値がないンだ!バッファローみたいになあ!どうして撃ち殺すか知ってるか?あいつらァ“ハミ出し野郎”だからだァ!おめェらもそうだっ!奴らとおんなじだ!ここにいるぬぁ手癖の悪りィ奴、お喋り野郎、意気地なし、戦争マニヤ、乳離れしないィ奴!出来損ないばかりだィ!」 この暴言に深く傷つくと同時に、6人組はある決意をします。自分たち同様“ハミ出し”で生きる価値なしと一方的に決め付けられたバッファローを逃すことを!虐殺フェスは明日も続く。殺される順番待ちのバッファローがまだ沢山いる。あそこに戻ってフェンスを破り、バッファローを逃がそう。ただし、指導員の車で行ったフェス会場までは、子供にとってはかなり遠い。6人は、まず馬で、次いで盗難車で、最後は徒歩で、あの忌むべき場所を丸一日かけて目指してきて、いま、2晩目の真夜中に、ついにたどり着いたのです。 さあ、回想シーンから、通常のタイムラインに、いよいよ本作の大詰めに、話を戻すことにしましょう。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ フェンスの破壊を試みる6人。駄目だチェーンは思ったより頑丈だ。夜が明けてきた。カイさんがまたトラックをどこからか盗んできた。だがその間に日は完全に昇ってしまった。それでチェーンを引っ張りようやくブチ切ったものの、夜陰にまぎれてコッソリやる計画が狂い、まっぴかりの朝日の下、物陰ひとつない丸見え状態で事を運ばざるをえなくなった。いつ全米ライフル協会の奴らに見つかってもおかしくない。エンジンふかして大きな音を出しまくったし。 かてて加えて、逃したバッファローはあろうことかフェンスのすぐ外でのんびり草を食みはじめた!遠くに逃げていこうとしない!! ミリヲタリーダーはヒステリーで半狂乱に。「行けェ!もうすぐハンターがやって来て、お前たちは皆殺しにされるんだぞ!…殺されて当たり前なんだ、ウスノロのバッファローめ!図体ばかりデカくて!」 ダメだ、怒鳴ろうが大きな音で驚かそうがビクとも動かない。泣きわめき怒鳴り散らすリーダー。そうこうするうち案の定バレた!騒ぎを聞きつけ全米ライフル協会の奴らが車2台でこっちに向かってくる!先頭車両を運転するのはあのトラッシュ指導員だ。「やっぱり奴らだ!」と苦々しげに吐き捨てるので、失踪した子供たちが行くとしたらここしかないと目星を付けていた模様。 万事休す!その時、盗んだトラックの運転席に半泣きミリヲタリーダーが横っ跳びに滑り込もうとする。カイさん引き留める。「ここで諦めるのか!? 俺はヤだ!」と思い詰めた表情で絞り出すリーダーに一言カイさん「…わかった」。再度リーダー運転席に転がり込み「俺たちは最期まで闘う!クラッチは左!ブレーキは右!みんな見てろよ!行くぞぉぉ!!!!」と叫びながら無免許でトラックを出してバッファローの群れ目がけ突入!「バッファローを暴走させる気だ!」と気付くトラッシュ指導員! そこで連中信じられない行動に出る。「タイヤを狙えェ!タイヤだ!(中略)いいか、子供に気を付けろ」と車停めて降りてきて、何百メートル先を結構な速度でジグザグにオフロード走行しているトラックを、何人もでパンパン狙撃しまくる!気を付けろじゃねーよ!いちガンマニアとして言わせてもらうと、こんなのタイヤになんか当てらんねーだろ普通!ものすごく危険! バッファローを追い散らすトラック。ついにバッファローたちが走りはじめた!だが逆にトラックは停まる。ドアがバタンと開き、同時に、ケツは座ったままのリーダーの上半身がダランっと外に投げ出される。駆け寄る残り5人と全米ライフル協会。リーダーはこめかみに銃創1発、目を見開いたまま死んでいた。5人の子供たち、遺体の方からゆっくり全米ライフル協会の大人たちの方に向き直る。あんたら、いつかヤラかすと思ってたけど、とうとうヤリやがったな、と、猟銃を引っさげたまま茫然自失で突っ立っている大人たちを、人殺しを見る時の目で見つめる。全米ライフル協会とトラッシュ指導員、事ここに至ってようやく、二度と戻らぬ失われた命の重みに気付き、だんだんと顔色を失っていく…。 ここで流れはじめるラストの曲は、「♪妖精コマネチのテーマ」として日本人にもよく知られた曲。本作から5年後の1976年モントリオール五輪の際、アメリカのTV局が、人呼んで“白い妖精”、たけしでお馴染みの新体操ルーマニア代表コマネチ選手の入場テーマ曲として流用したことから、そう改題されて有名になり、シングルカットもされヒットしたのですけど、もとはと言えば本作サントラの一曲。実はミリヲタリーダーのテーマ曲だったのです!この物悲しい曲が中盤で明るく転調するのと同時に、キャメラが疾走するバッファローの群れの空撮ショットに切り替わる。果てしない原野を土ぼこり上げ逞しく駆けていくその勇姿を映しながら、この映画の幕は降ります。 ここで、第1部で引用した、例の架空の(?)偉人H.E.ポール・ドラモンドの、一見良いこと言ってるげな詩を思い出してみましょう。気合いが足らないから負けるんだ!気合いがあれば必ず勝てる!という精神論的な内容で、作り手はそれを弱者に無理強いするような教育を批判しているのではないか?と第1部では指摘しましたが、さて、ミリヲタリーダーが無謀な目標を掲げ、大冒険の末、命と引き替えにその壮挙を成し遂げるところまでを目撃してきた今の我々が、あの詩を再読すると、いかなる感慨が湧くか?「君が負けたと思ったら負けだ。負けたと思わなければ負けじゃない。どうしても勝ちたいと思って勝てなかったら、それは君の思いが足りなかったからだ。この世では成功の第一歩は諸君の意志に始まるのだ。全ては心の持ち方次第。一歩も走らずしてすでにレースの勝負は決まり、仕事を始める前、臆病者はすでに失敗している。望みが大きければ君は前進し、望みが小さければ君は脱落する。できると思えば必ず叶う。全ては心の持ち方次第。人生の勝利は常に強い者・速い者に輝くとは限らない。勝利は、勝利をつかもうとする意志と努力のある者に輝く。(中略) 人に勝ると思えば人に勝る。少年よ、常に高きを望め。常に自分の心を信じよ。勝利は必ず君のものとなる。(中略) 行く道は険しく、人生は厳しい。だが諸君は鉄のように強く逞しい。勝利を目指し死力を尽くして戦え。だがスポーツマンシップを忘れるな。諸君の旗を高く掲げて進め。ボックス・キャニオン・キャンプの少年たちよ。できる。やるのだ!やらねばならぬ!! 全ては心の持ち方次第だ」 …あなたのハートには、何が残りましたか? ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 最後に。原作の方は、結末が異なります。ラストシーンでミリヲタリーダーが命と引き替えに勝利をつかむのは同じですし、どちらも1970年前後数年に大流行していた「アメリカン・ニューシネマ」に典型的な幕引きの仕方なのも同じですが、小説版の方はさらに、具体的なある1本の傑作ニューシネマと極めて酷似しているのです。原作のオチがこちら↓「彼ら(ザ・シネマ注:残った5人)は運転席の窓から外に出された追っ手(ザ・シネマ注:リーダーのこと)の頭を見た、そして彼が叫ぶのを聞いた。「ディング!(ザ・シネマ注:「ハミだし」のこと)ディング!さあ、ディング野郎、行こうぜ!」 二頭の雄ウシが脱出の先頭を切った。塀の向こう側に出ると、断崖のへりぎりぎりのところで即座に旋回し、彼らの群れは割れた。半分は右へ、半分は左へ分かれ、群れはもともと自分たちが属していた合衆国の広大な空間の中に逃走していった。しかしトラックはまさに恐ろしいコースをとりつづけていた。 彼らはぎょっとしてつまずくようにして走りながらそのあとを追った。ブレーキが効かなくなったのか、彼がブレーキなど無視したのか、あるいは(中略)断崖のへりを忘れてしまったのか、それとも、それがりっぱに果たされ、野牛も永遠に自由になったため、もはや輝かしい行為のことなどどうでもよくなった、ただそれだけのことか、彼らはいずれともわからなかった。トラックがまるで空に舞いあがるかのように高々と上昇してつっこみ、やがて見えなくなるその瞬間、たいまつのように燃え立つ彼の赤毛が彼らの目にちらっと止まった。それですべてだった。ただ、かすかなしかし金属と岩が激突するまぎれもない音が届いた。そして、すぐそのつぎの瞬間、その意味するところはなにかという意識が、まるで彼らもまた永久に自由にしてやるといわんばかりに、彼らの心臓を押しつぶしてきた。」 グレンドン・スワースアウト作,安達昭雄訳 (1979) 『世界動物文学全集7 黒馬物語/動物と子供たちの詩/私の友だちには尻尾がある』,講談社. リーダーが赤毛というのも映画版と違いますが、一番は、これは自殺ということなのか、とにかく全米ライフル協会に射殺されたわけではない、ということが最大の相違点です。 アメリカン・ニューシネマでは主人公は死ぬもの。お気楽バイカーコンビが田舎の保守的ヘイターに突然ショットガンぶっ放されて死亡とか、アベック強盗が警官隊に車ごと蜂の巣にされて死亡とか、強盗2人組が最後はボリビアの軍隊に包囲されやぶれかぶれ特攻に打って出て死亡とか、パトカー振り切ろうと猛スピードで車走らせ踏切ぶっちぎろうとして機関車に横から突っ込まれ爆死とか、ルームシェアしてる男娼とフロリダに行こうとしたダチの病弱ポン引きNY男が長距離バスの中でポックリ病死とか…。 主人公の死をドラマチックには描かず、逆にむしろあっけなく、極めて唐突に描く。そしてその主人公はと言うと、普通の常識的範疇にはおさまらない、世間からは白い目で見られている“ハミ出し”キャラと、相場は決まっていました。 どうしてそんなダメ人間が主人公の、救いのない結末の映画がやたらとウケたのか?自分たちアメリカ人がいかに簡単に死ぬか、ベトナム戦争でその嫌な現実をウンザリするほど見せつけられ、目を背けようにもニュースの方から付きまとってくる(ニュースから逃れるのって難しいですよね)。ヘイトクライムも頻発してヒドい世の中になりつつある。1970年前後はそんな時代だったからです。今ともちょっと通じる、“世界が崩れつつある感”、とでもいったような絶望的な雰囲気が満ち満ちていました。 そんな狂った時代には、多数派でいつづける方がむしろおかしい。そこで何の疑問もなく器用に世渡りできる奴は人として最低だ。映画の主人公はマトモだからこそ逆に“ハミ出し”て浮いてしまっているアンチヒーローでなければなりませんでした。そして彼らは、映画の主人公であっても、ある大目的を持ったドラマチックな生(と死)などは与えられず、虫ケラみたいに簡単に、突然に死ぬ。人の命なんて安いんだ。なぜなら現実がそうだから、という一群の映画が作られたのです。嫌な現実を映画がさらに誇張してみせることで批判する、それがアメリカン・ニューシネマというムーブメントでした。 ほら、『動物と子供たちの詩』って、アメリカン・ニューシネマそのものでしょう?中でもとりわけ、原作の方の結末と極めて酷似しているのが『バニシング・ポイント』です。 アメリカのほぼド真ん中・コロラド州デンバーから西海岸サンフランシスコまで車を短時間で運搬する(自分で運転して納車しに行く)仕事を請け負ったフリーの運び屋コワルスキーが、猛スピードで1970年型ダッジ・ チャレンジャーを爆走させる。当然パトカー白バイ追いかけて来る。その制止を振り切り、次々と引き離しながら西部を横断する、という映画が『バニシング・ポイント』です。 まず、西部の荒野が舞台になっているホコリっぽい見た目からして、『動物と子供たちの詩』と似ている。それとそのメインプロットの合間に、コワルスキーがこの挙に及ぶまでの様々な出来事が回想されていくという構造もまた、似ている。プロのレーサーとしての挫折、制服警官をやっていた頃に目撃した警察の腐敗、愛した女の死と、過ぎ去った幸福な日々、ベトナムでの戦争体験…個人的人生ドン詰まり感と、やっぱりここでも大きいのが、当時の“世界が崩れつつある感”です。 戦争とヘイトに満ちた時代だったんだということを大前提として鑑賞する必要があります。『バニシング・ポイント』劇中では黒人キャラが白人レイシストにリンチされるシーンも出てきますが、それはあの時期、現実のアメリカ社会でも頻発していたことですし、さらには悪を退治する存在であってほしい警察も、実際はと言うと、平等を求める黒人たちに高圧放水する、ベトナム反戦デモ隊に催涙ガスを撃つ、学園紛争の大学生を警棒で殴りつける、といったことを全米各地でやっていたのです。そんな警察に「スピード違反だから停まれ」と命令されて、誰が停まるものかよ!悪はどっちだ!! という反骨精神は、当時の観客の思いと怒りを代弁するもので、自分でそれをする勇気は無くても映画の主人公にぐらいは期待したい、胸のすく痛快な生き様だったのです。 ラスト、ブルドーザーで道をふさぎ停車させようと試みる警察の作戦に対し、コワルスキーはむしろ逆に、トップギアでアクセルを踏み込んでそのままブルドーザーの排土板に真っ正面から突っ込み、爆発!炎上!即死!そこで映画は終わります。ほら、『動物と子供たちの詩』原作の結末にソックリでしょう? 他のニューシネマの主人公が割と不可抗力で命を落としている(射殺される、事故死、病死)のに対し、この走り屋コワルスキーと『動物と子供たちの詩』原作のミリヲタリーダーの2人は自ら死を選択している。とはいえ、これって自殺なのでしょうか? いや、自殺というか、この世界から“退場”したくなってしまった、ということなのでしょう。こんな醜い、腐った世の中になんか長居したくねえよ、オレ的栄光の頂点で、皆さんお先に失礼させていただきます、ということでしょうな。パトカーをまきにまいて、どんどんスピードを上げていき、そのスピードの頂点、反逆のピークで、この世から消えていなくなろう。または、可哀想なバッファローを逃して、自分も一緒に車で伴走し、その勢いのまま、壮挙の達成と同時に、この世から消えていなくなろう。これって、自殺というのとはちょっと違う気がします。一応“勝利”エンディングですから。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 2017年の今ふたたび、“世界が崩れつつある感”が低く垂れ込めつつあるように感じているのは、ワタクシだけでしょうか?もし、残念ながらそうであるならば、そんな暗い世相を反映した、アメリカン・ニューシネマ的な映画が、また作られて流行るようになってもいいのではないか、と最近よく考えます。アメコミヒーロー映画、ワタクシも大好きです。ただ、ちょ~っと供給過多かなぁ、と思わないでもない。そして、今、我々が現実に直面している深刻な課題を考えると、ちょ~っと浮世離れしてないかなぁ、と感じなくもない。 ヘイトと暴力が世にあふれ、権力者たちが我が物顔で振る舞い、少数者の声を圧殺する、そんな寒い時代に、その醜悪さを徹底的に批判し、自由や優しさを求めて挫折し死んでいく哀しき“ハミ出し”者たちの視点に寄り添った、そんなニューシネマチックな映画の2017年版最新傑作の登場を、ワタクシ、今か今かと待望いたしております。それは今日、映画に期待されている役割でしょう。 © 1971, renewed 1999 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.©Rizzoli 1965 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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PROGRAM/放送作品
動物と子供たちの詩
[PG12相当]スタンド・バイ・ミー風のひと夏の少年冒険物語が迎える、切ない終局とは?傑作こども映画
米国映画伝統のサマーキャンプもの。痛快わんぱく物語や初体験性春映画が多い中、名匠スタンリー・クレイマーが手がけた本作は、美しくも哀しい傑作こども映画に。カーペンターズによる同名のテーマ曲も切なく響く。
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COLUMN/コラム2017.06.03
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年6月】飯森盛良
冒頭、動物のマネ(動態模写)する少年達が全米ライフル協会みたいな銃好きの連中に射殺される。何これ?と思ったら夢だった。サマーキャンプでバンガローが同室の少年達。全員が落ちこぼれ。キャンプ場を抜け出し“何か”をしようと“どこか”を目指し夜間旅立つ。時おりフラッシュバックする、各人が抱える複雑な家庭の事情エピソードと、そして動物が射殺される謎のインサート映像…何これ?本作、ロードムービーでありサマーキャンプ映画であり少年達のひと夏の冒険映画なのだが…その先に待ち受ける衝撃の結末とは!? そこで冒頭の夢、殺される動物、すべてが最後に繋がり…ってスタンドバイミー越えてるじゃんコレ!見終わった後もカーペンターズの同名テーマ曲が切なく耳に残る。■ © 1971, renewed 1999 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
(吹)動物と子供たちの詩
[PG12相当]スタンド・バイ・ミー風のひと夏の少年冒険物語が迎える、切ない終局とは?傑作こども映画
米国映画伝統のサマーキャンプもの。痛快わんぱく物語や初体験性春映画が多い中、名匠スタンリー・クレイマーが手がけた本作は、美しくも哀しい傑作こども映画に。カーペンターズによる同名のテーマ曲も切なく響く。
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PROGRAM/放送作品
(吹)ドミノ・ターゲット
闇組織に腕を見込まれた元狙撃兵に、愛と安息の日々は来るのか? 傑作スナイパー・アクション!
タフガイ俳優として鳴らしていた男盛りの頃のハックマン。その精悍な存在感に作品全編が貫かれた、傑作スナイパー・アクション。タフさの裏に哀感を込めつつ、薄幸の狙撃者をハックマンが演じる。
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PROGRAM/放送作品
ドミノ・ターゲット
組織に雇われた元狙撃兵が女のために命を賭ける。 ジーン・ハックマン主演の傑作スナイパー・アクション!
タフガイ俳優として鳴らした男盛りの頃のジーン・ハックマンが主演。その精悍な存在感と哀愁が作品全編に貫かれた、傑作スナイパー・アクション。70年代当時の車やコスタ・リカの美しい自然も見どころのひとつ。
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PROGRAM/放送作品
渚にて
制作から半世紀が経ってもこの映画の重要性は増すばかり…。核戦争に警鐘を鳴らす静かなる名作
『招かれざる客』など、鋭い社会意識を持った作風で知られるスタンリー・クレイマーが、米ソ冷戦のさなかに製作。核兵器が使用され滅びゆく世界を舞台に、オールスター・キャストが人間の愚かしさに警鐘を鳴らす。