検索結果
-
PROGRAM/放送作品
戦場にかける橋
巨匠デヴィッド・リーンが、第二次世界大戦下のビルマを舞台に、戦争の愚かさと人間の尊厳を描いた傑作
巨匠デヴィッド・リーンが、第二次世界大戦を背景に、戦争の愚かさと人間の尊厳を描き、作品賞を含むアカデミー賞7部門を受賞した傑作。武士道に生きる日本軍人を早川雪洲が熱演。
-
COLUMN/コラム2023.04.13
不朽の名作は新たな才能の饗宴の場でもあった!『アラビアのロレンス』
第1次世界大戦の最中、中東を支配していたオスマン=トルコ帝国に対する、“アラブ反乱”が起こった。それを支援したイギリス軍人で「アラビアのロレンス」として名高い存在だったのが、トーマス・エドワード・ロレンス(1888~1935)。『アフリカの女王』(1951)『波止場』(54)などのプロデューサーであるサム・スピーゲルは、ロレンスが記した回想録「七つの知恵の柱」の映画化権を60年に獲得。インドに居たデヴィッド・リーンの元へと、向かった。 リーンはかの地で、マハトマ・ガンジーの生涯を映画化する企画に取り掛かっていたのだが、そちらは棚上げ。前作『戦場にかける橋』(57)で組み、赫赫たる成果を上げたパートナー、スピーゲルからのオファーを受けた。 これが映画史に残る、未曽有のスペクタクル大作にして不朽の名作、『アラビアのロレンス』(62)のスタートだった。 リーンは、ロレンスという人物が事を為した時に28歳という若さだったことを挙げ、「…大人物であったと思う」と評しながらも、彼が普通社会には受け容れられない、“異常人物”であると断じている。その上で、ロレンスが自伝の中で自らの欠点を告白している点に、いたく興味を持ち、そこに魅力を感じたという。 ***** 1935年のイギリス。ひとりの男が、運転していたバイクの事故で死ぬ。彼の名は、T・E・ロレンス。「アラビアのロレンス」として勇名を馳せながら、彼のことを真に理解する者は、ひとりとして居なかった…。 1916年、トルコに対してアラビア遊牧民のベドウィンが、反乱を起こそうとしていた。イギリスはそれを援助する方針を固め、その適任者として、カイロの英陸軍司令部に勤務し、前身は考古学者でアラビア情勢に詳しい、ロレンス(演:ピーター・オトゥール)を選んだ。 ロレンスは、反乱軍の指導者ファイサル王子(演:アレック・ギネス)の陣営に向かって旅立つ。目的地に辿り着く前には、後に盟友となる、ハリト族の族長アリ(演:オマー・シャリフ)との出会いがあった。 反乱軍と合流したロレンスは、トルコ軍が支配し、難攻不落と言われたアカバ要塞の攻略を目指す。だがそれは、灼熱の砂漠を越えなければ実施できない、無謀な作戦だった。 しかしロレンスと彼が引き連れた一行は、見事に砂漠を横断。蛮勇で名を轟かせていたハウェイタット族のアウダ・アブ・タイ(演:アンソニー・クイン)も仲間に引き入れ、遂にはアカバのトルコ軍を撃破する。 その後もゲリラ戦法で、次々と戦果を上げるロレンス。彼が夢見るアラブ民族独立も、いつか実現する日が来るように思えた。 しかしイギリスははじめから、独立など許す気はなく、己の権益の拡大のみが、目的だった。ロレンスはやがて、理想と現実のギャップに引き裂かれていく…。 ***** リーン曰く、本作の前半は、ロレンスが英雄にまつりあげられるまでの上昇のプロセス。そして後半では、英雄気取りになった彼が、「…神のような高さからついに地上へ落下する…」という、下降のプロセスを描く。 そんな中での、ロレンスの人物造形。これについては、映画評論家の淀川長治氏が、『アラビアのロレンス』について書いた一文を引用したい。 ~ロレンスの伝記。しかも複雑怪奇なロレンス像。その砂漠の第一夜からホモの影を匂わせてこのロレンスの男の世界をリーンは身震いするほどのせんさいで描いて見せた…~ こうした一筋縄ではいかない主人公の物語を構築するに当たって、大いなる戦力となったのは、脚色を担当した、ロバート・ボルト。劇作家として高い評価を受けていたボルトだが、映画の脚本を書くのは、これが初めてだった。 プロデューサーのスピーゲルは、台詞の一部を担当させるぐらいのつもりで、ボルトに声を掛けた。しかし執筆が始まると、スピーゲルもリーンも、その才能に脱帽。6週間拘束の約束が延びに延びて、結局18か月間、ボルトは『ロレンス』にかかり切りとなった。 付記すれば、ここに始まった、ボルトとリーンの縁。『ロレンス』の後、『ドクトル・ジバゴ』(65)『ライアンの娘』(70)まで続く。 ロレンスの複雑怪奇さを表現できたのは、演者にピーター・オトゥールを得たことも、大きかった。当初この役の候補には、マーロン・ブランドやアルバート・フィニーの名も挙がったという。しかしリーンは、シェークスピアものの舞台などで評価されていたオトゥールを、大抜擢。 オトゥールは4か月の準備期間に、ロレンスを知る人物を次々と訪ね、また彼に関する本と記録を片っ端から読破。原作である「七つの知恵の柱」に至っては、暗記してしまった。 因みにファイサル王子役のアレック・ギネスは、以前に舞台で、ロレンスの役を1年近く演じ続けた経験がある。オトゥールは自分の解釈が壊されるのを恐れ、ギネスとの接触を、可能な限り避けた。 ラクダ乗りの訓練とアラビア語のレッスンに関しても、オトゥールは誰よりも熱心に取り組んだという。 そうした努力の甲斐もあって、オトゥールにとってロレンスは、「生涯の当たり役」となり、後々には“名優”と言われる存在となっていった。しかし、好事魔多し。 本作でスピーゲルやリーンには、またもやオスカー像が贈られた。それに対してオトゥールは、この初めてにして最大の「当たり役」が、“アカデミー賞主演男優賞”のノミネート止まりで終わってしまったのである。 その後はどんな役をやっても、ロレンスの上を行くのが、難しかったからでもあろう。幾度候補となっても、オスカーを手にできないジレンマに陥った。 生涯で、結局8回も“主演男優賞”の候補になりながら、彼が手にしたオスカー像は、2003年のアカデミー賞名誉賞だけ。これはまあ、「残念賞」とも言える。 新しいスターという意味では、砂漠の蜃気楼の中から陽炎のように現れる、アリ役のオマー・シャリフの登場も、鮮烈だった。中東ではすでに人気俳優だったシャリフだが、この1作で世界の檜舞台へと駆け上がった。 このようにKEYとなる人材を得たとはいえ、1962年CGがない時代に、これだけのものを作ってしまったというのは、やはり驚きだ。 撮影は大部分、ヨルダンの砂漠で行われた。スタッフは砂漠にテントを張って、寝泊りしながら撮影を行ったというが、その拠点はアカバに置かれた。 70エーカーの土地を借りて、まるで新しい町が出現した。そこには、製作事務所、撮影部、衣装部、美術部、メーキャップ部、機械整備部、資材部、大道具・小道具の製作工場、大食堂、酒舗、郵便局等々の建物が立ち並び、ラクダの放牧場や大駐車場まで在った。600人に上る撮影隊のために、そこから少し離れた海岸部には、レクリエーション・センターまで設けられたという。 当時のヨルダン国王は、撮影隊に全面協力。3万人の砂漠パトロール隊員を提供した他、1万5千人のベドウィン族が、家族や家畜と共に参加し、アラブ兵やトルコ兵に扮した。 こうした大群衆を動かすため、リーンは、「撮影開始」の合図には、ロケット弾を打ち上げさせた。そして空撮のためにヘリコプターを飛ばし、空中から拡声器で指示を出すこともあった。 撮影隊は突然起きる砂嵐や蜃気楼、日陰でも50度前後に達する昼間の高温が、夜には氷点下となることもある寒暖の差、100%近い湿度等々、大自然の脅威に悩まされながらも、ヨルダンでの撮影を終えた。 続いて、モロッコ、南スペインなどでも、ロケが行われた。 ある石油採掘業者が、本作の撮影隊を指して、こんなことを言った。「白人がこの砂漠でひと夏過ごすのは不可能だ」と。しかしその予言は、見事に外れた。リーンは本作の撮影のため、合わせて3年ほども、砂漠の中で過ごしたと言われる。 もしも現在CGやVFXなしで撮影したら“300億円”以上掛かると言われる。世紀の超大作は、こうして完成に向かっていった。 スピーゲルとのコラボで、前作『戦場にかける橋』で、ビッグバジェットは経験済みとはいえ、本作は桁違いの超大作。改めて、ここに至るまでのリーンの歩みを振り返ってみたい。 若き日は撮影所でカメラマン助手や編集など技術スタッフを務めていたリーンの才能を発見したのは、ノエル・カワード。俳優・作家・脚本家・演出家・映画監督などなど、多方面にてマルチな才能を発揮し、イギリスで一時代を築いたアーティストだった。 カワードが製作・監督・脚本・主演を務めた『軍旗の下に』(42)で、リーンは共同監督として、デビューを飾った。カワードは、9歳下のリーンを大いに気に入り、その後自らのプロデュースで、自作の戯曲を映画化するに当たって、3本続けてリーンに監督を委ねた。その中にはイギリス映画史に残る、恋愛映画の名作『逢びき』(45)がある。 カワードとの蜜月後、『大いなる遺産』(46)『オリヴァ・ツイスト』(48)と、イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズの小説を2作続けて映画化。評判を取った。 この頃までのリーン作品は、すべてイギリス国内が舞台だった。 初めての海外ロケ作品は、『旅情』(55)。キャサリン・ヘップバーン演じるアメリカ人の独身中年女性が、イタリアのベネチアで、旅先の恋に身を震わすこの物語から、リーンは新たなステップに入っていく。「アフリカやアメリカの西部や、アジア各地など、映画は世界中をスクリーンの上に再現して見せてくれ、私の心を躍らせた。私が『幸福なる種族』(44)や『逢びき』のようなイギリスの狭い現実に閉じこもった作品から脱皮して、『旅情』以後、世界各地にロケして歩くようになったのは、映画青年時代からの私の映画を通しての夢の反映であるわけだ。私は冒険者になった気持で、一作ごとに知らない国を旅行して歩いているのである」 そしてリーンは、『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』という、異国の地を舞台にしたスペクタクル巨編へと進むわけだが、こうしたチャレンジを行うようになった下地としては、彼の恩人であるノエル・カワードから贈られた言葉もあったようだ。曰く、「いつも違う道を歩きなさい」。 これらの超大作は共通して、舞台は「脱イギリス」だが、イギリス人の冒険を求める心が描かれているのが、特徴だ。両作を手掛けた、デヴィッド・リーン本人の心持ちとも、重なっていたように思える。 さて話を『ロレンス』に戻せば、撮影が終わって仕上げに入る段階で、また1人得難い“才能”が参加する。フランス出身の作曲家、モーリス・ジャールである。 ジャールは映画音楽を書くためのインスピレーションは、脚本ではなく、スクリーンで映像を観た時に得るものが、最も大きいと語る。「脳とハートを働かせ、監督と一緒に仕事をして色々なアイディアを交換することで、インスピレーションが湧いてくる…」のだそうである。『ロレンス』は、曲を作る段階で、撮影はすべて終わっていた。そしてジャールは作品に参加後、最初の1週間は、40時間の未編集の映像を、ひたすら観ることとなった。 リーンから「これをカットして、4時間の映画にする」と言われたが、その内2時間分の音楽を、6週間で書き上げなければならないという過酷なスケジュール。昼も夜も書き続けて、レコーディングが終わる頃には、「ほとんど死んでいました(笑)」と、後にジャールは述懐している。 因みにサム・スピーゲルからは、「オペラのような感じを出したい」と、注文を出された。当時は本作のような大作の場合、映画の始まる前や休憩の時に、音楽を流すのが流行していた。まず序曲があって、それが終わるとカーテンが開いて、オペラが始まる。そんなイメージだったという。 ジャールは曲の出だしで、パーカッションを用いて、観客を「…一瞬でアラビアにいるような気持ちにさせる…」ように工夫した。そしてそれは、大成功を収める。 因みに先にも触れた、オマー・シャリフ演じるアリの登場シーン。ジャールはリーンに、観客に何かを語る音楽を作るかと提案したら、「そこに音楽は要らない」と返された。静寂の中、少しずつラクダの足音が近づいてくる方が、ずっとドラマティックというわけだ。風の音や自然の一部も、すべて音楽だというリーンの考えであった。 ジャールはリーンとは、最後の監督作品『インドへの道』(84)まで付き合うこととなる。 さて今回「ザ・シネマ」で放送されるバージョンは、全長227分もの[完全版]。実は1962年の本作初公開時は、諸般の事情でカットが重なり、リーン監督にとっては不本意な形になってしまった。 その後カットされたフィルムが見つかったのを機に、88年に本来の状態に構成し直してデジタル・リマスタリングされたものが、この[完全版]である。 再編集はリーン自らが行い、音声素材が残っていなかった未公開シーンではオトゥールをはじめオリジナルキャストが再結集。改めてアフレコを行った。 多額の資金が必要だったこのプロジェクトで、大きな役割を果たしたのが、マーティン・スコセッシとスティーブン・スピルバーグ。2人とも『アラビアのロレンス』及びデヴィッド・リーンから、ただならぬ影響を受けて育った映画監督である。 スピルバーグが最も尊敬する“巨匠”が、リーンであることは、つとに有名だ。そしてリーンの監督作品の中でも『アラビアのロレンス』(57)は、自作を撮影する前に必ず見直す作品の1本だと語っている。 [完全版]は、今や正規バージョンとなっている。劇中のロレンスの悲劇的な最期と対照的に、映画作品として「めでたしめでたし」の帰結である。 その一方で、忘れてはならないことがある。ロレンスが関わった“アラブ反乱”の、リアルなその後だ。 当時のイギリスが、アラブの独立など認める気がなかったのは、記した通り。内容が矛盾する様々な密約を、アラブ側やユダヤ勢力と結ぶ、いわゆる悪名高き「三枚舌外交」を展開していた。これが「パレスチナ問題」のような、今日でも解決の糸口が見えないような、大きな問題に繋がっている。 T・E・ロレンスは、映画を観た我々にとっては、「アラブ諸国の独立に尽力した人物」「アラブ人の英雄」のように映るが、実際はどうだったのか?実はイギリスの「三枚舌外交」の尖兵だったのでは?そんな指摘も為されている。 どうであれ、本作が紛れもない傑作であるのは、揺るぎはしまい。しかし鑑賞の際、アラブの現在やパレスチナの悲劇に思いを馳せるのは、忘れないようにしたい。 私にはそれが、砂漠とアラブの人々を愛した、本作に登場するキャラクターとしての、ロレンスの遺志に添うことのように思えるのである…。■ 『アラビアのロレンス』© 1962, renewed 1990, © 1988 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
-
PROGRAM/放送作品
アラビアのロレンス 【4Kレストア版】
砂漠の英雄の生涯を名匠デヴィッド・リーンが映像叙事詩に仕上げた、アカデミー賞7部門受賞作
20世紀初頭のアラブ民族独立に協力した英国軍人T・E・ロレンスの生涯を壮大に描く一大叙事詩。英雄ロレンスのカリスマ性と人間的弱さを当時無名のピーター・オトゥールが熱演。アカデミー作品賞等7部門を受賞。
-
COLUMN/コラム2020.06.29
ノエル・カワードとデヴィッド・リーン ~イギリスの偉大な才能のコラボが生んだ、 不朽の名作 『逢びき』
ミレニアムを目前にした、1999年。「イギリス映画協会」が、「20世紀のイギリス映画ベスト100」を発表した。 第1位に輝いたのは、キャロル・リード監督の『第三の男』(1949)。続く第2位が、本作『逢びき』(45)であった。 『逢びき』は、「第1回カンヌ国際映画祭」で“グランプリ”に輝いた他、アメリカの「アカデミー賞」で3部門にノミネートされるなど、製作・公開の時点で高く評価された。そして劇場にも、多くの観客を集めている。 しかし、「カンヌ」や「アカデミー賞」で話題になったり、大ヒットを飛ばした作品であっても、後の世に語り継がれることはなく、忘れ去られてしまう作品は、枚挙に暇がない。そんな中で本作は、イギリス映画史、いや世界の映画史に於いて、今でも燦然と輝く古典的な名作となっている。 本作の主人公は、30代の主婦ローラ(演:セリア・ジョンソン)。サラリーマンの夫と子どもたちと、平凡ながら幸せな家庭を築いていた。 彼女は毎週木曜日に、ロンドン郊外のミルフォードの町へ汽車で向かい、ショッピングや映画などを楽しんでいた。週に1度の、主婦の息抜きである。 ある時ミルフォードの駅で、汽車の煤がローラの目に入った。プラットフォーム横の喫茶室で困っていると、ちょうど居合わせた医師のアレック(演:トレヴァー・ハワード)が、親切に煤を除いてくれた。 1週間後の木曜、ローラとアレックは、ミルフォードの街角でばったりと再会。更にその翌週、ローラがレストランで独り昼食を食べていると、またも偶然にアレックが入店し、同席することとなった。 別の町で開業しているアレックは、毎週木曜だけ、友人の代診でこの町の病院に来ていた。その日の仕事を早上がりにした彼は、ローラと共に、映画を観に行く。 それ以来、週に1度、会う毎に親しくなり、会話も弾むようになった2人は、お互いに恋心を抱いている自分に気が付く。しかしアレックも、妻子ある身。2人の関係を進めることは、即ちお互いの家庭を壊すことになってしまう…。 思いが募ったアレックは、友人が留守にしているアパートに、ローラを誘う。一度は拒んで帰路に就こうとしたローラも、己の気持ちに抗い切れず、アレックが待つ部屋へと、足を運ぶ。 遂に一線を越えることになりそうだった、正にその時、予定より早くアレックの友人が帰宅。ローラは慌てて、外へと飛び出すのだった。 プラトニックな関係のまま、お互いの気持ちが、抜き差しならないものとなっていく。そんな2人が出した、結論とは…。 「元祖不倫映画」とも言われる本作だが、1974年にリチャード・バートンとソフィア・ローレンの共演で、TVムービーとしてリメイク(日本では76年に、『逢いびき』のタイトルで劇場公開)された他にも、様々な作品に影響を与えている。 特に有名なのは、ロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープが、ニューヨークを舞台に、プラトニックな不倫劇を繰り広げる、『恋におちて』(84)。またソフィア・コッポラ監督は、自らの出世作となった『ロスト・イン・トランスレーション』(03)に関して、本作の影響が大きいことを、明言している。 『逢びき』と言えば、作品の随所に流れる、セルゲイ・ラフマニノフの「ピアノ協奏曲 第二番」の切ない調べを思い浮かべる方も、多いだろう。後に、やはり“不倫の恋”を扱った、『旅愁』(50)や『七年目の浮気』(55)などでも使用されたが、それも本作あってのことと言える。 本作の映画音楽としては、ラスマニノフの「第二番」1曲だけが使われた。このようにクラシックの楽曲を1曲だけ、映画音楽に用いるという試みは、本作が初めてだったと言われる。後にイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティが、『夏の嵐』(54)でブルックナーの「交響楽第七番」、『ベニスに死す』(71)でマーラーの「交響楽第五番」を同じように使ったが、『逢びき』はその先駆けであった。またこの手法は、フランスのヌーヴェルヴァーグの監督たちにも、影響を与えている。 『逢びき』の原作者にして、製作者だったのは、ノエル・カワード(1899~1973)。俳優・作家・脚本家・演出家・映画監督、更には作詞・作曲まで手掛ける、イギリスの生んだ才人である。 カワードは、一時期イギリスの“ファッション・リーダー”的な存在でもあった。スカーフを首に巻いたり、タートルネックセーターを着たりは、若かりし日の彼が舞台上で披露したのが、“元祖”と言われる。 そんな“洒落者”のカワードは、第2次世界大戦が始まると、「戦争は憎しみの舞台であり、私には向いていない」と発言。「非国民」扱いを受ける騒ぎとなった。それに対して、彼の友人の一人で、当時海軍大臣だったウィンストン・チャーチルが、「あんなヤツ、戦争に行っても何の役にもたたない。一人ぐらい、愛だ恋だって歌ってるヤツがいたっていい」と、庇ってみせたという。 『逢びき』のイギリス公開は1945年11月、第2次大戦が終結して間もない頃。世情はまだ落ち着かなかったにも拘わらず、チャーチルの言を借りれば、「愛だ恋だ」の「元祖不倫映画」を製作したのは、正にカワードの面目躍如とも言えた。 『逢びき』は、デヴィッド・リーン(1908~91)の監督作品という意味でも、映画史的に重要である。後に“巨匠”の名を恣にするリーンだが、本作を以って、一躍世に知られる存在になったと言っても良いだろう リーンは二十歳の時に、映画界入り。当初は監督助手としてカチンコを叩いていたが、やがて編集技師として働くようになる。30代半ば近くまでの10数年は、そのキャリアを積み重ね、ローレンス・オリビエ主演の 『お気に召すまま』(36)、レスリー・ハワード主演の『ピグマリオン』(38)、マイケル・パウエル監督の『潜水艦轟沈す』(41)等々の作品に、クレジットされている。 彼の監督への道を開いたのが、ノエル・カワードだった。カワードが「イギリス情報省」からの要請で、製作・監督・脚本・主演を務めた『軍旗の下に』(42)の共同監督に、リーンを抜擢したのである。 共同監督はこれ1本だけだったが、カワードは、9歳下のリーンを大いに気に入った。その後自らのプロデュースで、自作の戯曲を映画化するに当たって、3本続けてリーンに監督を委ねた。『幸福なる種族』 (44)『陽気な幽霊』 (45)、そして『逢びき』である。 こうした経緯を考えると、『逢びき』はリーンの監督作というよりも、「カワード作品」と言うのが相応しいようにも思える。しかし原作となったカワードの戯曲「静物画」は、ミルフォード駅の喫茶室だけを舞台とする、短い一幕劇。それを考えると、“映画作家”としてのリーンが、本作でいかに才能を発揮したかも、見えてくる。 “映画化”に当たっては、駅の喫茶室を軸にしながらも、ローラとアレックが出会う街角やレストラン、デートで訪れる映画館や公園、密会に使おうとした友人の家からローラの自宅まで、舞台を広げている。戯曲の脚色に当たっては、カワードの関与も当然大きかったと思われるが、リーンは当時「シネギルド・プロ」という映画会社を共に営んでいた仲間、アンソニー・ハヴェロック・アラン、ロナルド・ニームと3人で脚色を行った上で、監督を務めている。 リーンの持ち味が、特に強く発揮されたように感じられるのは、喫茶室でアレックが自分の仕事について熱く語る姿に、ローラがつい見取れてしまうシーン。彼女が自分の恋心に気付く、この決定的な瞬間の演出と編集の呼吸が、正に“デヴィッド・リーン”であった。 「女が恋に落ちる」 「男女がどうしようもなく惹かれ合ってしまう」 こういった瞬間を、リーンほど的確に描出できる監督は、そうはいない。ほとんど男性しか登場しない、『戦場にかける橋』(57)『アラビアのロレンス』(62)の両作を撮ってからは、スペクタクル超大作を手掛ける、完全主義者の“巨匠”のイメージが強くなるリーンだが、こうした演出こそが本領とも言える。 それは初めて海外ロケに挑んだ『旅情』(55)、超大作路線に走った以降の、『ドクトルジバゴ』(65)『ライアンの娘』(70)といった作品にも見受けられる。特に『ライアンの娘』で、ヒロインがやはり“不倫の恋”に落ちるシークエンスの鮮烈さなどは、さすが『逢びき』から、キャリアを重ねてきた監督だと、舌を巻いてしまう。 こうした“瞬間”を活写出来るのは、リーン自身が、6回もの結婚を重ねた、「恋する男」だったからかも知れない。以前このコラムで『ドクトルジバゴ』を取り上げた時、リーンの諸作の大テーマは、「愛こそすべて」だと書いたが、その原点は『逢びき』にあると言えるだろう。 リーンは映画表現にとって彼の取っている態度を、「一に簡潔、二に決断、三に集中」であると語ったことがある。「つまり、何を描くかをよく狙い、これで行こうかと思ったら、断固ハラをきめ、ありとあらゆるものをその狙いのために集中する。つまり、恋愛と同じ要領さ」と。自らの演出術を説明するのに、“恋愛”に例える辺りも、実に“デヴィッド・リーン”なのであった。 さて冒頭で紹介した、「20世紀のイギリス映画ベスト100」。その第2位が『逢びき』だったわけだが、リーン監督作品は、続いて第3位に『アラビアのロレンス』(62)、第5位に『大いなる遺産』(46)と、上位10本の中だけで3本がランクインしている。「ベスト100」全体を見ると、11位に『戦場にかける橋』(57)、27位に『ドクトル・ジバゴ』(65)、46位に『オリヴァ・ツイスト』(48)、そして92位には、ノエル・カワードと共同監督したデビュー作『軍旗の下に』(42)まで入っている。 監督としてデビュー以来、鬼籍に入るまでの半世紀近くの間に、監督作品が16本。特に超大作路線に走って以降は寡作だったリーンだが、その内の、実に7本がランクインしている。 そうしたキャリアは、ノエル・カワードがプロデュースした、『逢びき』があったからこそ、始まったと言えるだろう。■ 『逢びき』© Copyright ITV plc (ITV Global Entertainment Ltd)
-
PROGRAM/放送作品
(吹)アラビアのロレンス 【4Kレストア版】
砂漠の英雄の生涯を名匠デヴィッド・リーンが映像叙事詩に仕上げた、アカデミー賞7部門受賞作
20世紀初頭のアラブ民族独立に協力した英国軍人T・E・ロレンスの生涯を壮大に描く一大叙事詩。英雄ロレンスのカリスマ性と人間的弱さを当時無名のピーター・オトゥールが熱演。アカデミー作品賞等7部門を受賞。
-
COLUMN/コラム2019.11.30
巨匠監督による「愛こそすべて」なスペクタクル巨編 『ドクトル・ジバゴ』
舞台はロシア。19世紀の終わりに近い頃、幼くして父母を亡くしたユーリー・ジバゴ(演:オマー・シャリフ)は、モスクワに住む化学者のグロメーコの家庭に引き取られる。 成長したジバゴは、詩人として評価されると同時に、医学の道を志す。そしてグロメーコ夫妻のひとり娘で、共に育ったトーニャ(演:ジェラルディン・チャップリン)と愛し合うようになる。 一方同じモスクワに暮らし、仕立て屋の母に育てられたラーラ(演:ジュリー・クリスティー)。母の愛人のコマロフスキー(演:ロッド・スタイガー)の誘惑に屈し、やがてレイプされたことから、彼への発砲事件を起こす。 それはたまたま、ジバゴとトーニャの婚約が発表される、クリスマス・パーティの場だった…。 1914年、第1次世界大戦が勃発すると、ジバゴは軍医として出征。そこで、戦場で行方不明となった夫のパーシャ(演:トム・コートネー)を捜すため、従軍看護師となっていたラーラと再会する。惹かれ合っていく2人だが、お互いの家庭を想い、男女の関係にはならぬまま、それぞれの場所へと還っていく。 しかし大変革の嵐が吹き荒れ、内戦が続く広大なロシアの地で、ジバゴとラーラはまるで宿命のように、三度目の出会いを果たす。ラーラとトーニャ…2人の女性を愛してしまったジバゴの運命は、“ロシア革命”の激動の中で、大きく揺れ動いていくのだった…。 中学時代の1977年、地元の名画座で喜劇王チャールズ・チャップリンの名作『黄金狂時代』(1925)と併映で観たのが、本作『ドクトル・ジバゴ』(65)との出会い。…と記していて、父=チャールズの製作・監督・主演作と、娘=ジェラルディンのデビュー作という、チャップリン父娘をカップリングした2本立てだったのかと、40数年経って初めて気が付いた。当時の名画座の編成も、色々と考えていたわけである。 それはともかくとして、スクリーン上での2度目の対峙は80年代後半、大学生の時だった。後輩の女性と一緒に観たのだが、本作初見だった彼女の感想は、「いかにもアメリカ人から見た、ロシア革命」というもの。まあ監督や脚本家はイギリス人だし、プロデューサーのカルロ・ポンティはイタリア人だから正確な言ではないのだが、当時として諸々先鋭的だった彼女には、「西欧社会が、皮肉っぽくロシア革命を捉えている」と映ったのだろう。 それはまだ、社会主義国の魁であった、ソヴィエト連邦が崩壊に至る数年前のこと。“革命幻想”もまだぶすぶすと、燻ぶってはいたのだ。 本作の監督は、デヴィッド・リーン(1908~91)。かのスティーヴン・スピルバーグが最も尊敬する、“巨匠”である。その監督作品の中でもスピルバーグは、『アラビアのロレンス』(1957)と並べて、『戦場にかける橋』(62)と本作『ドクトル・ジバゴ』は、自作を撮影する前に必ず見直す作品だと語っている。 製作時は東西冷戦の最中で、もちろんソ連ではロケが出来ないため、スペインやフィンランドで大々的なロケ撮影を敢行。スペインのマドリード郊外には、1年がかりでモスクワ市街のセットを再現した。こうした広大な舞台で繰り広げられる人間ドラマは、正に『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』に続いて、「完全主義者の巨匠」リーンの面目躍如と言えるだろう。 しかし、現在では映画史に残る古典的な名作という位置付けの本作も、初公開時の評価は、決して高くはなかった。アメリカの「ニューズ・ウィーク」曰く、「安っぽいセットで、“生気ない映像”」。映画評論家のジュディス・クリストからは、「“壮大なるソープオペラ=昼メロ”」といった具合に酷評され、さしもの巨匠も大いに傷ついたという。 また本邦も例外ではなく、72年に「キネマ旬報社」から出版された、「世界の映画作家」シリーズでは本作に関して、「…スペクタクルの華麗さが目立っただけ、人間のドラマが充実を欠いていたといわざるを得ない。主人公の革命に立ち向う態度のあいまいさではなく、主人公の知識人としてのなやみの追及に対する不徹底が問題であった(登川直樹氏)」「主人公に対する共感だけでは、映画はつくれるものではない。とくに、リーンは、安っぽい人間的共感や分身を排除することによって、独自の世界を厳しくつくって来た。その厳しさが、『ドクトル・ジバゴ』にはないのである(岡田晋氏)」等々、散々な打たれようである。 このような酷評が頻出した背景としては、先に指摘したような“革命幻想”の残滓が、60~70年代には濃厚であったことも考えられる。しかしそれ以上に、ソ連の詩人ボリス・パステルナーク(1890~1960)の筆による本作の原作小説が、著しく“政治的”に取り扱われた案件であったことが、至極大きかったからだと思われる。 パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」は本国ソ連では、当初予定されていた出版が中止になりながらも、1957年11月にイタリアで翻訳版が出版され、翌58年10月には、「ノーベル文学賞」が与えられている。当初は「ノーベル賞」の受賞を喜んだというパステルナークだったが、スウェーデンでの授賞式に赴けば、ソ連には「2度と帰国出来ない」と脅され、受賞を辞退せざるを得なくなった。 ソヴィエトの独裁政党だった「共産党」は、小説「ドクトル・ジバゴ」のことを、「革命が人類の進歩と幸福に必ずしも寄与しないことを証明しようとした無謀な試みである」と非難。当時は、「ロシア革命は人類史の大きな進歩である」というソ連政府の見解に疑問符をつけることは、許しがたいこととされていたのである。 「ドクトル・ジバゴ」が、ソ連で発禁とされる一方で、イタリアをはじめ西側諸国で続々と出版されるに当たっては、ロシア語原稿の奪取などに、「CIA=アメリカ中央情報局」が大きな役割を果したという。これは2000年代も後半になってから明らかにされたことだが、俗に“「ドクトル・ジバゴ」事件”と言われる一連の経緯は、東西両陣営の政治的思惑が、バチバチと火花を散らした結果なのであった。 そんなことまでは与り知らなかったであろうパステルナークは、その後失意の内に、1960年逝去。彼の名誉回復が行われたのは、ソ連がゴルバチョフの時代になってからの87年であり、国内で「ドクトル・ジバゴ」が出版されるには、88年まで待たなければならなかった。 このように原作小説は、高度に政治的なアイコンと化していた。それを東西冷戦が続く60年代中盤に、映画化する運びとなったわけである。 そんな時勢にも拘わらず、デヴィッド・リーンは、『アラビアのロレンス』に続いて組んだ脚本担当のロバート・ボルトに、長大な原作の内容を絞り込んでいくに当たっては、“愛”を軸にするよう指示を出した。リーン自身が本作に関して、「革命は背景にすぎず、その背景で語られるのは、感動的な一個人の愛情物語である」とまで言い切っている。極言すれば、「愛こそすべて」というわけだ。結果的に、「“壮大なる昼メロ”」などとディスる評が飛び出すのも、ある意味致し方のないことだったかも知れない。 またリーンの前2作が、『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』だったのも、本作が批判される下地になったものと思われる。 アカデミー賞ではそれぞれ作品賞、監督賞他を大量受賞するなど、赫々たる成果を上げた両作。その共通点としては、劇中にほぼ男性しか登場しないことに加え、前者は東南アジア、後者はアラブ世界を舞台にしながら、共に主人公のイギリス人男性が、そのアイデンティティー故に、希望と絶望の間で煩悶するストーリーが繰り広げられる。イギリス人のリーンだからこそ、「描けた」とも評価された。 それに比べると本作は、「軟弱なメロドラマ」に映る上に、主人公をはじめ登場人物は、すべてロシア人。しかもそれを演じる者たちは、エジプト人のオマー・シャリフをはじめ、非ロシア人ばかりである。 件の「世界の映画作家」から引用するならば、「そこにはどこにも、イギリス人としての、リーンの目がない/イギリス人の目でロシア人を見ようとしても、俳優自体がロシア人ではないのだから、視線が、空転するばかりである(岡田晋氏)」というわけだ。 本作は初公開時から暫くは、このように多くの批判を集めていた。しかし先にも記した通り、現在では映画史に残る古典的な名作となっている。評価が逆転していったことには、どんな作用があったのか? 一つは、初公開時から世界中で大ヒットとなり、その後も一貫して、多くの観客から支持され続けたということが挙げられる。それと同時に、デヴィッド・リーン亡き今となって、この稀代の“映画作家”の歩みを再点検すれば、自明の事実が浮かび上がるからであろう。 リーンにとって初のスペクタクル巨編と言える『戦場にかける橋』以前のフィルモグラフィーで、彼が得意としたジャンルの一つが、『逢びき』(45) 『旅情』(55)といった、「大人の恋愛もの」である。中年男女の一線を越えない不倫劇である『逢びき』は、後の『恋におちて』(84)の元ネタになったことでも知られる。 『旅情』では、キャサリン・ヘップバーン演じるアメリカ人の独身中年女性が、イタリアのベネチアで、旅先の恋に身を震わす。リーンは非イギリス人のヒロインを得たこの作品を、海外ロケで撮り上げたことによって、新たなステップに入っていく。 「アフリカやアメリカの西部や、アジア各地など、映画は世界中をスクリーンの上に再現して見せてくれ、私の心を躍らせた。私が『幸福なる種族』(44)や『逢びき』のようなイギリスの狭い現実に閉じこもった作品から脱皮して、『旅情』以後、世界各地にロケして歩くようになったのは、映画青年時代からの私の映画を通しての夢の反映であるわけだ。私は冒険者になった気持で、一作ごとに知らない国を旅行して歩いているのである」 こうしてリーンは、『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』という、異国の地を舞台にしたスペクタクル巨編へと臨んでいく。そして大成功を収め、“巨匠”の名を得た後に挑んだのが、『ドクトル・ジバゴ』であった。 異国の地を舞台に、スペクタキュラーな画面を作り出しながら、そこで“愛”の物語を展開する。これこそ正に、リーンの真骨頂!得意技の集大成とも言うべき作品だったわけである。 付記すればリーンが描いた『ドクトル・ジバゴ』の世界は、原作者のパステルナークが描こうとしたものとも、そんなにはかけ離れていない筈である。革命に共感する部分はありながらも、積極的な加担は出来ない政治的姿勢や、妻と愛人の間で揺れ動き続け、どちらを選ぶことも出来ない主人公のモデルは、パステルナークその人だったからである。最初の妻との結婚生活は、友人の妻に恋をしたことで破綻したパステルナーク。結果的に友人から奪って得た2度目の妻と暮らしながらも、更に別の女性と恋に落ち、妻と愛人との二重生活を、その生涯を閉じるまで送ったのである。 そしてリーン自身も、83年間の生涯で6回もの結婚をした、「恋多き男」であった。1950年代中盤、自らの監督作の主演に岸恵子を抜擢した際(その作品は結局製作されなかったが)、本気で彼女に惚れてしまい、その後を追い回してやまなかったエピソードなども伝えられている。 リーンは本作の後、脚本のボルトと三度コンビを組んで、歴史的背景をバックにした「愛こそすべて」路線に、今度はオリジナル脚本でチャレンジした。それは20世紀初頭、独立運動が秘かに行なわれているアイルランドの港町を舞台に、若妻とイギリス軍将校の許されない恋を描いた、『ライアンの娘』(70)である。■ 『ドクトル・ジバゴ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
-
PROGRAM/放送作品
逢びき
平凡な人妻の甘い恋心を名匠デヴィッド・リーンが見事に描き、’46年度カンヌ映画祭で最高賞を受賞
『アラビアのロレンス』のデヴィッド・リーン監督の名作メロドラマ。大作イメージの強いリーン監督の繊細な演出が窺える作品で、1946年カンヌ国際映画祭で最優秀作品賞に輝く。
-
COLUMN/コラム2012.06.22
映画音楽の魅力を再発見!
昨年12月にニーノ・ロータ生誕100年に合わせて、ザ・シネマで「特集:映画音楽の巨匠たち」を放送した際に、「映画の大きな魅力のひとつである映画音楽の魅力を再発見した」、「懐かしいメロディを聞き、もう一度見たくなった」など、多くの暖かいご意見、ご感想をいただきました。私も子供時代に映画音楽大全集というLPレコードBOXを誕生日に親にねだって買ってもらったことを思い出し、○○年ぶりにLPに針を落とし映画音楽の魅力にドップリひたりました。ザ・シネマでは毎月、映画音楽の魅力にあふれた名作を放送中です。モーリス・ジャールの壮大なテーマ曲が印象的な名作「アラビアのロレンス」は7月に放送です。また、12月の特集ではお届けできなかったニーノ・ロータの代表作「ゴッドファーザー」は8月にシリーズ一挙放送です。映画音楽ファンの皆様、お楽しみに。 ※『アラビアのロレンス/完全版』 ※『ゴッドファーザー[デジタル・リストア版]』さて、映画音楽といえば、ザ・シネマのグループ・チャンネル、クラシック音楽専門チャンネル クラシカ・ジャパンで7月にスペシャルな映画音楽特集を放送します。こちらも、チェックしてみてください。以下、ご紹介です。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■みなさん「シネコン」って知っていますか? 「映画館」のことではありません。シネマ・コンサート、略して「シネコン」。この映画音楽を本格オーケストラで楽しむシネコン、実は最近即日完売の人気ぶり。そりゃー魅力的、でも映画館と違ってわざわざホールに行くのは敷居が高いし、ちょっと… という方。なんとテレビで気軽に楽しめてしまう素敵な番組があるのです!その名も「特集:クラシックと映画のステキな関係」。クラシック音楽専門チャンネル、クラシカ・ジャパンで7月放送予定とのこと。ラインナップをのぞいてみると…何やら楽しそうな予感。まずクラシック音楽の本場ウィーンとロンドンで話題となった豪華シネコン。映画音楽の金字塔「ニュー・シネマ・パラダイス」から始まり「E.T.」「スター・ウォーズ」「ハリー・ポッター」など新旧の名作がずらり。また巨匠アラン・シルヴェストリ氏による「バック・トゥ・ザ・フューチャー」自作自演(?)や、「007/慰めの報酬」でビル・タナーを演じたロリー・キニアも登場。クラシックとはいいながら、内容は完全に映画ファン向け。いや、これは映画好きなら見逃せません!サントラで音楽を聴くのとは違って、大オーケストラを前にすると、まるで録音現場に立ち会ったような気分を味わえます。その他にも三大テノール、プラシド・ドミンゴ主演のオペラ映画や、あのマイケル・ビーンが出演した音楽映画など興味深い特集が満載。映画とクラシックって意外に共通点が多いんですね。 この機会に新発見があるかもしれません!詳しい放送情報はこちら! ■クラシック音楽専門チャンネル クラシカ・ジャパン 7月特集:クラシックと映画のステキな関係▼ハリウッド in ウィーン20117月13日(金)21:00- (再放送あり) © ORF/Milenko Badzic ▼BBCプロムス2011 映画音楽の夕べ7月20日(金)21:00- (再放送あり) ©Chris Christodoulou 2011
-
PROGRAM/放送作品
ドクトル・ジバゴ
[PG12相当]激動のロシアを生き抜いた1人の男の物語を、大作監督デヴィッド・リーンが壮大に描く
大作史劇を得意とするデビッド・リーン監督屈指の巨編。昨今、経済成長著しく、再び超大国の座に返り咲こうとしているロシア。その国に百年前に吹き荒れた激動の歴史を、ある医師の波乱の半生を通じて描く。
-
PROGRAM/放送作品
マデリーン 愛の旅路
マデリーン・スミスという女性の一途な愛がもたらす悲劇。実話をもとにした名匠リーンの人間ドラマ
身分の違う男女の許されぬ愛が引き起こした、ある殺人事件。このスキャンダラスな実話をもとに、名匠デヴィッド・リーンが描く、実在の女性マデリーン・スミスの情念の人間ドラマ。