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PROGRAM/放送作品
アウトサイダー 【ディレクターズ・カット版】
1980年代の若手スターたちが夢の競演!フランシス・フォード・コッポラ監督が贈る青春映画の金字塔
マット・ディロンやトム・クルーズなど後にスターとなる若手俳優が、不良たちの対立と友情を瑞々しく織りなす。ディレクターズ・カット版は劇場版より約22分長く、BGMの差し替えやシーンの追加が行われている。
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COLUMN/コラム2023.08.01
ディレクターズ・カット版で味わいに深みを増した’80年代青春映画の金字塔『アウトサイダー』
アメリカの光と影を映し出す、貧しい若者たちの群像劇 巨匠フランシス・フォード・コッポラが監督を手掛け、アメリカはもとより日本でも爆発的な大ヒットを記録した、’80年代を象徴する青春映画の金字塔『アウトサイダー』(’83)。いつまでも若かりし頃の輝きを失わないで…と歌う、スティーヴィー・ワンダーの主題歌「ステイ・ゴールド」の美しくも抒情的なメロディと共に記憶している映画ファンも多いことだろう。 ‘80年代のハリウッドといえば青春映画の全盛期。『初体験リッジモント・ハイ』(’82)や『プライベート・スクール』(’83)のようなセックス・コメディから、ジョン・ヒューズ監督の『すてきな片想い』(’84)や『ブレックファスト・クラブ』(’85)のようにお洒落な学園ドラマ、さらには『セント・エルモス・ファイアー』(’85)に『プリティ・イン・ピンク』(’86)に『ダーティ・ダンシング』(’87)に『ヘザース/ベロニカの熱い日』(’88)にと、等身大の若者たちを鮮やかに描いた青春映画が次から次へと大ヒットし、ブラット・パック(悪ガキ集団)と呼ばれる若手の青春映画スターたちがハリウッドのニュー・セレブとして持て囃された時代だ。そのブラット・パック第一世代(マット・ディロンやC・トーマス・ハウエル、ラルフ・マッチオ、トム・クルーズなど)の俳優たちがズラリ勢ぞろいした本作は、さしずめ’80年代青春映画ブームの原点にして頂点と呼べるかもしれない。 原作はデビュー当時まだ18歳だった女性作家S・E・ヒントンが高校在学中に執筆し、処女作として’67年に発表してベストセラーとなった同名のヤングアダルト小説。ヒントン自身が生まれ育ったオクラホマ州の町タルサを舞台に、行き場のない怒りや不満や哀しみをぶつけるかのごとく、喧嘩ばかりに明け暮れる貧しい若者たちの青春群像が描かれる。まずはそのストーリーから振り返ってみよう。 時は’60年代半ば。主人公はリーダー格のクールなタフガイ、ダラス(マット・ディロン)を筆頭に、両親を交通事故で亡くした14歳の最年少ポニーボーイ(C・トーマス・ハウエル)、その兄貴のダレル(パトリック・スウェイジ)とソーダポップ(ロブ・ロウ)、親からの虐待に苦しむジョニー(ラルフ・マッチオ)、ひょうきんで明るいツー・ビット(エミリオ・エステベス)に筋肉バカのお調子者スティーヴ(トム・クルーズ)など、「グリース」と呼ばれる貧困層の不良少年グループだ。肩で風を切るようにしてイキがっている彼らだが、しかしその素顔はごくごく平凡な普通の若者たち。中でも、物語の語り部であるポニーボーイは映画と本をこよなく愛する芸術家肌の秀才で、その親友ジョニーも争いごとを嫌う繊細で心優しい少年だ。しかし、たまたま運悪くスラム地区の貧困層に生まれ育ってしまった彼らは、普段からタフを装わなくては弱肉強食の世界を生き抜くことが出来ないのである。 そんな「グリース」の面々にとって最大のライバルは、山手の高級住宅地を根城にする富裕層の不良グループ「ソッシュ」。普段から小競り合いの絶えない「グリース」と「ソッシュ」だが、ある晩ドライブイン・シアターでポニーボーイたちが「ソッシュ」の美少女チェリー(ダイアン・レイン)と親しくなったことから、これに嫉妬した「ソッシュ」のリーダー格ボブ(レイフ・ギャレット)が仲間を引き連れてポニーボーイとジョニーを襲撃。目の前でリンチされるポニーボーイを助けようとしたジョニーだったが、しかし無我夢中だったために勢い余ってボブをナイフで刺し殺してしまう。恐れをなして一目散に逃げだした「ソッシュ」の連中。ボブの死体と共に取り残されて途方に暮れるポニーボーイとジョニー。2人はダラスの助言で遠く離れた古い教会の廃墟へ身を隠し、熱(ほとぼり)がさめるのを待つことにするのだが、そんな彼らを皮肉な運命が待ち受ける…。 巨匠コッポラを突き動かした原作ファンのティーンたち 『風と共に去りぬ』(’39)のキッズ版をコンセプトにしたというコッポラ監督。なるほど、確かに夕焼けの空を背景にしたオープニングのタイトル・シークエンスをはじめ、明らかに『風と共に去りぬ』からインスパイアされたと思しきシーンは少なくない。さらに言えば、愛情に飢えた不良少年たちを巡る切なくもほろ苦い青春ストーリーは、まるでジェームズ・ディーンの『理由なき反抗』(’55)や『エデンの東』(’55)の如し。興行的に大惨敗を喫した前作『ワン・フロム・ザ・ハート』(’82)でも垣間見せた、ハリウッド黄金期のスタジオ映画に対するコッポラ監督の愛情と憧憬が滲み出ている映画と言えるだろう。 それにしても、『ゴッドファーザー』(’72)シリーズでマフィアの熾烈な権力争いを描き、『地獄の黙示録』(’79)では戦場の地獄と狂気をスクリーンにぶちまけたフランシス・フォード・コッポラが、一転してなぜ、これほどまでに瑞々しい正統派の青春メロドラマを世に送り出したのか。その経緯がまたちょっと興味深い。 そもそもの始まりは、’80年の春にコッポラのもとへ届いた一通の手紙。それは、カリフォルニア州フレズノ市のローン・スター小学校に勤める図書館司書ジョー・エレン・ミサキアンが、8年生の生徒たちに代わって代筆したもの。封筒にはS・E・ヒントンの小説「アウトサイダー」が同梱され、手紙には「これを貴方に映画化して欲しい」との旨がしたためられていた。どうやら、原作の熱心なファンで映画化を望んでいた8年生の生徒たちは、『ゴッドファーザー』の映画化に成功したコッポラであれば適任だろうと考えたようだ。手紙には生徒たちの署名まで添えられていたらしい。そこで、当時はS・E・ヒントンの名前すら知らなかったコッポラ監督だが、子供たちの熱意に心を動かされて原作本を読み、さらにオクラホマ州タルサにも足を運んで作者ヒントンと親しくなり、最終的に映画化へ踏み切ることにしたのである。要するに、きっかけは原作ファンからのご指名ラブコールだったのだ。 また、先述したようにブラット・パックと呼ばれる新世代の若手スターを数多く輩出した本作だが、配役選考の際にコッポラ監督が採用したユニークな形式のオーディションも今や語り草となっている。キャスティング・ディレクターを任されたのは、『ゴッドファーザー』以来の付き合いである盟友フレッド・ルース。なるべく手垢の付いていない無名俳優を中心に、ルースは数十名の候補者を全米各地から探し出してきたという。その中には、最終的に合格したメイン・キャスト陣はもちろんのこと、次作『ランブルフィッシュ』(’83)で起用されるミッキー・ロークやヴィンセント・スパーノをはじめ、デニス・クエイドにスコット・ベイオ、アンソニー・マイケル・ホール、アダム・ボールドウィン、ヘレン・スレイターにキャサリン・メアリー・スチュワート、ケイト・キャプショーなどなど、後に映画界で名を成す有望な新人が多数含まれていた。 若手俳優たちを戸惑わせた前代未聞のオーディションとは? で、そんな才能あふれる候補者たちをコッポラ監督がどうしたかというと、まずはオーディション会場に全員集めて複数のグループに分け、その場で指定したシーンを交代で演じさせたという。通常、オーディションというのは審査員を前に個別で行うものなので、この前代未聞のグループ・オーディションには多くの参加者が戸惑った。なにしろ、審査員だけでなく他の参加者も見ている前で芝居をしなくてはならない。駆け出しの若手俳優にとっては相当なプレッシャーだったはずだ。しかも、コッポラは各人の適性や相性をチェックするため、あえて全員に複数の役柄を演じさせた。実際、トム・クルーズがダラス役を、エミリオ・エステベスがソーダポップ役を演じたオーディション映像も残っている。最初からジョニー役を希望していたというラルフ・マッチオは、ポニーボーイやツー・ビットのセリフ読みをさせられるたび、「このままだとジョニー役は貰えないかもしれない」と不安になったそうだ。 こうした実験的なプロセスを経て選ばれたのが、本作を機にスターダムを駆け上がったブラット・パック第一世代の面々。ただし、ダラス役のマット・ディロンはすでにティーン・スターとして頭角を現しており、中でも特に日本では『リトル・ダーリング』(’80)や『マイ・ボディガード』(’80)のヒットで絶大な人気を誇っていた。筆者はこれまでに2回ほどマット・ディロンに単独インタビューをしているが、若い女性ファンから追いかけられるような経験をしたのは日本だけだと語っていたのが印象的。当時はアメリカ本国よりも日本での人気の方が高かったのだ。 それはともかく、コッポラ監督がオーディションで最初に手応えを感じたのもマット・ディロンだったという。なにしろ、本人は高校の授業をさぼってまでS・E・ヒントンの小説を貪り読むほどの熱烈なファン。役柄だけでなく作品の世界も誰より理解していた。しかも、当時はヒントンの小説を映画化した『テックス』(’82)に主演したばかり。その過程で原作者ヒントンとも大親友になっていた。もはや、『アウトサイダー』に出ることは彼の宿命みたいなものだったと言えよう。実際、かなり早い段階でコッポラは彼をダラス役に決めたらしいのだが、しかし監督から「もう帰っていいよ」と言われたディロンは、オーディションに落ちたものと勘違いしてムチャクチャ凹んだそうだ。 当時すでにスターだったといえば、ヒロインのチェリー役を演じているダイアン・レインも同様。なんたって、13歳の時に主演した映画デビュー作『リトル・ロマンス』(’79)で天下の名優ローレンス・オリヴィエと渡り合い、マスコミから「第二のグレース・ケリー」とまで呼ばれた逸材である。また、富裕層グループ「ソッシュ」のリーダー、ボブ役のレイフ・ギャレットも、当時すでに全盛期を過ぎて落ち目だったとはいえ、’70年代に全米で絶大な人気を誇ったスーパー・ティーンアイドル。歌手としてもシングル「ダンスに夢中」が全米チャート・トップ10に入り、日本のお菓子メーカーのTVCMにも起用された。田原俊彦のデビュー曲「哀愁でいと」も、実はレイフ・ギャレットのカバー曲である。 ちなみに、本作は若手俳優のオーディションだけでなく演技指導もかなり実験的。まずメイン・キャストは撮影開始の3~4週間前にロケ地のタルサへ入り、本番さながらのリハーサルを行い、その様子を全てビデオ撮影&デジタル編集していたという。そうすることによって、撮影本番へ入る頃には役柄と同じような信頼関係がキャストの間にも生まれたのだとか。さらに、コッポラ監督は「グリース」役の俳優たちをホテルの安い部屋へ泊らせ、反対に「ソッシュ」役の俳優たちは高い部屋に泊まらせる、「グリース」役の役者たちの台本はプラスチック製のバインダーで、「ソッシュ」役の役者たちには革製のバインダーを与えるなど、両者の扱いに差をつけることで互いへのライバル意識を芽生えさせたのだそうだ。まあ、このやり方には恐らく賛否あることだろう。実際、撮影現場の外でも喧嘩沙汰が起きたらしいので、少なからず問題のある演技指導だったのではないかとも思う。 「ディレクターズ・カット版」の見どころもチェック こうして出来上がった映画『アウトサイダー』は、世界中のティーンエージャーたちの共感を集めて大ヒットを飛ばし、『ワン・フロム・ザ・ハート』の大失敗で危機に陥ったコッポラのキャリアを救ったわけだが、その一方で原作ファンにとって大事なシーンが幾つも抜けていることから、監督のもとには「もっと原作に忠実であった方が良かった」との不満を示すファン・レターが長年に渡って多く届いていたらしい。そう言われると、筆者も初見時はノスタルジックな映像の美しさや旬な若手俳優たちの魅力に心酔しつつ、どことなくストーリーに物足りなさを感じていたことは否めない。それゆえ、同じくコッポラがヒントンの小説を忠実に映画化した次回作『ランブルフィッシュ』の方が、作品の出来栄えに軍配が上がると考えていたのだが、どうやらコッポラ監督自身も劇場公開版には不満があったらしい。 というのも、もともと本作は原作小説に出来る限り忠実な内容で、上映時間も当初は2時間近くあったのだが、これを長すぎると感じた配給元ワーナーの指示によって91分に短縮させられていたのだ。そこで劇場公開から23年後の’05年、コッポラ監督は削除シーンを再編集で復元した「ディレクターズ・カット版」を初めて発表。これが劇場公開版を遥かに凌駕するほど素晴らしい出来栄えだった。 まずはメインキャラクターやストーリーの設定背景を詳しく掘り下げた導入部分が復活。おかげで、劇場公開版ではなんとなく浅く感じられた彼らの友情と絆の描写に、圧倒的な深みと説得力が加わっている。これは恐らく誰の目にも明らかであろう。さらに、ポニーボーイとソーダポップ、ダレルのカーティス3兄弟に関するシーンも大幅に復活し、どれだけの困難に見舞われようともお互いに助け合う兄弟愛の美しさと尊さが描かれる。中でも、ポニーボーイとソーダポップが同じベッドでお互いを抱きしめながら、人生の様々なことについて本音で語り合うシーンは素直に感動的だ。そういえば、ポニーボーイは親友ジョニーともよくハグしていたっけ。ゲイではないストレートの男同士だって抱きしめ合うことは恥ずかしいことじゃないし、辛いときにお互いを慰めたっていい。もちろん、男が弱音を吐いたって泣いたって構わないし、男だからって強くなくてはいけないわけじゃない。そもそも、男同士がいちいちマウントを取って強さを競ったりするの、ホントに無益で下らないからやめようよ。そんな「有害な男らしさ」からの脱却を、今から40年も前にハッキリと描いていたことは本作の先見の明であろう。 さらに、劇場公開版では『風と共に去りぬ』のキッズ版というコンセプトのもと、コッポラ監督の実父カーマインが甘美で壮麗な音楽スコアを作曲したのだが、これがまたあまりにもメロドラマ的過ぎた。そのため、「ディレクターズ・カット版」ではオリジナル・スコアを大幅にカットし、代わりにビートルズ上陸以前のアメリカのティーンたちに愛されたエルヴィス・プレスリーやカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスなどのヒットソングをたっぷりとフィーチャー。そこへ、当時のロックンロールやR&Bをベースにしたマイケル・セイファートとデイヴ・パドラットのクールな音楽スコアを新たに追加することで、映画そのものがリアルな時代性をまとい、作品全体の印象も引き締まったように感じられる。 しばしば商業的な理由を最重要視して編集された「劇場公開版」に対して、監督自身が本来ならこうあるべきと考える理想形を追求した「ディレクターズ・カット版」は、それゆえ自己満足に陥りがちだったりもするのだが、少なくとも本作の場合はセルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(’84)と同じくオリジナルの完成度を確実に上回っている。初公開時に映画館で見て夢中になったという人はもちろんのこと、実は周りの評判ほど感動しなかったという人にもぜひ、この「ディレクターズ・カット版」を見て頂きたいと切に願う。■ 『アウトサイダー【ディレクターズ・カット版】』© 2005 / ZOETROPE CORPORATION - Tous Droits Réservés
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PROGRAM/放送作品
ゴースト/ニューヨークの幻
たとえゴーストになっても、愛する者を守り続ける──世界を感動の涙に包んだラブ・ファンタジー
名曲「アンチェインド・メロディ」に乗せて甘美に綴る、90年代とデミ・ムーアのキャリアを代表するラブストーリー。インチキ霊媒師を人間味豊かに演じたウーピー・ゴールドバーグがアカデミー助演女優賞に輝く。
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COLUMN/コラム2023.03.01
『ゴースト/ニューヨークの幻』を名作にした奇跡のコラボと、日本での歪な愛され方
最も美しい瞬間、眩しいほどの輝きを放っているタイミングを、スクリーンに映し出すことが出来たら、その俳優は幸せだと思う。その上で、その作品がいつまでも人々の間で語り続けられるようなものになったら、まさに役者冥利に尽きるだろう。 本作『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990)のヒロインを演じた、デミ・ムーア。彼女にとってこの作品は、正にそんな位置にあるのではないか? 1962年生まれのデミは、『セント・エルモス・ファイア』(85)出演を機に、80年代ハリウッドの青春映画に出演した若手俳優の一団、いわゆる“ブラット・パック”の1人として、注目を集めるようになった。 プライベートでは、『セント…』の共演者エミリオ・エステベスとの婚約破棄を経て、87年にブルース・ウィリスと結婚。翌年には一子をもうけた。 本作の撮影が行われたのは、89年の夏から秋に掛けて。デミが27歳になる前後であるが、私生活の充実も反映してか、最高にキュートに映える。今や40年以上に及ぶ彼女のキャリアを振り返っても、「一生の1本」と言えるだろう。 こうした“タイミング”のデミを得たことも含めて、『ゴースト/ニューヨークの幻』には、「奇跡的」とも言っても良い、幾つかのマッチングが作用。アメリカ映画史、恋愛映画史で語り続けられる作品となったのである。 ***** 舞台はニューヨーク。銀行員のサム(演:パトリック・スウェイジ)と、新進の陶芸家モリー(演:デミ・ムーア)は、同棲を始める。 サムの同僚カールの手伝いで、引っ越しを終え、幸せいっぱいの2人。「愛してる」という言葉に、「同じく」としか返さないサムに、モリーはちょっとした不満を抱くが…。 そんなある日サムは、口座の金の流れに不審な点を見付ける。カールの手助けを断わり、サムはひとりで洗い出しを進める…。 観劇に出掛けたサムとモリー。その帰路で、「結婚したい」とモリーが告げた時に、暴漢が2人に襲いかかる。モリーを守ろうと、サムは抵抗。一発の銃声が響く。 逃げていく暴漢を追うのを諦め、振り返ったサムが目の当たりにしたのは、血まみれになった自分を抱きかかえ、「死なないで」と叫ぶモリーの姿だった。 幽霊になったサム。悲嘆に暮れるモリーには彼の姿は見えず、声も届かない。カールの慰めで、モリーが気晴らしの外出をした際、幽霊のサムしか居ない部屋に、彼を襲った暴漢が忍び込み、家捜しを始める。 怒り狂うサムが、暴漢に殴りかかっても、拳は空を切るばかり。しかし何とか、目的のものが見付からなかったらしい暴漢の後を追って、その居場所を突き止めた。 その近所で、“霊能力者”の看板を見付けたサムは、思わず吸い込まれる。そこの主オダ・メイ(演:ウーピー・ゴールドバーグ)は、インチキ霊媒師。霊の声が聞こえるフリをして、客から金を巻き上げていた。 そんな彼女だったが、なぜかサムの声は本当に聞こえた。嫌がるオダ・メイを脅しながらも、何とか説き伏せ、モリーに危機を伝えるように、協力してもらうことになる。 死して尚モリーを想うサムの気持ちは、彼女に伝わるのか?そして、サムを死に追いやった者の正体とは? ***** パトリック・スウェイジは、87年の全米大ヒット作『ダーティ・ダンシング』で人気を博して以来、主演スターの地位を固めつつあった頃に、本作に主演。タイトルロールである“ゴースト”として、深い悲しみを抱えた、ロマンティックな役どころもイケることを、知らしめた。 “インチキ霊媒”だったのに突如本物の霊能力に目覚めてしまった、オダ・メイ役のウーピー・ゴールドバーグは、稀代のコメディエンヌの実力を発揮。大いに笑わせながらも、幽霊のサムとモリーの“再会”に力を貸すシーンでは、観客の涙を絞るきっかけを作る。彼女にこの年度のアカデミー賞助演女優賞が贈られたのは、至極納得である。 デミ・ムーアを含めた、こうした演じ手たちのアンサンブルも素晴らしかったが、本作に於いて最高の“化学反応”を起こしたのは、脚本家と監督の組み合わせ。脚本家は、ブルース・ジョエル・ルービン、そして監督は、ジェリー・ザッカーである。 ルービンは本作脚本の執筆について、こんなことを語っている。「ある人が自分の感情や感覚が現世から霊の世界へ、つまり新しい別の世界へと移動できることを知り、なんとかそれを脚本の中に活かそうとアイディアをしぼった」 つまりルービンの“死後の世界”への想いは、ガチなのである。彼のフィルモグラフィーを鑑みれば、本作以前に手掛けた『ブレインストーム』(83)『デッドリー・フレンド』(86)から、本作以降の『ジェイコブス・ラダー』(90)『幸せの向う側』(91)『マイ・ライフ』(93)まで、ズラッと“死”にまつわる物語が並ぶ。 そんな「死に取り憑かれた」ルービンの脚本を映画化するに当たって、プロデューサーが起用した監督が、ジェリー・ザッカーだった。その名を聞いたルービンは、驚きと困惑、そして落胆を隠せなかったと言われる。 ザッカーはそれまで、ハリウッドでは「ZAZ(ザッズ)」の一員として知られていた。「ZAZ」とは、兄のデヴィッド・ザッカー、友人のジム・エイブラハムス、そしてジェリーの3人の名字の頭文字を並べての呼称。彼らのチームが作ってきた作品と言えば、『ケンタッキー・フライド・ムービー』(77)『フライング・ハイ』(80)『トップシークレット』(84)『殺したい女』(86)『裸の銃を持つ男』(88)と、コメディばかり。それもそのほとんどがおバカ満載、全編に渡ってパロディギャグを釣瓶打ちする内容の作品だった。 自分の渾身の脚本が、一体どうされてしまうのか?ルービンが不安に襲われたのも、無理はない。しかしこのコラボが、映画を大成功へと導く。 本作は開巻間もなくは、若い男女のラブロマンスが展開する。ところがサムが殺されて幽霊になってからは、サスペンスの色を帯びる。更にその先には、コメディリリーフのようにオダ・メイが登場。ところどころ笑いを交えながらの展開となる。クライマックスに近づくに従って、再びサスペンスの色が濃くなるが、大団円は、純愛ラブストーリーとして昇華する。 こうしたジャンルの横断は、ジェリー・ザッカーが、それまでに培ってきたテクニックを、大いに生かしたものと考えられる。とにかく観客を笑わそうと、シーン毎にギャグを詰め込むのが、「ZAZ」の作風。ザッカーはこの手法を応用し、ルービンの脚本の展開を、一つのジャンルに捉われることなく、ブラッシュアップしていったわけである。 もしも、“シリアス系”の監督が起用されていたら?恐らく本作は、もっと陰々滅々とした、ダークなタッチの作品になっていたであろう。 実はデミ・ムーアが演じるモリーは、当初は彫刻家という設定であった。それを陶芸家へと変えたのも、ザッカーのアイディア。この変更はどう考えても、ストーリー上の必然性とかではない。ずばり、サムとモリーのラブシーンを、効果的に演出するためだったのだろう。 同棲を始めたばかり。眠れない夜に、モリーがろくろを回していると、それに気付いたサムが、上半身裸のまま彼女の後ろに座る。バックに哀切な響きの、ライチャス・ブラザーズの「アンチェインド・メロディー」が流れる中で、2人は手を重ねながらろくろの上の粘土を触っているが、やがて………。 実に、情熱的且つロマンティック。映画関連の雑誌やサイトなどが選ぶ、「映画史に残るキスシーン」で、『地上より永遠に』(53)や『タイタニック』(97)などと共に、度々上位に選ばれているのも、むべなるかな(本作の翌年、ジェリーが脚本で参加している「ZAZ」作品、『裸の銃を持つ男 PART2 1/2』で、早々にこのシーンのパロディをやっているのには、「さすが!」という他なかったが…) 何はともかく、ある意味正反対の資質を持つ脚本家と監督が組んだことによって、奇跡のバランスが生まれ、そこに“旬”のキャストが加わった。こうして本作は、語り継がれる“名作”となったのである。 『ゴースト』は興行的にも、映画史上に残る“スリーパー・ヒット”=予想外の大ヒットとなった。アメリカ公開は、1990年の7月13日。実はこの7月の興行は、本作に先んじて4日に公開されたアクション大作、『ダイ・ハード2』が暫し独走するものと思われていた。ところが『ゴースト』は、公開初週で『ダイ・ハード2』を上回る成績を上げ、TOPに躍り出たのだ。 ブルース・ウィリスの代表的な人気シリーズ第2弾を、その妻であるデミ・ムーアの主演作が抜き去った形である。トータルで見れば、『ダイ・ハード2』も、北米での総興収が1億1,700万㌦、全世界では2億4,000万㌦と、当時としては十分“メガヒット”と言って差し支えない成績だった。しかしながら『ゴースト』は軽くこれを上回り、北米だけで2億1,700万㌦、全世界では5億㌦以上を売り上げたのである。『ダイ・ハード2』の製作費は7,000万㌦だったのに対して、『ゴースト』はその3分の1以下の、2,200万㌦。2011年4月にアメリカの経済ニュース専門局「CNBC」が発表した「利益率の高い映画トップ15」では、堂々の第10位にランクイン!製作費に対するその利益率は、何と1,146%というものだった。 『ゴースト』は、日本でも大ヒットした。配給収入は、37億5,000万円。細かいことは抜きに、これは興行収入ベースだと、60~70億円に達す。 本邦でも、いかに愛される作品となったか、その証左として挙げられるのが、本作の設定をパクった恋愛ドラマが、数多く製作されたこと。例えばフジテレビの「月9」枠で92年に放送された、「君のためにできること」。吉田栄作演じる主人公が自動車事故で死ぬが、自分を轢いた加害者の身体を借りて、恋人の石田ゆり子の前に現れる。ちょっと『天国から来たチャンピオン』(78)風味も入っているが、紛れもなく、本作のエピゴーネンであった。 本作から30年以上経った現在も、こうした流れはまだまだ残っている。今年1月から放送されている、井上真央と佐藤健主演のTBSドラマ「100万回 言えばよかった」。スタート早々からSNSなどで、「これ『ゴースト』じゃん」などと、突っ込みが入りまくっている。『ゴースト』は“ミュージカル化”されて、2011年からロンドン、12年にはブロードウェイでも上演された。実は日本ではそれに先駆けて、2002年に「世界初」の『ゴースト』舞台化が行われている。主演は宝塚出身の愛華みれと沢村一樹。こちらはミュージカルではなく、ストレートプレイであった。『ゴースト』関連で、今年に入って伝わってきたのが、現在チャニング・テイタムが、自らの主演で本作のリメイク企画を進めているとのニュース。それを聞いて思い出したが、実はリメイクも、日本が先行して行っていたという事実だった。 もう覚えている方も少ないと思うが、2010年11月に公開された『ゴースト もういちど抱きしめたい』が、その作品。 こちらは松嶋菜々子と、ソン・スンホンが主演。オリジナルとは男女の役割を逆転し、松嶋が女性実業家で、韓国人の陶芸家スンホンと恋に落ちるも、事件に巻き込まれて命を落としてしまう…。 そんな設定でわかる通り、ろくろを2人で回すラブシーンも、もちろん再現されている。詳細は省くが、色々と無理のある展開からこのシーンになだれ込むのだが、バックには何と、「アンチェインド・メロディー」が…。そしてそのヴォーカルは、…平井堅。マスコミ試写では、“失笑”が起こった。 この日本版リメイク、興収9億円という記録が残っているので、観客はそこそこ集まったわけである。しかしオリジナルと違って、現在ではわざわざ、口の端に上げる者も居まい。 チャニング・テイタムはリメイクに臨むに当たって、わざわざ“陶芸レッスン”を受けながら、雑誌のインタビューに応じたという。ということはやはり、「映画史に残るラブシーン」の再現に。敢えて挑戦することになるのだろうか? テイタムが鑑賞しているとは思えないが、日本版リメイクを「他山の石」として、くれぐれも同じ失敗を繰り返さないことを、願ってやまない。■ 『ゴースト/ニューヨークの幻』™ & Copyright © 2023 Paramount Pictures. All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
地獄の7人
ベトナム戦争終結後、捕虜となり未だ戻らぬ息子を想う父親をジーン・ハックマンが演じた戦争アクション
戦時行方不明者(MIA)救出を取り上げたアクション映画がこの頃流行ったが(『地獄のヒーロー』、『ランボー2』)、そんな中でも、息子を思う父の愛を描き、感動を盛り込むことに成功した異色MIA救出モノ。
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COLUMN/コラム2019.02.26
アメリカ「唯一の敗戦」で生じた、“MIA問題”のリアルな顛末〜『地獄の7人』〜
本作『地獄の7人』には、映画の内容以上に強烈な思い出がある。 1983年に製作されたこの作品は、同年にアメリカで公開されて、日本公開は翌84年の6月だったから、多分その直前の話。ラジオ局のプレゼントでホール試写が当たった私は、友人と2人で出掛けた。 映画が終わった直後、ちょっと興奮した私たちがこの映画について語っていると、やはり客席に居た白人の男性から、こんな言葉を浴びせられた。 「ダガ、アナタタチハ、センソウノゲンジツヲ、シラナイ」 穏やかながら痛烈な口調に、私たちは吃驚して、暫し沈黙せざるを得なかった…。 ********** アメリカ合衆国の歴史上で、「最大級の汚点」とされる、“ベトナム戦争”。ソ連との冷戦時代、「ベトナムの共産化を阻止する」という名目で、アメリカは南ベトナム軍を支援し、1965年から本格的に軍事介入を行った。しかし、北ベトナム軍及び南ベトナム解放戦線との戦闘は長期化し、戦況は泥沼化の一途を辿っていく。 次第に劣勢に追い込まれたアメリカ軍は、73年に撤退を余儀なくされる。これを、アメリカの対外戦争に於ける、「唯一の敗戦」と見なす者も多い。 アメリカ兵の戦死者・行方不明者は、5万8,000人。国家の威信は大きく揺らぎ、若者たちは深く傷ついた…。 映画は「社会の鏡」である。アメリカ映画に於いて、“ベトナム戦争”がどのように描かれているかの変遷は、そのままアメリカ社会や世相の変化を表している。 西部劇の大スターにして、ハリウッドを代表するタカ派のジョン・ウェインが、1968年に監督・主演した『グリーン・ベレー』は、娯楽映画の衣を纏いながら、アメリカによるベトナムへの軍事介入の“大義”を高らかに謳い上げる、プロバガンダ作品だった。 しかしほぼ同時期、ベトナム戦争を一つのきっかけとして、それまでの権威が大きく崩れていく。そして、既成の権威に牙を向く、“アメリカン・ニューシネマ”の時代が訪れる。“ニューシネマ”の中では、例えば朝鮮戦争を舞台とする、ロバート・アルトマン監督の『M★A★S★H マッシュ』(70)や、ラルフ・ネルソン監督の西部劇『ソルジャー・ブルー』(70)のような作品の中で、“ベトナム戦争”を暗に批判した描写が見られるようになる。 “ニューシネマ”が終焉を迎えた後、1978年は、“ベトナム戦争”をテーマにした作品のエポックメーキングと言える年となった。アメリカの田舎町から戦場に向かった若者たちの運命を描く、マイケル・チミノ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の『ディア・ハンター』、ジェーン・フォンダ扮する軍人の妻と、ジョン・ボイトが演じる半身不随となったベトナム帰還兵との愛を描く、ハル・アシュビー監督の『帰郷』。この2本が公開されたのだ。 『ディア・ハンター』はその年度のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、助演男優賞、音響賞、編集賞の5部門、『帰郷』は、脚本賞、主演男優賞、主演女優賞の3部門を受賞した。1978年は、ベトナム戦争を題材とした“反戦映画”が、他を圧した年となったのである。 『ディア・ハンター』では、平穏な日常と戦場のギャップが強烈に描かれたが、ベトナムの戦場のリアルをスクリーンに映し出す試みは、その後も連綿と続いていく。『地獄の黙示録』(79)『プラトーン』(86)『フルメタル・ジャケット』(87)『カジュアリティーズ』(89)等々。 『帰郷』のように帰還兵を題材とした作品としては、オリバー・ストーン監督、トム・クルーズ主演の『7月4日に生まれて』(89)が、その後の代表的な作品として挙げられる。しかし一方で、そうした存在を主人公にした、B級テイストのアクション映画も、頻繁に製作されるようになる。 『ローリング・サンダー』(77)『ドッグ・ソルジャー』(78)『エクスタミネーター』(80)等々。その究極の形とも言えるのが、82年に公開された、シルベスター・スタローン主演の『ランボー』第1作である。 因みに、当初その先駆けのように言われたのが、76年公開の最後の“ニューシネマ”『タクシードライバー』。しかし、デ・ニーロが演じた主人公トラヴィスは、その誇大妄想狂ぶりや虚言癖から、彼が自称する「ベトナム帰りの元海兵隊員」というのは、「信じ難い」というのが、今日では有力な説になっている。 そして“戦争アクション”という形で、80年代の半ば近くから、次々と製作・公開されるようになるのが、いわゆる“MIAもの”である。「MIA」とは、Missing in Action=「戦闘後の行方不明兵士」を意味する言葉。 では“MIAもの”とは、一体どんな内容の作品なのか?それについては、『ランボー』に続いてのテッド・コチェフ監督作品であり、このジャンルの口火を切った本作、『地獄の7人』のストーリーを紹介するのが、手っ取り早いと思う。 主人公はジーン・ハックマン演じる、退役軍人のローズ大佐。10年前にベトナム戦線で行方不明=MIAとなったひとり息子の行方を捜し求めている。 アメリカ政府から何ら有力な情報がもたらされることがない中、独自の調査で、ベトナムの隣国ラオスに在る捕虜収容所の空中写真を入手。アメリカ兵の捕虜らしき影を、そこに見出す。 ローズは自分と同じく、息子がMIAとなっている富豪から資金援助を得て、自らがリーダーとなり、救出作戦を強行することを決意する。そのために彼は、息子の戦友たちを訪ね歩き、協力を求める。 ベトナムからの帰還後、実業家として成功を収めた者が居る一方で、戦場の悪夢にうなされ続ける者も居る。大佐を含めて、集まった者は、“七人”。実戦の勘を取り戻し、作戦を成功させるための猛訓練が数週間に渡って行われた後、チームは勇躍、タイのバンコクへと旅立つ。 ここからラオスを目指す算段だった“七人”だが、そこで思わぬ邪魔が入る。ベトナムやラオスとのトラブルを恐れ、密かに彼らの監視を続けていたCIAによって、用意した装備がすべて、没収されてしまったのである。 しかし彼らは諦めず、麻薬バイヤーの中国人の力を借りて、中古の銃火器を調達。陸路で目的地へと向かう。 ラオスとの国境で、まずは一戦を構えた一行。犠牲を出しながらも、国境警備の兵士を全滅させて、ラオスへの入国を果たした。 そして遂に、目的地の捕虜収容所に達し、アメリカ兵の捕虜4名の存在を確認。ラオスの大地を血に染める、地獄の救出作戦を開始する…。 本作の翌年以降に公開されて、むしろ本作よりも知名度が高い“MIAもの”『ランボー/怒りの脱出』(85)や、チャック・ノリス主演の『地獄のヒーロー』シリーズ(84~88)も、ベースとなる展開はほぼ同じ。主人公は正規の外交交渉を飛び越え、アメリカ兵捕虜が囚われている収容所に乗り込んで救出作戦を展開。殺戮と破壊の限りを尽くす。 では80年代、なぜこうした“MIAもの”が数多く製作・公開されたのか?大きな理由の一つに挙げられるのが、1981年にロナルド・レーガンが、アメリカ大統領に就任したことである。 俳優出身で、“グレート・コミュニケーター=偉大なる伝達者”の異名を取ったレーガン大統領。ソ連など共産陣営との対決姿勢を強め、2期8年の任期=即ち80年代のほとんどに渡って、「強いアメリカ」の復活を鼓舞した。まるで、ベトナム戦争の「敗戦」という、悪夢を吹き飛ばすかのように。 そこに呼応するかのように製作されたのが、“MIAもの”だった。アメリカ国内には以前から、ベトナム領内には戦争捕虜が残されているとの見方が根強くあったが、強硬なタカ派的な姿勢が強いレーガン政権の下では、自国民を取り戻すためには、「実力行使も辞すべきではない」という考え方が、自然と強まったわけである。 レーガン政権誕生直前、中東のイランでイスラム革命が起こり、1979年から81年に掛けて、在イラン・アメリカ大使館の外交官たちが人質に取られるという事件があったことも、“MIAもの”の製作を、後押しした。まるで、アメリカ国民の間に溜まった、大きなストレスを晴らすかのように。 では“MIA”の現実は、どのようなものだったのか?果してベトナムやその周辺に、囚われのアメリカ兵は居たのであろうか? ベトナム戦争はアメリカ軍撤退の2年後、1975年のサイゴン陥落で終結。その後アメリカとベトナムが、“国交正常化”を目指した交渉を始めるまで、10年以上の歳月を要した。 87年に両国は、“MIA”調査の進展とベトナムへの人道援助の開始で合意。91年には協力促進のため、アメリカ側の常設事務所が、ベトナムのハノイに設けられた。 その後、両国の国交は95年に正常化されるが、ベトナム側はその前後=91年から2019年までの28年間に、972体に及ぶアメリカ兵の遺骨を発見・発掘。アメリカへの返還を果たしている。更には、いまだ不明者として登録されているアメリカ兵1,597人の捜索に、毎年100億円以上の予算を注ぎ込んでいる。 この事実は即ち、少なくともベトナム国内には、ジーン・ハックマンやスタローン、チャック・ノリスが乗り込んで、武力で奪還するような捕虜は存在しなかったということを表す。“MIAもの”はその前提自体が、映画上での創作に過ぎなかったわけである。 そもそもアメリカ側の戦死者・行方不明者5万8,000人に対し、国土が泥沼の戦場と化したベトナム側は、民間人を含めて300万人が犠牲となっている。そしてその内の30万人が、いまだに行方不明のままだ。 遥か東南アジアの異国で行方不明になった者を案じて、肉親や友人がその身を救おうとするドラマに、アメリカの観客が快哉を叫んだ理由は理解できる。一概に戦死者や行方不明者の数を比較することにも、大きな意味があるとは思えない。 しかし焦土と化した地に、かつての“侵略者”側が再び乗り込んで来て、軍事作戦を慣行。数名の生存者を救うために、何十名・何百名という罪もない兵士を血祭りに上げる展開には、正直ついていけない部分を感じる。 84年の初夏、『地獄の7人』の試写に赴いた私は、同行の友人と共にその部分に大いに引っ掛かり、鑑賞直後には些かエキサイトして、この映画について批判を述べ合ったのである。そこに冷え水を浴びせるかのような、白人男性の一声。 「ダガ、アナタタチハ、センソウノゲンジツヲ、シラナイ」 彼がアメリカ人だったかどうかもわからないが、ベトナムからの帰還兵であってもおかしくない年代ではあった。しかし今となっては、日本人の少年2人に、何であんな声を掛けてきたのか、その心情は想像するより他にない。◼︎ TM, ® & © 2019 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
地獄の7人
ベトナム戦争終結から10年、捕虜となり未だ戻らぬ息子を想う父親をジーン・ハックマンが演じた戦争アクション
戦時行方不明者(MIA)救出を取り上げた痛快アクション映画がこの頃流行ったが(『地獄のヒーロー』、『ランボー2』)、そんな中でも、息子を思う父の愛を描き、感動を盛り込むことに成功した異色MIA救出モノ。
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COLUMN/コラム2011.08.02
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2011年8月】招きネコ
80年代は、「フラッシュダンス」「フットルース」など青春ダンス映画には数々のヒット作がありましたが、1本選べと言われれば、この「ダーティ・ダンシング」。主演のパトリック・スウェイジとジェニファー・グレイの全くの吹き替えなしの驚異的なダンス・シーン、当時駆け出しだった「ハイスクール・ミュージカル」や「THIS IS IT」の監督ケニー・オルテガが手がけたダーティ=下品という意味のセクシーすぎる振り付け、そして大ヒット主題歌。すべてが本物です。 ©1987 ARTISAN PICTURES INC. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
ブラック・ドッグ
妻子と積荷は絶対守る!アブない仕事を引き受けた熱血トラック野郎の闘いを描く傑作アクション
『ゴースト/ニューヨークの幻』で人気を博した実力派俳優、故パトリック・スウェイジが挑んだクライム・アクション。巨大トレーラーでハイウェイを爆走するカーチェイス・シーンは迫力満点!
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PROGRAM/放送作品
ダーティ・ダンシング
パトリック・スウェイジが魅せる爽快なダンスと、60年代のヒット曲に彩られた青春ラブ・ストーリー
パトリック・スウェイジ、ジェニファー・グレイ主演の大ヒット作。ダンスへの情熱と初めての恋によって、大人の女性へと成長する17歳の娘のひと夏を描いた、いつまでも色褪せない青春ラブ・ストーリー。