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PROGRAM/放送作品
ダークタワー
スティーヴン・キングの集大成的なベストセラーを映画化!暗黒の塔を巡る死闘を描くファンタジーアクション
スティーヴン・キングが構想から完結まで30年も費やしたベストセラー小説シリーズを映画化。映像化不可能と思われていた壮大かつダークな世界観と、凄腕の銃使いが繰り広げる高速ガンアクションに目を奪われる。
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COLUMN/コラム2022.06.07
ハインリヒ・ハラーの「チベットの七年」は、いかにしてジャン=ジャック・アノーの『セブン・イヤーズ・イン・チベット』になったか!?
本作『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997)の主人公で、ブラピことブラッド・ピットが演じるハインリヒ・ハラーは、実在の人物である。1912年にオーストリアのケルンテルンに生まれ、グラーツ大学で地理学を専攻した。 36年にはスキーヤーとして、オリンピック選手団の一員に。翌年には世界学生選手権の滑降競技で優勝を飾った。 そして38年、アルプスのアイガー北壁の登攀に成功。その功績によって、当時オーストリアを支配していた、ナチス・ドイツのヒマラヤ遠征隊への参加を認められる。映画のストーリーが始まるのは、ここからである。 ***** 1939年秋、オーストリアの登山家ハラーの頭は、ヒマラヤ遠征のことでいっぱいだった。傲慢な性格の彼は、妊娠中の妻のことを顧みず、家庭不和を抱えたまま旅立つ。 ハラーが参加したドイツの遠征隊は、“魔の山”とも呼ばれる高峰ナンガ・パルバットに挑む。しかし雪崩のために、中途で断念せざるを得なくなる。 折しも第2次世界大戦、イギリスがドイツに宣戦布告したタイミング。イギリスの植民地であるインドに居た遠征隊一行は捕らえられ、捕虜収容所へと収容される。幾度となく脱走を図るハラーだったが、失敗が続いた。 そんな彼に、妻から手紙が届く。その封筒には、“離婚届”が同封されていた。 収容から2年経った42年、ハラーは遠征隊の仲間と共に、ようやく脱走に成功した。そこからは単独行を選ぶが、やがて遠征隊の隊長だったアウフシュタイナー(演:デヴィッド・シューリス)と再会。2人は衝突を繰り返しながらも、逃避行の旅を助け合った。 45年、2人は外国人にとっては禁断の地、チベットの聖都ラサに辿り着く。政治階層のツァロン(演:マコ岩松)、大臣秘書のンガワン・ジグメ(演:B・D・ウォン)らが、救いの手を差し伸べてくれた。 持てる知識と技術を提供しながら、素朴なチベットの人々と風土に、心が癒やされていく、ハラー。そんな時チベットの政治・宗教の最高権威者であるダライ・ラマ14世(演:ジャムヤン・ジャムツォ・ワンジュク)が、ハラーの存在に興味を持つ。 ハラーはダライ・ラマに謁見。その日から、まだ10代の少年だったダライ・ラマとの交流が始まる。ハラーは、ダライ・ラマを敬いつつも、故郷のまだ会ったことのない息子への思慕を代替するかのように、彼のことを慈しむのだった。 しかしやがて、毛沢東によって建国された、中華人民共和国の軍靴の音が、チベットの平穏を揺るがしていく…。 ***** 原作はハラー自らが著した、「チベットの七年」。映画は前半、若き野心家だったハラーの冒険行と挫折、そして命懸けの逃亡生活を描く。後半はタイトル通り、「チベットの七年=セブン・イヤーズ・イン・チベット」。チベットで暮らし、若きチベット仏教の法王との間に友情を育て、やがて故郷に帰るまでの物語である。 ジャン=ジャック・アノー監督が、この題材に惹かれた理由は、想像に難くない。フランス人である彼だが、そのデビュー作『ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー』(76)は、第一次世界大戦時のアフリカが舞台。続いて、『人類創世』(81)で旧石器時代、『薔薇の名前』(86)で14世紀北イタリア、『子熊物語』(88)でロッキー山脈、『愛人/ラマン』(92)で1929年の仏領インドシナ、『愛と勇気の翼』(95)では1930年代のアルゼンチン、『スターリングラード』(00)で独ソ戦、『トゥー・ブラザーズ』は1920年代のカンボジアといったように、そのフィルモグラフィーには1本たりとも、フランス本土を舞台にした作品がないのである。時制が“現代”である作品も、見当たらない。 異境の地、そして今ではない時代に、登場人物が歴史のうねりに翻弄されながらも、運命に抗わんとする姿を、スケール感たっぷりの大作仕立てで描く。アノー作品のこうした特徴を記すと、デヴィッド・リーンがキャリアの後半に手掛けた、大作群に重なるところもある。実際に80年代後半から2000年代前半までは、アノーを語る際には、“巨匠”と冠することも、少なくなかった。 そんなアノーにとって、ハインリヒ・ハラーの、1940年代前後の軌跡は、正に「格好の題材」であったのだ。アノーは本作公開時のインタビューで、次のように語っている。 ~ハインリヒ・ハラーの本に心が惹かれたのは、500ページに及ぶ、7年間の生活の記録が書かれているけれども、彼の心情については触れられていないことだ。…脚本家のベッキーには、実在のハインリヒや映画会社の誰にも束縛されることなく、自由にわれわれの感じたことを表現して欲しいと頼んだ~ 結果としてそれが、ハラーの実像に近づくことに繋がったなどと、アノーは結論づけている。しかしこれはあくまでも「表向き」のことで、額面通りに受け取れない。というのは、「誰にも束縛されることなく、自由に」脚色を行った際に、実在のハラーが“独身”だったのを、本作では、まだ会えぬ我が子に思いを寄せる“父親”に改変してしまっているのである。 原作「チベットの七年」は、第2次世界大戦前後の激動の時代に、秘境の地チベットを訪れた冒険記や日記文学として、主に価値が見出されている。それをアノーと脚本家のベッキー・ジョンストンは、大胆に再構成。わがまま勝手で罪深い若者が、異郷での辛苦と癒やしを経て、自らを再発見。ダライ・ラマとの出会いから救済を得て、やがて実の我が子とも邂逅。新しい人生を歩んでいこうとする物語に、仕立て上げてしまった。 詳細は観て確認していただきたいが、チベットを去るハラーに対し、ダライ・ラマが贈る感動的な言葉も、即ち映画に於ける創作ということになる。 史実を改変することが、どこまで許されるのか?本作で、監督が描かんとする方向に舵を切るため、実在の人物に、架空の妻子を持たせてしまったことなど、賛否は付きまとうであろう。この辺りの是非の判断は、観る方1人1人にお任せする。 いずれにしても「チベットの七年」という題材を生かして、アノーがやりたかったことは、正にコレだったのだ!それが、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』という映画作品である。 本作で、スターと言える出演者は、主演のブラピただ1人。ブラピは、アノーとの最初のミーティングからノリノリで、撮影現場でも文句ひとつなく、時には危険なスタントも、自らやってのけた。 この背景には、彼の前作『デビル』(97)が、トラブル続きだったこともある。共演のハリソン・フォードとの、自尊心の強いスター同士の意地の張り合いや、脚本の相次ぐ変更などによって、撮影が大幅に遅れてしまったのである。 それに対して本作では、製作費の1割以上が自分のギャラとして用意された。共演のデヴィッド・シューリスとも、山登りをはじめ様々なトレーニングを共にしながら、終始良好な関係だったという。 因みに本作のキャストは、プロの俳優と言える者は、ごく一部。ダライ・ラマ役の少年をはじめ、ほとんどが、インドなど世界各地から集められた、演技面では素人のチベット人たちだった。 本作は、チベットを侵略した中国を批判する内容であるため、その支配下となっていたチベットでは、もちろん撮影はできない。そのためロケ地として白羽の矢が立てられたのは、ダライ・ラマ14世が、1959年以来亡命生活を送るインドだった。しかしインド政府は、友好関係にある中国に気を使い、撮影を拒否。 そこで、インドからは地球の裏側に当たる、アルゼンチンにチベットの聖都ラサを再現し、そこでメインの撮影を行うこととなった。多くのチベット人たちは、世界中から南米へと運ばれて、撮影に参加したのである。 その上でアノーは更に、冒険的な試みを行っている。それはスタッフ及びブラピとシューリスのそれぞれ代役を、チベットに潜入させ、自らはアルゼンチンからFAXや電話で指示を出しての極秘撮影。こうして本作中には、かなり多くの部分で、本物のチベットのシーンを収めることに成功した。 中国関連以外にも、本作には政治的な問題が付きまとった。公開が近づいた頃、ドイツのニュース雑誌「シュテルン」が、原作者のハラーがかつてナチスの親衛隊員で、曹長に当たる階級だったことを、写真付きですっぱ抜いたのである。 この件では、ナチスの戦犯追及で有名な「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が調査に乗り出した。その結果、ハラーがドイツによるオーストリア併合を支持し、ヒトラー個人にも好意的な内容の手紙を送っていたことが判明。そのため、ユダヤ系団体から本作の内容に対する批判や、上映ボイコット騒動が沸き起こった。 その一方で、ハラーは一介のスポーツ・インストラクターに過ぎず、ユダヤ人に対する残虐行為に加担した証拠がないことも、明らかになった。これらを受けてハラー本人は、「私の良心は一点の曇りもない」と、コメント。アノーやブラピはこの件に関しては、ただただ沈黙を守る他はなかったが。 ハインリヒ・ハラーは2006年、93歳でこの世を去った。お互いチベットを離れた後も、度々友情を温め合う機会を持ったダライ・ラマは、この時ハラーに、哀悼の言葉を捧げている。 中国によるチベット支配はいまだ強権的に続けられ、弾圧は止む気配がない。そんな中で本作によって、中国側のブラックリストに載った筈のジャン=ジャック・アノーは、2015年に中国に招かれ、『神なるオオカミ』という作品を監督している。 文革期の1967年、内モンゴルの草原を舞台に、下放された北京出身の知識人の青年が主人公であるこの作品は、題材的には確かにアノー向きと言える。しかしチベットに於いて、深刻な人権蹂躙が続く中で、一体どんな事情と心境の変化があって、この作品を引き受けたのだろうか? 心境の変化という点で言えば、アノーの最新作は、今年3月にフランスで公開された、『Notre-Dame brûle』。タイトル通り、2019年4月15日に起こった、パリのノートルダム大聖堂の火災を題材にした作品である。そしてこれがアノーにとっては初めて、“フランス本土”そして“現代”を舞台にした作品となった。 アノーは、“変節”したのか?それとも、70代にして、まだまだ転がる石ということなのか?最新作を含め、2000年代後半以降にアノーが監督した4作品中3作品が、今のところ日本未公開故、判断は保留せざるを得ないが。■ 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』© 1997 Mandalay Entertainment. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
リンカーン弁護士
法の盲点を熟知した敏腕弁護士がダーティに活躍!マシュー・マコノヒーの色気があふれる法廷サスペンス
全米ベストセラー小説を映画化。高級車リンカーンをオフィス代わりにし、ダーティな裏技も駆使する異端の弁護士をマシュー・マコノヒーが色気満点に魅せる。マリサ・トメイら脇を固める実力派キャストにも注目。
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COLUMN/コラム2021.11.10
“ロマコメ女王”2人を生んだ、未だ色褪せないおとなの恋愛映画『恋人たちの予感』
恋愛をテーマにしたコメディ映画“ロマンティック・コメディ”、略して“ロマコメ”。『或る夜の出来事』(1934)『ローマの休日』(53)『アパートの鍵貸します』(60)等々、ハリウッドでは古より、このジャンルから数多くの名作が生み出されている。 1989年に製作された本作『恋人たちの予感』も、そんな系譜に連なる、“ロマコメ”マスターピースの1本。この後90年代を席捲する、2人の“ロマコメ女王”を生み出したという意味でも、記念すべき作品である。 2人の“ロマコメ女王”の1人目は、もちろんメグ・ライアン(1961~ )。『トップガン』(86)『インナースペース』(87)などで若手女優として売り出し中だった折りに、本作の主演で、その人気が決定的なものとなった。 以降、『キスへのプレリュード』(92)『めぐり逢えたら』(93)『フレンチ・キス』(95)『恋におぼれて』(97)『ユー・ガット・メール』(98)『ニューヨークの恋人』(2001)といった、同ジャンルの作品に次々と主演。齢四十に至る頃まで10年強に渡って、キュートな魅力を全開に、“ロマコメの女王”の名を恣にした。 “ロマコメ女王”のもう一人は、本作の脚本を担当したノーラ・エフロン(1941~2012)である。脚本家になる前には、ホワイトハウスのインターン、「ニューヨーク・ポスト」紙の記者、コラムニストなどの多彩な職歴がある彼女だが、実は両親のヘンリー&フィービー・エフロンが、名作『ショウほどすてきな商売はない』(54)などのシナリオをコンビで書いた、有名脚本家夫婦。蛙の子は蛙と言うべきか、転身後には、アリス・アーレンと共同で脚本を書いた社会派の秀作『シルクウッド』(83)が、アカデミー賞の候補になるなど、気鋭の脚本家として注目の存在となった。 本作以降、90年代は監督としても活躍。特にメグ・ライアン主演で、エフロンが脚本・監督を担当した『めぐり逢えたら』『ユー・ガット・メール』は、本作と合わせて、エフロン&メグの“ロマコメ3部作”などと謳われる。 この2人の“女王”の誕生のきっかけを作ったのは、本作のプロデューサーであり、監督のロブ・ライナー(1945~ )。『スタンド・バイ・ミー』(86)『ミザリー』(90)といった、スティーヴン・キング原作の映画化作品などで知られるライナーのフィルモグラフィーを覗くと、本作のような“ロマコメ”の監督の印象は、ほとんどない。 ではなぜ、『恋人たちの予感』を手掛けるに至ったのか?実は本作は、彼の実体験をベースにして作られたものなのである。 ***** 1977年、シカゴ大学を卒業したサリー(演:メグ・ライアン)は、同じく卒業したてで、親友の彼氏であるハリー(演:ビリー・クリスタル)を車に同乗させて、ニューヨークへと移る旅に出る。2人の初対面は、ほぼ「最悪の部類」。18時間もの道中で会話を交わすも、何かにつけて意見が合わない。 しかしその時にハリーがサリーに言った、「男と女はセックスが邪魔をして、友達になれない」という言葉が、その後の人生に大きな影響をもたらすとは、2人とも思ってもみなかった。 5年後ニューヨークの空港で、サリーは付き合い始めたばかりの恋人の男性に見送られて出張先に向かおうとしている時に、偶然ハリーと再会。搭乗する飛行機まで同じだった2人は、5年前と同じように、機内で口論になってしまう。ハリーから近々結婚するという話を聞きながら、サリーはまたも彼と、喧嘩別れのような形となる。 更に5年後。ハリーは妻に浮気されて、やむなく離婚し、サリーも5年前から付き合っていた彼氏と、破局に至った。お互いにそんな傷心の状態にあるタイミングで、3度目の出会いが訪れた。 ようやく友達同士になれて、頻繁にデートするようになる2人だったが、話題になるのは、お互いの恋愛の悩みばかり。時にはロマンティックなムードになりかかることもあったが、“友情”を守るのが第一と、その度にお互いのそうした気持ちは振り払っていた。 そんな付き合いをずっと続けていこうと、ハリーはジェス(演:ブルーノ・カービィ)、サリーはマリー(演:キャリー・フィッシャー)という、お互いの同性の親友を紹介し合って、交際させようとする。しかし目論見は見事に外れて、ジェスとマリーが意気投合。ハリーとサリーは、お互いの親友同士が結婚することになってしまう。 そんな予想外の出来事もありながら、「セックスはしない」ことで、あくまでもお互いの友人関係を守り続けていこうとする2人。しかし遂に、一線を越えてしまう局面が訪れて…。 ***** 監督のロブ・ライナーは、自分のことを“ピーターパン・シンドローム”であると自己分析していた。即ち、彼の心の中にはいつまでも子どもでいたいという気持ちが潜んでいて、己が年をとったことをなかなか受け入れられない…。 12歳の少年が姿かたちだけ大人になってしまう、『ビッグ』(88)という作品がある。当時30代だったトム・ハンクスが演じたこの主人公のモデルとなったのが、実はライナー。そしてこの作品を作ったのは、ライナーの元妻である、女性監督のペニー・マーシャルだった。 ライナーとマーシャルの10年続いた結婚生活は、81年に終わりを告げる。“ピーターパン”である彼にとって、自分の結婚がうまくいかなかったという現実を受け入れるのは、非常に困難なことであった。 そしてそんなタイミングで、本作『恋人たちの予感』の構想が浮かび上がる。「男女の友情は成立するのか?」「そのときセックスはどうなるのか?」といったモチーフが、ライナーの中に湧き出てきたのである。 そうしたアイディアが、具体的に動き出すのは、84年。ノーラ・エフロンがライナーのチームに呼び出され、新しい映画のプロジェクトについて話し合いを持つようになってから。 幾つかの企画が挙がったが、決め手に欠けた。そんな中で、ライナーたち男性陣とエフロンの雑談中に、盛り上がった話題があった。 ライナーたちは、「女性とは絶対に友人関係になれない」と主張。その理由は、「セックスの問題が必ず入り込んで、友情関係の邪魔をする」というものだった。それに対してエフロンは、そんなはずはないと反論。両者の間で応酬が繰り広げられた。 ライナーはこの雑談の内容を受けて、「友情を育む男女の物語」を映画化しようと提案。物語を具体的に編む上で、主人公たちは親友であり続けるために、「決してセックスをしない」のを決め事にした。 その提案にエフロンが乗って、脚本作りがスタート。主人公の男の方に関しては、エフロンはライナーのキャラクターをベースにした。こうして、ひょうきんな半面、陰気で内省的な部分の持ち主でもある“ハリー”が生まれた。 一方で女性の方の“サリー”には、エフロン自身が投影されているところが多い。ライナーによればエフロンは、陽気で楽観的で、ある種の完璧主義者だった。サリーがレストランで、パンやベーコンの焼き方やマヨネーズの添え方などについて細々と注文を付けるのは、完全にエフロン本人の流儀であることを、彼女自身が認めている。 さてこのようにしてシナリオが出来上がり、キャスティングの段階になって、ライナーは必然的に、自分の身近な人間から俳優を選ぶこととなった。彼にとって、自身がモデルとなったハリー役のビリー・クリスタル(1948~ )は、長年の親友。ハリーとサリーが、それぞれのベッドから電話して慰め合うシーンがあるが、あれはライナーとクリスタルが、お互いの離婚後にやっていたことそのままだという。 ハリーの同性の親友ジェスを演じたブルーノ・カービィ(1949~2006)も、そうだ。彼はライナーが離婚で打ちのめされている時に、ジェスがハリーにしたように、優しく接してくれた人物だった。 一方でメグ・ライアンに関しては、それまでにライナーの過去作のオーディションを受けていたことが、きっかけになった。ライナーが“サリー”役に彼女はどうかと思い付き、先に決まっていたクリスタルに会わせたところ、2人の雰囲気がぴったりだったので、ヒロインに決めたという。 サリーの同性の親友マリー役に、キャリー・フィッシャー(1956~2016)を決めたのも、ライナー。こうして主要なキャスティングが、固まった。 因みに映画の冒頭から何組も出てくるのが、長年連れ添った老夫婦のインタビュー。リアルな装いなので、この部分はドキュメンタリーかと思うが、実は違う。エピソードだけを集めて、俳優たちをキャスティングして撮影した。その方が、実話の面白さをより伝えられるという判断だった。 余談はさて置き、このようにして決まった俳優陣、特にハリーとサリー役の2人が、いかに奇跡のような組み合わせであったか! エフロンの脚本、ライナーの演出を大きく広げる役割を果たした。 例えばメグ・ライアンが演じるに当たっての解釈は、「ハリーもサリーも、初めて会った瞬間からお互いに激しい恋心を抱いていたと思う。ただそのことに気づくまで11年もかかってしまっている」というもの。この考えをベースにした役作りが、長年に渡る2人の関係性の変化を描く上で、見事に機能している。 本作で最も有名だと言っても良いのが、ニューヨークのマンハッタンにあるカッツ・デリカテッセンで繰り広げられる「フェイクオーガズム」のシーンである。これは元々、脚本の打合せの際に、「女性の多くは(セックスの際に)オーガズムの“フリ”をした経験があるはず」と、エフロンが語ったことに衝撃を受けたライナーたちが、是非脚本に盛り込んでくれとオーダーしたことから生まれたもの。 しかしエフロンの脚本だと、自分とセックスした女性はすべてオーガズムに達していると自信満々に語るハリーと、それを否定するサリーという、食事中の会話止まりだった。ところが実際に撮影されたのは、店内が満席なのにも拘わらず、堂々とオーガズムでイッテるふりを演じて見せ、女性がセックス中に演技していても、男性には見分けがつかないことを、サリーがハリーに見せつけるというシーンだった。 これはメグ・ライアンが脚本を読んで、サリーが会話の最後に、その“フリ”を実演するようにしたいと提案したのを受けて、アレンジしたものだった。更にはこのシーンのオチとして、隣席の女性が「あの女性と同じものを」と注文する絶妙なギャグが入るが、これはコメディアンであるビリー・クリスタルのアイディア。因みにその女性を演じているのは、ロブ・ライナーの実の母親である。 こんなエピソードからも本作では、脚本の作成段階から撮影現場まで、今で言うジェンダー間のギャップを乗り越えようとする努力が行われていた様が窺える。80年代末という時代を考えれば、かなり先進的な試みだったと言える。そしてそれ故に本作は、「男女が出会って喧嘩して、しかし時の経過と共に離れられない間柄になっていく」という、“ロマコメ”の王道のような、ある意味古くさい構成でありながら、製作から32年経った今でも、色褪せない作品になったのである。 さて先に記した通り、ライナーの実体験を基にスタートした本作。ラストに訪れるハリーとサリーの“結末”も、撮影中にライナーの身に訪れた僥倖によって決まった。 当初ライナーは、離婚によって深く傷ついたハリーが、もう一度結婚してみようという気になるのには、あれだけの時間では無理なのではないかと考えていた。ところがライナー本人が、本作の撮影中に知り合った女性と、再婚することになったのだ。 そこで彼は、自分に出来ることならば、ハリーにも出来ないわけはないという気持ちになった。そして“ラスト”が、今の形に決まったのだという。 エフロンが書いた脚本には、こうした奇跡のような出来事を呼び起こす、魔法のような力があったのかも知れない。■ 『恋人たちの予感』© 1989 CASTLE ROCK ENTERTAINMENT. All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
U-571
ドイツ軍の最新鋭潜水艦に潜入せよ!第二次大戦の史実を基に創造したリアルな戦争アクション
第二次大戦で実際に行われた暗号機奪取作戦をヒントにした戦争アクション。ドイツ軍最新鋭潜水艦に潜入した米軍兵の死闘を、実物大のレプリカ・セットで舞台を再現するなど、リアリティ重視の骨太な演出で描く。
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COLUMN/コラム2019.02.03
ハリウッド版ヒロイック・ファンタジーの金字塔が映画界に与えた影響とは!? 『コナン・ザ・グレート』
ボディビル界の伝説的スーパースター、アーノルド・シュワルツェネッガーを、一躍ハリウッド映画界のトップスターへと押し上げたジョン・ミリアス監督のアクション映画『コナン・ザ・グレート』(’82)。欧米では古くから「Sword and Sorcery(剣と魔術)」と呼ばれて親しまれたヒロイック・ファンタジーのジャンルを復活させ、超人的なマッスル・ボディを持つ新たなアクション俳優像を打ち立てた本作の制作秘話と、当時の映画界に与えた知られざる影響を振り返ってみたい。 ご存知の方も多いとは思うが、『コナン・ザ・グレート』の原作は、アメリカのパルプ・フィクション作家ロバート・E・ハワードが書いたヒロイック・ファンタジー小説『英雄コナン』シリーズである。そもそも、「Sword and Sorcery」という言葉自体が、『英雄コナン』シリーズに代表されるハワード作品群を形容するために生まれたものだ。魔法や怪物が存在した古代ハイボリア時代を舞台に、筋骨隆々の大男コナンが世界を股にかけた大冒険を繰り広げる。’32年に有名なパルプ雑誌「ウィアード・テールズ」に掲載された1作目が大評判となり、以降『英雄コナン』シリーズは全18作を数える人気小説となった。 ’36年に30歳の若さでハワードは死去したものの、その後に出版された未発表作や番外編、ハワードの遺したシノプシスを基に他者が仕上げた作品などを含めると、オフィシャルなシリーズは合計で28作に及ぶ。また、H・P・ラヴクラフトの「クトゥフル神話」よろしく、ハワードに影響を受けた他の作家による非公式シリーズ作も多数存在する。それらをひっくるめて、これまでに数多くのコナン作品集が編纂されてきたが、中でも’60年代末から’70年代にかけて出版されたランサー社およびエース社のペーパーバック版では、人気ファンタジー画家フランク・フラゼッタの描いた表紙イラストが話題を呼び、超人的に筋肉の発達した屈強なバーバリアン(野蛮人)、コナンのイメージを決定づけた。そして、このフラゼッタによるイラストこそが、映画『コナン・ザ・グレート』の原点となったのだ。 ‘76年のある日、友人エドワード・サマーと一緒に映画『鋼鉄の男(パンピング・アイアン)』(’77)のラフカット版試写へ招かれたプロデューサーのエドワード・R・プレスマンは、スクリーンに映ったボディビルダー、アーノルド・シュワルツェネッガーの存在感にスターの可能性を直感し、「彼で映画を撮るならどんな役がいいだろう?」とサマーに訊ねたところ、すぐさま「そりゃもちろんコナンだよ」との答えが返ってきた。当時『英雄コナン』シリーズを知らなかったプレスマンは、サマーから作品の説明を受けながらフラゼッタのイラストを見せてもらい、なるほど、確かにイメージにピッタリ合うと納得。これをきっかけにプレスマンは『英雄コナン』の映画化権を購入し、シュワルツェネッガーにも出演依頼を打診したものの、実際に撮影へ漕ぎ着けるまでには長い時間がかかってしまった。 当初の脚本を書いたのは、企画の立役者サマーとマーベル・コミックのライターだったロイ・トーマス。マーベルは『英雄コナン』シリーズのコミック版を出していたからだ。しかし、大作映画に相応しい有名脚本家を求めるスタジオの要請を汲んで、当時『ミッドナイト・エクスプレス』(’78)でオスカーに輝いたオリヴァー・ストーンが加わり、最終的にストーンの書いた脚本が採用される。しかし、4~5万ものミュータントの大群が戦う彼の脚本は、そのまま映画化することは現実的に不可能だった。さらに、肝心の監督探しも難航。アラン・パーカーやリドリー・スコットに次々と断られて途方に暮れていたところ、プレスマンと共同製作することになったイタリアの大物製作者ディノ・デ・ラウレンティスがジョン・ミリアスに白羽の矢を立てる。当時、ミリアスはラウレンティスと監督契約を結んでいたのだが、なによりも脚本家出身のミリアスなら演出だけでなく脚本のリライトも任せられることが決め手だった。まさに一石二鳥ですな(笑)。 『ダーティ・ハリー』(’71)シリーズの脚本で名を成し、「映画監督よりも将軍になりたかった」と公言する映画界の武闘派ミリアスと、ボディビルやボクシングにのめり込んだマッチョな小説家ロバート・E・ハワードによるヒロイック・ファンタジーは、ある意味で理想の組み合わせだったとも言えよう。ただし、ミリアスは原作者ハワードとはちょっと違ったアプローチを試みる。ストーリーからファンタジーの要素をなるべく排除し、セットや衣装のデザインに正確な時代考証に基づいた古代文明の要素を盛り込むことで、あたかもコナンが太古の世界に実在した人物であるかのような、歴史絵巻的なアクション大作として仕上げたのである。 舞台はアトランティス大陸が沈んでからアーリア人が勃興するまでの間の時代。ということは、少なくとも紀元前2千年紀(日本で言うと縄文時代後期)よりも以前の話ということか。幼少期に両親を殺され奴隷となったキンメリア人コナン(アーノルド・シュワルツェネッガー)は、長じて筋骨隆々の最強グラディエーターへと成長し、冒険の旅の途中で知り合った仲間と共に、親の仇である邪教の王タルサ(ジェームズ・アール・ジョーンズ)に立ち向かう。 この邪教というのが蛇を崇拝する古代宗教で、その神殿ではモンスターのように巨大な蛇に生贄を捧げ、タルサ大王自身も蛇に変身することが出来る。旅の途中では美しくも妖艶な魔女とも遭遇。『狼男アメリカン』(’81)の特殊メイクを模倣したタルサ大王の変身シーンや、実物大のメカニカルモデルを使用した大蛇との格闘シーンなど、ファンタジー的な見せ場も用意されているが、しかしあくまでもメインは、ミリアス監督が大好きな黒澤明監督作品などの日本映画に影響を受けた(「耳なし芳一」にインスパイアされたシーンもある)チャンバラ合戦的な肉弾アクションだ。1500人のエキストラを動員した巨大寺院シーンのスペクタクルも壮観である。 かくして、1982年2月にヒューストンで行われたスニーク・プレビューを皮切りに、世界中で封切られて興行収入7000万ドル近くの爆発的な大ヒットを記録した『コナン・ザ・グレート』。その半年後にはドン・コスカレリ監督の『ミラクルマスター/7つの大冒険』が公開されてヒットし、にわかにヒロイック・ファンタジー映画のブームが到来する。このトレンドを見逃さなかったのが、B級映画の帝王として名高い製作者ロジャー・コーマンである。 スニーク・プレビューの翌日に、新聞で『コナン・ザ・グレート』の批評記事を読んだコーマンはヒットを確信し、すぐさま便乗するべく当時宣伝部スタッフだったジム・ウィノスキーに1週間で脚本を執筆するよう指示。ジャック・ヒルに監督を任せ、3月にはメキシコで撮影を行い、なんと5月には全米公開してしまう。それが、両親を殺された古代の双子美女が宿敵である邪教の魔術師に復讐する映画『Sorceress』(’82・日本未公開)だ。空飛ぶライオンとお岩さんみたいな顔した邪教女神の生首が空中バトルを繰り広げるという、世にもけったいだが最高にいかしたB級映画で、こちらもまたスマッシュヒットを記録。これに味をしめたコーマンは、『勇者ストーカー』(’84)や『野獣女戦士アマゾネス・クイーン』(’85)を矢継ぎ早にヒットさせ、それぞれシリーズ化してガッツリと稼ぎまくる。 ほかにもアルバート・ピュン監督の『マジック・クエスト/魔法の剣』(’82)や、黒澤明の『用心棒』を下敷きにしたデヴィッド・キャラダイン主演の『SFカインの剣』(’84)などが登場。本家『コナン』シリーズも続編『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』(’84)や番外編『レッドソニア』(’85)が公開された。面白いのは、ブームに便乗した類似作品が、いずれも本家シリーズとは違って史劇要素よりファンタジー要素が強いこと。フランク・フラゼッタのイラストをパクったウルトラマッチョなヒーロー&ヒロインや巨大モンスターを描いたポスターデザイン、実際に蓋を開けてみると似ても似つかぬ体形の俳優やチンケな怪物が出てくるところなんかも一緒だ(笑)。そりゃそうだろう、シュワちゃん並みの筋肉俳優なんかそうそういるわけもないし、低予算のB級映画で本家『コナン』クラスの特殊効果は不可能である。 しかし、さらに興味深いのは、この『コナン・ザ・グレート』の時ならぬ大ヒットが、当時既に途絶えて久しかったイタリア産ヒロイック・ファンタジー映画のジャンルを復活させたことだろう。もともと、ハリウッドにおける「Sword and Sorcery」映画とは、どちらかというと中世ヨーロッパの「アーサー王伝説」をルーツにした剣劇アクションの色合いが強く、『コナン』シリーズのような古代世界を舞台に、半裸のマッチョヒーローが暴れまわるような作品は皆無に等しかった。最も近いのは『類人猿ターザン』シリーズだが、ご存知の通りターザンは剣とも魔術とも全く関係がない。むしろ、このジャンルの映画的な先駆者は、『ヘラクレス』(’58)を筆頭とするイタリア産ヒロイック・ファンタジーだったと言えよう。 もともとサイレント映画の時代から古代ローマを舞台にしたスペクタクル史劇がお家芸だったイタリア映画界では、当時から筋骨隆々の英雄マチステが大活躍する映画シリーズが大人気だった。やがて戦後の’50年代、スタジオシステムの崩壊に伴う人件費の削減で、ハリウッドの映画会社が『聖衣』(’53)や『トロイのヘレン』(’56)、『スパルタカス』(’60)などの史劇大作をローマのチネチッタ・スタジオで撮影するようになる。これで活気づいたイタリア映画界は、本家本元の意地を見せるかの如く『ユリシーズ』(’54)や『ロード島の要塞』(’61)といった国産スペクタクル史劇を次々と量産。そうしたブームの中から誕生したのが、神と人間との間に生まれた古代神話の英雄ヘラクレスを主人公にしたヒロイック・ファンタジー映画『ヘラクレス』だったのだ。 翌年公開されたアメリカでは、あのハリウッド超大作『ベン・ハー』(’59)にも匹敵する興行収入を記録した『ヘラクレス』。たちまち、イタリア映画界は古代のマッチョヒーローが大暴れするファンタジー映画で溢れかえる。旧約聖書の英雄ゴライアスがドラゴンや巨大コウモリと戦う『豪勇ゴライアス』(’60)、ヘラクレスが美しき姫を救い出すため魔界の妖怪やゾンビと戦うマリオ・バーヴァ監督の『ヘラクレス 魔界の死闘』(’62)、カルロ・ランバルディが実物大のドラゴンや妖怪メドゥーサの特殊効果を手掛けた『豪勇ペルシウス大反撃』(’63)などなど、’60年代半ばにマカロニ西部劇に人気を奪われるまで、数えきれないほどのヒロイック・ファンタジー映画がイタリアで作られたのである。 また、『ヘラクレス』で特筆すべきは主演のアメリカ人俳優スティーヴ・リーヴスだ。もともと、ミスター・アメリカやミスター・ユニバースなどのタイトルに輝く伝説的なボディビル・チャンピオンだったリーヴス。そう、彼こそがシュワルツェネッガーの大先輩に当たる、ボディビルダー出身映画スターの元祖なのだ。ハリウッド俳優としては鳴かず飛ばずだったリーヴスだが、イタリアへ招かれた『ヘラクレス』でたちまち国際的なトップスターに。すぐさま第二のスティーヴ・リーヴスを狙って、レグ・パークやマーク・フォレスト、ゴードン・ミッチェル、ミッキー・ハージティなどのアメリカ人ボディビルダーがイタリア映画界へ殺到したのである。ただ、リーヴスとミッチェル以外は筋肉だけが取り柄の大根役者だったため、マカロニ西部劇ブームが到来すると一斉にスクリーンから消え去ってしまった。 そして’80年代。『コナン・ザ・グレート』が世界中で大ヒットすると、イタリア産ヒロイック・ファンタジーの元祖ヘラクレスも華麗なる復活を遂げる。それが、ルー・フェリグノ主演の『超人ヘラクレス』(’83)だ。MGMの配給で世界公開されたこの作品は、批評家から大酷評されつつも興行的にはスマッシュヒットを記録して続編も登場。さらに、ヒロイック・ファンタジーにSFを融合させたジョー・ダマート監督の『世紀末戦士アトー/炎の聖剣』(’83)も、シリーズ通算4本が作られるほどのヒットとなった。そのほか、スペインとの合作『ハンドラ』(’83)やルチオ・フルチ監督の『SFコンクエスト/魔界の制圧』(’83)、アメリカの有名なボディビルダー兄弟バーバリアン・ブラザーズを主演に迎えた『グレート・バーバリアン』(’87)などなど、イタリア産のなんちゃって『コナン』映画が雨後の筍のごとく作られたというわけだ。 そんなわけで、ハリウッド映画における古代文明系ヒロイック・ファンタジーのジャンルを本格的に確立させ、とことんまでパンプアップした筋肉美が求められる現在のアクション映画スターの素地を作り、ついでにイタリア産マッチョ史劇映画の伝統まで一時的にせよ復活させた『コナン・ザ・グレート』。これがなければ、もしかすると『スコーピオン・キング』(’02)シリーズも作られなかったかもしれない…!?■ © 1981 Dino DeLaurentiis Corp. 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PROGRAM/放送作品
(吹)U-571 【日曜洋画劇場新版】
ドイツ軍の最新鋭潜水艦に潜入せよ!第二次大戦の史実を基に創造したリアルな戦争アクション
第二次大戦で実際に行われた暗号機奪取作戦をヒントにした戦争アクション。ドイツ軍最新鋭潜水艦に潜入した米軍兵の死闘を、実物大のレプリカ・セットで舞台を再現するなど、リアリティ重視の骨太な演出で描く。
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COLUMN/コラム2018.12.10
『コンタクト』と『コスモス』の間にあるもの(ネタバレあり)
■科学と信仰の融和をうながす高度なSF映画 1997年に製作された『コンタクト』は、我々が地球外知的生命体と接触したときに起こりうる事態に熟考を巡らせ、科学と信仰というテーマを尊重して扱ったハイブロウなSF映画だ(いや、SFという言葉ですらも陳腐に感じさせる)。『2001年宇宙の旅』(68)と同様、膨大な科学的根拠に基づく構築がなされ、このジャンルに知性を回復させている。その価値は公開から20年の間にスペースサイエンスが更新され、同テーマを受け継ぐ優れた後継作(『インターステラー』(14)『メッセージ』(16))があらわれようとも、まったく色褪せることはない。 ジョディ・フォスター演じるエリナー"エリー"・アロウェイは「我々は宇宙で一人ではない」という信念のもと、SETI(地球外知的生命体探査)計画を推進する電波天文学者。彼女は文明を持つエイリアンの存在に確信を抱いており、その実証を得るべく地球外からの信号をスキャンし、メッセージの受信を待機している。 そしてある日、ついに彼女は26万光年彼方のヴェガから発信される素数信号をキャッチし、信号は解読へと運び込まれていく。電波の中には惑星間航行を可能にするポッドの設計図が仕込まれており、それを建造してエイリアンとのコンタクトを図ることになるのだ。だがこうした行為が、世界における科学と信仰の議論を活性化させていくのである。 ■カール・セーガン博士の信念 物語の最後、エリーは子ども時代からのクセだった膝をかかえて座る姿勢をやめ、足を伸ばしてグランドキャニオンの岩場に座っていることに観る者は気づかされるだろう。彼女のこのクセは幼少時代、父親の葬儀のときから兆候を見せている。つまり父の死は神のみぞ知る運命ではなく、過失なのだというエリーの宗教的懐疑論者としての立場を体現するものだ。つまりプロローグでその座りかたをしなくなったということは、彼女の心境の変化を暗示している。 ポッドに乗り込んだエリーは知的生命体との存在を示す驚異的な体験によって、科学者としての合理性だけでなく神秘主義を受け入れていく。そして「真理を求める」という点において科学と信仰は共通なのだと、映画は両者の融和を唱えて終わるのである。 『コンタクト』の物語が美しいのは、こうして映画は広大な宇宙への探求や、宗教科学の論議といった大きな物語を、主人公の「自己探求」というミニマルな主題ヘと換言していく点にある。映画の冒頭、無限に拡がる宇宙が幼少時代のエリーの瞳へとシームレスに重なるシーンで、物語は先述の要素を早い段階から示しているが、それを布石として最後を結ぶ円環構造がきわめて美しく、そして洗練されている。 なによりもこの「自己探求」は、原作者であるカール・セーガンが強く唱えていた信念でもある。自身が構成し進行を務めた宇宙科学ドキュメンタリー『コスモス(宇宙)』(80)を筆頭に、メディアを通じて地球外知的生命体の推測にあらんかぎりの可能性を感じさせてくれた稀代の天文学者は、自身の原作小説をもとにしたこの映画にアドバイザーとして関わっている(セーガン博士は本作公開前の1996年に死去)。 『コスモス』は氏の天体的な理想や理論を拡げ、それを観ている視聴者に宇宙に対する目を見開かせたテレビ番組だ。恥ずかしながら少年時代の筆者もそのひとりだが、そうした種の人間にとって『コンタクト』は、エリーの「自己探求」を、より感動的なものとして捉えさせてくれる。 というのも、この番組の最終章となる「地球の運命」の中で、セーガン博士は地球外知的生命体の可能性について、 「宇宙では化学元素や量子力学の法則も共通であり、生物はその同じ法則のもとに生息しているはずだ」 と仮定し、生物構造や言語が異なる宇宙人のメッセージを解読する方法として、そこには科学という共通の言語があると雄弁に語っている。そして知性を持つ生命体の誕生を探求することは、ひいては地球人の存在を紐解くことへとつながるとセーガン博士は結ぶ。 すなわち知的文明を探す旅は、私たち自身を探す旅でもあるのだ、と——。 『コンタクト』は、このようにセーガン博士の原作を元にしながら、同時に氏の信念に基づく製作がなされ、セーガン博士へのあらん限りの賛辞にあふれている。ちなみに映画の最後にエリーが砂を手にするが、これは「宇宙への探求は、広大な砂場のたった一粒の探すようなもの」という『コスモス』の作中で幾度となく繰り返されたメッセージの暗喩だ。 ただ本作について語るとき、劇中に出てくる奇異な日本描写などの瑣末に目を奪われ、我が国ではいまひとつ肯定的な意見に乏しい印象がある。また同時期の公開作に『ロストワールド/ジュラシック・パーク』や『タイタニック』といった話題作が目白押しだったことから、これらの間に埋もれたようにも感じられ、正当な掘り起こしも浅いまま現在に至っている。加えて後年、本作の映画化初期プロジェクトに関わっていたジョージ・ミラー(『マッドマックス』シリーズ)が「わたしのやろうとしていたものよりもワーナーは安全な製作をとった」とする発言などもあり、風向きもいまひとつ良好とは言えない。なので、自分こそが本作最大の理解者であると主張するつもりは毛頭ないものの、ゼメキス版『コンタクト』の復権に少しでも貢献できればさいわいである。 ■他作に散見される『コンタクト』の影響 そんな『コンタクト』だが、個人的には経年をへて、その価値を実感することがある。それは本作を構成する要素が、後続作品にエッセンスとして流用されているところだ。 実近だと2016年に公開され、怪獣ゴジラをハードに再定義した傑作『シン・ゴジラ』にそれを強く見いだすことができる。たとえばゴジラの擁護を唱えるデモ団体が官邸前で反対派と対立するシーンは、『コンタクト』でVLA(超大型干渉電波望遠鏡群)押し寄せた運動団体の描写や、ひいては科学者と宗教家の対立を彷彿とさせるものだし、矢口に会いに来た米国特使のカヨコ・パターソン(石原さとみ)が着替えをせずに横田基地に来たのだと告げ「ZARAはどこ?」とファッションブランドを尋ねるシーンは、同作で政府と顧問団との懇親パーティに出るため、エリーがコンスタンティン調査委員(アンジェラ・バセット)に「素敵なドレスを売っているブティックを知らない?」と尋ねるシチュエーションの影響が指摘できる。 なにより受信電波から抽出された装置の設計図が、平面ではなく立体で構成されるものだったという設定は、ゴジラの構造レイヤーの解析表が立体によって解読がなされたところと瓜二つだ。それらをもって『シン・ゴジラ』が『コンタクト』からエッセンスを拝借したと主張するのは短絡的だが、数多くのクラシック映画からの引用が見られる『シン・ゴジラ』だけに、『コンタクト』もそれらのひとつとして存在を否定することはできない。 しかし、こうしたアイディアの共有はとりもなおさず同作の価値を立証するもので、むしろ『コンタクト』が他者に影響を及ぼす優れた映画だという論を補強するうえで心強い。庵野秀明総監督には、むしろ心強い支援者として賛辞を贈りたい気分だ。『コンタクト』の劇中「わたしたちは孤独ではない」と唱えたエリーのように。◾︎ © Warner Bros. Entertainment Inc.
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PROGRAM/放送作品
評決のとき
根深い人種差別から生まれた殺人が社会問題に。人間の正義が問われる法廷サスペンスの傑作
ベストセラー作家ジョン・グリシャムのサスペンス小説を映画化。マシュー・マコノヒー、サミュエル・L・ジャクソン、ケヴィン・スペイシーら実力派俳優が競演し、人種差別問題の絡んだ事件を通して正義を問う。
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COLUMN/コラム2018.11.22
【追悼】バート・レイノルズの時代があった。少なくともアメリカでは…『トランザム7000』
伝説のトラッカー“バンディット(山賊)”こと、ボウ・ダーヴィル(バート・レイノルズ)。ある日テキサスの大富豪親子から持ち掛けられた、無理難題な賭けに乗る。それは当時、ミシシッピー川以東に持ち出すと密輸扱いとなった、「クアーズビール」400ケースをテキサスまで出向いて積み込み、ジョージア州アトランタまで運搬する、往復3,000㎞ほどを28時間で走破するというもの。 成功すれば8万ドルもの大金が舞い込むが、道中で警察に見付かれば、即お縄となる。バンディットは、相棒のスノーマン(ジェリー・リード)にビールを運ぶトラックを運転させる一方、己はポンティアック・ファイヤーバード・トランザムに乗って、追っ手を撹乱する作戦を取った。 ビールを無事積み込み、いざアトランタへとなった復路で、バンディットはウェディングドレスを纏ったキャリー(サリー・フィールド)という女を拾う。彼女は、その名もジャスティス保安官(ジャッキー・グリーソン)のボンクラ息子との挙式中に嫌気が差して、教会から逃げ出して来たところだった。 怒りに燃えるジャスティスは、息子と共に猛追跡を開始。それが引き金となってバンディットたちは、アーカンソー州・ミシシッピ州・アラバマ州・ジョージア州の各州警察と、壮絶なカーチェイスを繰り広げることとなるのであった…。 アメリカでは1977年の5月、日本では同年10月に公開された『トランザム7000』。いま観ると驚くほどに、その時代を象徴するアイコンが満載の作品である。 1970年台後半という時節はまさに、“大型トラック”がキテいた頃。日本ではデコトラブームの真っ最中で、菅原文太主演の東映『トラック野郎』シリーズ(1975~79 全10作)が、お盆と正月ごとに松竹の『男はつらいよ』と、覇を競い合っていた。同じ頃アメリカでも、ジャン=マイケル・ヴィンセント主演の『爆走トラック'76』(1975)、サム・ペキンパー監督の『コンボイ』(1978)など、トラックが主役と言えるアクション映画が製作されている。そんな中でも最大級のヒットとなったのが、本作『トランザム7000』である。 車が主役という意味ではこの作品、当時の“スーパーカー”ブームにも乗っている。日本では、原題の『スモーキー(警官を意味するトラッカー仲間の隠語)とバンディット』のままで公開するわけにはいかなかったのであろうが、『トランザム7000』という、バンディットが乗り込む車種を、実に思い切りよく押し出して、邦題にしている。 この時分の日本の中高生男子は、「週刊少年ジャンプ」に連載されていた池沢さとし作の漫画「サーキットの狼」(1975~79)などの影響で、猫も杓子もランボルギーニ・カウンタックやフェラーリなどの“スーパーカー”に熱狂していた。もちろん、実際に手に入れたり運転出来る代物ではないので、ある者はモーターショーなどで写真を撮りまくり、ある者は“キン消し=キン肉マン消しゴム”に先立つ、“スーパーカー消しゴム”のコレクションに明け暮れたりしていたのだ。 そんなわけで日本の配給会社は、“トランザム”を敢えて「売り」にする挙に出たわけである。厳密に言うと、“トランザム”を“スーパーカー”の範疇とするのが正しいのかどうかは、かなり微妙らしいが…。 そして、“トラック野郎”“スーパーカー”と並ぶ、いや少なくともアメリカではそれ以上の“時代のアイコン”だったのが、この映画の主演男優!バンディットを演じた、バート・レイノルズその人である。 1936年、アイルランドとネイティブ・アメリカン(チェロキー族)の血を引く父と、イギリス人の母の子として生まれる。大学時代はアメリカン・フットボールの花形選手で、プロ入りを目指したものの、事故による故障で断念。その後友人の薦めもあって、俳優を志すこととなる。 撮影現場でのスタントマンなどを経て、1960年代はTVシリーズやB級アクション映画、マカロニウエスタンなどに出演。しかし1970年代初頭、30代半ばを迎えた頃のバートは、未だ世間の耳目を集める存在ではなかった。 スポットライトが当たったのは、1972年。アメリカの女性雑誌「コスモポリタン」4月号で、クマの毛皮に全裸で横たわり、左手で局部だけを隠したヌードグラビアを披露したのである。よく筋骨隆々という言葉が使われるが、この時代のそれは、1980年代中盤以降に主流となる、スタローンやシュワルツェネッガーのような、エッジの利いたステロイド系の筋肉とは違う。もっとしなやかな、自然体の筋肉とでも言うべきか。そんな、元アメフト選手らしい筋肉に分厚い体毛を纏ったバートのヌードは、センセーショナルな話題となり、“セックス・シンボル”として、大きく注目されるようになったのである。 折しもヌード発表直後に公開された主演作、ジョン・ブアマン監督の『脱出』が、大ヒットを記録!まさにブレイクの時を迎えた。 それ以降は、『白熱』(1973)『ロンゲストヤード』(1974)『ハッスル』(1975)『ラッキー・レディ』(1975)等々、主にアクション映画で男臭い魅力を放ちながら、絶大なる人気を獲得。1976年には『ゲイター』で、監督業にも進出となった。 そんなまさに上り調子の時に出演したのが、『トランザム7000』。アクションに関してはカースタントが主体となるため、バートの身のこなしがたっぷりと見られる作品ではない。しかし、『デキシー・ダンスキングス』(1975)『ゲイター』に続く3度目の共演となった、相棒役のカントリー歌手ジェリー・リードとの息のあった掛け合いや、執念の追跡をする、ジャッキー・グリーソン演じる保安官を次々と出し抜いていく様に、バートのコメディアンとしての才覚が窺える。またこの作品を皮切りに、公私共に暫しのパートナーとなった、サリー・フィールドとのロマンチックなやり取りも、見どころの一つであろう。 追記すれば、これがバートがハル・ニーダム監督と組んだ、コンビ第1作。長年バートのスタントマンを務めた縁から、この作品で監督デビューしたニーダムは、以降『グレート・スタントマン』(1978)『キャノンボール』(1981)など、バートの人気絶頂期を中心に、彼の主演作を6本監督するに至った。 本作の大ヒットによってバートは、翌1978年に初めて、“マネーメイキングスター”のトップに輝く。この“マネーメイキングスター”とは、全米の映画館オーナーや映画バイヤーが、前年度の興行成績に貢献したスターを投票し、その集計の結果として選ばれるもの。バートはこの年から1981年まで、4年連続でトップの座を勝ち取ることとなり、紛れもない人気№1スターとして、君臨した。少なくともアメリカでは…。 なぜこんな書き方になるかと言えば、バートの人気は、日本ではついぞ盛り上がることがなかったからである。『脱出』や『ロンゲストヤード』のような、今も語り継がれるような作品に出演しながらも…である。この頃アクション俳優として、バートのライバルと目されたクリント・イーストウッドと比べると、日本での人気の違いがよくわかる。 イーストウッドは、TVシリーズの西部劇「ローハイド」(1959~65)で人気を得た頃から、セルジオ・レオーネ監督のマカロニウエスタン“ドル箱3部作”に出演した1960年代中盤、そして1970年代以降『ダーティハリー』シリーズ(1971~1988 全5作)などで大スターの地位を確固とした頃に至るまで、「スクリーン」や「ロードショウ」といった日本の映画雑誌の人気投票では、常に上位にランクインしていた。一方でバートは、“マネーメイキングスター”のトップに輝いたような時期でも、そうした投票でベスト10入りしたようなことは、寡聞にして知らない。 クールで寡黙な印象が強いイーストウッドが日本人受けしたのに対し、毛むくじゃらのヌードの印象も相まって、良く言えばホット、悪く言えば暑苦しい印象を抱かせるバートのキャラは、当時の日本人には受け入れにくいものだったのかも知れない。 そんなバートのキャリアは、ライバルのイーストウッドと、2大アクションスターの共演と騒がれた、『シティヒート』(1983)が興行的に失敗した前後から、下降線に入る。イーストウッドがこの頃から監督としての評価もグングンと高め、1992年には『許されざる者』で、アカデミー賞の作品賞と監督賞を得たのとは対照的に、ヒットに恵まれなくなっていく。1989年から90年に掛けては遂に、「B.L.ストライカー」というTVシリーズの探偵ものに主演。今とは違ってこの頃は、ハリウッドでトップを取ったような俳優がTVドラマに出戻ることは、「落ちぶれた」以外の何ものでもなかった。 余談になるが、共に女性関係が派手であったイーストウッドとバート。1980年前後に公私共にパートナーであった女優に関しても、非常に対照的なこととなっている。 本作『トランザム7000』に始まり、『ジ・エンド』(1978 日本未公開)『グレートスタントマン』(1978)、そして本作続編の『トランザム7000 VS 激突パトカー軍団』(1980)まで、バート映画の付属物のように相手役を務めた、サリー・フィールド。彼女はその合間の1979年に出演したマーティン・リット監督の『ノーマ・レイ』で、アカデミー賞主演女優賞を受賞。更にバートと離別後の『プレイス・イン・ザ・ハート』(1984)で2度目のオスカーに輝き、1980年代後半にはキャリア的に、元カレを完全に逆転する形となった。 一方、『アウトロー』(1976)から『ダーティハリー4』(1983)まで、イーストウッドの監督・主演作に6本出演し、私生活でも12年を共にしたのが、ソンドラ・ロック。1989年に2人が破局後、イーストウッドは先に書いた通り、監督としてピークを迎えていくわけだが、一方でロックの方は、イーストウッドに慰謝料請求の訴訟を起こしたり、2人の関係の暴露本を書いたりと、専らゴシップばかりが取り上げられるような存在となっていく…。 些か脱線してしまったが、その後のバートの俳優人生に於いては、齢60を超えた1997年、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ブギーナイツ』で演じたポルノ映画監督の役で、キャリアでは最初で最後のオスカー・ノミネート=アカデミー賞助演男優賞の候補になるという、“復活劇”があった。それもつい昨日のことのように思っていたが、今年の9月になって、バート82歳での訃報を聞くこととなった。いかにもバートとその出演作を愛していそうな、タランティーノ監督の新作出演を目前にしての急死と聞くと、溜息が出る。 バートより6歳年長のイーストウッドが、ハリウッド屈指の大監督として、未だバリバリの現役であることを思うと、余計に…。◼️ © 1977 Universal Pictures. All Rights Reserved.