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PROGRAM/放送作品
ノー・マーシイ/非情の愛
2大セクシースターが競演!リチャード・ギアとキム・ベイシンガーが決死の逃亡劇を熱演する刑事アクション
当時セクシースターとして人気絶頂だったリチャード・ギアとキム・ベイシンガーが夢の競演。敵対する男女が手錠につながれたまま逃亡するうちに惹かれ合っていくという、サスペンスとロマンスのバランスが絶妙。
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COLUMN/コラム2019.11.01
『ジャッカルの日』と『ジャッカル』 24年の歳月を超えた隔たりとは…
ジュリアス・シーザーの昔より、人の世で、数多実行されてきた“暗殺劇”。映画の世界でも古くより、“暗殺”を題材とした作品は枚挙に暇がない。 そんな中でも1970年代前半の映画界は、暗い世情と相まってか、“暗殺映画ブーム”とでも言うべき様相を呈していた。 リチャード・バートン演じるトロツキーを、アラン・ドロン扮するソ連の刺客が狙う、『暗殺者のメロディ』(72)、ケネディ大統領暗殺の裏にある陰謀劇を描いた、『ダラスの熱い日』(73)、大統領候補暗殺の陰に暗躍する秘密組織の存在を、ウォーレン・ベイティのジャーナリストが暴こうとする、『パララックス・ビュー』(74)、ロッド・スタイガー演じる元IRAの闘士が、エリザベス女王らイギリスの要人を爆弾テロで狙う、『怒りの日』(75)等々。虚実を織り交ぜた、様々な“暗殺映画”が製作・公開され、それぞれに話題となった。 そんな70年代前半の“暗殺映画”群の中でも、映画史に燦然と輝く存在。それが、『ジャッカルの日』(73)である。 本作の原作は、イギリス人作家のフレデリック・フォーサイスが執筆。71年に出版された。 フォーサイスは「ロイター通信」の特派員として、62年から3年間パリに駐在し、当時のフランス大統領、シャルル・ドゴールの担当記者を務めた経歴を持つ。そして『ジャッカルの日』は、正にその駐在期間中の63年を舞台に、ドゴール大統領の暗殺計画を描く。 ナチス・ドイツからフランスを取り戻した英雄的軍人であるドゴールだが、59年の大統領就任後に打ち出した、植民地のアルジェリア独立を認める方針が、軍部の極右勢力などの不興を買う。そのため暗殺計画のターゲットとなり、合わせて6回も、その命を狙われることとなった。 原作及び映画の冒頭で描かれるのは、実際に起こった、ドゴールの車列を狙った“暗殺未遂事件”の顛末。その失敗によって追い詰められた極右勢力の幹部が、正体不明の暗殺者“ジャッカル”を雇い入れ、新たな“暗殺計画”を発動する運びとなる。 “ジャッカル”の登場からは、“フィクション”の世界へと突入するわけだが、現実と地続きになっている。そんなアクチュアルな題材を映画化するに当たっては、どんな描き方が最適なのか? そこで白羽の矢が立てられたのが、フレッド・ジンネマン監督だった。『地上より永遠に』(53)『わが命つきるとも』(67)で2度アカデミー賞監督賞を受賞している他に、『真昼の決闘』(52)『尼僧物語』(59)『ジュリア』(77)などを手掛けた巨匠である。 ジンネマンは若き日、『極北のナヌーク』(1922)『モアナ』(26)などで「ドキュメンタリーの父」と謳われた、ロバート・フラハティの下で修業を積んだ。そんな彼の映画作家としての特性は、師匠フラハティ譲りと言える、ドキュメンタリー風なリアリズム描写にあった。 『ジャッカルの日』に於けるジンネマン演出の狙いは、「観客を目撃者にする」というもの。“ジャッカル”による“暗殺計画”の進行と、それを追う者たちの動きを、客観的なドキュメンタリータッチで追っていき、それを“目撃”させるわけである。 例えば本作のクライマックスには、パリの凱旋門の下での「解放記念日」の式典が登場する。これは、街を交通止めして撮影したものに、実際の式典の際の記録フィルムを加えて、構成したという。 こうした手法で映画を撮るに当たって、キャストから排除したのが、“スター”である。観客が「スティーブ・マックイーンだ」「アラン・ドロンだ」などと認識してしまうような、ネームバリューのある俳優は、本作には至極邪魔な存在というわけだ。 凄腕の暗殺者“ジャッカル”役に抜擢されたのは、当時はほとんど無名の存在だった、イギリス人俳優のエドワード・フォックス。そして彼を追うパリ警察のルベル警視役には、フランス映画の脇役俳優だった、マイケル・ロンズデールが起用された。 付記すれば、クライマックスに登場するドゴール大統領のそっくりさんも、アドリアン・ケイラ=ルグランという、無名の俳優。一言もセリフを喋らせずに、ドゴールの仕草を正確に再現させている。 もちろん本作の世界的ヒットの後には、フォックスもロンズデールも、有名俳優の仲間入りとなった。フォックスは、戦争映画大作『遠すぎた橋』(77)日本公開の際には、ロバート・レッドフォードやダーク・ボガートらと共に、14大スターの1人に数えられ、ショーン・コネリーがジェームズ・ボンド役に復帰した、「007番外編」の『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(83)では、M役を演じた。またロンズデールは、正調「OO7」の第11作『ムーンレイカー』(79)で、ロジャー・ムーアのボンドと戦う、メイン悪役を務めている。 さて“暗殺映画”のマスターピースとなった『ジャッカルの日』を、24年後の1997年に復活させようとした試みが、今回フィーチャーするもう1本の、『ジャッカル』である。とは言っても97年になって、その34年前=63年のフランス大統領暗殺計画を再び描くのは、観客へのアピールが足りないと、『ジャッカル』のプロデューサー兼監督である、マイケル・ケイトン=ジョーンズは考えたのであろう。 『ジャッカルの日』の成功には、フォーサイスの原作の展開に忠実でありながらも、映画的なまとめや省略を大胆に行った、ケネス・ロスの脚本の功績も大きい。新版の『ジャッカル』の原作としてクレジットされるのは、フォーサイスの小説ではなく、ケネス・ロスの脚本である。ジョーンズ監督は、オリジナル版の脚本から活かせるシチュエーションだけ抽出して、97年的な“暗殺映画”を作るという選択を行ったのである。 97年という時勢は、まずはオープニングタイトルで表現される。これはピアース・ブロスナンが5代目ジェームズ・ボンドに就いた「007」シリーズ第17作の『ゴールデンアイ』(95)でも取られていた手法だが、ソ連と東側陣営の崩壊によって、“冷戦”が終結したことがまずは説明され、新たなる“混乱”の時代に突入したことが、物語られる。 そして97年のモスクワ。闇の世界で台頭する、チェチェン・マフィアの根城に、「MVD=ロシア内務省」と「FBI=アメリカ連邦捜査局」の合同捜査チームが強制捜査を掛ける。その際に、マフィアのボスであるテレクの弟が、捜査員に射殺される。激高したデレクは復讐を誓い、正体不明の暗殺者“ジャッカル”を雇う。 “暗殺”のターゲットが、「FBI」の長官だと判明したことから、合同捜査チームは“ジャッカル”の追跡に乗り出す。しかし彼の顔を見たことがある者は、ほとんど存在しなかった。 “ジャッカル”を知る1人として、地下組織「IRA=アイルランド共和国軍」のスナイパーで、現在はアメリカ国内の刑務所に収監されている、デクランという男の存在が浮かび上がる。捜査チームは特別措置として、デクランをチームに加えるが、実は彼は、“ジャッカル”に個人的な恨みを抱いていた…。 オリジナルの『ジャッカルの日』に於ける“暗殺作戦”の発動と、それを阻止せんとする捜査陣の追跡は、「“大義”vs“大義”」の対決であった。それが新版の『ジャッカル』では、「“私怨”vs“私怨”」となってしまっている。 新旧両作とも、“ジャッカル”自体には、政治的な主義主張はなく、金目当ての“暗殺者”であることに変わりはない。“ジャッカル”の成功報酬は、オリジナル版が50万㌦だったのに対し、新版は7,000万㌦!それぞれに、このミッションを成功させた後は「2度と仕事が出来ない」ため、引退するに足る金額と説明されるが、製作年度で24年間、物語の設定的に34年間離れた『ジャッカル』両作の大きな違いは、この金額の差だけではない。 「“無名”vs“無名”」であったオリジナルのキャストに対して、新版の最大の売りとされたのは、「ブルース・ウィリス vs リチャード・ギア」! “ジャッカル”役のブルース・ウィリスは、お馴染みの『ダイ・ハード』シリーズ(88~ )でスターダムにのし上がった。『ジャッカル』の前後の主演作も、『パルプ・フィクション』(94)『12モンキーズ』(96)『フィフス・エレメント』(97)『アルマゲドン』(98)『シックス・センス』(99)等々、メガヒット作が目白押し。 対抗するは、デクラン役のリチャード・ギア。『愛と青春の旅立ち』(82)『プリティ・ウーマン』(90)という、そのキャリアでの2大ヒット作を軸に、日本でも高い人気を誇るスター俳優であった。 脇役にも、スターを配している。捜査チームのリーダーである、「FBI」の副長官役を演じたのは、黒人俳優として初めてアカデミー賞主演男優賞を受賞した、シドニー・ポワチエ。 こんなキャスティングからもわかる通り、とにかく新版『ジャッカル』は、オリジナルの逆張りに、敢えて走った感が強い。この姿勢は、謎の暗殺者である筈の“ジャッカル”の行動にも表れる。 オリジナル同様、「変装の名人」という設定である“ジャッカル”。しかしエドワード・フォックスの“ジャッカル”が、空港でわざわざ自分と背格好が似た外国人を見付けて、パスポートを掏り取るという手間を掛けたのに対し、ウィリスの“ジャッカル”は、空港でたまたま居合わせた、自分とは似ても似つかない体型の者のパスポートを盗み出す。そしていざその者に成りすましても、我々観客からは、「ブルース・ウィリスが変装している」ようにしか見えないのである。 偽造パスポートや暗殺用の銃は、外注して用意する。その際に、“プロ”の仕事を誠実にこなす者に対しては敬意を見せ、逆に強請りたかりを働こうとした輩はあの世に送る。その姿勢は、新旧“ジャッカル”とも同じであるが、ケリの付け方が、ウィリスの“ジャッカル”は派手過ぎる。捜査チームにわざわざ、暗殺の手口や追跡のためのヒントを残しているかのようである。 捜査チーム内から“暗殺者”側に情報を漏らしている内通者が居ることが暴かれるのも、“ジャッカル”の取った態度が引き金となる。全般的にウィリスの“ジャッカル”は、自信満々な態度に反比例するかのように、かなり迂闊なのである。 その迂闊さは、“暗殺計画”実行直前にも、見受けられる。自分の顔を知る女性の居所を知ると、わざわざ殺しに馳せ参じる。しかもその女性は逃がしてしまって、代わりに(?)待ち伏せていた捜査員3名を惨殺する。“暗殺”本番直前に、こんな危険を冒す必要がどこにあるのか?何度観ても、まったく理解できない(笑)。 しかもその際に、“暗殺”の的が、実は「FBI」の長官ではないことを仄めかしたため、追っ手のデクランに、真のターゲットを気付かれてしまう。はっきり言って超一流の“プロ”と言うには、あるまじき軽率な所業の連続なのである。 オリジナル版では、お互いにプロの“仕事人”同士としてのライバル関係にある、暗殺者“ジャッカル”と追跡者のルベル警視。2人が顔を合わすのは、最後の最後に訪れる、直接対決の1度だけ。 新版の“ジャッカル”とデクランは、途中で1回ご対面があり、その際は“ジャッカル”の銃撃から、デクランが逃れる。そしてクライマックスでは逆に、デクランが“ジャッカル”を追跡。駅の構内で銃撃戦が繰り広げられる。 …と記したが、実は新版の『ジャッカル』は、“ジャッカル”とデクラン…と言うよりも、ブルース・ウィリスとリチャード・ギアの2大スターが、最後の最後まで撮影現場で顔を合わせてないのでは?…という疑惑が拭えない。 その辺りどうなのかは、皆さんに実際ご覧いただいた後の判断にお任せしたい。■ 『ジャッカルの日』© 1973 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved. 『ジャッカル』©TOHO-TOWA
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PROGRAM/放送作品
ジャック・サマースビー
別人になって戦地から戻った夫は本物か!?リチャード・ギア×ジョディ・フォスター共演のラブ・サスペンス
オリジナルは、16世紀にフランスの農村で起きた実話をもとにしたフランス映画。それを製作総指揮と主演を兼ねるリチャード・ギアがアメリカでリメイクしたラブ・サスペンス。衝撃のクライマックスが感動を呼ぶ。
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COLUMN/コラム2016.07.15
【未DVD化】伝説の未DVD化作品、そのあまりにも衝撃的な終わり方は、実はニューシネマの文脈にのっとったものだった〜『ミスター・グッドバーを探して』〜
【注】このテキストは解説の必要上、本作品のラストシーンと、それを構成する細部について触れています。ネタバレを憂慮される方は、観賞後にお読みになられることをお勧めします。 ■ハリウッドが「女性の自主性」に迫った革命的作品 修士号を得るために真面目に勉強するかたわら、夜は男を求めて独身男性の集う酒場「ミスター・グッドバー」に足を運び、情交を重ねる女子大生テレサ(ダイアン・キートン)ーー。現在、この1977年製作の映画『ミスター・グッドバーを探して』に触れるとき、我々は身近に起こったひとつの出来事を、好悪の感情にかかわらず照らし合わせしまう。その出来事とは、1997年に国内を騒然とさせた「東電OL殺人事件」だ。 大手企業の女性社員が花街に身を投じ、アパートの一室で何者かに絞殺されたこの未解決事件。世間の関心は誰が彼女を殺害したのかという真実以上に、満ち足りたエリートが夜な夜な売春行為を繰り返す、容易には理解しがたい二面性の謎へと注がれた。こうした被害者の境遇が奇しくも『ミスター・グッドバーを探して』の主人公・テレサのそれと酷似していたことから、以降、本作を同事件の予見者であるかのように捉えた評をよく目にする。さらには我が国において本作がDVD化されないことも、事件の異質さとネガティブに結びつけられる傾向にあるようだ(国内未リリースは、単に権利上の問題なのだが)。 もっとも、この『ミスター・グッドバーを探して』も、実際の事件をもとに描いた小説が原作である。ジュディス・ロスナーによって執筆された同著(小泉喜美子訳、ハヤカワ文庫:現在廃刊)は、ろうあ児施設の女性教師を務めていたローズアン・クインが何者かに殺害されるという、1973年にニューヨークで起きた殺人事件から着想を得たものだ。そのためこの映画が、現実の出来事と関連づけられるのは宿命といえるかもしれない。 しかし、本作は決して実録事件簿のような、覗き見的な好奇心を満たすものではない。ハリウッドが「女性の自主性」について言及した初期の意欲作として、映画史において非常に重要な位置に立っている。 女性が運命を耐え忍び、恋に身を焦がすメロドラマ構造を持った「女性映画」は、1930年代のハリウッド黄金期から作り続けられてきた。しかし、女性の自立や自主性に言及した作品は、男性主権がまかりとおるメジャースタジオの特性も手伝い、積極的に発信されることはなかったのである。 だが1960年代半ばから、アメリカではウーマン・リブ(女性解放運動)の波が大きな高まりを見せ、映画における女性の立場や、それを観る女性客の反応といったものに、ハリウッドも無関心ではいられなくなっていたのだ。 社会のしがらみから我が身を解放させ、カジュアルセックスに没頭する奔放な女性像を、はたして同性はどう受け止めているのかーー? 本作の監督であるリチャード・ブルックスは、原作を読んでいた約600人の女性に対してインタビューをおこない、得たデータを映画にフィードバックすることで、女性の心情に寄り添う作品の成立に寄与している。 ブルックス監督はこの映画で、現代的な女性像に肉薄しようと試み、それに成功したのだ。 ■トラウマを与える衝撃的なラストシーンの真意 しかし、このような作品の成り立ちを説明してもなお、本作に対する好奇先行の見方を容易には修正できない。 その最大の原因は、衝撃をもって観る者を絶望の深淵に沈めるラストシーンにある。テレサが行きずりの男性ゲーリー(トム・ベレンジャー)に刺殺されてしまうあっけない幕引きは、観た者の多くに「トラウマ映画」と言わしめるほど、あらゆる要素にも増して突出しているのだ。 この衝撃のラスト、じつはロスナーの原作小説に準じたものではない。原作ではテレサの殺害は序文で詳述され、物語はその結末へとたどりつく「ブックエンド形式(始めと終わりを同一の事柄で挟む構成)」になっている。来るべき主人公の死が読者の念頭に置かれることで、悲劇がゆっくり時間を経て増幅されることを、作者であるロスナー自身がもくろんでいるのだ。 映画版はそれとは対照的で、テレサの死の描写をクライマックスのみに一点集中させることにより、あたかも自分が唐突な事故に遭ったかのような、無秩序な恐怖感やアクシデント性を受け手に与えるのである。 そんなラストシーンのインパクトをより高めているのが、過剰なまでに明滅の激しい照明効果だろう。 ハリウッドを代表する撮影監督のインタビュー集『マスターズ・オブ・ライト/アメリカン・シネマの撮影者たち』(フィルムアート社:刊)の中で、本作の撮影を手がけたウィリアム・フレイカーが、このラストシーンの撮影を細かく振り返っている。氏によると、同シーンはブルックス監督が考案したもので、ストロボライトのみを光源とする実験的な手法が試みられている。結果、明滅の中でかろうじて認識できる流血や凶器、あるいはテレサの意識が遠のいていくさまを暗喩する闇の広がりや、フラッシュ効果の不規則なリズムなど、これらが観る者の不安をあおり、場面はより凄惨さを醸し出しているのである。 ブルックス監督は実在の殺人事件をベースにしたトルーマン・カポーティ原作の『冷血』(67)でも、窓ガラスをつたう雨水が実行犯ペリー(ロバート・ブレーク)の顔に重なり、あたかも彼が涙を流して告解するかのようなシーンを演出するなど、技巧派の一面を強く示していた。 こうした創作意識の高い職人監督による、映画ならではのアプローチが、件のクライマックスを必要以上に伝説化させているといえるだろう。 しかし、本作のラストがインパクトだけをいたずらに狙ったものかといえば、決してそうではない。映画は随所で鋭利なナイフの存在を象徴的に散らつかせ、最後への布石が周到に敷いてあることに気づかされるし、なによりもあの破滅型のラストシーンは、当時ハリウッドに大きな流れとしてあった「アメリカン・ニューシネマ」の韻を踏んだものに他ならない。 1960年代の後半から70年代にかけて巻き起こった、アメリカ映画の革命であるアメリカン・ニューシネマ。それまでのハリウッドは、映画会社の年老いた重役が実権を握り、ミュージカルや恋愛ものや史劇大作など、古い価値観に基づく映画が作り続けられていた。そのため高額の製作費とスタジオ設備の維持費がかさんで赤字となり、またテレビの普及によって観客は減少し、経営は悪化。メジャーの映画会社は次々とコングロマリット(複合企業)に買収されていったのだ。 なによりも、こうした保守的なハリウッド作品に、観客は興味を示さなくなっていた。60年代当時のアメリカは変革の波が国に及び、公民権運動やウーマン・リブ、ベトナム戦争による政府への不信感から若者がデモを起こしたりと、反体制の気運が高まっていたのだ。彼らにとってハリウッドが作る甘美な夢物語など、そこに何の価値も見出せなかったのである。 しかし、1950年代から頭角を現してきた独立系のプロダクションが、ピーター・ボグダノヴィッチやデニス・ホッパー、フランシス・コッポラやマーティン・スコセッシなど、水面下で新たな才能を育てていたのだ。そんな彼らが後に『俺たちに明日はない』(67)や『イージー・ライダー』(69)といった、登場人物が体制に反旗をひるがえし、若者たちが社会からの疎外や圧迫を共感できる作品を発表していく。 『ミスター・グッドバーを探して』は、そんなアメリカン・ニューシネマの文脈に沿い、同ムーブメントをおのずから体現している。自由意志のもとに行動する主人公も、抵抗の果てに力尽きて散るラストも、その証としてこれほど腑に落ちるものはない。 いっぽうでブルックス監督はこうしたアプローチを「現実的でリアルなものではなく、あくまで幻想的なもの」として実践していると、先の『マスターズ・オブ・ライト』でフレイカーが語っている。劇中、ときおり映画はテレサの心象風景とも回想ともつかぬイメージショットを多用し、物語を撹乱することで、観る者の意識を巧みにミスリードしていく。テレサが殺されるシーンにも先述の手法が施されていることから、本作は全体的にリアルを標榜しているというよりも、どこか幻想的な趣が感じられてならない。 そのため、このドラマのクライマックスは多様な解釈を寛容にする。受け手によっては、テレサの死は彼女のただれた生活を道徳的に戒める「因果応報」のようなものだと厳しく解釈することもできるし、また「死によってテレサはさまざまな苦悩から解放されたのだ」とやさしく受け止めることもできるのだ。 国内でDVD化が果たされず、センセーショナルな印象だけが先行している『ミスター・グッドバーを探して』。だが、ザ・シネマで作品に触れる機会が得られたことで、本作が単なる実在事件の追体験ではないことを、多くの映画ファンに実感してほしい。■ COPYRIGHT © 2016 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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PROGRAM/放送作品
ブレスレス(1983)
[R15相当]無軌道な青年の恋と逃避行の行方は?ゴダールの傑作『勝手にしやがれ』をリメイク
ジャン=リュック・ゴダール監督の代表作『勝手にしやがれ』をハリウッドでリメイク。『愛と青春の旅だち』でスターになったリチャード・ギアを主演に起用し、オリジナルより犯罪サスペンスの趣を濃く描いている。
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COLUMN/コラム2015.03.31
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2015年4月】キャロル
リチャード・ギアが一気にスターダムにのし上がった『愛と青春の旅だち』より2年ほど前に公開された『アメリカン・ジゴロ』。売れっ子NO.1の男娼が美人の人妻に本気で惚れてしまった矢先に、過去に一度相手をした客の殺害容疑をかけられてしまう・・・というストーリー。昨今は『プリティ・ウーマン』や『シカゴ』といった“素敵なオジサマ”の印象が強いR.ギアだが、本作ではイケメン絶頂期の若かりし姿を拝める。ドンピシャ世代ではない私でも、ナルホドこのオジサマは甘さと強さを兼ねそろえた猛烈にカッコいいスーパースターなんだと否が応でも納得させられます。ちなみにザ・シネマではR.ギアのイケメン絶頂期の『愛と青春の旅だち』と『アメリカン・ジゴロ』を2作品とも4月に放送しますので、お見逃しなく。 TM, ® & COPYRIGHT © 2015 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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PROGRAM/放送作品
愛と青春の旅だち
[R15+]海軍士官学校生の恋と友情を繊細に描き、リチャード・ギアの出世作となったラブ・ロマンス
海軍士官学校生たちの恋と友情を描いた青春映画。主演はリチャード・ギア。監督は『Ray/レイ』のテイラー・ハックフォード。教官を演じたルイス・ゴセット・Jrは、本作でアカデミー賞助演男優賞を受賞。
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COLUMN/コラム2014.04.25
2014年5月のシネマ・ソムリエ
■5月11日『天国の日々』 『地獄の逃避行』に続くT・マリックの監督第2作。第一次世界大戦が始まった頃、恋人と妹を伴ってテキサスの農場に流れ着いた青年の数奇な運命を描く人間ドラマだ。 アカデミー撮影賞を得た詩的なビジュアルを手がけたのはネストール・アルメンドロス。マジックアワーと呼ばれる日没時の淡い光を生かした映像は神秘的ですらある。 のちのマリック作品にも通じる生命や自然、人間の業といった根源的なテーマを追求。ドラマの語り手も務める子役リンダ・マンズのみずみずしい存在感も見逃せない。 ■5月18日『ナック』 スウィンギング・ロンドンと呼ばれた1960年代の英国の空気を伝える青春コメディ。ビートルズ映画で名高いR・レスター監督のカンヌ映画祭パルムドール受賞作だ。 モテ男に憧れる内気な青年と田舎娘の恋物語が、全編即興で撮ったかのような自由奔放な作風で展開。ジョン・バリーの音楽に彩られたモノクロ映像は、今観ても新鮮! 愛らしい顔立ちの個性派女優R・トゥシンハムの魅力が全開。スター女優シャーロット・ランプリング、ジェーン・バーキンらが無名時代に端役で出演した作品でもある ■5月25日『ピープル vs ジョージ・ルーカス』 世界中のクリエイターに影響を与え、多くの観客の人生を変えた『スター・ウォーズ』。その作者G・ルーカスに対するファンの複雑な心理に迫ったドキュメンタリーだ。 オリジナル版を軽んじた「特別篇」への猛批判など、ファンの毒舌コメントが炸裂。『?ファントム・メナス』の不人気キャラ、ジャー・ジャー・ビンクスも血祭りに! 世界各国の熱狂的なファンが作ったプロ顔負けのパロディ映像も満載。G・ルーカスを憎みながらも『SW』への愛着を捨てられない人々の生態がユーモラスに描かれる。 『天国の日々』Copyright © 2014 Paramount Pictures. All Rights Reserved. 『ナック』KNACK, AND HOW TO GET IT, THE © 1965 WOODFALL FILM PRODUCTIONS LIMITED. All Rights Reserved 『ピープルvsジョージ・ルーカス』© 2010,Exhibit A Pictures,LLC, All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
クロッシング(2009)
行き詰まった警官3人の運命が交錯する…リチャード・ギアら豪華スター競演で織りなす苦悩のドラマ
『トレーニング デイ』のアントワーン・フークア監督がニューヨーク犯罪多発地区を舞台に描く人間ドラマ。職務に忠実な警官3人が追い詰められていく姿を、リチャード・ギアらが重厚な演技で織りなす。
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COLUMN/コラム2013.12.27
『愛と青春の旅だち』、正しくは「士官と紳士」、あるいは、エスケープ・フロム・KS(格差社会)
唐突ながら皆様、この世の中、というか日本には、邦題と原題がまるっきし似ても似つかない洋画、ってやつが昔から山ほどありますよね。その中には『ランボー』のように、「いや、むしろ原題のFirst Bloodよりキャッチーで、逆に良くないですか!?」というお見事なものもある。で『ランボーII』からは原題もランボーになっちゃった、本家に評価されて逆輸入までされちゃった、という伝説的な名ネーミングもあります(という伝説自体が東宝東和の誇大宣伝であるとの説もあり)。 First Bloodとは本来ボクシング用語で、殴り合ってる中での「最初の流血(を生じさせた一発)」を意味しました。それまで互角のパンチの応酬だったのが、一方が流血した瞬間から、流させた方がまずは優勢、流している方が劣勢、と、いちおう形勢が可視化されます。そこから転じて、今では「先制攻撃」を広く意味するようになりました。サッカーなどでも「日本がFirst Bloodを流させた」というのは「日本が先制ゴールをキメた」という意味です。ランボー1作目がこの原題だったのは、ランボーがトラウトマン大佐に「奴らから先に手を出してきた、俺じゃない。…奴らが先に手を出したんだ(They drew first blood, not me. They drew first blood.)」と、わざわざ2度リフレインして無線でチクるセリフがあるからです。ボクシング由来の慣用句としての本来の意味と、この映画で繰り広げられる、壮絶な準戦争状態での流血沙汰、というのをかけたWミーニングだったのですが、まぁ、そんな小難しいゴタクはいいので「ランボー」と一言でキメた方がよっぽどキャッチーだ、というのは、まったくもってして仰る通りですな。 ただ、こういう成功事例ばかりでもございません。変な邦題も山ほどあります。映画の中身といちじるしく掛け離れていて、作品の魅力を全く伝えてない、または誤解を与えかねない、逆に興味が削がれる、という失敗事例だって、枚挙にいとまがありません(“沈黙”シリーズのように、ネタとしてこの路線で行き続けるんだよ!もう中身と乖離してたって構わねんだよ!誰も困んねーよ!と開き直ってるものは、あれはあれで、いっそ清々しくて好き)。 さて、原題と似ても似つかない邦題の代表例として、わりかしよく名前のあがる映画が『愛と青春の旅だち』であるように思います(じゃないですか?)。 「この邦題はヒっドい…」ってものもいっぱいある中で、『愛と青春の旅だち』、これはまぁ、悪くない方でしょう。中身とタイトルが少なくとも一致している。っていうか一見一致しているように思える。でも「愛」、「青春」といったキーワードに引きずられ、この映画がラブストーリーであるかのような、極論すれば“錯覚”を、見る者に抱かせてしまうという嫌いが無くはない気もしています。 いや、『愛と青春の旅だち』がラブストーリーって、それは錯覚ではなくて半分は正しいかもしれない。ジャンル映画としてはラブストーリーに分類するしかないでしょう。でも、この映画がラブストーリーのジャンル様式を借りて描こうとしているのは、単に一組の男女の恋愛模様という以上に、「格差社会からの脱出」というモチーフであるように、ワタクシはかねて感じておるのであります。 原題は、An Officer and a Gentleman。直訳すれば「士官と紳士」ってタイトルなんですが、邦題と比べてこの原題、なんだかよく解らなくないですか? 実はこれ、ある慣用句を略したものなので、この部分とだけいくら睨めっこしたところで、意味はさっぱり解らんのです。 略された部分こそが重要でして、慣用句をフルで書くとConduct unbecoming an officer and a gentleman、「士官や紳士に相応しくない行為」となります。これ実は、慣用句と言うよりは法律用語と言った方が正確。しかも軍法用語。専門用語ですから一般の日本人にはピンとこなくて当然。なので日本では『愛と青春の旅だち』という全く違う甘〜いタイトルを付けるしかなかったのでしょう。この意味を解ってもらうためには長い説明が必要です。それを今回は試みてみようかと思います。長広舌、お正月休みにお付き合いいただけましたら幸いです。 ■「士官と紳士」の意味とは? さて。アメリカ全軍共通の法律である「統一軍事裁判法」というものには、以下のような条項が存在します。 133条.士官や紳士に相応しくない行為(Conduct unbecoming an officer and a gentleman):士官や紳士に相応しくない行為で有罪判決を受けたすべての士官・将校ならびに陸軍士官学校生徒、海軍兵学校生徒は、軍法会議の命令によって処罰される 日本語ですと「士官」ってのは海軍の呼び方で、陸軍だと「将校」と呼び、言い分けていますが(「陸軍士官学校」と言う時だけは陸軍でも「士官」なのがややこしい)、英語では士官・将校どちらも「オフィサー」です。オフィサーってのは、一般企業で言う管理職ですな。一番下の少尉で、まぁ課長ぐらいだと思ってください。オフィサーの一番上の大佐なら本部長クラス(一般企業と対照するのはかなり無理がありますが)。つまり、課長以上の管理職に就いてる人は、人間としても立派な紳士でありなさいよ、それに反したら罰しますからね、という法律なのです。 さて。「士官や紳士に相応しくない行為」という軍事法律用語があり、後ろ半分を略して「士官や紳士」という箇所だけをわざわざ抜き出して、この映画は原題タイトルに掲げている訳です。 士官や紳士に相応しくない行動とは、一体? 逆に相応しい行動とは何か? その両方を、同時に、言外に、このタイトルは問うているのです。リチャード・ギア演じる主人公の行動は、あるいはその人柄は、士官・紳士として相応しいのか?相応しくないのか?どっちなんでしょうか? 映画冒頭では、もう明らかに、相応しくないんですね。少年の彼は母親に死なれ、水兵の父親を頼って、世界最大の海軍基地の町として有名な米本土のノーフォークから、フィリピンにあった海外最大の米海軍基地オロンガポ(現在はフィリピンに返還されている)へとやって来ます。これ、脚本のト書きに明記されている情報。基地から基地へ。彼は、基地だけで育った子供で、基地の外を知らない。 父親は露骨に面倒臭がって、家に連れ込んでいた娼婦2人を母親代わりとして初対面の息子にあてがいます。と言うか娼婦2人に息子を押し付けます(父親は昼間っから女2人相手に何してたんでしょうねえ…)。以降、何年か十何年か、実父に育児放棄され、父が買ってきた外国人娼婦たちを母親代わりに基地の町で成長し、喧嘩も場数を踏んでめっぽう強くなり、終いには二の腕に鷲のスジ彫りを入れてヨタってる、紳士とはおよそ真逆の、ヤンチャな一匹のドチンピラに、ギア様は育っちゃった訳ですな。 彼は、そんな身の上がイヤでイヤで堪らない。早く社会的ステータスのある人間になりた〜い!だったら軍隊で決まりだ!海軍士官だ!! 彼は基地外のことは何も知らないので、思いつく紳士っぽい職業といったら、それしかない。 彼のようなお悩みの持ち主には、軍隊で正解です。階級社会そのものの軍隊ほど、自分の社会的ランクがハッキリする場所はこの世にありません。一般企業だと、社長と言ってもどの程度の会社の経営者か判りませんし、ただの平社員でも超一流企業のペーペーなら世間的に聞こえが良いということだってある。肩書きだけじゃよく分からない。しかし海軍で少尉と言えば、どの程度の社会的な偉さなのかは一発で分かるのです。さらに米軍は、階級が給与等級と連動していて、その給与等級と勤続年数とで収入が決まるという明朗会計っぷり。自分の社会的地位にコンプレックスを抱いているギア様には、まさにうってつけの職業なのです。だから彼は海軍飛行士官養成学校に入ることを決意します。「入れ墨した士官がいるか?」と親父の嘲笑を背中に浴びながら。そこからこの映画は始まっていきます。 この学校を卒業すれば、彼は国家から何千万ドルもするジェット戦闘機を1機委ねられる立場になれるのです。仕事で何千万ドルもの責任を任される漢なんて、世間にどれほどいるでしょう?ワタクシはせいぜい数万円ぐらいなので情けなくなりますが…それほどの社会的地位に就ける時こそ、彼が格差社会でのし上がり、晴れて「士官や紳士に相応しい」漢になれる瞬間なのです。 実は脚本を読むと、最終稿までは、父子再会の場面が盛り込まれていたことが判ります。シアトルの安ホテルで娼婦を抱き疲れ、昼日中まで高いびきの親父のところに、突然ギア様は転がり込んで来るんです。びっくりさせようとして。カレッジを卒業したことを報告しに来たのです。親父は「最後に聞いた時はブラジルかどっかで建築の仕事してるって言ってただろ?」と驚く。そして「言ってくれりゃ卒業式行ったのによ。やい!(と寝てる娼婦を起こし)、おめぇの友達の巨乳グロリアも呼べ。今夜は息子のお祝いだ!!」とはしゃぎ出して、その晩、一台のベッドの右半分で親父とさっきの娼婦が、左半分ではギア様と巨乳グロリアが、乱痴気騒ぎを繰り広げる。ギア様もノリノリです。 以上は完成した映画には存在しないシークェンス。撮影されなかったのかカットされたのか…とにかく、そういう父子なんですね。この翌朝が、親父がトイレで嘔吐しゲロをぬぐいながら「昨日の夜はすげー面白かったな」なんて言っているシーンにつながるのです。前夜の乱痴気騒ぎのシークェンスがごっそりカットされているので、映画ではギア様が酔っぱらいの親父を軽蔑し恨んでいるようにも見えるのですが、実は同類。同レベルの仲良しDQN父子なんです。親父個人を恨んでいるというよりは、こういう激安にチープな日々とチープなオレという存在に、ギア様はほとほと嫌気がさしているだけなのです。1日も早く「士官や紳士に相応しい」漢になって、こんな人生からは這い上がりたい! さて。で、入った養成学校で13週間にわたりシゴかれる訳ですが、ギア様は「絶対に諦めません!」と鬼軍曹に言って、必死でシゴキに耐えます。格差社会からの脱出ということが彼の強烈なモチベーションになっているからですね。「カッコいいからジェット戦闘機の飛行士になりたい」とか「うちは軍人の家系だから仕方なく」といった中流出身者的なヌルい理由とは、彼の場合は切迫度が違います。 でも、一晩でドチンピラが紳士にはなれません。最初のうちは地金が出ちゃいます。養成学校で一人闇市のような商売を始め、仲間から小ゼニをセコく巻き上げようとする。こんな紳士なんていませんわ。そのバイトが鬼軍曹にバレて、休暇返上でさらに徹底的にシゴき抜かれる。 ちなみにその“鬼軍曹”。正しくは「ドリル・サージェント」と言います。直訳すれば「訓練軍曹」。よく戦争映画に出てきますよね。映画の中の海兵隊の鬼軍曹と言えば、『ハートブレイク・リッジ』に『フルメタル・ジャケット』…馴染み深い顔が何人も思い浮かびますが、本作に登場するフォーリー一等軍曹もそうで、ルイス・ゴセット・Jrは82年度アカデミー助演男優賞に輝く名演を見せました。 このシゴキに耐えながら、13週間かけて、ギア様は士官や紳士に相応しい行動とそうでない行動との区別を、だんだんとつけていきます。ドチンピラが紳士になるのに何故シゴキが必要か?別にテーブルマナーや敬語の使い方をスパルタ式に教わる訳でもありませんから、少々疑問ですが、だけどまぁ、やっぱり必要なんでしょうな。 正しいテーブルマナーを身に付けたら紳士になれます、と言われたところで、そんなのは信じられない。完璧なテーブルマナーを披露した途端に皆に持ち上げられて「ヨッ!紳士!!」と周囲から認定されても、誰よりドチンピラ自身が全然納得できないでしょう。その点、シゴキ13週間ですからね!脱落率もハンパない。間違いなく人生最大のハードルでしょう。それをクリアすればオレも紳士だ、と信じ、耐えて耐えて耐え抜けば、それは13週後に「今日からオレも紳士だ!」と自分で信じられるというものでしょう。オレはどんな誘惑にも惑わされず、己の弱さを克服できるんだ!という絶対の自信、自分という人間への強い信頼感が、13週目まで残った生徒には必ず身に付くはずです。その境地にまで達した人間が「紳士的に生きよう」、「士官らしく振る舞おう」と思えば、たちどころにそうすることも容易いはず。というわけで、ギア様がステータスを獲得し、格差社会でのし上がり、自分で自分を紳士だと信じ行動できる強い意志力を備えた人間として、第2の人生を再スタートさせるためには、この13週間はどうしても必要なイニシエーションなのです。 本作で描かれるのは、主にこのイニシエーションの過程。ラブシーンよりもイニシエーションシーンの方が比重が圧倒的に大きいのです。ワタクシがこの映画を、ラブストーリーではなく“格差社会からの脱出ムービー”と認定する理由がこれです。 鬼軍曹は、海兵隊の一等軍曹。ギア様の親父は、海軍の一等兵曹。1階級差で、どちらも士官より下(「下士官」と言います)の、一般企業であれば係長クラスですな。給与等級も1ランク差と、ほとんど同じ階級(軍隊でその差はデカいですが)。この2人が異口同音に、ギア様に向かって言い放ちます。「オレもお前も、士官なんて柄じゃないんだ。人種が違うんだ」と。父親は本気でそう思っている。ルイス・ゴセット・Jrは…本気ではなく、そう言って生徒たちにハッパをかけているんだろうとワタクシは感じますが、とにかくそういう思想なんです。士官・紳士になるには生まれ育ちが重要で、それが無い奴は一生なれないんだ、と言うのです。でも、そうではない!努力すればなれるんだ!這い上がれるんだ!ということを、この映画は描いています。もっとも良い意味において、実にアメリカ的なテーマを描いている映画のように思えるのです。 13週後、ギア様が晴れてここを卒業したあかつきには、その瞬間から、父親でさえ自分に向かっては敬礼しなければならなくなります。もちろん鬼軍曹も敬礼しなければならない。卒業式閉会後、新任少尉たちは海軍の伝統にのっとって、1ドル硬貨を誰か“目下”の軍人に手渡し、彼から最初の敬礼を受けることになります。この学校の卒業生=新任少尉=紳士たちの場合、最初に敬礼を受けるのは“目下”の鬼軍曹からとなるでしょう。 閉会式の後、鬼軍曹は独り、ポケットに数十ドル分たまったジャラ銭でビールでも呑みに行くかもしれない。彼にバーでビールを呑む習慣があることは、劇中、台詞で出てきますから。ただし、特に思い出に残る生徒から受け取った1ドル硬貨だけは、そんな風には使わない。記念にとっておくでしょう。そのために、その生徒から渡されたコインだけは、他と混じってしまわないよう、きっと、注意して見てなければ気づかないくらいのさりげなさで、反対のポケットに入れるはずです。 ■余談ながら、海軍と海兵隊は違います! ここらでちょっと余談を。これ、アメリカ映画を見る上で是非これからも覚えておいて欲しいポイントです。つまり、海軍と海兵隊、この2つは違うってこと。ギア様は海軍で、ルイス・ゴセット・Jrは海兵隊です。別組織なのです。 海兵隊ってのは、通称「殴り込み部隊」などとも言われていて、一朝有事が起きた時、最初に現地に乗り込んで行く専門の軍隊です。陸軍さんなどは海兵隊の後から押っ取り刀で来ます。ゆえに①、陸軍の兵隊さんより海兵隊の海兵さんの方が、気性が荒いイメージがある(トムクルの『アウトロー』参照)。 また、ゆえに②、海兵隊は戦車っぽいのに空母っぽいのに戦闘機っぽいのと、陸・海・空の装備を一通り備えており、単独でも戦争ができちゃいます。海兵隊以外の、たとえば陸・海・空軍という縦割り(ってか完全に別組織)の3軍で統合作戦をやる場合、指揮系統が混乱しがちとか面倒くさい問題があって、準備や調整があれこれ必要なのですが、海兵隊は1人陸・海・空3役ですから準備も調整も不要。「とりあえずこっちの準備ができるまで、お前が先に現地入りして、当面は1人で踏ん張り、なんだったら一暴れしといてくれ」ということで先発を任されるのです。 あと、大使館の警備(『ボーン・アイデンティティー』参照)やホワイトハウスの警備(『ホワイトハウス・ダウン』参照)なんかも海兵隊の任務ですな。あと大統領専用機は空軍のご存知「エアフォース1」ですが、大統領専用ヘリは海兵隊の「マリーン1」です(これも『ホワイトハウス・ダウン』参照)。 一方、海軍とは、言うまでもなく船乗りさんのこと。空母に飛行機を載せて海の上で離発着させたりもしてますから、飛行機を操縦する仕事の人も海軍にはおりまして、「飛行士(アビエーター)」と呼ばれており、厳密には「パイロット」とは呼ばれません。海でPilotと言うと「水先案内人」のことも意味していて紛らわしいからです。ギア様がなりたがっているのが、この海軍アビエーター。さらに、ご存知トップガンって所では海軍アビエーターのエースたちを養成しておりまして、決して空軍パイロットではありません。トムクル演じるマーベリックも、もちろん空軍パイロットではなく海軍アビエーターでありました。腕が良ければギア様も将来トップガンに入れるでしょう。 とはいえやはり、海兵隊と海軍とは歴史的に見ても関係浅からぬものがありまして、その昔、海戦が接舷斬り込み戦だった帆船時代には(『パイレーツ・オブ・カリビアン』参照)、海兵隊は海軍さんの戦列艦に乗り組み、敵艦に接舷と同時に、索具(ロープ)に掴まるなどしてピョーンと向こう側に跳び移り、チャンバラを繰り広げる役目の人たちのことでした。 あと、海軍の港湾基地の警備なんかも任されております。海軍艦艇の艦内警備も海兵隊のお仕事です(『沈黙の戦艦』参照)。その昔は長く苛酷な航海の中で水兵さん(海軍)の叛乱っていう事件がよく起きましたから(『戦艦バウンティ』参照)、それを防ぐため艦内警備を海兵隊が任されていた、その頃の名残りですな。げに、海軍と海兵隊は繋がりが深いのです。 だからこの映画では、海軍兵学校に海兵隊の教官がいて、海軍の士官候補生をシゴいてるのですが、別におかしな話ではないのです。あと懐かしいところだと、軍法会議法廷サスペンス『ア・フュー・グッドメン』で、海軍の弁護士が海兵隊員の容疑者を弁護したりもしてましたね。海軍と海兵隊は、別組織とはいえ繋がりは大変深いのです。という、以上、海軍と海兵隊は違う、という一席。お粗末様でございました。 ■ここらでヒロインの話を始めましょう。 都市生活を謳歌する都会人。自然が大好きな田舎者。これほど幸福な人はいません。そして、この組み合わせがズレてしまうほど不幸なことはない。都会が好きなのに辺鄙な片田舎に生まれちゃった、とか、田舎暮らしに憧れているのにゴミゴミした都会で生活している、とかです。なんたる不幸! 個人的にワタクシの場合は完全に後者タイプでして、東京のド真ん中で働いておりますが、もう、イヤでイヤで堪らない。昔『アドベンチャー・ファミリー』って映画がありました。あれには激しく同意しましたねぇ。冒頭、LAに住む一家の父ちゃんが、娘が公害で喘息にかかり、「こんな所は人間の暮らす所じゃねえ!」と呪うように叫んで、熊とかが出没するロッキー山脈の山小屋に引っ越し、挙げ句の果てには熊ちゃんとお友達になっちゃうのですが、都会のボーイスカウト団員だったワタクシ、ゴールデン洋画劇場で観ていて、これには大いに憧れたもんです。ヘヴィーデューティーな父ちゃんの服装がまたカッコ良かったのなんの!あのスタイルで何でもDIYしちゃうんですから、憧れずにはいられない。ま、実際の田舎暮らしはそんなに甘っちょろいもんじゃなく、『おおかみこどもの雨と雪』をさらに過酷にしたようなものなんでしょうけどね。でも世の中には、これとは真逆の立場・考え方の人というのもいるでしょう。つまり、ロッキーの山奥とまでいかずとも、田舎に今現在は住んでおり、心底、その田舎にウンザリし果てている人たちのことです。 デブラ・ウィンガー演じるヒロインがそうです。 その上、彼女が生まれ育った町は、寂れた工場が唯一の産業としてあるだけの、鄙びた田舎の貧しい港町。彼女も貧しい家庭に育っている。母親はその唯一の工場の女工で、彼女自身もそう。友達もそう。みんなそう。職業選択の自由が事実上かぎりなく無いに等しい町なのです。この環境から脱出する方法で、いちばんの正攻法は勉強することでしょうな。勉強して“良い大学”なるものに入り、いわゆる“良い企業”とやらに就職して、自ら中流階級へのチケットをゲットすることです。そうすれば、望んだ土地で、儲かる職業や好きな職業に就ける…かもしれない。少なくともチャンスは増える。でも、そんな社会の残酷な仕組みに子供の頃に気付くことができなかったとしても、それはその子の罪ではないでしょう。小学生の頃には遊ぶ。それのどこが悪いのか!ハイスクールで色気付き、異性とキャッキャ戯れる。それのどこが悪いのか!しかしそれをやっていると、ハイスクールを卒業した後、この町から逃れるすべはなくなる。人生そこで決まってしまう。きっとデブラ・ウィンガーや彼女の女友達はそうだったのでしょう。 地元が好きならそれでも良い。そうでないなら、彼女たちにとって良くはないでしょう。勢いで地元を飛び出し、裸一貫都会に出てみたところで、かなりの幸運に恵まれない限り、そう簡単にリッチにはなれない。都会で憧れのライフスタイルを築くカネもない。ぜんぜん解決にならない。 しかしこの町の女子には、裏技的にもう一つだけ、この町を出て中流階級に昇格できる、一発逆転の奥の手があります。それが、海軍兵学校の生徒と結婚すること。彼らは卒業すれば少尉に任官します。いきなり課長クラスです。しかもアメリカ海軍という、これ以上ない超“大企業”、安定的な職場の課長職です。不況だろうが何だろうが潰れることはありません(戦争が起きたら旦那が“労災”で死ぬことはありそうですが…)。その妻となり、夫にくっついて世界中の米軍基地にある、国家から支給された官舎に住み、主婦として暮らす。古風かもしれませんが、そうなればもう立派な中流階級です。 だから、この町の娘たちは、工場で働きながら、全員が同じ夢を見ている。付き合っている飛行士官養成学校の生徒が、卒業式を終えたその足で、真っ白のドレスユニフォームに、金のラインが1本入った真新しい少尉の階級章を付けた格好のまま、工場まで迎えに来てくれる。というか救い出しに来てくれる(男の方が白い“ドレス”ってのが面白い)。彼にお姫様抱っこされて、仲間の女子工員たちが羨ましそうに見守る中を、開け放たれた工場の扉から広大な外の世界に連れ出してもらうのです。薄暗い工場内から見ても、陽光があまりに燦々と眩しく輝いていて、外の景色はよくわからない。不確か。でも、夢と希望に満ちていることは確かです。待っているのは世界のどこの海軍基地での新婚生活だろう?アメリカ本土のどこかか?ハワイのパールハーバーか?あるいはヨコスカか?エキゾチックでエキサイティングな毎日がもうすぐ始まるのです。薄暗い工場の扉をお姫様抱っこで出て行く時、それは、彼女にとっても、そして今、士官となり紳士となり、さらに生涯の伴侶まで得た彼にとっても、まさに、愛と青春の旅だちの瞬間です。 男たちは13週間、地獄の努力をして“旅だち”をする。では女たちは?中には、とにかくデキちゃった結婚でも何でもすりゃ妊娠したモン勝ちだ、と思っているフシの娘もいて、どうにかして前途有望な生徒の子種をいただこうと、男の隙をうかがっている。もう、ゴムに針で穴を開けるといったような感じの話ですなぁ…恐い恐い。でも、そういう魂胆で最後に彼の愛を勝ち取れるの?という話じゃないですか。 ヒロインのデブラ・ウィンガーは、それをしない。ひたむきにギア様と恋愛するのです。ひたむきに恋愛しようが、腹にイチモツ閨房術を駆使して籠絡しようが、夜、ベッドの中でやることは同じなんですが、それとこれとは話が全然違う、とデブラ・ウィンガーは考えている。やることは同じなんだから、こっそり策略をめぐらしてメオトになってやろうか、という悪女な気持ちも無いではないが、それを押し殺して、裏の無い、清く正しい肉体関係(?)を続けるのです。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ この映画が日本で公開されたのは1982年。31年前の今と同じ師走でした。60年代の所得倍増、高度経済成長を達成して就いた“世界第2の経済大国”の座を、すっかり自分の指定席だと思い込むことにも慣れた日本国民の間では、この時代もまだまだ、70年代から続く“一億総中流”というのん気な意識が生きていました。日本人の誰もが横並びに「自分は中流階級である」と自己規定していた、まぁ黄金時代と言っていい時代です。もちろん実際には当時だって貧しい方もいたでしょうが、個々の世帯ではなく国民総体の気分として、確かに我々は中流意識を抱いていた。 1982年。時はまさに日米貿易摩擦の真っ最中。アメリカをも経済的におびやかした我々は、この後一時、プラザ合意により円高不況というのに見舞われはしますがさしたるダメージにもならず、その後すぐに、いよいよバブルへと突入していくのです。82年は、21世紀の日本に長い長い不況が待ってようなど、20年が失われようなど、“世界第2の経済大国”の座から追い落とされようなど、まさか経済不安が永遠に消えない未来が到来しようなど、1つたりとも誰も想像できない、前途に経済的な不安など無い(ように多くの国民が思い込んでいた)時代、だったのです。 当時の日本人の大半は、ギア様の「いつかのし上がってやる」という切迫したハングリー精神にも、デブラ・ウィンガーの貧困と閉塞感への切実なあせりにも共感できず、この映画を、ただのロマンティックなラブストーリーとしか受け止められない、今からすれば実に羨ましい時代に生きていました。 しかし、こんにち、あれから31度目の年末を迎えた日本。長く続いた不況で「自分は中流だ」という意識をかつて一度も持ったことがなく、いつか中流になれるという将来の希望も持てず、いま中流でも一生そのままでいられる保証も無く、アベノミクスの好況感も他人事、消費増税困ったなぁ…そんな日本の、特に経済が疲弊しきった地方で探せば、そこには和製ギア様や和製デブラ・ウィンガーが、おそらく大勢いるはずなのです。 もし、あなたが若者で、この映画を一度も観たことがないのなら、むしろ80年代にリアルタイムで観た世代よりも、この映画が訴えている本来のメッセージをより正しく受け取ることができるのではないでしょうか。もしあなたが80年代にリアルタイムでこの映画を観た世代なら、いま改めて見直すことで、当時とは違った受け止め方をできることでしょう。欲を言えば、経済的に不安がある方が、この映画の鑑賞者としては望ましい。この映画は、やっぱりラブストーリーなんかではない。この映画は、現状貧しき人たちに捧げられた、最高のアンセムなのです!皆さん、来年も頑張りましょう!かく言うオレもな!! 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