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PROGRAM/放送作品
バック・トゥ・ザ・フューチャー
[PG12]マーティとドクの時間旅行はここから始まった!タイムトラベル・アドベンチャーシリーズ第1作
監督・脚本ロバート・ゼメキス、製作総指揮スティーヴン・スピルバーグ、主演は当時人気絶頂のマイケル・J・フォックス。世界中で大ヒットを記録したタイムトラベル・アドベンチャーの原点。
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COLUMN/コラム2021.12.02
『マーウェン』芸術が持つ癒しの“力”
◆実在の人物を描いた半フィクション映画 『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94)でアカデミー賞を獲得し、そしてなによりも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』トリロジー(85〜90)で圧倒的な支持を得た、現代ハリウッドの巨匠ロバート・ゼメキス。そんな彼が2018年に発表した映画『マーウェン』は、白人至上主義者たちの暴力によって瀕死の重傷を負ったヘイトクライムの被害者、マーク・ホーガンキャンプ(スティーヴ・カレル)の実話をもとにしている。この事件のPTSD(心的外傷後ストレス障害)によって彼は名前を書くことができなくなり、自身の個人的な生活について何も覚えておらず、またアーティストとしての、絵を描く能力さえも失ってしまったのだ。 そんなマークだが、自宅の裏庭に「マーウェン」と名づけた第二次世界大戦のミニチュアの村を作り、それを写真におさめることで、芸術家としての立地点に立ち戻ろうとする。いつしかマーウェンは、現実でつらい思いをしたマークのストレスを抑える擬似コミュニティの役割を果たすようになる。それをよりどころに、マークが肉体的にも精神的にも回復をはかろうと努力する姿は、2010年に公開されたドキュメンタリー長編『Marwencol(原題)』で描かれ、多くの人に知られるところとなった。 このドキュメンタリーを観たロバート・ゼメキスは大いに感銘を受け、ティム・バートン作品の常連脚本家として知られるキャロライン・トンプソンと共にマークの半生を脚本化し、映画『マーウェン』を作り上げたのだ。しかも完全なバイオグラフィものではなく、フィギュアが配置されたミニチュアの村で、独自の世界が形成されているというファンタジックなセクションを交え、現実とフィクションが交錯する野心的な作品づくりを試みたのである。 「占領下のフランスの小さな村」という設定のマーウェンで展開されるサイドストーリーはとてもユニークで、ホーガンキャンプが自己投影したG.Iジョーのホーギー大佐が、6人のガールズ部隊と共にナチス親衛隊を討伐するというものだ。このマーウェン村の人形たちは、マークの実生活に関わりを持つ人々が投影され、ガールズ部隊はマークが出会うすべての女性のアバターである。親衛隊はマークが酔って女装していると告白したとき、悪意を持って暴力をふるった5人の男たちになぞらえている。連中は全員白人だが、そのうちの1人には鉤十字のタトゥーが彫られていたからだ。この人形世界はそう、マークがいま直面している感情的なジレンマを象徴する空間なのだ。 ◆CGアニメーション三部作の技術を応用した人形たち こうした作品の性質上、『マーウェン』はゼメキスの諸作と同様、視覚効果に重点を置かれた映画となっている。特にフィギュアが動き出す描写では、監督が『ポーラー・エクスプレス』(04)を起点とするフォトリアリスティックなCGアニメーション三部作で導入した、パフォーマンス・キャプチャー・テクノロジーが用いられている。同テクは人体のモーションを記録してCGキャラクターに反映するモーション・キャプチャーを発展させ、動きの取得範囲を顔の表情変化にまで拡げたものだ。しかしこうした表現の人工的な再現は、写実度が高まるほどに違和感や嫌悪感を覚える「不気味の谷」現象を観る者に抱かせてしまい、フィギュアへの共感を必要とする本作では再考の余地があったようだ。 そこで『マーウェン』では、じっさいの俳優の顔をCGキャラクターに合成するという手法を採用。この方法によって前述の現象を緩和させ、また個々の人形キャラクターが誰のアバターなのか、判別しやすい利点を生み出している。 しかし、フィギュアを基にしたCGキャラクターの開発は、プロダクションの早い段階からキャストを決定し、俳優たちのさまざまなデータを取得しておかねばならず、『マーウェン』は融通の利きづらい企画だったようだ。「俳優はすべて前もってキャスティングされ、スキャンされ、それに応じて人形に彫刻をほどこし、特徴や表情などを固定する必要があったんだ。そして髪の毛をデザインし、顔をペイントし、衣装を作らなければならない。通常、映画のキャスティングでは、最後の一人を確保するために、撮影の前日まで検討することができるけれど、このような映画ではそれができないからね」(*1) と、ゼメキスは開発のリードタイムが長かったことをインタビューで答えている。 ◆賛否を分けたファンタジー描写 『マーウェン』は公開後、さまざまな評価をもって迎えられた。多くの映画ファンにとっては、デジタルエフェクトの先導者であるゼメキスが、かつての『ロジャー・ラビット』(88)や『永遠に美しく』(92)の頃のようなVFX主体の作品を手がけたことに対して賞賛を贈った。しかしいっぽうで、現実の問題をファンタジーに落とし込むことにより、物事の本質から目を逸らそうとしているといった評価も散見された。米「ローリング・ストーン誌」の権威ある映画評論家ピーター・トラヴァースは「現実世界の問題が盛り上がってきたところで、ゼメキス監督はすべての女性を人形のように変えてしまい、映画は再びファンタジーに委ねられてしまう。実に残念なことだ」(*2)と述べ、また英「サイト&サウンド」誌のトレヴァー・ジョンストンは「アクション人形のような軽薄さは、風変わりな性を明確に認識している一人の男の、自己受容に向けた悩める旅を描く本作の舞台装置に過ぎない。メインストリームの作品という意味では、この映画は予想外の画期的なものだが、そのハイブリッドな性質がときに不愉快ではある」(*3)と手厳しい。 また事実と映画との違いに対する追及もあり、たとえばマークの支えとなったのは女性だけでなく、少数の善良な男性がいたことや、また彼に暴力をふるった容疑者すべてが白人至上主義やネオナチではないなど、映画化されるさいの変更点として指摘されている。またマークの祖父が第二次世界大戦中にドイツ軍の側で戦っていたために、彼はナチスに対して複雑な感情を抱いていることも映画の不足要素として挙げられている。 確かにドキュメンタリーを見る限り、それらは意図的に加工された印象を与えるが、ただ現実をあるがままに再現するのならば、そこはゼメキスを必要とするところではないだろう。この映画は、トラウマに対処する人間の回復力と創造の可能性や、芸術が持つ癒しの力に対し、視覚効果の申し子が最良のアプローチをしたのだ。それを否定するのは、ひいては創造の力や芸術そのものを否定しかねない。■ 『マーウェン』© 2018 Universal Studios, Storyteller Distribution Co., LLC and Perfect Universe Investment Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2
[PG12]今度の冒険の舞台は未来だ!大ヒットのタイムトラベル・アドベンチャー第2弾!
ロバート・ゼメキス監督による、大ヒットSFタイムトラベル・アドベンチャーのシリーズ第2作。出演は引き続き、マイケル・J・フォックスとクリストファー・ロイド。2人が今度は未来で悪戦苦闘する姿を描く。
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COLUMN/コラム2018.12.10
『コンタクト』と『コスモス』の間にあるもの(ネタバレあり)
■科学と信仰の融和をうながす高度なSF映画 1997年に製作された『コンタクト』は、我々が地球外知的生命体と接触したときに起こりうる事態に熟考を巡らせ、科学と信仰というテーマを尊重して扱ったハイブロウなSF映画だ(いや、SFという言葉ですらも陳腐に感じさせる)。『2001年宇宙の旅』(68)と同様、膨大な科学的根拠に基づく構築がなされ、このジャンルに知性を回復させている。その価値は公開から20年の間にスペースサイエンスが更新され、同テーマを受け継ぐ優れた後継作(『インターステラー』(14)『メッセージ』(16))があらわれようとも、まったく色褪せることはない。 ジョディ・フォスター演じるエリナー"エリー"・アロウェイは「我々は宇宙で一人ではない」という信念のもと、SETI(地球外知的生命体探査)計画を推進する電波天文学者。彼女は文明を持つエイリアンの存在に確信を抱いており、その実証を得るべく地球外からの信号をスキャンし、メッセージの受信を待機している。 そしてある日、ついに彼女は26万光年彼方のヴェガから発信される素数信号をキャッチし、信号は解読へと運び込まれていく。電波の中には惑星間航行を可能にするポッドの設計図が仕込まれており、それを建造してエイリアンとのコンタクトを図ることになるのだ。だがこうした行為が、世界における科学と信仰の議論を活性化させていくのである。 ■カール・セーガン博士の信念 物語の最後、エリーは子ども時代からのクセだった膝をかかえて座る姿勢をやめ、足を伸ばしてグランドキャニオンの岩場に座っていることに観る者は気づかされるだろう。彼女のこのクセは幼少時代、父親の葬儀のときから兆候を見せている。つまり父の死は神のみぞ知る運命ではなく、過失なのだというエリーの宗教的懐疑論者としての立場を体現するものだ。つまりプロローグでその座りかたをしなくなったということは、彼女の心境の変化を暗示している。 ポッドに乗り込んだエリーは知的生命体との存在を示す驚異的な体験によって、科学者としての合理性だけでなく神秘主義を受け入れていく。そして「真理を求める」という点において科学と信仰は共通なのだと、映画は両者の融和を唱えて終わるのである。 『コンタクト』の物語が美しいのは、こうして映画は広大な宇宙への探求や、宗教科学の論議といった大きな物語を、主人公の「自己探求」というミニマルな主題ヘと換言していく点にある。映画の冒頭、無限に拡がる宇宙が幼少時代のエリーの瞳へとシームレスに重なるシーンで、物語は先述の要素を早い段階から示しているが、それを布石として最後を結ぶ円環構造がきわめて美しく、そして洗練されている。 なによりもこの「自己探求」は、原作者であるカール・セーガンが強く唱えていた信念でもある。自身が構成し進行を務めた宇宙科学ドキュメンタリー『コスモス(宇宙)』(80)を筆頭に、メディアを通じて地球外知的生命体の推測にあらんかぎりの可能性を感じさせてくれた稀代の天文学者は、自身の原作小説をもとにしたこの映画にアドバイザーとして関わっている(セーガン博士は本作公開前の1996年に死去)。 『コスモス』は氏の天体的な理想や理論を拡げ、それを観ている視聴者に宇宙に対する目を見開かせたテレビ番組だ。恥ずかしながら少年時代の筆者もそのひとりだが、そうした種の人間にとって『コンタクト』は、エリーの「自己探求」を、より感動的なものとして捉えさせてくれる。 というのも、この番組の最終章となる「地球の運命」の中で、セーガン博士は地球外知的生命体の可能性について、 「宇宙では化学元素や量子力学の法則も共通であり、生物はその同じ法則のもとに生息しているはずだ」 と仮定し、生物構造や言語が異なる宇宙人のメッセージを解読する方法として、そこには科学という共通の言語があると雄弁に語っている。そして知性を持つ生命体の誕生を探求することは、ひいては地球人の存在を紐解くことへとつながるとセーガン博士は結ぶ。 すなわち知的文明を探す旅は、私たち自身を探す旅でもあるのだ、と——。 『コンタクト』は、このようにセーガン博士の原作を元にしながら、同時に氏の信念に基づく製作がなされ、セーガン博士へのあらん限りの賛辞にあふれている。ちなみに映画の最後にエリーが砂を手にするが、これは「宇宙への探求は、広大な砂場のたった一粒の探すようなもの」という『コスモス』の作中で幾度となく繰り返されたメッセージの暗喩だ。 ただ本作について語るとき、劇中に出てくる奇異な日本描写などの瑣末に目を奪われ、我が国ではいまひとつ肯定的な意見に乏しい印象がある。また同時期の公開作に『ロストワールド/ジュラシック・パーク』や『タイタニック』といった話題作が目白押しだったことから、これらの間に埋もれたようにも感じられ、正当な掘り起こしも浅いまま現在に至っている。加えて後年、本作の映画化初期プロジェクトに関わっていたジョージ・ミラー(『マッドマックス』シリーズ)が「わたしのやろうとしていたものよりもワーナーは安全な製作をとった」とする発言などもあり、風向きもいまひとつ良好とは言えない。なので、自分こそが本作最大の理解者であると主張するつもりは毛頭ないものの、ゼメキス版『コンタクト』の復権に少しでも貢献できればさいわいである。 ■他作に散見される『コンタクト』の影響 そんな『コンタクト』だが、個人的には経年をへて、その価値を実感することがある。それは本作を構成する要素が、後続作品にエッセンスとして流用されているところだ。 実近だと2016年に公開され、怪獣ゴジラをハードに再定義した傑作『シン・ゴジラ』にそれを強く見いだすことができる。たとえばゴジラの擁護を唱えるデモ団体が官邸前で反対派と対立するシーンは、『コンタクト』でVLA(超大型干渉電波望遠鏡群)押し寄せた運動団体の描写や、ひいては科学者と宗教家の対立を彷彿とさせるものだし、矢口に会いに来た米国特使のカヨコ・パターソン(石原さとみ)が着替えをせずに横田基地に来たのだと告げ「ZARAはどこ?」とファッションブランドを尋ねるシーンは、同作で政府と顧問団との懇親パーティに出るため、エリーがコンスタンティン調査委員(アンジェラ・バセット)に「素敵なドレスを売っているブティックを知らない?」と尋ねるシチュエーションの影響が指摘できる。 なにより受信電波から抽出された装置の設計図が、平面ではなく立体で構成されるものだったという設定は、ゴジラの構造レイヤーの解析表が立体によって解読がなされたところと瓜二つだ。それらをもって『シン・ゴジラ』が『コンタクト』からエッセンスを拝借したと主張するのは短絡的だが、数多くのクラシック映画からの引用が見られる『シン・ゴジラ』だけに、『コンタクト』もそれらのひとつとして存在を否定することはできない。 しかし、こうしたアイディアの共有はとりもなおさず同作の価値を立証するもので、むしろ『コンタクト』が他者に影響を及ぼす優れた映画だという論を補強するうえで心強い。庵野秀明総監督には、むしろ心強い支援者として賛辞を贈りたい気分だ。『コンタクト』の劇中「わたしたちは孤独ではない」と唱えたエリーのように。◾︎ © Warner Bros. Entertainment Inc.
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PROGRAM/放送作品
バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3
[PG-12]西部開拓時代を舞台にマーティとドクが大活躍。映画史に名を刻むSFアドベンチャー完結編
ロバート・ゼメキス監督、スティーヴン・スピルバーグ製作総指揮による、大ヒットSFアドベンチャー三部作の完結編。今回は西部開拓時代を舞台に、マーティとドクの壮大な時間旅行も、ついに大団円を迎える。
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COLUMN/コラム2015.12.28
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年1月】おふとん
貨物便で世界の空を飛び回る宅配会社社員チャックは、恋も仕事も忙しく充実した毎日を送っていた。だがある日、貨物便が墜落し無人島に漂着。手元にあるのは墜落時の漂流物のみ。果てしないサバイバル生活がはじまる。漂流物の1つバレーボールに目鼻を描いて“ウィルソン”と名付け話し相手にし、孤独を紛らす。そうして4年が経ち…。 『フォレスト・ガンプ/一期一会』でタッグを組んだロバート・ゼメキス監督とトム・ハンクスで送る無人島サバイバル。ほぼトム・ハンクスしか出演しないのですが、その独り芝居がすごい!作中で25kg減量していく様子も必見です。そしてご存知「ウィルソーーーーン!」シーンをお見逃しなく!! COPYRIGHT © 2015 DREAMWORKS LLC AND TWENTIETH CENTURY FOX FILM CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.
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PROGRAM/放送作品
さまよう魂たち
[PG-12]マイケル・J・フォックスが死神とバトル!ピーター・ジャクソン監督がおくるホラーコメディ
ピーター・ジャクソン監督のハリウッドデビュー作。ロバート・ゼメキスが製作総指揮を務め、ジャクソン監督作らしい恐怖世界に絶妙なユーモアをブレンドしている。マイケル・J・フォックスのコミカルな魅力も光る。
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COLUMN/コラム2009.06.26
人生いろいろ『フォレスト・ガンプ/一期一会』
ってのは、映画冒頭、主人公フォレスト・ガンプの最初のセリフなんですけど(母親の口癖の受け売りだけど)、この言葉が、作品のすべてを語り尽くしちゃってますね。この映画では、2、3の人生が描かれます。知能に障害を持つ男、フォレスト・ガンプ。子供の頃は身体も不自由で、補助具をつけないと歩くのも困難なほど。ただ、その補助具が星飛雄馬にとっての大リーグボール養成ギプス的な役割を果たしちゃって、ガンプの脚力は、気づかぬうちに常人をはるかに上回るものになっていた。 で、とあることがキッカケで、逆に韋駄天としての超人的能力を発揮することに。それ以来、この、「ムっチャクチャ足が速い」という特技のおかげで、ガンプの人生には次から次へと幸運が舞い込んできます。野心も野望も打算も下心もなく、ただ、その時その時の自分の人生を、バカ正直に生きた男の、夢のような成功物語。ヒューマン・ドラマであると同時に、一風変わったアメリカン・ドリームを描いたサクセス・ストーリーでもある。主人公のガンプを軸に見れば、これは、そんなお話です。いっぽう。ガンプの幼なじみの女の子でヒロインのジェニーは、ヒっドい人生を送ってます。子供の頃は父親に虐待され、女子大に入るとエロ本に出たことがバレて退学に。その後、成人してからも踏んだり蹴ったりの人生。ガンプとジェニーは、世代的には“団塊の世代”です(アメリカにゃないだろ)。1950年代に子供時代をすごし、60年代に青春時代を送って、70年代にオトナの仲間入りをした。まさしくアメリカ現代史を駆け抜けてきた、そんなジェネレーション。 ジェニーは、その時代感覚に染まりきって生きてる女。女子大生の頃はジョーン・バエズにあこがれてフォーク・シンガーになる夢をいだくものの、例の顔出しエロ本発覚事件のせいで場末のストリップ小屋に身を沈めることに。ビートニック・ビューティー“ボビー・ディロン”ってバカっぽいやっすい源氏名で、野郎どもにヤラしい野次をあびせられたり、触られたりしながら、全裸でギターを弾き語りします。その頃“ビート族”が流行ってたから、「ビートニック・ビューティー」。ボブ・ディランのブレイク直後だから、「ボビー・ディロン」。その後も、ビート族からヒッピーになって、みんながシスコに詣でればシスコに行き、みんながワシントンDCでベトナム反戦デモをすればそれに加わり、マリファナとかアシッドだとかの悪い草やクスリにも手を伸ばす。流行ってたから。そのうちヒッピーが時代遅れになって70年代ディスコ・ブームが到来すると、今度はそれ風のファッションに身をつつんで、コカインとかヘロインとかまでやっちゃって、いよいよもって廃人路線を転がり落ちてく。ただ時代に流されていくだけ。時代を生きるんじゃなくて、ただ流されるまま。ガンプの方は、時代という枠の中でも、あくまでマイペースで生きてくんですけど、そういうことが、このジェニーって女には、できない。で、どんどんドツボにはまってく。なんとか逃げ出したい。「鳥になってここから飛んでいきたい」と少女の頃からずーっと祈りつづけ、人生を自分の手にしっかりと掴みたいと必死で願ってるのに、掴めず、ただ流されるまま、けっきょく抜け出せずに、もがきつづけて、どんどん身を落としてく。でも、流されるだけのジェニーを、ゼメキス監督は、映画の中で罰してるワケじゃないと思うんです。罰として次々に不幸がふりかかってるワケじゃないだろうと思うんです。この映画って、ガンプは正直者だからラッキーな人生を送り、ジェニーはスレた女だから不幸になった、という「因果応報」の物語では全然ない、とワタクシは感じるのであります。人生の浮き沈みなんてもんは、しょせん運でしかありません。流される女ジェニーは、よくある人間類型です。むしろ、ガンプのように流されずマイペースを貫ける人間ってのの方が、実はレアな存在でしょう。俊足・強運・マイペース。ガンプこそ、現実には存在しない、実は“超人”なんであって、ジェニーのような人ってのは、いつの時代・どこの国でも見られる、よくいるタイプなんじゃないんでしょうか。日本で言うと、バブルの頃にブイブイいわせてたイケイケのオヤジギャル。または、10年ちょい前に品行よろしからぬ女子高生ライフを送ってた元コギャル。あの人たちって、いったい今、どうしてるんでしょうか?あの人たちのそんな生き様ってのも、べつに間違ってたってワケじゃない。その後の人生で罰を受けて当然というほどの罪など、犯してはいないはずです。ただ、ほんのちょっと運を逃しちゃったがために、ジェニーみたく、人生の底まで沈んで行き、いまだに浮き上がれずにもがき苦しんでいるかもしれません。この2009年の日本のどこかには、きっと、そんな和製ジェニーな感じの方たちが、少なからずいるような気がしてなりません。映画『フォレスト・ガンプ』では、そんな、運に見放された気の毒な人を代表しているヒロインの、逆サクセス・ストーリーが、主人公のサクセス・ストーリーの裏で、表裏一体の関係で描かれていきます。ヒューマン・ドラマであると同時に、挫折と転落と蹉跌のドラマでもあるんすわ、この映画は。つまり、結論としては「人生いろいろ」。運のいい人、悪い人、いろいろあります。それがテーマです。ってオイ、そんなナゲヤリなテーマあるかい!そう、それを踏まえた上で、この映画では大感動のポイントがちゃーんと設けられてるんすわ。超ラッキーな男ガンプが、子供の頃から一貫して、不幸なジェニーのことを一途に想いつづけてるって点。それがそのポイントです。ストーリーは実際のアメリカ現代史(リアル)を時代背景に展開しますが、2人がつむぐ物語って、はっきり言って、リアリティまるっきしありません。ヒューマン・ドラマって、いかに人間をリアルに掘り下げて描けるかっつうとこがキモなんすけどねぇ…。ラッキーな方がアンラッキーな方を何十年間も慕いつづけてる、幼なじみの何十年ごしの片想い、なんてのは、かなりメルヘンチック(非現実的)な筋立てでしょう?でも、非現実的だけど、かなり素敵ではある。これほどまでに素敵なメルヘンを、ワタクシは他に知らんのです。ヒューマン・ドラマであると同時に、いや、ヒューマン・ドラマである以上に、ワタクシに言わせりゃ、これは、映画史上もっとも美しいメルヘンなのです。そのメルヘン要素が、多くの人を泣かせたんじゃないでしょうかね。ほんとに、生まれてきた甲斐も無いってぐらいな不幸なジェニーの人生ですが、どんなドン底の時でも、離れててどこで何してても、純真無垢なガンプがずーっと彼女のことを想い続けてる、って事実が、彼女の人生の救いであり続けるんですな。映画を見てる方にとってもこれは救いです。この作品、純愛ストーリーでもあるんです。さらに。2つの人生がおりなすメルヘンとはちょっと離れたとこから、この映画では、3つめの人生を、追っかけてます。まずこの世にいなさそうな男、強運の持ち主、天然マイペースの“超人”ガンプ。流されるだけの女、よくいるタイプ(ここまで不幸なのは滅多にいないかも)なジェニー。そして、第3の人物の登場です。この人物こそ、もっともボクらに近い、いちばん普通の人生を歩んでるキャラなんじゃないでしょうか。運が良くもないけど、悪くもない。おおよそ普通。大過なく生きてきて、ある日ある時、思ってもみなかったような信じられないぐらいの災難に見舞われてしまう…。そういうことは、誰にでもありえます。愛する人が突然死んだ。深刻な病気だと宣告された。事故に巻き込まれた。いきなり解雇され生活が破綻した…。そういうことが自分の身にだけは絶対に起こらない!と言い切れる人なんて、誰もいやしません。豚インフルだ不景気だなんていってる今日日は、特にそうです。そういう目にあってしまった一人の人物が、我が身の不幸を嘆き、神を呪い、自暴自棄になり、死にたいなどとグチりながら、ちょっとずつ再生してく姿が、この映画の3番目の人生として、描かれます。いや、3つじゃなくて、4つ目の人生も描かれてるかもしれません。ここまでのこのブログの中で、いろいろと妙なカタカナ語を書いてきました。「ジョーン・バエズ」と「ボブ・ディラン(これは分かるか)」、「ビートニク(ビート族)」…etcつまりですねぇ、とりあえずガンプが物心ついてからはケネディ→ジョンソン→ニクソン→フォード→カーター→レーガンと、大統領が6代も替わってる(そのうち何人かとガンプは会って言葉をかわしてる。会ってなくても劇中にニュース映像としては出てくる)ぐらい、1960年代(少年時代を入れると1950年代)~80年代までの、文字どおりアメリカ現代史が、映画の時代背景として描かれてんですわ。その当時の世相とか、社会情勢とか、流行とか、ファッションとか、音楽とかも、この映画の中には、これでもかとテンコ盛りに盛り込まれています。ここ数十年、アメリカという国が歩んできた道のり。もしかしたら、それは映画の中で描かれてる、4つめの人生なのかもしれません。つまり、一国の人生(ヒューマン)ドラマでもある。こりゃアカデミー賞獲るワケだ!さて。映画と同じように、このブログも最後に冒頭1行目に戻りましょう。「人生はチョコレートの箱みたいなもの。食べてみるまで中身は分からない」このテーマを常に意識的に思い返しながら、以上の4つの人生を追いかけてみてください。この、映画史上たぶん十指に入るぐらい(ワタクシの独断)のヒューマン・ドラマの大傑作『フォレスト・ガンプ』を、より楽しめちゃうことでしょう。■ TM & Copyright? ©? 1994 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
1941
監督スピルバーグ×脚本ロバート・ゼメキスで描く!個性派スター揃いのハチャメチャ戦争コメディ
『JAWS/ジョーズ』のセルフパロディなど悪ノリ満載!スティーヴン・スピルバーグ監督が巨額の製作費を投じて描く戦争コメディ。ジョン・ベルーシら個性派がユーモアを繰り広げる超贅沢な悪ふざけ。
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PROGRAM/放送作品
マリアンヌ
[PG12]妻に掛けられた“二重スパイ”容疑の真相は?ブラッド・ピット主演のサスペンス・ロマンス
第二次世界大戦を背景とした男女の真実の愛を、ロバート・ゼメキス監督が名作『カサブランカ』を重ねて描写。二重スパイ容疑を掛けられた妻への愛を疑うようになる英国スパイの苦悩をブラッド・ピットが熱演。