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COLUMN/コラム2024.03.01
マックィーンvsニューマン『タワーリング・インフェルノ』=“そびえ立つ地獄”の頂に立ったのは!?
1975年=昭和50年。日本に於いてこの年は、現在60歳前後となっている私のような世代の映画ファンにとっては、特別な意味を持つ。 夏に超高層ビルの火災を描いた、『タワーリング・インフェルノ』(1974)、冬には人食い鮫の恐怖を描いた、『ジョーズ』(75)。いずれも本国よりは半年ほど遅れて公開されたアメリカ映画が特大ヒットとなり、“パニック映画”ブームが最高潮に達した。それと同時に、“超大作”が全国数百館のスクリーンを占めて一斉公開される、“ブロックバスター”の時代が、本格化していく。 我々の世代の多くは、リアルタイムでこれらの作品に魅せられたのがきっかけで、“映画少年”になった。人生の羅針盤が、ここで狂った者が少なくない…。 本作『タワーリング・インフェルノ』の企画の発端は、ハリウッド2大メジャーの“競合”からだった。ワーナー・ブラザースが「ザ・タワー」、20世紀フォックスが「グラス・インフェルノ(ガラスの地獄)」という、それぞれ超高層ビルの火災を描いた小説の原作権を、30~40万㌦もの大金を投じて、買い入れたのである。 2つの小説は、ビル火災発生の状況設定など類似点が多かった。そこで両メジャーの橋渡しに登場したのが、アーウィン・アレン(1916~91)。 アレンは、コロムビア大学でジャーナリズム学・広告学を専攻後、雑誌の編集、ラジオ番組の製作、コラムニスト、出版のエージェントなどを経て、映像業界へ。60年代にはプロデューサーとして、「宇宙家族ロビンソン」「タイム・トンネル」「巨人の惑星」などのSFドラマを手掛け、TVのヒットメーカーとなった。 映画界にその名を轟かせたのは、1972年に公開された、『ポセイドン・アドベンチャー』。大津波によって転覆した豪華客船からの決死の脱出劇を描いたこの作品は、世界中で大ヒットとなり、“パニック映画”ブームの先駆けとなった。 そのアレンが、ワーナーとフォックスに、無駄な競作を避け、両原作の良いところ取りをしたストーリーを組み立てて、共同製作をする話を提案したわけである。両社は73年10月に合意に達し、このプロジェクトに、合わせて1,400万㌦の巨費を投じることを決めた。 アレンは、『ポセイドン・アドベンチャー』で大成功を収めた方法論を以て、本作の製作に取り掛かる。~キャストには有名スターをズラリと揃え、彼ら彼女らを災害の渦中に放り込む~~特殊効果を駆使して、大勢のエキストラが命を落としていく中で、スターたちも次々と犠牲になる~~最終的に、スターの何人かが生還を果す~ 74年春、キャストが固まった。2大メジャーが手を組んだ以上のニュースとなったのが、2大スターの共演。それは、スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンという組合せだった。 脇を固めるのも、ウィリアム・ホールデン、フェイ・ダナウェイ、フレッド・アステア、リチャード・チェンバレン、ジェニファー・ジョーンズ、シェリー・ウィンタース、ロバート・ヴォーン、ロバート・ワグナーといった、新旧取り合わせて豪華な面々。その一翼には、アメフトのスーパースターで、後に元妻殺しで“時の人”となってしまう、O・J・シンプソンも加わっていた。 これらのオールスターキャストが、いわゆる“グランドホテル形式”で、災害の中で様々な人間模様を繰り広げていくわけだが、何と言っても、耳目を浚ったのは、マックィーンとニューマン!当時としては、これ以上にない、ビッグなカップリングであった。 そして本作『タワーリング・インフェルノ』は、74年5月にクランク・イン。70日間の撮影へと突入した。 ***** サンフランシスコに、地上520㍍の偉容を誇る、138階建ての超高層ビル「グラスタワー」が完成。最上階のプロムナードルームには、上院議員や市長などのVIPをはじめとした300名を集め、落成記念パーティが開かれることとなった。「タワー」の設計者ダグ(演:ポール・ニューマン)は、これを機に施工会社を退職することを決意。婚約者のスーザン(演:フェイ・ダナウェイ)と、砂漠へと移り住む計画だった。 しかし電気系統の異常が起こったことから、ダグは自分が指定した仕様より安上がりな材料を使った、大規模な手抜き工事が行われていることを知る。ダグは施工会社の社長で、ビルのオーナーでもあるダンカン(演:ウィリアム・ホールデン)に、「タワー」オープンの延期を迫るが、相手にされない。 危惧は的中し、81階の配電盤のショートから出火。火は、徐々に燃え広がっていった。 オハラハン(演:スティーヴ・マックィーン)をチーフとする消防隊が出動する。火災の状況を見た彼は、ダンカンを半ば脅すように説得。最上階から賓客たちを、1階へと下ろすことを承知させた。 ようやく避難が始まる中で、それを嘲笑うように火の手は広がっていく。消防隊員を含めて犠牲者が増えていく中で、オハラハンとダグたちは、一人でも多くの命を救おうと、粉骨砕身の働きをするが…。 ***** 2つの小説からエキスを抽出して、1本のシナリオにしたのは、スターリング・シリファント。『夜の大捜査線』(67)でアカデミー賞脚色賞を受賞している彼は、『ポセイドン・アドベンチャー』で、ポール・ギャリコの原作をベースに、オールスターキャストによる、“パニック映画”の鋳型を作り上げた実績を買われての、起用である。 本作では、原作に書かれた、登場人物たちの絡みは極力簡略化。救助活動が行われている最中に、トラブルが起きて、その方法がダメになる。そこで新たな救助のやり方を見つけ出すが、まだダメになる。更に次の方法を見つけて…といった形で、アクションを伴ったハラハラドキドキの展開を、積み上げた。 監督に選ばれたのは、ジョン・ギラーミン。『ブルー・マックス』(66)『レマゲン鉄橋』(69)などの戦争映画で評価されていた。 と言っても本作は、4つのグループが同時にカメラを回すという、製作体制。ギラーミンは主に、ドラマ部分を担当。アクションパートを、プロデューサーのアーウィン・アレンが監督した他に、特殊効果班、空中シーン班が稼働した。 ミニチュアやセットなどを担当したのは、『ポセイドン・アドベンチャー』のスタッフ。ミニチュアと言っても、138階/520㍍の「グラスタワー」の模型は、33㍍の高さに及んだ。「タワー」が、サンフランシスコ市街の上方高くそびえ立っているように見せるためには、マットペインティングの特殊技術が併用されたという。 ロサンゼルスの20世紀フォックスのスタジオに在る、8つのサウンドステージには、57という記録的な数のセットが組まれた。その中には、宙づりになった展望エレベーターをヘリコプターで吊るシーンを撮るために作られた、4階分の高さの建物のセットなどもある。 CGなどない時代の、大火災の映画である。セットを実際に燃やしながら撮影しても、俳優の演技が良くない時がある。そうした場合のため、セットは1度火を付けても、後でまた使えるように、特殊建材を使った耐火仕様。NGが出ると、スタッフがすぐさま、壁を直してペンキを塗り替え、カーペットや家具、カーテンなどを新品に交換して、撮影が続けられた。 30万㌦を投じ、全長100㍍、1万1,000平方㍍に及ぶ最大級のセットが作られたのは、落成パーティの場となる、最上階のプロムナードルーム。クライマックスシーンの撮影のため、鉄柵で5㍍もある支柱を組み、その上にセットを組み立てた。4,000㍑もの水を一気に流した際に、スムースになだれ落ちる構造となっている。ネタバレになるが、このような作りにしないと、映画の内容と同じく、キャストが溺死する危険性があったという。 こうしたセットの中で、3,000人ものエキストラが右往左往。25名のスタントマンが、高層ビルの窓をぶち破って飛び降りたり、エレベーターのシャフトや階段の吹き抜けに転落したり、不燃性のボディスーツを着込んで火だるまになったりしたのである。 そんな大プロジェクトの頂点に居たのが、スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンだった。 マックィーンは1930年生まれ、ニューマンは4歳年長の26年生まれで、本作の頃は共に40代。アクターズ・スタジオ出身の2人は、TVやブロードウェイを経て、ハリウッド入り。60年代から70年代に掛けて、TOPの座を競い合ってきた。 とはいえ、「犬猿の仲」というわけではない。スピード狂でカーレーサーでもあるという共通の嗜好があり、また映画製作の場でスターが発言権を強めるためのプロダクション「ファースト・アーティスツ」の同志でもあった。 だが2人がそのキャリアを通じて、ライバル心を抱き合ってきたのも、紛れもない事実。特にマックィーンがニューマンに対して抱いてきた感情は、強烈なものだったと言われる。 ポール・ニューマンの出世作となったのは、実在のプロボクサーに扮した、『傷だらけの栄光』(57)。実はこの作品に、マックィーンも、出演している。 と言っても、日給19㌦で雇われた、エキストラに毛が生えた程度の役どころで、その名はクレジットもされていない。監督のロバート・ワイズ曰く、まだ無名の存在だったマックィーンの「精一杯の生意気な態度」が目を惹いたので、「ニューヨークの屋上の乱闘の場面での“小僧”の役」に付けたのである。 因みにワイズはこの9年後に、人気スターとなったマックィーンの主演作『砲艦サンパブロ』(66)を監督。時の流れを痛感したという。 ニューマンとマックィーンの次なる因縁は、『明日に向って撃て!』(69)。ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドという、19世紀末の西部に実在した2人組のアウトローを主役とするこの作品では、ニューマンの出演が早々に決定。その後共演者の候補として、マーロン・ブランドやウォーレン・ベアティ、マックィーンの名が挙がった。中でもニューマンが、特に共演を切望したのが、マックィーンだった。 実はニューマンとマックィーンのエージェントは、同一人物。そのエージェント、フレディ・フィールズは2人の共演を実現するために奔走するも、最終的に不調に終わる。マックィーンが自分の名を、ニューマンより先にクレジットすることにこだわったためだったと言われる。 結果的にマックィーンがやる筈だったサンダンス・キッド役には、ロバート・レッドフォードが抜擢され、作品の大ヒットと共に、一躍スターダムに。ニューマンとレッドフォードは、生涯を通じての親友ともなった。 因みに『明日に向って撃て!』が公開された翌70年、カリフォルニアのスピードウェイで、ニューマンとマックィーンの2人が、レースを見て楽しむ姿が、地元の9歳の少年に目撃されている。少年曰く、ニューマンがマックィーンに、『明日に向って撃て!』に出なかったことをくどくどと言及すると、マックィーンは「あんたはそれをもう一度俺に演らせる気は無いだろう!」と反論。そのやり取りの後、2人は突然少年の方を見て、ニヤリと笑ったという…。 さて『明日に向って撃て!』から5年経って、ようやく実現した、本作での本格的な共演。この作品へのコメントを見ると、ニューマンは、結構割り切って出演している感が強い。曰く、「この映画の本当の主役は火災だ」「この種の映画としてはいいできだった。できる限り素早くスター達を避難させ、スタントマンをつぎこんでね」 それに対してマックィーンのスタンスは、ちょっと違っていた。「最初シナリオを読んだ時は建築技師の役がいいと思ったけれど、途中で気が変わってね」 マックィーンが気に入ったのは、消防隊チーフのオハラハン。彼はずっと伸ばしていたお気に入りのヒゲを、役のために剃り落とした。そして、マックィーンが演じることで、元々はTOPから4番目だったオハラハンの役どころは、膨らんでいく。 本作の技術顧問である、本物の消防隊長とマックィーンの打合せ中に、近隣の映画スタジオで、本物の火災が発生した。参考になるからと、現場へと向かう消防隊長に同行。実地見学に赴いた際、ヘルメットと消防服を身に纏って、マックィーンは、放水を手伝ったという。 監督のギラーミンは、マックィーンから、自分が被るヘルメットが、イギリスの警官のように見えるので、どうにかして欲しいと言われ、困惑したことがあった。偶然にも撮影が始まる前夜、ギラーミンが食事に出掛けた先で、古風な消防士用のヘルメットを見つけたので持ち帰り、マックィーンに試着させた。すると気に入ってくれたので、ホッと胸を撫で下ろすという一幕もあった。 脚本に関しても、一悶着あった。マックィーンが自分のセリフの数をカウントして、ニューマンより12個も少ないことを発見。プロデューサーに電話して、セリフを増やすことを要求してきたのである。 そのため、休暇で海に出ていた脚本家のシリファントは、突然陸へと呼び戻された。彼はマックィーンの要求通り、セリフを12個増やしたという。 そして再び、ニューマンとマックィーンの共通のエージェント、フレディ・フィールズの出番が、やって来る。彼がプロデューサーのアレンと論議になったのは、ポスターなどで、2人の大スターの名前の配列を、どうするのか!? 最終的にまとまったのは、TOPにはマックィーンの名を置くということ。但し、その右側にクレジットされるニューマンの名は、マックィーンよりも高い位置に置いて、同格の主演であることを表す。 ともあれマックィーンは、ニューマンよりも先にクレジットされるという、長年の宿願を果した形になった。 2人は出演料100万㌦に加えて、総収益の7.5%の歩合という、まったく同じ条件で本作に出演。最終的には、1,000万㌦程度を手にしたという。しかしマックィーンにとって本作は、その大金以上に価値のあるものを手にした作品と言えるかも知れない。 因みに本作には、若い消防士役でニューマンの長男である、スコット・ニューマンが出演。マックィーンとの共演シーンもある。当初マックィーンは、ライバルの息子の面倒を見ることを嫌がったが、途中からスコットのことを気に入り、彼のセリフを増やすことまでOKした。その背景にも、こんな事情があったからかも知れない。 本作『タワーリング・インフェルノ』は、『ポセイドン・アドベンチャー』以上の大ヒットとなり、アーウィン・アレンは、「パニック映画の巨匠」と呼ばれる存在となった。また監督のジョン・ギラーミンも、『キングコング』(76)や『ナイル殺人事件』(78)など、大作を任される監督として、暫し君臨する。 しかしながらこの2人のキャリアのピークは、やはり本作であったと言えるだろう。アレンはその後、自ら監督まで手掛けた『スウォーム』(78)『ポセイドン・アドベンチャー2』(79)が連続して、大コケ。それならばと製作に専念し、ポール・ニューマンやウィリアム・ホールデンを再び招いた『世界崩壊の序曲』(80)で、キャリアのトドメを刺される。ギラーミンも80年代に入ると、低予算のB級作品やTVムービーの監督へと堕していく。 そしてまた、マックィーンのキャリアも、結果的にここがピークとなってしまった。本作に続いては、ヘンリック・イプセンの戯曲を映画化した『民衆の敵』(76)の製作・主演を務めたが、アメリカ本国ではまともに公開されないという結果に終わる(日本では83年までお蔵入り)。 その後『未知との遭遇』(77)や『恐怖の報酬』(77)『地獄の黙示録』(79)等々、様々なオファーが舞い込むも、すべて拒否。彼の雄姿は、名画座やTV放送などの旧作でしか見られなくなった。 待望の新作が公開されたのは、80年。西部劇の『トム・ホーン』、そして現代の賞金稼ぎを演じた『ハンター』が、相次いで公開された。ところがこの年の11月、彼はガンのために、50歳の若さで、この世を去ってしまったのだ。 ニューマンは60を過ぎて、『ハスラー2』(86)で、待望のアカデミー賞を受賞する。マックィーンは生涯手にすることがなかったオスカー像を、遂に手にしたのだ。 そしてニューマンは、70代までは第一線で活躍。2008年に、83歳でこの世を去った。 そんなことも考え合わせながら、1974年当時は未曾有の超大作だった本作を観るのも、長年の映画ファンとして、また感慨深かったりする。■ 『タワーリング・インフェルノ』© 1974 Warner Bros. Ent. All rights reserved. © 2023 Warner Bros. Ent. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.02.07
“1969年”という時代が生んだ、“アメリカン・ニューシネマ”の傑作『イージー・ライダー』
俳優ヘンリー・フォンダの息子としてこの世に生を授かった、ピーター・フォンダ(1940~2019)。幼少期に母が自殺したことなどから、父に対して長くわだかまりがあったと言われる。しかし姉のジェーン・フォンダと共に、名優と謳われた父と同じ“演技”の道へと進んだ。 彼が人気を得たのは、“B級映画の帝王”ロジャー・コーマンが製作・監督した、『ワイルド・エンジェル』(1966)の主演による。実在するバイクの暴走グループ“ヘルズ・エンジェルス”を描いたこの作品で、若者のアイコンとなったのだ。 その翌年=67年に主演したのが、同じくコーマン作品の『白昼の幻想』。こちらは合成麻薬である、“LSD”によるトリップを描いた内容である。自身その愛好者で、「アイデンティティの危機がLSDによって救われた」と語っていたピーターは、この作品の脚本を初めて読んだ時、「こいつはアメリカでこれまでに作られたなかの最高の作品になる!」と、叫んだという。 その脚本を書いたのは、当時は「売れない」俳優だった、ジャック・二コルソン(1937~ )。いつまでも芽が出ない役者業に見切りをつけて、本格的に脚本家としての道を歩んでいくべきかと、悩んでいた頃だった。 ニコルソンが自らの豊富な“LSD”体験をベースに描いた脚本の出来に、ピーターは感激。それまでは特に親しくしていたわけではない、二コルソンの家へと車を飛ばし、感謝の気持ちを伝えたという。 しかし実際に撮影され完成した作品は、ピーターにとっても二コルソンにとっても、大きな不満が残るものとなった。いかに「安く」「早く」「儲かる」作品を作るかを優先するコーマンの製作・監督では、脚本に書かれた想像力溢れるトリップのシーンなどが、どうしてもチープな作りとなってしまう。その上配給元の「AIP」の手も入って、ピーターやニコルソンのイメージとは、まったくかけ離れたものとなってしまった。 ピーターにとって良かったのは、コーマンに頼み込んで、この作品に脇役で出演していた、親友のデニス・ホッパー(1936~2010)に、一部演出を任せられたことだ。絵画や写真にも通じていたホッパーが撮った映像は、コーマンとは明らかに異質な、美しく詩的なイメージに溢れていた。 ピーターは以前から、ホッパーと組んでの“映画作り”を目論んでおり、『白昼の幻想』が、その試金石となった。これなら彼に、“監督”を任せられる! そして67年9月。『白昼の幻想』プロモーションのために滞在した、カナダ・トロントのホテルで、運命の瞬間が訪れる。 酒を煽り、睡眠薬も飲んで、ひょっとしたらマリファナも吸っていたのかも知れない。そんな状態のピーターだったが、サインを頼まれていた、出世作『ワイルド・エンジェル』のスチール写真が目に入った。それは1台のバイクに、ピーターと共演者が跨っているものだった。 ピーターは、閃いた。1台のバイクに2人ではなく、2台のオートバイそれぞれに、1人の男が乗っていたら…。「はぐれ者ふたりが、バイクでアメリカを横断していく現代の西部劇」だ! 映画のアイディアが浮かんで、ピーターが電話を掛けた相手は、ホッパーだった。「それは凄いじゃないか!」と言ったホッパーは、続けて「それで一体どうしようっていうんだい?」と尋ねた。 ピーターは、自分がプロデューサーをやるから、ホッパーに監督をやって欲しいと伝えた。その方が、金の節約にもなる。 そこから2人は、随時集まってはとことん話し合った。そして決めたことをどんどんテープに吹き込んでいった。 アイディアを煮詰めていく最中、ピーターは1ヶ月ほど、『世にも怪奇な物語』(68)出演のため、ヨーロッパへと向かう。その間ホッパーとのやり取りは、手紙となった。 ある日ピーターの撮影現場に、脚本家のテリー・サザーン(1924~95)が、陣中見舞いに現れた。サザーンはピーターから、この企画の話を聞いて、協力を申し出た。 そしてサザーンの思い付きから、映画のタイトルが決まる。元は「売春婦とデキてて、ヒモじゃないけど女と一緒に暮らしてる奴」を意味するスラングだという。それが、『イージー・ライダー』だった。 ***** コカインの密輸で大金を得たワイアット(演:ピーター・フォンダ)とビリー(演:デニス・ホッパー)は、フル改造したハーレーダビッドソンを駆って、カリフォルニアから旅立つ。マリファナを吸いながら、向かう目的地は、“謝肉祭”の行われるルイジアナ州ニューオーリンズ…。 ***** トムとホッパーは、プロットを書いた8頁のメモしかない状態で、映画の資金を出してくれる、スポンサー探しを始める。ピーターが当初アテにした「AIP」は、これまでに撮影現場の内外で度々トラブルを起こしてきたホッパーに恐れをなして、出資を断わった。 結局スポンサーとなったのは、当時TVシリーズ「ザ・モンキーズ」(66~68)で大当たりを取っていたプロデューサーの、バート・シュナイダー。37万5,000㌦の資金を提供してくれることとなった。 そして『イージー・ライダー』は、68年2月23日にクランク・イン。この日は、ピーターの28歳の誕生日だった。 まだ脚本は完成しておらず、撮影機材も揃ってない状態だったが、まずは1週間のロケを敢行。“謝肉祭”で盛り上がるニューオーリンズの町中を、ピーターとホッパーが、娼婦2人を連れて練り歩くシーンと、その4人で墓地へと出掛けて、LSDによるバッドトリップを経験するシーンの撮影を行った。 撮影は初日から、“初監督”のプレッシャーを抱えたホッパーのドラッグ乱用によって、波乱含み。当初決まっていた撮影監督は、この1週間だけでホッパーとの仕事に嫌気が差して、現場を去った。 こうしたトラブルの一方でホッパーは、LSDトリップのシーンで、監督としての非凡な才を遺憾なく発揮。ピーター本人の内面に眠っていた、自殺した母への想いなどを、引き出してみせた。 最初の1週間を終えると、ピーターは脚本を仕上げるために、ニューヨークへ。ホッパーは、残りのシーンのロケハンへと向かった。ホッパーに言わせると、ピーターとテリー・サザーンが、結局1行たりとも脚本を書けなかったため、最終的に脚本は自分1人で仕上げたということなのだが、この辺りは証言者によって内容に食い違いがあるので、定かではない。 ***** ワイアットとビリーは、長髪に髭という風体もあって、安モーテルからも宿泊拒否され、行く先々で野宿を余儀なくされる。 旅先で心優しき人々と出会ったり、ヒッピーのコミューンで、安らぎの一時を送ることもあった。しかしちょっとしたことで、監獄にぶち込まれてしまう。 その監獄で、アル中の弁護士ジョージ・ハンセン(演:ジャック・ニコルソン)と出会う。彼の口利きで釈放された2人は、旅に同行したいというハンセンを乗せ、アメリカ南部の奥深い地域までやって来るが…。 ***** 最初の1週間で降りた撮影監督の代役には、当時B級映画の撮影を数多くこなしていた、ハンガリー出身のラズロ・コヴァックスが決まった。しかしもう1人、慌てて代役を見つけなければならない者がいた。 ジョージ・ハンセン役には、当初リップ・トーンが決まっていた。しかしギャラや脚本の手直しなどで折り合いがつかず、ホッパーと大喧嘩になって、降板。 その代役として、プロデューサーのバート・シュナイダーが推したのが、奇しくもピーター・フォンダと『白昼の幻想』で意気投合した、ジャック・ニコルソン。シュナイダーが製作総指揮を務めた、『ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!』(68)で、ニコルソンが脚本を書き、出演もしていた縁だった。『イージー・ライダー』の撮影中、ワイアットとビリーに遭遇する人々は、実際に各ロケ地で集めた人々を軸に、キャスティングされていた。その方が、おかしな出で立ちのよそ者に対する警戒心や嫌悪、敵意など、生の感情が引き出せるという、ホッパーの計算があった。 ジョージ・ハンセン役にしても、その流れなのか、ホッパーはトーンの代役には、テキサス訛りのできる田舎臭い人間を考えていたという。そのためニコルソンの起用には、猛反対。しかし渋々使ってみたところ、彼の演技はホッパーが、「最高」と認めざるを得ないものだった。 因みにワイアット、ビリー、ジョージの3人で焚き火を囲んで、マリファナを吸うシーンで、ニコルソン演じるジョージは、初体験のマリファナが、徐々にきいてくるという設定。ところが本物のマリファナを使っているこのシーンでは、何度もリテイクがあったため、ニコルソンは実際にはマリファナが相当きいていながら、しらふの状態を演じざるを得なくなったという。 ジョージは結局、3人で野営しているところを、彼らを敵視した近隣の住民に襲われて、いち早く命を落としてしまう。その直前に焚き火に当たりながら、彼がワイアットとビリーに話した内容は、本作の中で屈指の名セリフとなった。「連中はあんたが象徴する自由を怖がってるんだ」「自由について話すことと、自由であることは、まったく別のことだ。……みんなが個人の自由についてしゃべるけど、自由な個人を見ると、たちまち怖くなるのさ」 そして彼は、「怖くなった」者たちに、命を奪われてしまうわけである。残された2人も、ワイアットの「俺たちは負けたんだ」のセリフの後に、映画史に残る、衝撃的な最期を迎えることになるわけだが…。 2週間半の撮影が、終了。そして1年ほどの編集期間を経て、作品は完成に至った。 2台のバイクが疾走するシーンには、かの有名なステッペンウルフの「ワイルドでいこう!= Born to Be Wild」をはじめ、必ず既成のロック・ミュージックが掛かるが、これは当時としては斬新なスタイル。それぞれの曲の歌詞が、映画の中の主人公たちの行動と結びつけられており、またホッパーによって、音楽と画面が合うように編集されていた。 本作は69年5月、「カンヌ国際映画祭」に出品されると、「新人監督による作品賞」「国際エバンジェリ委員会映画賞」が贈られた。 そして7月14日。ニューヨークでの先行公開を皮切りに、大ヒットを記録。最終的に6,000万㌦以上の収益を上げた。これはそれまでのハリウッドの歴史上では、予算に対しての利益率が、他にないほど頭抜けた興行成績だった。 ヘンリー・フォンダはこの偉業に対して、「畏敬の念をおぼえる」と、プロデューサー兼主演を務めた、我が子を称賛。ピーター・フォンダは、長い間欲してやまなかったものを、遂に手にすることができたのだ。 デニス・ホッパーは、ハリウッド最注目の新人監督となって、本作以前に取り掛かろうとして頓挫していた、『ラストムービー』(71)の企画を本格的に動かすことに。これが彼のキャリアに長き低迷をもたらすことになるのだが、それはまた別の話。 一旦は俳優廃業も考えていたジャック・ニコルソンは、まさにこの作品を契機に、後にはアカデミー賞を3度受賞する、ハリウッド屈指の名優に育っていく。 作品自体は、いわゆる“アメリカン・ニューシネマ”の1本として、映画史にその名を刻み、1998年には、「アメリカ国立フィルム登録簿」に永久保存登録が決まった。 ピーターとホッパー、ニコルソンの3人が揃い踏みする“続編”的作品が、幾度か企画された。しかしその内2人が鬼籍に入り、1人が引退状態の今、もはやあり得ないお話である。 “リメイク”が進められているというニュースもあったが、1969年という時代にあの3人だったからこその“傑作”であった『イージー・ライダー』を、果してアップデートすることなど、可能なのだろうか?■ 『イージー・ライダー』© 1969, renewed 1997 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.01.23
リアリズム西部劇などクソ喰らえ!“巨匠”ハワード・ホークス起死回生の一作!!『リオ・ブラボー』
古代エジプトを舞台に、大々的なエジプトロケを敢行した製作・監督作『ピラミッド』(1955)が失敗に終わった後、ハワード・ホークスは、ヨーロッパへと逃れた。そして映画ビジネスに対する情熱を取り戻すまで、4年近くの歳月を要した。 それまでの彼のキャリアでは最も長かったブランクを経て、帰国してハリウッドへと戻ったホークスは、「自分が最もよく知っているものをやってやろう…」と考えた。それは、既に落ち目のジャンルのように思われていた、“西部劇”。 彼は思った。以前に観て、「あまりにも不愉快」と感じた作品の裏返しをやってみようと。その作品とは、『真昼の決闘』(52)。 ゲイリー・クーパー演じる保安官が、自分が刑務所送りにした無法者の一味の報復に脅え、町の人々の協力を得ようとするも、ソッポを向かれてしまう…。“赤狩り”の時代、体制による思想弾圧を黙認するアメリカ人を、寓意的に表した作品とも言われる。いわゆる“リアリズム西部劇”として、傑作の誉れ高い作品である。 しかしホークスに掛かれば、一刀両断。「本物の保安官とは、町を走り回って人々に助けを乞う者ではない」。プロは素人に助けを求めたりしないし、素人にヘタに出しゃばられては、かえって足手まといになるというのだ。 また別に、『決断の3時10分』(57)という作品も、ホークスの癇に触っていた。この作品では、捕らえられている悪人のボスが主人公に対し、「手下たちがやって来るまで待っていろよ」と凄んで、冷や汗を掻かせる。これもホークスからしてみれば、「ナンセンスもはなはだしい」。主人公がこう言い返せば、良い。「手下どもが追いついてこないことを祈った方がいいぞ。何故なら、そうなったら死ぬのはお前さんが真っ先だからな」 ホークスが新作の主演に想定したのは、ジョン・ウェイン。“デューク(公爵)”の愛称で、長くハリウッドTOPスターの座に君臨した彼は、特に“西部劇”というジャンルで、数多の名作・ヒット作の主演を務め、絶大なる人気を誇っていた。 そしてホークス&ウェインは、かつて『赤い河』(48)で組み、赫々たる戦果を挙げたコンビである。お誂え向きに、ウェインもホークスと同様、『真昼の決闘』に嫌悪感を抱いていた。 その頃のウェインは、ちょっとしたスランプ状態。西部劇には『捜索者』(56)以来出演しておらず、近作の数本は、ウェイン主演作としては、ヒットとは言えない興行成績に終わっていた。 こうして監督ハワード・ホークス、主演ジョン・ウェイン11年振りの組合せとなる、本作『リオ・ブラボー』(59)の企画がスタートした。 ***** テキサスの街リオ・ブラボーで、保安官のジョン・T・チャンス(演:ジョン・ウェイン)は、殺人犯のジョーを逮捕した。 しかしジョーの兄で大牧場主の有力者ネイサン(演:ジョン・ラッセル)が、弟の引き渡しを求めて、街を封鎖。殺し屋を差し向ける。チャンスの仲間は、アルコール依存に苦しむデュード(演:ディーン・マーティン)と足が不自由な老人スタンピー(演:ウォルター・ブレナン)の2人だけ。 友人のパット(演:ワード・ボンド)が加勢を申し出るが、チャンスは断わる。しかしパットは、ネイサンの一味に殺害されてしまう。 ネイサンの放つ刺客に、幾度もピンチを迎えながら、パットの護衛を務めていた早撃ちの若者コロラド(演:リッキー・ネルソン)や、流れ者の美女(演:アンジー・ディキンソン)の協力も得て、切り抜けていくチャンスたち。 そんな中でデュードを人質に取ったネイサンが、牢に居るジョーとの交換を申し入れてきた。ネイサン一味が立て籠もる納屋に向かう、チャンスとコロラド、そしてスタンピー。 いよいよ、最終決戦の時がやって来た…。 ***** 脚本はホークスお気に入りの2人、ジェールズ・ファースマンとリー・ブラケットに依頼した。基本的には、ホークスとファースマンが喋ったシーンを、ブラケットが書き留めて、形を整える。必要とあらば更に整え直して、つなぎ合わせを行い、その間にブラケット自身のアイディアを少々付け足していく。このやり方で、何度も改稿。脚本が、完成に至った。 しかしながら、これで終わりというわけではない。クランクイン前から撮影中まで、細かい変更が随時行われていった。 ジョン・ウェイン以外のキャスティングで、ホークスがデュード役に、最初に考えたのは、『赤い河』に出演していた、モンゴメリー・クリフト。しかし、最初は候補のリストに入ってなかった、歌手でコメディアンのディーン・マーティンが浮上した。 マーティンはジェリー・ルイスとの「底抜けコンビ」で人気を博したが、56年にコンビを解消。フランク・シナトラ率いる、“ラットパック(シナトラ一家)”入りした頃だった。ホークスはマーティンに会ってみて、その人柄が気に入り、彼の起用を決めた。 早撃ちの拳銃使いコロラド役には、当初年輩の俳優を当てることが考えられていた。しかしホークスに、妙案が浮かんだ。 彼が白羽の矢を立てたのは、18歳のリッキー・ネルソン。子どもの頃から、父オジー、母ハリエット、兄デヴィッドとホームコメディ「陽気なネルソン」に出演していたリッキーは、16歳で歌手デビューし、アイドル歌手として、絶大な人気を誇っていた。 当時は、エルヴィス・プレスリーが絶大なる興行力を持っており、その主演映画に観客が殺到していた。ホークスはネルソンも、似たような力を持っているに違いないと考えたのである。 実際に本作の撮影中は、数百人ものファンが、リッキーが滞在するホテルへと押しかけた。リッキーは4度もホテルを変えた挙げ句、人里離れた牧場へと避難するハメとなった。 スタンピー役は、『赤い河』などにも出演し、まるで当て書きのようなウォルター・ブレナン。当時はTVシリーズ「マッコイじいさん」で、お茶の間の人気者にもなっていた。 リッキーやブレナンがそうであるように、本作には、TVの出演俳優が多々起用されている。パット役のワード・ボンド、敵の親玉ネイサン役のジョン・ラッセル、チャンスをサポートするメキシコ人のホテル経営者役のペドロ・ゴンザレス=ゴンザレス等々。TV時代が到来している折りに、観客の間口を広げる、機を見るに敏な、ホークス流キャスティングと言えるだろう。 因みに本作は、“大男”映画でもある。ウェインとラッセルが、193㌢。監督のホークスとワード・ボンドが、190㌢。ウェインと並ぶと小さく見えるが、リッキー・ネルソンが185㌢、ディーン・マーティンも183㌢あった。 ウェイン演じる保安官とのロマンスが展開する、流れ者の美女役には、新進女優だった、アンジー・ディキンソン。これまでに自作に出演した中でも、アンジーが最高にセクシーと見て取ったホークスは、彼女が身に付ける衣裳を、細部の細部まで自ら目を通した。そして、当時の女性が着ていた型通りのものにしないことを望んで、ソフトですべすべした「女っぽい衣裳」をリクエストした。 当時はスタッフでも、女性は衣裳係とヘアの係ぐらいしか居なかった。ロケ地入りしたディキンソンは、男たちから「仲間入り」の洗礼を受けた。それは、彼らに招かれた夕食の場で出された、“牛の睾丸料理”。彼女はペロリと平らげて、無事に「仲間入り」を果した。 アリゾナ州ツーソン谷でのロケ撮影は、厳しい炎暑との戦いだった。厩のまぐさが発火しないように、4時間おきに耐火液を振りかけ、撮影中以外は、馬に大きなフードを被せて、強烈な日差しから守った。砂嵐で咳き込む馬には、人間用の咳止めを飲ませたという。 夜間撮影では、イナゴの大群が照明へと押し寄せた。仕方ないので、別に強烈なライトを焚き、そちらにおびき寄せて、撮影を進めた。 クライマックスの対決シーンで、炸裂するダイナマイト。その爆発をより派手に演出するために、美術監督は色紙を大量に、爆破される納屋の中に仕込んだ。その結果、空に舞う色紙は、「まるで爆竹のでかいやつ」のようになってしまい、その場に居合わせた一同が大笑いで、NG。再撮で、納屋を丸々イチから建て直すハメになったという。 ウェインやブレナンなどから、しっくりしないからセリフを変えて欲しいというリクエストがあると、ホークスは、その願いを受け入れた。またリハーサルの時などに、俳優が偶然思いついたことも、どんどん採用していった。 アルコール依存症のデュードを演じるディーン・マーティンが紙巻タバコを作る際に、「もし俺の指のふるえがとまらないとしたら、どうやってタバコを巻いたらいいんだ?」とジョン・ウェインに尋ねた。彼は答えた。「俺が代わりに巻いてやるさ」。 これがデュードがうまくタバコを巻けないでイライラしていると、保安官が黙ってタバコを差し出すというシーンとなった。このような形で2人のキャラクター間の友情が、巧みに表現されたのである。 音楽も、うまくハマった。ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンが、『赤い河』の挿入歌だった、「ライフルと愛馬」をデュエットする。殺し屋たちの魔の手が迫っている中で、随分と悠長なシーンではあるが、「…ふたりのすばらしい歌手がいて、うたわせないという手はない」という、ホークスの考えによる。 悪党のネイサンが保安官たちを脅かすために、酒場の楽団にリクエストする「皆殺しの歌」は、1836年3月にメキシコ軍が、テキサス分離独立派が立て籠もるアラモの砦を攻撃する前に流したと言われる曲。しかし実際の曲は、「恐ろしく陳腐で使えない」と、ホークスが判断。音楽のディミトリ・ティオムキンに、新たに作曲させた。 余談になるが、ウェインはこの曲が、非常に気に入った。そして本作の翌年、アラモの戦いを、自らの製作・監督・主演で映画化した作品『アラモ』(60)に流用したのである。 本作の撮影は、ほとんどのシーンで何テイクも回さずに、1発OKも多かったという。そして58年の5月から7月に掛けての、61日間の全日程を終えた。 本国アメリカ公開は、翌59年の3月。大ヒットとなり、日本その他海外でも、膨大な興行収入を上げた。 そんな本作も公開当時の評価は、単なる無難な“職人監督”であるホークスが手掛けた、“大衆娯楽作品”扱いに止まった。しかし後年、ホークスが“巨匠”として再評価されていく中で『リオ・ブラボー』は、彼の多彩なフィルモグラフィーの中でも、重要な1本と目されるようになっていく。 後年“西部劇”に引導を渡した1本とも言われた、サム・ペキンパー監督の『ワイルド・バンチ』(69)を、「…私なら一人がスローモーションで地上にたおれる前に、四人殺し、死体公示所につれていき、葬送する」と揶揄してみせた、ホークス。そんな彼が作った「本物の“西部劇”」が、『リオ・ブラボー』なのである。■ 『リオ・ブラボー』© David Hawks
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COLUMN/コラム2023.10.11
イーストウッドに俳優業引退を翻意させた、 新人脚本家との出会い 『グラン・トリノ』
クリント・イーストウッドは、1930年5月生まれ。齢70を越えた2000年代に、9本もの劇映画を監督している。 引退を考えてもおかしくない年頃になって、この驚異的なペース。しかも、自身2度目のアカデミー賞作品賞・監督賞を獲得した『ミリオンダラー・ベイビー』(04)をはじめ、その多くが高評価を勝ち取っている。 しかしながら、『荒野の用心棒』(1964)や『ダーティハリー』(71)等々で、“大スター”のイーストウッドに親しんできたファンたちは、2000年代中盤以降、些か淋しい気持ちにも襲われていた。かつては自らの監督作の多くに主演していたイーストウッドだったが、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』(共に06)、『チェンジリング』(08)と、この頃に製作・監督した3作品では、スクリーン上に姿を見せなかったのだ。 イーストウッド自身、『ミリオンダラー・ベイビー』を演じ終えた際には、「…もう十分だ。再び演技はしたくない…」と考えるようになっていたという。それから4年、演じる役柄を特に探すこともなく、監督業に専念していた彼は、ある脚本との出会いによって、翻意する。 イーストウッドが主宰する製作会社マルパソ・プロダクションに届けられたその脚本は、無名の新人脚本家が執筆したもの。まずはプロデューサーのロバート・ロレンツが目を通してから、イーストウッドに手渡した。「これが君の監督作になるか出演作になるかはわからないけれど、とにかくおもしろいよ」と言い添えて。 一読したイーストウッドも、すぐに気に入った。その物語の主人公ウォルト・コワルスキーは、それまでイーストウッドが演じてきたキャラクターが、老境を迎えたかのような人物で、まるで“当て書き”と見紛うばかりだった。 そして本作『グラン・トリノ』(08)の映画化が、動き始めた。 ***** ミシガン州デトロイトに住む、ポーランド系アメリカ人のウォルトは、頑固で偏狭な老人。亡き妻が頼った神父にも、「頭でっかちの童貞」と毒づく始末で、2人の息子やその家族ともうまくいっていない。 若き日に従軍した朝鮮戦争で、敵を殺したトラウマを長年抱えてきたウォルト。近隣には、かつて勤務した自動車工場の仲間たちの姿は消え、今やアジア系の移民ばかりが暮らすように。人種的な偏見の持ち主である彼は、そのことにも腹を立てていた。 ある時、隣に住むモン族の少年タオが、不良の従兄弟に強要されて、ウォルトの愛車“グラン・トリノ”を盗みに入る。タオはウォルトにライフルを突きつけられて、這々の体で逃げ出す。 その後行きがかりから、タオやその姉スーが、不良に絡まれているところを救ったウォルト。はじめは嫌っていた彼らと交流を深めていく中で、孤独が癒やされるのを感じる。 折しも自分が死病に侵されているのを知ったウォルトだが、近隣の家の修繕を手伝わせたり、建設現場の仕事を紹介するなどして、タオを“一人前の男”にすることに生きがいを感じるようになる。それに応えるタオも、ウォルトを“師”と慕うように。 そんな時に、タオの従兄弟ら不良たちからの嫌がらせが、再び始まる。ウォルトが彼らの1人に制裁を加えたことから、事態は悪化。タオとスーの一家は危機に立たされる。 復讐心に燃えるタオを制して、ウォルトは言う。「人を殺す気持ちを知りたいのか?最悪だ」 そしてウォルトは、タオたちを守るために、ある決断をする…。 ***** 本作『グラン・トリノ』の脚本は、それまでローカルケーブルTVのコメディ用台本を手掛けてきたというニック・シェンクが、初めて映画用に書いたもの。主人公のモデルになったのは、シェンクが育ったアメリカ中西部のミネソタ州で、たくさん見てきた男たちだという。 曰く、彼らは「感情を全く見せず、何に対しても喜んだりはしない」「多くはベテラン(帰還兵)で、惨たらしいものをたくさん見てきて、自分の感情を奥に深くしまい込むようになってしまった…」 その結果として、「他人にはいつもタフできつく当たり、特に自分の子供に対しめちゃくちゃ厳しい」。そんな男たちの特徴を組み合わせて練り上げたのが、ウォルト・コワルスキーだった。 因みにウォルトと、馴染みの散髪屋のイタリア系店主が、お互い差別語を交えながら会話するシーンも、シェンクの実体験をベースに書かれたもの。長い間工事現場でトラック運転手として働いていたというシェンクは、その外見からいつも、「ハゲチンポ」と呼ばれていたのだという。 朝鮮戦争で凄惨な体験をして、人殺しをしたことに深い悔恨の念を抱く老人ウォルトの隣人となるのは、“モン族”の少年とその家族。これも、シェンクが工場勤務の頃の同僚に、“モン族”が多くいたことがベースになっている。 “モン族”は元々、中国に居た民族。しかし19世紀に清朝に追われて、ラオスやベトナムなど東南アジアに分布するようになった。 1970年代のベトナム戦争時、山岳地の戦いに強い“モン族”の一派を、アメリカ軍がゲリラとして活用。しかし75年、アメリカが戦争に敗れて撤退すると、ラオスでは“モン族”は敵と見なされて、迫害されるようになる。そのため難民として、アメリカまで逃げる者が多数に上った。 2015年時点で、アメリカに暮らす“モン族”は、二世も含めて26万人余りという。『グラン・トリノ』は、ベトナム戦争でアメリカの犠牲となって、アジアの地から移り住んできた“モン族”が、朝鮮戦争で心の傷を負い、長年罪の意識に囚われてきた男ウォルトの、“救い”となり“贖罪”の対象となる物語だ。 本作を監督し、ウォルトを演じたイーストウッドは、それまで“モン族”のことをほとんど知らなかった。そのため文献に目を通すなど、様々なことを学んだ上で、キャストには本物の“モン族”の人々を起用することに、こだわった。 タオ役のビー・バンやスー役のアーニー・ハーは、演技は学校の演劇部や地元の劇団で経験した程度だったが、非常に勘が良く、イーストウッド曰く「作品に確かなリアリティを出してくれた」。英語が全く話せない“モン族”の老人などもキャスティングする中で、イーストウッドは、彼らのことに詳しいエキスパートを招聘。全ての表現が適切かどうかをチェックしながら、撮影を進めたという。 ウォルトは、何かにつけてはライフルを持ち出し、不良たちを相手に一歩も退かない姿勢を見せる。そのキャラに、イーストウッド最大の当たり役『ダーティハリー』シリーズのハリー・キャラハン刑事を重ね合わせ、その老後のように捉える向きも、少なくないだろう。 イーストウッド自身は、「自分ではハリーだとは思わなかった」と笑いながらも、『ミリオンダラー・ベイビー』や『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』(86)などで、自分が演じてきた主人公たちと重なるところがあることを認めている。「社会や今の世の中から外れた男」で、「人との接し方がわからないし、あらゆることが昔と変わってしまったことにもすねている」のだ。 そんなウォルトである。不良たちのエスカレートする暴力に対しては、ハリー・キャラハンのように銃をぶっ放して、一人残らず殲滅する選択をしても、不思議ではない。いやむしろ、イーストウッド映画のファンとしては、それを期待してしまうだろう。 しかし、“モン族”の若者との交流で、“寛容さ”を学んだ彼は、暴力の連鎖をいかに断つかに腐心。タオたちが、後顧の憂いなく生きていける道を、見つけ出そうとするのだ。 詳しくは本作を、実際に観ていただく他はないが、初公開時にウォルトが採った道を目の当たりにした多くの観客は、まさかの展開に唖然。それでいて、胸を熱くする他はなかったのである。 それにしても、元はイーストウッド主演を前提に書かれたものではない、本作の脚本。実際に映画化権を手にしたイーストウッドが、どれだけ自分自身や己が演じてきたキャラに寄せて、書き直させたのだろうか? ニック・シェンクによると、「脚本から一つか二つシーンをカットして、ロケ地をミネソタ州ミネアポリスからミシガン州デトロイトに移した以外は、ほぼ脚本、一字一句違わずそのまま」イーストウッドは撮り上げたのだという。特にウォルトのセリフは、シェンクが「書いたとおり」に、イーストウッドは演じたのである。 最初に記した通り、1930年生まれのイーストウッドは、ウォルトとほぼ同年代。朝鮮戦争時には、実際に兵役に就いている。幸いにして戦場に出ることはなかったというが。 また本作に取り掛かる直前は折しも、イーストウッドが日本兵を主人公にした『硫黄島からの手紙』を監督して、アジアへの視点が開けたと思しき頃。そんなタイミングで、自分の年代で演じるにはベストと言える、『グラン・トリノ』の脚本と出会ったわけである。 イーストウッドのそうした強運さは、彼が長命にして頑健な肉体を誇ることと合わせて、「天からのプレゼント」という他はない。それは。彼の映画を見続けてきた我々にとってもである。 かくして世に送り出された『グラン・トリノ』は、当時としてはイーストウッド映画史上、最大のヒットを記録した。■ 『グラン・トリノ』© Matten Productions GmbH & Co. KG
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PROGRAM/放送作品
放送まであと1日!『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』の魅力に迫る!(4)
ジャック・リーチャー is back!トム・クルーズ史上、最もハードボイルドな最強アウトローに迫る!
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COLUMN/コラム2023.08.14
“戦争映画”の歴史を塗り替えた!巨匠イーストウッドの“日本映画”。『硫黄島からの手紙』
2000年代中盤、70代半ばとなったクリント・イーストウッドの監督としてのキャリアは、まさにピークを迎えていた。『ミスティック・リバー』(03)は、アカデミー賞6部門にノミネート。ショーン・ペンに主演男優賞、ティム・ロビンスに助演男優賞のオスカーをもたらした。翌年の『ミリオンダラー・ベイビー』(04)では、ヒラリー・スワンクに主演女優賞、モーガン・フリーマンに助演男優賞が渡っただけではなく、イーストウッド自身に、『許されざる者』(1992)以来となる、それぞれ2度目の作品賞と監督賞が贈呈された。 もはや彼を、「巨匠」と呼ぶのに、躊躇する者は居なかった。次は何を撮るのか?常に注目される存在となっていた。『ミリオンダラー・ベイビー』に続いて選んだ監督作品は、硫黄島を舞台にした"戦争映画”。小笠原諸島の一部であり、東京とサイパンのちょうど間に位置するこの島では、太平洋戦争末期に激しい戦闘が行われ、日米双方に多大な犠牲者が出ている。戦死者は両軍合わせて、2万7,000人近くに及ぶという。 ノンフィクション小説(邦訳「硫黄島の星条旗」)をベースにした、『父親たちの星条旗』(06)。この企画を彼に持ち掛けたのは、スティーブン・スピルバーグだった。 イーストウッドは、『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本家ポール・ハギスに、再び仕事を依頼。ハギスはイーストウッドとミーティングを重ねて、脚本を完成させた。 この作品の主人公は、硫黄島の戦いに参加して英雄となりながらも、その後戦争について語らなかった元米兵。彼が死の床に就いた時、その息子は関係者に話を聞いて初めて、父親の秘めたる真実を知る…。 イーストウッドは若き日、ユニバーサル・スタジオで、オーディ・マーフィーと出会った。マーフィーは第2次大戦の英雄であり、終戦後にハリウッドでスターとなった男で、彼の自伝的映画である『地獄の戦線』(55)という大ヒット作もあった。 しかし彼は、戦争のことを語りたがらなかった。彼がPTSDに苦しんでいたことを、イーストウッドは後に知る。 戦争で死に直面するような経験をした者は、多くを語らない。遠方で差配しているような者に限って、見てきたような勇ましい戦話をするのである。 戦争に英雄などいない。正しい戦争などなく、無意味な「人殺し」しかない。これがイーストウッドの、“戦争観”である。 しかしそれと同時に、死んだ兵士には、敵味方を問わず最大限の敬意が払われるべきなのだ。イーストウッドは言う。「私が観て育ったほとんどの戦争映画では、どちらかが正義で、どちらかが悪だった。人生とはそんなものではないし、戦争もそんなものではない」 そんなイーストウッドだからこそ、米兵を主人公にした『父親たちの星条旗』の製作準備中に、ある疑問に行き当たる。米軍と戦った日本兵たちは、一体どんな状況だったのか? リサーチを続ける中で、イーストウッドの興味を強く惹く、日本の軍人が現れた。硫黄島の戦いで、常識にとらわれない傑出した作戦を打ち出した最高指揮官。その名は、栗林忠道。 1944年5月に硫黄島に着任した栗林中将は、長年の場当たり的な作戦を変更。米軍の攻撃に対抗するため、島中にトンネルを掘り、地下要塞を作り上げる。5,000もの洞穴、トーチカを蜂の巣のように張り巡らせ、日本兵がそこから、米兵を狙えるようにした。 また彼は、日本軍の悪弊である、部下に対する理不尽な体罰を戒め、玉砕を許さなかった。最後の最後まで生き抜いて、1日でも長くこの島を守り抜こうとした。 米軍が欲したのは、この島の飛行場。ここが敵の手に落ちたら、B29の中継基地となって、日本本土への大規模な爆撃が可能となってしまう。栗林は、一般市民が大量に犠牲になるのを、避けるか遅らせるかしたかったと言われる。 アメリカ軍は1945年2月16日に、硫黄島への攻撃を開始。19日から上陸。23日までには、島全体を制圧できると考えていた。しかし実際は栗林の智略の前に、その後も約1ヶ月間、合わせて36日間も戦闘が続いた。 調べれば調べるほど、イーストウッドは栗林への関心が高まっていった。戦前には、アメリカに留学。ハーバード大で英語を学び、その後カナダにも、駐在武官として滞在している。その時代にできた友人も多く、アメリカとの戦争にも反対していた。これが軍の一部から、アメリカ贔屓と見られ、疎まれる結果になったとも言われる。 イーストウッドは、彼が戦地から妻と息子、娘に宛てた手紙にも心を打たれた。住まいの台所のすきま風を心配したり、硫黄島で育てているひよこの成長を、幼い娘に書き送ったり…。 また栗林が率いた若い兵士たちが、「アメリカ兵と実によく似ていた」ことにも、胸を掴まれた。「あれから何十年も経った今、どちらが勝ったとか負けたとかいうことに関係なく、わたしは日本の人々に彼らの生き様を認めてもらうことが必要だと考えた。正しいかどうかは別として、祖国のために彼らが払った犠牲に目を向けてもらいたかったー実際、彼らは犠牲者だったのだから」 そしてイーストウッドは、前代未聞のプロジェクトに挑む決断をする。硫黄島の戦闘をアメリカ側の視点から描く『父親たちの星条旗』だけでなく、日本側の視点から描いた作品も、同時に製作する。 この戦争映画の歴史に残る、画期的なチャレンジ。当初は日本人監督の起用も考えたというが、イーストウッドは『父親たちの星条旗』に続けて、自らメガフォンを取ることを決めた。 脚本はポール・ハギスの推薦で、日系アメリカ人二世の、アイリス・ヤマシタの起用となった。 戦場に於いて米兵だったら、生きて帰れる可能性に賭ける。一方日本兵は、死を覚悟して戦う。アメリカ人のイーストウッドにとっては凡そ理解し難い、この日本兵のメンタリティーに迫るため、彼は様々な勉強を重ねたという。 本作『硫黄島からの手紙』(06)は、『父親たちの星条旗』の撮影終了後、すぐにクランクイン。内容的には、栗林をはじめ主要な登場人物の過去の回想シーンなど織り交ぜながらも、硫黄島での日本軍の戦闘準備から、米軍上陸、激戦、終結までを描く。 主役の栗林を演じたのは、渡辺謙。ハリウッドデビュー作の『ラスト サムライ』(03)でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、『バットマン ビギンズ』(05)『SAYURI』(05)と、大作への出演が続いていた。憧れの人イーストウッドの『父親たちの星条旗』製作の報を耳にして、1シーンでもいいから出たいと、願ったという。 それと対になる本作の栗林役に決まると、関係資料を読んだり、栗林の孫や甥に会って、彼の遺した書など見せてもらったりなどのリサーチを行った。 栗林が生まれ育った長野県の生家には、取り壊される前日に訪問。その際に墓参りをすると、雪がちらついてきて、渡辺は思った。こんな寒い場所で育った人が、南方の暑い島で死を賭して戦うとは、さぞ辛かったであろうと。 本作で渡辺は、“主役”である以上の働きを見せた。英語で書かれた脚本を、日本語の表現に換えていく作業を手伝ったのをはじめ、日本側で発見した栗林のエピソードや記録も付け加えてもらった。また若き日本兵を演じた、加瀬亮と二宮和也の役が、当初書かれていた年齢から逆転していたので、2人の関係や生まれた土地のことなども考慮して、微妙なニュアンスのリライトを行った。 危惧されたのは、全編日本語での撮影であること。しかしイーストウッドは、意に介さなかった。 彼の俳優としての出世作である、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタンでの経験が、大きかった。主にスペインでの撮影で、キャストやスタッフが全く異なる言語を話す状況の中、イタリア人のレオーネは当時、英語などろくに話せない状態だった。それにも拘わらず、主演のイーストウッドと二人三脚で、『荒野の用心棒』をはじめとした傑作群をものしているのだ。「いい演技というものは、言葉に関係なくいい演技として伝わるもの…」。セリフの間違いなどテクニカルなことは、通訳を通じて修正すれば良い。その上で、日本人俳優の目や顔など感情表現の小さな違いが、イーストウッドにとっては、「新鮮な発見」だったという。 二宮和也は、台本に書いてないことを急にやりたくなった時に、「そういうことをやっていいの?」と、イーストウッドに尋ねた。それに対する彼の答は、「いいんだよ」。イーストウッド本人が、俳優として「台本に書いてないこと、自分のアイデアを提案することが好き」だったためだ。役作りに関しては、自由に膨らませていいと、出演者たちに伝えた。 栗林と同じく、実在の人物だったバロン西を演じたのは、伊原剛志。西は、1932年のロサンゼルス五輪馬術競技の金メダリストで、ロスの名誉市民章も貰っている国際人だった。撮影前に西の息子に会って話を聞くなどした伊原は、俳優の自主性を重んじるイーストウッドの演出について、「彼の中の大きな枠、方向性があって、そこを間違うと修正されるというような感じ…」と、語っている。 伊原は、軍隊についての資料やビデオ、例えば敬礼の仕方などを収録したDVDなどを集めて、撮影地へと持ち込んだ。これが多くの“日本兵”たちの役に立った。 憲兵失格で戦地に送られた兵士を演じた加瀬亮は、オーディションに受かってから撮影までの時間がなかった。そのため、軍事訓練どころか、敬礼の仕方もわからないままの現地入りだった。伊原のDVDの存在を知った彼は、二宮らと伊原の部屋へと押しかけて、即席で勉強したという。 渡辺は文献や映像から、栗林を実践的な人と判断。硫黄島も自分の足で調査したのだろうと考えて、当初はブーツしか用意されていなかったのを、衣裳として地下足袋やゲートルを提案。日本から取り寄せてもらった。 イーストウッドに対して、“父親”を感じたという渡辺は、ある時にはっと閃いた。「(自分の)この役は、クリント自身なんだな」。それからは、イーストウッドとスタッフとのやり取りなどを、つぶさに観察。語り方や目線、立ち居振る舞いを参考にして、栗林を演じたという。 演出は本能的に行うという、イーストウッド。俳優たちが己の役を、過剰に考えたり分析しすぎたりして、あまりにも細かい要素を入れようとすると、本質を見失ってしまうと、考えている。そのために撮影も、最初のテイクこそ最良のものが出るという思想で、テストもほとんどしない。その結果として、「早撮り」になる。 下士官の1人を演じた中村獅童曰く、「「リハーサルだろうな」と思っていたら、「OK」と突然言われて、撮っていたことに気付くこともあった」 戦闘シーンなど本作の撮影の大部分は、経費や安全面から、アイスランドの火山島でロケーション。日本政府などの許可を得て行われた硫黄島ロケは、メインキャストでは1人だけ、渡辺謙が参加した。 栗林が海岸を調査するシーンや、山に登って、島全体を見渡すシーンなどが撮影されたが、この地で見聞したものは、渡辺の想像を超えていたという。 地下壕や司令部が在った場所で、その狭さや息苦しさ、暑さを実感し、僅かな食糧や水で何日も過ごすことなど、考えるだけで体が震えてきた。先にこの体験をしていたら、「…怖ろしさで演じられなかったかも…」と、渡辺は語っている。 単に日程的な問題だったのかも、知れない。しかし「役を作り込ませ過ぎない」イーストウッドの演出法から考えて、ひょっとすると硫黄島での撮影が後回しだったのも、その辺りの配慮があったのかもなどと、想像が働く。『硫黄島からの手紙』は、2006年12月に日米で公開。日本では興収50億円を超える大ヒットとなった。アメリカでは、興行的には成功したと言い難い結果となったが、評価は高く、アカデミー賞では作品賞を含む4部門にノミネート。その内、音響編集賞を受賞した。 巨匠クリント・イーストウッドによる、“日本映画”とも言える本作。製作から17年経った今日でも、“戦争映画”の歴史に於いて、エポックメーキングとして語り継がれる。■