ひとの数だけ００７がいる。必要とあれば女も殺す、冷酷非情なスパイが好きな方もいれば、どんなピンチにあっても余裕を崩さない、あくまで洒脱なジェームズ・ボンドを愛する向きもあるだろう。ボンド映画はとはとにかく大風呂敷を広げるだけ広げた荒唐無稽な活劇であるべきという考え方もあれば、現実社会のあれこれを反映したリアルな物語でなければ今や説得力がないという見方もある。ともあれ52年間続いてきたシリーズに新しい作品が加わるたび、あるいはボンド役が代替わりするたび、世界中のファンたちはそれが自分の思う００７に近いの遠いのとずいぶんな議論を重ねてきた。ジェームズ・ボンドも、実は解釈の振れ幅がずいぶん大きなキャラクターなのだ。ダニエル・クレイグが6代目ボンドを襲名した『カジノ・ロワイヤル』からはや9年。以来シリーズは面白スパイ・ガジェットに頼らず常に己の身体を張る、ある種ストイックなアクション・ヒーローを一貫して描いてきた。しかし最新作『スペクター』で事件は起こった。監督サム・メンデスを筆頭とする製作陣はそんな新しいボンドの世界に、かつてシリーズが売りにしてきた大時代的なハッタリをもブチ込んできたのだ。これはえらいことになった。

　まず特筆すべきはボンドの行く先々で巻き起こる、いつにも増して無茶なアクションだ。たとえば映画の冒頭、「死者の日」で賑わうメキシコ。無数の人々が行き交う街なかギリギリの低空を飛ぶヘリ、その機上でボンドは激しい肉弾戦を演じる。００７も危なければ一般市民も危ない。この無茶がいい。あるいはオーストリアの見事な雪山で巻き起こるカーチェイス……と思いきや、悪漢の車を追うボンドが駆るのは飛行機だ。飛行機で雪の斜面を爆走する！ バ、バカみたい！ と思わず手を叩いて喜ぶ。それにカーチェイスといえばとうとう秘密兵器搭載のボンド・カーが登場（装備の詳細については映画本編をご覧ください）。そして必要以上に派手な大爆発がそこら中で起きる。劇中で見られる、ある大爆発は映画史上最大のものとしてギネスに記録されたという。どちらかといえばケレン味よりもリアリティを重視してきた感のあるクレイグ・ボンドだが、ことアクション描写についてはここへきてついに吹っ切れた感がある。
　吹っ切れたのは悪役についても同様だ。必要以上にマッチョでひとことも発さない殺し屋、ミスター・ヒンクス（デイヴ・バウティスタ）。この筋肉ダルマの仕事はひたすらボンドを追いかけて息の根を止めること。以上である。この竹を割ったような極端なキャラクター造形もシリーズでは久しぶりだ。これよ！ これ！ 考えてみれば昔から『００７』にはこびとの殺し屋とか純銀の入れ歯を嵌めた巨人の殺し屋とか、そんないかにもヤバい悪役がワンサカ出てきていたのである。そして何より今回は悪の組織がドンと出てくる。タイトルの「スペクター」である。クレイグ版ボンド映画にはこれまでにもクァンタムなる組織が登場したけれども、あんな実体があるのかないのか分からない地味な連中とは違いますよ。何しろこちらは世界中から幹部を集めて秘密会議もすれば立派な秘密基地だってあるのだ（しかも砂漠にできたクレーターのド真ん中に。最高だ）。そもそもSPecial Exective for Counter-intelligence, Terrorism, Revenge and Extortion（対敵情報、テロ、復讐と強要のための特別機関）でスペクター。 このケレンはどうだ！ ショーン・コネリー時代のボンド映画で繰り返し登場しながら、その後長らく権利問題で姿を現わすことのなかったこの秘密組織。その総帥、オーベルハウザー（クリストフ・ヴァルツ）も初登場時は逆光で顔がよく見えないという堂々たる悪の首領ぶりを見せる。6代目ボンドの身に起きた悲劇、すべての背後にはこの男がいたというから驚愕するが、ボンドその人がようやく基地を尋ねてくるとこれを慇懃にもてなしつつも情け容赦ないドリル拷問を加えるという大物だ。しかしスペクターといったらその首領はエルンスト・スタヴロ・ブロフェルドと決まっているが、オールドファンは今回ブロフェルドはどこ行っちゃったの？と思いながら観てくださいね。
　そんなエクストリームな悪役たちを向こうに回し、ボンドの必死の戦いが続く。忘れちゃいけないボンドガールも実に見事で、今回は任務のためにモニカ・ベルッチ扮するテロリストの未亡人を籠絡する一方で美人女医（レア・セドゥ）と純愛路線を突っ走るという欲張りっぷりを見せつける。クレイグ・ボンドがこれまで積み上げてきた、現代的で痛みの伝わるスパイ像と、往年のファンも思わず納得せざるを得ないアホみたいなハッタリとケレン味が高次元で融合した本作。冒頭にも書いた通り、実は振れ幅の大きなボンドの世界観を余さず描いてみせた点で実に大した映画だ。当のクレイグはもう引退したくてしょうがない様子だが、そんなこと言わずにこの調子でもっとやってほしいと願うものである。