ザ・シネマが放送する映画の解説を掲載している「作品詳細ページ」で、4月22日から「みんなの映画レビュー」が掲載。 日本最大級の映画データベース「KINENOTE」から読み込んでくるみんなの感想が、ザ・シネマでの映画鑑賞の目安に。 そして、自分でも映画の感想を書き込んでしまおう! 世間に向けて自分の感想を書けば、映画鑑賞はきっともっと面白くなる!
8万5千作品&30万人を収録した日本最大級の映画データベース。(2016年4月現在)
この巨大なデータベースから各作品ごとのユーザー・レビューをザ・シネマのウェブサイトでは読み込んで表示。書き込みはKINENOTEから登録を。
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人間と性の営み。その背徳的な側面を、過去500年の歴史をさかのぼって辿るエロティック・オムニバス
シルヴィア・クリステルが神々しい裸身を惜しげもなく披露して娼婦を演じたアート文芸エロス
ユーロ文芸エロスの巨匠ボロフチック監督が描く、つまらぬ男を追って堕ちていく乙女の一代記
1923年ポーランド・クウィリツ生まれ。『愛の島ゴトー』(1968)で長編映画デビューし、生涯で約40本の映画を制作。文芸エロスの大家。2006年パリにて没。
忘れられたユーロ・エロスの巨匠・ボロフチック監督をなぜか推しまくっているザ・シネマ。チャンネルのサイト上には幾つかの記事が分散しているが、まとめると以下の通りだ。蘇れ、ボロフチック!
2015年7月、『インモラル物語』を平日深夜「シネマ解放区」帯にて初放送した際のザ・シネマ担当者によるコラム。「シネマ解放区」の作品は、うち3本程度を「深掘りコラム」として毎月プロの映画ライターや映画評論家の方に解説してもらっているが、この作品を偏愛してやまないザ・シネマ担当者が分をわきまえず暴走! 初の“中の人”による映画評となった。だが文字数の都合で4話オムニバスである『インモラル物語』の1話・2話にしか言及できていない片手落ちに終わる。
ザ・シネマ最古参社員・飯森盛良×雑食系映画ライターなかざわひでゆき氏による、『デジタルTVガイド』連載中のザ・シネマ10周年記念対談。第3回のテーマは「愛すべき、ボロフチック監督作品」。『デジタルTVガイド』誌上での1/2ページ枠ダイジェスト版に対し、掟破りの超・長文でノーカット掲載する怒涛のWEB版では、今回ザ・シネマで放送する3作品をメインに、しかしそれだけにとどまらず、ボロフチック作品全般、さらには“猥褻と芸術”問題についてまで縦横に2時間語り尽くす、熱苦しいほどに熱すぎるトークセッション。
『インモラル物語』の初回放送時、勇んでザ・シネマ“中の人”が筆をとったものの、文字数の都合で全4話オムニバスのうちあえなく1話・2話にしか言及できなかったことへのリベンジ・マッチ!ハンガリーの女領主が美肌効果があると信じる処女の生き血を求め領地の乙女たちを大量に拉致してくる第3話、ルネサンス期、3P・近親相姦なんでもありの乱れに乱れきったボルジア家の性を描く第4話のことまで、今度こそとことん語る、雪辱戦映画評!
二度とやるまい、と心に決めていた、プロの映画ライターや評論家の方が映画評を書くべきこの場に、ザ・シネマのチャンネル関係者が分をわきまえず自ら駄文を寄せる、という禁を再び犯すことをお許しください。
前回、「ある検閲官の懺悔」と題して『インモラル物語』評を書いた際、文字数の関係で、4話オムニバスのこの作品のうち前半2話までしか言及できずに中途半端に終わったわけですが、今回、ヴァレリアン・ボロフチック監督特集という、ありえないマニアックな特集を組み、再び『インモラル物語』の放送権を買ってきてオンエアする運びとなりましたので、捲土重来、後半2話について書かせていただきます。
とはいえ、ボロフチック監督論といったようなことは、実は不肖ワタクシ、雑食系映画ライターなかざわひでゆき氏と、ザ・シネマ開局10周年記念シリーズ対談の第3回で、2時間以上にわたって語り尽くしておりますので、そちらの方もあわせてお読みいただきたく存じます。
今回ここでは、各エピソードで取り上げられている題材について解説します。ボロフチック監督、エロを描くのに夢中すぎて、題材にしている歴史上の人物の最低限の説明さえも省いており、その歴史的背景を多少は知っていないと物語がよく理解できないという嫌いが後半2話はありますので、解説する意義はあろうかと。
では早速、第3話から。第3話はエリザベート・バートリのお話です。
これは、劇中で何が起きているどういうストーリーなんだか、エリザベート・バートリ伝説を知らない人が見たらさっぱり解らなかろうと思うんで、そこを解説しましょう。
エリザベート・バートリ。オカルト愛好家や吸血鬼好きの人ならお馴染みの名前で、通称「血の伯爵夫人」。アンチエイジングにいささか熱心すぎちゃったオバサマでして、トランシルヴァニア公国の名門貴族バートリ家のご出身であらせられます。
嗚呼、トランシルヴァニア!浪漫ですなぁ!ドラキュラ伝説で有名ですね。ルーマニアに属し、「ルーマニアと言えばドラキュラ、ドラキュラと言えばトランシルヴァニア」といった連想が日本人でもすぐ頭に浮かんできますが、実はドラキュラ(のモデルとなった串刺し公ヴラドIII世)は、トランシルヴァニアとはあんまし関係なくって、ワラキア公だったんです。
ワラキア公国は今のルーマニアの前身で、一方トランシルヴァニアの方は、実は歴史的にはハンガリーの一部だったんですなぁ。
エリザベートはナーダシュディ家というこれまた名家の男と結婚するんですけど、あんまりにも名門すぎる実家バートリ家の姓を結婚後も名乗ったんでエリザベート・バートリと呼ばれ続けたのあります。
ちなみに、このトランシルヴァニア公国はハプスブルグ帝国と因縁が深く、ハプスブルグはドイツ語圏ということで「エリザベート・バートリ」はドイツ語読みでして、ハンガリー語では「バートリ・エルジェーベト」となります。我々日本人と同じで姓が先で名が後なんですな。ハンガリー人は民族大移動までさかのぼるともとはアジア系で、顔は白人化しても赤ちゃんにはいまだに蒙古斑があるぐらい。映画関連ですとユニバーサルの『魔人ドラキュラ』やエド・ウッドがらみで有名な元祖ドラキュラ俳優の英語名ベラ・ルゴシさんが、ハンガリーからの移民でして、本名はルーゴシ・ベーラと言うのです。
さて。伝説ではエルジェーベトは、召し使いに髪をとかしてもらっている時、たまたまグッと髪を引っ張られ、痛くてカッとなって手鏡かなんかで召し使いの顔面をしたたか殴打したところ、流血して血がたれた。その血が付いた肌が若返って美肌になったような気がしたので、やがて領地の農民の娘を集めてきては殺し、その生き血を搾り取って風呂桶にためて半身浴する、という戦慄のエステを始めたと言われています。
映画ですと、美魔女もしくは美熟女ぐらいに見える美人女優さんをキャスティングしてきて、「美人だったからビューティーへの執着が強すぎて狂った方向へと暴走しちゃったんだ」という解釈に大抵はなってますが、実はこの時、史実のエルジェーベトは6人の子持ちの40代〜50歳(50でタイホ)という年齢だったのです…。あのスンマセン、ちょっとだけガッカリさせてもらってもよろしいでしょうか…。
この血まみれ美肌術の犠牲者は600人以上とも言われてます。スキンケア目的オンリーならせめて効率的に血だけ抜けばいいようなものを、被害者に対して無意味にサディスティックな拷問も加えており、いたぶって愉しんでもいたらしく、むしろそっちの方が主目的だったのかもしれない。典型的なサイコパスですな。
で、まずここです。普通、バートリ・エルジェーベトを映画化するんなら、このエロ・グロ・サドな出来事が当然メインとなり、観客の怖いもの見たさのゲスい好奇心を満たすのが常道というもの。作品はおのずとホラー映画のおもむきになっていく。それと、劣化を気にしていたエルジェーベトがピッカピカの美魔女として完璧に仕上がるビューティーコロシアムなくだりは、特殊メイクの見せ場になります(老舗ハマープロ作品なのにマンネリから脱するためヌードシーンを盛り込んだりと、挑戦的な内容になってる71年の『鮮血の処女狩り』なんかはそれ)。
しかし、本作では全然そこにウエイトを置いてないのが、さすがボロフチック監督。まず、処女たちがサディスティックに殺される場面は一切描かれません。そこを省略して、一気に話が飛んで血の風呂にエルジェーベトが浸かるところは出てきますが、これもホラーチックに演出するのではなく、わずかに脂肪が混じってるような、少しベタッとした鮮血が、入浴者の女体にどうまとわりつくか、をキャメラは舐め回すように追うだけで、エロティックであってもグロテスクではない。こんな描き方したのはボロフチックさんだけです。
さて、再び史実に戻りましょう。被害者の1人が脱出に成功したことからエルジェーベトの犯行が明るみに出る。いかんせん彼女が名門出身すぎて捜査も裁判も大がかりなものとなり、ハンガリー副王が自ら指揮を執ることに。エルジェーベトの犯行に加担した彼女の手下どもは拷問の末に自供させられて全員処刑されます。が、しかし。彼女はあんまりにも名門すぎちゃって処刑もできない。そこで仕方なく、城の自室に閉じ込めてブロックを積み上げドアをふさぎ、窓も塗り固め、ブロック1個分だけ穴を開けといてそこからメシだけは与える、という形で、死ぬまで拘禁することになります。便所もなくて尿は垂れ流し糞は山をなす。その状態で彼女は3年以上も生き続けたとのこと。
ここも、映画的には大変おいしいエンディングになるところですな。観客の処罰感情を大いに満たしてくれる。別の言い方をすれば、観客自身の内にも潜むサディズム的欲求を程よく満たしてくれるんですから、おいしいエンディングだと言っていいでしょう(73年のスパニッシュ・ホラー『悪魔の入浴・死霊の行水』はグロ描写も容赦なかったが、特にこのラストが秀逸!ブロック1個分の穴から差し入れられたメシの食い残しが数週間・数ヶ月分たまってハエがたかり青カビも生え、そんな室内で激しく劣化したエルジェーベトの老いさらばえた顔が映って終わり。後味悪くて超最高!)。
しかし、我らがボロフチック監督は、やはりそこも華麗にスルーです。そんな汚らしいとこは描こうとしない。とにかく本作の本エピソードで描かれるのは、女体・女体・女体!
エルジェーベトがおぼこい田舎娘たちを集めてきて、全裸にして湯浴みで体を清潔にさせ(乙女たちは百合チックに違いの秘所を石鹸で洗いっこしたりする)、後で殺すってことを黙っておいて宝石とかを大盤振る舞いし、全裸の処女たち大喜び百合肉林の図が展開!そのうち、くんずほぐれつの宝石ひったくり合い全裸キャットファイトへとエスカレート!!といったところが本エピソードのクライマックスになるのです。
とにかく、こんなバートリ・エルジェーベトものは他には無い!悪名高き「血の伯爵夫人」を題材に、こんな映像に仕立てようと思うのはボロフチックさんだけです。唯一無二の、徹底的に耽美な、絢爛たる百合絵巻なのであります!嗚呼、眼福眼福!
最後に、ついでなので、近年のバートリ・エルジェーベト映画をあと2本ご紹介しときましょう。
日本で昨年DVDが出たばっかの08年製作『アイアン・メイデン』。スロヴァキア・ハンガリー・チェコ・英仏合作と、英仏はともかくとして本場で制作されてる作品です。凄惨な事件の舞台となったエルジェーベトの城がなんと今も残っていて現在はスロヴァキア領となってるんですが、その本物の城址でロケを行ったりもしています。本作は「エルジェーベトは悪くないもん!」的なストーリーで、すべては濡れ衣だった、政治的な陰謀だった、“血の風呂”というのも実は赤っぽい色のただの薬湯だったんだ(いくらなんでもそりゃ無理あるだろ!)、と、「血の伯爵夫人といっても、実は怪物などではなくて、1人の気高き女性政治家だったのだ」的ないわゆる“現代的再解釈”が試みられています。その場合に鍵となるのが、カトリックとプロテスタントの宗教対立。エルジェーベトはプロテスタントなんですが、カトリックのハプスブルグ家がこの地域に影響力を及ぼそうとしており、ハンガリー貴族の中にはカトリックの親ハプスブルグ派もいてエルジェーベトと対立しており、そこにさらにオスマン・トルコ帝国の侵略が重なって三つ巴でしっちゃかめっちゃかだったのが当時のハンガリー。そんな政治情勢下でエルジェーベトはカトリック派により濡れ衣を着せられたんだ、という解釈になっています。歴史的にはこういう説も確かにあるにはあるんです。
そしてもう1本、09年独仏合作『血の伯爵夫人』は、出演ジュリー・デルピー、ダニエル・ブリュール、ウィリアム・ハートと、バートリ・エルジェーベト映画史上最高の豪華キャスティングが実現。しかもジュリー・デルピーは主演のみならず脚本・製作・監督・音楽ぜんぶこなすというイーストウッドばりの入魂っぷりです。アート&エロとしては今回ウチで放送するボロフチックさんのやつがぶっちぎりトップですが、ドラマとしてはこれが一番よくできている。「恋に破れたのは劣化のせいだ、どうせ男は若い女の方がいいんでしょ」という苦悩をジュリー・デルピーが等身大に演じていて、ドラマがきちんと共感可能なリアリティをともなって描かれており、安いホラー専属女優なんかが出てるのとは格が違うさすがの出来栄え。歴代のバートリ・エルジェーベト映画で、この“恋に狂った鬼女の切なさ”を出せているのはデルピーだけかも。それにグロも満載で、ご存知でしょうか「鉄の処女」という有名な拷問器具があるんですが、それの使用シーンもバッチリ出てきて見所の一つになってます。その上、史実にも一番これが忠実と、バートリ・エルジェーベト映画で最初まず1本どれ見ようかというのならこれをお勧めしときます。
次いってみよ。第4話はルクレツィア・ボルジアのお話ですが、父アレクサンデルVI世、兄チェーザレ・ボルジアとの近親相姦3Pが延々と描かれます。ボロフチック監督はボルジア家についてや歴史的背景についてなんかは一切説明しようとせずに、ひたすら3P描写に徹してますんで、ワタクシとしてはちょっとそこらへんを補足説明することにいたしましょう。
時は15世紀ルネサンス期。ローマ教皇アレクサンデルVI世というとんでもない生臭坊主がおりました。イタリアという国は天下統一がなされず、後々まで小邦分立状態が続いたのですが、その群雄割拠のイタリアでは、ローマ教皇は「教皇国」という国家の元首でもあったのです。つまり、全カトリック世界の宗教上のトップであると同時にイタリアの一戦国大名でもあるという二重の立場だった。陰謀と暗殺を駆使する“イタリア版まむしの道三”か?将又、聖俗を自在に往き来し暗躍する“イタリアの後白河法皇”か?そんな感じの、とっても生臭〜い人です。
で、その教皇アレクサンデルVI世は、教皇国の勢力拡大、ゆくゆくはイタリア天下統一という野心を抱き、自分の子供たちをその目的のための駒として使いました。
まずはコネでカトリックの重職に就けた息子のチェーザレ・ボルジア。18歳の若さで枢機卿団に列せられ、24にして還俗してからは教皇軍の司令官として兵馬の権を握って能く軍を率い、あわせて、政治家としては権謀術数の限りを尽くしイタリア天下統一を推し進め、それを果たせないままわずか31で戦場に果てた漢。さしずめ“イタリアの織田信長”といったところですな。駒に使われたというよりも親父の権威をむしろ自分の野望のために利用したと言っていい、親父を上回るクセ者です。なお、余談ながら、同時代人の外交官マキャヴェリはチェーザレの敵国人としてチェーザレと直接外交交渉を繰り広げましたが、その政治的したたかさを高く評価し、著書『君主論』の中で絶賛。「マキャヴェリズム」とはイコール「チェーザレのような生き様」のことであり、チェーザレ・ボルジアは、人間の一典型、ステレオタイプとして永遠の存在となったのです。
そして、娘のルクレツィア・ボルジア。絶世の美女で、父と兄によって政略結婚の駒として使われ3度も嫁がされてます。まさに“イタリア版お市の方”。最初の夫はミラノの御曹司でした。映画の中で、黒い貴族風の衣装をまとっている、へなちょこ顔の男が出てきます。クッキーを勧められ毒殺をビビりまくって食べないというコントを披露する男です。まぁ毒殺はボルジア家のお家芸なのでビビるのも無理はないんですけど、あの男がその御曹司。で、父まむしの道三と兄の信長が、その御曹司の利用価値が低くなってルクレツィアを別の有力諸侯に嫁がせようと判断した時、強引に別れさせようとします。御曹司を暗殺しようとしたとも言われてる。
で、この時です。別れさせられそうになった御曹司が、「妻ルクレツィアは実の父・兄と近親相姦関係にある!」と爆弾発言をして逆襲に打って出た。ヨーロッパでは、誰かを貶めて政治的に失脚させようとする時「あいつは近親相姦してる!」と究極の誹謗中傷をするというゲスい伝統があるんです(はるか後の世にかのマリー・アントワネットも、逮捕された後「息子の王太子と近親相姦してた!」と革命裁判で濡れ衣を着せられそうになってます)。
これに対し「御曹司はインポだからこの結婚は無効だ」とボルジア家の方でも反撃に出て、近親相姦疑惑vsインポ疑惑という、これぞまさしくゲスの極みな論戦が巻き起こり、結局、最終的には勝負はボルジア家の勝ち。しぶしぶ「はい、私はインポでございます」と公式に認めさせられて御曹司が引っこむ形になりました。
この時ですね、映画で描かれているのは。発情した種馬の絵を父と兄妹でイヤらしくニヤニヤ眺めながら、娘婿をからかう、というくだりが出てきますが、そういう経緯があったのです。
御曹司と正式に別れる前、ルクレツィアは、パパの部下で自分とパパとの連絡係を務めてた美男とSEXしてデキちゃった、との風説が出回ります。お相手の美男は哀れ兄貴チェーザレに叩き殺されちゃう。チェーザレからしてみれば「絶世の美女の妹ルクレツィアなら政略結婚の駒として使い道がいくらもあるのに、それを連絡係風情が手出して孕ませて使い物にならなくしちゃいやがってコノ!」ということで、全身政治家としては激怒するのも無理はない。しかしこの時も「チェーザレが妹萌えで、だから嫉妬に狂って美男を叩き殺しんたんだ」というデマが飛びます。
なお、映画の中でチェーザレは赤い服をまとっていますが、これは「緋の衣」といって枢機卿のユニフォームですんで、この劇中の時点で“イタリアの信長”ことチェーザレはまだ還俗して軍人になってはおらず、枢機卿としてバチカンにあったということですな。写真の奥、枢機卿の「緋の衣」を着ているのがチェーザレです。一番右の「三重冠」というやつをかぶっているのが教皇、つまり“パパ”です。
とにかくですねぇ、ルクレツィアが父親が誰かよくわからない子供を出産した、というデマが存在しますので、それがこのエピソードの終わりの方では描かれているんですわ。
といったようなことでして、彼らの生前から噂されていた下世話な噂を、ボロフチック監督はこの第4話で映像化してみせたわけです。登場人物たちが、そういう歴史上の実在の人物なんだ、“イタリアの信長”、“イタリアのお市”、さらに“イタリアの道三”みたいな連中なんだ、ということは、踏まえた上でご覧いただいた方がいいでしょう。
あと、このエピソードでは時おり教皇庁の腐敗を叫ぶ狂信者みたいな男が出てきますが、これはサヴォナローラというドミニコ会の修道士。メディチ家が栄華を極めたルネサンス芸術の都フィレンツェで、メディチ家に取って替わって実権を握り、神権政治を実施。「虚栄の焼却」なぞと称してルネサンス美術を燃やしたり焚書したりした、まぁ、ISみたいな男です。こいつが燃やしてなかったら今日に伝わるルネサンスの人類的遺産はもっと多かったはず。ボロフチック監督、こういう手合いが生理的に大っ嫌いなんでしょうなぁ。ボルジア家の3Pは批判的に描かないくせに、この男のことは一片の同情もなく描き捨てている。まぁ、近親相姦のタブーを犯すよりも、芸術を焼き滅ぼす方が、後世への罪ははるかに重い、ということなんでしょう。
「本を焼く者はやがて人間を焼く」と言ったのはドイツのユダヤ人ロマン主義詩人ハイネで、それはナチスの所業を予言しましたが、サヴォナローラさんは他人を焼き殺す前に自分が焼かれちゃった。“イタリア版まむしの道三”教皇アレクサンデルVI世によって教会を破門されて、最期は自分が火刑台の灰になるという末路をたどったのです。
もし将来、「ボロフチック監督の映画は猥褻で不道徳だからフィルムを焼け!」なんて言い出す輩が現れた時には要注意、ってことですな。
‘76年日本テレビ 水曜ロードショー版 マーロン・ブランド(鈴木瑞穂)、アル・パチーノ(野沢那智)、ジェームズ・カーン(穂積隆信)、ジョン・カザール(大塚国夫)、ダイアン・キートン(鈴木弘子)、ロバート・デュヴァル(森川公也)ほか
‘80年日本テレビ 水曜ロードショー版 アル・パチーノ(野沢那智)、ロバート・デ・ニーロ(青野武)、ジョン・カザール(大塚国夫)、ダイアン・キートン(鈴木弘子)、ロバート・デュヴァル(森川公也)ほか
‘94年フジテレビ ゴールデン洋画劇場版 アル・パチーノ(野沢那智)、ダイアン・キートン(鈴木弘子)、アンディ・ガルシア(江原正士)、ソフィア・コッポラ(鈴鹿千春)ほか
89年日本テレビ 特選シネマ版 ユルゲン・プロホノフ(池田勝)、ガブリエル・バーン(谷口節)、イアン・マッケラン(内田稔)、スコット・グレン(津嘉山正種)ほか
‘75年TBS月曜ロードショー版 オリヴァー・リード(田中信夫)、ダイアナ・リグ(沢田敏子)、テリー・サヴァラス(森山周一郎)ほか
‘73年日本テレビ 水曜ロードショー版 ピーター・カッシング(川辺久造)、クリストファー・リー(嶋俊介)、パトリック・ワイマーク(二見忠男)ほか
‘82年テレビ朝日 日曜洋画劇場版 ゴールディ・ホーン(藤田淑子)、チェビー・チェイス(岩崎信忠)、ダドリー・ムーア(広川太一郎)、ブライアン・デネヒー(飯塚昭三)ほか
‘88年フジテレビ ゴールデン洋画劇場版+WOWOW追加収録 ニコラス・ロウ(山寺宏一)、アラン・コックス(松野太紀)、ソフィー・ワード(折笠愛)、アンソニー・ヒギンズ(堀勝之祐)ほか
脱走した麻薬王がメキシコへの逃亡を図る。途中で合流した軍隊並みに武装している手下に守られながら、米墨国境の田舎町までたどり着いた時、シュワルツェネッガー扮する老いた保安官と、素人に毛が生えた程度の保安官助手たち数人は、決死の覚悟でその前に立ちはだかる!
これはまるで西部劇だ!『リオ・ブラボー』のようではないか!
韓国映画界を代表する監督キム・ジウン。満州の荒野で賞金稼ぎと盗っ人と馬賊が戦う『グッド・バッド・ウィアード』で、マカロニ・ウエスタンの最高傑作『続・夕陽のガンマン』(原題は「ザ・グッド、ザ・バッド アンド ジ・アグリー」)にオマージュを捧げた同監督が、今作でついにハリウッドに招聘され、そして撮ったのは、はたして現代版西部劇だった。
本作で俳優に本格復帰したシュワルツェネッガー。落ちた筋肉、薄くなった頭髪、深く刻まれた皺。老いを隠そうとしていない。都会の市警で鳴らした元バリバリの剛腕デカ。今は半引退のような形で楽な田舎の保安官職におさまっており、角も取れてすっかり丸くなった。だが、戦わねばならぬ時には、逃げずに、老骨に鞭打ってでも敢然と立ち向かう。そんなヒーローを、シュワルツェネッガーは10年ぶりの復帰作で好演してみせた。良きライバルであるスタローンがいまだに筋肉を誇示するヒーローを演じ続けているのに対し、年齢に見合った“心がマッチョ”なヒーロー像を確立、好対照を見せている。
本国では公開週末興収が10位と、“コケた”という評価の本作。その時期、本国でシュワはスキャンダルで炎上中で、“おわコン”扱いを受けていたことがその原因というが、昔からシュワを愛してきた日本の心あるファンは「それっておかしくないですか!」と怒り、本作の擁護・支持に回った。シュワ俳優復帰作としては完璧なまでに理想的なアクション快作であり、シュワの新境地を開拓した、歴代主演作の中でも特別な1本となった。
2015年、ミャンマーでアウンサンスーチー女史が率いる民主化勢力が軍事政権から政権奪取をなしとげたことは記憶に新しいニュースだが、本作は、その軍事政権時代のミャンマーが舞台の、2008年製作、スタローン自らがメガホンをとった、「ランボー」シリーズの第4弾だ。
弾圧される少数民族を支援しようとミャンマー入りした欧米NGOが軍に捕らえられ、命の危機が迫る。途中まで現地ガイドを務めていたランボーは救出のため引き返し、ミャンマー軍と壮絶な戦闘を演じる。
本作の最後で流れる、ランボーのテーマソング「イッツ・ア・ロング・ロード」。第1作(1982)のラストで、理不尽な世間を相手にたった一人で戦った戦争を終え、投降・逮捕され手錠をかけられ連行されるランボーの姿に合わせて、エンドロールで流れていた、あの曲だ。
歌詞は、「君が独り歩く道は長い道だ。夢はやぶれ、行く先々の新しい街で傷つき、平穏を求めても心が折れる」という出だしから始まる。今作のエンドロールでは、そのインストバージョンが流れる。
2作目(1985)冒頭でCIAの秘密偵察作戦のため特赦されて東南アジアに舞い戻って以来、青春の日々を戦友たちと過ごした思い出の戦場であるこの土地で独り生きてきたランボー。孤独に歩んできたロング・ロードの果てに、今作の最後で彼がたどり着く土地は、一体どこか? 彼の旅路を思い返し、「イッツ・ア・ロング・ロード」の歌詞を思い出しながら、涙すべし!
2077年、インベイダーの襲来で滅びた地球。生き残った人類は土星の衛星に移住しており、地球には資源としての海水の輸送作業を監視するため、ごく少数の者が残留しているだけだった。…しかし、監視員の一人ジャック(トム・クルーズ)は、全てがまやかしであることに気づいてしまう。
予測不能の大ドンデン返しが待っており、ストーリーにも大いに魅了(=見事に翻弄)される本作だが、SF映画にとって何より重要なこと、すなわち“まだ誰も見たことのないヴィジュアルの創造”にも成功しており、近年のSF映画の中でも屈指の良作・佳作ではないだろうか。
『2001年宇宙の旅』、『スター・ウォーズ』、『ブレードランナー』、『マトリックス』などなど、映画史に残るSFの傑作を思い出してみれば明らかなように、“まだ誰も見たことのないヴィジュアルの創造”こそは、SFの傑作には欠かすことができない絶対条件だ。
本作で描かれる、iPhone時代にふさわしい、シンプルにしてスタイリッシュ、モダンでクールな美術。とりわけ、トム・クルーズ演じる主人公と同僚女性が暮らしている天空の居住施設兼基地「スカイタワー」のデザインの斬新さは、まさしく、『ブレードランナー』や『マトリックス』級のインパクトだった。
これは、もちろん監督であるジョセフ・コシンスキーと、もう一人、プロダクション・デザインのダーレン・ギルフォードの功績だろう。2人はこれまたヴィジュアルが立っていたSF『トロン:レガシー』のコンビであり、ギルフォードは『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』にも起用されている。
※本サイトにおける「CS初放送」という表記には、プレミア・チャンネルは含まれません。
映画界この10年の動きを振り返る映画好きのためのトーク番組。出演は、『映画ブ、作りました。― 千秋&苺の映画感想ノート』を上梓された千秋、ジェイソン・ステイサムの声でおなじみ声優の山路和弘、映画ライターのてらさわホーク。司会は映画が大好きというドーキンズ英里奈。
十年ひと昔! ザ・シネマが10周年を迎えるまでの間、洋画を取り巻く状況もずいぶん様変わりした。今日はもの凄い駆け足で、洋画周りのここ10年を振り返ってみよう。
去りゆく映画館
いきなり寂しい話題になってしまった。日本全国にシネコンは林立しているが、入ってロビーを抜けたら大きなスクリーンが1枚あるのみ。以上!というソリッドなザ・映画館は年々その数を減らしている。これも時代の流れと思えば仕方のない話なのかもしれない。それに名前は違えどシネコンだって映画館である。公開される映画の数はむしろ増加傾向にある。なのにこの寂しさは何なのだろうか……。
fStop Images/アフロ
というか、むしろ映画館でなくても……
かつてのレンタルビデオ全盛期にも、これでは映画館にお客さんが来なくなってしまう!ヤバい、という話は聞かれた。お家で観られるものをわざわざ出かけて……ねえ……という話だ。しかしここ数年、映画を観る方法はあの頃とは比較にならない勢いで増え続けている。このザ・シネマをはじめとするCS放送もそうだし、最近はネット配信もたけなわだ。もはや起きている間は何らかの形で映画を観ていられるといっても過言ではない。ただそんな状況だからこそ、わざわざ足を運ぶ映画館とか、またはパッと替えたチャンネルに写っていた映画を思わず最後まで観てしまうとか、そうした体験を大事にしていきたいと思うのである。
テレビドラマも出てきた
海外テレビドラマの隆盛も止まらない。大作映画並みの制作費をかけ、豪華スタッフやキャストを投入した連続シリーズ。いちど観始めたらどうにも止まらない。無闇に本数があるので気がつけば最近映画を観てないな……と思うことさえ珍しくなくなった。しかしこうやって書き出してみると、どうにも洋画、または映画館は風前の灯といった気配がしてくる。
Photoalto/アフロ
度肝を抜かれるところ、それが映画館
ただそんな逆風のなか、近年の洋画にひとつの傾向があるように感じる。それは何しろ初見で度肝を抜きに来ているということだ。たとえば画面が無闇にデカいIMAX劇場。あるいは無闇に飛び出す3D映画。座席が無闇に動く4DX方式なんてものまで出てきた。映画館は映画館なりに、そこでしか得られない興奮を提供するために試行錯誤している。洋画の内容そのものにしても同じことだ。スタローンやシュワルツェネッガーらが同じ画面で競演する大アクション映画を誰が想像しただろう。『マッドマックス』最新作が、『スター・ウォーズ』第7部が公開されるとは誰が予想しただろう。キングコングとゴジラが戦うアメリカ映画が製作されると言って、10年前に誰が信じてくれただろう。こうして盛って盛って盛りまくり、馬鹿デカいスクリーンで観客をビックリさせることにハリウッドは舵を切った。今後も信じられないような企画でこちらの腰を抜かしに来てほしい、と思う次第である。