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The Godfather 徹底解剖

トリビア 監修/サトウムツオ

見れば見るほど新しい発見と感動に出会える『ゴッドファーザー』3部作。ただ内容を紹介するだけではつまらない!知っていればより楽しめる意外な情報から、まったく知らなかった豆知識まで。 日本における『ゴッドファーザー』の第一人者・映画評論家のサトウムツオ氏が厳選した、 完全永久保存版、必読のトリビア集!

*パラマウント・ピクチャーズが1967年3月に、マリオ・プーゾの小説『マフィア』(のちの『ゴッドファーザー』)の映画化権を買ったわずか114ページの原稿とあらすじしかなかった。“新人作家”のプーゾは1969年3月に完成するまでの3年間、パラマウントから生活費をもらって暮らしていた。

*パラマウント・ピクチャーズがヴィトー・コルレオーネ役として交渉した俳優は……アーネスト・ボーグナイン、エドワード・G・ロビンソン、オーソン・ウェルズ、リチャード・コンテ(ドン・ロミリオ・バルジーニ役)、アンソニー・クイン、ジョージ・C・スコットなど。一方、フランシス・フォード・コッポラ監督が望んでいたのはマーロン・ブランドやローレンス・オリヴィエといった名優たちだった。

*当初、マカロニウエスタンの巨匠セルジオ・レオーネ監督にも監督オファーが届いたが、マフィアの話には興味がないと断られた。のちに『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を撮るのは1984年のこと。

*正式にキャスティングされる前、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートンの4人はコッポラ監督の家でスクリーンテストを受けている。カーンとデュヴァルは、コッポラ監督とはホフストラ大学演劇科のクラスメートだった(1960年卒業)。カーンによると、その時のギャラは「コンビーフサンド4つだった」らしい。

*有名になる前のロバート・デ・ニーロがソニー役やマイケル役のスクリーンテストを受けている(ソニー役のフィルムは残っている)。彼の迫真の演技はコッポラ監督を唸らせ、実際にヴィトーのボディガード、ポーリー・ガットー役に決まっている。しかし、主役のマイケル役に決まったアル・パチーノが『The Gang that Couldn’t Shoot Straight』(1971)の脇役としてMGM映画への出演契約が残っていたため、デ・ニーロにその代役を頼み、ポーリー役を降板させた。その後、続編『PART II』の製作が決まると、コッポラ監督は若きヴィトー役にデ・ニーロを抜擢。出演の決め手となったのは、ソニー役のスクリーンテストとマーティン・スコセッシ監督から見せられた『ミーンストリート』(1973)の演技だった。

アル・パチーノの出演料は『PART I』で3万5000ドル(当時有名だったマーロン・ブランドを抜きにすれば、2番目の高給取りは撮影の前年にアカデミー助演男優賞にノミネートされていたリチャード・カステラーノの5万ドルだった)。『PART II』では50万ドル+興行収入の一部(映画業界紙では「およそ2000%の増額」と伝えられた)。『PART III』では400万ドルと伝えられている。

*ヴィトー役のマーロン・ブランドがオープニングシーンで抱いている猫はパラマウント・スタジオをうろうろしていた野良猫だった。その猫がのどを鳴らして録音を台無しにするハプニングはあったが、映画史の名シーンはそんな即興で生まれた。

*オープニングが娘のコニーの結婚披露宴で始まるのは、フランシス・フォード・コッポラ監督が敬愛する黒澤明監督作品『悪い奴ほどよく眠る』(1960)からの影響。香川京子演じる娘の結婚披露宴から始まるのを模したものだった。

*コニーの結婚披露宴の後、編集段階で削除されたシーンとして、20年間にわたりコルレオーネ・ファミリーのコンシリエーレ(相談役)だったジェンコ・アッバンダンドの臨終の場面があった。がんのため、病院で息絶える彼を、ヴィトー、ソニー、フレド、マイケル、トム・ヘイゲンが見舞う。その場面の削除されたセリフの中に、それまでのトム・ヘイゲンが「見習いコンシリエーレ」だったことが説明されている。 

ルカ・ブラージ役だったプロレスラーのレニー・モンタナは実際にマフィアの用心棒をやったことがある。

*父ヴィトー役のマーロン・ブランドは撮影当時47歳で、60代の老けメイクは特殊メイク界の第一人者、リック・ベイカーが手がけた。ブルドッグのような顔に見せるため、頬には綿が詰められ、マウスピースで歯形が矯正された。その綿とマウスピースは、ニューヨーク・クイーンズにあるアメリカ映像博物館に展示されている。

*ヴィトーの妻カルメーラ役のモーガナ・キングは著名なジャズシンガーで、コニーの結婚パーティで歌を披露するシーンがあるためキャスティングされた。息子役の4人のうち、最年長だったフレド役ジョン・カザールよりわずか5歳年上だった。

*映画製作者ジャック・ウォルツを演じたジョン・マーリーによると、劇中の「馬の首」は本物で、リハーサルの間はにせものが使われたが、本番には近くのドッグフード(馬肉で製造された)工場から取り寄せた本物の馬の首が使われた。あの絶叫は演技ではなかったらしい。

*マーロン・ブランドはセリフを覚えようとせず、キューカード(俗にいうカンペ)に書いて、アル・パチーノやロバート・デュヴァルなどの共演者に持たせたり、セットの壁に貼ったものを読み上げて演技した。

*アル・パチーノの祖母はシシリア島コルレオーネ村出身の移民だった。

*宗教がプロテスタントであるケイ・アダムスは、フランシス・フォード・コッポラ監督の妻エレノア・ニールを投影したものといわれる。

*マイケルとケイ・アダムスがクリスマスシーズンに、ラジオシティミュージックホールで観る映画は、レオ・マッケリー監督、ビング・クロスビーとイングリッド・バーグマン主演の『聖メリーの鐘』(1945)。アカデミー作品賞受賞作『我が道を往く』の続編にあたる。

*ヴィトー・コルレオーネが暗殺者たちに狙われる直前にオレンジを買う場面で、その食料品店に「ジェイク・ラモッタ VS トミー・ベル 1月11日金曜日」というボクシングのポスターがある。ジェイク・ラモッタは、『Part II』でヴィトーを演じたロバート・デ・ニーロが『レイジングブル』(1980)で演じたボクサーである。

*『ロッキー』(1976)で有名になる前のシルヴェスター・スタローンが、コニー(エイドリアン役のタリア・シャイア)のダメ夫カルロ・リッツィと、ヴィトーの運転手ポーリー・ガットー役のオーディションを受けている。両方とも役は得られず、彼が脚本書きに専念したため『ロッキー』が実現した。

*ソニー・コルレオーネ(ジェームズ・カーン)がマシンガンで蜂の巣になる場面で、カーンの全身に装着された弾着は147発分で、その数の爆竹が仕掛けられた。

*『ゴッドファーザー』の全シーンに、食べたり飲んだりしているシーンは61か所ある。

*ニーノ・ロータが作曲したアカデミー主題歌賞ノミネートの「ゴッドファーザー 愛のテーマ」(Love Theme from The Godfather)は、ロータが作曲したジュリエッタ・マシーナ主演のイタリア喜劇『フォルツネッラ』(1958)のテーマ音楽とまったく同じメロディ(つまり使い回しだった)で、惜しくもアカデミー賞の受賞はならなかった。

*ヴィトー・コルレオーネの臨終の場面に登場する、孫にあたる3歳の少年を演じたのは、アンソニー・グナリスくん。マイケルの長男の名前がアンソニーになったのは彼の名前から。『Part II』でアンソニーを演じたのは撮影当時9歳だった兄のジェームズ・グナリスくんだった。

*当初コッポラ監督は125分の作品として編集したが、パラマウントの重役ロバート・エヴァンズは「これでは予告編にしかならない、もっと長くしろ」と要求。コッポラは「普通は短くしろと言われるものなのに、長くしろとは尋常でない」と反発したが、結局177分の超大作となった。

*生まれたばかりの監督の娘ソフィア・コッポラが、コニーとカルロの男の子マイケル・フランシス・リッツィ役として洗礼式の場面で登場している。

*フランシス・フォード・コッポラ監督が初めてオスカーを受賞したのは『パットン大戦車軍団』(1971)の脚色賞。また娘のソフィアもまた、『ロスト・イン・トランスレーション』で脚本賞受賞。父娘とも脚本での賞が最初のオスカーの栄誉だった。

*『チャイナタウン』でオスカーを受賞した脚本家ロバート・タウンが“スクリプトドクター”として参加し、ヴィトーとマイケルが「権力の継承」について庭で語り合う名シーンを仕上げている。タウンの名前はクレジットされていないが、アカデミー脚色賞を受賞したコッポラが受賞スピーチで「ボブ・タウンに感謝します」を謝意を述べている。

*1973年アカデミー授賞式の作品賞プレゼンターは、プロデューサーのアル・ラディと古くからの親友だったクリント・イーストウッドだった。『ゴッドファーザー』は見事オスカーを受賞し、ラディは親友に名前を読み上げられた。のちに、ラディが2度目のアカデミー作品賞を受賞したのは2005年アカデミー授賞式。作品はイーストウッド監督・主演作品『ミリオンダラー・ベイビー』だった。

*コッポラ家の家族たちはいろんなかたちで映画に参加していた。監督の母イタリアは(本編から削除されたが)『PART I』でジェンコ商会の電話交換手役で出演。『PART II』でモーガナ・キングの代わりに棺に横たわるカルメーラ・コルレオーネの遺体として登場。『PART II』でアカデミー賞を受賞した作曲家の父カーマインは、『PART I』でマイケルがソロッツォとマクラスキー警部を殺害した後のモンタージュで、ピアノを弾く音楽好きのキャングとしてウィリー・チッチ(ジョー・スピネリ)と2ショットで登場している。また両親はなんとマイケルがソロッツォとマクラスキー警部を殺害するレストラン<ルイス>の常連客として揃って出演している。妹タリア・シャイアはオーディションでコニー役を得た。生まれたばかりの娘ソフィアは『PART I』で洗礼式を受ける赤ん坊マイケル・フランシス・リッツィ役だった。『PART II』で移民船に乗った幼いヴィトー(オレステ・バルディーニ)が自由の女神像を観るシーンで、3歳だった彼女が妻のエレノアに抱っこされて背後に映っている。また、ソフィアの兄ローマンは『PART II』でクルクルパーマにしてソニーの子役としてシチリアの場面などに出演している。またソフィアは『PART III』で、ウィノナ・ライダーが降板した後にマイケルの愛娘メアリー役を演じた。

*3部作にはコッポラ監督のプライベートな小物が多く使われているが、『PART II』で息子のアンソニーがマイケルへ贈る絵は監督の長男ジオが描いたものだった。1986年5月、そのジオはボート事故で命を落としたが、『PART III』でその絵は、オペラ歌手としてデビューを飾るアンソニーへお守りとして渡される。また、『PART III』の冒頭でダンスを踊るマイケルとメアリー(ソフィア・コッポラ)に割って入ってソフィアの足にしがみついている女の子は監督の孫娘で、ジオの忘れ形見であるジアちゃんである。

*ヴィトー役を演じたロバート・デ・ニーロはシシリア語(言語学者によれば、イタリア語の方言ではなく、独立したひとつの言語)を覚えるため、撮影前にシチリア島で半年近く生活した。

*『PART II』の監督候補として一時名前が挙がったマーティン・スコセッシ監督は、若きジェンコ・アッバンダンド役と若きピーター・クレメンツァ役のオーディションを受けている。

*コニー(タリア・シャイア)の3番目の夫マール・ジョンソンを演じたトロイ・ドナヒューの本名は役名と同姓同名のマール・ジョンソン。

*シシリア語を話してアカデミー助演男優賞を受賞したロバート・デ・ニーロは、アカデミー賞史上(2011年段階で)英語以外の言語を喋った5人のオスカー受賞者(他はソフィア・ローレン、ロベルト・ベニーニ、ベニチオ・デル・トロ、マリオン・コティヤール)のひとり。

*『PART I』で登場する死体は18(馬の首も含める)、『PART II』で登場する死体は16。

*フランシス・フォード・コッポラとマリオ・プーゾは『PART II』の脚本で、アカデミー脚色賞を受賞した。なぜ脚色かというと、マイケルの物語は映画のために書き下ろされたオリジナルストーリーだったが、ヴィトーの物語はあくまで原作小説が下敷きになっていたから。

*『PART II』で若きクレメンツァを演じたブルーノ・カービーは、『PART I』でクレメンツァを演じたリチャード・カステラーノと、『The Super』というテレビドラマでカステラーノの息子役を演じていたためキャスティングされた。

*上院の公聴会でマイケル・コルレオーネやフランク・ペンタンジェリを尋問する委員の中に、映画プロデューサーのロジャー・コーマン、SF作家のリチャード・マシスンの姿がある。

*『PART I』のヴィトー・コルレオーネの墓石には生年月日として1887年4月28日の文字と刻まれていた。しかし、『PART II』でヴィトーの誕生日のパーティ場面を入れるため、生年月日は1892年12月7日に変更された。その12月7日は日本軍の真珠湾攻撃の日で、1941年のその日、マイケルは海兵隊入隊を決意する。

*劇中で若きヴィトーと若きジェンコが観に行く舞台劇『Senza Mamma』は20世紀初頭に実際に作られた劇で、コッポラ監督の祖父フランチェスコ・ペニーノが劇伴音楽を作曲した作品だった。

*『PART I』で“マフィア”という言葉は1か所も使われていない。『PART II』では公聴会でギアリー上院議員らにより3回触れられている。

*アカデミー助演男優賞にノミネートされたフランク・ペンタンジェリ役のマイケル・V・ガッツォがキャスティングされたのは、撮影開始のわずか1日前だった。

*ハイマン・ロス役のリー・ストラスバーグは、ニューヨークにアクターズ・スタジオの芸術監督であり、マーロン・ブランドやアル・パチーノといった名優たちの演技指導者として有名だ。出演を望んだのはパチーノの希望だったが、演技の現場から長年離れていたストラスバーグは極度のプレッシャーから体調を崩した。そのため、脚本は改変され、親友のモー・グリーンに関する場面だけ激高し、演技にメリハリがついたという。その甲斐あって、ロバート・デ・ニーロ、マイケル・V・ガッツォとともにアカデミー助演男優賞にノミネートされた。(受賞したのはデ・ニーロ)

*『ゴッドファーザー PART II』は、公開2週間前の1974年11月27日にサンディエゴで行われたスニークプレビュー(観客の反応を見るために題名も知らせずに行う試写会)で致命的な欠陥が見つけられた。ヴィトーの若い時代とマイケルの中年時代という2つのストーリーを交互に描く物語だったが切り替わる回数が20回と多すぎたため、観客の反応は最悪だったのだ。そこでパラマウント上層部とコッポラ監督は、それぞれのエピソードをゆったり長めに取り、ストーリーの切り替えを11か所に変更。さらにその切り替えポイントに車や列車など交通機関などを見せるようにして、その時代が一目でわかるように改変。そうして映画は3時間20分の大作になった。

*『ゴッドファーザー PART I』は米NBCで初めてテレビ放送されたのは、『PART II』公開直前の11月16日土曜日と18日月曜日。前編・後編に分けていずれも夜21時から放送された。驚異的な視聴率を記録したが、その両日放送が終了した深夜23時すぎに、トイレを我慢していた視聴者が一斉にトイレを利用。両日ともに、ニューヨークの水道が止まったというエピソードがある。

*『ゴッドファーザー PART III』の脚本には、マイケルの葬儀がエンディングに用意されており、リハーサルまで行われたが撮影されなかった。

*歌手ジョニー・フォンテーンのモデルとされ、『PART I』『PART II』を通じてアンチ『ゴッドファーザー』の立場を表明していたフランク・シナトラは態度を軟化させ、『PART III』でドン・アルトベッロ役に興味を示したが実現には至らず、結局イーライ・ウォーラックがその役に決まっている。

*ドン・アルトベッロ役のイーライ・ウォーラックは、マーロン・ブランドやアル・パチーノを輩出したニューヨークの演技スクール、アクターズ・スタジオの講師でもあり、パチーノは教え子でもあった。

ヴィンセント・マンシーニ役の候補になったのは、アレック・ボールドウィン、マット・ディロン、ヴィンセント・スパーノ、ヴァル・キルマー、チャリー・シーン、ビリー・ゼイン、ニコラス・ケイジ(コッポラ監督の甥)……。

*メアリー・コルレオーネ役は『シザーハンズ』のウィノナ・ライダーに決まり、恋人のジョニー・デップとローマ入り(撮影はローマ郊外のチネチッタ撮影所で行われた)したが、体調不良により降板。すぐさま、コッポラ監督のファーストチョイスだったジュリア・ロバーツの調整に入ったが、スケジュールが合わなかった。イタリア系の歌手 マドンナも候補になったが、母ケイ・アダムス役のダイアン・キートンよりわずか12歳年下、相手役ヴィンセントのアンディ・ガルシアよりも年上に見えるため、ご破算になった。結局、リハーサルの間、メアリー役で本読みに参加していたソフィア・コッポラ(当時19歳)に決まり、脚本は若いメアリー用に手直しされた。

*『ゴッドファーザー PART III』のコニー役タリア・シャイアの老けメイクは、ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』でグロリア・スワンソンが演じた大女優ノーマ・デスモンドのメイクを参考にしている。

*コッポラ監督の親友ジョージ・ルーカスはチネチッタを訪れ、アトランティックシティのセットでヘリに襲撃される幹部会のシーンを1日だけ演出している。ルーカスはコッポラのもとで、『THX-1138』や『アメリカン・グラフィティ』を監督。コッポラが1969年11月19日に設立した製作会社<アメリカン・ゾーイトロープ>の共同設立者だった。

*1979年ごろ、資金繰りに困ったパラマウント・スタジオは、『PART III』の劇中でマイケル・コルレオーネが投資するヴァチカン傘下の不動産投資会社<インモビリアーレ>へ、実際に撮影所の用地の一部を売却している。

*『PART III』で描かれるヴァチカンの腐敗体質は、1978年の法王ヨハネ・パウロ1世の急死と、1982年に起こったアンブロジアーノ銀行頭取、ロベルト・カルヴィ暗殺事件といった実際にあった事件が下敷きになっている。『PART III』の「ランベルト枢機卿」(ラフ・バローネ)はのちに法王ヨハネ・パウロ1世(映画とも実名が使われたが、“コンクラーヴェ”の他の候補者との票数は実際の票数と同数であった)となるアルビーノ・ルチアーニ枢機卿、「ギルディ大司教」(ドナール・ドネリー)は宗教事業協会総裁のポール・マルティンクス大司教、「フレデリック・カインジック」(ヘルムート・バーガー)はアンブロシアーノ銀行頭取だったロベルト・カルヴィ、「ドン・ルケージ」(エンツォ・ロブッティ)は元イタリア首相ジュリオ・アンドレッティがそれぞれモデルになっている。

*『PART III』の撮影前、マイケル役のアル・パチーノとケイ・アダムス役のダイアン・キートンはプライベートでも恋愛関係にあったが、映画と同様にパチーノが子どもを望み、キートンがそれを拒否したことで関係は破綻していた。両者は顔を合わせることができない状態だったが、撮影中にパチーノが慕っていた祖母が亡くなり、キートンがその葬儀に参列したことで緊迫した関係は氷解したのだった。

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