青野賢一 連載:パサージュ #25 伝染する恐怖と悦楽──『ノスフェラトゥ』

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青野賢一 連載:パサージュ #25 伝染する恐怖と悦楽──『ノスフェラトゥ』

目次[非表示]

  1. リスペクトを込めてムルナウ版をリメイク
  2. 二度と生きて帰ってこられない土地へ
  3. ヘルツォーク十八番の厳しい自然の描写
  4. 《ラインの黄金》とともに始まる死の世界
  5. 愛に飢え、死ねない哀しみを抱える吸血鬼
  6. 鑑賞者に伝染するさまざまな事象
 この4月から5月にかけて、5作品の配信がスタートするヴェルナー・ヘルツォーク。ミュンヘン出身、15歳でシナリオ執筆を始め、ミュンヘン大学を経てアメリカ・ピッツバーグのデュケイン大学で映像についてを学んだヘルツォークは、学生時代から映画制作に着手し、自身初の長篇映画『生の証明』(1968)がベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。おりからのドイツ映画界における動き──既存の価値観や商業主義的作品に叛旗を翻し新しいドイツ映画を発表する──のなかで、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ヴィム・ヴェンダースらとともにニュー・ジャーマン・シネマの旗手として注目を集めていった。ニュルンベルクに突然現れた素性不明の青年の数奇な運命を描いた『カスパー・ハウザーの謎』(1974)でカンヌ国際映画祭審査員グランプリを、『フィツカラルド』(1982)では監督賞を受賞するなど、名実ともに現代ドイツを代表する映画監督である。今回取り上げるのは1978年の『ノスフェラトゥ』。のちに『タイム』誌の「歴代映画100選」にピックアップされることとなる名作『アギーレ/神の怒り』(1972)に続き、クラウス・キンスキーを主演に据えた作品である。

リスペクトを込めてムルナウ版をリメイク

 日頃から「ザ・シネマメンバーズ」をご愛顧いただいている皆さんには釈迦に説法だと承知したうえで申し上げると、ヘルツォークの『ノスフェラトゥ』は、F・W・ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)のリメイクと呼んで差し支えない作品である。製作年を見てもらえばわかるが、ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』はモノクロのサイレント作品。ロベルト・ヴィーネ『カリガリ博士』(1919)やフリッツ・ラング『メトロポリス』(1926)などと同じく、ドイツ表現主義と称される芸術運動のなかに位置づけられる映画である。アイルランドの作家、ブラム・ストーカーのゴシック小説『吸血鬼ドラキュラ』(1897)を原作としているものの、小説の舞台であるトランシルヴァニア(ルーマニア)とイギリスをトランシルヴァニアとドイツに置き換え、ドラキュラ伯爵をオルロック伯爵と変更するなどしている。一般にドラキュラ伯爵といって多くの人がイメージするのは、トッド・ブラウニング監督のハリウッド映画『魔神ドラキュラ』(1931)でベラ・ルゴシが、あるいはテレンス・フィッシャー監督、ハマー・フィルム製作の『吸血鬼ドラキュラ』(1958)でクリストファー・リーが扮したドラキュラ──貴族然とした身なりや顔立ち、ぴったり撫でつけたヘア・スタイル、吸血のための狼のような牙──ではないかと思うが、ムルナウの吸血鬼は禿げた頭に尖った耳、ネズミを彷彿させる前歯、鉤爪。ヘルツォーク版の吸血鬼もこれを踏襲しているのみならず、多くのシーンでムルナウ版をリスペクトたっぷりに完コピしているのである。ちなみに題名となっている「ノスフェラトゥ(Nosferatu)」は語源不詳(古代ギリシヤ語由来の古スラブ語説など諸説ある)だが、ここではざっくり「疫病や禍をもたらす吸血鬼」ほどの意味と捉えておけばいいのではなかろうか。

二度と生きて帰ってこられない土地へ

「ノスフェラトゥ」
© Werner Herzog Film

 さて、本題のヘルツォーク『ノスフェラトゥ』へと話を進めよう。オープニングのタイトル・バックはさまざまなミイラのドキュメンタリー的映像である。そこにあてられている音楽にはさりげなく心音が加えられており、死者と生者が映像と音とでひとつになっているのは象徴的といえるだろう。続いてコウモリが飛ぶ様子をスローモーションで見せたかと思うと、イザベル・アジャーニ演じるルーシーが叫びながらベッドから跳ね起きる。どうやら悪夢にうなされた彼女をなだめる夫・ジョナサン(ブルーノ・ガンツ)。朝がやってくると、夫妻の家では二匹の子猫を飼っていることがわかる。ルーシーの肖像画が収められたペンダントと戯れる二匹は大変かわいらしいが、猫がネズミを狩ることを思い起こせば実に示唆に富んだシーンである。
 家を出てジョナサンが向かった先は不動産業を営むレンフィールド(ローラン・トポール)のところ。レンフィールド曰く、トランシルヴァニアのドラキュラ伯爵から、ヴィスマールに屋敷を購入したいという手紙が届いたので伯爵のところまで行ってきてくれ、とのこと。ヴィスマールはジョナサンらが暮らす街である。いひひひ……と気持ちの悪い笑いを交えながら話すレンフィールドは、書類はすべて整えてあるので今すぐ契約書を持って伯爵のもとへ向かってくれ、とジョナサンに伝える。レンフィールドを演じるローラン・トポールはSFアニメーションの古典にして金字塔である『ファンタスティック・プラネット』(1973)の原画デッサンを担当した人物で、澁澤龍彦が編集と翻訳を手がけた漫画『マゾヒストたち』の作者としても知られているが、本作ではまさに怪演という言葉がぴったりな演技を見せてくれる。さて、ジョナサンが帰宅してルーシーにこの仕事のことを話すと、彼女は昨晩の悪夢もあってか、嫌な予感がするので行かないでと彼に懇願する。しかしそれを軽く受け流して、ジョナサンは馬に乗ってトランシルヴァニアへと出発するのだった。19世紀が舞台なので、人の移動手段は陸地なら徒歩か馬、馬車、水上だと帆船がまだまだ一般的。ジョナサンは馬の手綱を握り、順調に伯爵の屋敷へと進んでゆくが、途中立ち寄った食堂で行き先を話すと、そのひと言がそこにいた全員を沈黙させた。店主はあそこへは行ってはならない、行ったら二度と生きて帰ってこられないぞと忠告するがジョナサンはそんな迷信は信じない。だが、夜ということもあって、ひとまずそこに一泊し、翌朝再びドラキュラ伯爵邸を目指して出発することにした。

ヘルツォーク十八番の厳しい自然の描写

 出発はいいが、彼が乗ってきた馬は疲労困憊。そこで馬車に乗せてもらおうと思っても取り合ってもらえない。仕方なく徒歩で向かうジョナサン。ここから伯爵邸までの道のりの険しさを収めたシークエンスはヘルツォークの真骨頂とでもいうべきものだ。ゴオゴオと激しい音を立てて谷底を流れる川、その脇の細い道を歩くジョナサン。さらに上流に行けば、巨石のあいだをすり抜けて登ってゆくしかない。『アギーレ/神の怒り』で全篇にわたって伝わってくる過酷な自然環境は、本作ではこのシークエンスに集約されており、圧倒的である。そうして川の源流へと遡上してもなお、眼前には山が立ちはだかっている。ここで使われている音楽は、リヒャルト・ワーグナー《ニーベルングの指環》より《ラインの黄金》プレリュード。《ラインの黄金》は4場からなる《ニーベルングの指環》の1場、つまり最初のパートである。この1場はライン川をモチーフとしており、主題はずばり世界生成。その楽曲が、本作ではいよいよドラキュラ伯爵邸に迫りつつあるジョナサンの姿とともに提示されるのだ。ジョナサンが伯爵と出会うことで、新たな世界が始まってしまう──その世界は疫病がはびこるディストピアであり、またジョナサンにとって「黄金」たる大切な愛妻ルーシーの命を奪い去ってしまうものでもある。

《ラインの黄金》とともに始まる死の世界

「ノスフェラトゥ」
© Werner Herzog Film

 前述のとおり、本作はムルナウ版のリメイクなので筋書きはブラム・ストーカーの小説におおむね沿ったものであるから、よく知られているストーリーが展開される。伯爵邸にたどり着いたジョナサンは食事の際にナイフで指を傷つけてしまい、その血に異様に反応する伯爵を見ておののく。やがてジョナサンは屋敷に幽閉されてしまうが、伯爵がルーシーを獲物として狙っていることに気がつくとそこをどうにか抜け出し、ルーシーのもとへと急いだ。一方の伯爵は帆船で移動。帆船の乗組員が行方不明になったり亡くなったりするなか、最後まで生き残った船長は死期を悟ったのか自分の身体をロープで舵にくくりつけ、船乗りとしての仕事をまっとうし、どうにか入港、接岸を果たした。この帆船のシークエンスでは、映画冒頭のミイラの映像を交えたタイトルバックと同じモチーフの楽曲が使用されており、視覚だけでなく聴覚からも死の気配を暗示しているといえよう。到着した船からは夥しい数のネズミ──ヘルツォークがハンガリーから調達した──が街へと這い出す。夜になって船上に姿を現すドラキュラ伯爵。ここで再び《ラインの黄金》プレリュードが聞こえてくる。とうとう新しい世界=死の世界が始まるのだ!

愛に飢え、死ねない哀しみを抱える吸血鬼

 伯爵の到着からやや遅れて帰郷したジョナサンだったが、衰弱しきっているうえ、すっかり人が変わってしまっており、ルーシーのことも認識できない。このあたりから、ルーシーの存在感が俄然高まってくるのだが、同時にルーシーを演じたイザベル・アジャーニの、ミレイやロセッティのラファエル前派絵画のなかの女性を思わせる仄暗さと気高さが同居したような印象もまた強くなっていくのだ。ルーシーのもとを訪れたドラキュラ伯爵は、人間にとって死は残酷なものだろうが、死ぬことができないのはもっと残酷だ、と自身の心情を説く。ドラキュラ伯爵は有限な時間のなかでこそ育まれる愛に飢えており、また「自分の反市民性がこの世で通常のあり方ではルシー(引用者註:ルーシーのこと)と結びつく方途があり得ないことをよくよく承知で、市民社会との接触不能性にマゾヒスティックに耐えに耐える」(種村季弘著、北宋社刊『夢の覗き箱 種村季弘の洋画劇場』所収「困っているドラキュラ」)。ムルナウ版のドラキュラを演じたマックス・シュレックが怪物寄りの雰囲気であるのに対し、キンスキー扮するドラキュラ伯爵のどこかナイーブでペシミスティックなイメージ──見た目は強烈ではあるが──は、こうした伯爵の心情をより見事に表現しているかのようである。

鑑賞者に伝染するさまざまな事象

「ノスフェラトゥ」
© Werner Herzog Film

 終盤から結末に至る流れはよく知られているだろうからここでは触れず、代わりに印象的なシークエンスを挙げることで本稿を結ぼうと思う。それはドラキュラ伯爵とともにもたらされたペストが街の人々を次々と亡き者にしてしまう箇所である。いくつもの棺を担いだ列がゆく広場を高所から斜俯瞰で撮影したシーンはそれはそれは美しいのだが、そこで棺を担いでいる人たちはペストの元凶を知っているというルーシーの言葉に耳を貸そうとしない。先に引いた「接触不可能性」から生じるコミュニケーション不全はヘルツォークのほかの作品においても頻出するわけだが、本作ではそれがドラキュラ伯爵だけでなくルーシーにもあてはまってくるのは実に興味深いところである。その後、同じ広場では中世ヨーロッパの「死の舞踏」(ペストによる死の恐怖を紛らわすために半狂乱で輪になって踊ること)が繰り広げられ、ネズミの大群がひしめきあうなかで「最後の晩餐」を行う者もいる。このシーンでヴィスコンティ『ベニスに死す』を想起する人も少なくないのではないだろうか。ちなみにこの広場はフェルメールの故郷としてつとに有名なオランダの中世都市デルフトの市庁舎前広場。死の舞踏に興じる人々に交じって山羊だの羊だの豚だのが登場するのはどこかネーデルランド絵画を代表するブリューゲルを思い起こさせる。こうして一本の映画からさまざまな事象が鑑賞者に「伝染」してゆくのも吸血鬼映画らしくていい。

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この記事のライター

青野賢一
青野賢一
1968年東京生まれ。株式会社ビームスにてプレス、クリエイティブディレクターや音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターなどを務め、2021年10月に退社、独立。現在は映画、音楽、ファッション、文学などを横断的に論ずるライターとしてさまざまな媒体に寄稿している。また、DJ、選曲家としても30年を超えるキャリアを持つ。

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