青野賢一 連載:パサージュ #17 メディアと時代の空気がひとりの女性を追い詰める––––『ロアン・リンユィ 阮玲玉』

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青野賢一 連載:パサージュ #17 メディアと時代の空気がひとりの女性を追い詰める––––『ロアン・リンユィ 阮玲玉』

目次[非表示]

  1. 伝記映画、「映画の映画」、ドキュメンタリー
  2. ロアンが生きた時代の出来事
  3. 張との別れ、唐との出会い
  4. 『新女性』がトリガーとなった誹謗中傷
  5. 今の時代に観る意義のある作品
 先日、『福田村事件』(9月1日公開)の試写会にお邪魔してきた。『A』(1998)や『i ~新聞記者ドキュメント~』(2019)などのドキュメンタリー作品で知られる森達也監督の初長篇劇映画である。タイトルの「福田村事件」は100年前に実際に起こった事件。1923年9月1日の関東大震災の直後、朝鮮人による略奪や夜襲といった噂が飛び交い、それを受けて内務省と警視庁から朝鮮人への取り締まりを強化するよう通達が出され、各地で自警団が組織される。そんななか、香川から薬の行商で福田村(現・千葉県野田市)にやってきていた15名を「言葉がおかしい」などの理由で朝鮮人と思い込んだ村の自警団が集団で襲い、幼児を含む9名が亡くなった。これが福田村事件である。流言を信じた人々が「国を守るため」という正義を振りかざして興奮状態に陥り、無関係な9人の命を奪ったこの事件を描いた映画『福田村事件』は、真実を報道しなかった新聞社についてもきちんと触れており、その意味ではジャーナリズム批判を含む内容なのだが、噂話に端を発する集団の暴力ということでいえば、1930年代の中国映画界で圧倒的な人気を誇った大女優ロアン・リンユィ(阮玲玉)の人生もそうした集団の暴力––––彼女の場合は言葉の暴力であったが––––によって自死というかたちで幕を閉じたのだった。今回取り上げる『ロアン・リンユィ 阮玲玉』(1991)は、そんなロアンの姿を、彼女が実際に出演した映画のフッテージと再現映像、当時を知る関係者のインタビューと再現映像パート出演者のディスカッションなどから浮き彫りにする作品である。

伝記映画、「映画の映画」、ドキュメンタリー

 ロアン・リンユィ。1910年上海生まれ。1926年にスクリーン・デビューし、恋愛ものやアクション作品、時代劇にも出演。これらはいずれも端役だったが1929年、聯華映画会社に移籍し『故都春夢』(1930)の娼婦役、同年の『野草閑花』で存在感を示し、人気を獲得した。『ロアン・リンユィ 阮玲玉』で描かれているのは、この頃から亡くなるまでの5、6年のあいだの出来事である。ロアンを演じるのはマギー・チャン。本作で「第42回ベルリン国際映画祭」の最優秀女優賞を受賞している。面白いのは、この映画に最初に登場するときのマギー・チャンはマギー・チャン本人としてであるところ。ロアンに扮するのはそのあとなのである。先に記したように本作はロアンが出演した映画のフッテージ、映像の原版が消失しているものはマギーが演じるロアンによる再現映像、そして伝記部分(ここもマギーがロアン役)、それからロアンに扮しているマギー(『ロアン・リンユィ 阮玲玉』での俳優としてのマギー)、ディスカッションするマギー本人というように、幾重もレイヤーのあるメタ構造。つまりロアンの伝記映画であると同時に「映画の映画」であり、ドキュメンタリーでもあるのだ。

ロアンが生きた時代の出来事

 さて、ロアンの物語が序盤のうちにこの頃の時代背景について手短に説明しておこう。ロアンが生まれた1910年──日本が韓国を併合した年でもある──の上海には、外国人居留地である租界がすでに存在していた。アヘン戦争で英国に敗れた中国(当時は清)は南京条約(1842)の締結によって上海を開港することとなり、まずは英国人居留地が定められる。このイギリス租界に次いでアメリカ租界、フランス租界が設けられ、のちにイギリス租界とアメリカ租界は共同租界として日本を含むいくつかの国の人々が暮らす地区となった。西洋文化が大幅に流入した上海租界は「モダン上海」のイメージを牽引するものであり、それゆえ「東洋のパリ」などとも称されたのだった。本作においてアール・デコの意匠がふんだんに取り入れられているのは、前述の背景が大いに関係しているのである。
 ロアンが俳優として活動した1920~30年代は、上海の映画産業が発達を遂げた時期。それと同じ頃、反帝国主義運動が高まりをみせ、映画業界にもその精神を反映した流れが生まれる。ロアンが所属した聯華映画会社はそうした性格の濃い映画制作会社である。そのことは作中の「我が聯華映画の使命は中国映画の復活だ」という台詞や日本製品不買運動についてのくだりによく表れている。この時代をざっくりまとめるなら、列強や日本による帝国主義的植民地政策と不安定な内政──1912年の中華民国成立以降、内乱や「上海クーデター」と呼ばれる蒋介石による共産主義者検挙などがあった──が人々の生活、文化に大きな影響を及ぼしていたということになるだろうが、そうした時代にあって、ロアンの人生がどう進み、どう終わりを迎えたかを、もう少し映画に沿ってみてゆこう。

張との別れ、唐との出会い

「ロアン・リンユィ/阮玲玉」4K
© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.

 ロアンには張(ローレンス・ウン)という16歳の頃から親密になり、現在は事実婚とでもいうような関係の青年がいた。張は資産家の息子だが、いわゆる放蕩息子。籍を入れても幸せで安定した結婚生活を送るのは難しいと考えたロアンは養女を迎え、ロアンの母、ロアン、張、養女の4人で暮らしている。あるとき、ロアンは茶商人で富豪の唐(チン・ハン)と出会い、交流が始まった。子どもっぽい張に比べ、唐には大人の余裕があるように思えたのだろうか、やがて唐に惹かれてゆくロアン。その後、聯華映画会社の大株主となった唐とロアンの関係はより深まっていった。
 唐との仲が深まるなか、張に別居を切り出したロアン。張は別居には同意したものの、毎月300元を支払えと要求してきた。ロアンの月給の1/3にあたる額である。これを聞いた唐は「私が払ってやるよ それで片づくなら安いもんだ」と返す。「彼は君を愛してない 金しか眼中にない男だ」。こうしてロアンが張と別れたのち、唐はロアン一家のために立派な家を用意し、自分もそこで暮らすようになる。ちなみに唐は妻帯者で、ロアンは離婚を願ったが唐にうまくはぐらかされていたのだが。

『新女性』がトリガーとなった誹謗中傷

「ロアン・リンユィ/阮玲玉」4K
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 こうした私生活の動きがありながらも、ロアンは順調にいくつかの映画の主演を務めた。自分の殻を打ち破るような役柄にも挑戦し、人気は高まるばかりであったが、あるとき映画監督の蔡(レオン・カーフェイ)と出会い、女優で脚本家でもあった艾霞を題材にした『新女性』という映画を撮るのでヒロイン役に、と声をかけられた。艾霞は演技力も文才も申し分ない、まさに「新女性」だったが、脚本を手がけ主演もした『現代––女性』(1933)のあと自殺。三流新聞に「尻軽女」などと誹謗中傷された末の自死である。生前の艾霞と親しかった蔡はこういう。「自殺じゃない 殺されたんだ 人間にじゃなく──社会に殺されたんだ 卑しい記者たちにね」「この映画で彼女の真の姿を伝えたい」。この1935年の映画『新女性』への出演がロアンのその後の人生に大きな波紋を投げかけることになるとは、このときは誰ひとりとして思っていなかっただろう。
 『新女性』内で新聞記者たちを非難したことで新聞社組合は映画を酷評するばかりか、ロアンの私生活についても触れて彼女を叩きはじめた。加えて平和的に別離したはずの張がロアンと唐を「不当な同棲」「不義密通」だとして告訴。当然ながらそのことも新聞記事になっている。真意を確かめようと張のアパートへと向かうロアン。その部屋の窓から外を見ると新聞記者たちがたくさん待ち構えているではないか。裏口から早足で出ると今度は野次馬がひしめき合っている。ここぞとばかりに「記事について一言」「母親は元使用人?」「『女神』のモデルは母親なんですか?」とロアンを質問攻めにする野次馬連中。「図星なのね」と言い放ったそのなかのひとりをロアンがキッと一瞥すると、野次馬たちは静まり返るのだった。

今の時代に観る意義のある作品

 結局、ロアンは艾霞と同じ道をたどり、自死を選ぶ。艾霞の死についてロアンに説明した蔡の言葉の通り「殺されたんだ 人間にじゃなく──社会に殺されたんだ」。ロアンが生きたこの時代は「ジャーナリズムが発達し、事件やスキャンダルが求められた。このあたりは、現代とそっくりで、風俗的なゴシップやスキャンダル、犯罪記事などに人々は興味を持った。新聞や雑誌は、政治・経済より、風俗を大きくあつかっていた」(海野弘著、平凡社刊『都市を翔ける女 二十世紀ファッション周遊』)わけで、ロアンはまさしく人々の下衆な興味を満たすための、ジャーナリズムとは呼びがたいメディアの記事によって追い詰められたのである。先に引いた海野弘の著書は1988年に出版されたものだが(引用部分を含むテキストの初出は1986年)、当時「現代にそっくり」と書かれたその状況は今もさほど変わってはいないといえるだろう。インターネットとSNSの発達により、新聞や雑誌でなくとも「発信」できる現代の方がより深刻といえるかもしれない。
 本稿の冒頭で福田村事件について触れたが、これも噂やデマ、誤報がもととなって起きてしまった事件。その裏側には韓国併合を含む帝国主義的な体制とそれが生む差別意識、「お国のため」という忠誠心、そして新聞社の権力迎合などが蠢いて、結果的に人を殺すことになってしまう。メディアを通じて発せられるゴシップやデマ、誹謗中傷は実は目に見える「先端」でしかなく、その奥には政治や思想などが醸成する時代の空気が必ず存在することは、『ロアン・リンユィ 阮玲玉』からもひしひしと感じられるはずである。その意味で本作は実にアクチュアルな問題意識を含んでおり、今の時代に改めて観る意義のある作品ではないだろうか。2時間30分を超える上映時間を一気に観させてしまう重層的な構造、俳優としてのロアンとひとりの人間としてのロアン、そしてそれを演じる俳優としてのマギー・チャンとひとりの人間としてのマギー・チャン──彼女の存在感も素晴らしい作品である。

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この記事のライター

青野賢一
青野賢一
1968年東京生まれ。株式会社ビームスにてプレス、クリエイティブディレクターや音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターなどを務め、2021年10月に退社、独立。現在は映画、音楽、ファッション、文学などを横断的に論ずるライターとしてさまざまな媒体に寄稿している。また、DJ、選曲家としても30年を超えるキャリアを持つ。

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