青野賢一 連載:パサージュ #18 ジャンル映画であるとともに哲学的側面を持つ作品──『アルファヴィル』

FEATURES 青野賢一
青野賢一 連載:パサージュ #18 ジャンル映画であるとともに哲学的側面を持つ作品──『アルファヴィル』

目次[非表示]

  1. レミー・コーションの冒険の始まり
  2. 何かがおかしい街=アルファヴィル
  3. アルファ60をめぐる会話、独白
  4. 日々アップデートされる「聖書」
  5. さまざまな楽しみ方ができる『アルファヴィル』
 ジャン=リュック・ゴダールの『アルファヴィル』は1965年の作品。ゴダール作品のなかでもとりわけ人気の高い『気狂いピエロ』のひとつ前にあたるものだ。ピーター・チェイニー原作の探偵/シークレット・エージェントものの映画の主人公、レミー・コーション役で大衆的な人気を獲得していたエディ・コンスタンティーヌを主役に迎えた映画を撮らないか、という提案をプロデューサーから受けたゴダールは、西部劇と探偵映画とSFを融合させて短いシナリオにまとめ、撮影に入った。『アルファヴィル』の別題に「レミー・コーションの新たな冒険」とあるように、本作ではそれまでエディが演じてきたレミー・コーションのキャラクターが踏襲されている。その意味では本作はいわゆるジャンル映画なのだが、それにとどまらない哲学的な要素が散りばめられているところにゴダールらしさが感じられる作品である。

レミー・コーションの冒険の始まり

「アルファヴィル」
© 1965 STUDIOCANAL - Filmstudio

 舞台となるのは近未来の都市「アルファヴィル」。「外部の国」からアルファヴィルに遣わされた秘密諜報員のレミー・コーション(エディ・コンスタンティーヌ)がハンドルを握り、夜の道を走っている。いかにもハードボイルド探偵といった風体のレミーは、ここで行われる「祭典」を取材しにやってきた新聞記者と身分を偽っているが、実のところはこの都市の中枢を司っているコンピュータとシステムに大きく関わっているらしいフォン・ブラウン教授という人物を探し出すのが使命。どうやらレミー同様、アルファヴィルに派遣された諜報員は過去にも何名かいたようだが、現在は前任者のアンリ・ディクソン(アキム・タミロフ)を残すばかりとなっていた。ちなみにほかの前任者の名前はディック・トレイシー、ギー・ルクレール(レクレール)といった、アメリカン・コミックの主人公(ギー・ルクレールは『フラッシュ・ゴードン』の主人公のフランスでの呼び名)があてられている。

何かがおかしい街=アルファヴィル

「アルファヴィル」
© 1965 STUDIOCANAL - Filmstudio

 ひとまずホテルに到着したレミーをメイドが部屋まで案内する。メイドは「第3級誘惑婦」でもあって、ここでは売春も制度化されている様子だ。と、突然どこかから部屋に入り込んだ男がレミーに襲いかかる。これを銃撃で追い返したレミー。「この騒ぎは何だ ヤク中か?」とメイドに問いかけると「これが正常よ」と返ってきた。何かがおかしいと感じるレミー。しばらくしてナターシャ・フォン・ブラウンという女性(アンナ・カリーナ)が面会に来ているとの電話が入った。名前から察しがつくように、ナターシャはレミーが捜しているフォン・ブラウン教授の娘。彼女はレミーの滞在中、世話をするように当局から命令されてやってきたのだ。レミーが祭典を体験するために来たと思っているナターシャは、今年の大祭典はもう終わりで次は「未来年」だと告げる。しかし今夜、官庁で大掛かりなショーが行われるので一緒にどうか、と提案し、レミーはそれに同意して夜に落ち合うこととなった。ふたりともショーの前に用事があるということだったが、一緒に部屋をあとにするときに、ナターシャが「外部の国」がどんなものかをレミーに質問した。外部の国には一度も行ったことがなく、子どもの頃に父から聞いただけだという彼女。そして「今は──考えるのも禁止です」。外部の国からの来客を接待するのが彼女の仕事だと聞いたレミーは「君に恋する奴もいるだろ」とナターシャに尋ねると「“恋する”ってどういうこと?」との返答が。実は「恋」や「愛」、それから「意識」など、アルファヴィルの人には意味がわからない言葉がいくつかあるのだ。

アルファ60をめぐる会話、独白

 ホテルを出て、まずは自分の用事をとレミーが向かった先は、前任者であるアンリ・ディクソンが滞在する安ホテル。ここでレミーはアンリからアルファヴィルを支配、統制しているコンピュータ「アルファ60」について教えてもらう。「人間が確率の奴隷になったわけだ」とレミーがいうと、アンリは「α都市の理想とは──階級的集団社会なのだ アリの組織社会のように」と呟いた。はるか昔の社会には小説家や音楽家、画家といった芸術家が存在したが、「今ではまったくいない ここのようにな」。高度に管理された社会であるアルファヴィルでは、人の「意識」と密接に関係する芸術は存在し得ないのである。
 一方のナターシャの用事は「一般意味論研究所」での夜間講義受講で、レミーとはここで待ち合わせをしている。講義とはいいながら講師の姿は見当たらず、投影されるスライドと、どこかから聴こえてくる声によって講義は進められているようだ。この声の主は「アルファ60」(ゴダールが声を担当しているが機械めいた音に変調されている)。ここでアルファ60が語るのは、「現在だけが──あらゆる生活の形態である いかなる悪も奪い去ることのできない──一つの財産である」「時間とは──際限なく回転し続ける──環のようなものである」といった時間に関する事柄や、言葉と意味についての話など。本作では螺旋階段が頻出するのだが、これを先に引いたアルファ60の言葉と重ねて考えてみるとなかなか興味深い。本文だけで670ページを超える大著『六〇年代ゴダール 神話と現場』(アラン・ベルガラ著、奥村昭夫訳、筑摩書房刊)によれば、もともとゴダールはこのパートの講師役には『零度のエクリチュール』などで知られる構造主義の哲学者ロラン・バルトが本人として出演することを希望していたそうだが、ロラン・バルトはスケジュールが合わないといって断ったのだとか。またスライドに用いられているデッサンは監督助手を務めたジャン=ポール・サヴィニャックの手になるもの。このデッサンのうち数点は、ゴダールが著作権使用料支払いを回避すべく、サヴィニャックにハンス・ベルメールの作品を真似て描くよう指示したのだそう。ともあれ、アルファ60という存在をアルファ60自らが語るというこのシークエンスは、本作において重要なものであるし、またゴダール的な印象のひときわ強いパートであるといえるだろう。

日々アップデートされる「聖書」

「アルファヴィル」
© 1965 STUDIOCANAL - Filmstudio

 さて、無事に落ち合うことのできたレミーとナターシャは「大掛かりなショー」のために官庁へと向かった。このショーとはひとことでいえば死刑執行。死刑に処される人々の罪状は「非論理的行動のため」である。この会場でフォン・ブラウン教授を見つけたレミーは、アルファヴィルとアルファ60について尋ねるべく、会場を出た瞬間を狙って我が身もろとも教授をエレベーターに押し込んだ──。
 ここまでが物語の約半分。このあとに控えるレミーとナターシャの行く末はぜひ映画本篇でお楽しみいただけたらと思うが、いくつか要所を手短に記しておきたい。まず、先のフォン・ブラウン教授への狼藉行為から当局に身柄を拘束されたレミーがアルファ60の内部を案内されるシーンでは、アルファ60がいかにしてアルファヴィルの進むべき道をはじき出しているかが説明されており、重要なパートである。そして身柄の拘束が解かれホテルに戻ったレミーがナターシャに「この本を知ってる?」と手渡して朗読させるのはポール・エリュアールの詩集『苦悩の首都』。四方田犬彦によれば、この朗読は「実はかなり恣意的で出鱈目な朗読」(四方田犬彦著、講談社現代新書刊『ゴダールと女たち』)ということだが、ともあれ詩集の朗読を通じてレミーはナターシャに「意識」という言葉を思い出させようと試みる。現代人がAIを教育するように──というよりもともとは口頭であれ書物を通じてであれ人から人へ教えられていたわけだが──、アルファヴィルで消し去られている言葉をナターシャに教え込むのである。ナターシャは「意識」の語が聖書(とこの世界では呼ばれているが辞書)に載っていないかと探すがなかった。彼女曰く「ほとんど毎日この本から──呪われた言葉が消えていくの その代わりに──新しい思想に合う言葉を補充する」ということで、「聖書」は日々アップデートされるのだ。このように都合の悪い言葉が「聖書」から消えてゆくことから、フランソワ・トリュフォーの『華氏451』(1966)における読書と本の所持の禁止を思い出す人も少なくないだろう(『六〇年代ゴダール 神話と現場』によれば『華氏451』の企画は『アルファヴィル』よりも2年ほど早く立てられていたそうだ)。トリュフォーの名前を挙げたついでに述べておくと、このシークエンスで部屋に朝食を運んでくるボーイはジャン=ピエール・レオーである。

さまざまな楽しみ方ができる『アルファヴィル』

 さて、本稿の冒頭でわたしはこの映画はいわゆるジャンルものだと記した。ある男がふらりとどこかの街に着いて、問題を解決して去ってゆく西部劇。さまざまな困難に遭遇しながらも捜索している人物を見つけ出し事件の真相を暴く探偵映画。近未来の世界を描くSF──これらに加えて『アルファヴィル』には恋愛映画の側面も見出すことができる。しかしながら恋愛映画として成立するには、結末がどうあれ自分の気持ちや愛情を相手に伝えることが必要であろう。ところが本作のナターシャは「愛情」とか「好き」という言葉の意味がわからない、ようは恋愛映画としては肝心なところが欠落しているのである。一般的な恋愛映画では、ときとしてあえて気持ちを伝えないという選択肢もあるが、それは「愛情」や「好き」が何たるかを理解しているうえでの行動であるから、『アルファヴィル』のケースとはまるで異なるといえよう。そうしたコミュニケーション不全のなかでレミーとナターシャの関係が恋愛に発展するには、ナターシャが言葉を理解し、それが恋愛感情なのだと自分の意識を確認するしかない。その意味でこの作品は「アップデートするナターシャ」──アップデートといいながら実際は過去の記憶を再獲得するという時間的なねじれを伴っている──という見方もできそうである。このように本作はジャンルものゆえ、ゴダール作品のなかでは物語を容易に把握できる一本。気楽にストーリーを楽しんでもいいし、ゴダールらしい文学的、哲学的な表現を深読みするのもいい。また、アルファヴィルのディストピア的状況から現代社会の問題との共通点を見出すことも可能だろう。それからクスッと笑える小ネタや、先のジャン=ピエール・レオーのようにほんの少しだけひょっこり出演しているゴダールの姿を探すのも楽しい。

この記事をシェアする

この記事のライター

青野賢一
青野賢一
1968年東京生まれ。株式会社ビームスにてプレス、クリエイティブディレクターや音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターなどを務め、2021年10月に退社、独立。現在は映画、音楽、ファッション、文学などを横断的に論ずるライターとしてさまざまな媒体に寄稿している。また、DJ、選曲家としても30年を超えるキャリアを持つ。

青野賢一の他の記事

関連する記事

注目のキーワード

バックナンバー