BLADE RUNNER

ザ・シネマ×HHO ブレードランナー 完全攻略

場面写真
3バージョン一挙放送!幾つものバージョンが存在する『ブレードランナー』。当特集ではそのうち、初めて広く一般に向け劇場公開された1982年公開版と、監督による大幅な再編集が加えられた『ディレクターズカット/最終版』、そして2011年現在の最新・最終版となっている『ファイナル・カット』をお届けする。
『ブレードランナー』(1982)
最初に一般劇場公開された“通常版”。試写段階での「難解だ」「暗い」という指摘を受けて、説明的なナレーションと、ハッピーエンドのラストシーンが追加された。だがそれは、リドリー・スコット監督の当初意図した形ではなかった。
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『ディレクターズカット/ブレードランナー最終版』(1992)
“通常版”のナレーションとハッピーエンドのラストシーンを監督が削除し、自身の当初の意図に近い形に編集し直したバージョン。 新たに追加されたいわゆる“ユニコーンの夢”のシーンが、作品解釈に新たな議論を生むことに。
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『ブレードランナー ファイナル・カット』(2007)
「ディレクターズ・カット/最終版」をベースに、82年当時の撮影上の稚拙な箇所や明らかなミスを、07年の技術をもって補完。 フィルムをデジタルスキャンしコンピュータ上で画像修正することで、徹底的な高画質化も図られた。
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ドキュメンタリー 『デンジャラス・デイズ/メイキング・オブ・ブレードランナー』
制作現場での様々な裏事情を、スタッフ・キャストが赤裸々に明かす、必見のドキュメンタリーもあわせてオンエア。
 ・製作総指揮も務めたこの映画の生みの親が、脚本担当から解任させられるクーデターが発生!  
  それが無ければ全く別のテイストの作品になっていた!?
 ・イギリス人監督の完璧主義に辟易したアメリカ人スタッフの反乱が勃発!文化対立にエスカレート!?
 ・ハリソン・フォードは現場でずっと不機嫌だった!? ショーン・ヤング激白!
 ・クランクアップ前に時間切れでスタジオを追い出されるかも!? 遅れに遅れた制作スケジュール!
等々、知られざる現場の修羅場っぷりの全てが明らかに!
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3つの『ブレードランナー』、そのどれもが『ブレードランナー』の正しい姿だ! Powered by HHO 文/尾崎一男

 映画にはさまざまな「バージョン違い」をもつ作品が多い。そして、その存在理由も多様にしてさまざまである。例えば『ゾンビ』のように、公開エリアによって権利保持者が違ったため、各々独自の編集が施されたケースもあれば、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズや『アバター』のように、劇場公開版とは別の価値を持つものとして、DVDやBlu-rayなど制約のないメディアで長時間版を発表する場合もある。

 『ブレードランナー』もそれらのように、いくつもの別バージョンが存在する作品として有名だ。しかし、先に挙げた作品とは「発生の理由」がまったく異なる。いったいどのような経緯によって、同作にはこうしたバージョン違いが生まれたのだろうか?

なぜバージョン違いが生まれたのか?

 それは最初に劇場公開されたものが「監督の意図に忠実な作品ではなかった」というのが最大の理由だ。

 映画の完成を定める「最終編集権」は、作品を手がけた「監督」にあると思われがちだ。しかし、その多くは作品の「製作者」が握っており、監督が望む形で完成へと到らないケースがある。『ブレードランナー』もまさしくそのひとつで、1982年に劇場公開された「通常版」は、製作者の権利行使によって完成されたものなのだ。

 当然、それに納得いかなかったのが、監督のリドリー・スコットである。醇美にして荘厳な映像スタイルを自作で展開させ「ビジュアリスト」の名を欲しいままにする希代の名匠。そんな完璧主義の鬼が、自らの意図と異なるものに寛容であるはずがない。そう、もともと『ブレードランナー』は、リドリーの意図に忠実に編集されていたのである。しかし製作側が完成前にテスト試写をおこない、参加者にアンケートをとったところ、以下のような驚くべき意見が寄せられてしまったのだ。

 「映画に出てくる単語や用語が難しい。“レプリカント”って何? そもそも“ブレードランナー”って何なの?」

 「ラストが暗すぎる。デッカード(ハリソン・フォード)とレイチェル(ショーン・ヤング)は、あの後どうなったの?」

場面写真 こうした意見に製作側が戦々恐々となったのは言うまでもない。そして収益に響いては困るとばかりに、編集に修正を加えるのである。「用語が難しい」という問題には、劇中にわかりやすいナレーションを入れることで対応し、そして「ラストが暗い」には、「レイチェルには限られた寿命がなく(レプリカントは4年しか生きられない)、ふたりは生き延びて仲良く暮らしました」とでも言いたげなハッピーエンド・シーンを追加した。

 しかし、今となっては考えられないことかもしれないが、こうした製作側の配慮もむなしく、『ブレードランナー』はヒットには到らなかったのである。

 何が問題だったのか? それは懸念された「内容の難解さや暗さ」ではなく、ダークなセンスこそ光る本作を「SFアクション劇」で売ろうとした製作側の大きな宣伝ミスだったのだ。そして皮肉にも、その退廃的な未来図像や哲学的なストーリーが目の利いた映画ファンから絶賛され、『ブレードランナー』は年を追うごとに注目を集め、マスターピースとしてその名を高めていくのである。

「ディレクターズ・カット/最終版」(1992年)の誕生

 商業性を優先した製作側に、作品を曲解されてしまったとリドリー・スコット監督は考えていた。作品の評価が高まるにつれ、彼は今そこにある『ブレードランナー』が、自分の意図どおりのものでないことにジレンマをつのらせたのである。そして「いつか私の『ブレードランナー』を作る」と、来るべき機会をじっと待っていたのだ。

 そして、ついにその祈願が果たされるときがやってくる。1991年、ワーナー・ブラザースが同作のファンの需要に応え、「通常版」の前のバージョンの公開を局地的に展開していた。そう、リドリーの意向に沿った編集版だ。

 それに対してリドリーは、

 「あの編集バージョンはあくまで粗編集で、未完成のものだ。公開を承認することはできない。これはビジネスの問題じゃなくて芸術の問題だ」

場面写真 と、公開にストップをかけたのだ。そしてワーナーに対し、ある代案を呈示したのである。
「監督である私の意図にしたがい、新たに編集したものならば公開してもいい」。
この代案が受け入れられ、編集権はリドリーに譲渡される形となった。そしてリドリーは自分どおりの、新たな編集による『ブレードランナー』を発表することになったのだ。それが「ディレクターズ・カット/最終版」である。

「通常版」と「ディレクターズ・カット」、ここを見比べよう!

 監督の意図に忠実な「ディレクターズ・カット/最終版」は、「通常版」に入れられたナレーションをすべて取り払い、そして最後に追加されたハッピーエンド・シーンも削除したバージョンだ。そこには監督の「混沌とした未来像をありのままに受け止めてほしい」という演出プランが息づいている。

 こうした点にこだわりながら、改めて両バージョンを見比べてほしい。ナレーションのない「ディレクターズ・カット/最終版」は、耳からくる情報収集で聴覚を奪われないぶん、視覚を集中して働かせられる。そのため、映像が放つインパクトをより強く受け取ることができるのだ。公開当時、革命的で前代未聞といわれたデッドテックな未来像。その視覚的ショックを、監督の思う通りに実感できるという次第だ。

 さらにリドリーは「ディレクターズ・カット/最終版」に新たなショットを付け加えることで、観客がこれまで抱いてきた『ブレードランナー』の固定観念を覆すことに成功している。それが「森を駆けるユニコーン(一角獣)」のイメージ・シーンである。

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